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« ドイツ・フランス・イギリスの失業扶助制度 | トップページ | 安孫子誠男+水島治郎『持続可能な福祉社会へ 公共性の視座から3 労働』勁草書房 »

2010年5月22日 (土)

労働基準監督官の新規採用は100人から50人に半減?

北岡大介さんの「人事労務をめぐる日々雑感」で、国家公務員採用削減方針の関係で、労働基準監督官の採用について書かれています。

http://kitasharo.blogspot.com/2010/05/ha.html(平成23年度労働基準監督官採用数半減か?)

>やはりというべきか、労働基準監督官は「治安4職種」に該当しないようですね。とすれば、先の閣議決定のとおり、来年度の採用数は例年の100名前後から50名程度ということになりそうです。国家財政上の問題とはいえ、同専門職への新人採用が半減するということは、色々な面でマイナスが多いように思われるところです。

こういうあたりにも、政治家やマスコミの「総論主義」の弊害がよく出てます。「民間でできることは民間に」とか「地方にできることは地方に」といった総論的かけ声で投網を掛けるような議論しかできず、例外としてはせいぜい、カビの生えた夜警国家論的な「治安」関係の職種しか思い浮かばない、という弊害です。

新聞各紙を読む限り、この問題を扱う政治部の記者の中に、「労働基準監督官の採用を半減するということは、いわゆる「治安」関係とは違い、労働基準法違反は取り締まる必要は少ないんだということなんでしょうかね?」という疑問を抱く人はいないということのようであります。この点に関する限り、朝日も毎日も読売も日経も産経もほとんど変わりはないようです。

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コメント

> いわゆる「治安」関係とは違い、労働基準法違反は取り締まる必要は少ない

労働基準法第102条に「労働基準監督官は、この法律違反の罪について、刑事訴訟法 に規定する司法警察官の職務を行う。」と規定されているのにですか?

周りの人たちの話を聞くと、それ、グレーゾーンじゃない?という労働条件の改定がよくあります。景気の悪化でその数はどんどん増えて、労働基準監督官はむしろ増員して欲しいくらいだと思いますが。

新聞によると、原口総務大臣は、「減らすと安全や命にかかわるところは除外した」と述べたそうです。
「安全や命」には労働安全・産業衛生は含まれていないようですね。

近年のワークライフバランス推進の流れもあって、労働基準監督による取締りも厳しくなっていると聞いていた。しかし、労働基準監督官の採用数の半減は、ワークライフバランス推進の流れを弱めるのではないかと懸念しています。

常々、我が国の長時間労働は異常であると感じていたところ、「日本の年間実労働時間は1800時間以下であり、米国より短い」という一節を見て、おかしいのではないかと思い調べてみた。

OECD Factbook (2009)によると日本の雇用者一人あたりの年間実労働時間は1785時間であり、米国の1794時間よりも短く、韓国の2316時間より遥かに少ない(ちなみにフランスは1533時間)。これおかしい、ということでさらに調べてみると、OECDのデータは統計局の「労働力調査」を基に作られたデータであり、週に1時間でも働く者を雇用者としてカウントし、雇用者あたりの労働時間を計算したものである。これでは、実態を反映するはずがないと思い、日本の労働統計をさらに調べてみた。

「週休2日」、「有給休暇20日」としても常勤労働者の平均的な年間所定労働時間は1840時間(週休日104日、法定祝日11日、有給休暇20日、一日あたり労働時間8時間)である。これに所定外労働時間が加わわって(いわゆるサラリーマンの)年間実労働時間になる。

厚生労働省の「毎月勤労統計調査」によると一般労働者の月間の所定外労働時間は産業のいかんにかかわらず概ね10~15時間である。これも実感にそぐわないということで調べてみると、このデータは事業所が申告するデータであり、サービス残業の時間あるいは裁量労働における実労働時間を反映するものではない。

