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2006年5月17日 (水)

大学教育の職業レリバンス

4月の11,17,25日に、平家さんとの間でやり取りした大学教育の職業レリバンスの話題ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html

その後、稲葉先生のブログ経由で、東大教育学部の広田先生がこの問題に関連する大変興味深いエッセイを書いておられることを知りました。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060513#p2

内容の簡単な要約は以下にあります。

http://d.hatena.ne.jp/merubook/20060502/p2

特に面白いのは次の一節です。

「しかし、日本の人文・社会科学のこれまでの発展を支えてきたのは、実はこうした研究者を養成しない大学なのだ。大学院を終えた若手の研究者の大半は、それら地方国立大や中堅以下の私学に就職してきた。雑務も授業負担もまだ少なかったし、研究者を養成しないまでも、研究を尊重する雰囲気があった。・・・いわば、地方国立大や中堅以下の私学が、次の次代を担う若手研究者の育成場所となってきたのだ。

地方国立大や中堅以下の私学が研究機能を切り捨てて、顧客たる学生へのサービスを高度化させようとするのは、大学の組織的生き残りを目指す経営の論理からいうと、合理的である。・・・だが、その結果、若手の有望な研究者がせっかく就職しても、その後研究する余裕がない。」云々

この一節に対しては、山形浩生さんが

http://cruel.org/other/rumors.html#item2006050101

で、いかにも実務家インテリとしての感想を漏らされています。「ふざけんじゃねえ。三流私大の学生(の親)はあんたらに優雅に研究していただくために高い学費を納めてるわけじゃねーんだ!」というのは、おそらくかなり多くの人々の共感を呼ぶ罵声でしょう。「悪い意味での朝日体質」とは必ずしも思いませんが。というか、保守系人文屋も同じだと思うので。

ただ、これはそういって済ませられるだけの問題でもないだろうとも思います。稲葉先生が的確に指摘されているように、これは「研究者・高等教育担当者の労働市場の問題」なのであり、そういう観点からのアプローチが必要なはずです。

私には、まずもって「人文・社会系」と対象を大くくりにすることが問題を混乱させているように思われます。その中には、大学で教えられる教育内容が、大学教授となること以外には職業レリバンスがほとんどないような領域もあれば、企業や役所に就職してからの実務に多かれ少なかれ職業レリバンスが存在する領域もあるからです。

前者の典型は哲学でしょう。大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです。上で引いた広田先生の文章に見られる、自分の教え子(東大を出て下流大学に就職した研究者)に対する過剰なまでの同情と、その彼らに教えられている研究者なんぞになりえようはずのない学生に対する見事なまでの同情の欠如は、この辺の感覚を非常に良く浮かび上がらせているように思います。

ところが、この議論がそのまま広田先生とそのお弟子さんたちに適用できるのかというと、ちょっと待ってくれという点があります。彼らは教育学部なんですよね。教育学部っていうのは、社会的位置づけがある意味で180度違う分野です。

もともと、大学の教育学部というのは、ただ一つを除いて、戦前の師範学校、高等師範学校の後継者です。つまり、学校の先生という職業人を養成する職業教育機関であって、しかも最近はかなり揺らいできているようですが、教育学部卒業と(大学以外の)教師たる職業の対応性は、医学部や薬学部並みに高かったわけで、実は人文・社会系と一括してはいけないくらい職業レリバンスの例外的に高い領域であったわけです。

ただ一つの例外というのが、広田先生がおられる東大の教育学部で、ここだけはフツーのガッコのセンセなんかじゃなく、教育学というアカデミックな学問を研究するところでした。そこを出た若い研究者の卵が、ガッコのセンセを養成する職業訓練校に就職して、肝心の訓練指導をおろそかにして自分の研究ばかりしていたんではやっぱりますいんでなかろうか、という感じもします。

実は、こういう研究者養成システムと実務家養成システムを有機的に組み合わせたシステムというのは、理科系ではむしろ一般的ですし、法学部なんかはかなりいい加減ですが、そういう面もあったと言えないことはありません。ロースクールはそれを極度に強調した形ですが、逆に狭い意味でのローヤー養成に偏りすぎて、医療でいうパラメディカルに相当するようなパラリーガルの養成が抜け落ちてしまっている印象もありますが。

