はあ?・・・である。
愛国心やら国旗、国歌を強制(*1)ってゆーのは正直なところ生理レベルでムカつくのだ。はっきり言えば理屈なんかじゃない。他人の気持ちに土足で踏み込んで「お前はおかしい。我々の言うとおりにしなさい。」と一方的に指図するのだ。
人の心に勝手に触れるな!
キース・アニアンでなくても、こう言いたくなるではないか。
(*1)文科省、新指導要領に「愛国心養成」を追加
3月28日5時5分配信 読売新聞
文部科学省は、約3年の改定作業を経てまとめた小中学校の新学習指導要領を28日付官報で告示する。
先月15日公表の改定案と比べ、「我が国と郷土を愛し」といった記述が追加されたほか、「君が代」についても「歌えるよう指導する」と明記されるなど、「愛国心」の養成をうたった改正教育基本法を色濃く反映する形となった。
これらの修正点は、文科相の諮問機関「中央教育審議会」の審議を経ないまま盛り込まれており、なぜ新たな文言が突然加わったのか議論を呼ぶのは必至だ。
新しい指導要領は小学校では2011年度、中学では12年度から実施される。
今回の修正の中で目立ったのは、一昨年12月に改正された教育基本法に「我が国と郷土を愛する態度を養う」との表現で愛国心の養成が盛り込まれたことを受け、小中学校ともに全体の指針となる総則に「我が国と郷土を愛し」という文言が加わった点。同じ総則の「伝統と文化を継承し」という記述も「尊重し」に変更され、小学国語に「神話・伝承を読み聞かせる」ことが追加されるなど伝統文化の尊重も強調された。
君が代も小学音楽で「いずれの学年においても指導する」から「歌えるよう指導する」と修正され、中学社会では自衛隊の国際貢献に言及している。
先月公表の改定案には、自民党の一部議員から、竹島や尖閣諸島について「我が国固有の領土」と明記されていないとの批判が集まっており、「愛国心を強調することで、そうした批判に配慮した」(自民党中堅)という指摘もある。
文科省は「修正は中教審の答申の枠の中で行っており、批判を受けるとは考えていない」としている。
最終更新:3月28日5時5分
読売新聞
愛国心やら国旗、国歌を強制(*1)ってゆーのは正直なところ生理レベルでムカつくのだ。はっきり言えば理屈なんかじゃない。他人の気持ちに土足で踏み込んで「お前はおかしい。我々の言うとおりにしなさい。」と一方的に指図するのだ。
人の心に勝手に触れるな!
キース・アニアンでなくても、こう言いたくなるではないか。
(*1)文科省、新指導要領に「愛国心養成」を追加
3月28日5時5分配信 読売新聞
文部科学省は、約3年の改定作業を経てまとめた小中学校の新学習指導要領を28日付官報で告示する。
先月15日公表の改定案と比べ、「我が国と郷土を愛し」といった記述が追加されたほか、「君が代」についても「歌えるよう指導する」と明記されるなど、「愛国心」の養成をうたった改正教育基本法を色濃く反映する形となった。
これらの修正点は、文科相の諮問機関「中央教育審議会」の審議を経ないまま盛り込まれており、なぜ新たな文言が突然加わったのか議論を呼ぶのは必至だ。
新しい指導要領は小学校では2011年度、中学では12年度から実施される。
今回の修正の中で目立ったのは、一昨年12月に改正された教育基本法に「我が国と郷土を愛する態度を養う」との表現で愛国心の養成が盛り込まれたことを受け、小中学校ともに全体の指針となる総則に「我が国と郷土を愛し」という文言が加わった点。同じ総則の「伝統と文化を継承し」という記述も「尊重し」に変更され、小学国語に「神話・伝承を読み聞かせる」ことが追加されるなど伝統文化の尊重も強調された。
君が代も小学音楽で「いずれの学年においても指導する」から「歌えるよう指導する」と修正され、中学社会では自衛隊の国際貢献に言及している。
先月公表の改定案には、自民党の一部議員から、竹島や尖閣諸島について「我が国固有の領土」と明記されていないとの批判が集まっており、「愛国心を強調することで、そうした批判に配慮した」(自民党中堅)という指摘もある。
文科省は「修正は中教審の答申の枠の中で行っており、批判を受けるとは考えていない」としている。
最終更新:3月28日5時5分
読売新聞
この春施行される「デブ排斥制度(*1)」についてである。
この制度で自治体にペナルティを課すことは「痩せることのできない人は生きる上でペナルティが与えられる。」単刀直入に「デブは生きてるだけで邪魔だ」という意味だ。しかし、よ~くこのことの意味を掘り下げてみると、自分がデブかどうかは関係ない。この制
度を運用するということはこういうことなのだ。
「治るみこみのない病を患う人間は生きてるだけ邪魔だ。」
政府にも色々と理念やら方針やらもあるかもしれない。しかし、この制度を運用するということは先に述べた以外の解釈はない。今時、隣組じゃあるまいし、自治体の連帯責任というのは性質が悪い。
「死ぬだけの高齢者への医療保証は無駄だから自分の金で治療を受けろ」という「後期高齢者医療制度」という見殺し制度も「国のために働ける人間だけ住まわせてやる」という「ユニバーサル社会基本法」の議論もその本質は同じである。
政府が国民に対し「生きる価値のある人間を政府が決めてやる」と宣言したのと同じだ。少なくともそのようにしか解釈できない制度設計を行っているのだ。
そんなことを言い出す国が「近代的民主主義国家だ」なんて、とてもじゃないが言えない。
(*1)<メタボ健診>開始直前、自治体の理解進まず 本紙調査
3月25日22時9分配信 毎日新聞
新年度から始まる特定健診・保健指導(メタボ健診)について、科学的根拠が十分と考える自治体は1割に満たないことが、全国806市区を対象にした毎日新聞の調査で分かった。約4分の1は効果確認後に導入すべきだと答えた。メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)患者数を減らせない場合などに自治体に科せられるペナルティーには約6割が反対し、開始直前の国の制度に自治体から異論が噴出した形だ。
メタボ健診は保険者(健保組合など)に実施が義務づけられる。国民健康保険加入者には保険者である各自治体などが実施。40~74歳が対象で、腹囲が男性85センチ、女性90センチ以上など一定の条件を満たした場合は、生活習慣改善を指導する。
調査は今月、全国783市と東京23区に実施。開始時期や自己負担の有無などを尋ね、562市区(69.7%)から回答を得た。
メタボ基準値や指導の効果に専門家から批判がある中で導入することの是非を尋ねたところ、「科学的根拠は十分で導入に問題はない」と答えたのは51市区(9.1%)のみ。207市区(36.8%)は「根拠は不十分だが、導入に問題はない」と答えたが、132市区(23.5%)は「基準値や指導内容を検証し、効果が確認されてから導入すべきだ」と回答。「分からない」が148市区(26.3%)で、3市(0.5%)は「導入すべきでない」と答えた。
健診実施率やメタボ患者・予備群の減少率が国の目標に達しない場合、国はペナルティーとして、保険者に後期高齢者医療制度への拠出金増額を求める。357市区(63.5%)が反対し、「ペナルティーは当然」は23市(4.1%)だった。
健診受診に自己負担が必要なのは353市区(62.8%)。負担額は300~3200円(減免措置対象者を除く)で、自治体間の格差が大きい。
健診の開始時期(予定も含む)は6月が239市区(42.5%)で最も多く、75%以上は6月までに開始予定だった。保健指導は78市区(13.9%)が10月以降の開始で、09年1月も6市(1.1%)あった。【まとめ・大場あい】
「抑止のための武装」って実はナイーブな発想だよなと思いつつ、日本が武装する上での戦略的目標みたいなものを考えてみた。
(1)他国に侵攻、侵略できるだけの武装(*1)
(2)敵性国家の侵攻に対し、これを自力で排除するに足るだけの武装
(3)国連軍が発動し介入するまでの間、戦うことが可能な武装
(4)実際の交戦を想定しない、抑止効果が期待されるだけの武装
さて、軍備を必要と考えている方々はどのレベルを想定しているのだろうか?
