[書評]あなたの人生の物語(テッド・チャン)
「あなたの人生の物語」(参照)は、中国系二世の米国人SF作家テッド・チャンの短編集で、ネイチャー誌に掲載されたショートショートを含め、8編の作品が収録されている。どれも米国のSFコンテストの賞を得ている佳作ぞろいである。
あなたの人生の物語 テッド・チャン |
私は本書を、その評価もテッド・チャンという作家についても何も知らないで読んだ。勧められたわけでもなかった。とある書店でたまたま偶然に出合った。魅惑的な書名に惹かれたわけでもなかった。その経験はうまく言い難い。読後は、ネットでよく言われる「お前は俺か」という感慨を持った。私と似たようなへんてこな思索課題に取り憑かれ、似たように展開していくのを感じた。私とテッドの違いは、私には文才というものがないことだが、読みながら、私の脳はぎりぎりぎりと苦痛のような歓喜のようなきしみの響きをあげた。思想と創造力のタガを外されたサムソンの感覚に浸った。スエーデンボルイの「天界と地獄」(参照)をただ想像力と倫理の限界を知るために読んでいた背徳の喜びに近い。いや、それ以上のものがあった。背徳仲間のイマヌエル・カント君、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」は面白いよ。
個別の作品を見ていこう。
「バビロンの塔」(Tower of Babylon)は、ある意味、旧約聖書にある「バベルの塔」の物語を描いている。「ある意味」と限定したのは、設定は酷似しているが同じ物語ではないからだ。その時代、バベルの塔はほぼ完成に近づいていた。現在のイラン地方に住む主人公のヒルラムは要請され、バベルの塔に登り、数年かけてその頂上に至り、天界の壁を採掘することになる。
作品はファンタジーに分類してもよいかもしれないが、その世界は私たちといくぶん構成要素が異なるだけで、物語はその世界の物理法則に完全に拘束されている。人々は神を語るが神は登場しない。まったく神秘性はない。描写は単なる緻密なリアリズムであるがゆえに、天界に接近する描写には独特の恐怖感が漂う。ようやく天界の壁に辿り着きその壁を採掘するのだが、その事業がもたらす危険性にも独自の恐怖があり、作者チャンの確かな才能を感じさせる。クライマックスから終盤のオチは、それ自体としてはあっけないものだが、読後、まったく異なる世界、異なる宇宙を感覚するという、不思議な彷彿を味わうことができる。
「理解」(Understand )は、溺死しかけた事故の治療から、たまたま超人的な知能を得た男の物語だ。「アルジャーノンに花束を」(参照)などと似た話かと読んでいくと良い意味で裏切られる。チャンは人間が持ちうる超知性のあり方のほうにテクニカルな関心を持っているのだ。
超知性のプロセスではどのようなメタ認識が行われるのか、小説という想像力の形式を使って、人間を超える知性を記号論的に追求している。これこそがチャンの独自の作風であり、読み進めながらチャンという人自身がすでに人間知性を超えているような薄気味悪い印象も与える。
本作はチャンの習作時代の作品に手を入れたものらしく、後半のスパイ小説的な展開や、もう一つの超知性との対決シーンは、率直に言えばありがちな展開でそれほど面白くはなく、稚拙さが残る。それでも超知性間の対決の意味が、倫理の思考実験に関わるところや、標題ともなった「理解」という言葉が暗示する部分には、他の作品にも見られるチャンらしい視点の原点が感じ取れる。
「ゼロで割る」(Division by Zero)は、現代数学の基礎論における数学の危機と呼ばれる問題を借りて、数学史のエピソードと、一人の天才的女性数学者の内面とをコラージュのようにして展開した掌編だ。「ゼロで割る」のは四則演算では禁則であり、それを許すと演算ができなくなるという初等数学の話題に過ぎないが、本作ではそれが、数学の危機の比喩として標題になっている。
数学の危機については、私も若い頃少し基礎論を囓ったので、その部分のコラージュはどちらかといえば退屈な話であり、よくあるゲーデルの不完全定理から着想を得たありがちな小説かと思い、むしろそれなら、ブラウワー(Luitzen Egbertus Jan Brouwer)をテーマにするとよいのにとさらっと読み終えたが、最終部に奇妙な人間の内面ドラマとしてのひっかかりがあった。気になり、女性天才数学者レネーの視点ではなく、その夫のカールの視点から読み直して得心した。倫理というものが持つ本質を、数学の危機の比喩で了解することで、まさに私たちの日常における愛というものの矛盾を言い当てている。
