5月21日、栗城史多さんの所属事務所は、同氏のフェースブックページ「栗城史多 "SHARE THE DREAM” (Nobukazu Kuriki "Sharing the Dream")」において「エベレストで下山途中の栗城が遺体となり発見されました」と発表しました。謹んでお悔やみ申し上げ、2013年3月11日号『日経ビジネス』の記事を再録いたします。
エベレストに4度挑み、跳ね返されてきた。手の指は9本、凍傷で失いかけている。それでも登る。頂をつかむその姿を、皆に届けるまで。
「彼は登山家なのだろうか」
日本を代表する女性登山家、谷口けいは、栗城史多に対してそんな思いを抱いている。谷口は栗城と対談したり、食事に行ったりと、公私にわたって交流がある。だが、同じことを生業にしているはずの谷口には、今年31歳になる栗城を言い表す適切な言葉が思い浮かばない。
栗城は大学3年生の時に北米最高峰のマッキンリー(標高6194m)に登頂、その後、7大陸最高峰のうち6つの山を登っている。8000mを超える山もヒマラヤ山脈のダウラギリ、マナスル、チョ・オユーを制覇。一般の感覚で言えば、登山家との呼称に不思議はないように思える。それでも、谷口はその表現に違和感を禁じ得ない。
「登山家に定義などない。だから他人が彼を登山家と呼ぶことも、彼自身が登山家を名乗ることも、おかしいとは言わない。だが外から見ていると、彼にとっては山を登ること自体より、その行為を人に見せることが重要なのではないかと思う」
栗城の登山スタイルには、世界の多くの登山家と明らかに異なる特徴がある。それはインターネットを通じ、登山中の映像をリアルタイムで配信しようとしていることだ。
2009年5月。栗城はダウラギリの山頂近くでカメラを回していた。標高は8000mを超える。平地の3分の1とされる薄い酸素に、呼吸は全力疾走した直後のように激しい。「岩だらけ…だね…。雪がないんだ」。カメラに話す実況は、合間に息継ぎが入り途切れ途切れだ。
8167mの山頂にたどり着くと、カメラを岩場に固定し、その前で無線を握った。「こちら栗城です、BC(ベースキャンプ)、取れますか」。込み上げる達成感に、思わず声が上ずる。「2時、ちょうどに、頂上に着きました。正直、登れるなんて、思いませんでした」。
辺りに人は誰もいない。快晴で風も少なく、感極まって発する言葉はたちまち大自然の静けさの中に消える。眼下には大半の人が一度も直接目にすることなく、一生を終える絶景が広がる。栗城のカメラを通じて、多くの人がその光景を目にする。
標高8000mの高地は、休憩しても体力の回復が望めない「デス・ゾーン(死の領域)」だ。「1本の乾電池も重く感じる」という過酷な環境で、通常は少しでも荷物を軽くしようと努める。そんな世界に栗城は、重さ1.3kgの配信用機材を持ち込む。それがどれほどのリスクになるかを承知で、重い荷物を肩にかける。
リアルタイムで冒険を共有
なぜわざわざ、そんなことをするのか。「冒険を共有するため」と栗城は言う。「登れるのか登れないのか。結果が出てから映像を見ても、共感は薄れる。サッカーでも何でも、生中継が一番」というのが彼の理屈だ。
精神や肉体の限界に挑み、困難な目標に向かうという点では、確かに登山は一般のスポーツに通じる。だが試合時間が区切られたスポーツと違い、世の「冒険家」と呼ばれる人の行動は、挑戦期間が月単位、場合によっては年単位と圧倒的に長い。そのため、世の中の人がその情報に触れるのは、成功であっても失敗であっても、ほぼすべて「既に結果の出たニュース」としてだ。
栗城は「できるかどうか分からないことに挑むからこそ、達成することに価値を感じられる」と考える。初めから答えが分かっていたり、「できそう」と思えることをやっても、得られるものは小さい。だからこそ栗城は、次の一瞬に死ぬかもしれない中で歩みを進める緊張感や、山頂を目前にしながら下山する無念さといった「過程」を伝えることにこだわる。
登頂より配信を優先するわけではない。配信できるのは栗城がカメラを回す余裕があり、天候や通信環境などの条件が整っている時だけだ。先ほど触れたダウラギリ山頂での撮影も、実は生中継はしておらず、後日、動画サイトに掲載した。死が隣り合わせにある極限の状況では、命に関わらない作業の優先度は下がらざるを得ない。
それでも栗城は、世界の最高峰に自分が到達するだけでは満足することができない。そのことを、誰かに伝えなければならないと思っている。
