フォト
2024年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« ジョブ型雇用をめぐる動向をどう捉えるか@労働開発研究会 | トップページ | ダニエル・サスキンド『WORLD WITHOUT WORK』@『労働新聞』書評 »

2023年6月28日 (水)

トランス女性と女子大学

津田塾大学がトランス女性の入学を認めるというニュースに、何か違和感を感じたので、それを言語化してみました。

https://www.tsuda.ac.jp/news/2023/0623-02.html

津田塾大学では、2025年度入試(2025年4月に入学する学生が受験する入試)より多様な女性のあり方を尊重することを基本方針とし、女子大学で学ぶことを希望するトランスジェンダー学生(性自認による女性)にすべての学部、大学院研究科にて受験資格を認めることといたしました。

この基本方針は、1900年から女性に高等教育の学びの場を提供してきた本学の伝統を継承する、「Tsuda Vision 2030」のモットー「変革を担う、女性であること」を推進することでもあり、同時に、多様な価値観の共生を目指す社会の構築に貢献することでもあります。本学は、多様な女性の学ぶ権利を守り、共に学ぶ環境を整えてまいります。

性に多様性があるということを社会全体でどのように理解を進めていけるのか。多様な女性のあり方を包摂していく過程で、周縁に置かれている様々な女性たちがエンパワーされ、自らの力量を信じて真摯に前進していけるよう支援していく。それが、21世紀の女子大学のミッションであると考えます。

性の多様性を認めるということや、多様な性の在り方を差別しないということと、女子大学という存在を認めているということそのものの間に、論理的に解決すべき問題が存在しているのではないかと感じます。

そもそも、女子の入学を認めない男子大学は許されないのに、男子の入学を認めない女子大学の存在が認められているのは、ポジティブ・アクション、すなわちこれまでより不利益を蒙ってきた性別に対して積極的に優遇する差別は許されるという考え方によるものであるはずです。

実際、戦前は女性は大学に進学することができませんでしたし、今日においてもなお女性の四年制大学進学率は男性よりもかなり低い水準にあります。現状の判断については様々な議論があり得ますが、議論の筋からいえばそういうことです。

男性が自分が女子大に入学できないのは差別だと訴えても相手にされないのは、一般的には男性の方が女性より有利な立場にあるがゆえに、女性への優遇措置を甘受すべきであると考えられているからでしょう。

ところが、トランス女性はそういう意味において男性に比べて差別されているわけではありません。トランス女性が男性よりも優遇されるべきであると主張する根拠はないはずです。

トランス女性/男性は、シス女性/男性に比べて差別されているから差別を許すべきではない、という議論は、あくまでも比較対象はトランス対シスなのであって、トランス女性を男性一般よりも優遇すべきという理論的根拠にはなり得ないはずです。

津田塾大学は、これまで差別され不利益を蒙ってきた女性をより指導的地位に就けるように積極的差別を行うのは正当であるという理由に基づいて、男性の入学を拒否するという男性に対する差別を行うことが許されている存在であるはずですが、その正当化根拠とは異なる差別の線引きをするということになると、そもそも女子大学であるという存立根拠を危うくする可能性があるのではないかと思います。

ダイバーシティという言葉は便利ですが、便利であるがゆえに、多様性の中身を区別せずにごっちゃにして議論するということになると問題があります。

例えば、人種差別に対するポジティブアクションとして、大学の入学枠において黒人などの有色人種を優遇するということがあります。それ自体の是非はここでは論じませんが、仮にそれが正当だという立場に立ったとしても、それによって正当化されうるのは、男女共学の大学において黒人男女を優遇することと、女子大学において黒人女性を優遇することまでであって、白人女性の多い女子大学に黒人男性を入学させろという話にはならないはずです。

白人男性の入学が許されない女子大学に、黒人女性のみならず黒人男性までダイバーシティの証しとして入学させろなどと言い出したら、それは論理的に間違ったことであるはずです。

津田塾大学には萱野稔人さんという立派な哲学者がいるんですから、もう少しきちんと物事を理論的に考えて行動すべきではないかと思います。

(追記)

