「モカの通った道」

現在、コーヒーノキは世界中に広まっており、その元を辿れば「ティピカ」と「ブルボン」というアラビカの二大品種に行き当たる。この二大品種はそれぞれ異なる道、つまり「ティピカの道」と「ブルボンの道」を通って世界中に広まったものだ。

この「二つの道」の出発点は、どちらも17-18世紀のイエメンになっている。また、「コーヒーという飲み物」と「コーヒー栽培」の起源がイエメンである、ということにも間違いないだろう。


しかし(ご承知のように)そこはまだ本当の「源流」とは言えない。かつて、スピークがナイル川の源流を求めて「ビクトリア湖」を発見したが、そこに注ぎ込む本当の源流が存在していたように、コーヒーにもイエメンより上流の、本当の「源流」が存在する。


多様な野生のコーヒーノキが存在する事や、近年の遺伝子解析の結果などから、エチオピア南西部がその「水源地」であることには疑う余地はない。しかし、ではエチオピアから、いつ、どのようにイエメンにもたらされたのか。これは間違いなく、コーヒーにまつわる「最大の謎」の一つであり……そして恐らくは「答えの失われた問い」でもある。

「これこそが真の正解」と間違いなく呼べるような記録や文献は何一つ残されておらず、さまざまな証拠から「推理」するより他にない。多くの研究家がこの「モカの通った道」を、さまざまな観点から論じているが、ここらで一度、自分の考えを整理する意味も兼ねて、再び「粗考」しておきたい。

エチオピアからイエメンへ:遺伝子解析による系統解析

エチオピアは、グレート・リフト・バレー(アフリカ大地溝帯)の入り口に当たる。北東にある紅海の側から南西の高地に向かって、グレート・リフト・バレーが国土のど真ん中を分断するような形になっている。コーヒーノキはリフトバレーの西側と東側の、両側の高地に見られる。西側には人為的に栽培されているものと、元から自生していたと思われるものが共存しているが、東側はそのほとんど*1が人為的に栽培されたもので、野生のものは見られない。


リフトバレーの東西に見られるコーヒーノキのタイプには、形態や性質の上での違いがある。また東側のグループは、さらにハラール(ハラルゲ、ハラー、ハラーリ)のものと、シダモのものとに区別される。以前、紹介したエチオピア野生種/半野生種群(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20100525)は、その分布するエリアによって、以下のグループに大まかに分けることができる。


(エチオピアのコーヒーマップ:話題に関係する地名のみ示した)

  1. リフトバレー西側/西部('Western')グループ
    • リフトバレー西側で、南はエチオピア南西部から北はタナ湖周辺までの広いエリアに分布する*2。旧行政区としてはカッファ州、イルバボール州、ウォレガ州、ゴジャム州など。この地域から収集されたものとしては、S2-エナリア、S3-ジンマ、S12-カッファ、アンフィロ、S4-アガロ、S13-ゼジー、ゲイシャなどが代表。
  2. リフトバレー東側('Eastern')グループ
    • リフトバレー東側に見られるもの。
    1. 南部('Southern')グループ
      • リフトバレー東側のグループのうち、エチオピア南部のシダモ州、アルシ州、バレ州など。S17-イルガレム、S8-タフェリケラ、S14-ロウロ、ディラ、シダモなどが代表。
    2. 南東部('South-Eastern')グループ

この3つのグループがそれぞれどのような流れで分岐していったのか、また、このうちのどこからイエメンに持ち込まれたのか。それを明らかにするため、複数の研究者が植物学的・分子生物学的な研究を行ってきた。


現在最新の、そして最も詳細に解析を行っているのは、Silvestriniらによる2007年の論文*3である。彼らは、マイクロサテライト法*4を用いて、エチオピアや南イエメンで採取されたサンプルとブラジルの商業栽培品種、さらにアラビカ以外のCoffea属植物をいくつか加えた、合計115種類で遺伝子系統解析を行った。その結果をまとめると以下のようになる。