総務省統計局の「労働力調査(平成21年)」は、週労働時間の区分ごとの就業者数データ(1~14時間、15~34時間、65時間以上)が記載されている。このデータより、週35時間以上働く働く男性の週労働時間を評価すると、50.1時間である。週あたりの所定労働時間を40時間とすると、週あたりの所定外労働時間は10.1時間である。これを月間残業時間に換算するとほぼ約43時間であり、年間の所定外労働時間に換算すると516時間である。これに年間所定外労働時間の1840時間を加えると、年間の実労働時間は2356時間となる。このデータは、より実態に近いと思われる。実に韓国の労働時間をも越える世界チャンピョンの労働時間大国である。

さらなる驚きは、労働に関する所轄官庁である厚生労働省が実労働時間を把握していないという点である。裁量労働においても、各事業所に対して従業員(管理職あるいは一般職員にかかわらず)の実労働時間を把握するよう要求しているはずである。労働基準監督署も各事業所が実労働時間を記録として管理しているかをチェックしているとのことである。それなのに、厚生労働省が実労働時間の実態に関するデータを把握していないとは?本来生活者の利益を擁護すべき厚生労働省が、事業者の側に立って労働者をなだめ、「ものごとを丸く治めてきた」のではないかと勘ぐりたくなる。

ワークライフバランスの推進にあたって、事業所ごとに実労働時間の記録管理を義務化ずけ必要に応じて査察すること、また実労働時間の統計データを整備することは必要最低限の要求である。超過労働に対していくら支払うかは、事業主と従業員間のとりきめに任せるとしても、実労働時間の上限は制限すべきであろう。

前回のコメント(by hiro)において、「日本人の年間労働時間が1800時間以下になった」というOECDのデータは実態とかけ離れているのではないかと疑問を呈した。
筆者は年間労働時間が2356時間と推計したが、これを裏づけるような資料を見つけた。経済産業研究所RIETI Policy Discussion Paper Seriesによる「日本人の労働時間-時短政策導入前とその20年後の比較を中心に-」(2010年1月)という論文である。
詳細は論文によるとして、以下にポイントを要約する。
 タイムユーザーズサーベイという手法を使って評価したフルタイムの日本人の男性労働者の週(平均)労働時間(2006年)は53.32時間である。
 時短導入前の1986年と導入20年後の日本人の週労働時間に統計的な有意差はない。フルタイム雇用者の週労働時間は1986年において50.09時間であり、2006において50.12時間である。
 週休2日制の普及により、土日の労働時間は低下したが、平日の労働時間が趨勢的に上昇している。
 同一の手法で日米の労働時間を比較したところ、フルタイムの米国人の男性労働者の週労働時間は42.92時間(2003年)である。米国と比べると日本の労働時間は週あたり約10時間多い。
前回コメントで筆者は、週あたりの所定外労働時間(男性常勤労働者)は10.1時間と推計したが、週あたり所定労働時間を40時間とすると、この論文の調査結果とほぼ一致する。
従って、この論文も日本人の年間実労働時間はOECDのデータと実態が全くかけ離れていることを示している。
一方、この論文で推計した米国のデータはOECDのデータにほぼ沿ったものである。米国人の労働時間は所定労働時間(週40時間)を大幅に超えるものではなく、「米国では労働時間規制がなく、日本人の労働時間とさほど違わない」という一般的な言説を否定することになる。
また、この論文で示唆された「時短導入前の1986年と導入20年後の日本人の週あたり労働時間は統計的に有意差がない。」という事実は筆者の想定外であった。
「OECDのデータは各国政府が報告する労働統計に基づくものであり、国ごとに統計の取り方が異なるため、労働統計データと実態の食い違いもやむを得ない」という考え方もあるだろう。しかし、論文の推計によると米国の場合OECDのデータと実態はほぼ一致する。また、ヨーロッパの場合もOECDデータと実態は一致すると思われる。OECDデータにおいて、韓国の年間労働時間は2316時間(2009年)と断トツであるが、日本との類型から推測するとほぼ実態に沿ったものであると思われる。日本だけが、OECDに報告するデータと実態が大幅に異なっているということになる。
何らかの意図をもって実態とかけ離れたデータをOECDに報告しているのではないかと疑いたくなる。日本国民は「時短で労働時間が大幅に短縮され、先進諸国並みになった」のだと信じてきた。疑問を感じざるを得ない。

