ジョブ型責任とメンバーシップ型責任
いつも明快な松尾匡さんが、例によってシノドスで明快な議論を展開していますが、
http://synodos.jp/economy/10051(「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の悪いとこどり)
ここで松尾さんが例に引いているのは、イラクで拘束された3人に対する日本のバッシングと外国の賞賛ですが、松尾さんの言う「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の区別は、なぜ日本の企業で成果主義がおかしな風になるのかを理解する上でも有用でしょう。
成果主義というのはいうまでもなく成果(あるいは成果のなさ)に応じて賃金を支払うことですが、それが可能であるためには最低限、その成果(あるいは成果のなさ)が当該労働者の自己決定に基づいて生じたものである必要があり、そのためには自己決定が可能な程度にはその労働者の職務が明確であり、権限が明確であり、逆に言えば上司その他の第三者の介入によって当該成果(あるいは成果のなさ)が生じたのであれば当該第三者にその責任を追及しうる程度にはデマケがはっきりしている必要があります。
でも、それが一番、日本の企業が絶対にやりたくないことなんですね。
職務が不明確であり、権限が不明確であり、誰の責任でその成果(あるいは成果のなさ)が生じたのか、デマケが誰にもわからないようになっているそういう世界で、なぜか上からこれからは成果主義だというスローガンと発破だけが降りてきて、とにかく形だけ成果主義を一生懸命実施するわけです。
そうすると、論理必然的に、松尾さんの言う「集団のメンバーとしての責任」の過剰追求が始まってしまう。もともと職務も権限も不明確な世界では、責任追及も個人じゃなくて集団単位でやるという仕組みで何とか回していたから矛盾が生じなかったのですが、そこで個人ベースの責任を追及するということになれば、「みんなに迷惑かけやがってこの野郎」的な責任追及にならざるを得ず、「俺だけが悪いわけじゃないのに」「詰め腹を切らす」型の個人責任追及が蔓延するわけですね。
まさに、自己決定がないのに、自己決定に基づくはずの責任を、集団のメンバーとしてとらされるという、「悪いとこ取り」になるわけで、そんな糞な成果主義が一時流行してもすぐに廃れていったのは当然でもあります。
この議論、もっと発展させるとさらに面白くなりそうな気がするので、松尾さんにはこの場末のブログから励ましのお便りを出しておきます。
« それはふざけてないのだよ、全然 | トップページ | 平成25年度産業経済研究委託事業 »
トレーディングやってる者ですが、これすごく同感です。
某城○幸氏なんかは外資金融の報酬体系を全ての産業にあてはめろ!みたいに考えてそうですが、こういう成果報酬体系って、各個人の裁量範囲や権限が明確で、かつ成果の値が数字で明確に出る産業でのみ有効なのでは?と前々から思ってました。
トレーディングはこの体系がきわめてうまく当てはまりますが、大半の産業はそうではないですよね。根本的に両者は違う。組織を多少いじっても難しいと思います。
投稿: ファンマネ | 2014年7月30日 (水) 12時59分
ありがとうございます。なるほど。そのとおりですね。
励まされても労働問題は詳しくないので、ともかく出版の暁にはお説に言及させていただきます。
投稿: 松尾匡 | 2014年7月30日 (水) 15時41分