考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

謹賀新年

2015å¹´01月04æ—¥ | æ•™è‚²
あけましておめでとうございます。

気づいてみたらこのブログを開設して丸10年。この頃は記事のupが少なくなりましたが、これは忙しいばかりでなくイマドキのご時世ゆえ関心の幅が広がってしまったせいでもあるのです。授業の雑談もあれやこれや英語どころじゃない、という気分です。まあ、「ほりに聞くより辞書に聞け」のモットーは変わらず、「英語なんてそこら中に転がってるのだから、自分で辞書首っ引きで勉強をすればそれでできるようになるんだよ」と言ってのけるものだから生徒は大笑い。「じゃあ先生の仕事は?」「私は君たちがヘンな方向に向きかかったら、あ、そっちは違うよ、とちょちょいと軌道修正するの。それで十分なのよ」ってなものです。そう、教えてもらうからできるようになる、なんて気楽じゃないのですよ。それだと教師を超えることは決してできません。それより何より今現在重要なのは、「何のための勉強なのか」にちがいありません。「喰う寝る遊ぶ」という人間の生理に合わせた「政治」の根幹がないがしろになってきている現在、もはや英語の細かいあれこれはどうでもよろしい。(理由は前述の通り。)「ものの道理」の基本をそのままストレートに伝えるほかないでしょうよ。というわけで、雑談が(あいかわらずかもしれませんが、)非常に多い授業です。「格差社会」の言葉通り、公立と言えど裕福な家庭の生徒が多い学校ですから、ここは是が非でも格差是正の思考を獲得させるのが公教育に携わる者の務めでしょう。
「勉強は自分が将来出会うであろう人のためにするんだよ。今、ここにいない人のためにするんだよ。人間は、今ここにないものを想像する存在なのだから。」

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


よくできる生徒たち

2014å¹´11月30æ—¥ | æ•™è‚²
 かなりよくできる生徒とそうでもない生徒はここが違う。

よくできる生徒は。。。。
1 ほぼ必ず予習をしてくる。
2 テストで間違えても次のテストではもう間違えない。学習能力が高い。
3 授業をよく聞いている。
4 だいぶ前に言ったことでも覚えている。
5 最初は質問に来ても、やり方を教えるとだんだん来なくなる。
6 多彩な具体例につながる抽象的なまとめによく反応してよく覚えていてくれる。(だから応用が利く。)
7 謙虚で学習内容や教師にたいしてとても素直。
8 姿勢が良い。
9 英語に限って言うと品詞、その他、日本語と英語で違う捉え方に敏感。
10 教師が間違えるとちゃんと指摘してくれる。
11 「わかった人、手を上げて」「知っている人、手を上げて」と言うと、ちゃんと手を上げてくれる。(知っていても手を上げない生徒は多い。)
12 どうやったら間違えずに済むか、に関心が高いし、その方法を体得してくれる。

 あまりできないというか、今ひとつの生徒はこんな感じ。
1 なんだかんだと理由を付けて塾へ行こうとする。
2 教えてもらえればできるようになると思っている。
3 授業を嘗めている。たとえば、教師の言うことを「そんなこと、知ってる」という顔をして、確実な習得を目指そうとしなかったり、同じ英語の授業でも他のことをしたがる。
4 試験でいかに点を取るかに興味津々、というか、どうしたら効率よく点が取れるかが頭から離れない。
5 教科書を忘れていても、知らん顔してそのまま。
6 問題をやると、答え合わせだけして終わり。
7 「重要事項」が何かをひどく気にするが、自分が何がわかっていて何がわかってないのかにあまり関心を持たず、それが大事だとも思わない。
8 英文を理解するより問題を解くことに関心を持つ。
9 やたら「話せるようになりたい」と言う。
10 わかってないことでもわかっているふりをしたがる。
11 勉強が自分の知らない世界を知ることではなく、自分が既に体得している概念で理解することだと思っている。自分の世界を広げることが困難な様子。
12 中学英語でなんとかなる日常会話がすんなりできると、もうそれだけで自分は英語ができると思いこんでそれ以上の学習意欲を持たない。というか、英語学習の必然性を芯から感じないのでどこか熱心になれないようす。(帰国子女などに多い。)
13 暗記すればできますか?とすぐに聞いてくる。
14 具体的に「これとこれをやれば〇〇点が取れる」と言われれば必死になって勉強をするが、学習の対象がほんの僅かでも漠然としていると、「何をして良いのかわからない」と勉強をしない。プロセスよりも結果重視主義。
15 いつもより少し多く勉強をしてそれなりに点が取れると、「私はできる」と思いたがる。
16 要は、まあ、プライドが高い指示待ち人間。思考停止状態で「ちょっこっとだけ自分で考える」という勉強のコツが大事だと思わない。自分で自分を見つめようとしない。

