風疹大流行に
 

風疹の流行が止まらない。患者数は今年に入って1万人を超え、全国的な統計がとられはじめた2008年以降の最悪の記録になった。感染者の8割までが、風疹の予防接種を受けていない2040代だ。風疹の症状自体は比較的軽いが、妊娠初期に感染すると出産した子どもに先天性の障害が現われる可能性が高い。妊娠がピークになる世代に流行が広がったために、昨年秋以来、すでに12人の先天性風疹症候群(CRS)の患者が報告された。

例年、風疹患者は数百人程度だったが2012年は2392に急増してこれまでの最多となり、2013年にはそれをあっさり上回った。東京・神奈川などの首都圏や、大阪・兵庫などの関西で目立って多く、東海や九州などほかの地域にも広がった。予防接種の希望者が殺到してワクチンの不足が心配されている。

 今年はじめ、プロレス団体「ノア」は試合開始前に、アナウンスで風疹ワクチンの接種を呼びかけた。所属する10人の選手のうち、3人が相次いで感染して欠場したためだ。屈強なプロレスラーも風疹には勝てなかった。

日本の大流行は各国で大きく報じられている。米国疾病対策センター(CDC)は6月に、風疹の流行がつづく日本への渡航注意情報を出した。ワクチン接種や風疹にかかった経験がない妊婦は、流行が収まるまで渡航を延期するよう勧告している。この注意情報はリスクの低い順にレベル1から3までの3段階があり、今回はレベル2。次いで、カナダ保健省も日本への渡航者への注意をよびかけた。いずれも、衛生環境のよくない発展途上地域なみの扱いだ。

世界保健機関(WHO)の昨年の風疹発生報告によると、日本は中国、ルーマニア、バングラデシュに次いで世界で4番目に感染者が多い。世界の84ヵ国から発生の報告があったなかで、感染者1000人以上の国は、この4ヵ国以外にロシア、ウクライナ、インドネシア、南アフリカ、ウガンダの計9ヵ国だった。CRSの発生数も、日本はベトナムやザンビアなどにつづいて7番目だった。

風疹にかぎらず「ワクチンで防げる感染症」(VPD)の予防については、日本の国際的評価は最低だ。はしか、水ぼうそう、おたふくかぜ、結核などが流行するのは先進地域では日本ぐらいのものだ。他国からは日本の旅行者が感染症を持ち込むとして警戒されている。清潔好きの日本としては恥ずかしいかぎりだ。

 

鎌倉時代からあった風疹
 

 風疹は感染しても多くの場合、症状は比較的軽い。軽いかぜ症状からはじまり、発熱もあまり高くない。全身に赤い発疹がみられ、リンパ節がはれたり、関節痛、関節炎などの症状が現われる。症状の出る期間は3日ほどで短く、以前には「三日ばしか」と呼ばれた。ウイルスの放出期間は発疹出現の前後約1週間とされる。

風疹は古くから知られていた。たとえば、鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』には、寛元21244)年に大納言家や将軍家でさえも患者が続出した「三日病」(みっかやまい)の記述がある。軽度のはしかなども混じっている可能性はあるが、ほぼ風疹とみられる。その後の文献にも「三日病」の流行はしばしば見られる。

名医の遺著や文献の発見に努めた医師、富士川游(ゆう)(18651940年)の『日本疾病史』(1912年刊)によると、永和4(1378)年、応永15(1408)年、正長元 (1428) 、寛正4(1463)年、安永81779)年、にそれぞれ流行した。

中島陽一郎氏の『病気日本史』(2005年、雄山閣刊)には、風疹と飢饉が同時期に発生した事例の多いことが指摘されている。天授41378)年には、「近日、天下に三日病がはやって、貴賎にかかわらずひとり残らず感染した」(『御愚昧記(ごぐまいき)』)とあり、その翌年には飢饉が広がった。

また、応永15(1408) 年、正長元 (1428) 年にも流行、寛正41463)年には大流行して「餓死者数千人、疫死(病死)はその数を知らず」というほどの惨事になった。安永81779)年の全国的な流行では疫死者は数十万人におよんだ。

天保61835)年には疫死者は10万人を数え、その翌年から一説では約100万人の餓死者をだした「天保の大飢饉」がはじまった。当時の風疹の症状は現在と比べて激しく、長期間衰弱して農作業にも差し支えたことが、飢饉を深刻化させたともいわれる。このときは「三日はしか」と呼ばれ、はしかと区別されている。

