はじまりの物語 (17)

#ゲマルディンことジャマールッディーン・アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・サイード・アッ=ザブハーニーの謎に迫る その6(ザブハーニーシリーズの最終回)


#ザブハーニー以前のファトワー。そして彼がスーフィーになった経緯を考える

もう一人の(?)ゲマルディン

イスラムや中東研究する上での参考資料として、『イスラーム百科事典』は、もっとも信頼性が高く重要な参考資料の一つだと言えるだろう。この百科事典の"kahwa"の項には、コーヒーに関する豊富な記述が、多くの参考文献とともに記されており、コーヒーを考える上でも有用な資料である。しかし、多くの情報を網羅的に集めているためか、どう取り扱うべきか悩ましい記述も見られる。


『イスラーム百科事典』の"kahwa"の項には、コーヒーの始まりに関する、非常に興味深い、しかし困惑させる一文が書かれている。

Among the jurists who gave an opinion in favour of coffee, the oldest is Djamal al-Din Muhammad b. Said b. Ali b. Muhammad Kabbin al-Adani (died in Aden 842=1438, cf. Abu Makhrama f.159g sq; according to al-Nabhani op sit i. 155 sq.: 829=1425/6)
( http://books.google.co.jp/books?id=7CP7fYghBFQC&pg=PA631&q=1425%20kahwa&f=false#v=snippet&q=1425%20kahwa&f=false )


拙訳:コーヒーを支持する見解を出した法学者の中で、もっとも古いものは、ジャマールッディーン・アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・サイード・イブン・アリー・イブン・ムハンマド・カビン・アル=アダニー(アブ=マクマラーによれば1438年アデン没、アル=ナブハーニーによれば1425/6年没)である。

人物の名前がザブハーニー(=ジャマールッディーン・ムハンマド・イブン・サイード・アッ=ザブハーニー)と酷似しているが、「ザブハーニー」の尊称(ラカブ)を冠していない。なによりザブハーニーの没年は、アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』でも、サハーウィーの偉人伝でも1470年と記されており、ド・サッシーやハトックスらもその説を採用しているが、この史料とでは少なくとも30年以上の開きがある。


この人物について、2001年に出版された"le commerce du café"という論文集の中で、フランスのイスラム研究者エリック・ジョフロワ Éric Geoffroy は、以下のように記している。

Déjà, à cette époque, le breuvage fait l'objet de débats, puisqu'un certain Muhammad b. Said Kabbin al-'Adani (m. entre 829/1425 et 842/1438) aurait délivré une opinion juridique (fatwa) en faveur du café. On ne s'etonnera pas que ce personnage ait été luimême un soufi, disciple du maître Ismail al-Djabarti (m. 1403).*1


拙訳:この当時(註:15世紀初頭)すでに、この飲み物(註:コーヒーまたはカフワ)に関しては、ムハンマド・イブン・サイード・カビン・アル=アダニーという人物(没年:1425から1438の間)がコーヒーを支持する法的見解(ファトワー)を示していた。これは、彼自身がイスマーイール・アル=ジャバルティー(1403年没)のスーフィーとしての弟子であったことから驚くべきことではない。

Ismail al-Djabarti, qui a vécu à Zebid, a été très influencé par la doctrine du «Grand Maitre» Ibn Arabi (m. 1240); Sur lui voir notamment al-Nabhani. *2


拙訳:アル=ナブハーニーによれば、イスマーイール・アル=ジャバルティーは、ザビードに暮らしており、「偉大なるマスター」イブン・アラビー(1240年歿)の教義から大きな影響を受けた。

エリックはイスラーム百科事典と、さらに当該部分の出典であるシャーズィリー教団のスーフィー、アル=ナブハーニー(al-Nabhani)が著したアラビア語文献*3を参照した上で、上記のようなことを述べている*4。したがって、アル=ナブハーニーの記述を信じるならば、ザブハーニーよりも30年以上前に亡くなった、彼とほぼ同名の人物が、コーヒーまたはカフワを合法と認めていたと読み取れる。しかもその際、ファトワ(公式の法的文書)まで発行していたというのである。

*1:Éric Geoffroy. La diffusion du café au Proche-Orient arabe par l'intermédiatre des soufis: mythe et réalité, In: Michel Tuchescherer (ed.) "le commerce du café", institut françois d'archéologie orientale, 2001, p.8

*2:ibid

*3:al-Nabhani (Yusuf), 1988, Jami' Karamt al-awliya, Beyrouth. おそらく https://archive.org/details/Kitab_Gami_karamat_al_auliya_Guz1min2 だが、アラビア語で…。いずれ何とかしたいのだが。

*4:彼はアブドゥル=カーディルの文献も参照しているが、この人物とザブハーニーの関係については言及していない。

考えられる可能性

この記述の信憑性については何ともいいがたい。何パターンかの可能性が考えられるからだ。

  1. 両方の史料が正しい
    1. 二人の「ジャマールッディーン・ムハンマド・イブン・サイード」がいた(一人は1425/38年没の「アル=アダニー」、もう一人は1470年没の「ザブハーニー」)
      1. アル=アダニーは最初にコーヒー飲用を是認するファトワを出した。ザブハーニーは民衆に広めた
      2. アル=アダニーは最初にカートのカフワや、コーヒーの実や種の食用を是認するファトワを出した。ザブハーニーはコーヒーから作るカフワを実質的に是認した
  2. どちらかの史料が間違っている
    1. 二人の「ジャマールッディーン・ムハンマド・イブン・サイード」がいた(一人は1425/38年没の「アル=アダニー」、もう一人は1470年没の「アブハーニー」)
      1. アル=アダニーはコーヒー飲用を是認するファトワを出した。その功績が、同名のザブハーニーのものだと誤解された。
      2. ザブハーニーがコーヒー飲用を実質的に是認するファトワを出した。その功績が、同名のアル=アダニーのものだと誤解された。
    2. 「ジャマールッディーン・ムハンマド・イブン・サイード」は同一人物で、彼がコーヒー是認のファトワを出した。
      1. 没年は1425または38年(アル=ナブハーニーが正しい)
      2. 没年は1470年(アブドゥル=カーディルやサハーウィーが正しい)


もし、「両方の史料ともに正しい (1)」とすると、アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』において、少なくともド・サッシーが訳した範囲に、このファトワーに関する記述がみられないことは、何よりも奇妙に思える。この考察をするにあたって、アブドゥル=カーディルが非常に多くの文献にあたったことは確かであり、ファトワーのように文書化された史料があれば、真っ先に参照してよさそうなものだからだ。


またこのファトワーを出した人物とザブハーニーの名前が酷似…というより、本人と父の名前が完全に同一であることは(2)の可能性を疑わせる。もともとアラビア語圏では名前のバリエーションが少ない上、ムハンマドもサイードも、そしてジャマールッディーンも、いずれも良く有る名前なので仕方ないと言えば仕方ないのだが、史料や記録の混乱をいかにも招きそうだ。世代の異なる似たような名前の別人が(2-1)のように混同されたかもしれない。