素直と従順は違う

2014å¹´10月20æ—¥ | æ•™è‚²
 生徒は、素直でなければならないと思う。しかし、それは「従順」とは異なろう。
 「素直」は、英語の動詞で言えば自動詞っぽい概念だろう。しかし、「従順」は他動詞的で、従う相手、ことのほか「人間」を必要とする。おそらく何らかの権威があった上での相対する概念である。(人を主体とした場合、非常に多くの場合、相対性は他人との関係にあろう。)しかし、「素直」の方はありのままに、対象が人間でなくとも、むしろ対象がなんであれ、心が開いている感覚だ。
 数学であろうと英語であろうと、勉強する際に大事なのは、「素直」の方である。対象とする学問に対して、心を開いてありのままに受け入れることが大事だ。そこに、自分独自の感覚を紛れ込ませると、途端に勉強はできなくなる。
 「従順」は教師に対する言になろう。しばしば、先生に対する従順さが勉強に対する素直さにつながるが、(なぜなら、先生は勉強を教える存在だから、非常に多くの場合、先生に従うことが勉強をすることそのものになる。)必ずしも相容れないものである。
 ところが、どういうわけか、近年は勉強や学問に対する素直さが、従順さと変わりないものとして捉えられている気がする。持論になるが、今は、本当に「相対性」、「人間関係」に立脚した世の中だと思う。学問や勉強に対しても、権威や点数など(←同義だね)ばかりが重視され、人知ではどうしようもない絶対的な世界観が軽んじられているように思うのだ。
 これでは子供は自己の成長させられないだろうし、従って、能力の伸長という観点での学力も高まるわけがないと思う。

日本人は日本が嫌い?

2014å¹´10月02æ—¥ | ç”Ÿæ´»
 思うに、日本人は、よほど日本が嫌いになったのではないのかしら?
 でなければ、これほどまでに若者や同胞を痛めつけるような諸策に同意しますまい。

 「嫌なことは水に流して、水で流れないことも流れたことにして忘れたい。」「今の楽しみだけを求めたい。」
 ----でも、↑これは、桜が咲いて散るのと同じなのかな?
 習性は変わってないのかな。
 かつて指導者として気骨あった少数の人たちが姿を消したということか。

