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2009.06.10

足利幼女殺害事件冤罪、雑感

 DNA再鑑定の結果から刑事訴訟法第435条「無罪を言い渡すべき明らかな新証拠」が見つかったとして足利幼女殺害事件が再審となり、すでに検察からの謝罪もあることからも、菅家利和さんは無罪になるだろう。無辜の市民を殺人罪で無期懲役刑とし、17年半も拘留・服役させたというのは、しかもそれを最高裁が決定したとなれば、この国の市民として、恐怖を覚える。また同じ市民として不当につらい思いをさせたという責務も覚える。なぜこんなことになったのか、この冤罪をどう日本の司法に結びつけていけばよいのか、いろいろな議論があるだろう。私は、ネット上にある「菅家さんを支える会・栃木」(参照)の資料と、この事件関連の過去の報道を少しめくってみた。暗澹たる思いがした。
 私がこの事件について、個人的にだが「これはどういうことなんだろうか?」と疑念に立ち返ったのは、1994年のO・J・シンプソン事件の裁判の経過だった。この裁判では、人種差別と並んでDNA鑑定が話題になった。確か、O・J邸で発見された手袋には被害者と同じDNAの血痕があった。当時のDNA鑑定でも個人特定は確率的ではあるものの、私はこの裁判はこれで決したと思ったが、そうはならなかった。陪審員に科学的な知識がないのだろうとも思ったが、それで割り切れる話でもない。ただ、DNA鑑定は法のプロセスではそう絶対的なものではないなとは思った。
 O・J・シンプソン事件については、当時米人と酒の上でけっこうざっくばらんな話も聞いたものだが、そして率直に言ってこの事件は今でもよくわからないところがあるが、それでも事件現場の捜査・証拠の採取プロセスが疑念に挙げられた経緯から、とりあえず私の理解としては、日本でよく「推定無罪」として誤解される、「無罪の推定」(presumption of innocence)との関連で、検察官が犯罪事実の立証責任を負うがゆえに、その証拠収集の過程で違法性であれば、その時点で無罪・終了になる、ということだったのではないか。と同時に、この考え方というのは、専門の方は別として、およそ普通の日本人には理解できないのではないかとも思った。「こいつが犯人だ」と証拠もあり確信しても無罪を言い渡さなければならない状況というものが司法なのだと日本人は受け入れることができるだろうか。無理だろうと思っていたが、先日NHKのドラマ「Q.E.D. 証明終了」の最終回「立証責任」(参照)がまさにこれをテーマにしていて、感動した。若い人がこの番組を見る機会があれば勧めたい。調べてみると原作は「Q.E.D. - 証明終了- 27 (加藤元浩)」(参照)ということなので、私も購入してこちらも読んでみよう。
 事件当時の新聞記事から主立った記事を不快極まる思いで読んでいくなかで、事件から随分日の経った記事ではあるが、1999年に弁護士の仕事を扱った読売新聞の連載記事「鑑定との戦い "怪物"DNAに挑む」(1999.4.25)が当時の内情を示唆しているように思えた。


個人識別「絶対ではない」
 「幼女殺し容疑者浮かぶ/DNA鑑定で一致」
 一九九一年十二月一日、新聞にこんな見出しが躍った。栃木県足利市で四歳の幼女が誘拐され、殺害された「足利事件」。最先端鑑定が“決め手”となって、容疑者が特定されたことを大々的に報じていた。
 翌日、菅家利和被告(52)が逮捕された。数日後、栃木県弁護士会所属の梅沢錦治弁護士(68)のもとに、弁護の依頼が来た。
 DNA鑑定で話題の事件とは知っていた。だが、「DNAがどんなものやら全然、知らなかった」
 三度目の接見。「やったのか?」と聞くと、菅家被告は「うん」と答えた。
 犯人であることが前提の弁護になった。だが、DNA鑑定の信用性については争うつもりだった。「訳の分からないまま受け入れられないし、世間でもこの鑑定が注目されていた」
 まずはDNA鑑定の「正体」を知ることが必要だった。市内の書店を回ったが、参考書は一冊もない。知人の大学教授に論文を送ってもらったが、すべて英語で、翻訳を読んでもチンプンカンプン。結局、検察官から参考書を借りた。

