ノモンハンで激突した両者
1939年(昭和14)5月から9月にかけて、満洲国西部のモンゴル人民共和国との国境地帯で関東軍・満洲国軍と蒙ソ連合軍が激しい戦闘を展開した。双方ともに正規軍を動員しての戦車・航空機が戦場を飛び交う近代戦であった。砂漠の戦場であるがゆえに、両軍ともにモンゴル兵が重要な役割を演じたことはいうまでもない。
戦闘の発端は5月、モンゴル兵数十名が満洲国側の主張する国境線であるハルハ河を渡った草原地帯に進出したことで満洲国軍との間で交戦が行われたことだった。これまでも満蒙国境をめぐり小規模の戦闘はたびたび行われていたため、この程度のものなら満洲国軍の国境守備隊に任せよというモンゴル系の満洲国軍人で現地を担当していた第10管区司令官烏爾金(ウルジン)将軍のアドバイスも聞かずに、西部国境を守備していた関東軍第二十三師団長小松原道太郎(こまつばらみちたろう)中将は、植田謙吉(うえだ・けんきち。1875-1962)関東軍司令官が示達した「ソ満国境紛争処理要綱」(1939年4月、関東軍参謀辻政信(つじ・まさのぶ)が作成)の、「戦闘が拡大しないようにすることが基本路線であるものの、もし戦闘が起きたら速やかに征伐する」という方針に従い支隊を派遣し越境して攻撃、これを駆逐した。
越境という日本側の軍事行動を重く見たモンゴル政府首相兼モンゴル軍総司令官のホルローギン・チョイバルサン(1895-1952)は、ソ連との「相互援助条約」に基づきソ連に支援を要請、これに応えるかたちでソ蒙連合軍は、優勢な装甲師団をもって国境線を越えた関東軍部隊を攻撃、全滅に近い打撃を与えた。
6月に入ると関東軍は報復に出た。まず戦闘機・爆撃機連合百機余がモンゴル内のソ連軍基地タムスクを爆撃、続いて第二十三師団を基幹に戦車師団、航空集団それに烏爾金率いる騎兵が主力の興安軍が加わり、一部の兵力はハルハ河を渡河して蒙ソ軍の後方に迂回して包囲する作戦に出た。
しかし、優勢なソ連機械化部隊の大兵力が、渡河した関東軍を撃破、これを西方へと押し戻した。関東軍は蒙ソ軍をハルハ河西岸へ駆逐することに失敗した。その後、関東軍がハルハ河に進出している蒙ソ軍を攻撃するも撃退できず、8月に入ると、突如、蒙ソ軍は一斉攻撃に出て一挙に日本軍陣地を突破した。第二十三師団司令部も包囲され、師団長が自決寸前で救出されるという日本側の大混乱と壊滅状況のなかで、蒙ソ軍が国境と主張するハルハ河東岸数キロの線まで攻め込まれ、日本軍は大損害とともに国境線外に撃退された。
戦闘継続を望んでいた関東軍であったが、日本政府がソ連政府に停戦を申し入れ、チョイバルサンとソ連軍指揮官ジューコフらは、9月、植田との間で停戦協定を締結し矛を収めた。関東軍司令官の植田謙吉は敗北の責任を取って予備役に編入された。これが世にいうノモンハン事件の経緯であった。
植田謙吉
日本側の最高指揮官である植田は1875年(明治7)に大阪に生まれた。東京高等商業学校(現在の一橋大学)から陸軍士官学校へと進み、騎兵少尉などを経て1909年に陸軍大学校を卒業。第18師団参謀を皮切りに参謀畑を歩み、ロシア革命後のシベリア出兵では、浦塩(うらじお)派遣軍の参謀をつとめた。その後は騎兵連隊長、騎兵旅団長などを経て、1929年に支那駐屯軍司令官、第9師団長、朝鮮軍司令官を務めた。第9師団長時代の1932年4月、上海で爆弾テロにあい左脚を失っている。
そして1936年3月からノモンハン事件終結の39年9月まで、関東軍司令官兼満洲国駐剳特命全権大使に就任した。植田は率先垂範型の司令官というよりは、どちらかと言えば、鷹揚に構え、万事「良きように計らえ」式のやり方で、仔細は部下に任せる委任型の司令官だった。その分スタッフの構成が事を決定したといえる。