その後、「風疹」とよばれるようになった。中国語で病気を引き起こす邪気である「風」と、皮膚の表面に現われる小さな赤い斑点や吹き出物を意味する「疹」とが語源である。中国語では「疹」と書く。

明治以後も59年ごとに春から初夏にかけて大きな流行があり、近年では19641975~77 年、1981~82 年、1987~88 年、2004年に流行が繰り返された。風疹にかかった人は免疫ができて2度とかからないといわれるが、免疫力が低下していた人や、がん治療などで免疫力が落ちた人は再発することがある。

写真_1天保の飢饉図 

天保の大飢饉を描いた『凶荒図録』(江戸後期-明治時代の画家、小田切春江作。1885年)には、「大飢饉の村郷は食物の類は何もなく、牛馬はもとより犬猫までも食い尽くし、餓死したものが多かった」という説明がついている。

 












60
年代に世界的流行
 

20世紀以来、風疹とみられる感染症は、米国では69年ごとに、ヨーロッパでは35年ごとに流行していた。しかし、長いことはしか(はしか)や猩紅熱(しょうこうねつ)と混同されていた。1740年にドイツの医師フリードリッヒ·ホフマンがはじめて独立した病気であることを記載した。1752年と1758年にドイツの医師によって流行が報告され、「ドイツはしか」と呼ばれるようになった。

1866年にインドで大流行したときに、英王立砲兵部隊の軍医ヘンリー·ヴィールが「ルベラ(rubella)」と命名した。ラテン語の「小さな赤斑」を意味する。

1960年代の風疹の世界的な「感染爆発」は、まず1962年にヨーロッパではじまり、ついで米国に持ちこまれて196465年に大流行した。米国での感染者は1250万人にのぼった。その後1991年には、ペンシルバニア州で厳格な教義を持ち移民当時の生活様式を守るプロテスタントのアーミッシュ派の人々の間で流行した。宗教上の理由から接種を拒否したためだ。

米国では1962年に風疹ウイルスの分離に成功して、この株から弱毒性ワクチンがつくられた。その後、ワクチンが普及して、2004年にCRS の撲滅宣言がだされた。しかし、旅行者や移住者によって海外からウイルスが持ち込まれ、散発的な発生はつづいている。

ワクチンが普及していない発展途上地域から侵入してくるため、先進地域でも突発的な流行が繰り返されている。英国では、1993年と96年に流行が起きた。外国人移住者から感染が拡大したと推定されている。

1967年にカナダで4000人、1998年にはメキシコで7000人、19982001年にイタリアで2万人以上が発症した。ルーマニアでは200313年に、115000人の患者がでた。

20131月以後、ポーランドでは21200人の風疹症者が報告されて、6年ぶりの大流行になった。2004年に風疹ワクチンの2回接種が実施されるまで、女児にしか予防接種をしなかった影響と考えられる。この流行で、2015年までに風疹根絶を掲げる欧州連合(EU)の目標達成が危ぶまれている。

 

ワクチンをめぐる混乱
 

欧米に遅れること8 年。1970年に日本でも患者から分離した株をもとに弱毒生ワクチンが開発された。当初、接種対象をめぐって議論があった。男女の全幼児に接種するという米国方式か、女子中学生のみに接種するという英国方式か。日本は1977 年に英国方式を採用して、女子中学生にしぼって開始した。

この2つ方式の優劣はまもなく明らかになった。米国では風疹の患者が激減し、その結果としてCRSの出生がゼロに近くなって、撲滅宣言をだすところまできた。一方で、日英方式では、流行が集中する幼児は免疫がないことから、流行が断続的に発生した。結局、すべての幼児に接種するという米国方式に転換を余儀なくされた。

1989年4月からは、生後1272カ月児へのはしかワクチンの定期接種のときに、はしか・流行性耳下腺炎(おたふくかぜ)・風疹の3種混合のMMRワクチンを選択してもよいことになった。MMRとはこの3種の英語名の頭文字をとったものだ。

幼児へのワクチン接種によって、全国規模の流行はなくなった。ところが、 MMRワクチンの接種を受けた子どもが増えるにつれて、含まれているおたふくかぜワクチン株が原因の「無菌性髄膜炎」が増えてきた。子どもを持つ親から不安の声が高まり、4年後の1993年4月にMMRワクチンの接種が中止になった。

