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2011.02.16

エジプト軍部クーデターの背景

 エジプト軍部がなぜ巧妙に偽装したクーデターを画策したのか。その背景を知るのに、ニューズウィーク記者クリストファー・ディクニー(Christopher Dickey)氏の、13日付けニューズウィーク記事「The Tragedy of Mubarak」(参照)が興味深いものだった。いくつか気になったところをメモしてみたくなった。ちなみに、今日付けの日本版にも抄訳が載っているが、かなり記事に手を入れている。まあ、それはそんなものかな。
 NHKのニュースなどでも、ムバラク元大統領に関連する欧州銀行口座が凍結されたみたいな話があり、それを聞いていると、ムバラク氏もかなりの不正蓄財がありそうにも思えるが、そうでもないらしい。


Mubarak’s fall is not a story like the one that unfolded in Tunisia, of a dictator and his kin trying to take their country for all it was worth. Although there have been widely reported but poorly substantiated allegations of a $40 billion to $70 billion fortune amassed by the Mubarak family, few diplomats in Egypt find those tales even remotely credible. “Compared to other kleptocracies, I don’t think the Mubaraks rank all that high,” says one Western envoy in Cairo, asking not to be named on a subject that remains highly sensitive. “There has been corruption, [but] as far as I know it’s never been personally attached to the president and Mrs. Mubarak. They don’t live an elaborate lifestyle.”

ムバラク失墜は、チュニジアの独裁者と親族について流布されている物語には似ていない。ムバラク家は400億ドルから700億ドルの財産を持つと報道されるが、さしたる根拠はない。ある在エジプト外交官はその話をおよそ信用していない。「他国の私物化体制に比べて、ムバラク氏が最高水準にあるとは思えない」と重要な地位にある匿名の在カイロ西側特使は語る。「腐敗はあったが、私が知る限りでは、それは一度もムバラク大統領夫妻に拠るものではなかった。ご夫妻は奢侈な生活をしていない。」


 そうなのではないかと思われるのは、ムバラク氏の妻、スザンヌ夫人の人徳による。

His partner in the family tragedy was Suzanne Mubarak, the daughter of a Welsh nurse and an Egyptian doctor, who married Hosni when he was a young Air Force flight instructor and she was only 17. By the time she was in her late 30s, when her boys were teenagers and her husband was vice president, she set about reinventing herself as a social activist in Egypt and on the international stage. “Suzanne is 10 times smarter than her husband,” says Barbara Ibrahim of the Civic Engagement Center at the American University of Cairo.

ムバラク家の悲劇はスザンヌ夫人にあった。彼女は、ウェールズ人看護婦とエジプト医師の娘でわずか17歳のとき、空軍兵士のムバラク氏と結婚した。子供がまだ10代で夫が副大統領であった30代の後半、彼女は自身で国際的な社会改革家として活動した。「スザンヌ夫人は夫より10倍も賢い」とアメリカ・カイロ大学市民活動センターのバーバラ・イブラヒム氏は言う。


 ムバラク氏もまた野心をもって独裁者になったわけではなかった。偶然に近いものだった。

As commander of the Egyptian Air Force, he had been a hero of the 1973 war against Israel, so when President Anwar Sadat summoned him to the palace in 1975, he thought maybe he was going to be rewarded with a diplomatic post, but no more than that. (Friends say Suzanne told him to try to get a nice one in Europe.) Instead, Sadat named him vice president. And on Oct. 6, 1981, as Sadat and Mubarak sat side by side watching a military parade, radical Islamists opened fire, killing Sadat and making Mubarak the most powerful man in the land.

ムバラク氏は、エジプト空軍司令官として、1973年の対イスラエル戦争の英雄でもあったが、当時のアンワル・サダト大統領が、1975年、彼を宮殿に呼び出したとき、彼は、報償として外交官にでも任命されるのではないかと思っていた。スザンヌ夫人もそれなら西洋がいいわと薦めていた、と友人らは語る。現実は、サダト大統領は彼を副大統領に任命した。そして1981年10月6日、サダト氏とムバラク氏が並んで座り軍事パレードを見ていたとき、イスラム過激派は銃撃でサダト氏を殺し、かくしてムバラク氏はこの地で最高権力者となった。


 なにが夫妻の人生を狂わせたか。ただの時の流れであったか。記者は、夫人の後年の一家のための権力欲とムバラク氏の虚栄心だと見ている。そうかもしれないし、そうでないのかもしれない。
 ムバラク氏は82歳にもなって権力の座にしがみついていると言われたし、実際にそうでもあったのだが、自身の晩年には、人間らしい悲劇はあった。溺愛していた12歳の孫が2009年脳内出血で死亡し、以降後継者への希望も生きる希望も見失っていたらしい。病気も抱えていた。
 長男のアラー(Alaa)氏はサッカー好きのビジネスマンで政治家になる気はなかった。一家を継ぐ母の期待は次男ガマル(Alaa)氏にのしかかっていたのだろう。

The president’s younger son had spent nearly a decade studying the art of politics in his father’s ruling National Democratic Party ever since returning from London, where he had worked for Bank of America and then run his own company, Medinvest. He imported organizational ideas and administrative techniques from abroad, especially from Britain’s Labour Party. (“Tony Blair has taken more vacations in Egypt than God,” a friend of the family notes in passing.)