 逮捕数日後、弁護士を責める意図はないが、「犯人であることが前提の弁護」が行われたというのだ。この弁護士と限らず、まだDNA鑑定がどのようなものか理解されてはいなかったが、それ以前に立証責任のあり方もまた問われない前提だったのように見える。

 「家族に出した手紙に無実だと書いてるが、どういう意味ですか?」
 九二年十二月の公判。梅沢弁護士は、菅家被告にただした。一年も前から、家族に無実を訴える手紙を出し続けていたことを、最近になって知らされた梅沢弁護士が、真意を確かめようとしたのだ。
 「無実というのは、やってないということですね」と、菅家被告。初めての犯行否認だった。
 その次の公判で、菅家被告は再び罪を認めたが、結審後、今度は梅沢弁護士に手紙を送って直接、無実を訴えた。
 だが、判決は求刑通り無期懲役。DNA鑑定については「科学的根拠に基づくもので信用できる」と認定された。
 梅沢弁護士は「一生懸命勉強したが、結局、素人には顕微鏡の下の世界は分からなかった」と述懐し、菅家被告の主張の変転については、今も首をひねる。


 「突然リングに上げられ、DNAという怪獣と戦わされたつらさは分かる。でも、被告が無実を主張する以上、なんとかしてやらないと」
 一審の経過を知り、控訴審から主任弁護人になった佐藤博史弁護士(50)(第二東京弁護士会)はそう思った。
 検討すればするほど、被告の自白には不自然な点が目立つ。供述の変遷も、接見を重ね、被告の気の弱い性格などを知るにつれ、理解できるようになった。
 当初、被告と同じDNA型を持つ人の比率は「千人に一・二人」とされていた。二審で弁護側は、最近ではそれが「千人に五・四人」に変わって来たことなどを強調、「DNA鑑定を過大評価すべきでない」と無実を主張した。しかし、二審・東京高裁は九六年五月、控訴を棄却した。

 この事件に記憶のある人なら、当時この事件の関連で別の二件の幼女殺害も自供したことを覚えているだろう。だが、二件は嫌疑不十分になった。いくら警察の筋書きどおりに自白しても事実と辻褄が合わなかったのだ。

 弁護団会議で、「独自に被告のDNA鑑定をやり直してみては」という話が出たのは上告後のことだ。被告の髪の毛を大学の研究室で鑑定したところ、従来の鑑定結果と違っていた。
 思わぬ発見だった。だが、被害者の着衣に付着した犯人の体液を再鑑定し、髪の毛で出た結果と違うことを確認しない限り、無罪は証明できない。弁護団はいま、最高裁にこの再鑑定を求めている。

 年表を見ると、弁護団主導の鑑定が行われたのは1996年のようだ。12年ほど前のことになる。このときの科学水準は今日のDNA鑑定の水準とは異なるだろうが、それでも事件時の鑑定とは異なっていた可能性は高い。DNA鑑定が重要な意味をもつ裁判であればこそ、その疑念を扱うべきだっただろうし、おそらくその時点の鑑定があれば、その時点で菅家さんは釈放され、日本国と司法はここまで深い罪を負うことにはならなかっただろう。

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コメント

 ええ仕事したはりまんな。えかった、えかった。

 中途半端に人のケツ付いてって貴族のお漫才やったら駄目ですよ。先約が居るんですから。付いていく人間間違えたらネタが小さくなって詰まらんようになるんですから。

 面白いネタに食い付くのが一義であって、それをどう見るか見せるかが弁当翁さんの腕の見せ所なんですから、そこ勘違いしてネタに屈したらいけませんよ。

 9点。

投稿: 野ぐそ | 2009.06.10 21:18

警察関係者、司法関係者も、物理学、化学、生物学、地球科学のある水準の知識は身に着けないと今後は職務を全うできないということなのか、と思われます。

ただ、求められる自然科学の知識があまりに特殊で水準が高いと、専門の担当者がチームで必要になってしまいます。

法律関係者や宗教の聖職者が自然科学の知識を持たなければならなくなり、いっぽう、理工系も財務金融の知識が不可欠になっている。

教育のあり方から見直さないといけなくなっている。案外、マークシート式の7科目共通一次試験は間違いではなかったのかもしれません。

投稿: enneagram | 2009.06.11 09:24

「その証拠収集の過程で違法性であれば、その時点で無罪・終了になる」という理屈が何故日本人には理解され難いのかを考えてました。

裁判で無罪を訴えている限り、それは被疑者であって犯罪者ではないというだけのことも伝わり難いと思います。

ヒ素に関するここでの前のエントリーで、自分が裁判員だったらどれ程沢山の資料が集められても、それが証拠ではないのなら、林被告はずっと被疑者ではないかといい続けるとコメントした記憶がありますが、この裁判も、最高裁という場です。まさかの事が起こった実例として、裁判員になりうる「自分の問題」だと深く思いました。