また、両者の名前の、それ以外の部分での相違点、ザブハーニーにある「アブー・アブドゥッラー」は「アブドゥッラーの父」という意味であり、アル=アダニーの「イブン・アリー・イブン・ムハンマド」は父祖の名前であり、どちらも省略されてもおかしくない。また「アル=アダニー」も「アッ=ザブハーニー」も、ニスバ(出身や部族を示す名前)である。アデン(=アダン)に暮らしている一人の人物を、アデンの他の人々が「アル=アダニー」と呼ぶことはないだろうが、他の地域に行った時、あるいは他の地域で書かれた書物の中で「アル=アダニー」と称したことは考えられる。こう考えると、名前の相違点は(『カビン』の部分はよくわからないが)あまりないように思われる。ここまで一致しているとなると、(2-2)のように同一人物で没年の転記ミスなど、どこかで取り違えが生じた可能性も否定できないだろう。


とは言え、この記述が「誤りである(2)」とも言い切れない。

アブドゥル=カーディルは自分自身でイエメンまで文献調査に赴いていたわけではないため、史料の蒐集に漏れがあったとしても仕方がない。『コーヒーの合法性の擁護』においてザビードでのコーヒー利用に関する部分は、イブン・アブドゥル=ガッファールがザビードの知人に手紙で質問し、その知人が大叔父であるアレウィ・イブン・イブラヒムから聞いた内容に基づいており、イブン・アブドゥル=ガッファールも自らザビードに赴いたわけではない。彼の知人も、またアレウィ・イブン・イブラヒムも、ちゃんとしたイスラーム学者ではあったろうが、100年以上前の、しかも滅びた王朝時代のファトワーのことまで漏らさず把握していたとは限らない。彼らの知らないファトワーがあった可能性がないとは言えない。


またもう一つの可能性として、コーヒーとカフワの違いがあった可能性(1-1-2)も考えられるだろう。以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130522)論じたように、イエメンに伝来した初期のカフワは、カートやコーヒーノキの葉から作られたものであり、コーヒーノキの利用は飲み物ではなく、実や種を直接食用、嗜好品にすることから始まっていた可能性がある。この「最初のファトワー」で是認されたのは、そうした初期のカフワや、飲み物以外のコーヒーの利用法であり、後世の「コーヒーの実や種から作る飲み物としてのコーヒー」は、ザブハーニーの時代になって、ようやく現れるのかもしれない。


……このように、いろいろな可能性が考えられるが、まずはこの「もう一人のゲマルディン」について、イスラーム百科事典やエリックの文献の登場人物から検証してみよう。

アル=アダニーへの系譜:「イブン・アラビー派」のスーフィーたち

この「最初のファトワー」を出したムハンマド・イブン・サイード・カビン・アル=アダニー…以下「アル=アダニー」と呼ぶ…は、「ファトワーを出した」という以上、ザブハーニーと同様に、ムフティだったと考えねばならない。「アル=アダニー」というニスバからは、彼がアデン(=アダン)出身、ないしアデンに暮らす人物であったことが伺える。没年が1425から38年の間であれば、ラスール朝の末期、ただし後継者争いによる内乱期の前に活躍した人物だと考えられる。この時期にムフティを勤めた法学者であれば、ラスール朝の学問の中心であったザビードで活動していた可能性は十分考えられるし、スーフィーとして彼が師事したイスマーイール・アル=ジャバルティーがザビードで暮らしていたという記載も、それを補強する材料になるだろう。


アル=アダニーが師事したイスマーイール・アル=ジャバルティーは、13世紀の偉大なスーフィー、イブン・アラビー (イブン・アル=アラビー、 1165-1240) の神秘主義的な教義に大きく影響をうけた、その「霊的な spiritual 後継者」である。


彼らのスーフィズムの原点、イブン・アラビーは、アンダルシア・コルドバ生まれのアラブ人で、13世紀頃にカイロ、メッカ、コンヤ、バグダード、ダマスカスなど各地を転々としながら、スーフィズムに関する多くの著書を著した。イスラム神秘哲学(イルファーン)において「最大の師(アッ=シャイフ・ル=アクバル Al-Shaikh al-akbar)」とも呼ばれる、大物中の超大物だ*1。彼の思想の根幹をなしているものは「存在一性説」と呼ばれ、「万物の本質は同一である」とする考え方である。さらにここから「神と人間もまた本質的には同一なもののあらわれであり、その同一性に目覚めた者が預言者である」という「完全人間説」を唱え、「人間も神の一部であるから心身に苦痛を与える禁欲的探究は無意味だ」とも唱えた。彼の思想はスーフィーのみにとどまらず、学者(ウラマー)や大衆など、多くのイスラム教徒に影響を与えたが、同時に多くの批判も呼んだ。伝統的イスラム神学においては、神(アッラー)は唯一絶対の存在であり、他の万物とは無限の距離の隔たりを持つと考える。しかし存在一性説ではこの原理が否定されている。このためイブン・アラビーの思想はときに他派の学者から異端視され、彼自身、批判の対象となり命を狙われることすらあったという。彼の死後も多くの人々から支持される一方で批判も多く、いくどかに渡って大規模なイスラム神学論争を巻き起こし、特には学者同士の対立の「踏み絵」的なテーマにもなった。後世の偉大なイスラム法学者イブン・タイミーヤ (1263-1328)もこうした論争に加わり、イブン・アラビーを批判して「彼はムスリムではない」と酷評するほどだった。


イブン・アラビーの思想はイスラム圏の各地に広まったが、イエメンも例外ではなかった。その著書や教義そのものは、イブン・アラビーの死後まもなく伝わったと言われるが、14世紀末から15世紀最初の四半世紀に、イエメンで一気に広まった。このときの立役者こそがアル=ジャバルティーであり、これがラスール朝の学者たちやスルタンを巻き込む大きな事件を巻き起こす。イエメンのスーフィズムの歴史からを見ていってみよう*2。

*1:井筒利彦『イスラーム哲学の原像』(岩波新書)において、「照明学の師(shaikh al-ishraq)」と呼ばれるイランの哲学者、スフラワルディー(1155-1191)と並んで、神秘主義と哲学を融合させてイスラム神秘哲学の礎を築いた、二人の偉大な思想家の一人として、その思想について解説されている。こちらのURLも参照 http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/tetsugakuteki_shii.html

*2: Alexander D. Knysh "Ibn 'Arabi in the Later Islamic Tradition: The Making of a Polemical Image in Medieval Islam", SUNY press, 1999

イエメンにおけるスーフィズムとイブン・アラビー

黎明期

アイユーブ朝がイエメンに侵攻(1173)した12世紀後半、アイユーブ朝のもとでスンニ派体制が構築されていったが、これとほぼ同時期にイエメンにスーフィズムが伝わったと言われている。この時代は、アラブ周辺の他の地域では、スーフィーの聖者(ワリー)を中心とするスーフィー教団(ターリカ)が拡大していき、しばしば大教団化してスーフィズムが民衆に浸透しはじめた時期である。以前述べた北アフリカのシャーズィリー教団もその例の一つである。