本作品もそうだが、チャンは本人としては作品の意匠のつもりなのだろうが、相当に読みづらいトリックを仕掛けることがある。だが、読者のほうでもそれに合わせて、脳のギアを入れ替えることは、快感でもある。
「あなたの人生の物語」(Story of Your Life)は、この手の作品の意匠性に慣れていない人には読みづらいかもしれないので、多少スポイラーになるかもしれないが構成の基本から触れておきたい。
作品は、主人公の女性言語学者ルイーズ・バンクスが、その娘に「あなた」と呼びかけるところから始まる。それはあたかも、年頃になった娘を前にした、母たる中年の女性が、父たる男性との馴れ初め時代を語るように語られている。そして、それはそのように錯誤することを、作者チャンはあえて仕組んでいる。
だがこの物語で「あなた」と娘に呼びかけているのは、娘がまだ生まれる前の、まさに男と性交しようとする寸前の時間なのだ。つまり、ルイーズはその性交の後、やがて生まれてくる娘に今、語っている。しかも語られているのは、「あなたの人生の物語」であり、その含意にあるように娘の死までを覆っている。人が生まれる前に、その人の死までが知られるという、時間を逆向きにした意識の状態があり、その意識の描出と、実際のその性交に至るまでの時系列の物語が、この作品ではコラージュのようにつなぎ合わされている。
なぜこのような珍妙な構成になっているのか。SF的な趣向として読まれてもよいだろうが、チャンはここで、宇宙に起きる事象に対して人間の意識能力が時系列にしか意識できないことを、宇宙の必然ではなく人間の認識の限界として小説的に表現したいからだ。逆に言えば、人間の現存する知能のような時間了解をしなければ、人は生誕から死に至る「あなたの人生の物語」をフラットに知覚できるようになることを小説としてチャンは示したいのだ。
そこで本作では、現存の人間が行うような時系列の時間意識と、時系列のない時間意識の二系列が提示される。時系列の物語ではルイーズが恋人と性交するまでが描かれ、非時系列では、娘の受精から死までの「あなたの人生の物語」が語られる。この意匠の根には、時間こそ私たち人間の意識の様式にすぎないというチャンのメタ認識がある。
その知性のメタな視点設定に加え、さらに驚くべきことは、チャンはその時間意識の根源を言語による認識の様式に見ていることだ。現存の人類の言語が、時系列の時間意識を生み出しているのであり、別の知的言語の体系で意識できるなら、因果律を超えた非時系列の意識が可能になる、としている。「あなたの人生の物語」が語られ、「あなた」という娘の生誕前にルイーズがその全生涯を語りうるのは、彼女がその異質な言語を、宇宙人との接触を通して習得したからであり、その習得の過程が、時系列の側の物語に流し込まれている。
この作品では、従来ありがちなSFのテーマである、エイリアンとの遭遇がそうした壮大なトリックの小道具にしか扱われていないことや、また物理学に関心を持っている人なら誰もが興味を持つ変分原理(フェルマーの原理)が比喩に使われているのが特徴的だ。私は読後、変分原理の量子力学的解釈というのはファインマンの経路積分なのだから、工学的な計算には便利でも時間と確率のパラドックスの意味は説いたことにならないな、チャンの言っていることは、入り組んだ洒落というものでもないか、としばし考え込んだ。
「七十二文字」(Seventy-Two Letters)は、産業革命後の、19世紀後半イギリス、ヴィクトリア朝を改変した世界が舞台になる。「バビロンの塔」のような改変世界物語とも言えるのだが、この世界では、現存する私たちからするとオカルトでしかなのだが、名辞とされる呪符を泥人形に埋め込むと、泥人形は生気を得て、動作する。それゆえ、「バビロンの塔」とは異なり、呪術も生かされるファンタジー物語かというと、そうではない。この世界では、呪符の原理はサイエンスに所属していて、魔術とは区別されているし、魔術は知的な体系以外に実効としては登場しない。つまり、呪符による名辞の原理というサイエンスがある世界と見るなら、この世界もまた、リアリズムに徹している。「七十二文字」という標題は呪符のサイエンスを著している。