いずれにせよ、このスタイルのメリットは、上で見たような可哀想な下流大学の哲学科の学生のような、ただ研究者になる人間に搾取されるためにのみ存在する被搾取階級を前提としなくてもいいという点です。東大教育学部の学生は、教育学者になるために勉強する。そして地方大学や中堅以下の私大に就職する。そこで彼らに教えられる学生は、大学以外の学校の先生になる。どちらも職業レリバンスがいっぱい。実に美しい。

もちろん、このシステムは、研究の論理と職業訓練の論理という容易に融合しがたいものをくっつけているわけですから、その接点ではいろいろと矛盾が生じるのは当たり前です。訓練を受ける側からすれば、そんな寝言みたいな話ではなく、もっと就職してから役に立つことを教えてくれという要求が出やすいし、研究者の卵からは上で広田先生が書かれているような苦情がでやすいでしょう。

しかし、マクロ社会的なコストを考えれば、そういうコンフリクトを生み出しながらも、そういう仕組みの方がよりヒューマンなものではないだろうか、と思うわけです。

では、人文・社会系で一番多くの人口を誇る経済系の学部は一体どっちなんだろう、というのが次の問題ですが、とりあえず今日はここまで。

<追記>

読み返してみると、やや広田先生とそのお弟子さんたちに揶揄的に見えるような表現になっている感があり、若干の追記をしておきたいと思います。

実は、広田先生とそのお弟子さんたちの業績に『職業と選抜の歴史社会学-国鉄と社会諸階層』(世織書房)というのがあり、国鉄に焦点を当てて、近代日本のノンエリートの青少年たちの学歴と職業の姿を鮮烈に描き出した傑作です。こういうノンエリートへの暖かいまなざしに満ちた業績を生み出すためには、上で引用したようなノンエリートへの同情なき研究エゴイズムが充たされなければならないのか、というところが、この問題の一番難しいところなのだろうな、と思うわけです。

http://www.bk1.co.jp/product/2495103

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コメント

濱口先生
何か言わねばと思いつつ、うまくまとまらずにおります。以前書いたこの書評のことを思い起こしておるのですが……。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/asaba.htm
基本的には「大学院重点化が悪い!」で片付けたいところなのですが……。
それから、東大教育学部とか、教育学というものの社会的位置づけですが、どうもそう単純なものではないように思われます。

稲葉先生、コメント有り難うございます。
話を単純化しているのはわかっています。というか、実は東大教育学部のことはよくわかっていなくて、やや思いこみで書いているところもあります(本田由紀先生に聞いてみれば良かったかも)。
この問題が最近かまびすしいのは、ご案内の通り、今まであんまり職業レリバンスなんて考えなくても良かった法学部でのんびり研究に耽ってこられた法学者たちが、突如ロースクールという実務志向教育の世界に放り込まれ、悲鳴や苦情があちこちで上がっているというのが大きいのです。こちらは、直接間接にいろいろと話が聞こえてきますので・・・。
このレリバンス問題と、大学か大学院かという問題は(密接に絡んでいますが)とりあえず別次元ではなかろうか、と思います。むしろ、大学教育の職業レリバンスにまじめに取り組まない代わりに大学院重点化などという危険な道具をもてあそんでいるような印象があります。
いずれにせよ、これらは大学人自身が当事者であるため、他の社会領域に対してはシャープであり得る人々も必ずしもそうではなくなる(もちろん、これはアカデミックであれ官民の実務家であれ、すべてのインテリに言えることですが)ような分野でしょうから、私のような立場からの発言にもそれなりに意味がないわけではなかろうと考えているところです。

この4月付で、本田由紀先生が東大教育学部の准教授に移られたのですね。
このエントリーでは広田先生をネタにしていますが、今度は本田先生がこの問いを引き受けなければならない立場に置かれたわけです。
ブログの閉鎖後も引き続き各方面でご活躍ですので、是非こういう問題も頭の片隅にでも留めておいていただきたいと思います。なんと言っても、広田先生の表現を用いれば、「政治からも経済からも距離を置いた地点に学問的な基盤を据える」のではなく、労働という両者が激しく切り結ぶ地点に研究の起点をおいた方なのですから。

http://hnami.or.tv/m2/index.php/%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%92%E3%83%8D%E3%81%A8%E5%8A%AA%E5%8A%9B%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E5%80%A4%E6%89%93%E3%81%A1%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