しかし、イエメンではこうした大スーフィー教団は形成されず、依然として聖者を中心に、それを「師」と仰ぐスーフィーたちが集まった小さな教団がいくつも存在したという。彼らは「師」の庇護のもと、街から離れた郊外に小屋を立てて共同体をつくって、そこで何にも邪魔されずにスーフィーの修行に明け暮れた。この当時、イエメンを旅した人達の記録には、ティハーマ地方(イエメンの海岸部)にこうしたスーフィーの小屋がいくつも点在していたことが記されている。スーフィーの聖者たちは、弟子達にスーフィーの「教え teaching」を口伝し、自らも修行を行っていたが、時折その共同体の人々や街の人々を相手に「奇跡」を示してみせたり、雨乞いの祈祷を行ったりして人々の畏敬を集め、また民衆や部族の有力者からの寄付を受ける暮らしを送っていたという。


ここで思い出されるのはモカの事例である。16世紀以降、コーヒーの輸出港として大きく発展したモカであるが、イエメンでのコーヒー黎明期にあたる14-15世紀頃の史料には、その地名もあまり出てこない。ザビードとアデンの間を旅した人の記録の中に、途中で立ち寄った小さな町の記録が見られる程度だ。モカに伝わる説話からは、伝説的なシャイフ・ウマルや、アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリー(1418年没)という、シャーズィリー教団のスーフィーたちが町の創設に関わっていたことが伺える。キャーティブ・チェレビーの『世界の鏡』によれば、シェイフ・ウマルはボウルに入った水に導かれてモカの町に到来し郊外の小さな小屋で生活していたし、誤解からモカの首長に追放された後は弟子達とともにウサブ山で修行生活を送り、後にモカを襲った疫病から町の人々を救ったと伝えられる。この当時、エジプトのシャーズィリー教団の流れを汲むスーフィーたちの小集団がモカに流れ着いて定住し共同体を形成したか、もともとモカ周辺にいた少数部族がやってきたスーフィーに教化されたか……どちらにせよ、14-15世紀のモカのスーフィズムは、まさに上述のような小教団の典型例であったと思われる。

イブン・アラビー理論の伝来

こうしたイエメンのスーフィーたちの中に、イブン・アラビーの教えを伝えたものたちもいたという。いつ誰が伝えたものかははっきりしない*1ものの、アイユーブ朝末期からラスール朝が始まる13世紀頃に伝わったと言われる。13世紀イエメンの伝説的なスーフィー、イブン・ジャミル(アブー=ル・ガイス・イブン・ジャミル、1253没)や、同じく13世紀の、「生きたままの蛇を食べる」など過激な修行で知られるリファーイー教団 のスーフィー、アフマド・イブン・アルワン(1266没)は、イブン・アラビーの恍惚的かつ神話的な神秘主義に感銘を受けていたと言われる。またエルサレムからイエメンにやってきて、ラスール朝の王子アル=アシュラフ・ウマル(後の三代スルタン、1296-1297在位)に歓迎された、リファーイー教団の高名なシャイフ・アル=クドシ(ウマル・ブン・アブドゥル=ラーマン・ブン・ハサン・アル=クドシ、1289没)と、その助手イブン・アル=ナバは、タイッズの大学で、イブン・アラビーのものと同じような存在一性説の講義を行っていたと言われている。

イエメンの(スーフィー出身でない)学者の中で初めてその教義に触れたのは、アル=ヤヒャーウィー(アブ=ル・アティーク・アブー・バクル・イブン・アル=ハッザーズ・アル=ヤヒャーウィー、1309没)である。彼はマッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)に修学のための長期滞在中にイブン・アラビーの信者たちから多くを学んだ。またイエメンに帰国するときに彼の著書を謄写したり購入して持ち帰り、興味を持つものには誰にでも貸し出したという。彼はまた、ラスール朝4代スルタン、アル=ムアヤド・ダウード(1297-1322在位)との親交が深かった。スルタンは宗教や内政問題に関する彼の助言に全幅の信頼を置いて重用したため、他の(伝統的スンニ派の)学者(ウラマー)たちは彼に嫉妬し、しばしば「怪しげな魔法を使う」などと彼を非難したという。アル=ヤヒャーウィーは、イエメンにイブン・アラビーを紹介したことが最も確実な人物だが後継者に恵まれなかったため、彼の死後、イエメン中枢部でのスーフィズムはいったん下火になる……14世紀末、アル=ジャバルティーが現れるまでは。

アル=ジャバルティーによるスーフィズムの熱狂

アル=ジャバルティーが表舞台に現れるのは、7代スルタン、アル=アシュラフ・イスマーイールI世 (1377-1400在位)の治世である。ラスール朝はザビードやタイッズを首都として、下イエメン一帯を統治していたが、北イエメンには彼らの強大なライバル、ザイド派のイマームが君臨していたことについては、以前にも何度か触れた。この当時のザイド派のイマームは、アル=ナースィル・ムハンマド・サラールッディーン(在位1372-1391)である。1372年に彼の父が亡くなったのに伴いザマールでその後を継ぎ、1381年にサヌアにいた親族を策略によって打ち負かした後、彼はその勢力をティハーマ地方まで伸ばそうとした。そしてラスール朝のスルタンがザビードにいたときに、大勢の軍隊を率いて攻め込み、包囲戦をしかけたのである。


強大なザイド派イマームの軍勢を前に、このときのザビードの兵力は明らかに少なく、篭城を余儀なくされたラスール朝スルタンの劣勢は明らかであった。このためザビードの人々の士気は落ち、スルタンの命運も尽きるかと思われたとき、群衆の中から一人のスーフィーの聖者が進み出て、こう言った。「勝利は我らがスルタンにある。イマームの軍勢は間もなく退くだろう」

人々は半信半疑であったものの、そのスーフィーの持つ力強いオーラとカリスマ性に、尽きかけていた士気を奮い立たせた。当のスルタンにとっても、とても信じられない言葉であったが、それに希望をかけるしかなかった。……だが、どうであろう。聖者の予言した通り、数日後、イマームの軍勢はどういうわけか撤退をはじめたのである。かくしてスルタンは命拾いをしたのであった。*2……そう、このときの聖者こそがアル=ジャバルティーである。


このことでアル=ジャバルティーは、一躍「時の人」となる。ザイド派への勝利を「予知」したのみならず、彼らの突然の撤退も、この聖者が起こした「奇跡」だとザビードの人々は考え、そのカリスマの虜になった。スルタンはこの一件でアル=ジャバルティーにすっかり心服し、彼に惜しみなく寄進しただけでなく、宗教、政治から私事に至るまで相談するようになった。こうしてアル=ジャバルティーはスルタンの腹心として、親友として、また相談役としての立場についた。スルタンの後ろ盾を得たアル=ジャバルティーは、ザビードの学校(マドラサ)において、スーフィズムとイブン・アラビーの思想についての講義を行うようになり、彼の元にはスーフィーたちや学者たちが集まった。民衆たちもまた聖者の「奇蹟」にあやかろうとした。彼が著したイブン・アラビーの本は飛ぶように売れ、講演を行うともなれば大勢の人々が集まった。こうして、厳粛なスンニ派の学術都市であったザビードに、スーフィズムの熱狂が広まる。派手な色に満たされたスーフィーの祭祀や「サマー」と呼ばれる歌や踊りを伴う儀式が、町の至る所で行われ、周辺の地域にも広がっていった。