こうした珍妙な前提が飲み込めないとなかなか入り込めない物語かもしれないが、しかし作者チャンがこの世界を前提としたのは、実際のヴィクトリア朝のサイエンスのあり方の知識や、数学のオートマトン理論、さらに遺伝子工学から中絶の倫理学など現代的な問題の枠組みを知っている人にとって興味深い比喩が提出できることを確信していたからだ。随所にその比喩が読み取れ、しかも比喩ではありながら、各分野のきわめてテクニカルな部分が言及されているので、読み進めながら、なにかしら知識がそれ自体の背徳に接するような、ゾクゾクとする悦楽がある。
「人類科学の進化」(The Evolution of Human Science)は、ネイチャー誌に掲載されたショートショートで、「理解」における超知性をもっともらしい文体でまじめ腐った意匠で描いている。爆笑を誘うとも言えるのだが、洒落になってないぞと苦笑を加えざるを得ないところは、チャンに執筆を依頼したネイチャー誌編集の見識が伺える。
「地獄とは神の不在なり」(Hell is the Absence of God)は、現代、しかも米国に設定された改変世界物だが、この世界では、いわば天使が落雷のような物理現象として登場する。天国と地獄という宇宙構成も、さらにそこに収納される死後の魂も、あたかも物理現象のように存在する世界だ。物理現象と言いたくなるのは、天使出現によって、難病や畸形の治癒など奇跡の救済がある反面、その出現事故でただの事故死を遂げる人々も多数おり、天使や天国、地獄、魂といった存在に対して、倫理的かつ神学的な意味が与えられていないからだ。神も直接的には存在しない。天使の顕現は、落雷のような自然現象であり、そこに神意といったものはまったく想定されていない。
またもチャンは珍妙な世界を構想したものだと思う人がいるかもしれない。だが、私はこれこそ旧約聖書の世界そのものだと納得した。旧約聖書の世界を現代にきれいに写像すれば、この世界ができるのである。天使というのは、旧約聖書をきちんと読めば、西洋世界で異教のイメージにまみれて作り出した、翼のある美男子・美少女といったものではまったくないことがわかる。クリスチャンが讃美歌でよく歌う「聖なる、聖なる、聖なるかな」も、イザヤ書の原文に戻れば、まさしくチャンが描いたような、天災のような天使の顕現でしかない。
こうした世界で人はどのように生きるのか。ある意味で神学的な問題が語られているのだが、同時に旧約聖書が描き出した世界の本当の意味とは、むしろこのフィクションを通して描かれているものなのだという、驚くべき洞察に行き当たる。
「顔の美醜について --- ドキュメンタリー」(Liking What You See : A Documentary)は、人間に施して、人の顔の美醜が問えなくなるような仕組みである「カリー」を、テレビ・ドキュメンタリーのタッチで描いた作品だ。薬剤注入と外部からの薬剤活性化制御によって、人間脳内の、人の顔の美醜を判断する中枢機能だけが阻害されるシステム「カリー」を、教育の一環として採用する大学が物語の場だ。話は、従来任意に利用していたカリーを、義務づけるかどうかを描いている。この作品は最終部までは軽快で読みやすい。他作品より先に読むことをお勧めしたくもなるのだが、最終部に入り組んだヒネリがある。
作品のテーマは、人間の顔の美醜という、ある意味で究極の差別問題とPC(ポリティカル・コレクトネス)を扱っており、ドキュメンタリーという形式を模したのは、そのテンプレート化した賛否議論を扱うためだ。現実の社会でも各種差別について議論されるが、議論している当人たちは真面目でも、実際にはこの作品のような、ある種絶妙な滑稽さを含んでいるものだ。また、こうした議論に関わるメディア・コントロールも道化回しにされている。いや、作者チャンはそれらを単に皮肉っているのではない。どうやらこれは、人間の倫理や哲学にとって相当な難問だということもうまく描いている。
寡作なチャンだが、現在も凝った作品を執筆中とのことだ。何年後かには邦訳されて読むことができるのではないか。これらの作品を凌駕する長編であれば、21世紀を代表とする文学のノミネートされるのではないだろうか。そこまで期待したくなる。
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コメント
なるほどー。
そんなに面白いんだー。