コメント欄の議論に対しての総括

*トランス女性が女性それ自体では「ない」ことは明らかであって、もし女性それ自体であってシス女性と何の違いも無いのならば、トランス女性をトランス差別の被害者であるとする根拠自体がなくなります。

差別根拠として男性であるか女性であるかというジェンダー差別の問題と、トランスであるかシスであるかという性的指向・性自認差別の問題は少なくとも別の軸の問題であって、それを意識的にか無意識的にかごっちゃにするような議論はおかしいといっているに過ぎません。

私は差別禁止論として性自認ゆえにトランスをシスとの関係で差別することを問題とする議論は理解できますが、もしそうであるなら、トランス女性はシス女性それ自体とは異なることが前提なのであり、それを全面的に否定する議論とはそもそも論理的に矛盾すると考えています。

*おそらく、ここで話が噛み合わない最大の理由は、そもそも女性差別である男子大学は許されないのに、男性差別である女子大学が許容されるのは,ポジティブ・アクションという積極的差別であるからである、というイロハのイの根本のことが理解されていないからなのでしょうね。

トランス女性が、身体的性別と精神的性自認が異なるトランスジェンダーであるという差別根拠に基づいて「ではなく」、もっぱら女性であるというセルフ・アイデンティティに基づいて、歴史的に身体的性別に基づいて差別されてきた女性にのみ認められた積極的差別たるポジティブ・アクションの権利を自分にも要求するということの根拠が見当たらない、という話なのです。ポジティブアクションとは、いわばこれまで女性だからという理由で差別されてきた身体的女性にのみ認められた特権なのであって、トランスだからといって差別されてきたかも知れないが女性だからといって差別されてきたわけではないトランス女性がそのお相伴にあずかるべき筋合いはないという話なのですが、そこがすっぽり頭の中から抜け落ちてしまっていると、こういうわけの分からない議論になるのでしょう。

*そうか、だんだん分かってきた。この人たちは、そもそも入口で男性のみ入れますとか女性のみ入れますということが、そもそも性別による差別であって許されないという差別禁止原則の一番根幹のことが頭の中にまったくなくって、男性のみ入れますでも女性のみ入れますでも、何でも許されるという大前提に立っているらしいのだな。

だとすると、何の問題もない男子のみ入れますという大学にトランス男性が入りたいということも当たり前のことであって、それと全く同様に、何の問題もない女子のみ入れますという大学にトランス女性が入りたいといってきているンだから入れればいいじゃないか、という思考回路になっているのでしょう。

しかし、だとすると、これはもはや差別の問題では無くなってしまうのだな。そもそも差別禁止原則が存在しない世界、男性のみでも女性のみでも何でも許される世界において、なぜか、ただ自らの性別アイデンティティのみが唯一絶対に尊重されるべきだという議論であって、正直付き合いきれない。

« ジョブ型雇用をめぐる動向をどう捉えるか@労働開発研究会 | トップページ | ダニエル・サスキンド『WORLD WITHOUT WORK』@『労働新聞』書評 »

コメント

トランスジェンダーの性別の本質はなにか、についての認識の違いでしょうか。
あなたは生物学上の性(≒戸籍上の性)の方が優先されるからトランス女性は男性だと考えている。
一方津田塾としては、トランス女性(MtF)はたまたま男のガワに入ってしまった女性(メンタル上の性>生物学上の性)と考えている。
現在の日本の法制度上、未成年が性別適合手術を受けて戸籍変更することはできないので、受験資格を厳密に「女性」に限定するとトランス女性に多大な負担(事実上の年齢制限&手術費用)を強いることになる。
# ちょうど昨日、性別適合手術が戸籍変更の要件であることを問う裁判で最高裁が弁論を開くとのニュースが
社会的マイノリティである女性を支える目的を掲げる大学が、さらに弱い立場のトランス女性(津田塾大の認識では女性)を受け入れるということなので、
私としては矛盾を感じる方向性だとは思いません。
# そもそも、性別適合手術という「踏み絵」を課されるとはいえ戸籍上の性別を変更することが認められているのだから、トランスジェンダーの性別はトランス先が本質である、といえるのでは?

