はじまりの物語 (16)

#ゲマルディンことジャマールッディーン・アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・サイード・アッ=ザブハーニーの謎に迫る その5

#前回からかなり時間があきました。実は来年1月(予定)に、共著でコーヒー本出します(歴史の話ではない)。詳細はまた後日。


ザブハーニーがコーヒーを「是認した」とは、どういうことか?

主な参考文献


ユーカース『オールアバウトコーヒー』の年表を見てみると

1454[L]―Sheik Gemaleddin, mufti of Aden, having discovered the virtues of the berry on a journey to Abyssinia, sanctions the use of coffee in Arabia Felix. *1

ザブハーニー(=Sheik Gemalddin)はコーヒーの利用を「sanction 是認」したと記述されている。英語の"sanction"には、法や規範に基づいた形で「公式に認める」という厳格な意味と、慣例的に「認める」というやや緩やかな意味の、両方の解釈が可能である。この"sanction"が、当時のイスラム社会で実際にはどの程度の位置づけのものであったかは、コーヒー利用の成立背景を考える上で重要であろう。


英語の"sanction"の基準は曖昧であるが、イスラム社会において「法に基づいて公式に認める」ということは、かなり特別な意味を持っている。イスラム社会における「是認」とは、イスラムの教えそのもの(イスラーム法、シャリーヤ)への合否を巡る問題である。豚肉やワインなどの例に見られるように、イスラム教においては禁忌(ハラム)と位置づけられる飲食物を摂ることは許されない*2。それは理屈抜きの戒律であり、「宗教的禁忌」である。


コーヒーがイスラムの法において「許されたもの(ハラール)」なのか「禁じられたもの(ハラム)」なのかは、コーヒー飲用がマッカ(メッカ)やエジプト、トルコ…と拡大していく過程で、いくつもの議論や事件を巻き起こした重要な問題であった。アブドゥル=カーディルの『コーヒーの合法性の擁護』も元を正せば、この議論のために書かれた文献である。その冒頭に見られる、コーヒーに敵対する者たちの言葉…「コーヒーを飲んだ者は、来るべき最後の審判の日に、コーヒーを淹れる器の底よりも暗い顔色をしているだろう」…も決して単なる脅しのためのものや呪詛とは言えない。確かにかなり感情的で過激な表現ではあるものの、もし本当に「禁忌」なのであれば、それはイスラム教徒にとっては「禁忌を犯したものの末路」として、当然のことだと言えただろう。

*1:Ukers"All about coffee" A Coffee Chronicle http://www.web-books.com/Classics/ON/B0/B701/42MB701.html

*2:ただし緊急時や、意図せずに食べた場合については、クルアーン第二章173を根拠に許容されるというのが一般的解釈である。

イスラムの「法学」

この「許されたもの」と「禁じられたもの」を決めるのは一体何なのか。イスラムにおいてそれを決定しているのは神(アッラー)であり、信徒はその神の意志、神が定めた「法」(イスラム法、シャリーヤ)に従うことになる。預言者ムハンマドが存命の時代には、信徒からの質問に答えて裁定を行うのも預言者の役割であった。しかし預言者の没後、様々な問題に対する裁定をどうすべきかが問題になった…イスラム教においては、ムハンマドが最後にして最高の預言者であり、彼の没後、「神の啓示(神が人々に語りかけて導くこと)」は失われたと考える。新しく神の啓示が得られることはなく、イスラムの民は、それまでに得られた啓示から神の意志に沿った「正しい答え」を導きださねばならないと考えられた。


この「答え」を出すために、イスラム圏ではさまざまな学問が発達した。その大本になるものは神とその啓示を扱う「神学」であり、それ以外の学問(イスラム諸学)は、神学を幹として発展した。

そして、このイスラム諸学の中で、イスラム法について扱う分野が「イスラム法学」である。形而上学な面が強い神学に対し、より実践的な学問であり、現代の我々がイメージする「法学」よりも、さらに人々の生活に直結した内容を扱う。…すなわち弁護士や裁判官を育成したり、憲法や刑法、民法などの理念に関することばかりでなく、もっと具体的に、刑罰や相続の規定から、毎日の礼拝の正しい作法、「親に対して『ちぇっ』と言ってはならない」というような、宗教、道徳や生活規範まで包摂した分野である。