(1)(2)については日本のエネルギー自給率、食料自給率では、戦略的目標を達成する上で実効性のある武装は不可能である、以上。想定するだけ無駄である。
(3)については想定される期間によるが短期であれば警察予備隊のレベルでも構わない。長期化するようであれば(2)と戦略的な差異は存在しない。やはり実効性のある武装は不可能である。
(4)については交戦を想定しないのであれば、抑止のためだけの軍備にブチ高いお金を使う必要なぞない。むしろ経済的に密接な関係を構築し、流通する情報は可能な限り透明にし国際社会に対して国内の動きを明らかにした方が、日本に侵攻するメリットは激減する。要は抑止力として機能するオプションは軍事力だけではないということだ。おまけに重武装化により経済が縮小するようであれば、外交や経済による抑止効果は著しく低下する。
「い~や、反日国家はそんな論理的な判断で侵攻をしかけるのではない」とあなたは言う。だとすると、そもそも軍備による抑止効果さえも虚妄だということだ。
総合すると実効性が認められる武装は警察予備隊に毛の生えたレベルであり、それ以上は無意味だ。国民の命、財産を守ることが最終的目標である限り軍備をしようとしまいと効果の点では変わりはしない。結局のとこ外交が失敗した時点で日本は「詰み」なのだ。自決のためだけの戦争につきあう必要などない。繰り返すが日本が米帝に唆されて重武装することは実効性のないゴミに湯水のようにお金を注ぎ込むだけの無駄使いでしかない。
幸運なのか不幸なのかはわからない。国際社会の中で武器をとらないヘタレとして生きていかざるを得ない土地にわたし達は生まれたのだ。人殺しをしたがる品性下劣な国を真似する必要なぞどこにもない。この土地ではそもそも軍備などできないのだ。だからこそ、わたし達はわたし達のやり方で生きていくことを考えるべきなのだ。
(*1)この想定は違憲であり平和国家を護持する上では不適切な想定であるため、そもそもとりあげるべきではない。日本単独では前述のとおり実効性のある軍備は不可能である。しかし日米同盟の名のもとに他国に侵攻、侵略することが可能な軍備は存在し、既に行っている事実だけは留意しておく必要がある。話が発散するため敢えて本文ではふれなかったが、現在の日本の軍備は独立国家の機能ではないということをキッチリ認識しておくべきである。
gon様のところで「星の王子様」に関するエントリを読んでフト思い出したので軽くまとめておく。(*1)
ミッキーマウス保護法の話である。
まず、前提条件をおさらいしておこう。著作権はこんな駄文であろうと意思や思想を表現したもの全てに自動的に発生する。別にJASRACみたいなやくざな機関に登録する必要さえない。生み落とされたその瞬間から著作権が存在するのだ。べらぼうな収益を生み出す数%にも満たない著作物だけの特権ではない。
さて、その著作権の有効期間を著作者の死後50年から70年に延ばすことに合理性があるのだろうか?
著作者の遺族の収入が保障される期間が不十分だったのだ。
著作権の有効期間が短いと日本は文化的に野蛮な国だと思われる。
うどんなら私にも打てるが、私の創作はうどんとは違うのだ。(*2)
以上のような意見もあるが、論外である。議論する価値のない戯言につきあう必要はない。もっと有用な話にスコープを合わせよう。
この期間延長の意味を考えてみよう。
著作者の死後、著作権管理者不明の著作物はことごとく70年間利用不可能になる。要はどんなに文化的に重要であろうと、公的に益するものであろうとその間は合法的に利用することはできない。死蔵される膨大な著作群が発生するということなのだ。誰かがその著作の存在を覚えている間はいい。しかし70年も死蔵された著作が発掘され日の目を見る可能性を考えてみて欲しい。ほとんど絶望的である。
その一方で、ディズニーのキャラクターのように莫大な収益を生み出すものがある。著作権切れでパブリック・ドメインに回収された場合、著作物の同一性やら何やらを担保できない。なによりキャラクターの商品としてのクオリティを管理できないという意見もあるだろう。では著作物を独占的、排他的に使用する期間は、何年なら妥当なのか?少なくとも収益を上げる可能性がある限り、積極的に期間を限定する企業原理は見当たらない。
つまり、この問題は「文化発展としてパブリック・ドメインに著作を還元することを前提とする限り最短の有効期限を要求」し、「企業原理を優先する限り永久の有効期限を要求する」側面を含んでいるということなのだ。
ここで提案である。
著作権は著作者の死んだ瞬間、その効力を失するものとし、パブリック・ドメインに帰するものとする。ただし、ある著作者の著作物を独占的、排他的に利用する場合は、独占的使用権を管理する公的機関に高額の費用を支払い有効期限を2年とする独占的使用申請を行うことでこれを認めるものとする。そして延長期間については制限を設けない・・・以上。
現行法からの移行方式、著作権の相続やら譲渡などについては要考察である。基本的な線としてはこんなところだろう。「何を馬鹿げたことを言っている。著作権の有効期間が長ければ長いほど創作行為へのインセンティブになるじゃないか。」という御仁もおられるかもしれない。では、一つ質問がある。特にブログを書いているようなあなたにだ。
「あなたはその文章をなんのために書いているのか?」
著作権の有効期間が死後50年から70年に変わることで、あなたのインセンティブに何か影響をあたえるのだろうか?
(*1)「星の王子様」と著作権の関連については、胸糞悪いのでここではあえて触れない。ちなみに「星の王子様」自体は大好きだ。
(*2)なぜ「うどん」なのかについても、同じく胸糞悪いのでここではあえて触れない。
ミッキーマウス保護法の話である。
まず、前提条件をおさらいしておこう。著作権はこんな駄文であろうと意思や思想を表現したもの全てに自動的に発生する。別にJASRACみたいなやくざな機関に登録する必要さえない。生み落とされたその瞬間から著作権が存在するのだ。べらぼうな収益を生み出す数%にも満たない著作物だけの特権ではない。
さて、その著作権の有効期間を著作者の死後50年から70年に延ばすことに合理性があるのだろうか?
著作者の遺族の収入が保障される期間が不十分だったのだ。
著作権の有効期間が短いと日本は文化的に野蛮な国だと思われる。
うどんなら私にも打てるが、私の創作はうどんとは違うのだ。(*2)
以上のような意見もあるが、論外である。議論する価値のない戯言につきあう必要はない。もっと有用な話にスコープを合わせよう。
この期間延長の意味を考えてみよう。
著作者の死後、著作権管理者不明の著作物はことごとく70年間利用不可能になる。要はどんなに文化的に重要であろうと、公的に益するものであろうとその間は合法的に利用することはできない。死蔵される膨大な著作群が発生するということなのだ。誰かがその著作の存在を覚えている間はいい。しかし70年も死蔵された著作が発掘され日の目を見る可能性を考えてみて欲しい。ほとんど絶望的である。
その一方で、ディズニーのキャラクターのように莫大な収益を生み出すものがある。著作権切れでパブリック・ドメインに回収された場合、著作物の同一性やら何やらを担保できない。なによりキャラクターの商品としてのクオリティを管理できないという意見もあるだろう。では著作物を独占的、排他的に使用する期間は、何年なら妥当なのか?少なくとも収益を上げる可能性がある限り、積極的に期間を限定する企業原理は見当たらない。
つまり、この問題は「文化発展としてパブリック・ドメインに著作を還元することを前提とする限り最短の有効期限を要求」し、「企業原理を優先する限り永久の有効期限を要求する」側面を含んでいるということなのだ。
ここで提案である。
著作権は著作者の死んだ瞬間、その効力を失するものとし、パブリック・ドメインに帰するものとする。ただし、ある著作者の著作物を独占的、排他的に利用する場合は、独占的使用権を管理する公的機関に高額の費用を支払い有効期限を2年とする独占的使用申請を行うことでこれを認めるものとする。そして延長期間については制限を設けない・・・以上。
現行法からの移行方式、著作権の相続やら譲渡などについては要考察である。基本的な線としてはこんなところだろう。「何を馬鹿げたことを言っている。著作権の有効期間が長ければ長いほど創作行為へのインセンティブになるじゃないか。」という御仁もおられるかもしれない。では、一つ質問がある。特にブログを書いているようなあなたにだ。
「あなたはその文章をなんのために書いているのか?」
著作権の有効期間が死後50年から70年に変わることで、あなたのインセンティブに何か影響をあたえるのだろうか?
