日中戦争で激突した両者

 

 1937年(昭和1277日、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)近辺で夜間演習し実施していた日本の支那駐屯軍の一中隊に、何者かの手で十数発の銃弾が撃ち込まれた。点呼をとってみると一名行方不明と判明(筆者注:のちに発見される)、中国軍からの挑発と判断した現地部隊が中国軍を攻撃し一時交戦状態となった。その後、事件は拡大し、結局はこの小競り合いが日中全面衝突へと発展する契機となったのである。事件の名称も「北支事変」、「支那事変」へと範囲を拡大していった。

この時の日本の総理は近衛文麿(このえ・ふみまろ。1891-1945)、対する中国の南京国民政府主席は蔣介石(しょうかいせき。1887-1975)であった。近衛は、五摂家と呼ばれた名門公家・近衛家の出であり、事件の1ヵ月前に、難局打開の切り札として各方面に嘱望され、総理に就任していた。対する蔣介石は、1920年代の「北伐」を通じた中国統一の完成を目の前にした「旭日の権力者」であり、孫文(そんぶん)の後継者を自任してやまない実力者であった。

なお、盧溝橋事件が北支事変、支那事変へと拡大したと述べたが、紆余曲折を経ながら拡大の道をたどったというのが正鵠を得た表現だろう。なぜなら盧溝橋事件以降、幾度か小康状態をはさみながら衝突が再開され、日本が派遣兵力を増員、華北のみならず上海地区まで派兵することを決定、対する中国側はこれに対して国家総動員令で対応するに至って19378月半ばに両国、両首脳は全面戦争状態に突入したのである。そのため、日中戦争というのは19377月にはじまったというよりは、378月中旬に開始されたというのが実態に近い。

 

現状打破を望まれたプリンス・近衛文麿

 

 近衛は1891年(明治24)に生まれた。学習院から旧制一高、東京帝国大学へと進学、中途で京都帝国大学法科に転じ、卒業。当時、京都帝国大学教授でマルクス主義者だった河上肇(かわかみ・はじめ)とも交流したといわれる。1916年(大正5)に貴族院議員となり政界で活動を開始し、次第に政治勢力の中心へと進み始めた。

1920年代、国際協調路線が主流だった日本国内で、近衛は「現状打破」の革新的意見を主張していたため、1930年代に入ると影響力を強め、首相候補として期待が高まっていった。226事件(1936年)で岡田啓介(おかだ・けいすけ)内閣が倒れ、これを継いだ広田弘毅(ひろた・こうき)内閣も議会における陸相の寺内寿一(てらうち・ひさいち)と政友会の浜田国松(はまだ・くにまつ)による衝突(「腹切り問答」)が原因で総辞職、続く林銑十郎(はやし・せんじゅうろう)内閣も議会刷新を理由に解散総選挙に出たものの軍部や政党の支持を失い発足3ヵ月で総辞職した。

こうした政局混迷のなか、19376月に近衛内閣は発足したのであるが、盧溝橋事件の処理をめぐり陸軍内部は大きく割れた。いわゆる「拡大派」と「不拡大派」の対立である。「拡大派」は、田中新一(たなか・しんいち)陸軍省軍務局軍事課長、武藤章(むとう・あきら)参謀本部第一部作戦課長、同第二部など。「不拡大派」は、石原莞爾(いしはら・かんじ)参謀本部第一部長、河辺虎四郎(かわべ・とらしろう)同第一部戦争指導課長、柴山兼四郎(しばやま・かねしろう)陸軍省軍務局軍務課長らの陣容であった。

なお、筆者は「拡大派」「不拡大派」と称したが、劉傑は「武力行使派」と「外交交渉派」に分類してみている(『日中戦争下の外交』)。たしかに「不拡大派」の中心だった石原莞爾が、事を早期に決せんと2個師団増派を決定、「拡大派」「不拡大派」ともに結果的に事変の拡大の方向へと進んだことを考えれば、劉傑の言には説得力がある。

このあと近衛は、軍の中心勢力となった拡大派の路線に乗り、日本軍の南京占領後の19381月に駐中国ドイツ大使トラウトマンが提示した和平工作に対し、「蔣介石政権を対手(あいて)にせず」と声明を発し、自ら和平への道を閉ざしたのである。

 

孫文の後を継いだ中国統一の推進者・蔣介石

 

一方の蔣介石は、1887年に浙江(せっこう)省寧波(ニンポー)に生まれた。1908年に保定(ほてい)陸軍軍官学校を卒業後、清朝留学生として来日、軍人志望の留学生のために用意された東京振武学校に入学して3年間の学生生活を送った。

1910年、卒業と同時に士官候補生の身分で新潟県高田市の第13師団野砲兵第19連隊に実習入隊したが、滞日中に孫文(そんぶん)が率いる中国同盟会のメンバーになっていた蔣介石は、1911年に辛亥革命勃発の報を聞くと、ほかの留学生たちとともに帰国し、革命軍に加わるべく上海に向かった。