「知識」は外界の切り取り方

2014å¹´08月30æ—¥ | æ•™è‚²
 「知識」は「言葉」を外側から、何か集合体として捉えたものだろう。私が生徒によく言っているのは、「『知識』は自分の周りに転がっているものだから、大事なのは、いかにしてそれを外界から切り取るかの方法だ」というものだ。これは「分類」に通じる考え方だ。
 随分前だが、養老先生がゾウリムシをいろいろ並べ替えて分類していた。そのとき何と言っていたか明確には覚えてないが、並べ替え方が世界観だ、みたいなことじゃなかったかと思う。大きさで分けたり、色で分けたり、他の細かな形態で分けたりすることで、分類した人がゾウリムシの集団をどのような世界観で捉えたかがわかるというものだった。単純な分類なら、小学生や幼稚園児でも行うが、背後にあるのは、実は非常に根源的な人間の思考である。
 学校で教えられている知識も、これと同じで、学ぶ知識を通して、人類がこれまで、その文化圏においてどのように世界を捉えてきたかを伝授している訳である。知識を単なる羅列と捉えるなら、それぞれがバラバラの断片でしかない。しかし、本当のところは、養老先生の分類と同じで、特定の体系を持つ世界観の表明である。では、何が特定の体系なのかを問えば、通常表に出てこない「切り取り方」こそが知識を形作るものということになる。
 ならば、一般に知識の習得が大切な勉強とされるのであるなら、根本にある「切り取り方」に着目する方がそれこそ本当の意味で効率良い学習になるだろう。この考え方は、学習事項を量的な知識と捉える人には評判がたいそう悪い。しかし、そうでない人にはかえってなるほどと感心される。この両者には傍目以上の間隙があろうと私は思っている。生徒なら、今後の知性の発展の仕方に大きな差異が生じるはずだと想像するが、皆さんは、いかが思われるだろうか。

考える読書と考える部活

2014å¹´08月10æ—¥ | æ•™è‚²
 養老先生の「考える読書」を読んだ。近著の「自分の壁」も読んだが、こっちはバカの壁形式で編集者が代筆?しているものだから文体がつまらない。「考える読書」は小説推理に連載したものだから、養老先生の文体である。単行本も出ているらしいから、ひょっとしたらそのときに買って読んでいる可能性が高い。だって、何だか一度読んだことがあるような気がするのだもの。これまで何度か同じ本を2冊買ってるからね。
 この連載の時期にバカの壁が売れたから、その前と後で文体が違う。後の方は文章が粗っぽいし、面白みも少ない。養老先生にあってしても、それなりにたっぷり時間がないと思考が深まらないようだ。凡人はよほど時間がないと考えることなんてできないに相違ない。もっとも、「小人閑居して不善を為す」なんて言葉もあるから厄介だ。
 私の読書傾向は、ここ数年はほとんどが内田樹先生で、ごくごく最近は資本主義とグローバリズムなど、広義に言えばおまんまの食い上げに通じる関係の本である。養老先生は久しぶりの出版だから嬉しかった。
 で、なんで「部活」かというと、新しい学校では、珍しくチームプレーに関わる部活動の副顧問になったことと関係する。
 年ばっかり喰っているが、からきしの運動音痴で自分は全くできない。学校の体育の授業でさせられただけの経験である。よって、主顧問がどうしてもやむを得ないときだけの練習監督だから仕事は少ない。先日、珍しく出番があったが、このチーム、いかに弱小チームかよくわかった。(みんな、ごめんね。こんなところで悪口言っちゃって。)
 学校のそれぞれの運動部が強いか弱いかは、試合結果を聞かなくても誰にでもわかるものと思っている。選手が練習をしている場に一歩足を踏みいれただけでわかるのだ。たとえそれが単なる素振り練習であろうと、ウォームアップの基礎練習であろうと、練習場の空気の張り詰め方でわかる。たいていの高校では、卒業アルバムというものを作成するが、そこに部活動写真を入れる。この撮影は意外になかなか面倒で、各々の練習場所を写真屋さんが順番に回って撮る。それに付き添うと、練習場の空気の違いが如実にわかってくるのだ。練習場の空気がどの程度ピーンと張りつめているか、3年生撮影時の1・2年生が統制がどれだけ取れているかが、強い部活と弱いところで、これが同じ学校かと思うほどに違うのである。
 こうした観点で言うと、現在の部活は、絶対に、彼らは弱い、と断言できるし、現実にそうなのである。
 というわけで、ど素人の私が指導してしまった。道具と仲良くなること、そのために、自分の身体の各部と対話して言葉にできない感覚を分節して感じ取ること。基礎的な練習も試合の具体的な場面をアタマにおいて練習すること。俯瞰的な視点を持つ努力をすること。もちろん、イチローや中田英寿の例を挙げた。
 そしたら、もともと相対的に賢い生徒たちで素直でもあるので、私が伝えたかったことはすぐに伝わり、練習の雰囲気が変わった。
 部活動も勉強も、思考法も、何にでも共通点がある。まあただ、部活の時に勉強の話をするのはひょっとしたら嫌かなと思ってあまり言わなかっただけで(ちょっと言ったのだけど。)、英語の文章を読むとき、学習するときもほとんど同じことが言えると思っている。(うんうんと聞いていた生徒もいたが。)
 「考える」基本に何の違いもないし、この力がなかったら、結局実力を付けることはできないだろう。もちろん、最後は、持って生まれた能力に帰結するだろうが、どこまで能力を活用し発揮させることができるかは、やってみなければわからない。それで、高等学校というところは、私は「やってみなければわからないことをやる」場所で、「想定した目的に到達する」場所ではないと思っている。