(*1)「星の王子様」と著作権の関連については、胸糞悪いのでここではあえて触れない。ちなみに「星の王子様」自体は大好きだ。
(*2)なぜ「うどん」なのかについても、同じく胸糞悪いのでここではあえて触れない。
死刑存置にまつわる議論は敢えて論点をずらし続けているように見える。
「凶悪犯罪者」と「法律を守ってこの国に住まわせてもらっている善良な私」の対立という物語によって死刑の正当性は維持され続けていると言っていい。本質論にたどり着かない原因はまさにこの一点にある。いかなる人間であろうと人権はある。前提はそれだけでいい。
死刑にまつわる議論の本質を注意深く腑分けしていくと、「不可侵であるはずの人権を合法的に侵害すること」を運用の厳格化で認めることができるかどうかということだ。要は「死刑は敢えて選ぶ選択肢」なのだ。本来「選んではいけない選択肢」だ。だから、死刑を運用する上での整合性、実効性を証明する義務は、死刑を敢えて選ぶ側にこそある、言うまでもない。
つまり「死刑廃止論」という概念は虚妄だ。死刑のない世界が自然状態なのだ。間違ってはいけない。あるのは「死刑存置論」だけなのだ。
みっともない身体をひきづって生きていると発作的、定期的に「セルフイメージとリアルな身体感覚」っつーお題目が頭をもたげてくる。「モードの帝国」山田登世子 なんかを本棚から引っ張り出して読み直したりしてみる訳だ。
「ちぐはぐな身体」鷲田清一(*1)、「スピリット・ダンシングーリンゼイ・ケンプの世界ー」橋本ユキ、「第三の意味」ロラン・バルト、「モードの体系」ロラン・バルト、「ヌードの反美学」リンダ・ニード、「異装のセクシュアリティ」石井達朗 あたりも連想的にさらってみる。脳内キーワード検索では「エロスの涙」バタイユ、「WAVE 特集:ノヴェチェント」(*2)、「夜想:未来のイブ」なんかもひっかかってくるかもしれん。他人様にはどうでもいいお題目だろう。
「モードの帝国」発刊当時、シャネルを「皆殺しの天使」として「マスに圧倒的な信頼を置く旧体制からの解放者」とする点がどうしても納得できなかったのは、ボードレール的な古典的ヒロイズムをどこかにひきづっていたのかもしれん。
「セカンドラインを出すつもりはない。買えないのならアイデアを盗んで自分で作ればいい」というアレクサンダー・マックイーンの言説やらゴルチェの樫山との提携による市場展開、ヴィヴィアン・ウェストウッドのレッドレーベルなどでリアル市場をどこまでモードがコントロールするのか。コントロールする主体が誰なのかについて色々考えてみた今では納得できるのだが、当時は「マスに圧倒的な信頼を置く」と言い切る認識を共有する覚悟がなかったのだ。
では現在のリアルが「解放されたマスが闊歩する世界」になっているかというと、どうもそうは感じられない。上手い言い方が見当たらないのだが「私が主体になることは決してない。私が制度から軽やかに自由になるというベクトルがない」のだ。最初からそのようなものなどなかったのかもしれん。ロールモデルで視覚化される新しい制度に移行し続けるだけなのだ。きっちりこう言い変えるべきかもしれない。
リアルクローズでロールモデルのコスプレをしているということだ。
そこにあるのは「ありうべき自分」のイメージでさえなく、「いかにロールモデルに近づいたのか」という論理である。依拠する制度の安全性はメディアによって垂れ流されるイメージで保障される。もしかしたら明日には旧びるかもしれない。今日のところは圧倒的に強固な実体として絶えず補強されるのだ。しかし、それは制度性への回帰にしか見えない。誰かに無言のうちに強制される制度に喜んで身を委ねるということだ。
う~む、不自由だ。
ふと思い出すのが学生の頃のツッパリ君。制度や規範に反発して自由なのではなく、単に自分に都合のいい制度に乗り換えることで全能感、優越性をエンジョイしてるだけなんじゃないかと冷たく分析していた当時の自分は思えばヤなガキである。そのヘンのパンクでロックな気分全開の連中も同様である。制度を乗り換えていい気分になっても単にいいように利用されたり搾取されたりするという意味では「戦争を待望するフリーター」とその性根の部分は全く同じなのだ。自分に都合のいい状況が出来するという期待感だけで制度を乗り換えたがっているだけなのだ。客観的な分析なぞ、そこには存在しない。自分で情報を取捨選択できないという意味では情報を隔絶する装置が効果的に機能しているのだ。そこから培われるのは「今ある制度をがらがらポンしたら勝ち組になれる」という幻想だけだ。もしかしたら「少なくとも勝ち組はいなくなる」というさもしい期待なのかもしれない。しかし、今進行中の格差社会は搾取する側が現状に対する危機感と変革後への期待感を煽り制度を乗換えさせたことによって深刻化したのだ。搾取される側の期待しているような変化はそもそも用意されちゃいない。(*3)
話を戻そう。モードが現実の諸相から自由でありえない以上、政治力学の無意識の反映を内包してしまうのはしかたない。しかし、自らの皮膚感に最も近い世界においてさえ誰かが押し付けてくる制度を無批判に受け入れてしまうのはなんか違うんじゃなかろうか。別にモードやファッションに政治意識が必要だとか言うつもりはない。ただ、押し付けられる制度に生理レベルで違和感を感じてもいいのではないかということだ。
「誰からも自由である私という主体」を受け入れる。そんな勇気があってもいいと思っただけなのだ。
(*1)鷲田清一は素人のファッションに対して匿名的に取り扱うことで、思想で理論武装され安全な制度化された地点から分析をしておるのはリアルさを欠くのではないかという指摘もある。きっぱりズルイと。
確かに「モードの迷宮」を読んだ時にピンとこなかったのは、全体のトーンにおいて思想による理論武装が勝ちすぎていたためかもしれない。しかし「ちぐはぐな身体」では本人がコムデギャルソンに袖を通したときの実体験なども含め、所謂ガキを想定読者としたことがいい意味でリアルな方向に機能しているんじゃないかと感じたし、またリアル中年がモードと関わっていくことに対する齟齬がそこかしこに無防備に見え隠れしているところがグーだった。自由にファッションを謳歌できるガキと違ってリアル中年の場合、そもそも思想による理論武装といった装置なしでファッションにコミットしていくことは極めて困難だと思っているということだ。
(*2)この特集の記事で若桑みどりが「アートは政治である」ということを言っておったのが、ミョーにかっこよかった。
(*3)考えてみればカルトな言説を受け入れるメカニズムも「何もしなくても優越性を保障してくれる制度への乗換」に拠るものだと考えている。でもって搾取される立場であろうと「日本人であるという根拠だけで他民族を蔑視することで優越感を保障してくれる」言説を安易に受け入れてしまう心理学的メカニズムも同様だ。面白いのはこの手の言説は常に「私という主体が制度を決定する」のではなく、「主体を放棄して制度に私の在り様を規定してもらう」という点だろう。
「ちぐはぐな身体」鷲田清一(*1)、「スピリット・ダンシングーリンゼイ・ケンプの世界ー」橋本ユキ、「第三の意味」ロラン・バルト、「モードの体系」ロラン・バルト、「ヌードの反美学」リンダ・ニード、「異装のセクシュアリティ」石井達朗 あたりも連想的にさらってみる。脳内キーワード検索では「エロスの涙」バタイユ、「WAVE 特集:ノヴェチェント」(*2)、「夜想:未来のイブ」なんかもひっかかってくるかもしれん。他人様にはどうでもいいお題目だろう。
「モードの帝国」発刊当時、シャネルを「皆殺しの天使」として「マスに圧倒的な信頼を置く旧体制からの解放者」とする点がどうしても納得できなかったのは、ボードレール的な古典的ヒロイズムをどこかにひきづっていたのかもしれん。
「セカンドラインを出すつもりはない。買えないのならアイデアを盗んで自分で作ればいい」というアレクサンダー・マックイーンの言説やらゴルチェの樫山との提携による市場展開、ヴィヴィアン・ウェストウッドのレッドレーベルなどでリアル市場をどこまでモードがコントロールするのか。コントロールする主体が誰なのかについて色々考えてみた今では納得できるのだが、当時は「マスに圧倒的な信頼を置く」と言い切る認識を共有する覚悟がなかったのだ。
では現在のリアルが「解放されたマスが闊歩する世界」になっているかというと、どうもそうは感じられない。上手い言い方が見当たらないのだが「私が主体になることは決してない。私が制度から軽やかに自由になるというベクトルがない」のだ。最初からそのようなものなどなかったのかもしれん。ロールモデルで視覚化される新しい制度に移行し続けるだけなのだ。きっちりこう言い変えるべきかもしれない。
リアルクローズでロールモデルのコスプレをしているということだ。
そこにあるのは「ありうべき自分」のイメージでさえなく、「いかにロールモデルに近づいたのか」という論理である。依拠する制度の安全性はメディアによって垂れ流されるイメージで保障される。もしかしたら明日には旧びるかもしれない。今日のところは圧倒的に強固な実体として絶えず補強されるのだ。しかし、それは制度性への回帰にしか見えない。誰かに無言のうちに強制される制度に喜んで身を委ねるということだ。
う~む、不自由だ。
ふと思い出すのが学生の頃のツッパリ君。制度や規範に反発して自由なのではなく、単に自分に都合のいい制度に乗り換えることで全能感、優越性をエンジョイしてるだけなんじゃないかと冷たく分析していた当時の自分は思えばヤなガキである。そのヘンのパンクでロックな気分全開の連中も同様である。制度を乗り換えていい気分になっても単にいいように利用されたり搾取されたりするという意味では「戦争を待望するフリーター」とその性根の部分は全く同じなのだ。自分に都合のいい状況が出来するという期待感だけで制度を乗り換えたがっているだけなのだ。客観的な分析なぞ、そこには存在しない。自分で情報を取捨選択できないという意味では情報を隔絶する装置が効果的に機能しているのだ。そこから培われるのは「今ある制度をがらがらポンしたら勝ち組になれる」という幻想だけだ。もしかしたら「少なくとも勝ち組はいなくなる」というさもしい期待なのかもしれない。しかし、今進行中の格差社会は搾取する側が現状に対する危機感と変革後への期待感を煽り制度を乗換えさせたことによって深刻化したのだ。搾取される側の期待しているような変化はそもそも用意されちゃいない。(*3)
