渋谷望『ミドルクラスを問いなおす-格差社会の盲点』
戦後日本の労働史から住宅問題、アメリカのノワール映画、シカゴ学派による軍事的暴力等々と、さまざまな道具立てを使った格差社会論ですが、正直な感想としては、いささか平板な左翼史観になっているのではないか、もう少し、「ミドルクラス化した労働者たち」の共同主観に踏みいった分析が必要なのではないか、というものでした。
いや、その萌芽はけっこうあちこちに書かれています。とりわけ、最後のコモンズ論は、うまく使えば前半の議論を立体化する最適の道具立てだったはずです。しかしながら、渋谷氏は、「第6章 コモンズを取り戻せ!-ミドルクラス社会からの離脱」というコンテクストでしかこれを使っていません。大変もったいない!
渋谷氏の「ミドルクラス化した労働者たち」のイメージは、ブルデューだのホガートだのといった舶来社会学に基づき、「出身階級から切り離され「ヤツラ」の側にいった者」であり、連帯を求めず孤立して出世競争にはげむ人々です。それがまったく間違っているわけではありませんが、戦後日本で進んだ労働者のミドルクラス化のイメージとしては非常にミスリーディングだと思われます。
むしろ(ここはほんとうはきちんと細かい歴史的分析がされるべきところですが)日本の労働者たちの「人格」希求、「メンバーシップ」希求をベースとして、労働運動が主導する形で「正社員」という形でのミドルクラス化が進んだという職場のミクロ社会学が必要で、その多数派の共同主観に踏みいらないで、排除された少数派組合の側から「ヤツラ」を罵っているだけでは何が起こったのかは見えてこないでしょう。
これを別の観点からいえば、本書の最後で出てくる「コモンズ」が市場経済のただ中の企業に重ね合わされたということもできます。実際、そこにおいてはまさに「能力の共同性」「能力はコモンズ(共同体)からの借り物」という実践感覚が根付き、『ゴータ綱領批判』のとおり、若いうちは能力に応じて猛烈に働き、中高年になったら必要に応じて受け取るのです。
208頁で、渋谷氏は「孤立する労働者たち」という項で、「個人のノルマや職務の厳格な遂行のみが求められ、個人間の自律的な共同やコミュニケーション-たとえば誰かがノルマを手伝ったり、私語やカンニングをするといった横断的回路は断ち切られる」と述べていますが、日本の企業で労働者に求められるのはまさに逆で、個人のノルマや職務の厳格な遂行にこだわり、個人間の自律的な共同を拒絶するような労働者が「ヤツラ」として排除の対象となるのです。
「孤立するミドルクラス労働者」は自分一人が出世するために抜け駆け的に長時間労働するのに対し、このコモンズ型ミドルクラス労働者はみんなが長時間労働しているのに一人だけ抜け駆け的に先に帰るヤツを憎むのです。
そして、それを「社畜」と罵った議論が90年代にネオリベラリズムと同調していったという特殊日本的労働の歴史を踏まえれば、ミドルクラス社会とコモンズを安直に対立させて「コモンズ万歳」で話が終わりというのは、あまりにも平板ではないか、と思うわけです。
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