帰国後は黄埔(こうほ)官軍学校校長などを歴任し国民党内で重きをなし、孫文死後の26年、国民革命軍総司令として北伐を開始する。28年には南京国民政府主席に就任し、中国における政治指導者となった。その後も、まずは共産軍討伐を契機に軍を派遣しその地域を勢力下におさめ、そののち外敵(日本)に対抗するという「先安内後壌外」政策を打ち出し、国民党による中国統一を推し進めた。

ちなみに、こうした蔣介石の対日融和ともいえる方針の犠牲者が、東北を放棄することを余儀なくされた張学良(ちょうがくりょう)だった。彼は、1936年暮れに蔣介石を拉致・監禁して方向転換を迫るという、自らの命を懸けた西安(せいあん)事件により蔣介石の方針を変更させることに成功し、国共合作の下で日本の侵略にあたることとなった。盧溝橋事件が発生したのはその半年後のことだった。

日中の衝突が拡大しても、蔣介石は日本の侵略行動を撃退する自信を持っていた。盧溝橋事件勃発直後にモスクワに留学していた息子の蔣経国(しょうけいこく)に手紙を送り、「倭寇(日本)の中国侵略を心配する必要はない。わしが必ず倭寇を制するからである」(『蔣介石書簡集』下)と書いている。

その根拠は、自らが19378月に発表した「抗戦検討與必勝要約」における彼我の戦力の分析にみられる。

「日本側の長所は、小賢しいことをしない、研究心を絶やさない、命令を徹底的に実施する、連絡を密にした共同作業が得意である、忍耐強い」。逆に短所は「国際情勢に疎い、持久戦で経済破綻が生ずる、なぜ中国と闘わなければならぬかが理解できていない」点である。対する中国側だが、「長所は国土が広く人口が巨大である、国際情勢に強い、持久戦で戦う条件を持っている」点であり、逆に弱点は、「研究不足、攻撃精神の欠如、共同作戦の稚拙、軍民のつながりの欠如」である(『蔣中正先生対日言論選集』)。

蔣介石は、日本軍を広い中国大陸内陸部に引きずり込み、持久戦に持ち込めば勝機が出てくる、と読んで作戦を実行したのである。

したがって、短期決戦に勝機がある日本にとってみれば、19381月のトラウトマン和平工作は日本が活路を見出す唯一絶好のチャンスであった。ところが、近衛は南京占領の勝利に幻惑され、日本がもっとも不得手とする、蔣介石が待ち望んでいた長期持久戦へと突入していったのである。勝敗の分かれ道はこの判断にあった。

 

持久戦化した日中戦争

 

1938年に入ると、早くも蔣介石が予言したとおり、日中戦争は持久戦の様相を呈し始めた。近衛が「対手とせず」と発言した4ヵ月後の385月、日本軍は中国野戦軍主力の捕捉・せん滅を目指して徐州(じょしゅう)作戦を展開したが失敗、続く38910月にかけて行われた武漢(ぶかん)作戦でも再度主力の捕捉に失敗、蔣介石は内陸奥地の重慶に引きこもり、抗戦を継続することとなった。まさに彼がいう「長所は国土が広く人口が巨大である」ことを利用した作戦だった。

この間、日本軍が中国戦線に投入した兵力はおおよそ70万人に及び、日本国内にわずかな留守部隊を残し、全兵力を大陸に投入する結果となった。

中国軍との戦闘に勝利できなかった日本軍は、戦闘体制の集中配備から防備体制の分散配置に改め、占領地防備に専念することとなった。また、物資動員計画や生産力拡充計画を立案し、経済面で長期戦時経済に再編する政策を強行に推し進めた。

対する蔣介石率いる重慶国民政府は、体制を整えて上海など沿岸地域から中国大陸奥地に工場設備を移転し、内陸からソ連や仏印(現在のベトナム)、ビルマ(現在のミャンマー)を通じて英米からの援助物資を搬出入するルート(援蔣ルート)を開拓し、徹底抗戦を継続した。

このように、蔣介石は日本に留学し、日本の軍隊に籍を置いた経験があるだけに日本の内部事情や日本人の国民性を熟知していた。日本人が持久戦に不慣れだと確信していたし、逆に中国人はそれに優れているという強い自信を持っていた。蔣介石は、持久戦勝利の切り札は、軍事力そのものよりは経済力、それも国際的支援を受けた経済力とそれを引き出す外交力にあることを的確につかんでいたのである。

 

持久戦勝利の秘訣は中国外交力にあり

 

 前述したように蔣介石は、中国の長所が「国際情勢に強い」点にあることを強調していた。そこで彼は、外交に活路を見つけて持久戦体制構築を開始した。とくに、日本からの生糸・雑貨輸入と日本への機械・石油・クズ鉄輸出で日本の貿易産業の命脈を握るアメリカに焦点を合わせ、外交ロビー活動を積極的に展開したのである。

アメリカが対日経済制裁に踏みきれば、外貨獲得と戦略物資供給の両面で遮断し、日本を兵糧攻めで締め上げることが可能となる。それを見越してアメリカに標準を合わせたのである。