前回および前々回のコメント(by hiro)において、日本人の労働時間に関する3つの統計データについて論じた。OECDのデータ、厚生労働省の「毎月勤労統計調査」、および総務省統計局の「労働力調査」である。

「毎月勤労統計調査」によると、一般労働者の月間の所定外労働時間は産業のいかんにかかわらず概ね10~15時間である。「週休2日」、「有給休暇20日」とする場合、一般労働者の平均的な年間所定労働時間は1840時間である。従って、「毎月勤労統計調査」による年間労働時間は1960時間から2020時間ということになる。

連合による「年間総実労働時間1800時間の実現に向けた時短方針」というレポートの中で、労働時間の現状を次のように述べている。「・・・連合が組織を上げて取り組んだ時短闘争の結果・・・1999年には最も短い1949時間となった。しかし、その後総実労働時間は徐々に増加し、・・・結果として総実労働時間は2019時間(2005年)となった。」

「毎月勤労統計調査」と連合のデータは一致するのである。しかし、前々回のコメントで指摘したように、「労働力調査」から推計した年間実労働時間は2356時間であり、月間の所定外労働時間に換算すると約43時間である。一方、連合のレポートによる年間実労働時間は2019時間(2005年)である。これを、月間の残業時間に換算すると約15時間であり、残業時間は28時間も過小に評価されていることになる。この28時間がサービス残業時間(月間)ということになる。

サービス残業の問題として、次の2点を指摘する。
 連合はサービス残業の実態を看過している。
 厚生労働省と連合のデータは見事に一致している。

労働組合が残業時間の上限を決め、残業申請が上限を超える場合、煩雑な事務処理を要求することで、残業規制をするというのはよくあるケースである。また、予算の都合により残業枠を設け、上限を超えて残業申請をさせないという事業所もある。いずれの場合においても、労働者は残業枠内で業務を完遂させることができず、残業申請をしないでサービス残業をすることになる。

この場合、労働者は内規に反してサービス残業をしているのであり、企業あるいは労働組合は「合法的」に振る舞いながら、サービス残業を看過していることになる。また、見なし労働制の場合、労使協定で見なし労働時間を決め、これを超える労働を「合法的」にサービス残業とする制度である。労働者は自主的にサービス残業をしているのであり、統計データに反映させる必要はないということであろう。

業務の負担を過小に評価して、残業時間の上限あるいは見なし労働時間を制限しているとすれば、労使協定に問題がある。労働時間あるいは残業代は労使の利害が対立するところであり、労働組合は労働者の代表として経営者と交渉しなければならない。ところが、実際の残業時間(月間)が43時間もあるのに労使協定で15時間しか認めないとすれば、労働組合は誰の利益を代弁しているのかということになる。もし、労働者の健康を図って残業時間を制限しているというのであれば、業務の負担軽減を経営者側に働きかけて然るべきである。それとも、労使協調を謳いつつサービス残業には目をつぶろうということか?企業が存亡の危機にあり、サービス残業もいとわないということはあるだろう。しかし、30年以上にもわたって30時間近くのサービス残業がある(注1)というのは異常というほかない。

厚生労働省は(30時間近くの)サービス残業の実態を把握しながら、放置してきたのではないのか?労使協調を唱えながら、実態を隠蔽してきたのではないのか?前回もコメントしたが、OECD加盟国の中でOECDに報告しているデータと実態が日本ほど乖離している国はないのである。

(注1)「サービス残業の急増とその背景」東レ経営研究所、2009.10.30

前回のコメントで、「毎月勤労統計調査」あるいは「連合の調査」には労働時間の実態が現れず、実際にはサービス残業(月間)が30時間にも達することを指摘した。しかも、このような2重帳簿が30年以上にもわたって続けられてきたことを述べた。

厚生労働省および連合は「サービス残業撲滅」を謳っている。しかしサービス残業は縮小するどころか、むしろ増加しているという。しかも、(労働組合が組織されているはずの)大企業において増加が著しいとのことである。実際、いくつもの大手企業において労働紛争が発生し、労働基準監督署から是正指導されている。労働行政および労働組合の在り方が問われているのである。