近況報告

2014å¹´08月02æ—¥ | æ•™è‚²
 読者の皆様お久しぶりです。
 久しぶりの記事です。ここ数ヶ月、忙しいのやら何やら、まあ、仕事で相当に脳みそを酷使していたので全く記事、というか、文章を書く気になりませんでした。

 思ってもみない転勤で、なんとまあ、俗に言う、地域のトップ校に勤務し始めました。希望を出したわけでもなんでもないのに。(しくしく。)

 忙しい理由は、生徒のエネルギーレベルが総じて高く、反応も速く、仕事も速く、ああ言えばこう言う傾向も強く、相手をするのにこちらも高いエネルギーを要求されるからだと思っています。(年寄りにはなかなか厳しいですよぉ。)
 学習が非常に重視されていて、授業の進度もやたらめったら速い。(速く進むだけが能じゃないとも思うのですが。)今までの2倍くらいの速度なので、ただただ予習が大変です。それから、テストの採点。ちょっとやそっとの問題だと皆できてしまいます。(もちろん、サボったやつはできてませんが。)差が付きません。ということで、まあ、英語の場合だと、問題の量が増えます。作文が増えます。かつ、彼らは(もちろんそうでなくては困るのですが、)たくさん書いてくる。これもかこれでもかというほど、書いてくる。また、作文の場合、それなりに理にかなった書き方をしてくるので、それが本当に正しい表現か、あるいは、適切かの判断が難しいことがある。よって、採点がめちゃくちゃ時間がかかって大変になる。ふー。

 でも、ついこの間まで中学生だった彼らには、悪しき学習法が染みついています。これを取り除くのがなかなかです。それでも、優秀そうな生徒はすぐにわかってくれるし、もともと知的好奇心が強く、試験に出る出ないに関係なく、学習に興味を持つ。わかることより、わからないことに挑戦する気持ちが相当に強い。もちろん今まで面倒を見てきた生徒にもこうした生徒は必ずいたし、学力を伸ばしていました。しかし、未知に対する挑戦を実に肯定的にとらえる傾向がこれまで勤務してきた高校の学習風景との大きな違いではないかと思います。
 図書館でぶらぶらしていたら、ある生徒が、古典がよくわからなくて苦手だから何を読んだら良いのか教えて欲しい、と聞いてきました。低学年でも読めそうな説話集を紹介したら、全集の重い1冊にもかかわらず借りていく。私は正直言って、とても懐かしい気持ちになりました。わからないこと、自分の苦手なことに出会ったときに、その弱点をピンポイント攻めるのではなく、逆に広範囲に、深くとらえて補強を試みる策だからです。私もそうでした。こうした方法は、「今風」の学習方法ではありません。しかし、底力をつける意味ではおそらく最強の方法です。時間はかかり、労力もかかる方法は効率が悪い、とイマドキの生徒は嫌がります。ところがこの学校の生徒は(すべてではないにしても)敢えてそっちの方を好む。私は心からほっとしました。まだまだ日本も棄てたものじゃない。
 本校の生徒の何人かは必ず、東大や京大に行きます。(行かなきゃ、よほどサボったということだ。)卒業生を見ても、世の中心で活躍しています。(そりゃ、良いことも悪い点でもいろいろ活動していることでしょう。)今の生徒が社会に出るとき、彼らがどのような活躍をするか、私はそちらに関心があります。(この話題は、今の社会情勢から、長く深く、訳わからなくなるのでちょっとお休み。)

