篤姫の御台所教育
今回は西郷が江戸で庭方役として奔走する安政元年(1854)の話。エピソードをめちゃくちゃライトに、分かり易く描く。何と言えばいいのだろうか。小学生の頃読んだ、歴史マンガの実写版のような回だった。
その年2月、篤姫の実父島津忠剛(今泉島津家)が、薩摩で他界する。ドラマでは、江戸で知らせを受けた篤姫が、行方不明になってしまう。西郷が探しまわり、見つけるのだが、篤姫は江戸の海を眺めながら父を偲んでいた。
篤姫は藩主島津斉彬の「養女」だが、史実では「実子」として幕府に届け出ている。将軍家に輿入れのさいは、公卿近衛家の養女にするのだが、斉彬の養女だと、二重の養女になってしまう。それは、認められなかったからだと言われる。
あるいは斉彬の養女だと、将軍の「側室」として扱われる恐れがあった。御台所(正室)と側室とでは、斉彬の幕閣に対する発言力が違って来る。
だから斉彬は、強引に篤姫を「実子」で通した。
篤姫を御台所にするため、お付きの女中となったのが、近衛家にいた薩摩出身の幾島だ。教育を始めた幾島は、御台所に必要なのは「器量・才覚・威厳」だと言う。方言禁止、琴や薙刀の稽古、あげくは春画を見せて、世継ぎつくりの説明も。
実にありきたりの、マンガチックな堅物家庭教師とお転婆お嬢様の関係であり、ドラマとして特に見るべき点はない。
橋本左内との出会い
西郷は、「ヒー様」こと一橋慶喜と親しくなるよう斉彬から命じられ、またも品川宿の妓楼に出掛ける。
そこで西郷は偶然、越前藩医の橋本左内に出会う。
後日、左内は薩摩藩邸に西郷を訪ねて来る。左内は主君松平慶永の懐刀として、慶喜を次期将軍とするため政治運動に奔走している旨を打ち明ける。
品川宿の出会いなどはフィクションだが、西郷が左内の訪問を受けたのは史実のようだ。同席した有村俊斎(海江田信義)の回顧録『維新前後実歴史伝』によると、年下の左内の容姿や話し方が軟弱に見えたので、はじめ西郷は値踏みして、侮ってかかったらしい。
西郷は、「余は未だかつて国家的の志念を知らず…角力を事とするのみ」などと「冷然」と言い放ち、左内を軽くあしらう。
ところが、左内から幕府の内情、一橋慶喜擁立の必要を説かれ、西郷は「頗る耳識を驚動」する。そして「橋本の侮どるべからを識(し)るのみならず、其有為(ゆうい)の志士にして、結託すべきの益友(えきゆう)たるを喜」んだのだという。さらには俊斎とともに、最初の態度を反省したという。
このエピソードは戦前の『修身』の教科書などにも出て来る。人を外見で判断してはよくないといった教えだ。
ドラマの西郷は、とぼけているのではなく、本当に大切な話は何も知らないことになっていた。作り手は西郷をひたすら真面目、お人よし、ちょっと間抜けな愛すべきキャラクターで貫きたいらしい。相手を値踏みするような性格の悪い「西郷どん」では、よろしくないと考えたのだろう。
それがドラマとして今後、吉と出るか凶と出るかは分からない。ただ、ここまで単純な人物像にすると、勧善懲悪ドラマならともかく、泥々した幕末の政治劇を描く重厚な歴史ドラマが成立するのか、ちょっと心配になってしまう。
なお、左内は後年、「安政の大獄」に連座して、伝馬町獄で処刑された。なかなか魅力的な人物だが、映像作品にはあまり登場しない。
半世紀近く前だが『天皇の世紀』の第4話は、珍しく左内を主人公にしたテレビ時代劇だった。監督は巨匠今井正。若き日の田村正和演じる、張りつめたような感じの左内が、老獪そうな公家だらけの朝廷に出入りして政治工作を行う、重厚なドラマになっていた。
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