日本型の労使関係は、「終身雇用」、「年功序列」、「企業別労働組合」で特徴付けられる。これらの雇用慣行は戦後の経済復興の過程で生まれ、経済復興の大きな原動力となった。戦後の労使関係は、闘争的な労使対立の時代を経て、協調的な労使関係が形成された。協調的な労使関係においては「企業別労働組合」がその中核をなす。「企業別労働組合」は、労働者を生産性運動に巻き込みながら、経営者に協力するということで企業の成長に寄与した。この時期、企業の成長が労働者の賃金に反映されるというウィンウィンの労使関係が構築された。政府は、過激な労働運動を抑制するという点からも、また経済復興を加速させるという点からも、日本型の労使関係をサポートしてきた。

日本経済は高度成長を成し遂げ、1980年代において繁栄の極みにあった。この時代、日本型の経営がもてはやされ、日本型の労使関係は成功モデルとして喧伝された。しかし、労働者が私生活を犠牲にしてでも企業につくすという「企業中心主義」に懐疑の目が向けられたのもこの時期である。

1990年代初頭バブルが崩壊して以降、日本経済は長期の不況に突入し、未だ長期不況から脱していない。経済停滞が続く中で、経済界から日本的なシステムを見直そうという動きがでてきた。1993年に発表された「平岩レポート」は規制改革の必要性が説き、福祉や労働も聖域ではないとした。1997年に日経連より発表された「ブルーバードプラン」は人件費の削減を訴え、「成果主義賃金」への移行を唱えた。1999年、大手電機メーカーグループがリストラにより1万数千人を削減すると、日本の代表的な大手企業において、リストラを断行する動きが相次いだ。さらに、バッファとしての非正規雇用が急増し、正規/非正規雇用の格差が問題になっている。

長引く不況の中で、人件費削減の圧力は強く、「終身雇用」や「年功序列」はもはや崩壊しつつある。経済のグローバル化が進み、世界的な競争が厳しくなる中で日本型の労使関係を維持することは難しく、労働組合の在り方においても変革が求められている。

日本の「企業別労働組合」は、企業の利益と独立して存在することはできず、労働条件の交渉において結局は経営側の圧力に屈することになる。そもそも、同一企業内の経営側(元労組代表)と労働側(現労組代表)の話し合いによる不透明な交渉プロセスに多くは期待できないだろう。

筆者は、現在の「企業別労働組合」を集権化した「産業別労働組合」と分権化した「労働者委員会」の並存が望ましいのではないかと思う。最長労働時間や時間外労働の割増し率あるいは最低賃金など、最低基準としての労働条件は産業別協約で決めればよい。一方、見なし労働時間や残業規制などの労働条件はグループごとの「労働者代表委員会」が交渉すればよいだろう。

「産業別労働組合」を設けることにより、正規/非正規雇用者あるいは組合を持っていない労働者をカバーする。また、多様な働き方あるいは転職を容易にする外部労働市場への道をつけるだろう。一方、「労働者代表委員会」を認めることにより、個別グループごとに労働条件を改善することができ、柔軟な雇用を可能にするだろう。

韓国は日本と同様「企業別労働組合」を労働者代表システムとする数少ない国である。韓国において「産業別労働組合」を指向する動きがある(注1)ことは注目すべきである。

(注1) 崔碩桓、「韓国における労働組合従業員代表制度の新展開」

これまでのコメントで、労働時間統計にサービス残業の実態が反映されていないことを指摘し、労働行政および労働組合の在り方について疑問を呈した。

長引く不況の中で、長時間労働の問題、正規/非正規雇用の格差の問題、雇用維持の問題に対して何ら有効な対策が打ち出されないまま、問題は深刻化している。1990年代以降、規制緩和策が相次いで打ち出され、労働時間規定、労働者派遣法、職業安定法が制定された(注1)。

経営の効率化を求める経済界の要求や多様な働き方を求める個人志向に対応して、規制緩和が進めてきたが、サービス残業、不正規雇用、リストラなど、労働環境は悪化している。今や、非正規雇用者の数は全体の3割近くを占め、彼らの生涯賃金は正規雇用者の賃金の4割にも満たないといわれている。