発熱、頭痛、吐き気などの症状がでる無菌性髄膜炎は、厚労省研究班の報告(2007年)によると、2282人の接種につき1人が発症した。その他の調査でも、約1000~3000人に1人の割合で発生した。ただ、重い後遺症がでる割合はかなり低いとされる。

1994年の予防接種法の改正にともなって、風疹ワクチンは17歳半(12ヵ月~90ヵ月)の全員に接種されることになった。その後風疹の大きな流行はなくなり、2010年の患者数は87人でCRSも年間ゼロになった。

 

予防接種の空白期
 

20064月から、副作用が問題となったおたふくかぜワクチンを除いた、はしか・風疹混合ワクチン(MR)の接種がはじまった。だが、この中止された期間、つまり197942日から1987101日生まれの世代は、風疹の予防接種を受けていない空白の時期になった。

この間に生まれた1250万人には経過措置として接種が行われたものの、実際に接種を受けたのは約4割の490万人にとどまった。この年代の女性が結婚・出産時期に入る2000年以降、妊娠時の風疹感染によるCRSの発生が懸念されるようになった。

2011年度の国の調査では、2040代の男性の15%(20 8%、3019%、4017%)が風疹への抗体を持っていなかった。一方、2040代の女性の4%が風疹への抗体がなく、11%は抗体価が低く感染予防の効果が薄いことも判明した。

海外渡航に必要なワクチンのリストにも風疹ワクチンは入っていないため、これらの世代が海外で感染して日本に持ち込み、国内で流行させるケースもあるとみられる。これが201213年の大流行につながった可能性もある。

2006年に始まった現行制度では、1歳と小学校入学前の2回、個別接種が受けられ費用は公費負担だ。だが、過去の制度で予防接種を受けなかった人の場合は、自己負担が原則である。男性から女性に感染させることも多く、男性の接種が急務とされる。国立感染症研究所によると、現在の風疹のワクチンは副作用が少なく安全性は高いという。

 

先天性風疹症候群
 

オーストリアで大流行した翌年の1941年、眼科医ノーマン・グレッグが、78例の先天性白内障を調べたところ、68例までが母親が妊娠中に風疹に感染していたことを突きとめた。そのほかにも心臓の奇形などが多発した事実から、グレッグは風疹が胎児に障害を与える可能性を警告した。これを機に風疹の妊婦への影響が広く知られるようになった。

196265年に欧米で風疹の「感染爆発」が起きたときに、米国では2万人を超えるCRSの子どもが産まれた。その結果、早流産が11250人、新生児死亡が2100人におよび、12000人が聴力障害、3580人が視力障害、1800人が精神障害を引き起こした。

ニューヨーク州だけで、新生児の1% に何らかの異常があった。経済損失は15000万ドルと推定された。ちょうど、「つわり」の特効薬として使われたサリドマイドによる先天異常が大きな社会問題になっていた時期で、妊婦にとっては受難の時代になった。

この流行は1964年に、当時は米軍の統治下にあった沖縄に飛び火した。ベトナム戦争に従軍するため、本国から沖縄へ移動した米軍兵士らが持ちこんだとみられる。1964年の風疹の流行で、沖縄では1965年に408人の障害児(その年の出生数の 2%)が生まれた。そのため、1969年には沖縄県内各地の学校に風疹障害児のための学級が設置された。

障害児のためだけの独立した学校が1978年に「北城ろう学校」として新設され、計19学級に140人入学した。 1981年には普通科と職業科からなる高等部が開設された。19843月には全生徒が卒業して6年間の短い歴史を閉じた。

一方で、米国では風疹障害児が増えるのにつれて、人工中絶の是非をめぐる議論が白熱した。当時、中絶の賛否をめぐる対立は激しく、反対派が中絶手術をした医師を殺害したり診療所を爆破するなど過激な運動を展開、「内戦」とさえいわれた。しかし、1973 1 月、連邦最高裁は中絶を合法とする画期的な判決を下した。風疹の流行が連邦最高裁の判決を後押しすることになった。

日本でも今回の流行で、人工中絶の増加や周囲から中絶を強要されたといった報道が流れている。CRSで生まれた子どもに対して、その数十倍が中絶されていると推定する専門家もいる。感染した妊婦が中絶するかどうか、個人にとっては重い決断だ。