例えば「コーヒーを飲むこと」といったような特定の行為が問題になった場合も、イスラム法に照らして合法(ハラール)か、違法(ハラム)かが判断されるため「法学上の問題」となる。そして、もしそれが、あるイスラム共同体における社会的な問題になった場合、その正式な決定は、イスラム法に関する問題を扱う裁判官(カーディー)の判決によって行われる。裁判官の職務はイスラム法に関して十分な知識を持つ法学者(ファキーフ)が務めた。ただし難しい問題を扱う場合など、裁判官が法的根拠となるテキスト*1の中に直接の答えを見いだせないことがあり、そのときは「イジュティハード」と呼ばれる法的推論によって、答えを見つけださなければならなかった。イジュティハードを行うことが出来る法学者は「ムジュタヒド」と呼ばれ、法学者の中でも指導的な役割を果たす人物とされた。裁判官自身がムジュタヒドであることもあったが、それでもしばしば他の専門分野の学者から意見を求めることも多かったという。


なお、ザブハーニーが勤めていた「ムフティー」はムジュタヒドの中でもさらに特別な位置にある。ムジュタヒドの見解は必ずしも社会的公正さを考慮するとは限らないのに対し、ムフティーには公正さが要求された。このため、ファトワー(公式の法的文書)を発行することがムフティーにのみ許される職務だったのである。


ムフティー(公的な見解を出せるムジュタヒド)≧ ムジュタヒド (イジュティハードによる正しい答えを導き出せる法学者) > ファキーフ(法学者)

*1:法源としてのクルアーンやハディース集、後述

合法と違法


さて、この「合法/違法」を判定する法的根拠(法源)は、イスラムの宗派によっても異なる。一般に、スンナ派(イエメンのラスール朝やターヒル朝なども含まれる)の場合は以下の4つがその法源として紹介されることが多い。

  1. クルアーン(コーラン)
  2. スンナ(慣行)
  3. イジュマー(意見の一致)
  4. キヤース(類推)

この4つを法源とする考えは、8-9世紀の法学者アル=シャーフィイー(767-820)によって整理され、その没後、彼を祖とするシャーフィイー学派が成立した。その後、シャーフィイー派とそれ以外の法学者の論争から、彼よりも前の時代の人物であるアブー=ハニーファ(767年没)と、マーリク・イブン・アナス(711-795)の法理論に基づくハナフィー学派とマーリク学派が生まれ、それぞれアッバース朝の中心であるペルシアなどの諸地域と、および預言者の故郷であるマディーナやマッカでの慣習(ウルス)を認容する方針での法理論を展開した。さらにその後、アフマド・イブン・ハンバル(855年没)の理論に基づき、クルアーンやハディースとして明文化された法源を重視するハンバル学派が成立した。このハナフィー、マーリク、シャフィーイー、ハンバルの四つがスンナ派の四大法学派と呼ばれる。

クルアーン

クルアーンは、神が預言者を通じてイスラムの民に伝えた「神の言葉」そのものであり、イスラム教における絶対の聖典である。神は(預言者の出身であるヒジャース地方の)アラビア語で預言者に語りかけて啓示を与え、それを預言者が彼の教友や信徒であるアラブ人たちに口頭で伝えた*1。人々はそれを暗記し口伝で伝承していったが、まもなく彼の信徒らが迫害、虐殺されていったため、神の啓示を形に残すべく、書物の形にまとめられて行った。特に預言者の没後には、伝承者や地域による差違が生じ始めたため、650年頃に三代カリフであるウスマーンが命じて一冊の「正典」が定められ、それ以外の版は破棄された。

イスラム神学上、クルアーンは「神の言葉そのもの」であり、神自身に由来するものであるため、他の「神の被造物(神に作られたもの)」とは別格のものと位置づけられる*2。クルアーンは「完全なもの」であり、その中にイスラム教徒が従うべきすべての事柄が包摂されているとされる。この中には500を超える法学的な内容が含まれており、それらは最も重要かつ他の要素に優先される、第一の法源(法的根拠)となる。