「身体的に女性=差別される女性」ではない、という主張はあり得ると思います。
であるならば、猶のこと、「性自認が女性=差別される女性」ではないでしょう。
「何を以って差別される女性なのか?」という認識を表明し、それに従って優遇を
するべきなんでしょうね

例えば、売春婦の方々などは現状、強く差別をされているようですから、彼女達を
優遇されてみては如何でしょうかね

>男性が自分が女子大に入学できないのは差別だと訴えても相手にされないのは、一般的には男性の方が女性より有利な立場にあるがゆえに、女性への優遇措置を甘受すべきであると考えられているからでしょう。
>ところが、トランス女性はそういう意味において男性に比べて差別されているわけではありません。

hamachan先生の仰る事がよく理解できないのですが、hamachan先生は
  トランス女性は(自分では女性だと思っていても)本来は男性なのだから、男性として扱われるべきである。
  男性として扱われていて女性より有利な立場にあるから、本当の女性のように男性に比べて差別されているわけではない
というお考えなのでしょうか?
トランス女性は自分は女性だと思っているので、男性ではなく女性として扱われたい(女性として生活したい)と思っている人が大部分だと思います。実際に女性として生活している(周囲から女性と思われている)トランス女性も多いと思います。例えば現在は女性になられましたが、あるトランス女性は男性だった頃に責任者の許可を得てデパートの化粧品売り場で働いていて、お客さんは誰もトランス女性である事に気付かなかったそうです。


>トランス女性/男性は、シス女性/男性に比べて差別されているから差別を許すべきではない、という議論は、あくまでも比較対象はトランス対シスなのであって、トランス女性を男性一般よりも優遇すべきという理論的根拠にはなり得ないはずです。

申し訳ありませんが、仰っている事がよく理解できません。私は
  (女性として生活している)トランス女性はシス女性と同じく男性に比べて差別されている(不利な事が多い)
と思っています。例えば痴漢されるトランス女性も多いそうです。ですから私は
  シス女性を男性一般よりも優遇するのであれば、トランス女性も同様に優遇すべきである
と思います。

「普遍的に女性は差別される」など、ということはない訳であって、
女性が有利な社会においては、女性に対するポジティブアクションは
不適切です。とりあえず、身体的に女性でもなく、性自認が女性でも
なく、「社会的に女性」である者が「社会的に男性」である者よりも
差別されている。だから、「社会的に女性」である者を優遇しますと
いう主張は可能でしょう。個々の受験者を社会的に女性であるのか、
否かをどう判別するのですか?という問題は依然、残るでしょうが。
もちろん、男性が不利な社会であれば、「社会的に男性」である者を
優遇しますという逆の主張こそが正当だという話になるのでしょう。

弱者男性論というのは男性ということで一律に有利なわけではなく、
男性であるが故に有利である者もいれば男性であるが故に不利である
者もいる。しかるに、ポジティブアクションするべし、と主張をする
のであれば、「当然、弱者男性を優遇すべきという話になる」という
主張でしょう。このように、アイデンテティポリティクスは(もしも
それが筋を通した正当なものであれば)無限後退を引き起こします。

当然ながら「普遍的にトランスは差別される」なんて、ことはない訳で、
たまたま、トランスが差別されている、という現状認識があった上での
「差別をしない社会への移行」を目指すということではないのですかね。

正直、実際のところ、彼らがどれほど差別されているか、私にはピンと
来ないところではあります。差別、差別!と騒がしい人々には、本当に
差別されている、ということをちゃんと証明をして欲しいのですけどね。
だって、差別されないということもあり得るからこそ、差別解消を主張
しているはずなのですから。