  • アラビカ種は、(A)エチオピアの野生種/半野生種グループ、(B)イエメン栽培種およびブラジルの商業栽培種グループ、の二つに大きく分離した。
  • (A)は(B)に比べて遺伝的に多様*5であり、さらに(A-1)カッファなどの西側グループ、(A-2)シダモなどの東側(南部)グループ、に分かれる。ハラーなどの南東部グループについても解析しているが、利用できるサンプルが2つしかなかったため、信頼性のある結果は得られていない*6。
  • (B)は遺伝的多様性が小さく、(B-1)イエメン栽培種のグループ、(B-2)ブラジルの商業栽培品種のグループ、の二つに分離した。
  • (A-2)の東側グループに西側のゴジャムで採取されたサンプルの一つが、(B-1)のイエメングループにシダモで採取されたサンプルの一つが入っている。


これらの実験結果と過去の論文を踏まえた上で、彼らは以下のような「一本の道」を提唱している。

  1. アラビカ種の起源は、エチオピア南西部(カッファなど)の高地である。
  2. そこから南部(シダモ)と南東部(ハラー)に(自然に/人の手で/その両方で)広まった。
  3. さらに、その南部や南東部からアラブ人の手で、イエメンにもたらされた。
  • ただし南部や南東部に、南西部とは別タイプの野生のコーヒーノキが元々あったという可能性も否定はできない*7。


スパレッタ(1917)やシルヴェイン(1955)の頃から、ハラーのコーヒーノキと、イエメンのフデイダに見られるコーヒーノキには類似性が指摘されており、この仮説は概ね多くの研究者に受け入れられるものだろう。アントニー・ワイルド『コーヒーの真実』( http://www.amazon.co.jp/dp/4826990413 ) などに至っては、Silvestriniの論文以前*8に書かれたものにも関わらず、かなり断定的に「近年の研究から、ハラールからイエメンに渡ったことはあきらかだ」とすら書いている*9。


少なくともハラーと断定はできなくても、南西部から直接でなく、一旦、リフトバレー東側のシダモかハラーに広まったものがイエメンに伝えられたのだろう、という点については、妥当な解釈だろうと思う。だけど、ハラーと断定されてしまうと、「本当にハラーと言い切っちゃっていいの?」という疑問を強く感じる。


確かに「フデイダに残ってる一部のコーヒー」と比べたら、似てるかもしれない。しかし、「イエメン全般に見られるコーヒー」と比べるとハラーに見られる「ロングベリー」の特徴よりも、むしろシダモなどに見られる小粒なものの方が形状的にも似ているし、Silvestriniのクラスター解析でも、もしハラーとイエメンが近縁だったならば、ハラーが(B-1)イエメングループに入ってる方が、解釈としてはすっきりする。

個人的には、むしろイエメンのコーヒーは元々はシダモあたりから伝えられたもので、ハラーは、後に栽培が盛んになった頃に南西部を含めた広い地域との間で豆のやりとりが盛んになって、いろんなタイプがごっちゃになってしまったのではないかと思っている*10。この辺りは、将来の研究成果*11に期待したい。

*1:1953年にシダモ州で自生のものを観察した報告がある

*2:場合により、南西部のカッファと、西部のウォレガに細別することもある

*3:http://www.springerlink.com/content/31k34841mw054212/

*4:マイクロサテライト(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88)マーカーを用いて、遺伝子の違いを解析する方法。本報ではマイクロサテライトマーカーをPCR増幅しているが、この方法は他の解析方法(AFLPやRAPD)などと比べて微妙な違いを検出するのに向いている。アラビカとロブスタなど種間の違いは他の方法でも解析可能だが、アラビカの品種間の違いを検出するのにはこの方法が適している。

*5:多様性の指標としては、シャノン指数H'が用いられる(大きい方が多様性も大きい)。イエメン栽培種(H'=0.028)、ブラジル栽培品種(0.030)に対し、シダモ(0.143)、カッファ(0.142)、イルバボール(0.147)とエチオピア諸地域のものが多様であった。

*6:どちらも(A-1)グループに含まれているが、ハラーの種子に由来するシダモのサンプルの一つは、(A-2)グループに入っており、単純に結論づけることができない。今後、用いるマーカーとサンプルの数を増やして解析することが望ましいが、元々の種苗コレクションにハラーのサンプルの種類が少ないようだ。