スンナ

クルアーンには、この世の万物に関する絶対の「正しい答え」が包摂されているものの、人々の間で実際におきる諸問題のひとつひとつにそのまま適応できるような形で書かれているとは限らない。このような問題に対処する場合、人々は預言者の言動から、もっと具体的な事例を読み取ることができると考えた。預言者は神の意志に従って行動していたため、彼の言動に倣って振る舞えば神の意志に背くことはないからだ。

このような預言者の言動は、スンナ(慣行)と呼ばれ、クルアーンに次いで重要な、第二の法源とされた。クルアーンには「預言者が間違った言行をすることはなく」「信徒は預言者に従うよう」書かれており、かつ「クルアーンに書かれていることは正しい」ということから、クルアーンを土台として、スンナの正統性が導きだされる。


初期のクルアーンが口伝であったように、預言者のスンナも当初は彼と行動を共にした教友らによって伝承された。それらの伝承を収集し、文書としてまとめたものが「ハディース」と呼ばれる預言者の言行録である。預言者のスンナは、ハディースのテクストの中に包摂されている。また初期のクルアーンがそうであったように、ハディースもまた伝承されていくうちに、伝承者や地域ごとのバリエーションが生じ、さらには出所不明の伝説の類いまでが混在するようになった。このため初期のイスラム法学では、伝承として収集されたハディースの真偽を検証する「ハディース学」が重要視された。ハディースはクルアーンについで重要な法源であるが、そこに集成される伝承や解釈には、宗派や学派ごとの違いも見られる。


ハディースには、その内容…すなわち預言者の言動そのものを示す文章(マトン)とともに、その伝承がどのように伝えられたかという「伝承の鎖(イスナード)」が付属する。イスナードは、現在に伝わるその伝承が、誰から誰へと言い伝えられたかを示すものであり、最終的にはそれが預言者本人や教友の時代まで繋がっていく必要がある。またその伝承を伝えたとされる人物が、信徒としても学者としても信頼できる人物であることも重視される……ここでアブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』の文中で、彼が引用した人物の名前に、やたらと「神学に秀でたことで有名な」とか「非常に敬虔な」などが付けられていたことも思い出されるだろう。あの過剰とも思える人物紹介も、イスラム法学における信頼性の担保を意図した記述だと理解できればうなずける。

イジュマー

クルアーンとハディースの二つのテクスト化された法源に、直接の答えが見いだせない場合、法学者は別のなにかから答えを導きださなければならない。そのような場合、第三の法源となるのが、イジュマー(イジュマーウ、意見の一致/コンセンサス)である。ある事柄に対して、イスラム共同体を構成する有識者全員の、誰からも異論が出ない場合には「意見の一致」が成立するという考え方である。裏を返せば、誰か一人でも異論を唱える者がいれば成立しない。また判断を下すために専門知識を必要とする分野に関しては、その分野に関わる学者(ウラマー)の間で意見の一致が得られれば十分とされ、この場合を「イジュマアウラマー(学者たちの意見の一致)」と呼ぶ。


共同体内で「反論の余地がない、見解の一致」を法源の一つとすることは、イスラム以前の諸部族で普遍的に見られたルールでもあった。イスラム社会においては、クルアーンの一節*3や、ハディースにある「私の共同体は、誤りに意見が一致することはありえない」などの預言者のスンナを土台として、イジュマーの法源としての妥当性が保証されている。


ただしイジュマーに基づく合意の形成には、いくつかの問題が発生する。特に、強大なイスラム王朝が形成されて支配地域が拡大すると、元々の習慣が異なる地域の人々の間で、どこまで「意見の一致」が可能かということは重要な論点の一つになった。シャーフィイー派が原則として、イスラム共同体全体としての「意見の一致」を提唱したのに対し、ハナフィー派やマリーク派は、それぞれ限定された地域での適用に寛容であったようだ。