埼玉大学の「努力と人間の値打ち」
「 ところで、「大学に後ろ向きなあなたへ」にも書いたように、今後大学から何かを持ち帰れない学生さんは、4年間を過ごしたことが損になってしまうだろうと私は思っています。国立大学は各種の資格につながるような、専門的で狭い範囲の勉強を提供することにおいて、一部の私立大学や専門学校に劣っています。もう少し総合的な能力を身に付け、それをアピールするほうが、有利な競争ができるでしょう。

 努力の方法を身につける、という考え方はどうでしょう。他人の言うことを理解し、努力する方向を決める能力。自分で調べ、自分でまとめる能力。そして、他人の興味や要望に合わせて、努力した結果をアピールする能力。

 そうした経験や力は、いろいろな場面で活用することができます。誰も見たことのない状況に対応する力、というのがいろいろなレベルのリーダーに求められる力でしょう。しかし努力する力の困ったところは、急場になるまでそれを持っているかどうか示せないことです。それをどうやってカタチにするか。まさにそのあたりが、国立大学の学生が教官をもっと利用すべき点ではないかと思います。少人数講義やゼミに参加しなかったり、後ろ向きな態度で参加したりしている人たちは、国立大学にいることの利点を無駄にしていると思います。」

一般人の見通し(予想値)の調査のようです

http://www.cnn.co.jp/usa/30002770.html


「大学の価値を問う米調査 高卒との年収差160万円」

調査では米国内の高卒者と大卒者に、大学での学位取得がどれだけの収入増につながると思うかを質問。両グループとも、その差は年収にして2万ドル(約162万円)前後になると答えた。

この数字は、2010年の国勢調査で判明した高卒と大卒の年収差の中間値1万9550ドルとほぼ一致した。研究チームによると、生涯賃金では平均的なケースで約55万ドルの差が出るとみられる。


社会で成功するためには大学教育を受ける必要があると考える人が大半を占める一方、多くの人がさらに重要な成功の条件として勤労意欲の高さや良好な人間関係を挙げた。

---------------------------------------------

某国だったらネポティズムでしょうか・・・

http://togetter.com/li/142398

[ほんとに学歴社会というのならば、年齢関係なく例えば博士の方が学士よりも職に就ける可能性が高い社会である。
しかし、日本では22才の学卒の方が例えば一度会社辞めて。30で大学院に入りなおして博士卒の人の人が再就職する場合よりも明らかに就職機会が多いので全く学歴社会ではない。日本学歴社会でない理由は例えば企業などが教育機関の教育能力を信用していないという点がある。]


http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61792269774225408


「学校、特に大学なんて就職するために行くようなところである。ある研究者は、大学は会社に行くための通り道だからその交通費=学費は会社が払うべきだと嘯いていた。自分は大学は関所であり、教授は通行税をとって研究をしていると思っている。企業が大卒を採用するから研究ができているのだ。」

2011年08月06日

http://agora-web.jp/archives/1367347.html
「博士課程が大学教員を養成するのに役だつことはある。企業研究職の一部にもなれるだろう。しかしながら、博士の大半は、専門とは何の関係もない職に就く。」

「たかだか、ちょっとだけましな大学教員を養成するために、膨大な27歳超の未熟練労働者を作り出すことは、公共の利益にかなうのだろうかと、私は問いたいのである。」

はてなブックマークも少々ついております

http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20110908-00021397-r25

大卒給与10%減で「大学進学に価値なし」論が再燃
2011.09.08

米国…

”オンライン決済サービスPayPal共同創業者のひとりであるPeter Thiel氏率いるファンド「Thiel Foundation」が今年、大学を中退して起業に取り組む10代の若者20人それぞれに10万ドルを提供するという奨学金制度「20 under 20 Fellows」を立ち上げました。初年度となる今年選ばれた24人(20人に絞りきれなかったそう)は、今後2年間の期間中に与えられた10万ドルを使い”

さすが小さな政府の国
善意のお金持ちが施してくれますね

税金…

5年以上前の記事に今さら突っ込みを入れるのもなんですが、東大だけではなくて、京大の教育学部も師範学校の後身ではないですよ。たぶん、旧帝大の教育学部は全部そうではないですかね。
 それはさておき、それらの師範学校系でない教育学部は、教育学者を養成する機能ももちろんありますけど、むしろメインの目的は教育行政官の養成でしょう。なにしろ、市町村にまで教育委員会がありますからねえ。