話を戻そう。モードが現実の諸相から自由でありえない以上、政治力学の無意識の反映を内包してしまうのはしかたない。しかし、自らの皮膚感に最も近い世界においてさえ誰かが押し付けてくる制度を無批判に受け入れてしまうのはなんか違うんじゃなかろうか。別にモードやファッションに政治意識が必要だとか言うつもりはない。ただ、押し付けられる制度に生理レベルで違和感を感じてもいいのではないかということだ。
「誰からも自由である私という主体」を受け入れる。そんな勇気があってもいいと思っただけなのだ。
(*1)鷲田清一は素人のファッションに対して匿名的に取り扱うことで、思想で理論武装され安全な制度化された地点から分析をしておるのはリアルさを欠くのではないかという指摘もある。きっぱりズルイと。
確かに「モードの迷宮」を読んだ時にピンとこなかったのは、全体のトーンにおいて思想による理論武装が勝ちすぎていたためかもしれない。しかし「ちぐはぐな身体」では本人がコムデギャルソンに袖を通したときの実体験なども含め、所謂ガキを想定読者としたことがいい意味でリアルな方向に機能しているんじゃないかと感じたし、またリアル中年がモードと関わっていくことに対する齟齬がそこかしこに無防備に見え隠れしているところがグーだった。自由にファッションを謳歌できるガキと違ってリアル中年の場合、そもそも思想による理論武装といった装置なしでファッションにコミットしていくことは極めて困難だと思っているということだ。
(*2)この特集の記事で若桑みどりが「アートは政治である」ということを言っておったのが、ミョーにかっこよかった。
(*3)考えてみればカルトな言説を受け入れるメカニズムも「何もしなくても優越性を保障してくれる制度への乗換」に拠るものだと考えている。でもって搾取される立場であろうと「日本人であるという根拠だけで他民族を蔑視することで優越感を保障してくれる」言説を安易に受け入れてしまう心理学的メカニズムも同様だ。面白いのはこの手の言説は常に「私という主体が制度を決定する」のではなく、「主体を放棄して制度に私の在り様を規定してもらう」という点だろう。
長崎市長射殺、秋田連続児童殺害について死刑に関わる印象的な判決が報道された。中には少しは溜飲を下げた人もいるだろう。不満を覚えた人もいるだろう。長崎市長については知れば知るほど怒りがこみ上げてくるというのが本音である。
しかし、自分はどちらの事件についても死刑は認めない。(*1)
死刑存置は「世の中には正しい人殺しがあること」を認めるのと等価だ。もしかしたら「必要悪であり、消極的支持にとどまる」と主張する方もいるかもしれない。しかし「必要性」を認めることと「正しい人殺し」を認めることの間には本質的な差異は存在しない。「正しい人殺しがある」ということは「ある人間を排除すべきかどうかを客観的かつ論理的に判断することができる」ということである。さて、あなたは「自分が生きる価値のある存在かどうか」を他人が決めるのを認めることができるだろうか?(*2)
少なくとも自分は「この世に不要なあなたは死になさい」という不条理を認める気はない。
要は死刑存置を主張するということはこういうことだ。不条理であろうとなんであろうと、どこかの誰かさんが「死ね」と言えば、あなたはそれを受け入れざるをえない。それは「意地の悪い言い方」だという反論が聞こえてきそうだ。これはあなたが凶悪犯罪者かどうかなど関係ないことだ。意思決定のプロセスに誤謬があったのかもしれない。そんなことも関係ない。単にあなたを合法的に殺すための装置が機能するかどうかだけの問題だ。
もとより「殺人者の命も大切だ」なんて安いヒューマニズムを振りかざすつもりなぞない。殺人者の命がどうなろうとそんなことには興味ない。しかし、如何なる論理に基づくものであれ「死」をつきつけてくる不条理を甘んじて受け入れるほど自分は寛容ではないということだ。仮に追検証可能で論理的に無謬のシステムが評価したとしてもだ。自分を合法的に殺すことの出来る如何なる口実も与えるつもりはない、どこの誰にも。
正しい人殺しなどどこにも存在しない。ただそれだけのことなのだ。
(*1)死刑存置論者からの幾つものレベルで反論は考えられる。例えば、更正可能性、再犯率、遺族感情、収監するためのコスト、犯罪抑止効果・・・等々。しかし、その多くは論理的形式性のみならず各論点での実効性すら死刑では担保できない。つまり死刑存続の議論においてそれらは本質にはなりえない。要はどーでもいい話ということだ。
(*2)この議論は「国家による殺生与奪を無意識に認めるかどうか」という論点を暗黙的に含んでいることに注意が必要である。
個人的に大変ショックな話題である。
「2001年宇宙の旅」の原作者として一般には知られているアーサー・C・クラークがお亡くなりになられたのだ。(*1)
自分が中学の頃、SFに転ぶことになる原因を作った作家が3人いる。一人はノース・ウェスト・スミス・シリーズで有名なC.L.ムーア。「百億の昼と千億の夜」の光瀬龍。そして、続く3年間の読書行動に最も多大な影響を与えた最大の極悪人が誰あろう、このアーサー・C・クラークだったのだ。
ごく常識的なSFファンのしきたりとしてはクラーク、アシモフ、ハインラインは最低限の必須教科であった。少なくとも周囲ではこの3人を読まずしてブラウンに手を出すようなのは、小松左京も読まずして星新一のショートショートだけでSFを語るような邪道だとして弾劾されたのであった。
以前、起動エレベータについて書いた時も触れたのだが、クラークは技術畑出身らしいハードSFの第一人者なのだ。静止通信衛星のアイデアを出したのはクラークが最初だったという話もある。その作品に対して科学的描写には生き生きとした筆致を見せるが人間描写はステレオタイプでつまらないという普通の文学作法からの批判もある。しかし、クラークの小説で描き出されるのは人類のそのものについての考察だったり異星文明とのありうる接触だったりするのだ。そもそも「個々の人間についていちいちかまってられるかい!」くらいの勢いで書いていたのだと思っていたりする。
クラークの作品は大別すると以下の傾向がある。
超技術を背景とする遠未来、地球外知性との接触を通して人類の運命を考察するタイプの作品群。
「幼年期の終わり」「都市と星」「2001年宇宙の旅」など
リアリスティックな近未来像を生き生きとした筆致で描き出すタイプの作品群。
「渇きの海」「海底牧場」「地球光」など
両方の要素を兼ね備えたタイプの作品群。
「宇宙のランデブー」「楽園の泉」など
中にはクラーク流のユーモアが楽しめる科学ジョーク集みたいな「白鹿亭奇譚」なんつーのもある。
どれが好きかと言われても選びようがないのだが。強いて言えば「銀河帝国の崩壊」かなア・・・。すげえ偏屈モノである。(*2)
そこに描かれる世界はナイーブなガキの全能願望を絵にしたようなものかもしれない。あちらこちらに見え隠れするあまりにオプティミスティックな技術信仰に鼻白む大人な方もいるかもしれない。ブレードランナーのデッドテックな退廃とデスパレートな風景を通過した後では、その世界はあまりに牧歌的風景に過ぎるかもしれない。しかし、未だにこのクラークの描き出す世界が好きだ。要は未だにガキだということなのだろう。
ニューウェーブ、サイバーパンク、スチームパンクやら単なるハードサイエンスだけではなく混沌とジャンルも細分化したSFではある。しかし、その根幹がなんであったのかを問われたら迷うことなく自分はこのように答えることができる
SFの基本はクラークだ。
(*1)「2001年宇宙の旅」作者、スリランカで死去
3月19日8時36分配信 ロイター
[コロンボ 19日 ロイター] 小説「2001年宇宙の旅」で知られる英国人サイエンスフィクション(SF)作家アーサー・C・クラークさんが、スリランカで死去した。90歳だった。クラークさんの秘書が19日明らかにした。
秘書によると、死因は心肺機能の不全。1917年に英国で生まれたクラークさんは、70年近くにわたるキャリアの中で80冊以上の著作と多くの短編小説や記事を執筆。1940年代には、2000年までに人類が月に到達すると予想していた。
クラークさんは昨年12月、90歳の誕生日に友人向けの別れのメッセージを録音。その中で、生きているうちに地球外生命体が存在する証拠を見たかったと述べていた。
(*2)知っている人には言うまでもないが「都市と星」の原型となった初期作品である。目くるめくようなダイアスパーのイメージこそないが若書きともいえる初々しさが捨てがたいのだ。
準備していたネタが幾つかあったのだが、そんなものを全て吹き飛ばす事件があったのでそちらを優先する。
筋金入りのファンであれば、目を疑うものを見つけてしまったのだ。まさか、そりゃないだろうなと思っていた。だって、あの偏屈ゴスオヤジ4人組だぜい?
そう、バウハウスの25年ぶりのスタジオ・レコーディング・アルバム「GO AWAY WHITE」だ!
いやあ、突然の再結成時のライブアルバム「GOTHAM」から早10年、アメリカのアダルト・コミックを原作にしたアニメ映画「HEAVY METAL2」に提供したスタジオ・レコーディング曲「TheDog'sVapour」もほとんど隕石に衝突したような偶然の産物なんだろうなと思っていただけに、マジに予想もしなかったのだ。
正直、98年当時のスタジオ・レコーディングの音源、「TheDog'sVapour」もデッド・キャン・ダンスのカバー「severance」もイマイチだったのだ。なんかピーター・マーフィーとラブロケ組との間の空気の違いみたいなものがそのまんま音に出ちゃっている感じだったのだ。だから、実は「ピーター・マーフィーwithラブ・ロケ」なんて音になるんじゃないかとビクビクしてたのだ。
で、聴いてみたら「21世紀のゴスなジギー・スター・ダスト」だったりする。18日間でほとんど一発録りという噂なので、タイトなバンドサウンドはやたら整合感があって躍動感がある。漆黒の闇を期待すると、判読に窮するアルバムジャケット同様、オフホワイトな印象の仄昏さにビミョーな肩透かしを食らわされるが、個人的には全然OKだったりする。どちらが歩み寄りを見せたのかはわからんがとりあえず、この音はアリだと思う。ちなみに「TheDog'sVapour」は本アルバムに収録されている新録の方が好きっす。
ロートル・ファンとしては相も変わらぬゴリゴリのバウハウス節を聴いてみたかったような気もする。しかし、あの4人組がセルフパロディを演じているとこは流石に見たいとは思わんので、必然性を感じられるこーゆーアルバムでよかったとまずはほっとしている。
筋金入りのファンであれば、目を疑うものを見つけてしまったのだ。まさか、そりゃないだろうなと思っていた。だって、あの偏屈ゴスオヤジ4人組だぜい?
そう、バウハウスの25年ぶりのスタジオ・レコーディング・アルバム「GO AWAY WHITE」だ!
