『犠牲のシステム 福島・沖縄』

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)




 現代の日本において国家と犠牲をめぐる問題を一貫してかんがえ、発言してきた代表的な人といってもよい著者が、原発事故の惨禍を受けた福島と沖縄が置かれている状況との相似と差異について論じ、この国家の根幹をなしているとさえ思える「犠牲のシステム」をあらためて批判した本書は、やはり示唆されることの多い内容になっている。
 とくにぼくは、著者が原発事故の犠牲者やその責任のあり方、また重要なテーマである「植民地」という言葉に関して、それらをひと括りにして論じることに常に慎重であり、その様々な様態の腑分けを丁寧に行ったうえで(行いながら)、各々を重ね合わせて全貌を理解しようとする姿勢を、学ぶべきであると感じた。
 こうした姿勢は、特に責任をめぐることではとりわけそう言えるが、原発事故と原発の存在に今後ぼくたちが向き合っていくうえで、必須のものになると思われる。
 かつてデンマークの軍人フリッツ・ホルムという人が提唱したという「戦争絶滅法案」の内容を紹介したあと、著者は次のように書く。

 ここに示されているのは、責任にはその権限や立場に応じて軽重があり、また、その人が何をしてきたか(戦争に反対したか、反対しなかったか)などに応じても違いがある、ということだ。私がホルムの「法案」を引いたのは、内閣総理大臣の責任も、都市部の人間の責任も同じだと言うためではなく、それぞれの立場に質と程度の異なる責任がある、と言うためだった。
 ただし、「問題は、しかし、誰が犠牲になるのか、ということではない。犠牲のシステムそのものをやめること、これが肝心なのだ」ということは確認しておきたい。(p99〜100)


 ここから分るように、著者のこの態度は、誰かの責任を軽減しようというものではなく、それらを明確化しようとすることであり、「全ての者に責任がある」という大ざっぱな言明によって生じる責任の曖昧化(「一億総懺悔」)を許さない、という態度だといえる。
 そのうえで、さらにこう書かれる。

 とはいえ、責任論の観点から厳しく言えば、日本の戦争責任についてかつて丸山真男が主張したように、そして、その丸山も参照したヤスパースがいち早く論じていたように、反対した人々にも、国の政策を変えることができなかった政治的な責任はある、という議論も忘れることはできないだろう。ヤスパースは次のように書いている。

 
 あるいはまた「災厄を見抜きもし、予言もし、警告もした」などというが、そこから行動が生まれたのでなければ、しかも行動が功を奏したのでなければ、そんなことは政治的に通用しない。                   (前掲 『戦争の罪を問う』)

                               (p104)


 「しかも行動が功を奏したのでなければ」という言葉は、とりわけ厳しい。だが、ぼくを含めて多くの者は、行動を起こすことさえ十分にしていない。その責任は、政治的にさえ、きわめて重いだろう。まして、倫理的、道義的には。
 しかし、問われるべき有責性が大きいと思われる人ほど、そのことに無自覚であり、有責性が小さいはずの人ほど、自分の責任を重大なものに感じて苦しむということが一般的だということも、不正義な現実だ。




 ところで、はじめに書いたように学ぶべきことの多い本なのだが、ある観点からは、注意を付しておきたい箇所もある。
 それは、次のような箇所である。

 だれが犠牲になるのか。だれを犠牲にするのか。それを決める権利をだれがもっているのか。はたして私たちは、国家・国民共同体を維持するために、自分を犠牲になるべき一割の側に組み込んでもいいということを、国家為政者に認めたことがあるだろうか。
 (中略)
 多くの日本国民は、沖縄に在日米軍基地の四分の三もが集中している事態について、疑問ややましさを感じながらも、では、自分の住む地域でその負担を共有できるかと問われれると、とたんに口ごもってしまう。同様に、地方の人々に原発のリスクが負わされていることに疑問ややましさを感じる人でも、では、自分の住むところに原発が来る、放射性廃棄物の処理施設が来るなどということになれば、これに賛成することができない。 
 しかし、沖縄の米軍基地をめぐる野村浩也氏らの議論が示唆しているように、憲法の平等原則からすれば、これらの犠牲は一部に負わせることができるものではなく、犠牲が避けられないとしたら、全国民で平等に負担すべきだという議論に道理があることは否定することができないだろう。(p214〜215)


この部分に「注意を付すべき」だと思うのは、それが「瓦礫受け入れ」を要請する政府側の言説、そこに暗に込められているであろう、被曝リスクの広汎な国民的受容(受忍)による、原発体制(「犠牲のシステム」)の新たな形での定着という狙いのもとに流用されてしまう恐れがあると思うからだ。
 一部の人間に差別的に「犠牲」の役を負わせるという仕方だけでなく、今や国家権力の側は、すべての人間に「平等」にリスクを負担させる、自己犠牲を行わせることによって、放射能汚染と「犠牲のシステム」とへの感度を切り下げ、「福島(など原発所在地)の人たちも被曝リスクという自己犠牲を行うのは当然だ」という意識が社会に定着することを狙っている。 
 つまり、「平等に負担すべきだ」という言い方は、今や政府側に都合のいいものでもありうるのだ。
 犠牲を一部の人に負わせることだけが問題ではなく、まさに著者が繰り返し強調するとおり、「犠牲のシステムそのものをやめること」(前掲 p100)こそ、肝要なのである。
 

 にも関わらず著者が上記の文章のような論点を重視するのは、福島や沖縄の現状が示しているものが「構造的な差別」であり、その差別にもとづいてそれらの地域と人々に「犠牲」になることを強いているのが、民主主義の制度における「集団的主体」としてのわれわれ自身なのだという、考えがあるからだろう(p198)。
 民主主義にせよ憲法にせよ、それらは制度や法であるからには、かならず暴力性をはらむ。われわれは、民主主義や憲法の名の下にも、他人に「犠牲」となることを強いたり、差別やその他の暴力を行使することがありうるし、現実にそうしている。
 そのことの自覚こそが、この差別と暴力に満ちた社会のあり方を、われわれ自身が主体的に変えていく道を開くのだと、著者は考えているように思える。