「コミュニケーション能力」論の罪
さて、先日ご案内した岩波書店の「自由への問い」シリーズの第6巻『労働』ですが、冒頭の佐藤俊樹・広田照幸対談が大変面白いので、是非お読みになることをお勧めいたします。
ここでは、そのうち、「コミュニケーション能力」論の罪と題する一節から、
>佐藤 この空白恐怖は、貴戸さんが描き出した、働くこととコミュニケーションスキルや社交性がなぜこれほどきつく結びつけられてしまうのか、という現在の問題につながってきます。もし働くことが特定の職務に強く結びついていれば、「ここでちゃんと働いているのだから、あとは関係ないでしょう」といえる。働く内容も「今はここまで」みたいに分割できる。それに対して日本型のメンバーシップでは、働くことと具体的な内容が直接結びついていない。だから、周囲の人とうまくやるとか円滑にこなすと行ったことが、まっとうな働き方の大事な要素とされてしまう。それぞれの仕事で本当に必要とされる以上に、過剰にコミュニケーションの良さが要求される。
広田 確かに、今の流れは個人の中にコミュニケーション能力とか社交性とかを読み込み、そこから組織や社会への適応を見ていくというものですね。これは当人たちが求めるよりも先に、制度や市場の側から要請されていることだと思います。今のように市場中心の議論になればなるほど、ある種の「働ける能力」をあらかじめ個人ベースでつけておけ、社交性もきちんと身につけておけ、と。
佐藤 まさにそれが、この十数年間で日本が市場社会へ強引に転換を図った結果、起きたことの一つですね。貴戸さんも三井さんも書いていることですが、コミュニケーションは主体の間で成立する出来事です。だから、そもそも個体化できない。かつての日本型の社会でも、そのことはかなり自明に理解されていた。
ところが、最近は「コミュニケーション能力」という言葉が盛んに言われます。コミュニケーションは本来、特定の誰かに個体化できないからこそコミュニケーションなのですが、それをあたかも個体の性能として特定できるかのように語る。コミュニケーション能力というのはそういう言葉です。
その言葉に乗って、あたかもそういう能力が実在し、それで人が選別できるかのような話まで出てきた。実在しない点では幽霊や亡霊みたいなものですが、実在しないからこそ、いったん「ある」ことになれば、みんながその影におびえたり、身につける努力をしなければならなくなる。そういう意味で、「コミュニケーション能力」や「ハイパー・メリトクラシー」の議論は、根本的に誤っていたと今は思っています。ないものはないとして、扱うべきだった。
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>佐藤 コミュニケーション能力という、職務よりももっと扱いにくくて限定できないものを空想し、それを基準に使って、ワークの位置づけを正社員からギルドへ、強引に切り替えようとした。でもそんなやり方で放り出される方はたまったものじゃない。ギルドにすること自体は、一つのやり方ですが、その時には、職務という形できちんと限定をかけてやらないといけない。
広田 よけいなものは測らない、と。
佐藤 よけいなものは測らない。それがとても重要な点です。ところが現実には、コミュニケーション能力みたいな、測れもしないものを選抜基準にしてギルドにするという、という方向に突っ走った。これは、社会学にとっても、この十数年でやった手痛い失敗の一つです。
広田 どういうことですか。
佐藤 社会学もコミュニケーション能力をめぐる変な幻想を作った共犯ではあるよな、と。
かつての集団主義的カルチャーの中でのメンバーシップ型雇用は、決して初めから完成したコミュニケーション能力なんてものを要求したりはしなかったですね。昔の新入社員なんかろくに口の利き方もしらねえのか、と上司や先輩からぶん殴られながら会社のコードを学んでいったので、そういう意味では今日の「コミュニケーション能力」要求というのは、ジョブが確立しないまま、メンバーシップ雇用が煮詰まってしまい集団で「うまくやる」すべが個人の所与の能力に押しつけられてしまった姿なのかも知れません。
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エイプリルフールの嘘エントリなんですが、
あまりの洒落にならなさに、だまされてしまった人がちらほらと
http://wofwof.blog60.fc2.com/blog-entry-478.html
都内大手私大のN大学に勤務する友人から聞いた話なのだが、
N大では2012年度から新たに
「ホワイト・カラー学部」を新設する予定だそうだ。
近年、企業が新卒採用で求める条件が曖昧化しており、
同大就職課と教員がニーズを再検討したところ、
これからのホワイト・カラーに求められるのは、
工学や理学、社会科学など個別の専門能力ではなく、
コミュ力、行動力、熱意、といったソフト面であるという結論に至ったという。
そこで大学界の守旧勢力の反対を押し切って、
思い切ってそうした能力の育成に特化する
ホワイト・カラー学部を新設し、
・コミュ力学科 (Dept. of Communication Physics)
・行動力学科 (Dept. of Behavioral Physics)
・熱意学科 (Dept. of Passion)
の3つの学科を設置して各100名程度(詳細未定)
募集することがほぼ決まったそうだ。
投稿: 匿名希望 | 2011年4月 4日 (月) 08時43分
僕がクビになった日
http://portal.nifty.com/kiji/120223153756_1.htm
現代日本の心理・風景の一スケッチ
「3ヶ月のトライアル雇用ということだったんだけど、まあ、2ヶ月…、これまでの君の働きを見てきて、継続して雇うのは難しいという結論になりました。社会人に最低限必要なものとしてあいさつとコミュニケーションがあると思います。それらが君には足りない…」
色々な要素があるのでどこにつけてもよかったのですが、上記の一文があったのでここに
プロフィールの「1986年埼玉生まれ、埼玉育ち。大学ではコミュニケーション論を学ぶ。しかし社会に出るためのコミュニケーション力は養えず悲しむ。」
から大学教育の職業レリバンスのエントリにつけても
(本来の仕事より看板作りに熱を入れてしまったのも含め)
この方は偶々家族があったため
湯浅誠的”すべり台社会”の中で当座はなんとかなりそうという意味では
「住宅政策のどこが問題か」エントリにつけても
この人は
SNSにおけるプレゼンスやライター業務も
失職したことに対する陰性感情をある程度打消し、多少救いになっているようですね。
ベーシックインカム推進派は
こういったものを重視(過大視)しているのかもしれませんが
しかしこれが約200ものはてなブックマークがつけられたのは
それだけ多くの人の胸を打ったということで
現代日本における労働と自尊心(尊厳)の関係を活写
しているのかなと思いました。
投稿: ごち | 2012年2月24日 (金) 11時00分