いやあ、突然の再結成時のライブアルバム「GOTHAM」から早10年、アメリカのアダルト・コミックを原作にしたアニメ映画「HEAVY METAL2」に提供したスタジオ・レコーディング曲「TheDog'sVapour」もほとんど隕石に衝突したような偶然の産物なんだろうなと思っていただけに、マジに予想もしなかったのだ。
正直、98年当時のスタジオ・レコーディングの音源、「TheDog'sVapour」もデッド・キャン・ダンスのカバー「severance」もイマイチだったのだ。なんかピーター・マーフィーとラブロケ組との間の空気の違いみたいなものがそのまんま音に出ちゃっている感じだったのだ。だから、実は「ピーター・マーフィーwithラブ・ロケ」なんて音になるんじゃないかとビクビクしてたのだ。
で、聴いてみたら「21世紀のゴスなジギー・スター・ダスト」だったりする。18日間でほとんど一発録りという噂なので、タイトなバンドサウンドはやたら整合感があって躍動感がある。漆黒の闇を期待すると、判読に窮するアルバムジャケット同様、オフホワイトな印象の仄昏さにビミョーな肩透かしを食らわされるが、個人的には全然OKだったりする。どちらが歩み寄りを見せたのかはわからんがとりあえず、この音はアリだと思う。ちなみに「TheDog'sVapour」は本アルバムに収録されている新録の方が好きっす。
ロートル・ファンとしては相も変わらぬゴリゴリのバウハウス節を聴いてみたかったような気もする。しかし、あの4人組がセルフパロディを演じているとこは流石に見たいとは思わんので、必然性を感じられるこーゆーアルバムでよかったとまずはほっとしている。
日本の黒歴史、通産省のΣの二の舞となる運命必定の無駄遣いプロジェクト「住基ネット」に対する住民訴訟が退けられるといった胸糞悪いニュースもあるが、少しでも機嫌よくなれるよう音楽ネタをぶってみたい。
ジョー・サトリアーニというギタリストを知っておられるだろうか?
ハードロック、フュージョンなインストウルメンタルを中心にリリースしている馬鹿テクギタリスト。「テクニカルギターの神様」みたいなスティーブ・ヴァイの師匠のあの人だ。(*1)(*2)日本のギターメーカー「アイバニーズ(星野楽器)」のエンドーサーとしても有名である。(*3)
そのサトリアーニによる「スーパーギターテクニック免許皆伝」(リットーミュージック)とゆー教則本がある。海外の「guitar Player」かなんかの連載コラムをまとめた奴の翻訳だ。薄さとお手軽感がしきいを低くしておっていい感じだ。
テクニカル系ギタリストらしくスケールワークやメカニカルなシーケンスフレーズ、ギミック的なテクニックなんかも紹介されている。その一方でコードワークやリズムワーク、ボイシング等の地味だけどかっちょいいギターワークを構成する上でなくてはならない要素やものの考え方にまで目配りが効いている。行間からサトリアーニのギター哲学が垣間見えて面白いのだ。(*4)
で、ギミック中のギミックというかシミヘンをオリジネイターとする急降下爆撃音なトレモロアームのテクニックにも当然のことながら言及する。(*5)(*6)この項でも色々トレモロアームの効果的な使い方が幾つも紹介されるのだが、こんな印象的な例で締めくくられる。
トレモロアームを取り外してギターケースに片付けること。
そう、必要ないところには使わないことが最大の効果を上げるということだ。世の中には不必要なことはしないという選択肢があるのだ。
(*1)一時期、ミック・ジャガーのソロに参加し、ライブのサポート・ミュージシャンとしても同行したこともあるが「巧いギタリストはストーンズ・ナンバーを弾くな」とか散々な評価もされたらしい。キース・リチャードのミカウパーを真似て5弦セットのテレキャスで頑張ろうとしたところ、ミック・ジャガーから「自分のスタイルでやってくれ」と言われたにも関わらず。
以降も、ディープ・パープル再結成ツアーにリッチー・ブラックモアの開けた穴のサポートで参加。「リッチーは参加してません」なんて告知を出されたりして、う~む、日本ではちと不遇なのだろうか?深夜のスポーツニュースではよく聴くような気がするのだが。
ハードロックとフュージョン・インストウルメンタルのバランスがかっちょいい2nd「Surfing With the Alien」が個人的にはお気に入り。ついでに言えば、ブートレグで聴いた当時のナンバーを中心にしたライブは無茶苦茶かっこよく、面子も素ん晴らしかったので3ピースのアンサンブルであることが信じられない出来であった。
(*2)お互いギターを始めて間もないキッズ時代のことだというので、そんな深刻な師弟関係でもなかったらしい。ヴァイのインタビューによると当時からライトハンド・タッピングのアイデアをお互い暖めてており、後年のタッピングの小品でそのアイデアを活かしたとかゆー話もある。ヴァン・ヘイレンの「イラプション」のオープニングシーケンスのショックが世間を席巻している頃「あ、あのアイデアね」とか言っておったらしい。近くにいたらヤなガキどもである。
(*3)アイバニーズは80年代後期以降、ヴァイとのコラボレーション「JEM」「RG」シリーズによって馬鹿テクギタリスト御用達メーカーとゆー位置付けが一般的かもしれん。90年代初頭「Universe」シリーズのリリースにより7弦ギターをマーケットに定着させた功績もある。(世界最初かについては議論が分かれるところであるが商品化という点においてはアイバニーズの業績は否定されるべきでは
ない。)7弦ギターは当初ヴァイのイメージもあり馬鹿テクギタリストしか使えないという評価もあったがKORNやらリンプなんかの出現によってヘビー・グルービングなボトムを支えるスタンダードになったと言える。もちろん低音域の拡張だけではなく高音域の拡張というセットも可能なので、興味のあるムキは試してみるのも面白い。その場合、パッシブよりアクティブ・ピックアップのセットを選んだ方がよいのではと考えているのだが。ちなみに7弦部があるため弦落ちを心配しないで6弦のビブラードがかけられるという拙ブログ購入品評価部による独自の評価もある。付け加えるなら、1弦増えたことによる違和感は少なく意外と普通に使えるデバイスだ。どーでもいいがレゾンキャストという木材繊維を樹脂で固めた素材を使用したレトロなスタイルがかっちょいい「TALMAN」シリーズ(おまけにケン・アームストロングのリップスティック・ピックアップを使っているのだよ)が一時期リリースされてて、無茶苦茶こいつが欲しかったというのは個人的な感想である。(スパークリング・シルバーのビグズビー・アームがセットされてた2ハムの方もかっちょいいっす!)
(*4)テクニカルギタリストと言えばイングウェイ・マルムスティーンが出て以降、雨後の筍のようにハーモニック・マイナー・スケールのシーケンス・フレーズを馬鹿の一つ覚えのように弾きまくる連中が出てきたのだが(別にクリス・インペリテリが馬鹿だとは・・・あわわ)、そーゆー連中の青田刈り専門のシュラプネルなんつーレーベルもあったりする。中にはシュラプネルのシグネイチャー・フレーズを弾きまくってデビュー。ブルース・フィール溢れるスタイルを完成させたリッチー・コッツェンやらポップミュージックスタイルに発展させたポール・ギルバートみたいなのもいたが・・・。(お、どちらもMr.BIG在籍経験ありだ!)
前述のスティーブ・ヴァイはザッパ門下生の由緒正しき変態ギタリスト道を極めた逸材である。スティーブ・ヴァイのかっこよく取り澄ました姿はギターパク・ビデオ「エイリアン・ラブ・シークレット」でもおがむことができる。しかし、しかっし!敬愛すべき変態道まっしぐらなうつけものとしてのヴァイは、やはり映画「クロスロード」で悪魔に魂を売った馬鹿テクブルースギタリスト、ジャック・バトラー役を嬉々として怪演するその姿にこそあると断じる!ついでに言えば、ザッパ閥はマイク・ケネリーとゆー落ち着きの無い過剰変態ポップなギタリストも輩出しておる。ザッパ門下生の中ではマイク・ケネリーが資質的に一番ザッパっぽいのではないやろか?