抗体を持たない、あるいは抗体価の低い女性が妊娠初期に風疹にかかった場合、胎児に障害が現われる確率は、妊娠4週目までに感染した場合50%以上、58週で35%、912週で15%、1316週で8%、20週以降はほとんど影響がないとされている。

その先天異常は、「目」では白内障や緑内障、「心臓血管系」では心臓中隔欠損、肺動脈狭窄(きょうさく)、「聴覚」では内耳性難聴などがある。

 

風疹ウイルスの遺伝子
 

風疹ウイルスはトガウイルス科のルビウイルス属に属する。ルビウイルスに属する「RNA ウイルス」というウイルスである。「トガ」とは、古代ローマ人がからだに巻きつけた長い布のことだ。このウイルスが厚い外被で覆われているのでトガにたとえられた。自然界では、風疹ウイルスと近縁のウイルスが見つからず、ヒトのみで流行する。

風疹ウイルスは、遺伝子の配列によって、大きく「Ⅰ型」と「Ⅱ型」に分けられ、それぞれがさらにさまざまな遺伝子型に細分化される。また、流行した地域によってこの「型」が違ってくる。そのため、その型の分析から流行の過程を追うこともできる。加藤茂孝氏の『人類と感染症の歴史』(2013年、丸善出版)によると、現在世界に広がっているのは「Ⅰ型」で、遺伝子の変化からみて1940年代から流行がはじまったと考えられるという。

世界的流行の原因は、戦争などによる人の大量移動が引き金になっているとみる。第二次世界大戦中の1940年にオーストリアで起きた大流行は、軍隊を中心に発生した。沖縄での流行もベトナム戦争が関与している。

「Ⅱ型」は、アジアやヨーロッパのより狭い領域で流行しているが、おそらく19世紀半ばに分布したもので、それ以前に存在したウイルスグループと入れ替わった可能性が考えられるという。

世界各国から報告された風疹ウイルスの遺伝子型の情報を元に、過去から現在にかけてどの遺伝子型のウイルスが世界のどの地域で流行していたかがわかる。日本の流行も遺伝子からみて海外から持ち込まれたものだ。

 

風疹をめぐる話題
 

風疹にかかった有名人として真っ先に名が挙がるのが、元大リーガーのカーティス・プライドだ。1993年のモントリオール・エクスポズから2006年にアナハイム・エンゼルスを最後に引退するまで、ボストン・レッドソックスやニューヨーク・ヤンキースなど8つのチームで外野手としてプレーした。

プライドはメリーランド州で生まれ、幼いときに風疹にかかってその後遺症で難聴になった。彼が生まれた1968年は、大流行の余波がつづいていた。米国ではじめて風疹ワクチンが導入されたのはその翌年のことだ。スポーツ万能で、16歳のときに、サッカーのU-17ワールドカップの第1回大会(中国)出場して2ゴールをあげたこともある。

 ちなみに、彼は大リーグでは2人目の難聴プレーヤー。第1号はダミー・ホイ(18621961)、シンシナティ・レッズなどで活躍した。難聴の原因は脳脊髄膜炎だった。 

戸部良也著『青春の記録―遥かなる甲子園・聴こえぬ球音に賭けた16人』(双葉社刊、1987)は、沖縄の「北城ろう学校」の野球部が、1983年の夏の高校野球の沖縄県大会に出場したノンフィクション小説だ。

大澤豊監督によって映画化(1990年)され、さらに山本おさむの漫画作品や、テレビ・演劇版も制作された。身体的なハンディから参加を認められないなどの制度的な障害も乗り越えて、沖縄県予選出場をはたした。結果は大差のコールド負けを喫する青春物語だ。

風疹が登場する小説には、1962年に出版されたアガサ・クリスティのミステリー『鏡は横にひび割れて』が有名だ。ちなみに、この年はヨーロッパを中心に風疹のパンデミックの起きた年だ。アガサ・クリスティの代表的なキャラクター、ミス・マープルが主人公のものとしては、最高傑作という評価もある。

ミス・マープルが住む小さく静かな田舎の村が舞台。村に引っ越してきた米国の有名女優を招いたパーティーで、同席した地元の女性が毒殺された。実は2人はかつて会ったことがあり、そのときに妊娠していた女優は彼女から風疹をうつされ、生まれた子どもは重度の障害児になった。この因縁が事件の背後にあった。
写真2_ニューヨークヤンキーズ時代のプライド選手 
大リーガーのカーティス・プライド。風疹の後遺症の難聴を克服して活躍した。
 

 



















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