因みに、女子大に入学を希望する戸籍男性の方が、現に社会的に女性と
して扱われているのかは一般には不明であろう(すなわち、個別判断が
必要)と思いますが、「社会的に女性として扱われることを希望されて
いる」と推認することには強い異論は少ないだろう、と思います。ただ、
女子大が多様性云々に抵触する存在であることはそもそも、明らかです。
女性、男性などといった型に嵌った社会的属性を超えて行きましょうと
いうのが、多様性のはずですから。要するに、ポジティブアクションと
多様性はそもそも両立不可能なのに、よくもまあ、そんなことを同時に
主張するなあ、という感想しかありません。

> 歴史的に身体的性別に基づいて差別されてきた女性にのみ認められた積極的差別たるポジティブ・アクションの権利をポジティブ・アクションという積極的差別であるからである、というイロハのイの根本のことが理解さていない

ポジティブアクションというのは「差別が解消されるまでの時限的な措置」として
正当化されていることが多いのではないのですかね?というか、男子大は駄目だが、
女子大は可、という法的な根拠を寡聞にして知らないのですが。中学校や高校なら、
男子校も女子校も普通に存在していますし。

ダンスのクラスとかで、女性限定(乙女も可)みたいなのがあったりするんですよ。
これは、要するに

 「女性らしいダンス」ができるようになりたい方限定

という意味であって、差別も多様性も何の関係もない、ただ、単に教育訓練の性質
から来る必然的な要請にしか過ぎません。女子大というのは、「女性らしい立ちい
振る舞い」ができるようになるということが期待されているということはある、と
思います。一方、「男性らしい立ちい振る舞い」ができるようになるということを
期待することは、少ないのではないのですかね。男性ならば、特に訓練しなくても
「自然に出来てしまうものこそ」が男性らしさと一般に捉えられていると思います。
トランス女性は「女性らしい立ちい振る舞い」をしたい方々である、ということは
言える、と思います。そうすると、そもそも、女子大というのは、別にポジティブ
アクションでも何でもないのかもしれません。

ジョブ型であれば、女性であることが、そのジョブを遂行するに当たって、本質的な要請であれば
女性限定で採用することは、差別には当たりません。まあ、そんなジョブは多くはないでしょうが。
性差別だから駄目なのではなくて、「そのジョブの遂行から来る要請ではないから、駄目」という
理屈であって、性がどうだ、などという議論は全く本質ではないのです。同様に、男子校、女子校
などについても、そのような本質的な観点から考えてみた方がいいような気は確かに、いたします。
なので、労働の場を超えた日本全体を覆うメンバーシップ感覚が問題の背景に存在しているように
思われるところです

女性/男性という軸と、トランス/シスという軸は、軸が異なるのだから、差別に対抗する戦略がそれぞれ異なってもおかしくはない。

「トランスだからといって差別されてきたかも知れないが女性だからといって差別されてきたわけではないトランス女性」という認識がそもそも間違っているというか、少なくとも時代遅れになりつつあるのではないか。

女子大学に進学を希望するトランス女性は、社会的に女性として扱われることを希望する人が多数であろう。
実態としてもトランス女性を女性として扱う事例が増えてきた。
女性として扱われることを希望するトランス女性を社会的に女性として扱うことによって、そのトランス女性にとってはトランス/シスの差別は解消される。
なので、この意味において、トランス/シスの差別解消戦略として、トランス女性に女子大学への進学を認めることは正しい。
しかも、社会的に女性として扱われる以上、女性/男性という軸では、女性側なのであり、女性であることを理由に差別されるのだから、その意味においても、トランス女性に女子大学への進学を認めることは正しい。

そもそも、女子大学に進学する女性は、社会的に男性として扱われたいわけではないだろう。
女性が女性のままで男性と同等に活躍できる社会を目指しているのが女子大学ではないのか。
女性を男性として扱うことは、女性/男性という軸の差別解消の戦略として間違っていて、女性を女性として扱うことによって差別解消を目指すからこそのポジティブアクションではないか。
トランス女性を女性として扱うことが差別解消戦略になり得るトランス/シスの軸とは当然に戦略が異なるのである。

一方、女子大学に進学を希望するトランス女性は、社会的に女性として扱われることを希望する人が多数であろう。
社会的に女性と同一視される以上、女性として男性と同等に活躍できることを目指す教育を受ける権利は保障されるべきである。

そもそもの議論の発端として、一部の偏った方々が「女子大はポジティブアクションだから良いが、男子大はダメだ」と盛んに喧伝している訳ですけれど、実際のところ、女子大当局(及び、監督機関など)がそんな主張をしている事例はあまりないような気がするのですけど、どうなのでしょうか?