一時期、ヴァイがその正体なんじゃないかと憶測されたバケットヘッドも好きなギタリストである。ジャイアント・ロボを偏愛し、白塗りのマスクとケンタッキーのパーティーバレルのバケットを頭に被った異様な風体もさることながら、何がなんだかわからない超高速フレーズの中に、繰り出されるジャイアント・ロボのテーマはアホくさくてすんげえ好きだ!ビル・ラズウェルのプロジェクト「プラクシス」での参加作も面白いが、やはり、ソロ1stの「バケットヘッド・ランド」がいい。
テクニカルついでに・・・。
マイケル・ジャクソンの「BAD」ツアーのツアー・ギタリスト、ジェニファー・バトウンがライドハンド・タッピングをピアノ的なアプローチで極限まで押し進めていて面白い。タッピングではジャズ方面のスタンリー・ジョーダンあたりが2本のギターを使っていたりとかヘビメタなマイケル・アンジェロが左右にネックの突き出したダブルネックを駆使したりするが、自分はジェニファー・バトウンのファンキーなグルーブ感のあるロック・ギターとタッピングの組合せが好きっす。1stのM1「熊蜂の飛行」で超高速タッピングを聴かせるが、あまりにあまりなんで何がすごいんだかよくわからないところが板野ミサイル・コルドバ90°回頭・アンノ巨神兵大爆発である。
(*5)ここでは音程変化の急激なシンクロナイズド・トレモロに派生した一連のトレモロユニットを指している。ビグズビーとかダイナミックトレモロなんかのようなマイルドな効きのものは対象からちと外れる。ベンディング・テクニックによる音程変化では実音から高い音程しか出せないのだがトレモロユニットの使用により実音より低い音程も出せるのだ。ビグズビーなんかはアームを押し下げる使い方で設計されているため、逆に実音より低い音程しか出せない。ビグズビーを装着したフルアコを駆使するデュアン・エディはアームを押し下げた状態でピッキングしてからリリースすることでシンクロナイズド・トレモロのアームアップのような効果を得ていたりする。
ちなみにエディ・ヴァン・ヘイレンはES-335の音が好きなのにも関わらず、ルックスがロックでない。シンクロナイズド・トレモロが搭載されてないという理由でストラトのジャンクパーツとES-335のピックアップからコンポーネント・ギターの元祖みたいなシングル・ハムのあのストラトをでっち上げたとゆーのはギター小僧の間では有名な話である。また、車用の塗料でペインティングしてグラフィック・フィニッシュの元祖でもあったりする。おまけに、未確認情報ではあるがピックアップを自分でワイアリングし直したという噂もある。アンプのトランスをいじくって電圧変えて欲しいディストーションを得ようとしたくらいだからやりかねん。う~む、恐るべしヲタク魂である。
(*6)急降下爆撃音や、オーバードライブ、ディストーションをかけてハーモニックス鳴らした状態でのアームアップなんかはヴァン・ヘイレン以降、ハードロック、ヘビメタ系の定番なので「あ~あの音ね」と誰もが聴いたことのあるギミックだ。また、ワウと組み合わせて人のお喋りを真似してみたり。変態的な使い方としてはアームをグルグル回してアップ・ダウンさせたりとかアームダウンした弦がヘロヘロの状態でタッピングして壊れたシーケンサーみたいな音を出したり、左手でトリルをしながらアームをアップ・ダウンして譜面上の音程は変化させないが不安定なフガフガした音をやってみたりとか、まあ所謂飛び道具だ。確かレオ・フェンダーはおとなしくビブラードをかけることを意図して設計したはずだが、開発者の手から飛び出して勝手に発展した例であるわな。
変態なテクニックといえば日本のぢんもがあまりに素晴らしすぎるので機会があれば聴くことをお薦めする。一押しは1stの「アルス・ノヴァ・ジンモニア」である。あと、「デザイン・フェスタ」で観たチャップマン・スティックを駆使するパフォーマンスが圧倒的だったので「KIJO」もいいかもしれん。(E.BOWとディストーションの組合せでアンプをフンガーっと唸らせるところなんか凄まじ過ぎて笑いが止まらん。)ついでにいえばシンコーミュージックからリリースされたぢんもの教則ビデオ「超絶変態ギターテクニック四十八手」(いや、もっと格調高いタイトルだったかもしれん)も笑えて好きだ。
ジョー・サトリアーニというギタリストを知っておられるだろうか?
ハードロック、フュージョンなインストウルメンタルを中心にリリースしている馬鹿テクギタリスト。「テクニカルギターの神様」みたいなスティーブ・ヴァイの師匠のあの人だ。(*1)(*2)日本のギターメーカー「アイバニーズ(星野楽器)」のエンドーサーとしても有名である。(*3)
そのサトリアーニによる「スーパーギターテクニック免許皆伝」(リットーミュージック)とゆー教則本がある。海外の「guitar Player」かなんかの連載コラムをまとめた奴の翻訳だ。薄さとお手軽感がしきいを低くしておっていい感じだ。
テクニカル系ギタリストらしくスケールワークやメカニカルなシーケンスフレーズ、ギミック的なテクニックなんかも紹介されている。その一方でコードワークやリズムワーク、ボイシング等の地味だけどかっちょいいギターワークを構成する上でなくてはならない要素やものの考え方にまで目配りが効いている。行間からサトリアーニのギター哲学が垣間見えて面白いのだ。(*4)
で、ギミック中のギミックというかシミヘンをオリジネイターとする急降下爆撃音なトレモロアームのテクニックにも当然のことながら言及する。(*5)(*6)この項でも色々トレモロアームの効果的な使い方が幾つも紹介されるのだが、こんな印象的な例で締めくくられる。
トレモロアームを取り外してギターケースに片付けること。
そう、必要ないところには使わないことが最大の効果を上げるということだ。世の中には不必要なことはしないという選択肢があるのだ。
(*1)一時期、ミック・ジャガーのソロに参加し、ライブのサポート・ミュージシャンとしても同行したこともあるが「巧いギタリストはストーンズ・ナンバーを弾くな」とか散々な評価もされたらしい。キース・リチャードのミカウパーを真似て5弦セットのテレキャスで頑張ろうとしたところ、ミック・ジャガーから「自分のスタイルでやってくれ」と言われたにも関わらず。
以降も、ディープ・パープル再結成ツアーにリッチー・ブラックモアの開けた穴のサポートで参加。「リッチーは参加してません」なんて告知を出されたりして、う~む、日本ではちと不遇なのだろうか?深夜のスポーツニュースではよく聴くような気がするのだが。
ハードロックとフュージョン・インストウルメンタルのバランスがかっちょいい2nd「Surfing With the Alien」が個人的にはお気に入り。ついでに言えば、ブートレグで聴いた当時のナンバーを中心にしたライブは無茶苦茶かっこよく、面子も素ん晴らしかったので3ピースのアンサンブルであることが信じられない出来であった。
(*2)お互いギターを始めて間もないキッズ時代のことだというので、そんな深刻な師弟関係でもなかったらしい。ヴァイのインタビューによると当時からライトハンド・タッピングのアイデアをお互い暖めてており、後年のタッピングの小品でそのアイデアを活かしたとかゆー話もある。ヴァン・ヘイレンの「イラプション」のオープニングシーケンスのショックが世間を席巻している頃「あ、あのアイデアね」とか言っておったらしい。近くにいたらヤなガキどもである。
(*3)アイバニーズは80年代後期以降、ヴァイとのコラボレーション「JEM」「RG」シリーズによって馬鹿テクギタリスト御用達メーカーとゆー位置付けが一般的かもしれん。90年代初頭「Universe」シリーズのリリースにより7弦ギターをマーケットに定着させた功績もある。(世界最初かについては議論が分かれるところであるが商品化という点においてはアイバニーズの業績は否定されるべきでは
ない。)7弦ギターは当初ヴァイのイメージもあり馬鹿テクギタリストしか使えないという評価もあったがKORNやらリンプなんかの出現によってヘビー・グルービングなボトムを支えるスタンダードになったと言える。もちろん低音域の拡張だけではなく高音域の拡張というセットも可能なので、興味のあるムキは試してみるのも面白い。その場合、パッシブよりアクティブ・ピックアップのセットを選んだ方がよいのではと考えているのだが。ちなみに7弦部があるため弦落ちを心配しないで6弦のビブラードがかけられるという拙ブログ購入品評価部による独自の評価もある。付け加えるなら、1弦増えたことによる違和感は少なく意外と普通に使えるデバイスだ。どーでもいいがレゾンキャストという木材繊維を樹脂で固めた素材を使用したレトロなスタイルがかっちょいい「TALMAN」シリーズ(おまけにケン・アームストロングのリップスティック・ピックアップを使っているのだよ)が一時期リリースされてて、無茶苦茶こいつが欲しかったというのは個人的な感想である。(スパークリング・シルバーのビグズビー・アームがセットされてた2ハムの方もかっちょいいっす!)
(*4)テクニカルギタリストと言えばイングウェイ・マルムスティーンが出て以降、雨後の筍のようにハーモニック・マイナー・スケールのシーケンス・フレーズを馬鹿の一つ覚えのように弾きまくる連中が出てきたのだが(別にクリス・インペリテリが馬鹿だとは・・・あわわ)、そーゆー連中の青田刈り専門のシュラプネルなんつーレーベルもあったりする。中にはシュラプネルのシグネイチャー・フレーズを弾きまくってデビュー。ブルース・フィール溢れるスタイルを完成させたリッチー・コッツェンやらポップミュージックスタイルに発展させたポール・ギルバートみたいなのもいたが・・・。(お、どちらもMr.BIG在籍経験ありだ!)
前述のスティーブ・ヴァイはザッパ門下生の由緒正しき変態ギタリスト道を極めた逸材である。スティーブ・ヴァイのかっこよく取り澄ました姿はギターパク・ビデオ「エイリアン・ラブ・シークレット」でもおがむことができる。しかし、しかっし!敬愛すべき変態道まっしぐらなうつけものとしてのヴァイは、やはり映画「クロスロード」で悪魔に魂を売った馬鹿テクブルースギタリスト、ジャック・バトラー役を嬉々として怪演するその姿にこそあると断じる!ついでに言えば、ザッパ閥はマイク・ケネリーとゆー落ち着きの無い過剰変態ポップなギタリストも輩出しておる。ザッパ門下生の中ではマイク・ケネリーが資質的に一番ザッパっぽいのではないやろか?