なんだか最近は、頭の奥でぎぎぎーっていうような軋みに似た音を立てて、難しいことを考えようとすると拒否するみたい。ちょっと前に、以前の紹介で買った続きを読んでいたらそんな感じになりました。
読書は、同じような脳ミソを使うような本を続けていると固まる感じがしますね。
今回の紹介の本は、こう、例えばトイレなどで読むとそこにどれ程長くいたか忘れてしまうほどに楽しく読めるような内容かな。
背徳仲間になりたいわけではないけど、それを越えるというのが興味津々です。
ヘタをすると出るものも出なくなるような本があるけど、そういうのじゃないのをちょっと読んで、サバーッとしたいです。
短編が8本立てというのもいい感じ。
読んでみます。
投稿: godmother | 2009.06.03 14:23
わたしは、きっとこのエントリーにコメントを入れる資格は、本来はないんでしょうが、6月1日に定額給付金12000円を口座から引き出して、一応、昨日、ミリオンジャンボ宝くじ3000円分と本日、「ヴァン・ヘイレン グレイテスト・ヒッツ」1500円分を予定外の過剰消費しまして、そのことを報告したくて、コメントを入れさせてもらうことにしました。
「現代数学の基礎論における数学の危機」の話をしたいんなら、やっぱり、エミー・ネーターの代数学上の貢献をしっかり把握した後にしたほうがいいですよ。論理学の中の特殊な分野のことばっかりよく知っていても、解析学上のワイヤシュトラスの業績についていく話になると、手も足も出ないのでは恥ずかしすぎます。オンサガー、プリゴジーンの話をする前に、ギブズの整理した熱力学を使いこなせるようにすること。数学は、思弁が目的ではなく、基本的には道具だと割り切ったほうがよいと思います。思弁をしたいのなら、カントを出発点にしたほうが、ずっとましな成果を得られると思われます。
科学が、経験よりも、記号に依存しすぎるようになったかな、とは思います。もちろん、経験の検証よりも、記号の演算で話をどんどん進めていけたから、科学がこれだけ進歩して、人類の福祉に大きく貢献できたのだろうとは思うのですが。
でも、finalvent先生の本職は、プログラマーよりも神学者なんだろうから、推論の話より、内的経験の話に軸足を置いたほうが、世の中に有益な話ができるように思います。中世のスコラ学の時代は、形式論理の大量高速演算装置なんてなかったから、神学者にとって、正しい推論の話はきわめて重要だったと思うのだけれど、今の時代に重要なのは、新たな種類の推論の創出を可能にする母胎としての、知覚や内的経験をできる限りひねり出すことだと思うんです。
私も、伊達や酔狂だけで、松任谷由実と美濃部亮吉や田中角栄との内的関係を無理やりに導出しているわけではないんです。まあ、そういう、知覚や内的経験の源泉として、テッド・チャンの作品を紹介してくださっているのなら、難癖つけた私のほうが間違ったことをしていたということです。
投稿: enneagram | 2009.06.03 16:59
SFと区分される文学のひとつの目的は、
今までだれも見たことのないイメージの創造ということにあると思います。
その目的を達した数少ない作家の一人がチャンだと感じています。
ニーヴンの「無常の月」、小松左京の「ゴルディアスの結び目」
などを読んだときのめくるめく体験が、
チャンの「理解」や「地獄とは神の不在なり」を読んだときにありました。
寡作ではあるが希有な作家です。
まさかこちらでチャンの名を聞くとは思わず、
長年の読者ではありますが初コメントを送信します。
投稿: nbr | 2009.06.03 18:19
5点。前回ほどの深みがありません。頭で書いちゃってる感じ。
投稿: 野ぐそ | 2009.06.03 21:24
この短編集の刊行時点(および邦訳時点)では、ここに載せられた8篇で発表された作品は全てだったのですが、その後、3つの中短編が発表されています。
そのうち"What's expected"と"The Merchant and Alchemist's Gate"はすでに訳されており(SFマガジンに掲載)、最新作の"Exhalation"も、そう遠くないうちに訳されるはずです。書籍に収録されるのは、分量の関係でだいぶ先になりそうですが。
投稿: 向井 | 2009.06.03 23:08