女子大も男子大も別に禁止されてないけど、昔は男子大ばかりだったのが、昨今は、男子大にはほぼ需要がなくて、女子大も少なくなりつつある、というだけのようにしか。一方で、日本の教育機関がジョブ型教育機関ではない(無限定的である)ために、入学者差別を禁止するのも現状では困難、という話でないですかね。ところが、近年は、学校は無限定的であることを止めよう(例えば、部活の地域移行)という方向性が同時進行しているので、将来的には入学者差別禁止ということが現実的になることも期待できるとは思います

歴史的な事実としては、元々は、男子大がいいのだから、女子大も自由よね、だったのが、男子大がほぼ消滅した結果として、女子大はポジティブ・アクションなる虚偽が捏造されてしまった、という可能性もあるのでないでしょうか?「嘘こいて、暴れる」のが常態という一連の思想潮流の一側面?ポモの嘘はエンタメだったのですけど、あの方々の嘘はどうにもです

> 入口で男性のみ入れますとか女性のみ入れますということが、そもそも性別による差別であって許されないという差別禁止原則の一番根幹

指揮命令権との関係で、法律の建前の部分に限っては、諸外国に倣ってジョブ型が原則になっているために、男女で異なる扱いをすることは差別である、という理屈を実態がメンバーシップ型であってもある程度、混入することができているだけのようにも思います。実態がメンバーシップ型であり、尚且つ、法律も限定的であることが原則となっていないのだとすれば、差別であるという理屈付けは困難なのではないのでしょうか?裏でこそこそ点数操作するようなことは違法と言えますが、男子大学や男女別定員制を取ることを差別と判事される可能性は、現状の実態と法制下では低いと思います

> ジェンダー格差の一つの原因となっている「人材活用の仕組みと運用」の背後に、「将来にわたる可能性を含む転勤・昇進の有無」といった「将来を読み込む思考」がある
> 未婚女性について将来一家の主婦となり母親となるのだからというのが規制根拠となった
> 将来にわたる役割期待を根拠とする「コースの異質性」による人事管理が「性差別」である
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2023/04/post-d9eae5.html

新卒採用ではメンバーシップ型雇用の特例として年齢差別が許容されていますが、
理屈としては男女差別も許容できると思います。ただ、そんな立法をしようもの
なら、選挙に悪影響が出るでしょう。理屈としては立法可能、というのと実際に
立法されるか、というのは乖離してますね。本当に差別だと断罪をするためには、
メンバーシップ型では駄目なのだと思います

>トランス女性が女性それ自体では「ない」ことは明らかであって、もし女性それ自体であってシス女性と何の違いも無いのならば、トランス女性をトランス差別の被害者であるとする根拠自体がなくなります。

申し訳ありませんが仰る事がよく理解できません。
”トランス女性が女性それ自体では「ない」ことは明らか” なのでしょうか?
女性として生活しているトランス女性の方には”女性それ自体では「ない」ことは明らか”ではない(周囲から女性と思われている)方もいらっしゃると思います(化粧品売り場勤務の方等)
そしてジェンダー差別の被害者の多くは "女性それ自体である" からではなく ”女性であると加害者が判断した” 事が原因だと思います。その意味でジェンダー差別の対象という点では ”女性であると周囲から判断されるトランス女性” は ”女性それ自体であるシス女性” と何の違いも無いと思います。そしてその事は トランス女性をトランス差別の被害者である とする事とは全く独立した問題だと思います。


>差別根拠として男性であるか女性であるかというジェンダー差別の問題と、トランスであるかシスであるかという性的指向・性自認差別の問題は少なくとも別の軸の問題であって、それを意識的にか無意識的にかごっちゃにするような議論はおかしいといっているに過ぎません。