一時期、ヴァイがその正体なんじゃないかと憶測されたバケットヘッドも好きなギタリストである。ジャイアント・ロボを偏愛し、白塗りのマスクとケンタッキーのパーティーバレルのバケットを頭に被った異様な風体もさることながら、何がなんだかわからない超高速フレーズの中に、繰り出されるジャイアント・ロボのテーマはアホくさくてすんげえ好きだ!ビル・ラズウェルのプロジェクト「プラクシス」での参加作も面白いが、やはり、ソロ1stの「バケットヘッド・ランド」がいい。
テクニカルついでに・・・。
マイケル・ジャクソンの「BAD」ツアーのツアー・ギタリスト、ジェニファー・バトウンがライドハンド・タッピングをピアノ的なアプローチで極限まで押し進めていて面白い。タッピングではジャズ方面のスタンリー・ジョーダンあたりが2本のギターを使っていたりとかヘビメタなマイケル・アンジェロが左右にネックの突き出したダブルネックを駆使したりするが、自分はジェニファー・バトウンのファンキーなグルーブ感のあるロック・ギターとタッピングの組合せが好きっす。1stのM1「熊蜂の飛行」で超高速タッピングを聴かせるが、あまりにあまりなんで何がすごいんだかよくわからないところが板野ミサイル・コルドバ90°回頭・アンノ巨神兵大爆発である。
(*5)ここでは音程変化の急激なシンクロナイズド・トレモロに派生した一連のトレモロユニットを指している。ビグズビーとかダイナミックトレモロなんかのようなマイルドな効きのものは対象からちと外れる。ベンディング・テクニックによる音程変化では実音から高い音程しか出せないのだがトレモロユニットの使用により実音より低い音程も出せるのだ。ビグズビーなんかはアームを押し下げる使い方で設計されているため、逆に実音より低い音程しか出せない。ビグズビーを装着したフルアコを駆使するデュアン・エディはアームを押し下げた状態でピッキングしてからリリースすることでシンクロナイズド・トレモロのアームアップのような効果を得ていたりする。
ちなみにエディ・ヴァン・ヘイレンはES-335の音が好きなのにも関わらず、ルックスがロックでない。シンクロナイズド・トレモロが搭載されてないという理由でストラトのジャンクパーツとES-335のピックアップからコンポーネント・ギターの元祖みたいなシングル・ハムのあのストラトをでっち上げたとゆーのはギター小僧の間では有名な話である。また、車用の塗料でペインティングしてグラフィック・フィニッシュの元祖でもあったりする。おまけに、未確認情報ではあるがピックアップを自分でワイアリングし直したという噂もある。アンプのトランスをいじくって電圧変えて欲しいディストーションを得ようとしたくらいだからやりかねん。う~む、恐るべしヲタク魂である。
(*6)急降下爆撃音や、オーバードライブ、ディストーションをかけてハーモニックス鳴らした状態でのアームアップなんかはヴァン・ヘイレン以降、ハードロック、ヘビメタ系の定番なので「あ~あの音ね」と誰もが聴いたことのあるギミックだ。また、ワウと組み合わせて人のお喋りを真似してみたり。変態的な使い方としてはアームをグルグル回してアップ・ダウンさせたりとかアームダウンした弦がヘロヘロの状態でタッピングして壊れたシーケンサーみたいな音を出したり、左手でトリルをしながらアームをアップ・ダウンして譜面上の音程は変化させないが不安定なフガフガした音をやってみたりとか、まあ所謂飛び道具だ。確かレオ・フェンダーはおとなしくビブラードをかけることを意図して設計したはずだが、開発者の手から飛び出して勝手に発展した例であるわな。
変態なテクニックといえば日本のぢんもがあまりに素晴らしすぎるので機会があれば聴くことをお薦めする。一押しは1stの「アルス・ノヴァ・ジンモニア」である。あと、「デザイン・フェスタ」で観たチャップマン・スティックを駆使するパフォーマンスが圧倒的だったので「KIJO」もいいかもしれん。(E.BOWとディストーションの組合せでアンプをフンガーっと唸らせるところなんか凄まじ過ぎて笑いが止まらん。)ついでにいえばシンコーミュージックからリリースされたぢんもの教則ビデオ「超絶変態ギターテクニック四十八手」(いや、もっと格調高いタイトルだったかもしれん)も笑えて好きだ。
なんか党派を超えた改憲の動きがあるみたいだけど・・・。
「押し付け憲法だから」とか「現状に合わなくなっている」とか「他国では頻繁に改正されている」とか、また色々難癖つけて改憲したい連中がいるようだ。
しかし、そもそも現憲法で何か不都合が起きているのか?
国民的には現憲法で問題はないし、むしろ憲法を遵守しない政府による不利益を国民が蒙っているのが実状だ。つまり現時点で積極的に改憲すべき合理的な理由はない。改憲を云々する以前に憲法の下にきちんと機能する政府に修正することこそが本筋であろう。だから、改憲のためにどうのとか言って、そんな無駄なことにリソースを遣わないでほしいのだ。
そんな暇があったらまず手をつけるべきことは他に山ほどあるだろうが?
年金制度の問題、教育制度の問題、医療現場の崩壊、憲法改正なんかの話をすると、よく「そんなこと今議論してもしょうがないじゃん。生活の中でどうするかの方が現実的じゃん。」と言われたりする。「そんなことより普段から老後のために貯金を・・・」「公立は駄目だから私立に行かないと・・・」などという意見もとりあえずはもっともだ。
一見、大人で現実的な反応だ。
しかし、これらの問題に他人事を決め込み、ほっておくと個人レベルの対策ではとてもじゃないがおっつかない状況が出来することを認識しているのだろうか?
そこかしこにその兆候があるというのに。今すぐにでも国政が手を打たなければいけない問題が山積しているのに・・・。
例えば、夕張市の問題に「市民がちゃんと監視してなかったことが原因じゃないか」と今さら自己責任論をぶつ人がいる。(*1)しかし、当事者は皆ずっと「そんなこと今議論してもしょうがないじゃん。生活の中でどうするかの方が現実的じゃん。」と思ってきたはずだ。もちろん、お役人が無謬であることを信じていた人もいたのかもしれない。しかし、事実はそうじゃない。大人な対応は最悪の意思表示で、お役人は無謬でさえなく大本営発表を垂れ流し、おまけに悪意すらあったのだ。
これが意味するところは明白であり、過去の教訓を活かせないのはただの愚か者である。要は大人で現実的な態度を決め込む限り、今のままでは破滅的な状況に陥るということだ。その挙句、訳知り顔の連中からこのように言われるのだ。「国民がちゃんと監視してなかったことが原因じゃないか」と・・・。
そう、次はあなたの番なのだ。
(*1)米帝にノコノコつきあって日本が没落する羽目になったら、ウヨの皆さんは「危ない米帝についていった日本が悪い」と発言してくれるのだろうか?
「危険な米兵についていった方が悪い」と主張したように。
先日「地球へ」の再放送をたまたま目にしたのだが、なんかすっげえ違和感があったのでなにが原因なのか考えてみた。
まず艦隊戦での各シーンで登場人物の目線の高さにカメラを合わせた映像が全くないのだ。普通ならキャラのいる艦橋の高さ、あるいは代替となる高さで戦艦を捉えた映像があって然るべきなのだ。しかし、どれもロングで見下ろしたり、見上げたりばかり。なんか書割的な印象で、そのシーンが誰の視点なのかがまるでわからないのだ。だからトオニイの小型戦闘艇がミュウの旗艦モビイ・ディックに突入された突撃艦の脇を通り過ぎざまに驚くシーンがあっても、映像的には既に客観的な状況説明がされているから「あ・そー、へー、ふーん」とゆー印象で、今さらなにを驚いているのか何をあせっているのかがわからない。
また、衝撃砲発射の反動で砲身の後端が後退したりとか、蒸気カタパルトにフッキングしたバルキリーの後ろにデフレクターを立ててアフターバーナーで発艦するといったようなミリタリックなシーケンス・ワークもろくすっぽ描写がないので、地球軍の突入部隊の描写も「らしさ」っつーものが、まるで感じられないのも難点だ。これは「ヤマト」みたいな戦争ものじゃないんだからという反論もあるかもしれん。しかし、原作の方はメカ作画にソノラマコミック版「ヤマト」を描いた未来騎士シリーズのひおあきらが協力、参加しているのだ。そのことを考えればミリタリックな描写をキチンとやるべきではないかとつい思ってしまうのだ。
おまけにミュウ側が残酷に殺されるカットはあっても地球軍の死はほとんど描かれてないので、戦況はミュウ側の圧勝、一方的な虐殺状態。なのに、まるで自分たちばかり殺されたみたいなやけに不景気な雰囲気というバランスの悪さ。言い方悪いが戦争なのに自分たちばかりが被害者みたいな描きかたなのだ。確かにストーリーの動機付けの部分は確かに「迫害されるミュウ」という図式はあっても、キース側の動機付けというものもあったはずなのだ。しかし、その視点がすっぽり抜け落ちているのだ。別に地球軍を同情的に描写せいと言っているのではなく、戦争なんだから地球軍の兵士も残酷に殺されていることを示唆するカットが全く入らないのはおかしいんじゃないかい。大体ジョミー・マーキス・シンは平和的な解決の可能性を悩んでいるのだからなおさら、そーゆー視点が入らないのはおかしいやろ?こーゆー戦争観を好きな連中が増えたのだろうかとつい穿った見方さえしてしまうのだ。例えば、えらそうな上長ザクが下っ端ザクをシェルターから追い出したらシェルターに飛び込んだ手榴弾で粉々にされるとか、「母さん」と叫びながら死ぬ学徒動員なジオン兵とかそーゆー描写が1カットでも入れば受ける印象が違うということだ。
これってたまたまなのかなと思って、立て続けに「ガンダム00」も見てみたのだ。しかし、こちらも同様にストーリーとして必要なカット、脚本上のエピソードがなかったりして、プロットやらエピソードとしては何が起こっているのはわかる。しかし、ストーリーがどうなっているのかがさっぱりわからないのだ。(*1)逆に、シーンのド頭でいちいちフルネームで呼んだりするのは、なんかのギャグか嫌がらせかとつい突っ込んでしまうぞ。
最近のアニメってキャラ設計も動画設計も必然性から作画されるのではなく絵面だけはキレイに仕上がる設計だよな・・・となんとなく感じていただけに、どちらの作品もその悪印象を悪い方向にブーストするだけの結果となったとゆーことだ。要はドラマを成立させるための脚本上のお約束、最低限の映像上のお約束さえ守られてないんじゃないか。で、そーゆーものを平然と作ってしまえる演出家が仕事できてる状況やチェックできない制作体制ってかなりヤバイんじゃないかと思った今日このごろである。(*2)
(*1)「ガンダム00」ってガンダムのスピンオフ世界を作って馬鹿売れしたアニパロ同人誌を本家本元が殿ご乱心状態でアニメ化。(キャラデザが高河ゆんだしい・・・)公共の電波で放映しているような印象なのだ。こーゆー企画が通ってしまう時点でバンダイ、サンライズ、本当に大丈夫か?