*7:この仮説は、CIRADの研究員であるC. MontagnonとP. Bouharmontが1996年に提唱したものである。彼らは遺伝子解析ではなく植物の形態的特徴から多変量解析を行い、(A)西側グループ、(B)東側+栽培種グループの二つに分かれる、という結果を得た。その上で、エチオピア東西二つの野生種の「中心地」があって、東側のものが栽培化されてイエメンに広まるとともに、東側では人為的栽培によって野生種が失われた、という解釈を述べた。ただし以降の遺伝子解析では、上述のSilvestriniと同様に(A)東西エチオピア、(B)栽培種グループ、に分離したと報告しているものが多い。

*8:実はこれ以前の論文では、エチオピアと近代の栽培種の比較がメインで、イエメン栽培種については殆ど解析されてない。

*9:バイオ系研究者のセンスからすると、実際はそこまで言い切れるものではないのだが。まぁこの辺りは、専門家でないワイルドだからこそ、そういう「粗い」発言が許されるのだ、という部分はある。

*10:アントニー・ワイルドもハラーでさまざまなタイプのコーヒーの交雑が起きた可能性を述べている。また、山内先生も、近年エチオピア全体的にタイプ固有の特徴が失われていることを指摘(http://www.tsujicho.com/oishii/recipe/pain/cafemania/kimame3.html)している。

*11:結局のところ、そのためにはハラーのサンプルを増やし、解析するマーカーもさらに増やして、より詳しく検討することが必要だ。

「ウダイン起源」仮説

エチオピアの「どこから」持ち出されたかは、このくらいにしておこう。次は、これがイエメンの「どこに」持ち込まれ、どう広がっていったかだ。残念ながら、イエメン栽培種の遺伝子解析は不十分であり、また栽培種の種類自体も整理がつけられないのが現状だが、とりあえず今あるヒントだけを手がかりに推理していってみよう。


イエメンで用いられているコーヒーノキの種類を表す名前で、もっとも普及しているのは、ウダイニとダワイリの二つである。この二つは統一後の主要な4タイプに名前が見られるだけでなく、それぞれの地域の現地名としても名前が上がっている。


(イエメンのコーヒーマップ:話題に関係する地名のみ示した)


「ウダイニ (Udayni)」という名前が、ウダインという地名から来ているのは明らかだ。アブ(イッブ州の都)の西側、タイッズ(タイッズ州の都)の北に位置する、モカ港からもそう遠くない山地一帯がこの名前で呼ばれている。現在主要な産地になっているサヌアでは、現地名に見られないようだが、より北に位置するサダーにまで広まっているし、また南イエメンから採取されたサンプルにも、この名称の影響が伺われる。


一方、「ダワイリ (Dawairi)」の名前の由来はよく判らない。しかし、"dawair"が地区や村などを意味する言葉であるらしいので、「ウダインからやってきた」コーヒーノキに対して、「自分たちの村の」コーヒーノキという意味から生まれた、いずれかの地域種(local type)に由来するものではないかと想像する。あるいはこのタイプがウダイニよりも標高の低いところに見られることから、人里(=村)に近いところで栽培できる、という意味のものかもしれない*1。いずれにせよ「ウダイニ」との対比から派生した後発的な名称なのではないかと推測する。(7/3/2011付記)一方、「ダワイリ (Dawairi)」は「丸い」という意味を持つらしく、「ウダイニ」との対比から派生した後発的な名称なのではないかと推測する。


もし、他の土地で先に大規模な栽培が行われていたのであれば、その土地の名前がもっと広まっていておかしくない。しかし、ウダイニとダワイリほどに広い地域で見られる名前はない。


ブラーイ(Bura'ai)の名は、フデイダ近隣の標高の高い地区に見られるが、その名から考えて、フデイダにある山の名前(ジャべル・ブラ、Jabel Bura':ブラ山?)から来たものだと考えていいだろう。このタイプがイエメンの主要4品種の中で、最も標高の高いところまで生息可能なことと、この高い山から名前が付いたことは合致する。おそらくは、他の品種から生まれた、高地に適応した品種だと考えられる。