スーフィーとウラマーの確執

しかしザビードの学者(ウラマー)たちには、こうした動きを快く思わなかった者たちも多くいた。

スーフィズムの熱狂や陶酔は、伝統的なスンニ派の考えを重んじる「敬虔なムスリムたち」にとっては「悪しきビドア」に他ならない。スーフィーはズィクル(夜通し行う祈祷)やサマーのときに楽器を演奏しながら歌い踊り、そこからトランス状態になることで没我の境地に至り、神に近づこうとする。しかし、もともと伝統的スンニ派では(意外に思われるかもしれないが)、娯楽のための歌や楽曲演奏、踊りは禁忌(ハラール)なのである。また上述したように、スーフィズムの中でもイブン・アラビーの存在一性説は特に異端的と見なされるものであった。その急激な拡大は、敬虔な伝統主義者から見るとザビードの「イスラーム法秩序の崩壊」に他ならなかった。

また既に高い地位にあったウラマーたちには、スルタンや民衆の歓心や敬意が奪われたことに対する嫉妬や危機感もあった。イブン・アラビー派の台頭により、自分たちの身分やこれまで築き上げてきた学者組織の体制*3を脅かすことを恐れたウラマーたちは、アル=ジャバルティーとイブン・アラビー派のスーフィーたちを厳しく非難した。


アル=ジャバルティーは、類いまれなカリスマ性の持ち主であったものの、スーフィーの聖者としてはありがちなことに、イスラーム諸学に関する知識には乏しかったと考えられる。後世の反イブン・アラビー派の学者が意地悪く語ることによれば、「アル=ジャバルティーのもとには、病気の治療や様々な悩み事の相談を望んで多くの民衆がおしかけたが、どんな質問に対しても、この無知なスーフィーは『コーランのヤースィーン章 *4を唱えなさい』というだけ」であったという。学識に長けたウラマー相手では、おそらくまともに論争することすらできなかった可能性はあるだろう。こうしてスーフィーとウラマー間の確執が始まる中、スルタンは一人の人物を国外から招聘した。

擁護派、反対派による政争

スルタンが呼び寄せた人物、それは以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130622#1371918104)にも少し触れたペルシア出身の言語学者、アル=フィールザバーディー(1329-1414)である。彼は1329年にイラン南西部のシーラーズ近郊のフィールザバードで生まれ、シーラーズ、バグダード、ダマスカス、エルサレム、マッカ…と各地を転々としながら学問に励み、"al-Qamus"という言語学の大辞典を編纂した、当時屈指の高名な学者である。1395年、スルタン・アル=アシュラフ・イスマーイールI世の招きに応じて、彼はまずアデンに訪れ、そのすぐ後にタイッズへと招かれた。その偉業に相応しい待遇として、スルタンは彼を裁判官(カーディー)達の長「大カーディー」に任命し、さらにスルタンの娘を妻として彼に与えた。


アル=フィールザバーディーは就任して間もなく「イブン・アラビー派の思想はイスラーム法に照らして合法であり、一部のウラマーたちの批判は不当だ」と、彼らを擁護するファトワー(公的見解)を発行している。このときのファトワーは、スルタンの求めに応じて発行されたものだった。アル=フィールザバーディー自身はスーフィーではなかったが、スーフィズムに対して一定の理解を持っていた。またアル=フィールザバーディーの大カーディー就任に伴い、それまで大カーディーを勤めていたイブン・アル=カヤット(ibn al-Khayyat, 1408没)が更迭されており、これは親スーフィー派であったスルタンによる、スーフィーとウラマーの対立への政治的介入だったと考えられる。アル=フィールザバーディーは偉大な学者でもあったが、政治的野心も旺盛な人物だったようで、彼がスルタンに取り入ろうとしてイブン・アラビー派に有利な裁定を下したのではないかとも疑われている。


このファトワーに対して、反対派のウラマーたちは猛然と反発した。中でも前の大カーディー、イブン・アル=カヤットと、彼を支持する各地のカーディーやウラマーたちはアル=フィールザバーディーに反論するファトワーを発行したり、韻文(詩)を発表したりして反論を繰り広げた。さらにイブン・アラビー派のウラマーやスーフィーたちが再反論し、最終的にイエメン中の学識者らが擁護派、反対派、中立派に分かれて対立をつづけたのである。

スーフィーたちの勝利

1400年にスルタン、アル=アシュラフ・イスマーイールI世が崩御し、その息子アッ=ナースィル・アフマド(1400-24年在位)が8代スルタンの座についた。後にアデンの商人たちを弾圧して、わずか数年でアデンを崩壊させ、「暴君」と呼ばれたスルタンである。彼は先代と同様、あるいはそれ以上にスーフィズムに傾倒した君主であった。


アル=ジャバルティーには多くの弟子がいたが、中でも特筆すべき人物が、アブドゥル=カリーム・アル=ジーリー(1429没)と、イブン・アル=ラッダード (1346/8-1418) の二人だ。アル=ジーリーは、ザビードの学校でのアル=ジャバルティーと共にイブン・アラビーの思想を広めた。一方、イブン・アル=ラッダードはアル=ジャバルティーが認めた後継者であり、スーフィーでありながら、後にアル=フィールザバーディーの後がまとして「大カーディー」の座にまで上り詰めた人物だ。


彼はマッカの名家に生まれ、幼少の頃から優れた教育を受け、将来を約束されていた。1365年頃に彼は初めてザビードを訪れており、そこでアル=ジャバルティーと出会ったことで彼の運命は大きく変わった。アル=ジャバルティーのカリスマ性に深く感銘を受けた彼は、俗世の生活を全て捨ててスーフィーに転向した。謙虚さと信心深さを身につけるために、アル=ジャバルティーの薦めによりマッカ時代の友人すべてと縁を切り、禁欲的な苦行に励んだ彼は、自らのエゴを切り捨てるスーフィーの修行の階梯を達成した。その後、アル=ジャバルティーの導きのもとで神秘哲学を学びだした彼はさらに一層修行に打ち込み、弟子達の中でも驚くべき早さの成長を見せた。あるときなどは修行に没頭して妻子に食べ物やカネも届けずほったらかしにしていたため、食うや食わずの餓死寸前になっていたところを、あやうく気付いたアル=ジャバルティーが施しを与えて救ったとも伝えられる。アル=ジャバルティーは彼を認め、カーディリー教団で使われていたスーフィーの衣を彼に授けて、自らの後継者とした。


以降、アル=ジャバルティーの行くところには、いつもイブン・アル=ラッダードが付き従った。アル=ジャバルティーがスルタンに庇護されるようになると、彼も一緒に宮廷に赴き、そこでスルタンやその親族たち、そしてアル=フィールザバーディーとの面識を得た。やがてスルタン、アル=アシュラフ・イスマーイールI世、アル=ジャバルティーが亡くなると、イブン・アル=ラッダードは自分の娘をスルタン、アッ=ナースィル・アフマドの妻として嫁がせて宮廷での確たる地位を築いた。さらに1415年にアル=フィールザバーディーが亡くなると、「娘婿」に当たるスルタンの専横によって、大カーディーに就任したのである。