ジェンダー差別の問題と性自認差別の問題は少なくとも別の軸の問題である という事は仰る通りだと思います。しかし2つの問題は独立であって排反(どちらか一方しか成立しない)ではないと思います。
  性自認差別を受けた人はジェンダー差別は受けない
という事は言えず同じ人が両方の問題を経験する事はあると思います。
例えば、トランス女性の生徒が ”詰襟ではなくセーラー服で通学したい” と希望してもなかなか認められない というのは性自認差別の問題だと思います。しかしセーラー服が認められて通学時に痴漢された というのはジェンダー差別の問題だと思います。
私は、
  ジェンダー差別の問題では被害者がトランス女性であってもシス女性の場合と同様に対応すべき
と主張する事は、2つの問題を ”ごっちゃにする” する事だとは思いません。


>女性だからという理由で差別されてきた身体的女性にのみ認められた特権なのであって、トランスだからといって差別されてきたかも知れないが女性だからといって差別されてきたわけではないトランス女性がそのお相伴にあずかるべき筋合いはない

例えば多くの鉄道で女性専用車両が存在します。女性専用車両に乗車できるは、”女性だからという理由で(痴漢等の)被害にあってきた”女性にのみ認められた特権だと思います。 
hamachan先生は、
  女性専用車両は、女性だからという理由で差別されてきた身体的女性にのみ認められた特権なのだから
  身体的には男性であるセーラー服を着たトランス女性は(痴漢を避けるためでも)そのお相伴にあずかるべき筋合いはない
とお考えでしょうか?

> 萱野稔人さんという立派な哲学者がいる

う~ん、男女で異なる扱いをすることは、性差別で、哲学的に許されないのは
確かに、そうかもしれませんが、法的に許されないためには、個別事案ごとに
様々な条件を検討する必要があるよ、ということですかね~。

武田 万里子 教授
日本国憲法、法女性学

村木 厚子 客員教授
社会実践の諸相

差別の違法性には合理的理由の有無がポイントになりますが、合理的理由はポジティブ・アクションだけに限らない(むしろ、最近になって出て来た俄かです)、そして、メンバーシップ感覚の色が濃い日本の学校の実態としては、元々、様々な合理的理由を見い出せる傾向がある。先生がご懸念の多様性は、その傾向に拍車を掛けるもので、まさに、津田塾のこのような取り組みは多様性確保として世間に受け入れられる事例になりそうです。

本来、ポジティブ・アクションは社会で冷遇されているから、内は優遇します、という話であり、また、少ないこと(多様性の不足)と冷遇されていることは別の事象です。多様性は、ポジティブ・アクションとはまた別の(合理的か、不合理かはよく分かりませんが)理由であるのに、そこをミスっているのだろう、と思われます。

「個人の多様なあり方を尊重」(津田塾)、「集団内における統計的多様性」(理系女子枠)は全く異なる話ですね。
色々、ごっちゃになってる、というのはその通りですね。
津田塾がごっちゃにしている訳ではないかもしれません。

元々の優遇措置が使い出が悪いことが発覚してきたので、この二つの全く異なる多様性が召喚されたのではないでしょうか。
今後、社会的に拡大していくのは統計的多様性(内にこういうタイプが少ないから、増やしますね)でないか、と思います。

> トランスジェンダー受け入れ反対なのでアカウントを作成しました。生物学的女性が安心して自由に学べる環境を
https://twitter.com/LGBT199169/with_replies

ネタ・アカウントかもしれませんが

   身体的異性と距離を取って、安心して学びたい

というのが保護されるべき合理的な利益らしいのですけど、どうなのでしょうかね?
特段、合理的とも、不合理とも思いませんが、これが合理的と評価されるなら、他の
様々な利益も合理的と評価されて良いようには思うのですが。こういう方の男子校は
駄目だが、女子校は良いという主張については猛反発すべきでは?、とは思います。