 先ほどの書き込みでは最後が舌足らずだったので補足です。
 戦後の「民主化」の影響で、教育も地方分権化されました(ある面では市町村レベルまで!)。しかし、分権化の一方で教育に全国的な統制を加えるため、旧帝大に教育学部を設置して教育行政官を養成し、全国の自治体に送り込んでいくという体制が作られたのです。

http://tyamauch.exblog.jp/16547915/

[9)彼らが異口同音に言うのは、「大学でもやる気のある学生は上位3割ぐらいで、7割は遊んでいる」とのこと。さらに、私大は1年次に少人数の教育の場がないため、まじめに勉学をしたい子の期待に応える環境がなく、「高校時代の方がましだった」との声もある。

10)彼らの期待に応えない大学の罪は非常に重いと私は考えている。(略)]

[11)私立大学の多くは、現状のマスプロ教育で良いと思っているが、それは戸山高校から来たような学力の高い生徒の期待に応えるものではなく、彼らの成長の機会を奪っている。]

[14)MARCHより上の大学が、その状況にあぐらをかいて、入学した学生に質の高い教育環境を提供しないことは、国家的損失である。私は以前から思っているが、大学生は勉強しないのではなく、勉強する環境を大学が提供していない側面がある。]

職業教育以前の教養知識教育・研究学習態度技能について

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/22934
これ面白いですね
「若者は、失業がもたらす経済的、感情的な影響に特に大きな打撃を受けると、LSEの労働経済学者ジョナサン・ウォズワース氏は述べている。」
「傷痕を残す効果は必ずしも、実際に失業した人に限られない。米国の研究では、1980年代前半の深刻な景気後退期に大学を卒業して労働市場に参入した若者が長期的な賃金の傷に苦しめられたことが分かっている。この不運な集団の卒業生は、全体の失業率が1ポイント上昇するごとに6~7%の賃金低下に見舞われた。」

「若者に少なくとも雇用のチャンスを与えるために、臨時契約を延長する制度を設けたスペインでは、2000年代初頭の日本の経験に注意すべきだ。日本では長期にわたって失業していた若者が、賃金が低く、訓練や出世の機会がほとんどない「非正規」雇用に向かわされたのだ。」

「あらゆるタイプの失業は、単に低所得だけでは説明がつかないレベルの不幸と関係している。一方、平均寿命が短く、晩年に心臓発作に見舞われる可能性が高く、自殺が多い傾向がある。1970~80年代に職を失ったペンシルベニア州の労働者の調査では、失業が平均寿命に与える影響は、中高年よりも若年労働者の方が大きいことが分かっている。

 大恐慌の最中に米国の労働人口に加わった人々は、数十年間にわたって自信と野心の欠落に苦しんだ。」

ベーシックインカム派に読んでもらいたい研究もありそうですね

続き

「一部の国、特に南欧諸国では、政府が重点的に取り組むべきは、若年労働者を締め出す労働市場の開放だ。労働市場が比較的柔軟な国では、若者の「スキルアップ」に重点が置かれる傾向がある。それは万能薬ではない。

 大学は技能の源泉になり、不況をやり過ごす場所になり得るため、学生はどんどん大学に進学し、とどまるようになっている。米国の大学院では2008年以降、願書が少なくとも20%増えている。だが、こうした学生が学費で借金を積み上げる一方、すべての学生が雇用の見通しを改善させられるわけではない。」


「職業訓練にも危険が潜んでいる。今年公開された英国の職業教育に関する報告書「ザ・ウルフ・リポート」は、間違った訓練は逆に雇用見通しに害を及ぼすと指摘した。

 英国の16~19歳の3分の1近くが労働市場では無価値かほぼ無価値の低レベルの職業訓練コースに通っているという。調査結果は、企業が主体の見習い訓練と組み合わせた制度でない限り、1~2年かけてこの種のコースを終了することは生涯所得の減少につながることを示唆している。」

「例えば米国には、ドイツモデルを大成功させた制度や組織(強い労組、理解ある経営陣、実際的な政府)がない。

 こうした訓練制度は文化的な障害も乗り越えなければならない。実習制度に賛同したビル・クリントン大統領の教育職業制度は、二流の教育として嘲笑された。見習い制度が定着した技能職でも、建設産業が崩壊し、このモデルは苦しむことになった。ただし、英国はこの仕組みを試みるつもりのようで、昨年、25万7000人の実習職が創設された。」


このあたりは日本にも共通する問題のようです

この「エコノミスト」誌の記事のベースになっているのはOECDの若者雇用レビューの報告書ですね。

現在、わたくしが本文の監訳を終えたところで、これから解説を書いて、年内には明石書店より出版の予定です。
若者問題についてまっとうに何ごとかを語ろうとする者であれば、必ず読まないわけにはいかない書物ですので、刊行された際には是非お読み下さい。