経済環境が変化し働き方も多様化する中で、規制緩和も必要であるだろう。しかし、経営側からの人件費削減の圧力に対して、労働政策は一方的に労働条件の悪化を容認してきた。これまでのコメントで明らかにしたように、サービス残業を放置し、その実態を隠蔽する労働政策に「社会的公正」が欠如しているといわざるを得ない。また、正規/非正規雇用の格差の問題にしても、そこに覗われるのは「社会的公正」の欠如である。

およそ、政策決定における公正で透明なプロセスは民主主義の根源である。山口二郎は「グローバリゼーション時代におけるガバナンスの変容に関する比較研究」の中で日本における裁量的政策の弊害を指摘している。労働政策が縦割り行政の所管のもと、閉鎖的な集団の代表によって立案され、そのプロセスが透明性に欠ける場合、「社会的公正」が欠落する恐れがある。労働者が推し量ることができない政治的なプロセスで決められた政策を押し付けられても受け入れ難いのである。

日本の労働政策の作成は、政府が議題を労働政策審議会に諮問し、審議会からの答申をもとに原案を提案する。労働政策審議会はいわゆる公労使の三者構成によるが、労使二者間の合意を基本とし、公の調整により合意を導く。

労働政策審議会の労働者代表委員は、連合あるいは産別連合からの委員に国の機関である中労委の委員を加えたメンバーである。連合は企業別労働組合のナショナルセンターであり、産別連合は連合の下部組織であるから、連合の代表が労働者の代表ということになる。ここで問われるのは、労働者代表の正統性であり、策審議会のプロセスの透明性である。

労働組合の組織率は18%程度と低迷し、労働組合は非正規雇用者あるいは多くの中小企業の労働者をカバーしていないという点で、労働者代表委員としての正統性が問われる。また、御用組合と化している企業別労働組合も多く、労働組合が経営から独立していなという点で、プロセスの透明性が問われる。

これまでの労働政策は、労働時間の問題、雇用の問題、非正規雇用の問題に対して有効な法案を出すことができず、労働政策立案のプロセスに対して各界から疑念の声が上がっている(注2)。筆者は、労働政策立案のプロセスがILOが要求する三者構成原則に形式的には則っているにしろ、民主主義の原理を満たしていないという点に問題があると考える。

労働法に関連して「EU指令」という言葉をよく耳にする。「EU指令」は直接的にはEU加盟国の法律として効力があるわけではないが、加盟国は決められた期限内に立法化することが義務づけられている。この意味で、「EU指令」は法的な拘束力を持つ。加盟国ごとの体制の違い、あるいは団体ごとの利害の違いを乗り越えて、「EU指令」がどのようなプロセスで、あるいは誰が加わわって決めるのか興味のあるところである。

テーマごとに作業グループが編成され、関連するステークホルダー(利害代表者)の議論により最終報告が作成される。ステークホルダーとして、労働者団体、商業ネットワーク、経営者団体、市民団体が連ね、これにオブザーバー(EU諸機関、OECD、ILOなど)が議論に加わる。ここでの議論は、EU各国が共有できる普遍的でトランスナショナルなレベルであり、議論の透明性が要求されることはいうまでもないだろう。

我が国の労働政策立案のプロセスにおいても、マルチステークホルダーが共通の目的を持ち、普遍的なレベルで議論をするべきである。労働者の代表も経営から分断された、全国的な組織から選ばれるべきである。現在、労働者代表制が議論されているが、企業別組合の傘下に非正規労働者の代表を組み入れようというものである。この場合、非正規労働者の声は企業ごとに分断される恐れがある。非正規労働者の代表も全国的な組織から選ばれるべきである。、

多様な利害が複雑に交錯する現在、労働政策も労使の代表だけで議論はできないだろう。社会福祉、セーフティネットワーク、生活と労働のバランス、職業教育等、様々な分野からの多面的な議論がなされるべきである。EUのマルチステークホルダーによる政策立案のプロセスは参考になるだろう(注3)。