キヤース

クルアーンやハディースに直接の答えがなく、またイジュマー(意見の一致)が得られなかった場合の解決法の一つがキヤース(類推)である。例えば「クルアーンにおいて葡萄酒(ワイン)が禁止されていることから、同じようにヒトを酩酊させるナツメヤシ酒についても(明示されてはいないが)同じように禁止される」というような推論が、これに相当する。


キヤースを法源として用いることは、イスラム法学において非常に多くの論争を巻き起こしてきた。クルアーンやハディースなどのテキストをそのまま解釈するのに比べて複雑になり、類推の過程の妥当性が問題になりがちで、しばしば法学者自身の見解が紛れ込みやすいからだ。キヤースが法源の一つだと初めて積極的に主張したのはシャーフィイーであるが、これは彼の時代には、法学者が自分の私的見解(ラアイ)に基づいて判決を出すことが多かったためである。シャーフィイーはキヤースを認める一方で、キヤースは「クルアーンとハディースから導き出されるものだけに限定される」ということを強く主張し、法学者が恣意的な判決を出すことを批判したのである。

それ以外の法的根拠

以上の四つがイスラム法学における基本的な「法源」であるが、これ以外にも学派や場合によって実質上の法源になるものはいくつか存在する。ただし、基本的にスンナ法学派では、以下のものは法的推論(イジュティハード)を行うための「方法」として位置づけることが多い。

  • イスティフサーン(情状酌量):まだ啓示のテキストに従うことが重視されていなかった時代、アブー・ハニーファに代表される、いわゆる初期ハナフィー派では「法学者の好みによる選択」により判決を出すことがあった。例えば、ある人の死が長く知られていなかった場合に、遺族がその遺産の権利を失うことなどは、これに該当する。これをシャーフィイーは私的見解(ラアイ)として批判し、後の多くの法学者も同様に批判したが、9世紀以降のハナフィー派はイスティフサーンという法概念で説明するようになった。それに伴いイスティフサーンにおいても、テキストに根拠を持たないものは排除され、キヤースと密接に関連するようになった。キヤースを外的なものとすれば、イスティフサーンはその内的部分に当たるとされる。ハナフィー派やマーリク派はこれを認めたが、シャーフィイー派は否定的であった。
  • イスティスハーブ(継続性の推定という原理):先の「行方不明者に対して、その遺産相続を主張することができない」という例をハナフィー派やマーリク派はイスティフサーンによって解決したが、イスティフサーンを認めないシャーフィイー派はイスティスハーブという原理で説明した。行方不明の人物については、彼が死んでいるという証拠がない限りは、生きているという推定がなされる。もし彼が死んだという証拠が示されるか、人が生存するには長すぎる時間が経過すれば、遺族への相続が行われる。このように、状況が変化したという確たる証拠がない間は、状況は前のまま継続していると推定するのがイスティスハーブという考え方である。これは単に推定の原理の一つであって、法的推論の方法としての資格を持つとは言いがたいが、後世の学者らによって、しばしばイスティフサーンやイスティフラーフとともに論じられた。
  • イスティフラーフ(公共利益に基づく推論):アル=マサーリフ・アル=ムルサラ(公共利益)とも呼ばれ、初期マーリク派によって支持された。その例としては、不信心者の軍隊が多数のイスラム教徒を捕えて、彼らを盾にして使う場合が挙げられる。捕えられた人々には死刑に値するような罪はないものの、彼らを犠牲にしなければ、イスラム共同体全体が全滅してしまうような場合、公共の利益を優先する判断が可能だとされた。
  • マズハブ・サハービー(教友たちの見解):サハーバ(教友)とは、預言者と同じ時代を生きた信徒らであり、預言者と共により近く接していた彼らの言行はしばしば法源に含められる。ハナフィー派では、クルアーンとスンナに次ぐ法源として採用し(その次にイスティフサーン)、マーリク派ではハディースの真正なテキストが得られない場合にはサハーバの見解を採用した。ハンバリー派もクルアーン、スンナについで、サハーバの見解を重視しており、シャーフィイー派だけがこれを法源とすることに否定的であったようだ。
  • ウルフ(慣習):特にイスラム教を受容する以前の、部族の慣習を意味し、ハナフィー派ではキヤースよりも重視された。