> 身体的性別に基づいて差別されてきた女性にのみ認められた積極的差別たるポジティブ・アクションの権利
> 男性のみ入れますとか女性のみ入れますということが、そもそも性別による差別であって許されない

例えば、アンダー21、混合ダブルス、宝塚歌劇団は年齢差別だったり、性差別だったり、する訳ですが、別にアファーマティブ・アクションだから許容されている訳でもないと思うのですよね。
      
女子大や男子校は差別ですが、アファーマティブ・アクションだから許容されているか、どうかはよく分からないところだと思います。

大雑把には

A:男女で分けるべきである
B:男女で分けるべきでない
C:男女で分けてもいいし、分けなくてもいい

の3つの立場がある訳ですが、雇用についてはBが主要な勢力で、
スポーツはCが主要な勢力で、全裸をお互いに見せることを前提と
した公衆浴場はAが主要な勢力ということで、「何にしても、Bが
基本である」という訳ではないのではないでしょうか

職業訓練だったら、その当該の職業に準じるのが自然でしょうが、
幸か、不幸か、現状で、日本の大学の多くは職業訓練ではない訳で

> 男女別学であることだけでは条約違反とはされていない
> 公立学校における公共性を鑑みれば、性別に基づき異なった取り扱いをなすのは問題
> 共学化が必要であるとの認識は、すでに社会共通の認識に成熟している
https://www.saitama-np.co.jp/articles/43466/postDetail

個人的には別にどっちでもいいんですが、果たして、このような認識が私立学校にまで
早急に及ぶものなんですかね?でも、無償化とセットとかなら、すぐ、そうなるかも。
でも、大学を無償化するとすると(以下、略)

> 女性とノンバイナリーを対象にしたテック業界就職フェアに男性参加者が殺到した
> 女性に対し安全な空間を提供することに失敗した
https://www.elle.com/jp/culture/career/a46673009/women-tech-job-fair-controversial-2402/

女性に良い機会を提供することに失敗した、機会がはく奪されたというのは分かるのですが
安全が脅かされた訳ではないでしょう。キャリア安全性という特殊な意味なら、そう分かる
ように言うべきでしょう。因みに、自身の身を守る能力が充分でない者に護衛を付すことは
逆差別ではなく、合理的な配慮に属するはずですし、また、テック技術に長けているが男性
恐怖症を患っている女性に対して適切な就業環境を整えることも同様でしょう。女子大学に
トランスを入れるな、と主張している女性は、主に、そのような女性達のように思われます

男性限定(男子校)、女性限定(女子校)が違法ではない状況においては
「生物学上の女性を主に想定していますが、生物学上の男性も可です」も
違法ではないでしょう。自認と言う以上は、そういうことなのでしょうし

しかも、前者が違法でも後者が違法でない場合は多くあるように思います
例えば、ファッションはそうですよね

社会全体としては、統計的偏りを是正すべきというなら、奨学金や補助金
などの公的な扶助を生物学性別に基づいて傾斜すればいいでしょう

「女性専用サロンで男性器の脱毛を拒否→賠償金3万5000ドル」
https://gendai.media/articles/-/142826
> 『その人自身が女性だと思えば女性』ということになります。個人の意識としては、性自認は自由であり、誰も否定はできませんが、客観的判断が不可能な概念です。
> 「競技中は女性であるように感じる」と主張する、身体的に男性で普段の生活も男性として過ごし妻子もいる人物が、自転車レースの女子部門で1位を獲得するという事態も起きている。

性別で限定することは差別であり、営業できないのならば、こうならざるを得ないでしょう。一定の条件の下で営業可能であるという場合は、性別をその条件に沿って判断する必要があることになるでしょう。仮に社会的に差別されている方に限定するのであれば良いというような条件であった場合にはそれに基づいて判断すべきでしょう。トイレはそのような条件でないと思いますが、学校はどうでしょうね。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« ジョブ型雇用をめぐる動向をどう捉えるか@労働開発研究会 | トップページ | ダニエル・サスキンド『WORLD WITHOUT WORK』@『労働新聞』書評 »