イブン・アラビーの擁護派と反対派の論争は、アル=ジャバルティーやイブン・アル=カヤットが亡くなった後も未だに続いていた。この頃、擁護派の旗頭になっていたのがイブン・アル=ラッダードであり、反対派の中心はイブン・アル=ムクリという有名なウラマーであった。イブン・アル=ラッダードの大カーディー就任は、論争の正否はさておき、政治権力の面から「スーフィーたちの勝利」に決着づけるものとなったのである。

そしてイブン・アル=ラッダードは、大カーディーに就任するや、論敵たちに容赦ない弾圧を加えた。ウラマーたちのもとに私兵がやってきて身柄を拘束し、ある者は投獄され、ある者は逃げ出し、中には命を落とす者もいたという。

スーフィーたちの没落

反対派の中心だったイブン・アル=ムクリはこのときの弾圧の手を逃れてザビードから逃げ出していたが、後にスルタンから再び戻ってくるように告げられ、ねぎらいの言葉を受けている…実はこのとき、高名な学者だったイブン・アル=ムクリにはザイド派のイマームからも声がかかっており、それを聞きつけた暴君が慌てて呼び戻したのが真相だったのだが、このことが反イブン・アラビー派に再起の望みをつなぐことになった。

1424年に「暴君」アッ=ナースィル・アフマドが崩御すると、その後継者を巡って親族同士でのいさかいが生じる。その筆頭に立ち9代スルタンの座についたのは、アル=マンスール・アブドゥッラー(1424-1427在位)であった。彼は自分の政敵らに対抗するため、弾圧されていた反イブン・アラビー派のウラマーたちを厚く庇護した。アル=ジャバルティーのような強烈なカリスマ指導者も、アル=フィールザバーティーのような高名な学者も、またイブン・アル=ラッダードのようなスルタンとの親類もすでに世を去り、その後ろ盾をすっかり失っていたイブン・アラビー派は、立場が逆転して報復の対象となり、今度は逆に弾圧されることになった。


1427年、9代スルタンが亡くなると年若い10代の王子がその後継者として10代スルタンとなり、アル=アシュラフ・イスマーイールII世を名乗った……アル=ジャバルティーを最初に庇護した7代スルタンと同じ名である。その名の示す通り、彼は今度はイブン・アラビー派側のスルタンであった。このとき、イブン・アラビー派の中心だったのはアル=キルマニーという人物であり、再びザビードで活動することを新スルタンから許された。この頃はまだ、スルタンの親族や軍関係者などに、イブン・アラビー側の人間が残っていたことが伺える。


ところが翌1428年、年若いスルタンからの給与の少なさに腹を立てた傭兵たちがクーデターを起こし、スルタンを捕えて投獄してしまう。その後を受けて11代スルタン、アル=ザーヒル・ヤヒャ(1428-38在位)が後を継ぐと、アル=キルマニーは再び追放された。その後アル=キルマニーは、周辺の部族やスルタンの兄弟を巻き込んで反逆を企てるが失敗し、彼が逃亡先のジーザーンで1437年に亡くなると、イブン・アラビー派は完全に権力の座から失墜した。

イブン・アラビーの教え自体はその後もアル=ジーリーやその後継者によって、ザビードの学校で教えられてはいたようだ。しかしアル=ジャバルティーの息子が1470年に亡くなったときにそれも途絶え、彼らの思想を受け継ぐスーフィーの一派はザビードから姿を消していったという。

*1:彼らに関する史料は少なく、15世紀の法学者、イブン・アル=アフダル(アル=フサイン・イブン・アブドゥッラーマン・イブン・アル=アフダル、1481没)によるものがあるものの、明らかに反イブン・アラビー側からの視点に偏った内容である。そもそもラスール朝の時代には、多彩な学術が発展したものの、彼らザビードの学者自身に関する史料は少なく、彼らと敵対していたザイド派による、明らかに偏りのある史料が多い

*2:ザイド派が何故撤退したのかは不明である。また、この出来事がいつのことかも、1381-91年の間であることは間違いないが、具体的にはわからない。しかしザイド派イマーム、サラールッディーンは1391年に、ラバに乗っているときに放り出されてそのまま引きずられ、その傷が元で急死したと伝えられており、その死は二ヶ月の間、秘密にされていたという。このことから考えて、1391年のイマームの急死がザイド派の撤退理由であったかもしれない。

*3:当時のイスラーム社会においては、学者たちは独自の組織体制を持ち、スルタンの権力からある程度独立していた。ラスール朝の司法組織において、スルタンはイエメン全体の裁判官(カーディー)たちの長となる「大カーディー」を任命するが、各地のカーディーの任命権限は大カーディーにあった。このため、大カーディーを頂点とした法学者たちの組織が形成された。なおラスール朝の初期には、大カーディーの代わりに、イムラーン家やムハンマド・イブン・ウマル家など、有力なウラマーを多く輩出した地元の名家がカーディーを任命していたが、5代スルタン・ムジャーヒドの頃に、ウラマーたちによる体制が整えられたという(栗本保之「イエメン・ラスール朝とウラマー名家」オリエント42-1 (1999) 67-83)。また、学者同士の派閥争いに関しても、スルタンは調停役となることはあってもどちらか片方に肩入れすることは少なかった。ただし、この項で扱うスーフィズムの台頭に関してはその例外の典型である。

*4:http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran036-1.htm 、 http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran036-2.htm

アル=ジャバルティーはコーヒーを飲んだか?

歴史の話が長くなったが、ポイントをまとめると以下のようになる

  1. イエメンでのスーフィズムのはじまりは13世紀頃。郊外型の、聖者を中心とする小教団によるものが主体。
  2. 14世紀末にザビードでアル=ジャバルティーが現れ、民衆、スルタン、一部の学者らの間で熱狂的にスーフィズムが広まる(イブン・アラビー派の台頭)
  3. 1395-1424の間、イブン・アラビー派のスーフィーが学界(政界)を牛耳り、伝統的スンニ派のウラマーが弾圧される
  4. 1425以降、イブン・アラビー派が失墜し、伝統的スンニ派が再び返り咲く。


さて、そもそもの疑問に立ち返ろう。我々の最大の関心はコーヒーである。14世紀末から15世紀最初の四半世紀にかけて、ザビードを中心にスーフィズムの一大ブームが巻き起こった。ならば、このときザビードのスーフィーたちが、コーヒー/カフワを利用した可能性があるのかどうか。もしくは、アル=ジャバルティーがコーヒーを知っていたか、あるいは利用していたかどうかである。


アル=ジャバルティーについては生年もよくわからず、若い頃の経歴がよくわからない。彼の弟子であるイブン・アル=ラッダードが1346/8年の生まれで、ザビードに初めて来たのが1365年ということなので、早めに見積もればこの頃には既にスーフィーの師(マスター)になっていたかもしれない。没年が1403年ということと、1380-90年頃に聖者として扱われたことなどと合わせて考えると、1310-20年頃に生まれたというあたりだろうか?

