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« 赤木智弘氏の新著 | トップページ | 労働法案の修正協議 »

2007年10月31日 (水)

赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ

昨日の続きです。

赤木さんは第3章「丸山真男をひっぱたきたいができるまで」で、ご自分の思想遍歴を語っているのですが、これがまさに昨日の話とつながります。

彼は、自分が「いわゆる左派」だったというのですが、その「左派」ってのは何かって言うと、最初に出てくるのが、オウム真理教バッシングに対する批判なんですね。

それが左派かよ!そういうのはプチブル急進主義って言うんだぜ!

と、昔風の左翼オヤジはいうでしょう。

オウムだの幸福の科学だの、そういう大衆をだまくらかすアヘン売人どもに同情している暇があったら、その被害者のことを考えろ!

と、ゴリゴリ左翼はいうでしょう。

でも赤木さんにとっては、そういうリベリベな思想こそが「左派」だったんですね。このボタンの掛け違いが、この本の最後までずっと尾を引いていきます。

彼が、「このような左派的なものに自分の主張をすりあわせてきました」という、その「左派的なもの」というリストがp131にあります。曰く、

>平和を尊び、憲法9条を大切にする。

>人権を守る大使から、イラクの拉致被害者に対する自己責任論を徹底的に否定する。

>政府の有り様を批判し、労働者の立場を尊重する。

>男女はもちろん平等であり、世代や収入差によって差別されてはならない。

ここにはいかにもリベサヨ的なものから、一見ソーシャルなものまで並んでいますが、実は、その一見ソーシャルなものは赤木さんにとって切実なものではなかったことがそのすぐあとのところで暴露されています。

>男性と女性が平等になり、海外での活動を自己責任と揶揄されることもなくなり、世界も平和で、戦争の心配が全くなくなる。

>で、その時に、自分はどうなるのか?

>これまで通りに何も変わらぬ儘、フリーターとして親元で暮らしながら、惨めに死ぬしかないのか?

をいをい、「労働者の立場を尊重する」ってのは、どこか遠くの「労働者」さんという人のことで、自分のことじゃなかったのかよ、低賃金で過酷な労働条件の中で不安定な雇傭を強いられている自分のことじゃなかったのかよ、とんでもないリベサヨの坊ちゃんだね、と、ゴリゴリ左翼の人は言うでしょう。

>ニュースなどから「他人」を記述した記事ばかりを読みあさり、そこに左派的な言論をくっつけて満足する。生活に余裕のある人なら、これでもいいでしょう。しかし、私自身が「お金」の必要を身に沁みて判っていながら、自分自身にお金を回すような言論になっていない。自分の言論によって自分が幸せにならない。このことは、私が私自身の抱える問題から、ずーっと目を逸らしてきたことに等しい。

よくぞ気がついたな、若いの。生粋のプロレタリアがプチブルの真似事をしたってしょうがねえんだよ、俺たち貧乏人にカネをよこせ、まともな仕事をよこせ、と、あんたは言うべきだったんだ、と、オールド左翼オヤジは言うでしょう。

もちろん、半世紀前の左翼オヤジの論理がそのまま現代に通用するわけではありませんが、リベサヨに目眩ましされていた赤木さんにとっては、これは「ソーシャルへの回心」とでも言うべき出来事であったと言えます。

問題は、赤木さんの辞書に「ザ・ソーシャル」という言葉がないこと。そのため、「左派」という概念がずるずると彼の思考の足を引っ張り続けるのです。

彼の主張は、思われている以上にまっとうです。「俺たち貧乏人にカネをよこせ、まともな仕事をよこせ」と言ってるわけですから。そして、戦争になればその可能性が高まるというのも、日中戦争期の日本の労働者たちの経験からしてまさに正しい。それこそ正しい意味での「ソーシャリズム」でしょう。