大統領の次男は、バンカメで職を得、自身の会社メディンヴェストも運営していたロンドン生活から戻ってからは、父が支配する国民民主党の政治手法の習得に10年を費やした。彼は秩序だった経営理念と管理技法を海外、特に英国の労働党から導入した。(ちなみに「トニー・ブレアはエジプトで神より多くの休暇を取った」と一族の指摘している。)


 ガマル氏は日本で言うところの「新自由主義」と途上国的な独裁政治手法を習得していた。ガマル氏はその面ではそれなりに有能でもあり、理想もあったのだろう。政治家としては能力に欠けてはいたのだが。

Even so, many of Egypt’s best and brightest businessmen gathered around Gamal’s standard. Some profited mightily from the association, while others set out to modernize an economy still weighed down by policies dating back to the “Arab socialism” of Gamal Abdel Nasser. Some did both, and several were brought into the government. Liberalization, privatization, and modern telecommunications began to transform the business landscape.

いずれにせよ、エジプトで最も有能なビジネスマンの多くはガマル的な価値観に集結した。このグループから多大の利益を得た者もいたが、他方、古くさいガマル・アブダル・ナセルの「アラブ社会主義」の政治で疲弊した経済の近代化を推進しようとした者もいた。各種の思いの人々が政府に入っていった。自由化、民営化、現代の通信技術はエジプトのビジネスシーンを変革しはじめた。


 日本で言うところの「新自由主義」政策が実施され、エジプトの国家経済は向上したが、日本と同様の反動も生まれた。全体の経済がボトムアップすると相対的に所得格差は広がる。また旧来の社会主義政策的な権力基盤にある人々から、反発が沸き起こっていた。

Foreign direct investment increased dramatically at first, and until last year the economy was growing by 6 to 7 percent. But the new money also created a new class of super-rich Egyptians. It stoked resentment among tens of millions of people living on the edge of survival, among the young and educated who still could find no jobs - and among the military and secret-police establishment that was, for all the government’s new business-friendly technocratic veneer, the real foundation of Mubarak’s regime.

外国からの直接投資は最初は劇的に増大し、昨年まで、エジプト経済は6~7%も成長していた。しかし、新しいマネーはエジプトに超富裕新興階級をももたらした。このことが、生き残りの縁にいる数千万人の怒りをもたらした。それには、職のない若者世代や高学歴者もいる。そしてさらに軍部と秘密警察の幹部も含まれていた。彼らこそ、政府内のビジネス志向の新興階級にとって、ムバラク体制の本来の基盤であった。


 かくして、打倒「新自由主義」である。打倒「親米政府」である。
 どっかの国で起きたような反動に国民の熱気が巻き込まれていく。これこそが、エジプト軍部クーデターの背景であった。

As a weakened Mubarak leaned more on his Army to save him, the generals’ first targets were the “businessmen” in the cabinet. Gamal’s allies were forced out. Several were threatened with prosecution. The old guard had won its first victory. Then the president himself stood down. The old guard was in charge again. The fact will register on ordinary Egyptians soon enough. Another soap opera - or another tragedy - may begin. But this one won’t be called The Mubaraks.

弱体化したムバラク氏が救済を彼の軍部に求めたとき、軍部の将軍達の最初の標的は、「ビジネスマン」たちであった。ガマル氏の同盟者は力尽くで押し出された。起訴で脅迫された者もいた。守旧派は最初の勝利を勝ち取った。次に大統領自身が引きづり下ろされた。守旧派の掌握が再建された。この事実はすぐにエジプト国民に刻み込まれるだろう。別の昼メロドラマが始まるだろう。それは別の悲劇というべきかもしれない。いずれにせよ、それはもはや、ムバラク家の物語とは呼ばれまい。


 大河ドラマ、ムバラク家の物語は終わり、エジプト守旧派の昼メロがこれから始まるのである。それは記事がためらいがちに予想するように、エジプトの悲劇であるかもしれない。
 「新自由主義」打倒!、親米政権打倒!の勇み声で倒された政権を持つ国家が、その後、どんなにしょぼいことになるのかということについては、まあ、語るまでもないだろう。

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コメント

新自由主義を言うなら、福祉に目を配らなきゃならない(先進国の甘え?)。ムバーラクさんを独裁者とする論調は、支配層(軍部が主導?)によるイメージ作戦なのでしょうけれども。
マスメディアにたいする政治介入や、たくさんいるとされる無辜の政治犯拘束をみるに、ムバーラクさんの能力不足もあったように思います。そういう状況で世襲はないでしょう。それは、反発されますよ。

投稿: mori-tahyoue | 2011.02.16 16:37

>打倒「反米政府」である。
→「親米政府」でしょうか。

投稿: | 2011.02.16 18:05

ご指摘ありがとうございます。訂正しました。

投稿: finalvent | 2011.02.16 18:13

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