ここでも、アーレントのとき同様、カントの名前が出てきたのだけれど、カントの考え方というのも、自分たちの認識が客観によって規定されているというよりも、自分たちの主観がこの世界のあり方を決定している(「認識におけるコペルニクス的転換」についての1つの可能な解釈)、という立場ですよね。「純粋理性批判」を読んでも、こういう読解は難しいかもしれないけれど。
そうすると、主観のトレーニングというのは大切だ、ということになって、美学論文の「判断力批判」に至るというわけなんだろうと思います。
まあ、こういう話は、アーレントの書評のところでするべきなのかもしれませんが、SF小説というのも1種の主観の訓練素材だと思うので、こういう話もさせていただきました。政治哲学のところで話すより適切な気がするから。
もちろん、わたしのカント理解はまるっきり間違っているかもしれません。
投稿: enneagram | 2009.06.04 11:32
"Exhalation"は、アンソロジーのプロモーションとして
こちらからダウンロードできるようです。
http://www.nightshadebooks.com/downloads
投稿: nbr | 2009.06.04 17:06
カントの話のついでに、ルドルフ・シュタイナーの「自由の哲学」の話もさせてください。
横山紘一著「唯識の哲学」(平楽寺書店)によれば、唯識仏教とは識一元論を取るものであり、識というのは、いわば、認識されるものと認識するものに認識を二元化する作用とでも言うべきもののようです(例:所縁と能縁)。
ルドルフ・シュタイナーの「自由の哲学」でも、シュタイナーは、存在の二元論を廃し、私たちの認識形式が、認識において、認識するものとされるもの、主観と客観を生み出してしまう、存在が二元的なのではなく、私たちが概念と実在の二元性のもとでしか認識できない認識形式しか持ち合わせていないのである、という結論を出しました。
唯識の一元論と、シュタイナーの認識(存在)一元論は、同一ではなくとも酷似しています。シュタイナー人智学は、ある意味で、悪く言えば、稚拙な唯識論、浅薄な唯識論といえないわけでもないのかもしれません。
話は変わりますが、修験道では、精神の鍛錬のために、般若心経、観音経、法華経如来寿量品、光明真言、随求陀羅尼などを修行の中で唱えるようです。優れた言葉をいつも口にすることで霊能力を高める修行の一助としているのでしょう。
ただ、私なんかが思うに、ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」、ヘーゲルの「精神現象学」の序説、カントの「純粋理性批判」、ベルクソンの「創造的進化」などの中には、ドイツ語やフランス語の原文を反復して朗読暗誦すれば、仏教の真言陀羅尼に比肩する霊的触発力のある文章がいくつも埋蔵されているように思われます。
案外、finalvent先生や私は、その気になれば、現代の「修験道」を創出する素材にたくさん恵まれているのに、それを活用できていないだけなのかもしれません。
投稿: enneagram | 2009.06.13 15:29
現代SFにおいてテッド・チャンと同程度、あるいはそれ以上に評価されているグレッグ・イーガンという作家がいます。
意識と死の難問を扱った「順列都市」など傑作ぞろいなのでオススメです。
哲学とはまた違った思索が味わえます。
僕はこの小説以上に死について深く考察した本を知りません。
↓参考までに書評です。
http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20080529/1212032204
投稿: daen0_0 | 2009.06.24 06:12
finalventさん、こんばんは、
ようやく今日「あなの人生の物語」を読み終えました。この前、ちょっと偶然がこの短編集に関してありました。何度かとらばしようとしたのですが、なぜかはてなから飛ばせなかったのここにリンクを張らせてください。
http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20090727/1248709114
「地獄とは神の不在なり」ですが、ここに正法眼蔵の冒頭の一節を見出すのは、外道でしょうか。地獄に神がいないのに、いや、いないがゆえに神を信じるニールがすこしわかる気がします。
投稿: ひでき | 2009.08.09 22:44