(*2)ちなみに深夜にTVをつけていたらたまたま目にした「墓場鬼太郎」は絵柄などに対する好悪はともかく、演出意図がクリアでこれらの違和感は感じなかった。また深夜にやってたレトロチックな「鉄人28号」も積極的に見ることはなかったが、明確な意思と演出意図は好感が持てたのだ。だから、全ての制作体制が駄目駄目なのではないと思うのだが・・・。
自分はSEやらサーバのインフラ構築、CTI環境の構築、ミドルウェアから業務アプリケーションの開発といったお仕事をやっておる。
当然のことながら、システムというのはハコものとして納品するモノだけだなんてことはなく、お客さんの運用方法、研修で徹底されるルール、業務プロセスも含めてのモノだったりする。
経験上、お客さんと顔を突き合わせて要件定義をやっていると、実はお客さんの要件や問題意識のポイントは運用ルールを見直したり、帳票のハンコを減らして流れる業務プロセスを整理した方が対策として効果が一番大きかったりする。でもって、本当に運用ルールの見直しやらだけではカバーできない要所にだけハコを適用するというやり方が効果的だし、カスタマイズが限定できる分だけ不良の作り込みが少なく品質も安定したりする。機能要求を我慢してもらって運用で頑張ってもらった方が実は業務全体として整合する場合だってある。
お客さんの方に新システム導入のどさくさに紛れて運用ルールの見直し、改善を滑り込ませるような賢い人がいると、プロジェクトはスムースだし業務の安定稼動が見込めたりする。ところが頑迷にも現在の運用ルールやら業務手順をそっくりそのまま新システムで構成しようとする人が主導権を握ると、大抵の場合、ハコとしても安定しないし、なにより業務効率やらなにやらの改善といった観点でもほとんど効果が上がらなかったりして、おまけにシステム導入に伴う研修にも無駄な工数をかけた挙句ほとんど使われない機能が枯れずにあちらこちらに残存することになり、忘れた頃に業務を停止させるような障害が発生したりするのだ。
なんで、こんな話をしたかというと医療施設のハコものの導入に膨大な投資をした挙句,運用できる人材がいないため手付かずのままほったらかしになっているという話を読んだからだ。住基ネットやら社保庁の件やらあれやこれやもある。要は本来すべきことは別にあるのになぜかハコものの導入の方が優先された事例が多過ぎるということなのだ。
3流SEでも、システムの要件分析をやる時に真っ先にやるべきことはお客さんがこーゆーこと、あーゆーことができたらいいな、あんなもの、こんなものがほしいと言っている局面で、何が本当の問題なのかをヒアリングすることだったりする。要求されているものを機能提供しなくても、業務のやり方を見直すだけでお客さんの問題としていることを解消することは可能だったりするのだ。ここでポイントを掬い上げることができるとシステムを構築しなくても済む部分は意外とある。そして一方でハコを導入することによる効果を最大化する方式が整理できたりするのだ。でもって、このような考え方は日常のいかなる局面でも適用可能だし、似たような分析は多かれ少なかれ皆やっていることだ。
ところがなぜか、政治の世界ではこーした議論はキチンと行われない。最近の暫定税率の議論、社会保障のための消費税増税論議、医療制度の問題然り。要は何が問題なのか分析できているようには見えないし、あっちで道路が欲しい、こっちで地方財政の補助が欲しいと言うのに対し、本当は何をすればそーゆー声がなくなるのかヒアリングできているとも思えない。歳入の問題もセットで通そうとしているが、セットにすることにより全体の整合が担保されているかと言えば、もちろんそういうことはない。そのように考えてみると単にマシのレベルではあるが、まだ民主党のマニフェストや質疑の方が傾聴に値する。
解決どころか問題分析の能力があるのかさえ疑問視したくなる与党政権の現状ということだ。過去においても山積する問題に対して解決し状況を改善したという実績はないし、また今後も期待すべくもない。現状に対してなす術もなく追認するだけであればブチ高い金を国民からふんだくっているにも関わらず、その職責をまっとうすべく努力しているとはいえないし、責任不履行だと言ってもいい。つまり、いてもいなくても同じということなのだ。だから「税金の無駄だから自民党のあんたらはいなくてもいいよ」というのが自分の本音だったりするのだ。
いや、いてもらっては困るのだ。
当然のことながら、システムというのはハコものとして納品するモノだけだなんてことはなく、お客さんの運用方法、研修で徹底されるルール、業務プロセスも含めてのモノだったりする。
経験上、お客さんと顔を突き合わせて要件定義をやっていると、実はお客さんの要件や問題意識のポイントは運用ルールを見直したり、帳票のハンコを減らして流れる業務プロセスを整理した方が対策として効果が一番大きかったりする。でもって、本当に運用ルールの見直しやらだけではカバーできない要所にだけハコを適用するというやり方が効果的だし、カスタマイズが限定できる分だけ不良の作り込みが少なく品質も安定したりする。機能要求を我慢してもらって運用で頑張ってもらった方が実は業務全体として整合する場合だってある。
お客さんの方に新システム導入のどさくさに紛れて運用ルールの見直し、改善を滑り込ませるような賢い人がいると、プロジェクトはスムースだし業務の安定稼動が見込めたりする。ところが頑迷にも現在の運用ルールやら業務手順をそっくりそのまま新システムで構成しようとする人が主導権を握ると、大抵の場合、ハコとしても安定しないし、なにより業務効率やらなにやらの改善といった観点でもほとんど効果が上がらなかったりして、おまけにシステム導入に伴う研修にも無駄な工数をかけた挙句ほとんど使われない機能が枯れずにあちらこちらに残存することになり、忘れた頃に業務を停止させるような障害が発生したりするのだ。
なんで、こんな話をしたかというと医療施設のハコものの導入に膨大な投資をした挙句,運用できる人材がいないため手付かずのままほったらかしになっているという話を読んだからだ。住基ネットやら社保庁の件やらあれやこれやもある。要は本来すべきことは別にあるのになぜかハコものの導入の方が優先された事例が多過ぎるということなのだ。
3流SEでも、システムの要件分析をやる時に真っ先にやるべきことはお客さんがこーゆーこと、あーゆーことができたらいいな、あんなもの、こんなものがほしいと言っている局面で、何が本当の問題なのかをヒアリングすることだったりする。要求されているものを機能提供しなくても、業務のやり方を見直すだけでお客さんの問題としていることを解消することは可能だったりするのだ。ここでポイントを掬い上げることができるとシステムを構築しなくても済む部分は意外とある。そして一方でハコを導入することによる効果を最大化する方式が整理できたりするのだ。でもって、このような考え方は日常のいかなる局面でも適用可能だし、似たような分析は多かれ少なかれ皆やっていることだ。
ところがなぜか、政治の世界ではこーした議論はキチンと行われない。最近の暫定税率の議論、社会保障のための消費税増税論議、医療制度の問題然り。要は何が問題なのか分析できているようには見えないし、あっちで道路が欲しい、こっちで地方財政の補助が欲しいと言うのに対し、本当は何をすればそーゆー声がなくなるのかヒアリングできているとも思えない。歳入の問題もセットで通そうとしているが、セットにすることにより全体の整合が担保されているかと言えば、もちろんそういうことはない。そのように考えてみると単にマシのレベルではあるが、まだ民主党のマニフェストや質疑の方が傾聴に値する。
解決どころか問題分析の能力があるのかさえ疑問視したくなる与党政権の現状ということだ。過去においても山積する問題に対して解決し状況を改善したという実績はないし、また今後も期待すべくもない。現状に対してなす術もなく追認するだけであればブチ高い金を国民からふんだくっているにも関わらず、その職責をまっとうすべく努力しているとはいえないし、責任不履行だと言ってもいい。つまり、いてもいなくても同じということなのだ。だから「税金の無駄だから自民党のあんたらはいなくてもいいよ」というのが自分の本音だったりするのだ。
いや、いてもらっては困るのだ。
| ホーム |