所在不明の『夢蕉』

江戸時代の書物や人物について調べるとき、私はまず森銑三著作集の索引を見ることにしている。森銑三(18951985)は、在野の書誌学者で江戸人物研究の泰斗。人物とりわけ文人と学者に関する森の知識は膨大で、どんなに些細な記述でも押さえておく必要があるからだ。

 この連載にも登場した鈴木白藤(鈴木桃野の父である)を調査したときも、森の索引のお世話になった。そのとき気になったのが、『夢蕉』と名付けられた白藤の日記である。博学の蔵書家で、幕府の書物奉行を務め、大田南畝ほか文人との交友も多かった白藤の日記だから、さぞかし面白い逸事が載っているのではと期待したのだが……。

 森によれば、残念ながらその所在は不明だという。「白藤の著『夢蕉』は、私の多年所在を知りたく思つてゐるものであるが、まだ纏まつて蔵せられてゐることを知らぬ」(著作集続編)。『日本古書通信』に連載した文章では次のように書いている(続編)。

 

  「『夢蕉』は勝海舟の遺書の内に何冊かあつたのを、往年森潤三郎さんが見たがつて、いろいろ骨を折られたが、つひに出来ずじまひだつた。その書は戦後に勝家を出て、それなり行方が知れなくなつた。文理科大学の蔵書目録にも『夢蕉』の何冊か出てゐるが、それも前から不明になつてゐる由だつた」

 

 勝海舟の旧蔵書として勝家が所蔵していて、鷗外の弟で幕府書物奉行の資料を集めていた森潤三郎が、勝家に閲覧を希望したが実現しなかった(したがって1933年刊の森潤三郎『紅葉山文庫と書物奉行』では、資料として用いられなかった。紅葉山文庫は将軍の蔵書およびその収蔵庫)。

勝家所蔵『夢蕉』は戦後散逸し、所在不明。ほかに東京文理科大学(東京高等師範学校の後身。のちに東京教育大学を経て筑波大学に改組)が何冊か所蔵し蔵書目録にも記載されていたが、これまたいつしか所在がわからなくなったという。そもそも、勝家や文理科大学にあった『夢蕉』が白藤の自筆本かどうかも不明である。

 失われた鈴木白藤の日記。そのごく一部の写しが、旗本宮崎成身の雑録『視聴草』の続編に綴じられているので、記述のスタイルや内容の雰囲気には触れることができた。しかし、ここで紹介できるような〝面白い逸事〟は見つからなかった。

 

市島春城『芸花一夕話』

 とはいえ、かつては文理科大学の蔵書目録に載っていたくらいだから、閲覧して論文に引用した研究者もいたし、随筆で取りあげた著述家もあった。孫引きもいいところだが(資料が散逸したのだから、やむをえない)、先人の著述から、『夢蕉』の面白い記述を拾ってみよう。

 手にとったのは、市島春城の随筆『芸花一夕話』(1922年刊)。早稲田大学の理事や図書館長を務め、読売新聞の主筆でもあった市島謙吉(18601944)の随筆である。市島はこの随筆の中で近藤重蔵(名は守重。号は正斎)を取りあげ、『夢蕉』から近藤に関する逸事を紹介している。

『夢蕉』(市島は『夢焦録』と記している。彼が見た写本にそう書いてあったのだろう)には、「正斎に関したことが可なりあつて、之に依て正斎の詐らざる面目を窺ふ事が出来る」というのだ。

 念のため近藤重蔵(17711829)について。

 

幕府の学問吟味で優秀な成績を上げたのち、長崎奉行手付出役を経て、蝦夷地御用掛の配下となり、数回にわたって千島方面を探検。エトロフ島に「大日本恵登呂府」の木標を立てた。その後、文化5年(1808)から文政2年(1819)にかけて書物奉行を務め、『好書故事』『外蕃通書』ほかを著す。文政22月に大坂弓矢奉行に左遷。同9年、長男富蔵が殺傷事件を起こし流罪になったのにともない、改易。近江大溝藩に預けられ、同126月、同地で没。享年59

 

 以上、ざっと振り返っただけでも、有能かつ豪放で覇気に富んでいた反面、なにかと問題の多い人だったことがわかる。

 市島が『夢蕉』から拾った逸事からも、近藤の二面性が浮かび上がる。もっとも、どちらかと言えば、光と影のうち影の方が顕著なのだが。

 

悪質な愛書家

 近藤は三田の高台に「擁書城」と名付けた豪壮な宅を構えていた。「擁書」は蔵書の意。書庫と書斎を兼ねた住まいといったところか。2階建てで1階の部屋が50畳で2階が30畳。柱はすべて尺角大(断面が1尺四方の材木)で、1階の棟木の長さは7間(約13m)もあった(もちろん尺角大)。2階の襖には、