「教育現場増える「非正規の先生」 長期的には教育の質低下」

http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/31779.html

非正規のエントリよりはこちらかなと

” 「簡単に言えば学校版の派遣社員」。小学校の臨任講師で、担任も受け持つ30代男性は自分の立場をそう説明する。”
”県教委は「今後、少子化で学級数減が予想される中、正規教員だけで必要数を満たすことはできない」(義務教育課)。つまり、将来教員が余るケースを考えると、期限付き雇用で人員調整が容易な臨任講師が都合がいい―という説明だ。”

”本県の12年度教員採用は一般教諭で180人。08年度100人を切った採用数は、定年退職者が増えたこともあり近年増加し続けている。それでも競争倍率は6・4倍の狭き門だ。

 例年、採用者の約4割を占めるのが福井大教育地域科学部出身者。同学部では毎年約100人が教員免許を取得する。教職大学院の松木健一教授は「大学も学生も受け入れ先が必要。県の財政を考えても非正規採用が一概に悪いとは言えない」と施策に理解を示す。

 ただ懸念は、臨任講師は正規教員に比べると研修が十分保障されていない点。「長期的には、非正規教員の増加は教育の質を落とす。子どもの教育機会の不平等にもつながる」と指摘する。非常勤講師についても「担任との打ち合わせなど、教育に不可欠な業務を勤務外にサービスで行っている状態」と待遇改善を求めている。”


教育の質低下が主たる問題とは思えませんが

http://kashino.tumblr.com/post/14100046803/b-46-1

「そのグローバル大学ランキングのトップ校、例えばハーバードやスタンフォードの大学・大学院を卒業できれば、普通に勝ち組になれる可能性が高くなるのは今まで通りだと思う。ただ、そこに入学するために必要な勉強強度がアジア人枠として韓国中国のせいで半端なく上がったというのが実態で、日本人がグローバルランキングのトップ校にいるような夢を描きにくくなっているよね。

このような状況で、グローバルのトップ校に入るための親の金と努力と子供の勉強強度の準備ができない家庭は子供には手に職を、とか二値思考になるのはもっともいけない考え方だと思う。手に職といってもやはりこれからはどの仕事でも国際的に開いていかざるを得ないわけで、そこで「勝ち組」になるためにトップノッチで仕事をしていくことはやはり大変なことは変わりない。それに何をやるにしても高度な知識社会がこれからも続くのは間違いなく、リテラシーとしての勉強は必要になる。」

理系エリート

http://d.hatena.ne.jp/ryoasai/20110404/1301936408

”日本のSI業界でこそ、専門の技術者の必要性がもっと見直されるべきではないのか?”

http://www.japaninc.com/mgz_nov-dec_2007_it-talent
を読んでのエントリ

「Japanese companies typically make a huge effort to re-educate new employees. There is no system in place at most corporations to evaluate and reward university graduates on what they have learnt in school, or to encourage them to apply their knowledge to their business.
日本の企業は新人の再教育に多大な努力を払っている。ほとんどの会社では大学の卒業生に対して学校で学んだことに対して評価し、報いるしくみがなく、また、仕事に対して彼らの知識を適用させようとも考えない。」

「これも周りで実際に良くささやかれていることですが、大学でせっかく専門のソフトウェア工学の知識を学んでもその知識を活用する場所が無いだけでなく、逆に体育会系的な会社の教育で鍛えられ直され、間違った規約をだめな先輩社員から押し付けられるといったことも日常茶飯事です。」


「むしろ、技術の進歩の激しいIT業界であればこそ、大学で最新の技術を学んだ学生は本来貴重な戦力になってしかるべきなのです。ところが逆に日本のSI業界は大学の知識は役に立たないと思われている*2のか、まったくITの知識のない文系の学生が歓迎されるということすらあるようです。海外であれば経験年数が少なくても優秀なプログラマーは高給で評価されるのが常識であるというのに、本当になんという情けない状況なのでしょうか。」

大学生は多過ぎるのか、大学に行く価値はないのか? 畠山勝太

http://synodos.livedoor.biz/archives/1903078.html

”結論として、大学進学におけるコストとベネフィットを比較した場合、少なくとも収益率が国全体で見てネガティブでない以上、日本に大学生が多過ぎる、大学に行く価値はないと結論づけるのは誤りであることが分かる。男性の6.2%、女性の7.8%という大学教育の収益率は市場金利よりも高いことから、むしろ日本の大学生の数は過小気味であると考える方が妥当である。