 雑談が通じるのが面白い。(だから、ブログ記事がなかったのだという気もします。)イマドキの子だから、素直で従順な側面も強く、トップ校らしく、「教師に期待しない」という面も見られる。「自分でやればわかるもん。」「そう、そう、そうなんだよ。先生の話を聞いてどうのこうのより、自分で辞書引いてやっていけばそれで独りでに力が付くんだよ。」---後者の台詞はもちろん私です。
 「先生の話、面白い。」と何人かに言われました。「同じ話が多い。」とも言われたけれど。自分でより良く考える力を付けてもらいたいと思っています。

 でも、やっぱり。非常に、つ・か・れ・る!!!!!!!
 はふ~~~。

忙しい忙しい

2014å¹´04月23æ—¥ | æ•™è‚²
理由・〇付け。ひたすら〇付け。とにかく書いてくる書いてくる。埋めてある埋めてある。問題量がこんなに多いのも久しぶりに見た。作業量が尋常じゃない。これがこれから続くのか。。。。

使える英語力にいたる思考力の話

2014å¹´02月25æ—¥ | æ•™è‚²
 近頃、ある程度の英語が理解できて本当に良かったと思う。このネットの時代においては、検索すれば、或いは、適切な情報発信者の一人二人に到達していれば、そこから、それこそナマの英語の情報にたどり着けるからだ。私の方から英語で発信することはないだろうが、自分が住まう国家が他の国家からどのような目で見られているのかという情報が直に入って来るのは、けっこうありがたいことだと思う。
 ある程度の読解の能力は、高校1年までの文法等の知識と辞書を引く能力があればそれで良さそうだが、読解そのものの力は、これらに加えて、誤読しやすい表現や語句などの知識や用法、また、英語独特の言い回しや発想法を日本語と比較検討して理解する能力が必要だ。英語の教員という仕事柄言えるのは、後者の能力を身につけるのはかなり難しいということだ。生徒がセンター試験で超高得点(?)に至らない理由はこれだ。(時間制限がなくても、である。)
 言えるのは、そもそもの「思考力」があった上で数多くの文章に当たっていくことが重要だ。やがて慣れてくれば理解力を増す。しかし、ここで重要なのが「そもそのもの思考力」を有しているかどうか、である。かなり言えると思うのは、イマドキの通常の教育がこの能力の育成を阻害する方向で行われている現実だ。何かで読んだが、東大野球部の監督は、塾をしながら野球をやっているが、塾を流行らせるための方策が、数学を暗記物にして点を取らせる方法だったということだ。この方だけがこううした方策で勉強を教えているのではなかろう。生徒も親も、さらには教員も、短期間でいかに点を取るかを最重要視し、本物の思考力、つまりは、応用力につながる思考力を軽視しているのが現状である。
 持って生まれた能力がもともと高い生徒はそれで良い。「暗記物」の数学であったとしても、そこから本物につながる道を自分で見いだすだろう。しかし、自分だけの力で気がつかない非常に多くの人たちは、いつまで経っても獲得できないのである。その悪弊が多くの場所や場面で散見されるのが今の社会現象だろう。
 忘れ去られた結論になろうが、人間の能力の伸長に関して、結果を急ぐ方法はない。ことのほか、基礎力たる、たとえば上記の思考力に関して大いに当てはまろう。そろそろ気がついても良さそうなのに、誰も気がつかない、あるいは、気がついても気がついていないふりをするのが流行っているのだろう。
 と、話はそれた。

謹賀新年

2014å¹´01月01æ—¥ | æ•™è‚²
あけましておめでとうございます
 本年もどうぞよろしくおねがいいたします

平成甲午 元旦