(注1)「過去10年間における労働法の規制緩和」、国立国会図書館調査及び立法考査局
(注2)「政労使三者構成の政策検討に係る制度・慣行に関する調査」、JILPT資料シリーズ
(注3)「社会的責任の取組促進に向けた欧州連合の取組について-欧州マルチステークホルダー・フォーラムの概要-」

第13次国民生活審議会(1991年)基本政策委員会中間報告は「企業中心社会」の変革を訴えた。この中で企業中心社会の弊害を次のように言及している。

「以上述べたような日本企業の特徴と成果は、しかし一方では企業中心社会を形成し、様々な弊害を生みだした。企業中心社会を形成した責任は、企業、個人だけではなく、政府を含め、社会の構成者すべてが経済効率優先をめざしたことにあることを忘れてはならない。企業中心社会の弊害、問題点は多岐にわたっている。すなわち、企業をはじめとする組織の論理が個人生活を覆い過ぎている、あるいは個人生活と一体化し過ぎていることに起因する弊害、企業が社会的存在としての認識に欠けた行動をとる場合の問題点、制度等に歪みがあるために、個人生活あるいは社会的な観点から不合理な結果を招く場合などである。」

企業中心社会においては、企業を中心として個人の生活空間が形成され、「終身雇用」、「年功序列」、「企業内組合」で特徴付けられる日本型の労使関係と連携している。「男性は企業に帰属して勤労し、女性は家事および育児にあたる」が日本人の生活パターンの原型であり、今でもその骨格をなす。「毎日、朝7:30に家を出て、帰宅は夜の10:00以降になる」という日本ではあたりまえの生活パターンは欧米ではありえない。個人は「終身雇用」および「年功序列」という身分保障と引き換えに企業に滅私奉公する。

企業中心社会では、企業ごとに閉じた社会を形成し、経営に対する外部からの介入は排除される。(グローバル化により変化しているが)日本企業における株式の持ち合いは、外部からの経営の介入を防ぐ仕組みである。日本企業は「株主至上主義」であるという言説もあるが、株主はむしろ疎外されている。楽天がTBSの株式を保有して経営権の取得を宣言した時、労使は揃って三木谷を排除し、世論はこぞってTBSの経営陣に味方した。かつてのシャンシャン総会は「もの言わぬ株主」の象徴であり、経営者天国である。

グローバルスタンダードでは、企業のステークホルダーは「株主」、「従業員」、「地域社会」である。経営者は企業運営の執行役であり、ステークホルダーは経営を監査する権限を持つ。コーポレートガバナンスは外部から経営を監査して、ステークホルダーの権利を擁護する。外部からの経営の介入を排除する日本企業は「経営者至上主義」である。

日本の労働組合は、企業内に閉じた組合であり、「経営者至上主義」に取り込まれてきた。労働組合は労使協調による生産性向上を唱導し、労働者の地位を向上するという装いとは裏腹に、労働者の権利抑圧に加担してきた。週あたりの労働時間が平均で50時間以上にも達し、サービス残業を当たり前とする実態をもって、労働者の生活権は抑圧されていると言えるだろう。

「QCサークルに時間外で参加しても、残業代が支払われない」ということで訴訟が起こされたが、企業内の同じ組合が片方で労働条件の改善を団体交渉事項としながら、もう片方で生産性向上を唱導しつつ労働条件の抑圧に加担するという綻びは繕いようがない。

日本の労使協調を欧州のコーポラティズムに擬える言説もある。しかし、欧州のコーポラティズムは労働時間の短縮、雇用の拡大、ワークシェアリングなど、労働条件の向上をもたらした。欧州のコーポラティズムでは集権的な産業別労働組合が「労働者の地位向上」のために経営団体に協力したが、日本の企業別労働組合は、「生産性向上が先ずありき」で経営者に協力した。日本では、生産性が向上すればその成果として労働者の地位向上があると考えられている。

経済のグローバル化や欧州統合の進展で国際競争が激しくなる中で、ネオリベラルな攻勢もあって、1980年代以降、欧州のコーポラティズムも変質していった。経済環境の変化や働き方の多様化が進む中で、雇用問題が顕在化し、社会民主的な福祉国家の枠組みの中で画一的な労働条件を交渉するコーポラティズムでは対応しきれなくなった。