しかし、この結果をもってして、日本全体でみるともっと大学教育に投資すべきと断言することは難しいし、大学に行く価値があると断言することも難しい。”


”ただ、今回用いたようなデータを示さないまま、自身の経験・主観だけにもとづき大学に行く価値はないと学生に向けて語るのは、その助言にしたがった学生の人生に対して責任を取れない以上、慎まれるべき行為であると考える。”

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・誰かさんのことでしょうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


”できない学生を大学に行かせるのは無駄という主張も見られるが、これまでのこの分野の研究結果を見ると、できる学生を伸ばすよりもできない学生を教育で何とかする方が、ベネフィットが大きいことから、この主張は誤りである。さらに、すでに日本の高等教育就学率は世界的に見て高いものでもなく、高等教育への政府支出も世界的に見て多いとはいえない。加えて、高卒程度のブルーカラーワークの途上国への流出が加速する中、現状のように国民の半数を高卒のままにしておくのは、いずれ国家の危機的状況を招くのではないかと危惧する。”

よりよく生きるための経済学入門
第22講 人文系は市場で生き残れるか?

http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/keizaigaku/22_1.html

米大学 入学者が減る5つの理由 (1/3ページ)

http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/121103/cpd1211030502002-n1.htm


「最後に--これが最も重要だと思われるが--大学進学に金をかける意義に懸念が生じていることだ。ある試算によると、最近の大学卒業生の53%が失業状態あるいは比較的低賃金・低スキルの仕事に就いているという。学生と親は長い目で大学進学を決断する必要があり、その大学で学位を取ることによって期待できる生涯賃金の多寡を検討しなければならない。

 私が思うに、そこに長期的な課題があることは単純な計算をしてみれば分かる。成人米国人の40%ほどが短期大学卒業以上の学位を持っているが、実際の職業のうち技術職、専門職、管理職が占める割合はそれより低いのである。

 さらに、大卒人口の増加率は高賃金の仕事の増加率を上回っている。米労働統計局が今後10年で最も成長すると予測する上位30職種の大半は、正式な高等教育を必要としない職種である。われわれの予測では、20年までに必要とされる生物医学分野のエンジニアは1万人ほどだが、カスタマーセールスの担当者は34万人ほど必要だ。

 基本的な数学の問題だが、全員が平均以上になれることはあり得ない。一部の州ではこの問題を認識しており、例えばミシガン州のスナイダー知事は最近、4年制大学の学位よりも職業教育に重きを置くことを求めている。」

https://twitter.com/suntoc/status/457092849968771072

個人名を除けば
”情報や経営等の分野で実践者を採用して教育に当たらせるのが、最高学府としての大学が果たすべき役割なのかってこと。
彼女、修士号も持っていないよね。”

実学を大学で教えることに対する疑念の持ち主の発言ということで


それに対するコメントで(講師の話がいつの間にか教授の話になり)
湯浅誠氏と安藤忠雄氏が挙げられ


https://twitter.com/jshiratori/status/464326898932137984

安倍首相(と関係者)の高等教育・研究に対するスタンスでしょうか。

”安倍首相のOECD閣僚理事会基調演説。(中略)関係者の諸々の思惑が詰め込まれるこの手の演説で、「学術研究を深めるのではなく」とあたかもそれが当然改めるべきことと取れるような文言が入っている”

実際のところ、人文系の人達はそんな風には思っておらず
職業教育なんぞではなくて、学問をすることを奨学せよ、
そして、職業教育ではなく、学問を修めた者を優遇せよと
いう訳です。

> 日本は学生が働かないと学問できない国なんだね。ポンコツだ。
https://x.com/Hiromi19611/status/1868258360019259633

一方、例えば、サッカー・ファンだったら、無償の育成の
対象は相対的に見込みのある少数の者に限られると考えて
いる。しかし、メンバーシップ型思考が浸透をしていて、
体育会系の出身者が優遇されるべきだと考えるところは、
人文系と同じです。

違いは、相対的に見込みのある者が育成の時点で明らかか
そうでないか、というところに起因するように思います。
人文は見分けが付かないのだから、プロ、アマの境界線が
不分明な世界で、作品のアーカイブ化、データベース化に
税金を使えばいいと思うのですけどね。

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