« 歯磨きと時計 | メイン | 生き物たちの声 »

「それはさておき、正伝に戻りまして」― 和漢古書の書名の漢字:「傳」(3)

こんにちは。AS 伊藤です。主に和漢古書を担当しています。

五経の「伝」の概略は前回までに見たとおりですが、こうした「賢者による注釈」という意味での「伝」の対象は経書にとどまらず、重要な書物に対する注釈もしばしば「~伝」という書名をつけられました。これはもちろん日本でも同様で、たとえば本居宣長の大著『古事記伝』の「伝」はこの意味での「伝」ということになります。
一方、個人の事蹟を記述した伝記biographyの意味での「伝」もむろんあります。近代の魯迅は、有名な『阿Q正伝』の序章で、「伝の名目はとても繁多である。列伝,自伝,內伝,外伝,別伝,家伝,小伝......、惜しいかな皆合わない」と言ってこれらの名称がふさわしくないことを並べ立てた上で、「三教九流の数に入らぬ小説家」の「閑話休題、言帰正伝」という常套文句を採用することにすると、皮肉なふざけた調子で書いていますが、ここに列挙されている「伝」はもちろん経書のテキストのことではなく、いろいろな「伝記」の種類ということになります。
こうした「伝」は、淵源としては司馬遷の『史記』の「列伝」に由来するものですが、この時点でかならずしも個人の伝記とは限らず、「匈奴伝」や「朝鮮伝」といったものも含まれています。いずれにしろ、これらの正史の「伝」の体裁にならって、以前触れたことのある劉向の『列女伝(れつじょでん)』や、陶淵明の『五柳先生伝(ごりゅうせんせいでん)』といった作品が作られました。
また唐代には、六朝期の「志怪小説」から発展した、文言によるフィクション作品が盛んに作られ、「唐代伝奇」と称されますが、これらの中にも「〇〇伝」というタイトルを持つものが相当数あります。多くはやはり個人の伝記の体裁を取ったもので、『霍小玉伝(かくしょうぎょくでん)』『李娃伝(りあでん)』『鶯々伝(おうおうでん)』などが知られています。芥川龍之介の短編のもととなった『杜子春伝(とししゅんでん)』もそうですね。一方で、『長恨歌伝(ちょうごんかでん)』の「伝」は伝記の意味ではなく、白楽天の『長恨歌』という長詩の作品に対する散文のテキストという意味での「伝」と思われます(なお、「伝奇」chuanqiは、明清時代の戯曲の一形式を指すタームでもあります)。

さらに、個人の一代記というのにとどまらず、『南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)』『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』といった個人による紀行の顛末を記した著作などにも「伝」が用いられるようになりますし、人物を中心とした伝説・物語などを「〇〇伝」と称することも、時代が進むと一般的になってきます。中島敦が『山月記』にアレンジした「人虎伝」も唐代伝奇の改作ですが、このあたりではもう「伝記」というニュアンスはだいぶ薄まっていますね。明末に作られた、四大奇書に数えられる章回小説『水滸伝』も「水のほとりの物語」ということになります。

「伝」は、これまでに述べてきたような内容にそれぞれ対応した意味あいで、役割表示としても使われます。ただし、江戸時代の武芸書などで、先生から教わった内容をそのまま弟子に伝えるという場合の、「免許皆伝」といったケースでの「伝」については、そもそも責任表示とするのが適当なのかどうか多少疑問です。巻末に列記されているようなものは、とりあえず注記に転記するだけにとどめておいたほうがよいかもしれません。
また、本文巻頭や冊子目録などに「伝〇〇著」などとあるのは、もちろん「〇〇著と伝わっている」ということであって、たいていの場合は仮託やデタラメです。こうしたものについては、そのまま「伝〇〇著」と注記に記録しておけばよいでしょう。

コメントを投稿

(投稿されたコメントは、TRCデータ部の営業時間内にアップいたします。投稿から掲載までお待ちいただく場合がありますがご了承ください。なお、メールアドレスはTRCデータ部から直接ご連絡する場合にのみ使用いたします。第三者への公開・提供はいたしません。)

2024年12月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

アーカイブ

全てのエントリーの一覧

リンク