このとき彼を支えていた参謀部のスタッフを見れば、参謀長は磯谷廉介(いそがい・れんすけ)中将、4課編成の参謀部の第1課長(作戦担当)は寺田雅雄(てらだ・まさお)大佐、第2課長(情報)は磯村武亮(いそむら・たけすけ)大佐、第3課長(兵站)は磯矢伍郎(いそや・ごろう)大佐、第4課長(満洲国内面指導)は片倉衷(かたくら・ただし)中佐であった。さらに、第1課で作戦を担当した参謀に服部卓四郎(はっとり・たくしろう)、沢村一雄(さわむら・かずお)両中佐と辻政信、島貫武治(しまぬき・たけはる)少佐、航空を担当した参謀に三好康之(みよし・やすゆき)中佐がいた。彼らのなかでノモンハン事件に際し関東軍の作戦を実質的に指導したのは第1課の参謀の辻政信だった。
司令官の植田は、第9師団長時代は辻の上官であり、参謀本部次長のさいも上官であった。参謀長の磯谷も金沢の連隊時代、辻の上官だった。作戦課長の服部も辻の直属の上司であった。半藤一利が『ノモンハンの夏』で述べているように、辻にとって親しいトップと上官と同僚に囲まれて作戦指導ができる体制が事件勃発当初に整っていたのである。
なお、植田は予備役編入後、戦友団体連合会会長や日本郷友連盟会長などを歴任して1962年に死去した。
チョイバルサン
他方、日本と矛を交えたモンゴル側の最高司令官チョイバルサンは、1895年に遊牧民の子としてモンゴル東部ヘルレン郡に生まれた。ロシア領事館付属学校に入学後、1914年にイルクーツクに留学、ロシア革命(1917年)を体験し、18年に帰国後独立運動に参加、20年にモンゴル人民党の結成に参加した。
1924年に中華民国から独立しモンゴル人民共和国が誕生すると、彼は政府要職にあって29年には人民委員会主席、36年には内相そして37年には全軍司令官で首相代理も兼任し、ノモンハン事件勃発時には絶大な権力を握っていた。37~38年にかけて、モンゴル国内では日本のスパイ、反革命分子の摘発が積極的に行われたが、チョイバルサンはこの粛清に積極的にかかわったといわれている。
この間、軍人、政治家、ラマ僧ら2万人が処刑され、6000人が監獄へ送られたという。軍人では1700人のモンゴル軍将校団の約半分が処刑、投獄、軍籍はく奪がなされたが、そのなかには元帥1名、将軍3名が含まれていた(「ノモンハン事件前夜におけるソ連の内政干渉とモンゴルの大粛清問題」)。しかし、反面でソ連からの技術支援や資金援助を引き出してモンゴル近代化にこれまた積極的役割を演じた面も少なくなく、チョイバルサンへの評価は毀誉褒貶相半ばする。そして、彼はこの事件にモンゴル軍を総動員し、ジューコフ率いるソ連軍主力の一翼として戦線を支え、戦争を勝利へと導いた。
1945年8月にソ連軍は満洲侵攻を開始するが、チョイバルサンも対日宣戦布告をし、ソ連軍とともに満洲侵攻作戦を展開した。彼は1951年スターリン生誕の祝賀会に出席すべくモスクワに向かうが、同地で病死した。
迫りくる関東軍と激発する国境紛争
そもそも事の発端は国境紛争をめぐる小競り合いだった。それが草原を屍が覆う大事件に拡大するにはいくつかの条件が伏在していたというべきだろう。
ひとつは、そもそも満洲国東部や北部のソ満国境線を仕切る国境河川の場合には、流域の流れが変化したり、中洲の小島の領有が不鮮明だったりして、紛争の種にことかかなかったし、西部の国境線は砂漠地帯で目標になるものが少なく、放牧している家畜が国境線を越えることなど日常茶飯であった。
しかし、その多くは小規模な衝突で終わっていたが、1935年ころから衝突件数が増えただけでなく激しさを増した。銃撃戦から装甲車、戦車、航空機による本格的な戦争へと拡大する可能性が増し始めたのである。