トゥファーイ(Tufahi)の名は、北イエメンの各地に見られ、ウダイニやダワイリに次いで現地名として広まっている。ただし、トゥファーイの語源はおそらくリンゴを意味する"tufah"であり、その果実がリンゴ型になるという特徴から名付けられたものだろう。このような形態のコーヒーノキは、エチオピアにも見られていないようなので、トゥファーイもまた他の品種から新たにイエメンで生まれたものだと考えられる。


以上のことから、ウダイニがイエメンのコーヒーの原型、プロトタイプではないだろうか、と考えている。


少なくとも、「最初に持ち込まれた」とまでは言えなくとも、イエメンでのコーヒー栽培が始まった初期の段階から、ウダインは、イエメン内で名前の知られた産地だったのだろうと推測できる。地理的に見てもウダインは、後にヨーロッパへの積出港として栄えた「モカ」に隣接している。モカが積出港になった理由は、他の文献でも指摘されているように、他国から見て利便性が高かったということも大きかったろう。しかしもし、ウダインが他の産地(アデン北部やフデイダ東部の山地)より早く一大産地になっていたと考えれば、そこから近いモカが積出港として最適だったことも容易に想像がつく。


これらの状況証拠から、ウダインをイエメンでのコーヒー栽培の「始まりの地」…………の有力な候補地の一つに挙げておきたい。「ウダイン起源」仮説とでも名付けておこう。

*1:多分、「ザマールの」を意味するDhamariとの混同ではないと思うのだけど……その可能性もないとは言い切れない。

ウダインまでの経路

次に、ウダインに至るまでにコーヒーが通った道筋についても考えてみたい。コーヒーノキは紅海を挟んだエチオピアから、どこかの港に船で運ばれて来たはずだ。

紅海に面したイエメンの港として、現在は

  • フデイダ(フデイダ州の首都)
  • モカ
  • アデン

などの名前を挙げることが出来るだろう。

ただし、フデイダやモカが栄えたのは15世紀頃からと言われており、それ以前にはもう一箇所、フデイダとモカの丁度真ん中に重要な港があった。そこはアファーブ(Al Ahwab、アル=アファーブ)と呼ばれる、当時「イエメンで最も美しい町」と呼ばれたザビードの西に位置する港である。イブン=バトゥータが、1330年頃にイエメンを訪れた際、この港から上陸してザビードに向かったことが「大旅行記」にも記されている。

なおアファーブはその後廃れ、15世紀初めにはそのすぐ近くに二つの港(Al BanderとAl Jadid)が作られたらしい。やがてこれらも、その後15世紀中にモカとフデイダが発展すると、そちらに取って代わられた。現在、アファーブの周辺には港湾都市の遺跡だけが残っている。


エチオピアのコーヒーが最初に着いた港の候補としては、フデイダはやや北寄りすぎるかもしれない…特に「ウダイン起源仮説」を唱える上では。

モカはいかにもエチオピアに近く、モカ→タイッズ→ウダインという流れは容易に想像できる。ただし、イエメンコーヒーの栽培が始まったのは、イブン=バトゥータが来た1330年頃からおよそ100年の間だろう*1、と想定すると、この時期にモカ港がそこまで活発な、エチオピアとの取引をさかんに行っていた港かどうかには疑問もある。モカの繁栄はむしろ、コーヒー栽培が始まり、その主要積出港になってから、と考える方がしっくりくる。


…ということで、ここでは、(1)アファーブ、(2)アデン、という二箇所を候補として挙げておきたい。


(1)のアファーブからウダインに至る経路としては、まず「アファーブ→ザビード→ウダイン」という経路が考えられる。アファーブからザビードに運ばれ、そこから直接山を越えてウダインまで運ばれた、という考え方だ。イブン=バトゥータも、ザビードからウダインを経て、ジーブラ(現在のアブの近く)に向かっている。彼と同じ道のりを後からなぞるように、コーヒー栽培はウダインに辿りついた、という仮説はどうだろうか。


イブン=バトゥータによると14世紀頃のザビードは非常に美しい町で、多くの果物や野菜が市に並んでいたようだ。また彼はザビードにしばらく留まり、何名かの有力なスーフィー達から歓待を受けている……何となく、イエメンでのコーヒー飲用初期に「スーフィー達が祈祷のときに利用していた」という、そのスーフィー達を思い浮かべたくなるではないか。