投稿: godmother | 2009.06.11 16:02

はじめまして。近畿の野次馬と申します。
それにしても今から12年も前に既に鑑定技術の進歩を理由に再審請求されたのに、耳を傾けないなんてろくでもない判事ですね。
その当時の判事・検事・あと法務大臣って何という資料を見たら乗ってるでしょうか。僕の住所の選出だったら票を入れない&最高裁判事国民審査で落とす必要がありますので。

投稿: 近畿の野次馬 | 2009.06.11 17:28

要するに、それ程に国家権力は恐ろしいと。それを前提に刑事訴訟法は成立しているとおもいます。明らかに犯人であるであろう人間が無罪になるのは確かに大きな問題ではあるが、現状では、一人の無実の人間を国家権力から守るためのコストである、と。矛盾ははらみながらも現時代では、より良い?あるいは、より小さな悪い方法であるとの認識が西洋ではあるのではないかと思います。

投稿: AT | 2009.06.12 11:27

これがこの国の、私や貴方方の本質でしょう。
絶望しかない。

投稿: ぷるきんえ | 2009.06.12 12:53

 だからと言って疑わしきは罪無し(問わず)の論法が幅を利かせ過ぎると、バレなければ何をやってもいい、に堕すんですけどね。大きく言えば経済事犯や陰謀犯罪、小さく言うならピンポンダッシュに至るまで、事前に防衛できなければ、絶対確実に犯行を捕捉できなければ、やられた方が馬鹿なだけ。馬鹿が不利益を被るのは当たり前、と。

 そっちに傾く方の害の方が、よっぽど酷いと思いますけどね。卑近な例で言えば、ゴミの不法投棄なんかも該当しますけど、自宅玄関前に大量の不法投棄をされても、その現場を確実に押さえて犯人を決定しない限りは捨てられ損でありまして。
 そうだよね、って言っちゃったら。早速模倣犯が幅を利かせると思いますよ。

 そういうのを容認する社会の方が、より害悪でしょ。ひとりの無実の人間を不十分な証拠で17年も拘留する体質も十分すぎるくらいおかしいですけど、下手な模倣犯を大量に生み出す素地を拵えて「そっちの方がマシ」に傾く社会の方が、より悪徳だと思いますよ。

 一部権力者のやることが信用できないからといって隣近所が皆信用できない社会に移行しようとするのは、愚策だと思います。真相究明と再発防止策の徹底、それら所為の逐次開示(情報公開)あたりが穏当な気も。

投稿: 野ぐそ | 2009.06.13 01:44

いやぁ検察や警察にしてみたら、この人の物言いは随分怪しい所をウロウロして要領を得ないみたいだから、責任能力で争われたら収監で終わりだったかも知れないけど「犯行をやったな」という予断が入るのは仕方ないんじゃね?って、私は考えてしまった。
でさぁ、その~怪しい所をウロウロして要領得ない人ってのは、まぁ割りに巷を徘徊してる訳だけども、こういう事件が起こった辺りでは疑わしきは罰せずって犯人の証拠もなく罰する必要は無いけど収監か治癒か分離はする必要が出て来るんじゃね?
事件が未解決で生々しいまま、噂なんかは放置して徘徊させるのかって思うけど?

投稿: ト | 2009.06.13 23:52

タイトルから2行目typo
×検索
○検察

投稿: 通りすがり | 2009.06.14 06:32

菅家氏がもっと早く釈放されていれば、時効になる前に真犯人を捕まえられた可能性もあった訳ですから、
裁判官や検察官やってる人達は特に自戒してもらいたいなと思いました。

投稿: kaze | 2009.06.14 13:05

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