37年6月に北部国境の黒龍江(こくりゅうこう)上のカンチャーズ島という小島の領有をめぐる紛争では、関東軍第一師団が動員され、江上を遊弋していたソ連艦船が撃沈されている。続いて38年7月にはソ満国境東端の琿春(こんしゅん)に近い張鼓峰(ちょうこほう)で日ソ両軍が戦火を交えた。琿春は羅南(らなん)に司令部を置く、朝鮮北部を主管する第19師団の守備範囲である。
ことのきっかけは、張鼓峰にソ連軍が陣地を構築し始めたことであった。軍中央は、当初外交交渉で解決すべしとしていたが、尾高亀蔵(すえたか・かめぞう)第19師団長は、ソ連軍に一撃をかける絶好の機会とばかりに独断で攻撃を開始し、7月夜襲でソ連軍陣地を攻撃、奪取した。これに対していったん後退したソ連軍は、8月日本軍の数倍の戦車、砲兵に航空機を含む波状攻撃を実施、戦車、航空機の支援のない日本軍を圧倒しこれを駆逐、全滅寸前で外交交渉に持ち込み事なきを得た。
日本軍もソ連軍も強硬な態度に出始めた背後には、ソ連側にはスターリンの粛清の影響により、日本の侵攻にあいまいな態度をとれば、対日協力者のレッテルを張られかねない危険性があったこと、日本側では関東軍参謀辻政信を中心に、対ソ強硬派が軍内で力を持ち始めていたことがあった。
このように頻発する国境紛争に対し、前述した「ソ満国境紛争処理要綱」が現地舞台に示達されたのである。もはや激突は不可避であった。
和解の動き
その一方で、双方の間で和解の動きも見られた。ソ満国境での衝突が増加し始める1935年ころから、とくに西部国境をめぐって現われた。1935年6月、日本軍が内蒙古のチャハル省への侵攻を開始し、関東軍奉天特務機関長の土肥原賢二(どいはら・けんじ)とチャハル省代理主席の秦徳純(しんとくじゅん)の間で、チャハル省からの国民党部の撤退、排日禁止などを盛り込んだ協定が締結され、関東軍のチャハル省を含む内蒙古地域への圧力が強まるなかで、国境紛争件数は増加を開始した。
そこで、35年以降、日ソ両国は国境紛争解決のための外交交渉がモスクワと東京で行われた。しかし扱う国境の範囲や委員のメンバー構成などで対立し中断した。他方、満洲国とモンゴルとの間でも35年6月から満洲里(マンチュリ)で会議が開催された。満洲国側も満洲国軍司令官の烏爾金将軍が呼びかけ、興安北省の省長だった凌陞(りょうしょう)も参加して会議が実現した。この時期、日本測量隊拉致事件や、オラホドガ、タウランで大規模な衝突事件が発生しており、当時のモンゴル政府のゲンドウン首相は、ソ連との軋轢を考慮しつつも日満両国との外交交渉に期待をかけていた。
しかし、この会議も成果を生むことなく36年末には終わっている。直接の原因はウランバートルと新京(長春)に紛争処理機関を置くという点で妥協が得られなかったことだが、背後には交渉当事者が粛清されたことが大きかった。
モンゴル側ではゲンドュン首相がスターリンによってスパイ容疑で粛清されたし、満洲国側の凌陞もこれまたモンゴルのスパイとして死刑となった。モンゴル人同士は真剣に国境問題解決を目指したが、日ソ両国がどこまで真剣だったか、疑わしい。
激突
これらの和解交渉が失敗に終わった後、外交交渉では埒があかぬ、武力に訴えて解決すべしとする動きが双方で勢いを増した。双方ともに引けない対立が強まった。1939年4月に関東軍は「ソ満国境紛争処理要綱」を決定するが、「侵されたら跳ね返せ」風の論調は、外交交渉失敗後の雰囲気をよく反映しているといえる。もっともこの要綱を決定した会議に参加した関東軍指揮下の第三軍司令官多田駿(ただ・はやお)中将は、張鼓峰事件の例もあるので、「お示し通りにやると、あるいは思わざる結果を起こすかもしれない。少し考慮の余地を与えられたい」と異論を述べたが、植田謙吉司令官は、「そんなご心配は、あなた方にはご無用だ。それはこの植田が処理するから、第一線の方々は何ら心配することなく断固として侵略者を撃退されたい」と一蹴したという(『参謀次長沢田茂回想録』)。