自分にカメラを向ける理由を尋ねると、栗城は「ナルシストですから」とちゃかす。だが公式サイトにはこうある。「人は誰もが冒険し、見えない山を登っている。(中略)夢を否定しないで自分の中にあるエベレストに一歩踏み出す人を増やすこと。それが僕の冒険」だと。
栗城は自分が多くの人に囲まれて生きていることを、強く意識している。登山家の中には孤独を好む人も少なくないが、栗城は過酷な自然と対峙することを好みながらも「山に逃げたくない」と考える。栗城にとって山は特別な場所ではあるが、平地での生活と断絶した異界ではない。
「中継さえしなければ、そんなにお金はかからないんですけどね」。栗城の事務所で、膨大な事務作業に追われるスタッフの小林幸子は苦笑する。栗城の遠征費は年間で1億円弱。エベレストの登頂を目指すだけなら600万円程度で済むが、通信用の機材やスタッフを揃えるのに費用がかさむ。栗城は平地にいる間、その遠征費を獲得するために企業への営業回りや講演会に奔走する。
「遠征の時の映像で、自然に御社の商品を紹介できます」。栗城は自分で企画書を書き、企業の担当者やトップを口説いて回る。今となっては知名度もある栗城だが、企業からの支援を引き出すことが容易なわけではない。
栄養食品などの製造販売を手がけるニュートリー(三重県四日市市)は栗城のスポンサー企業の1つだが、社長の川口晋は「こちらもビジネスである以上、無駄な予算をつけ続けることはできない」と話す。昨年10月、栗城は4度目となるエベレスト登頂に挑んだが、強風などに阻まれやむなく下山。重度の凍傷を負った手の指は切断やむなしと伝えられ、川口の頭には支援の停止がよぎった。
そんな支援者の思いを汲むように、入院後間もなく栗城は「僕は必ず復活します」とネットに書き込んだ。川口は栗城の心情を察する。「彼は自分の下山が、巻き込んだすべての人の期待に対する裏切りだと理解している。私の顔も浮かんだだろう。何かメッセージを出す必要があると思ったのではないか」。
自分勝手な夢を他人に語り、支援を請う。栗城は何百という企業や個人にそれを繰り返してきた。何度も門前払いされながら、それでも応援すると言ってくれた人の期待を背負って、栗城は登っている。
父から学んだ「恩返し」
栗城の父・敏雄は幼い頃の事故がもとで、背骨に損傷を負った。いったん傷が癒えても、医者に「成長期は越せない」とさじを投げられるほどの重症。幸いにも命はつないだが、今も体は曲がり、背は140cmほどしかない。
敏雄はその体がもとで、様々な経験を余儀なくされた。若い頃に就職の面接で訪れたある訪問先では、面と向かって「客の前に出ないことが条件」と言われた。敏雄は今でも、その時のことを忘れることができない。
だが栗城から見て、敏雄はそんなハンディを感じさせない父親だった。地域のお祭りで勝手に舞台に上がるなど、人前にも進んで出た。「どちらかというと、体のことがあるから人の倍、頑張ろうという感じ」と、栗城は語る。
栗城には小学生の頃、大きな衝撃を受けた出来事があった。敏雄が地元の北海道今金町に「温泉を掘る」と言い出したのだ。営んでいた眼鏡店の客が「地元に温泉でもあれば」と漏らしたことがきっかけという。近くの河川敷に冬でも雪が溶ける場所があり、敏雄は1人でスコップを振るい始めた。
栗城は当時、息子ながら「何をバカなことを」と感じていた。だが地道な作業を続ける敏雄の周りには、次第に賛同者が集まり始めた。「450軒くらいかな、いろんな家を回って、600万円くらいの寄付を集めてさ。専門の先生の地質調査で『湧出可能性あり』となって、ボーリング(掘削)したら出たのよ」。敏雄はうれしそうに、当時の様子を話す。「みんな喜んでくれてさ」。
幼い栗城に、町民の輪の中で喜ぶ父の姿は輝いて見えた。1人の人間がきっかけを作ることで、多くの人に喜びを与えられることを、栗城は父から学んだ。
敏雄が栗城の人生に大きく影響を与えた出来事はもう1つある。大学3年でマッキンリーへ登ろうと計画した時、栗城は海外に行くこと自体が初めてだった。周囲に賛成する人は誰もおらず、知り合いという知り合いに翻意を促された。「父も『息子を死なせに行くのか』って、いろんな人に怒られていたみたい」と栗城は明かす。
敏雄も「聞いた時はバカヤロー、と思った」というが、反対はしなかった。敏雄に言わせれば「息子はもう20歳を過ぎた大人」だった。そして出発の日、空港にいる栗城の携帯電話を鳴らし「おまえを信じている」と伝えた。
「もしあの時、父にも引き留められたら行けなかった」と栗城は言う。多くの反対で弱気になった心を、父の言葉が支えた。そして敏雄は、もう一言だけ息子につけ加えた。「生きて帰って、お世話になった人に必ず何かを返せ」。栗城が幼い頃から、「自分があるのは人のおかげ」と繰り返し言い聞かせていた敏雄らしい言葉だった。
