平日の百貨店を一時間ほど歩くと、それだけで確実に意気消沈する。

 空気全体が、店員のため息でできているみたいな、そういう独特の湿っぽさを胸一杯に吸い込むことになるからだ。
 景気対策上、都心にああいうものを放置しておいてはいけないと思う。いや、マジで。

 百貨店を一巡りした私の脳内は、不況感で満たされる。だから、一階の化粧品売り場の脇を抜けて店外に出る頃には、もともと抱いていたはずの購買意欲は、雲散霧消してしまっている。それほど、百貨店の負の内圧がもたらす景況感は、真っ逆様だ。スペースマウンテンの乗り心地。暗く、低く、底の見えない感じ。どこまでも落ちていく怖さ。

 今回は百貨店の、過去と現在と未来について考えてみたい。
 

 つい先日、久しぶりに最寄りのターミナル駅のデパートを訪れた。
 とあるドイツ製のボードゲームを入手するためにだ。
 ついでにソフトダーツ用の部品を補充したいとも考えていた。

 入店して、まず毒気を抜かれた。
 あまりにも人がいない。
 エスカレーターに乗って上のフロアに行くほど空気が薄くなって行く。
 8階まで来ると、気圧は下界の半分、息をするのも苦しい感じだ。
 
 おもちゃ売り場に到着。店員さんに来意を告げて、商品名を伝える。
 と、彼女は、まずその商品が売り場に無い旨を詫び、昨年の12月にある新聞の日曜版にドイツ製ボードゲームの紹介記事が載って以来、何人かの客が来店し、そのモノを求めに来たという話をしてくれた。

「よろしければ、こちらにお取り扱いしている店舗のリストがございます」

 おお。彼女は当方の意図を先取りして、次に訪れるべき店を教えてくれようとしている。

「……どうも」

 恐縮してうまく言葉が出ない。そうしている間に、彼女は、店名の入ったメモ帳に水道橋のボードゲーム専門店の電話番号を書いている。サラサラと。訓練されたきれいな文字で。なんというホスピタリティ。同業他社の売り上げが、自分の手柄になるわけでもないのに。

 感動した。
 でも、何も買わなかった。
 結局、デパートには欲しいモノが無いから。ダーツの羽すら。

 不思議ななりゆきだ。
 あんなに巨大で、あんなに膨大な商品を陳列しているのに、それでも、ピンポイントで何かを探しに行くと、これがびっくりするほど、置いていないのだ。相当の確率で「申し訳ありませんが、当店ではお取り扱いしておりません」と言われるのである。

 私の購買行動は、百貨店のバイヤーが想定するお客様の嗜好とおそらくズレている。
 その分は差し引いて考えなければならない。
 確かに、私は百貨店を常用しそうな人々の趣味とは一番遠いところにいる男だ。

 が、それでも、昔は、ちょっと珍しいものや、うろおぼえの新商品、「新しい何か」を探す場合、やっぱりデパートが最後の砦だったのだ。私のような、高級志向とは比較的縁の薄い男であっても、地元の商店街に置いてないブツを入手する時には、とりあえず、デパートに向かった。多少高くても、とにかく「気になるモノはすべてが揃っている」のが百貨店の素晴らしさで、だから、昭和の若者は、好き嫌いは別として、デパートには一目置いていたわけだ。

 なのに、平成のデパートには欲しいモノが無い。
 最先端や最高峰に属する商品は専門店に行かないと手に入らないし、レアなグッズやファニーなアイテムを探すのなら、アキバやハンズに向かった方が話が早い。あるいは最初からネットで検索すべきなのかもしれない。

 いずれにしても、狙いのブツは、デパートには並んでいない。デパートにあるのは、総花的で典型的でぬるま湯的な、頃合いの商品。アップ・トゥー・デート(笑)ぐらいな見当の、適度に手垢のついたメーカーの一押し商品。あるいは、モノ雑誌とのタイアップ企画で動くトレンディ(おっと)なブランドモノ。カドの取れた高級品。そういう物件が漫然と並んでいる。もちろん価格面でははじめから勝負にさえなっていない。
 