モンゴル側も度重なる国境紛争にけりを付ける覚悟を固め始めていた。スタ-リンからの圧力もあって、曖昧な対応は許されぬ状況が深まった。ノモンハンで衝突が発生したとき、関東軍参謀の辻政信は、ノモンハンという地名を知らず、地図に拡大鏡をあてて始めてその場所を発見したと述べている。地名程度は知っていたであろうが、おそらく土地観はなかったのではないか。
ほかの参謀連中も、地図と向かい合いながら、ここでの戦闘は日本に有利と踏んだに相違ない。なぜなら最寄りの鉄道駅を地図で測れば、日本側はハイラルから約二〇〇キロの地点だったのに対し、ソ連側はシベリア鉄道から七五〇キロと三倍以上の隔たりがあったからである。しかし蒙ソ軍は、トラック輸送の強化やシベリア鉄道から戦場までの支線の敷設などでこの弱点を克服し、日本軍に数倍する兵員、弾薬、戦車、装甲車を投入して、輸送力を徒歩や畜力に頼り、戦闘力を兵員の精神力に依存する日本軍を圧倒して39年5月の小競り合いで敗北した時を除けば、7月の両軍の激突はほぼ対等、8月の決戦では完封なきまで日本軍を撃破したのである。
航空戦でも7月までは中国戦線で戦った熟練パイロットを多数擁する日本軍が優勢だったが、8月ごろからソ連側が西部戦線から航空兵力を投入、格闘戦が得意な日本軍機に対して高速と重武装を持ってなるソ連軍機は一撃離脱の戦法を多用して日本側を圧倒した。激突はソ蒙側の勝利に終わった。
闘いが終わって
両軍の犠牲者数はそれぞれ2万名弱でほぼ同数だが、戦争の目的達成という点で見れば、関東軍側にはなんら得るところがなかったのに対し、ソ蒙側は国境線の画定という点では、自国の主張通りの線を確保できたわけで、当初の目的を達成したといえる。
しかも、1939年8月には独ソ不可侵条約が締結され、日独防共協定を締結している日本側では、あえて国境でソ連と戦争を交える大義名分を失っていた。ソ連は、ノモンハンで日本側に軍事的打撃を与えた後、急遽ソ連主力軍は西部戦線へと移動し、ポーランド分割、ソフィン戦争へと投入されることとなる。
めまぐるしいまでのパワーポリティクスの世界のなかで、関東軍はとむらい合戦の機会を失い、時の総理の平沼騏一郎は、「欧州情勢は複雑怪奇」と声明して総辞職した。国際情勢に振り回されて軍を退いた植田謙吉とパワーポリティクスに乗ってモンゴルの近代化を推し進めたチョイバルサンの軌跡の相違は明確だった。
ノモンハン事件は、関東軍に大きな影響を与えた。日中戦争のさなか、中国軍とは段違いの近代化された強力な軍団と戦闘を交えた関東軍は、蒙ソ軍に対し「敵は手ごわい」という強烈な印象を持ったことである。事実、その後は、関東軍は国境紛争を拡大させることはなかったし、41年にソ連が西方でドイツと死闘を演じているときも東方のソ満国境で武力侵攻に出るにも慎重であった。その結果、ソ連が東西両戦線から攻撃されることがなかったという意味では、日本に対して強烈な抑止効果をもたらしたと言えなくもない。
≪参考文献≫
小林英夫『ノモンハン事件』平凡社新書 2009年
沢田茂『参謀次長沢田茂回想録』芙蓉書房 1982年
半藤一利『ノモンハンの夏』文藝春秋 1998年
M.Ariumsaihan「ノモンハン事件前夜におけるソ連の内政干渉とモンゴルの大粛清問題」富士ゼロックス 小林節太郎記念基金 2005年
>洋泉社歴史総合サイト
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