欧州の国レベルでの社会民主的なコーポラティズムはEU(統合欧州)レベルでの社会的協調へと変質していった。経済環境の変化に対応して、持続的な経済成長、完全雇用、社会的結束の強化を目指すものである(注1)。EUレベルにおける労働政策は、労働者の基本的権利を定めた「社会憲章」を反映して立案され、具体的には労使協議指令、集団整理解雇指令、労働時間指令、有期労働指令、雇用均等指令等を含む政策が立案された。

労使団体は「社会的対話」(ソーシャルダイアローグ)を通してEUにおける社会・労働政策の立案に関わってきた。しかし、NGOなど市民団体も政策立案プロセスへの参加を要求し、議題に応じて関連するステークホルダーが協議に参加する「市民対話」(シビルダイアローグ)がEUにおける社会的協調を担うようになった。

EUレベルの社会的協調が労働者の基本的権利を擁護しようとするのに対して、労使協議会は事業所あるいは企業ごとに労働者の権利を擁護する。EU労使協議指令は、事業所あるいは企業ごとに労使協議会の設置を課し、使用者は雇用に関わる経営事項あるいは企業の経済状況に関する情報を提供し、労働者と「合意を目的」として協議することを課している。労使協議会(企業別)は労働組合(産業別)と別に設けられるが、労使協議会は労働組合との連携のもと行動している。

EUの(企業別)労使協議会は労使協調的な役割は持たず、日本の労使協議が生産性向上を目的とするのとは異なる。EUにおける労働者の経営参加は、労働者の権利が侵害されていないか監査することにあり、日本の労働組合が要求する経営参加とは異なる(日本では経営の執行と監査の峻別があいまいである)。また、EUにおける労使協調は頂上団体による労使の合意が個別の労働組合あるいは個別の労働者に適用されるという点で、日本における企業レベルの労使協調とは異なる。企業毎の労使交渉では、労働者の権利を要求する声は企業毎に分断されるのだ。

日本型経営の特徴といわれる、終身雇用、年功序列、企業別労働組合、労働者年金保険、間接金融、株式配当の抑制などの慣行は、1940年代における戦時下の国家総動員体制にその源流を見てとれる(注2)。戦時下、労使の懇談と福利厚生を目的として産業報国会が組織された。産業報国会は労使関係を安定させ生産力の増強を目指すための官製の労働組合であり、企業毎に組織された。戦後、労働組合法が成立し産業報国会は解散されたが、安定した労使関係の構築および産業復興を目指す政府の目論見とも一致して、産業報国会は産業別労働組合へと引き継がれた。戦後のGHQによる統治下にあって内務省以外の官僚はそのまま残り、日本の経済政策は、外見は変わったとはいえ中身は戦後に引き継がれたのである。戦時下の「生産優先主義」は戦後の「生産性向上」へと引き継がれた。

以上、欧州および日本における労働法制の成り立ちを概観した。労使協調、政労使三者合意や労使協議会など、日本の労働法制をEUの労働法制に擬える言説がある。しかし、日本における長時間労働の実態を目の当たりにして、EUにおける実態とのあまりの違いに驚かざるを得ない。この違いがどこからくるのか、見据えていかなければならない。

長引く不況の中、雇用の面からも日本型経営は持続しきれなくなっている。この閉塞から脱却するために、日本型の労使関係についても抜本的に見直すべきである。EUの社会・労働政策がそのまま日本に当てはまるはずもないが、労働法制の形式だけを比較するのではなく、その背景にある思想の違いに目を向けなければならない。

(注1)「欧州統合の社会的側面」、駐日欧州連合代表部
(注2)野口悠紀雄、「新版 1940年体制~さらば戦時経済~」、東洋経済新報社

エクアドルで警官に対する手当て削減→暴動
がおきたようですね。
日本での治安関係職に対するあからさまな人件費削減が行われるのはまだ先のようですが
果たしてどうなることやら
(スコットランドでも近い将来、警察関係の人件費削減が行われるとのことです)

http://diamond.jp/articles/-/15555

郵政民営化で削減したら

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