 しかし、私(というか、昭和30年代生まれの人々のほとんど。たぶん)は、デパートの店内のあの淋しさに、なぜこれほど強く反応してしまうのだろう。

 好きな子が風邪で休んだ日の教室みたいな、色の褪めた感じ。
 あるいは、梅雨時のスキー場でリフトが雨に打たれている景色に似ているかもしれない。
 とにかく、平日の百貨店の広い通路には、枕草子の中で清少納言が「すさまじきもの」として列挙した無残さが横溢している。

 たとえば、たどり着いた海辺で、テトラポッド(うむ、商標登録名だ)が波に洗われている風景を思い浮かべてみてほしい。
「オレは、紀伊半島のこんな果てまで来て、テトラポッドの海を見なければならないのか?」
 と、遠来の客は目前の景色に意気阻喪する。
「オレの旅の最後に待っていたのは、この非人情なコンクリートの構造物なのか?」
 旅愁もなにもあったものではない。
 14時間のロングドライブの果てにああいうものを見せられると、日本はもうダメだと、われわれは、つい手近な絶望に走りたくなる。

 百貨店の不況感には、波消しブロックの景観破壊と相通ずるものがある。

 つまり、海岸線の風景は、あまりにも深くわれわれの世代の心の原点にかかわっているがゆえに、その景観が破壊されることの影響は、思いの外巨大なわけだ。根拠もなく数値化すれば、日本中の風景のうちのほんの2パーセントが無機質化しただけで、われわれの心には、30パーセントほど荒涼とした闇が広がってしまう、そんな感じだ。

 よく似たなりゆきで、ちょっとした不況に過ぎないものが、デパートの店内にいる人間には、底なしの恐慌であるみたいに感じられる。

「こりゃ、ショッピングどころじゃないぞ」

 と、なぜか買い物に来たはずの人間に、節約と貯蓄を促す結果をもたらしている。
 これは、非常に深刻な事態だと思う。

 百貨店の現在の苦境は、日本経済にも起因するが、しかしイコールではない。
 店内がえらいことになっていたからといって、それが景気の映し絵ということではない。
 彼らの苦境は彼らの苦境に過ぎない。私たちすべての苦境ではない。
 
 その彼らの苦境も、本当に致命的な段階の断末魔であるのかどうかは、まだわからない。
 マクロの視点から見れば、業態が変化せねばならない時期にあるという、それだけのことだからだ。

 古いタイプの売り場は、新しい消費者にアピールしなくなっている。それはたぶん事実だ。
 でも、だとすれば、売り場を一新し、売り方を考え直して、百貨店が再生する可能性はゼロではないはずなのだ。

 不況はたしかに現実だが、同時に、半ばほどはメディアの、記者の創作でもある。
 彼らは、統計上の不況を、現場の不況であるかのように「消費者の財布の紐は堅く…」と描写することで、店頭の現場に、実態以上の不況感を振りまいている。これは、改められなければならない。紐で口を縛る財布なんてここ30年くらい見たことがないぞ。

 この度の不況を、「百年に一度の不況」と評している人々がいるが、とんでもない憶説だと思う。
 風説の流布に近い。
 この際だから、反論しておく。「百年に一度の不況」は、誇張だ。

 たしかに、キツい状況ではある。が、戦後の闇市時代よりは全然マシだ。関東大震災後の恐慌と比べても、天国。要は景気の循環の一過程であるに過ぎない。
 なのに、人々は売上高が前年比マイナスになると打ちのめされ、失業率が微増する度に絶望し、常に二番底を恐れ、恐慌の足音に怯えている。
 われわれをデフレ・スパイラルに引き込んでいるものの正体は、いつだって不況そのものではなくて、「不況感」というヌエの如き「気分」だ。

 その意味で、百貨店の醸すムードはヤバい。
 が、そこをもって「消費の冷え込み」を唱えるのは間違いだ。
 すでに消費の主な場所ではなくなっているところを、なぜ代表格に扱うのだろう(おそらく、統計数字の継続性が大きいと思うが)。
 実際の店頭の雰囲気と相まって、空気感染のパンデミックみたいに、都市住民の心を萎えさせている。これは、問題だと思う。

「いま、都市住民と言ったか?」
「ああ」
「お前は何も知らないんだな」
「何が?」
「田舎の百貨店のヤバさは、東京の百貨店の比じゃないぞ」

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