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2021年2月11日 (木)

法学こそ価値判断まみれのはずなんだが・・・

恐らくこういうのが世間一般の印象なのではないかと思うのですが、

https://twitter.com/labourstandards/status/1359120602225803270

人文学や政治哲学に違和感を抱くのは、例えば「リベラリズム=良い」とか「でもこんな悪いところもある」とか「ナチズムは悪い」「でも我々の中にも潜んでいる」とか何故か価値判断を一々挟んでいるところ。法学にはあまりそれを感じない。

でもね、それこそいろんな学問の入門書の基礎の基礎のところをちらりとでも読めばすぐわかるように、法学、少なくともその主流である法解釈学こそが、徹頭徹尾価値判断を追求している学問であり、それゆえに法解釈学は科学ではなく、傍流の法社会学が「科学としての法律学」を訴えるということになるわけだし、その対極に位置すると考えられている政治学とか経済学とか社会学といったいわゆる社会科学というのは、それこそマックス・ウェーバー御大を引っ張り出すまでもなく、そういう価値判断をいったんカッコに入れ(価値自由)、純粋客観的にこの世の仕組みを明らかにするという触れ込みになるわけです。

ところが、本来価値判断まみれのはずの法解釈学が、その価値判断をいかにも客観的であるかのように正当化しようとあれこれ理屈をこねくりまわすので、素人の目にはほとんど複雑怪奇な論理ゲームをもてあそんでいるかのように見え、価値判断を押し付けるような議論をしていると感じさせなくなってしまうのに対比して、本来価値自由な客観的な論理を組み上げているはずの諸社会科学が、きちんと論理を追求しているとは到底思えないようなうかつな価値判断丸出しの言説をうかうかもろだししたりするものだから、そっちの方が価値判断をいちいち挟んでくるという感想をもたらすことになるのではないかと思われます。

でもね、法解釈学って、結局は「よって私はかく解する」に帰着するのであって、価値判断以外の何物でもないのです。

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コメント

法学者(の一部)が「法規範を提案する1アクター」という側面を持っているのは確かですが、一方、法学は「このような事例において、司法がどのような判断を下すか?」を予測する、といったような科学的な側面も持っていますね

法学に限らず、研究対象の挙動を上手く予測できない者を学者と言って良いのか、どうかは、気になりますが

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