彼がどのようにしてスーフィーになり、その聖者の一人になったかについてもわからない。ただ彼がイブン・アル=ラッダードに後継者の証として、カーディリー教団*1のスーフィーの衣を授けたということから、カーディリー教団の系譜を組んでいた可能性は考えられる。またイエメンにイブン・アラビーの思想が伝わった当初には、上述したようにリファーイー教団のスーフィーたちが関与しており、この教団から思想的な影響を受けたことも考えられる。

アル=ジャバルティーとエチオピア

アル=ジャバルティーの生い立ちを考える上で、もっとも興味深い手掛かりは、その「アル=ジャバルティー al-Djabarti」という名前そのものだ。これは出身地を示すニスバである。"Djabarta"という地名は、ド・サッシーが仏訳した、アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』にも見いだす事ができる。

Je dis dans le Yémen seulement, et non ailleurs, parce que nous ignorons comment et à quelle occasion on a commencé à prendre du café dans le pays d'Ebn-Saad-eddin, dans l'Abyssinie, le Djabarta, et autres lieux de la terre d'Adjam (34). (de Sacy, Chrestomathie arabe p.419)


拙訳:私は(コーヒーのはじまりについての話を)「イエメンに限った話として、他の場所ではなく」として述べたが、なぜならサーダッディーンの息子の国(=アダル・スルタン国)やアビシニア、ジャバルタ、そしてそれ以外のバール・アル・アジャムの地域で、コーヒーがどういう経緯で、どのように飲まれるようになったかを知らないからだ (34)。


さらにド・サッシーは脚注で、この「ジャバルタ」を以下のように説明している。

Le Djabarta ou Djibert est le même pays qui est aussi nommé Aufat ou Wajat par les écrivains arabes, et Ifât par les Abyssins et les auteurs européen. Suivant Makrizi, le nom de Djabart est commun à tout le pays de Zeïla, et comprend sept royaumes, au nombre desquels est celui d'Aufât. (ibid p.455)


拙訳:ジャバルタまたはジベルトは、アラビア人の作家が「アウファト」または「ワジャト」、ヨーロッパの著者が「イファト」と呼ぶ国と同じである。マクリジによれば、ジャバルトはゼイラの全体と共通しており、それを含んだ7つの王国がアウファトであった。


この「ジャバルタ」「ジベルト」という地名は、現在の「ジブチ」の国名の由来でもある。14世紀-15世紀初頭には、ゼイラの近辺はイファト・スルタン国の支配下にあった。この中でも沿岸部のゼイラ周辺の一帯が「ジャバルタ」であり、アル=ジャバルティーはもともとこの地域の出身であったと考えられる。


イファト・スルタン国は13世紀前半、マッカからゼイラに渡った、ウマル・ワラシュマが興した国であり、1285年にはエチオピア西南部のショア・スルタン国を滅ぼして、ゼイラからイファトにまで広がる、広大なスルタン国を成立させた。しかし、キリスト教エチオピア王国のアムダ・セヨンとの戦いに破れ、1328/32年にその属国となった。その後、何度かの反乱を起こしたが、サーダッディーンII世は1403/10年に、逃亡先のゼイラで殺されている。

イファト侵攻の少し前、1316年にアムダ・セヨンはダモトやハドヤなど西南部の部族を攻め滅ぼし、その残党がイファトに逃れている。さらにイファト侵攻後には、イファトから紅海沿岸部のゼイラに向かって、西南部の人々が逃れて行った可能性がある。この経緯については以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130213)にも述べた。


したがって、もしアル=ジャバルティーが1310-20年頃にジャバルタで生まれ育っていたならば、その人生の最初の時期に、こうした西南部から逃れてきた人々と接触していた可能性は十分に考えられる……だとすれば、アル=ジャバルティーがザビードでスーフィズムを大流行させると同時に、夜通しの祈祷(ズィクル)のために、カートから作るカフワや、コーヒーの実で作るカフワを用いており、それがはじまりのきっかけになった…これは魅力的な仮説だ。

しかし残念ながら、この当時の史料にアル=ジャバルティーら、イブン・アラビー派のスーフィーがコーヒーを使っていたかどうかに関する具体的な記録は見られないようである。これだけ大きなスーフィズムの流行があったにも関わらず、コーヒー利用の記録がないということは、裏を返せば、むしろこの時代のザビードでは利用が広まっていなかった…すなわち、彼らはコーヒーを使っていなかったと考えるべきかもしれない。コーヒー/カフワのはじまりに関する伝説では、ウサブ山やモカなど、ザビードからそう遠くはないにせよ、いずれも郊外で始まったことが暗示されていることとも合致する。


とはいえ、後にイブン・アラビー派が弾圧されたときに、そうしたザビードでのコーヒー利用の記録が抹消された可能性も否定はできない。また、ひょっとしたらイブン・アラビー派が秘密裏に使っていた可能性もあるだろう。ザビードでのスーフィズムの普及によって、多くの人がイブン・アラビーの著書やサマーを介してスーフィズムに触れた。しかし、より深くスーフィズムに触れようとして、スーフィーたちのサークルに入り、修行をした者たちの間でだけ用いられていた「秘薬」扱いだったかもしれない。

*1:カーディリー教団は12世紀のバグダードで、ハンバル派の法学者でスーフィーだった、アブドゥル=カーディル・アル=ジーラニー (1077–1166)が創始した、最古のスーフィー教団である。英語版のWikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/Qadiriyya では、アル=ジーラニーからイブン・アラビーへの系譜が記載されているが(2013å¹´12月現在)、Knysh "ibn `Arabi in the Later Islamic Tradition"など、他の史料ではこうした繋がりに関しての記載は見られなかった。

もう一つのスーフィズム:シャーズィリー教団の関わり

コーヒーとスーフィズムの関わりについて、これまでもっともよく議論されてきたのは、アル=ジャバルティーとの関連がありそうなカーディリーでもリファーイーでもなく、シャーズィリー教団である。

アブドゥル=カーディルがコーヒーを初めて用いた三人の候補の一人に上げている「モカの守護聖人」アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリー(以下、アリー・イブン・ウマル。1418頃没)も、アル=アダニーらとほぼ同時代の人物である。彼はその名が示す通り、シャーズィリーヤ教団のスーフィーである。この教団の始祖であるアブール・ハサン・アッ=シャーズィリー (以下、アッ=シャーズィリー、1196-1258)については以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130529/1369826785)述べた。エジプトを中心に民衆の間にスーフィズムを広め、現在にもその支団が残っている、一大スーフィー教団(タリーカ)である。この13世紀のアッ=シャーズィリーから、15世紀のアリー・イブン・ウマルに至る系譜についてはよくわからない。