1937年7月、蔣介石は「宣伝という武器は実に自動車や戦車と同じ」と主張するジャーナリスト出身の董顕光(とうけんこう)の建議を受け入れ、彼を軍事委員会第5部(宣伝部)の副部長(のち部長)に据え、親中派の外国人を組織してアメリカを中心に国際宣伝活動を展開した。蔣介石は自らが直接指揮するかたちで、そこに豊富な資金を投入した。

こうした中国側の動きに応え、アメリカの経済学者で親中活動家のハリー・プライスが中心となり、「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」(ACNPJA)が組織され、ニューヨークに事務所を構えて活動を開始した。アメリカの世論を中立的立場から反日へ大きく変え、アメリカが対日経済制裁を政策化するうえで、この活動が果たした役割は大きい(土田哲夫「中国抗日戦略と対米『国民外交工作』」)。

 

「真実と誠意で人を感動させるべきである」

 

 しかし、宣伝と買収に資金を投入したからといって、すぐにアメリカの世論は反日に動いたのだ、と簡単に考えてはならない。国際世論の支持を得ようとする中国側が、外国人取材者に対していくら自国を美化し、買収めいた工作をしたところで、良識あるジャーナリストたちは、けっしてそれを理由に中国には肩入れしないだろうということである。

その点を、先の董とともに外国人への宣伝工作にあたった党の国際宣伝処長の曾虚白は自叙伝のなかで次のように述べていた。

「国際的な宣伝が実効をおさめるための第一の原則は、絶対に嘘をついて人をだますことをしないこと、そして事実を誇張したり粉飾したりしないことである。事実を正直に言い、真実と誠意で人を感動させるべきである。そうでなければ、他の人が心から承服してわれわれを援助することは考えられない」(『會虚白自伝』)。

こうした意味を込めた工作に応えたのが、エドガー・スノー、アグネス・スメドレー、ジャック・ベルデン、ニム・ウエールズといったジャーナリストたちだった。彼らの一人、スノーは1928年に中国にわたり、36年に共産党の根拠地であった延安(えんあん)を訪問、毛沢東(もうたくとう)ら共産党の指導者へのインタビューを基に、37年にベストセラーとなる『中国の赤い星』を出版、引き続き華北戦線を取材し、41年には『アジアの戦争』を発表した。

このなかでスノーが送るメッセージは、中国は個々の戦闘では敗北することもあるが、究極において中国はかならず勝利する、という確信だった。また、新聞論調も変わり始めた。ニューヨークタイムズも37年時点では、日本が中国の領土を「併合」(annexation )と表現していたのが、しだいに「侵略者」(invader)、「侵略」(aggression)が使われ始め、日本を「敵」(Enemy)と表現するものもあらわれた。時代の潮目が変わり始めたのである。

 

稚拙な日本の外交と宣伝

 

 中国に対する日本の外交力と宣伝力は、はじめから弱く手法も稚拙だった。近衛の「蔣介石政権を対手相手にせず」声明で、すでにその一端は現れていたが、その後もさまざまな和平工作が浮かんでは消え、消えては浮かんだが、いずれも成功しなかった。

その原因は、嘘と騙しでは外交は展開できないという一言に尽きた。日本軍は、一方で蔣介石の重慶国民政府と和平交渉を行いながら、他方で占領地に傀儡政権を打ち立てるという背信行為を繰り返し展開し、中国側の不信を買った。宣伝も稚拙に過ぎた。中国側が国際的に英語で宣伝工作を展開したが、日本の場合にはたしかにジャーナリストを動員こそたが、作家も多く従軍させたが、その方針はあまりに内向きだった。

彼らが描いた作品の多くは、日本語による国内向けの日本人兵士の活躍物語だった。さらに少しでも軍を批判するような言辞があれば、即座に検閲の対象となり、該当箇所は削除された。石川達三は19382月『中央公論』に「生きている兵隊」を発表したが、即座に発禁となった。上海戦で日本軍兵士が行った殺戮や強姦の場面が軍当局の逆鱗に触れたのである。中国とはあまりに違う日本の政府や軍の対応だった。それを象徴的に示すものが蔣介石の国際戦略の見事さであり、近衛の国内世論重視の姿勢や方針だったのである。

 

 

参考文献≫

小林英夫『日中戦争』講談社新書 2007

同『日本軍政下のアジア』岩波新書 1993

同『日本の迷走はいつから始まったのか』小学館 2011

同『日本のアジア侵略』岩波書店 1998

土田哲夫「中国抗日戦略と対米『国民外交工作』」(石島紀之・久保亨編『重慶国民政府史の研究』東京大学出版会 2004年)

劉傑『日中戦争下の外交』吉川弘文館 1995

會虚白『會虚白自伝』聯経出版事業公司、1988

蔣中正著/黄自進主編『蔣中正先生対日言論選集』中正文教基金會、2004

蔣介石著/丁秋潔・宋平編/鈴木博訳『蔣介石書簡集』下 みすず書房、2001



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