ところが、「左派」という歪んだ認識枠組みが、自分のまっとうな主張をまっとうな主張であると認識することを妨げてしまっているようで、わざとねじけた主張であるかのような偽悪的な演技をする方向に突き進んでしまいます。

自分が捨てたリベサヨ的なものと自分を救うはずのソーシャルなものをごっちゃにして、富裕層がどんな儲けても構わないから、安定労働者層を引きずり下ろしたいと口走るわけです。安定労働者層を地獄に引きずり下ろしたからといって、ネオリベ博士が赤木君を引き上げてくれるわけではないのですがね。

赤木さんはあとがきで、こう言います。

>ええ、わかっていますよ。自分が無茶なことを言っているのは。

>「カネくれ!」「仕事くれ!」ばっかりでいったい何なのかと。

それは全然無茶ではないのです。

そこがプチブル的リベサヨ「左派」のなごりなんでしょうね。「他人」のことを論じるのは無茶じゃないけど、自分の窮状を語るのは無茶だと無意識のうちに思っている。

逆なのです。

「カネくれ!」「仕事くれ!」こそが、もっともまっとうなソーシャルの原点なのです。

それをもっと正々堂々と主張すべきなのですよ。

無茶なのは、いやもっとはっきり言えば、卑しいのは、自分がもっといい目を見たいというなんら恥じることのない欲望を妙に恥じて、その埋め合わせに、安定労働者層を引きずりおろして自分と同じ様な不幸を味わわせたいなどと口走るところなのです。そういうことを言えば言うほど、「カネくれ!」「仕事くれ!」という正しい主張が伝わらなくなるのです。

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コメント

>自分がもっといい目を見たいというなんら恥じることのない欲望

>安定労働者層を引きずりおろして自分と同じ様な不幸を味わわせたいなどと口走る
>そういうことを言えば言うほど、「カネくれ!」「仕事くれ!」という正しい主張が伝わらなくなる

賛成なのですが、それはソーシャルなのでしょうか?プチブル的、リベリベ的だと私は思うのですが…

リベサヨ氏、曰く…。

> 周知のように、ネオリベ的なアメリカを含め、どんな国でも、公共事業を行なうことで、政府が民間企業に発注して市場での影響力を発揮し、経済をウマク回そうとします。財政政策と言います。先進各国で最も重要な公共事業が軍需産業です。でも日本はこれが禁じられています。公共事業の大部分を非軍需的に行う必要から、土建屋化しやすいのです。
> その意味で、先進国間でコンクリートをぶち込む分量を横並びに比較するやり方は公平ではありません。日本が脱土木化してハイテク・ミリタリーで公共事業を回せるようにするには憲法改正が必要です。
■来るべき保守のかたち
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=571

それは違います。

夫馬さんもソーシャルとリベラルがごちゃごちゃになっているようですね。

いささか語弊はありますが、差別を問題にするのがリベラル、格差を問題をするのがソーシャルといえば分かりますか。

赤木さんはリベラルじゃ自分が救われないと気づいたので、実はソーシャルにシフトしたにもかかわらず、それを脱「サヨク」と自己認識してしまったのですよ。

そこに、反戦平和という特殊日本的サヨク思想が絡まるから話がますますややこしくなる。

ごりごりのソーシャル左翼にとっては、戦争は社会主義への最短コースですから本来大変歓迎なのです。

その意味でも、赤木さんが「希望は戦争」というのはソーシャルの王道なのですよ。

ところが、戦後日本的反戦平和いのちのリベサヨさんにとっては、「希望は戦争」というソーシャルな発言が一番けしからんという倒錯した反応になってしまうんですね。これも、話をこんがらからせる一つの要因です。

宮台氏はもはやいかなる意味でもリベサヨさんではありませんね。
彼の思想動向は、それ自体として興味深いものです。同世代者としても。

大雑把には差別を問題視するのがリベラル(自由)、格差を問題視するのがソーシャル(平等)