イスラーム百科事典によれば、アリー・イブン・ウマルは、イファト・スルタン国の「最後のスルタン」サーダッディーンII世(-1403/10)の妹を妻にしていたという。エチオピアのイファト・スルタン国で代々スルタンの位にあったワラシュマ家の人々*1に気に入られたらしく、スーフィズムの布教活動に成功したばかりか、サーダッディーンII世の妹を娶ったというのだ。彼はその後、スルタンの妹と共にエチオピアからイエメンのモカに渡って、そこを自分の教団の本拠地にしたと伝えられている。彼がモカに渡った後も「スルタンの妹婿」宛に、エチオピアからさまざまな贈り物が届けられていた記録があるそうだ。

また、キリスト教国エチオピアとの争いに敗れたサーダッディーンII世が、逃亡先のゼイラで亡くなったとき、彼の子供たちがイエメンに亡命している。その後まもなく彼らはエチオピアに戻って、新しくアダル・スルタン国を興すことになる。彼らがどのようにしてイエメンに亡命したのかはよく判らないが、「叔父」であるアリー・イブン・ウマルを頼って、モカに亡命したという可能性は十分に考えられる。


エチオピアとのつながりの深さと、後にコーヒー輸出港として栄えたモカとの関係から「アリー・イブン・ウマルこそが、アラビア半島でのコーヒー利用の創始者である」という巷説は、16世紀にはすでに根強いものであったようだ。モカで暮らすスルタンの妹夫婦…アリー・イブン・ウマルのもとに送られた、エチオピアからの贈り物の中にカートやコーヒーもあったかもしれないし、ワラシュマ家の人々がゼイラから彼を頼って亡命してきたときに携えてきたかもしれない。どちらも十分、ありえそうな話である。


しかしアブドゥル=カーディルはこうした巷説に対して非常に慎重であった。彼は、ファクルッディーン・アブー・バクル『コーヒーの勝利』を参照しながら、カートやコーヒーの葉から作られていた初期の「カフワ」を紹介し広めたのはアリー・イブン・ウマルであるとしても、キシル(コーヒーの実の部分のみ)やブン(コーヒーの実と種)から作る「カフワ」を民衆に広めたのはザブハーニーである、という風に、両者の貢献を別々に評価しようとしている。

上述のエリック・ジョフロワも、15世紀頃のスーフィーが書いた書物を複数検証しても、そうした記述が見られないことから、アリー・イブン・ウマルが「(飲み物としての)コーヒー」の創始者であるという説に対して、かなり懐疑的な見方をしている…もし本当にアリー・イブン・ウマルの功績ならば、彼の弟子たちがそれを書物に書かないということは非常に不自然だからだ*2。


これらを合わせて考えると、「モカの守護聖人」アリー・イブン・ウマルがコーヒー飲用の創始者であるという俗説…例えばキャーティブ・チェレビーの『世界の鏡』で語られるような伝説…は、少なくとも「コーヒーの実や種から作る飲み物としてのコーヒー」に関しては疑わしく、後世の人々による後付けである可能性も大きい。

こうした話が広まる背景には、モカと並ぶコーヒー交易の拠点だったバイト・アル=ファーキルに対するモカの人々の対抗意識や、ザビードのイブン・アラビー派に対する、シャーズィリー教団の対抗意識などが作用していた面もあるかもしれない。後に最大の輸出港として栄えたモカの人々が、自分たちに身近な人物こそコーヒー導入の功労者であるとして広めたというのは、いかにもありえそうだ。またひょっとしたらアリー・イブン・ウマルの後継に当たるシャーズィリー教団のスーフィーたちが、彼らの始祖の業績を語りつぐうちに、話に尾ひれがついていったのかもしれない。

*1:サーダッディーンII世本人か、その兄や父などだったかはわからない

*2:ただしジョフロワは、アブドゥル=カーディルのザブハーニーに関する見解についても同様に、他に同じ内容の文献がないという理由で一定の留保をする立場を採用している。

ジャマールッディーンとスーフィズム


ザビードにおけるスーフィズムの歴史で注目すべきは、7代スルタン、アル=アシュラフ・イスマーイールI世がアル=フィールザバーディーを大カーディーに任じてから、8代スルタン、アッ=ナースィル・アフマドが死ぬまでの30年間の間、すなわち1395-1424年に、親スーフィー派のウラマーもしくはスーフィーたち自身が、イエメンの学者たちの権力の中心にいたということである。


アル=アダニーにしてもザブハーニーにしても、どちらも「スーフィーにしてムフティー」という、一見矛盾した立場を解くカギが、ここにもあるかもしれない。以前、ザブハーニーについては、この矛盾を説明するために「ラスール朝末期の混乱時に、王位請求者の一人がムフティーに任命した」という仮説を立てた。もう一つの可能性として、イブン・アル=ラッダードが「スーフィーにして大カーディー」であったこの時代であれば、本来ならば「荒野で修行する反権力的宗教者」であるスーフィーが、伝統的スンニ派の学者で栄えたラスール朝において、「公正さを認められた卓越した法学者」であるムフティーとして認められた可能性も十分考えられる。

エリックが引用したアル=ナブハーニーの文献によれば、アル=アダニーはアル=ジャバルティーの弟子の一人であったことが記されている。しかし、上に示したようなイブン・アラビー派の史料には、残念ながらアル=アダニーのものと思われる名前はないようだ。このことから、アル=アダニーはイブン・アラビー派の中では*そこまで*の重要人物ではなかったと推測される。ひょっとしたら、大カーディーに就任したアル=フィールザバーディーやイブン・アル=ラッダードが、派閥固めのために、自分たちと同じイブン・アラビー派に属する学者を各地に派遣していたかもしれない。このときアデンに派遣されたのがアル=アダニーであったのかもしれない。ただし、この当時の「論争/政争」の中心はザビードやタイッズであり、商業都市であったアデンでどういう学者らが活躍していたか、よくわからない。

ザブハーニーの経歴を考える

アル=ジャバルティーがザビードで活躍したのは1380年代-1403年の間だと考えられる。したがってアル=アダニーその教えを受け、かつ1425年までにムフティーのような重職に任じられる者がいたならば……生年としては1370-80年頃であろうか? それならば10-20代の若い頃にアル=ジャバルティーから教えを受け、40-50代に重職についたというならば、さほどおかしな話ではないだろう。ここでアル・アダニーとザブハーニーの経歴に立ち返り、いくつかの仮説を上げて、今回のまとめとする。

怪しい仮説その1

比較的シンプルな考え方は、ややこしいイスラーム百科事典の記述など無視してしまうことだ。前回までに考察した分でまとめるとこうなる

  • (1380-1425年、ザビードでスーフィズム流行)
  • 1400頃、ザブハーニー、ザブハーンの村で生まれる
  • 1410-20頃、ザブハーニー、アデン(またはザビード)で勉強し、アデンで法学者となる
  • (1420-24年、スルタン、アッ=ナースィル・アフマドの圧政でアデン経済が壊滅)
  • 1420-25頃、ザブハーニー、「アジャムの地」に渡って、原住民がコーヒーを利用するのを目撃
  • 1425-、ザブハーニー、アデンに帰還しスーフィズムに目覚める
  • 1425-、ザブハーニー、アデンで疥癬を発病。コーヒーを試して快癒
  • (1442-1454、ラスール朝末期の戦乱)
  • 1448-1454、ザブハーニー、アデンのラスール朝王位請求者たちに請われてファトワーの検閲者に。この頃、民衆の前でコーヒーを飲む?
  • (1454 ラスール朝滅亡、ターヒル朝はじまる)
  • 1470、ザブハーニー死去