*1:預言者ムハンマドが文盲であったためとされる。

*2:他方、8-10世紀に隆盛したムータジラ派は、クルアーンもまた神によって作られた被造物の一つだという「創造されたクルアーン説」を唱え、クルアーンを神の言葉そのものとする伝統主義と対立した。ムータジラ派は人の知性と理論を重視する徹底した理知主義であったが、彼らの主張はクルアーンの絶対性を縮小することで、自らの権力拡大を目指したカリフらにも利用された。これに対して、クルアーンの絶対性を支持する伝統主義者が反発し、最終的に伝統主義が勝利をおさめたことでムータジラ派は衰退した。後述のシャーフィイーは、初期ムータジラ派と伝統主義の対立が生じていた時代の人物で、この対立に対して折衷的な立場であったとされる。

*3:第4章115節「導きが示された後で預言者に反対し、信者たちの道以外の道に従った者に対しては、われわれはその者自身が選んだ道を選んで、その旅路の哀れな結末である地獄をその者に見せつけてくれよう」(ハッラーク/黒田 p.115)

コーヒーの合法性

こうしたイスラム法学の背景を踏まえて、当時のイスラム社会における「コーヒーの合法性」について考えてみよう。

大天使ガブリエルが預言者に授けたコーヒー?

クルアーンにコーヒーを示す記述は見られないが、コーヒーの起源にまつわる「伝説」の一つに「預言者ムハンマドに、大天使ガブリエルが教えた」という説がある。

マホメットその人に大天使ガブリエルが教えたという説。さらにマホメットが生死の境を彷徨う重病のときにガブリエルが預言者にコーヒーを与え、病を癒したという話になっているものも(イスラム圏の説話と説明がしてある場合が多いが出所不明)。

もしこの伝説が正しいならば、つまりイスラム法学上の「(預言者の)スンナ」を満たすことになる。「預言者は常に正しい行いをする」のだから、本当に「預言者がコーヒーを利用した」ならば、それはすなわちコーヒーが合法であるという最もゆるぎない証拠になる。


しかし残念ながら、こうした記述は現存するハディースの中には見られない。また、もしハディースの中にこのような記述があったならば、アブドゥル=カーディルがそれを見落とすことはまずありえないから、少なくとも、スンナ派が認めるハディースの中には存在しない内容だと考えていいだろう。

イスラム教が広がる過程で、ハディースの中に出所の分からない内容が混入する例があったことは既に述べた。この説話もそうしたものの一つである可能性は高い。ひょっとしたらイスラム圏にコーヒーが広まる過程で、コーヒーを擁護しようとする者たちが作り出し、広めた「偽のハディース」なのかもしれない…「預言者が飲んだ」と言うことができれば、それでもう合法性のお墨付きを得たことになるのだから。

慣習か逸脱か

コーヒーの飲用が、クルアーンやハディースに記述されていないということは、少なくともスンナ派にとって、いくらか厄介な問題を生じる。スンナ派では、その名の示す通り「預言者の慣行(スンナ)」が重んじられ、それに含まれないものは「ビドア(革新または逸脱)」として扱われる。

後代になると「悪しきビドアと善きビドア」という考え方も生じた…例えば、大人数が集まるモスクでの演説のときに拡声器やマイクを用いることは、預言者の時代にはありえなかったことだが「善きビドア」として許容されている…が、伝統的ないし純粋なイスラーム的な考え方においては、そうしたごく一部の例外を除いて、基本的にビドアは退けられるべきものとして扱われている。コーヒー飲用が始まった頃のイスラム世界において、「コーヒー(カフワ)は、ビドアである」ということが、コーヒーを禁忌とする上で有力な根拠に挙げられていた。


それにも関わらず、なぜ、ビドアであるはずのコーヒーが、15世紀のイエメンにおいて受け入れられていったのだろうか。その理由となる鍵は、おそらく二つある。一つは「エチオピア」、もう一つは「スーフィズム」である。