それはいいのですが、赤木さん自身の論調とは別個の話として、私が賛成したところは、どちらとも直結しないように思います。というより、その部分はもはやイデオロギーではないので。

>いかなる意味でもリベサヨさんではありませんね。
内藤さんが代表だと思えばいいのかなあ。もしもそうだとすれば私はあまり興味がないですね。

はてブで、

>ゴリサヨは戦争歓迎というけど、その戦略が失敗したのが旧共産圏でしょうが。日本で混同されがちなソーシャルとリベラルを腑分けするのはいいけど、対立が必然みたいに言うと違和感がある。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html

というコメントをいただいています。
いや、私は別に宇宙猿人ゴリサヨではないし、ましてや日本共産化計画の陰謀をタクラマカン砂漠でもないので、「でしょうが」といわれても、「そうですねえ」というだけなんですが。

ただ、戦争が激化して戦地に送り込まれたり、爆撃を受けたりしない限り、リベラルな体制よりも戦時体制の方が労働者にとって利益が大きかったことは事実であるというだけのことです。

かつて、このブログで、「冷たい福祉国家」というエントリーで書いたように、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_cda3.html
>福祉国家とは熱い戦友の共同体、戦場で共に死線をくぐった「仲間」が、冷酷な資本主義の「悪魔の挽き臼」に放り込まれ、貧困と屈辱にあえぐ姿が、戦友たちの怒りを呼び起こし、国家という「想像の共同体」の名の下に、悪逆非道な資本家から資源を取り上げて、彼らに再分配せよ、と発展していったわけで。それがやがて、「銃後」の戦場で戦う戦友たちにも広がり、ひいてはネーション共同体全てが戦友化することによって普遍化していったのが福祉国家なるものであって。

日本だけではなく、欧米のどの国の発展を見ても、戦争が福祉国家の母であるのは否定できないと私は思います。

いまさらですが、興味深く読ませていただきましたので、こんなコメントのエッセーを書きました。
http://www.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_71225.html

このエントリに言及したつぶやきが発せられました。
同姓婚と別姓婚の対立の経済的下部構造とイデオロギー的上部構造のねじれの構造

http://twitter.com/naohaq">http://twitter.com/naohaq


>要するに、自分(を含む積極的な選択的別姓賛成派)は松尾匡の言うところの( http://tinyurl.com/25qbfvt )「市民派リベラル」に映っているのか

>で、これって @ynabe39 さんが言うように、「経済的弱者」と「経済的強者」の闘いであるはずのものが、「同姓婚夫婦」と「別姓婚夫婦」という「アイデンティティの闘い」になってしまっているということだよな

>結局、濱口桂一郎氏の赤木智弘氏の著書についての評 http://tinyurl.com/26c2e5 にあるような認識の歪みが、別姓婚反対派の人たちに生じてしまっているように見える。自分たちの境遇に対する不満であったはずのものが、別姓婚希望者に対する憎悪という形で出てしまっている

ソーシャルとリベラルが一緒になるのは、家族構造を最小の組織とし、この構造のまま拡大していくから。

例えば日本に多く住む直系家族は、親との同居期間が長いので縦型の構造を持ち、財産は一子に相続されるので不平等な構造を持つ。世界中、親との同居期間が長いと、非嫡出子には寛容ではない。

これを会社組織に拡大すると、正社員は本家で、非正規は分家、中途採用は養子となる。つまり、正社員間の平等を達成する為に非正規社員を排斥する。イデオロギーにまで拡大すると、資本主義は認めるが再分配も重視し、急激な改革を求めない社会民主制と相性が良い。そして社会民主制は国民を本家とし、外国人を分家として排斥する。移民という名の養子は殆ど採用しない。社民党でさえ単純労働者の移民を受け入れたくない。

だからこそ日本国憲法は全ての「人民」でなく「国民」を法の下に平等としてる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%89

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/0302-0000-0485.pdf?file_id=15056

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