蝦夷地、天草、エトロフ、チャチャノボリ、イルクーツク、石狩、天塩川などの風景や北海道産の魚類が描かれ、床には珍奇な曲玉等が並べられ、天井には一面に龍の絵が。

「其の宏壮なること、寺院の如き趣があつて、当時同人間に喧伝し、何れも此の擁書城一見を光栄とし、主人も亦これを誇りとした」と市島は書いている。『夢蕉』の記事に基づく記述であろう。

市島は言う。擁書城は今日の図書館のようなもので、近藤は幕府の書物(書物奉行が管理する紅葉山文庫の蔵書)の研究のため、ここに書物に詳しい知識人を集めた、と。白藤のほか大田南畝らが参会。彼らは近藤のためばかりでなく、ここに来ればいろいろな書物を閲覧できると、自身の研究のためにやって来たという。

 面白いのは市島が「悪質の好書癖」と題して紹介した(これも出典は『夢蕉』か)近藤の性癖。近藤には、人から借りた本を返さない悪癖があったというのだ。市島の記述を要約すると。

 

近藤は狩谷棭斎から『皇清経解』という大部の書物を借りた。日本に渡来したばかりの貴重な漢籍である。ところが近藤は何年たっても返さない。ある日、狩谷が市中の書物屋の前を通りかかったところ、『皇清経解』が積まれているのを見つけた。ひょっとして近藤に貸したものではないか。調べたところ、はたして自分の蔵書だった。

 

 狩谷はどうしたか。信じられない話だが、「又近藤先生やり居つた」と嘆息して、買い戻したという。本当の話だとすれば、近藤は狩谷から借りた『皇清経解』を閲読したあと、本屋に売り払ったことになる。悪癖どころか立派な泥棒ではないか。

 『皇清経解』は全1400巻。清代の経学の成果を集成した書だが、近藤の没年、道光9年(1829)に完成したというから、完成前のものが輸入され、狩谷が買い求めたのであろう。

 それはともかく、近藤の悪辣は、借りた本を売り払ったことにとどまらない。なんと、狩谷が買い戻したと知ると、またまた同書を借りに来たというのだ。これまた本当だとすれば、厚顔無恥としか言いようがない。

近藤は日本金銀貨幣史とも言うべき『金銀図録』を著したときも、資料として方々から古金銀を借りてきたが、なかには返却されないものもあったという。

 

書物奉行を辞めさせられた理由

 近藤は1升くらいの酒は軽く平らげる酒豪であり、また好色家でもあった。白藤の家に招かれた際、お酌をする女中の「よね」に戯れ、白藤に「よね」を貰い受けたいと言ったというから尋常のスケベではない。

 ある日、白藤ほかを擁書城に招待したときも、牡蠣飯を振舞うから、新橋の芸妓「豊島」を連れてくるよう注文を出した。『夢蕉』にはこう記されているという。――白藤らが訪れると、どうみても子息の配偶者としか見えない近藤の妾(浪花生まれの189歳の美女)が現れ、豊島が衣服を着替えると、張り合うように黄八丈に着替えた――。

 近藤の好色ぶりには、さすがの南畝も驚いたようだ。――ある日、懇意の間柄なのでアポも取らず近藤宅を訪れた南畝が見たものは、女中を捉えて戯れている姿だった。近藤は、南畝に見られていると気づいても一向に構わず、傍若無人にふるまった。あきれた南畝は、後日かならず問題を起こす男であると警戒し、交際を薄くしたという――。

 文政2年(18192月、近藤が書物奉行から大坂御弓矢奉行に左遷された理由も、どうやら「悪質の好書癖」だったらしい。文政2年の『御書物方日記』(国立公文書館蔵)をひらいてみよう。

 

  22日 近藤重蔵に対して、明3日の四時(午前10時頃)に登城すべき旨、駿河守から仰せ渡される(駿河守は若年寄の植田駿河守家長)。23日 近藤重蔵、大坂御弓矢奉行を拝命。

 

 さらに26日の条には、近藤が拝借した(借り出した)紅葉山文庫の書物のリストを作成して調査したこと。出納帳で『回回暦書』と『万国全図』の拝借者が不明となっているが、近藤ではないかとも書かれている。どうやら近藤は、紅葉山文庫の蔵書を無断で借り出した嫌疑をかけられたらしい。

 まさか将軍の蔵書を持ち出して写を作成したのち売り払うつもりはなかったと思う。しかし、たとえ学術的研究のためとはいえ、書物奉行が無断拝借するのは重大な職務違反だ。貴重な本、高価で手が届かない本を見て、好書家の悪癖が抑えきれなくなったのだろうか。

 近藤重蔵守重。号は正斎。あぶない男だが、規則や常識を顧みない研究への執念には圧倒される。「悪偉人」という評が相応しい。

<了>
歴史REALWEBはこちらから!

yosensha_banner_20130607