怪しい仮説その2

イスラーム百科事典の内容を考慮に入れるなら、別の仮説がいくつか立つ。もし (1)アブドゥル=カーディルらとイスラーム百科事典、両方の史料が正しいとするならば……没年の異なる、二人の「ゲマルディイン」が存在したことになる。「一人目のゲマルディン」アル・アダニーは1425年または1438年までにアデンに派遣され、おそらくはアデンの地で、コーヒーを是認するファトワーを出した。その後、彼はアデンで亡くなった。一方、「二人目のゲマルディン」ザブハーニーは1400年頃にザブハーンで生まれ、若い頃に勉強した後、アデンで学者になった。すなわち1425年までの間のアデンで、アル=アダニーと若き日のザブハーニーが出会った可能性が出てくる。以前立てた仮説では、ザブハーニーが圧政下のアデンを離れ、再び戻ってきた可能性について論じた。またサハーウィーによれば、ザブハーニーは若い頃に熱心に勉強し、その後でスーフィーとなったという。つまり、アデンに戻ってきたザブハーニーがアル=アダニーと出会い、彼からスーフィズムを学んだ可能性がある。

  • 1370-80頃、アル=アダニーが生まれる
  • (1380-1425年、ザビードでスーフィズム流行)
  • 1390-1400頃、アル=アダニー、ザビードでアル=ジャバルティーの教えを受ける
  • 1400頃、ザブハーニー、ザブハーンの村で生まれる
  • 1400-1425頃 アル=アダニー、アデンのムフティーになる。コーヒーに関する最初のファトワを出す
  • 1410-20頃、ザブハーニー、アデン(またはザビード)で勉強し、アデンで法学者となる
  • (1420-24年、スルタン、アッ=ナースィル・アフマドの圧政でアデン経済が壊滅)
  • 1420-25頃、ザブハーニー、「アジャムの地」に渡って、原住民がコーヒーを利用するのを目撃
  • 1425-、ザブハーニー、アデンに帰還し、アル=アダニーと出会いスーフィズムに目覚める
  • 1425-、ザブハーニー、アデンで疥癬を発病。コーヒーを試して快癒
  • 1425または1438、アル=アダニー死去
  • (1442-1454、ラスール朝末期の戦乱)
  • 1448-1454、ザブハーニー、アデンのラスール朝王位請求者たちに請われてファトワーの検閲者に。この頃、民衆の前でコーヒーを飲む?
  • (1454 ラスール朝滅亡、ターヒル朝はじまる)
  • 1470、ザブハーニー死去

怪しい仮説その3

ここでもう一つ、別の可能性についても考えたい。それはこの二人の「ゲマルディン」が同一人物である可能性だ。前回までは「1470年に死亡したザブハーニー」という前提のもとで仮説を立ててきたため、それらの一部を捨てたり、変更しなければならないが、試案するだけの価値はあるだろう。


同一人物説を考える上で大きな問題となるのは没年の違いである。しかし没年のうち、アル=ナブハーニーの言う1425年は、アッ=ナースィル・アフマドが亡くなってイブン・アラビー派が弾圧された年であり、アブ=マクマラーの言う1438年は、イブン・アラビー派のアル=キルマニーが死んでイブン・アラビー派が完全に失墜した年である。もしイブン・アラビー派の後ろ盾によって、ムフティーの地位に就いていた人物なのだとしたら、これらの出来事の後、対立する反イブン・アラビー派によってその座を追われたことは想像するに容易である。あるいは弾圧を恐れて、一時的に姿を隠した可能性もありうるだろう。そのために「行方知れず」となったことで、当時の史料では死んだものとされてしまった可能性も考えられる。仮にそうだとして、実は生き延びていたとするならば……上で仮定したように、アル=アダニーが1370-80年代の生まれで、アブドゥル=カーディルやサハーウィーが示した「1470年」が没年ならば90歳ちょっと。アブドゥル=カーディルの文献に出てくる長老、アレウィ・イブン・イブラヒムと同じくらいの年齢である。今より平均寿命が短い15世紀とは言っても、決して無理のある年齢ではない。


また、サハーウィーの文献にあるように「隠遁者で、金曜日の礼拝か、重要な人に会うとき以外は外に出ず、スーフィズムの著述に没頭していた」ということも説明がつくかもしれない。イブン・アラビー派が失脚した後、彼もまた対立する派閥からの糾弾におびえる身となり表に出なくなったとか、あるいは(この当時のイエメンの虜囚ではよくあったようだが)捕われた後、自宅で半ば監禁された状態で、監視下に置かれていた可能性もある。また「スーフィズムの著述に没頭していた」という点は、彼が没我的かつ実践的なスーフィズムの修行に励んでいたというよりは、むしろイブン・アラビーのように神秘哲学的な著作に活動の力点をおいていたようにも受け止められる。

そして「ファトワーの検閲」という職業についても、実は彼が「アデンで更迭された元ムフティー」だと考えると、意外にしっくりとくる。失脚し監視下に置かれていたものの、かつてムフティーとして勤めていたザブハーニーには、ファトワーを検閲できるだけの経験と学識があった。そのためアデンの人々や、あるいはラスール朝末期の王位請求者たちは、彼にファトワーの検閲官という、持って回ったような役どころを与えたのかもしれない。

  • 1370-80頃、ザブハーンの村で生まれる
  • 1380-90頃、ザビードで学問に励む
  • (1380-1425年、ザビードでスーフィズム流行)
  • 1390-1400頃、アル=ジャバルティーからイブン・アラビー派のスーフィズムを学ぶ
  • 1390-1420é ƒ?、短期間教師を勤める
  • 1390-1420é ƒ?、アジャムの地に渡り、原住民がコーヒーを利用するのを目撃
  • 1415-1425頃、ザブハーニー、アデンに戻る。疥癬を発病。コーヒーを試して快癒
  • 1415-1425頃、アデンのムフティとなる。コーヒーを是認する最初のファトワを発行
  • (1420-24年、スルタン、アッ=ナースィル・アフマドの圧政でアデン経済が壊滅)
  • 1425/1438頃、イブン・アラビー派の失脚に伴い失踪、あるいは監視生活に。
  • 1440-1470é ƒ?、アデンで民衆の前でコーヒーを飲む
  • (1442-1454、ラスール朝末期の戦乱)
  • 1448-1454、ラスール朝王位請求者のためのファトワの検閲官に。
  • (1454 ラスール朝滅亡、ターヒル朝はじまる)
  • 1470 アデンにて死去


さて、今年の一月からはじめた、この「はじまりの物語」も、やっとザブハーニーまで到達した。これでほぼ終わりであるが、次回は、全体の流れを総括することにしよう。