【1】はじめに
期待していたサッカー・ワールドカップでは、ここまで日本は1敗1引き分け。コロンビア戦では勝利が必須条件で、可能な限り点数を取らなくていけない(失点はしないように)。「軍師官兵衛」と同様にみんなで応援しよう。
ところで、今回は途中まで松寿丸が子役であったが、終わりのほうで元服して長政と名乗り、長政役の松坂桃李が登場した。おいらも20数年前は松坂桃李にそっくりだったのに・・・、などと原宿あたりで言ったりしたら、女子高生にボコボコにされるであろう・・・。きっと。
今回はタイトルのとおり、荒木村重(役・田中哲司)を破り、三木城を落城させたことも相俟って、栄耀栄華を満喫する官兵衛たちの姿が描かれていた。おまけに織田信長(役・江口洋介)が世界征服を口にするなど、信長ファンなら随喜の涙を流していることであろう。でも、「新しい世を作る」というフレーズには辟易とするので、そろそろ止めてほしいと思う。
閑話休題。
今回もまた、突っ込みどころ満載でおもしろかった!
【2】織田信長と正親町天皇
今回の話のポイントは、明智光秀(役・春風亭小朝)が朝廷に近づいていたことか。これは、本能寺の変の「朝廷関与説」との関連を意識したものであろう。とりわけ、信長が官職を受ける代わりに、正親町天皇に譲位を迫っていることがユニークなところだ。
譲位問題に関する研究は、①正親町天皇に譲位を迫り朝廷を圧迫した、②譲位の申し出を受け正親町天皇は感謝の気持ちを持った、という真っ向から対立する二つの見解が提示された。まずは、正親町天皇の譲位問題に関わる事実の経過を確認することにしたい。
譲位問題が起こったのは、天正元年(1573)12月3日のことである。信長は正親町天皇に対して、譲位を執り行うように申し入れた(『孝親公記』)。正親町天皇は信長の申し出を受け、譲位の時期について関白の二条晴良に勅書を遣わしている。晴良は勅書を受け取ると、すぐに信長の宿所を訪れ、正親町天皇が譲位の意向を示している旨を、信長の家臣・林秀貞に申し伝えた。すると、秀貞は「今年はすでに日も残り少ないので、来春早々には沙汰いたしましょう」と回答した。
戦国期になると経費負担が足かせとなり、天皇が即位式を行えない事態が発生した。実際に譲位を実施すると、右から左へと天皇位を譲るだけでは終わらない。即位式やその後の大嘗祭(だいじょうさい)などを挙行するのに、かなりの費用が必要であった。
信長の譲位の勧めに対して、正親町天皇は「(譲位は)後土御門天皇以来の願望であったが、なかなか実現に至らなかった。譲位が実現すれば、朝家再興のときが到来したと思う」と感想を述べている(「東山御文庫所蔵文書」)。
いうまでもなく、正親町天皇は大変喜んでいるのである。戦国期の天皇は生存中に譲位することなく、死ぬまでその地位に止まっていた。院政期以後、一般的に天皇は譲位して上皇となり、上皇が「治天の君」として政務の実権を握るようになった。
しかし、戦国期に至ると、そうした状況は大きく変化を遂げる。たとえば、後土御門、後柏原、後奈良の三天皇は、生存中に譲位することがなかった。彼らが亡くなってから、天皇位は後継者の皇太子に譲られた。これは朝儀にとって本来の姿ではない。譲位を歓迎するのは、当たり前だったのである。
譲位ができないという事態は、朝廷が望んだものではない。即位の儀式や大嘗祭などには莫大な費用がかかるため、譲位をしたくてもできなかったというのが実情であった。むろん彼らは、費用負担を各地の戦国大名に依頼するなど、努力をしたが、ついに希望を叶えることができなかったのである。
以上の理由により、正親町天皇は信長の申し出に対して、感激したことがわかる。早速、朝廷では譲位に備えて、即位の道具や礼服の風干を行なった(『御湯殿上日記』)。しかし、結局、信長の存命中に譲位は挙行されなかった。信長は足利義昭との関係が破綻してから、その対応に苦慮しており、多忙を極めていた。譲位が執り行われなかったのは、信長側の事情が大きかったと推察される。
ところが、信長が正親町天皇に譲位を迫った件については、「天皇への圧迫」と捉える論も存在する。要するに、信長は嫌がる正親町天皇に譲位を迫り、窮地に追い込んだということになろう。つまり、信長と天皇は対立していたという視点である。しかし、すでに述べたとおり、信長が譲位を通して天皇を圧迫したという考えは、的を得ていない。
したがって、従来の説で指摘されたように、信長と朝廷との間に対立があったという考え方は、今後改めて見直す必要があろう。逆に、正親町天皇は信長の提案を受け、喜んで譲位を受け入れたと解釈すべきなのである。こう考えるならば、信長が天皇に譲位を迫ったシーンで、光秀らが色をなすはずがない。むしろ、随喜の涙を流して喜ぶべきところである。
肝心なことを言い忘れたが、譲位問題は天正元年(1573)のことなので、ドラマが設定する時期(天正8年=1580年)とは大きく食い違うところである。
本能寺の変を「朝廷関与説」で組み立てるには、無理がありそうだ。
それにしても、今回の官兵衛(役・岡田准一)は影が薄かったなあ!?
【3】最後に
6月以降、「軍師官兵衛」の視聴率は急上昇し、前回はついに17.5%まで回復した。これまでの最高視聴率は、初回の18.9%である。20%を超えるように何とかがんばって欲しいものである。余計な話であるが、羽柴(豊臣)秀吉(役・竹中直人)のエロ話は、ほどほどにして欲しいと思った。
がんばれ「軍師官兵衛」!
〔参考文献〕
渡邊大門『黒田官兵衛 作られた軍師像』講談社現代新書
渡邊大門『黒田官兵衛・長政の野望――もう一つの関ヶ原』角川選書
渡邊大門『誰も書かなかった 黒田官兵衛の謎』中経の文庫
>洋泉社歴史総合サイト
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