第一の鍵:エチオピア

コーヒー利用の起源を考えるにあたって、コーヒーノキの自生地であるエチオピア西南部に存在したイスラム国家…ショア・スルタン国とイファト・スルタン国…が、イスラム圏へと繋がるパイプの役割を果たした可能性については、以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130213)述べた。これらのエチオピアのイスラム国家において、コーヒー利用がどのように扱われていたのかは、重要なポイントになると考えられる。

ラスール朝下で学問が発達したイエメンとは異なり、エチオピア内陸部では、イスラム法の遵守がそこまで徹底されてはいなかった可能性がある。多くの原住民たちと共存するにあたって、始原的なカフワやコーヒーの利用*1が、ある種の「ウルフ(イスラム以前の慣習)」的なものとして、ショアやイファトのアラブ系イスラム教徒らにも受け入れられていた可能性は考えられる。ただし残念ながら、これを直接示す手掛かりは残っていない。


一方、イエメンにおいては、エチオピアから奴隷として連れて来られた人々とその子孫達(アビード)が、コーヒー利用の普及と受容に関わっていた可能性についても以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130603)述べた。いかに厳格なイスラム社会といえども、彼らのような下層階級においては、飲酒や賭け事など戒律で禁じられた享楽に耽る者がいたことは確かだ。特にラスール朝末期のザビードは無政府状態と化し、アビードが一大勢力になっていたことから、彼らが故郷エチオピアでの風習に倣って、カフワやコーヒーを嗜んでいたとしても不思議はない。彼らのそうした行動が、コーヒーの利用を「既成事実」化させていった可能性は十分に考えられる。

第二の鍵:スーフィズム

もう一つの、そしてさらに重要な鍵がスーフィズムである。スーフィズムが世界の各地で発展するに際して、さまざまなドラッグの使用を伴っていたことは、以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130603)述べた。

伝統的なスンナ派の考え方に従うならば、こうした薬物の使用は、いずれも「ビドア」に該当するはずのものである。しかし、スーフィズムでは「イバーハ(許容)」という考え方で、しばしばそれらの使用を正当化していた。「イバーハ・アルアスリーヤ(本来的許容性)」「アル=アスル・フィ=ル=アシュヤーウ=ル=イバーハ(すべてに関して等しく許されたという基本的条件)」とも呼ばれる。唯一神であるアッラーが万物を作った以上、万物の本質は基本的に「許されたもの(ハラール)」だと見なし、「革新(ビドア)は、それが違法であると証明されないうちは適法である」ということを基本的原則とする考え方である。慣行を重視するスンナ派の法学の資料にはあまり出て来ないが、シーア派やスーフィズムにおいてはしばしば認められる。


イエメンにおけるカフワやコーヒーの初期の普及が、スーフィー教団によって牽引されていたことは、多くの文献から明らかだ。スーフィーたちが夜通し行う勤行(ズィクル)で目覚ましに利用したことが、その最大の理由になったと言えるが、そもそもその導入を可能にしたのは、彼らの持つ「革新(ビドア)」に対する許容(イバーハ)的な姿勢があったからこそだと言えるだろう。

逆に言えば、伝統的なスンナ派の勢力が強い状況では、カフワやコーヒーが、少なくともおおっぴらに広まるのは難しかったはずだ。ラスール朝時代のザビードがまさにそうした場所であったし、ターヒル朝の時代に入って敬虔なアリーが統治していたころのザビードもまたそうした場所だったと考えられる。このためカフワやコーヒーの利用は、ザビードよりはむしろその郊外、モカやウサブ山、そしてアデンで行われていたと考えられるし、ザビードにおいてはこの二つの時代に挟まれた、無政府状態の混乱期に特に普及し、ターヒル朝の時代になってからも、その利用者が潜在していたと考えられる。

ザブハーニーによる「是認」

こうした状況下において、ザブハーニーによる「是認」とは具体的にどのようなことで、また社会的にどの程度の意味があったのだろうか。


ザブハーニーがアデンのムフティーであったことから、彼はイジュティハード(法的推論)によって、物事の合法性を自ら判断できる人物である。さらに、アデンの共同体にも適用できるような公的な判断を下すことが社会的に認められていた。ムフティーの重要な役割は、こうした法的意見を文書としてまとめて発表すること、すなわちファトワーの発行である。ザブハーニーがムフティーであったことから、彼がコーヒーの飲用を認めるファトワーを発行したことを期待せずにはいられないが、残念ながら、彼がそういうファトワーを発行したという記録はないようだ。