一方、(2)のアデンも、ウダインにも近く、アデン→タイッズ→ウダインという道のりが想像できる。イブン=バトゥータがエチオピアに向かうときに出港したのもアデンだったし、1454年に、コーヒーを正式に「イスラムの戒律上問題ない」と認めたゲマルディンも、アデンのムフティー(法学者/責任者)であった。これらのことから、この仮説にも大いに想像力をかき立てるものがある。ただし、アデンに着いたものであれば、ウダインより前に、ダレやヤッファでの栽培が始まっていても不思議はなかっただろうが。

*1:彼がイエメンにいるときの記録に、コーヒーやコーヒーノキを思わせる記述がないのが、その根拠に挙げられる。山内先生がこの説を支持しており、アントニー・ワイルドもほぼ同意見のようだ。イブン=バトゥータは、イエメンで複数のスーフィーたちから熱烈な歓待を受けていたし、またウダインに近いタイッズからジーブラ(アブ)を経てサヌアに行き(実際にサヌアに行ったかどうかには異論もあるようだが)、その後再びアブを経由してアデンに向かっている。まさにコーヒー栽培地のまっただ中を通っていたのだから、この時期にコーヒー栽培が行われていれば、彼の目にとまらなかったのは不自然だ、というのがその根拠になるだろう。その後、ゲマルディンがアデンで、イスラムの戒律上合法との判断を下したのが1454年なので、この頃までには普及していたと考えられる。

ウダインからの広がり

アッファーブかアデンかはさておくとして、コーヒーノキは港からウダインに伝わり栽培されるようになった。コーヒーは通常の作物よりも標高の高い地帯で栽培可能で、他の作物と農地が競合することもなく、しかも換金作物であった。このため、その後コーヒー栽培はどんどんと拡大していったと考えられる。

片や、北に伸びる北イエメンの山地に沿って北上し、片や、ウダインから南東の南イエメンへ向けて広がっていったのだろう。


北イエメンの主要産地はどんどんと北上していき、首都であるサヌアの周辺で盛んに行われるようになった。もっとも有名な銘柄の一つである「モカマタリ」は、サヌア南部のバニ=マタル*1で生産されているものだ。おそらく、北へと広がってゆく過程で、リンゴのような形のトゥファーイや、より高地に適応したブラーイなどの、いくつかの品種も生まれたのだろう。

北イエメンの気候風土は高品質のコーヒー豆を育て、高品質なイエメンコーヒーの評判を高めることになった。「ウダイン起源仮説」の立場を採れば、イエメンの中では後発の産地であったかもしれない。しかし、モカマタリに代表される北イエメンのコーヒーが、「モカ」の黄金時代を支えていたのだと言っていいだろう。


一方、南イエメンには高地がやや少なく、ヤッファやルスドと呼ばれる地区で主に生産されていたようだ。後にこれが、研究調査のときに採集されたということは以前話した。このときのサンプルが、最初の方で話した、Silvestriniらの遺伝子系統解析に使われたものでもある。

またイエメンから持ち出されたコーヒーノキも、おそらくは港に近い、ウダインや南イエメンの産地に生えていたものではないだろうか。南イエメンのコーヒーの植物学的な特徴は、Eskesらによって詳細に記録されており、この中には現在のティピカやブルボンを伺わせる特徴も認められる。


……繰り返しになるが、これはあくまで「推理ごっこ」の域を出ない「粗考」である。上に挙げた仮説のいくつかは、今後のイエメン栽培種やエチオピア野生種の遺伝子解析によって、明らかになっていくかもしれない。ただ、文献に残されることのなかった「モカが通った道」が、本当の意味で完全に明らかになることは、恐らくはないだろうとも思う。

*1:バニ=マタルという名の部族が暮らす地域。イエメンは、現在もこのような部族が多く存在する国家であり、我々がイメージする国家とは少し様相が異なる…ある意味、日本の戦国時代を思わせるような状況だそうだ(あくまで伝聞だが)。