困難に打ち勝つのが役目
栗城は今、凍傷を負った指の治療に専念している。9本の指は、通常ならすぐにでも切断しなければならない状態という。だが2月末の時点で栗城は、指の再生を目指して治療を続けている。
メディアの露出が多く、ツイッターやフェイスブックなどの交流サイトも積極的に利用する栗城には、批判も多い。「無謀」「プロ下山家」「素人」。ネットには容赦のない言葉が飛び交う。特に、栗城の登山に「単独・無酸素」との表現が用いられることに対しては「メディア的なウケを狙った誇張」といった指摘が多い。現実に、山岳会などが記録を認めていない登頂もある。
栗城はそういった批判を甘んじて受ける。批判を避けるのなら、露出を減らし、ネット中継などのカネのかかるチャレンジをやめ、正統と認められるスタイルの登山に切り替える選択もある。だが、それでは意味がない。
標高8000mの風雪も、平地での批判や中傷も、栗城の目には同じ「乗り越えなければならない障壁」に映る。「批判されるのは辛い。でも、困難に打ち勝つことこそが、冒険家という仕事の役目」と受け止める。
2月4日、栗城は自身のフェイスブックに新たな投稿を載せた。黒く染まった指の画像とともに、「少しでも可能性があれば、諦める必要はない」と綴った。そこには、「撤退も勇気」などと諌めるコメントのほかに、共感の意思を示す「いいね!」が15万件以上寄せられた。かつて、たった1人で自分の挑戦を支えてくれた父の姿が、まぶたの裏でちらつく。
整体師の谷仁志は、そんな栗城に勇気づけられた人間の1人だ。栗城の講演会に足を運び、「何かできることはないか」と声をかけた。それが縁で、股関節が硬い栗城の整体をするようになり、エベレスト登山にも帯同するようになった。そして昨年5月、迷いを越えて横浜市に自身の整体院を開業した。「新しいことをしようって時、やめる理由はいくらでも思いつく。多くの人はそれを飛び越えるのに、背中を押してくれる誰かが必要だ」。谷にとって栗城は、その「誰か」だった。
栗城は言う。「夢を語る大人を増やしたい。自分で夢に挑んだ人は、その価値を子供に伝えられる。そうすればチャレンジする人が増えて、日本にあるっていう閉塞感だって、どうにかできそうじゃないですか」。真剣な面持ちで語った後、「大きなことを言って」と恥ずかしそうに視線をそらすのが、何とも純朴な印象を与える。
身長162cm。体重58kg。雪焼けし、鬚の生えた顔は精悍そのものだ。だが、他人と言葉を交わす様子はとても控えめで、平均よりも小さな体をより一層小さく見せる。「もともとの性格で言えばさ、人前に出る子じゃないよ」と、父・敏雄は言う。それは栗城本人も同じ意見だ。
エベレストから生配信した映像を見ると、高いテンションでまくしたてる栗城がいる。それを演技と呼ぶ人もいるが、少し不自然な姿さらしてしまうあたりが「人前が苦手」な証左と言うこともできる。真相は、どちらでもいい気がする。伝わってくる一部の情報では、栗城の挑戦をすべて否定することも、肯定することも難しい。
ゲームなどのクリエーターとして世界的に有名な水口哲也は、栗城の創造性を高く評価する。「ネットの地図ソフトで、エベレストのどこに自分がいるか、みんなが簡単に分かるようにできないか」。そんな相談を持ちかけてくる栗城の視線は、「頂上のその先の未来を見ている」ようで、百戦錬磨の水口にすら「誰も思いもしないことを成し遂げるのでは」と期待させずにはおかない。
治療に専念する栗城が、今後どんな挑戦をするのか、今はまだ分からない。だが可能性を切り開こうとするその姿は、多くの人が注視している。彼の舞台には客席もスポットライトもないが、栗城は確かに、「挑戦者」という天の配役を演じ続けている。
1982年 | 北海道に生まれる | |
2004年 | 初の海外で北米最高峰・マッキンリー登頂 | |
05年 | 南米最高峰のアコンカグアなど3大陸の最高峰に登頂 | |
07年 | 標高8201mのチョ・オユーに登頂、動画配信を開始 | |
08年 | 標高8163mのマナスルに登頂、エベレストでの生中継登山プロジェクトを立ち上げ | |
09年 | 標高8167mのダウラギリに登頂、6500m地点でネット中継 | |
09、10、 | 秋季エベレストに挑むも登頂できず | |
11、12年 | 2012年に重度の凍傷を負い治療に専念 |
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