ザブハーニーとコーヒー飲用の関わりについて言われていることは、三つある:一つはアブドゥル=ガッファールが伝聞した内容で、ザブハーニーがアデンで病気になったときに用い、それが彼の仲間のスーフィーたちにも広まったこと。一つはザビードの長老アレウィ・イブン・イブラヒムの目撃談で、彼が若い頃にザブハーニーが公衆の面前でコーヒーを飲んでいたということ。もう一つはファフルッディーン・アル=マッキーの記述で、アデンで入手困難だったカートの代わりにコーヒーからカフワを作ることをザブハーニーが提案したという話である。

いずれにしても、ザブハーニー自身がコーヒー(から作ったカフワ)を飲用し、周囲の人にもそれを推奨していたことは確かである。つまり、ムフティーをつとめるほどにイスラム法に詳しく、また法的判断が可能な人物が、自ら率先してコーヒーを飲んだというその言行そのものが、コーヒーの合法性を主張する何よりの証拠だと見なされたのである。当地の人々にとっては、預言者のものとは異なるが、一種の「スンナ(慣行)」のようなものとして、お墨付きが与えられたと考えて良いだろう。


アブドゥル=カーディルによれば、このザブハーニーによるコーヒー是認がもっとも初期のコーヒー飲用の公的な記録だと位置づけられている。ただし彼は慎重に、エチオピアや「アジャムの地」でそれより古くから用いられていた可能性や、「モカの守護聖人」アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーによるカートから作ったカフワについて言及しており、ザブハーニーをあくまで「最初の公的な記録」としている。


また、しばしば誤解されがちだが、このザブハーニーによる「是認」は、同時代のアデンやその周辺において意味を持ってはいたものの、後の時代、あるいはマッカ(メッカ)やカイロ、コンスタンティノープル(トルコ)などにおいて、効力を持つものではなかった点には注意が必要である。実際、ハイール・ベイによるカイロでの弾圧や、オスマントルコでコーヒーを禁じるファトワーが出された件などに、ザブハーニーによって「是認」されていたという先例は何の影響も与えなかった。

仮にザブハーニーがファトワーを発行していたとしても、この点は変わらない。ファトワーはムフティーによって発行される公的文書であるが、例えば、後に一部のイスラム過激派がファトワーを乱発した例があるように、ムフティーの裁量次第(=ラアイ)で決まってしまう部分があることは否定できない。コーヒー利用やコーヒーハウスに対して否定的な考え方を持つ権力者が、ムフティーや法学者、医師などを抱き込んで、コーヒー利用を抑圧し、禁止することは可能だったのである。


そして、だからこそアブドゥル=カーディルは『コーヒーの合法性の擁護』を著したのである。彼はスンナ四法学派の中でももっとも保守的で、テキスト(文献史料)を重視することで知られるハンバル派の法学者であった。著述の端々から、スーフィズムに対する理解が伺えることから、おそらくスーフィーたちとの親交はあったと思われるが、彼自身がスーフィーであったという記録はなく、むしろその著述はハンバル派らしい厳正かつ理知的な分析で貫かれている。彼はムフティーのような高い地位にあった人物ではないが、16世紀後半のエジプトで入手可能な史料や情報をすべて集めた上で、コーヒーの合法性を公正に判断し、その結果として適正な飲用を擁護すべきという結論に至った。そして、彼がその最初の根拠として挙げたのが、ザブハーニーによる是認だったのである。



ところで、実は他の文献を参照すると、ザブハーニー以前にコーヒーの飲用を是認したらしき記録が見つかる。次回はそれについて検証し、さらにザブハーニーがスーフィーになるに至った過程を考察しよう。

*1:カートから作られるものを含む飲み物や、コーヒーの実や種子から作られる飲み物以外に実や種を食べるなどの利用形態を含む