[1]-[2]-[3]-[4]-[5]-[6]-[最終回]
翌朝早く、頼まれた荷物を持って駅に行くと、小寒いホームでホームズが待っていた。こんなこともあろうかと、昨晩ハドソン婦人に作り置いてもらったサンドイッチと、ポットに入った熱い紅茶を、列車に揺られながら味わうことにした。
定刻どおりに発車した列車が、都心部から郊外に差し掛かった頃には、深い霧は晴れ、おだやかな朝の光が、我々のコンパートメントを照らした。
「何かわかったかい?」
私が問いかけるより先に、ホームズが口を開いた。
「え?君、なんのことだい?」
「おやおや、もう忘れたのかい。昨日のカレンダーのしるしのことだよ。」
彼はからかうように私に問いかけると、サンドイッチを包んでいた紙で、指先をぬぐった。
実際、ホームズに問われるまでは、あの印のことなどすっかり忘れていた。私はしばし考えをめぐらせて見たものの、やはり何も思い出すことは出来なかった。私は仕方なくホームズに白旗を揚げた。
「駄目だ。何一つ思い出せないよ。それよりも、昨日の依頼に関しては大いに進展があったようだね。」
「ああ、あのカレンダー愛好家氏が、何をやろうとしているかの見当はついたよ。レストレードにも、二三の調べ物を頼んであるんだけれど、まず、間違いない。」
「今日の小旅行は、どういう意味があるんだね?」
私の問いかけに、ホームズはにやりと笑って、鳥打帽を深くかぶった。
「それは君、着いてのお楽しみだよ。到着まで1時間ほど眠るとしようじゃないか。」
それ以上、ホームズは何も話す気はなさそうで、そのうち小さないびきをかき始めた。私は「カレンダー愛好家」氏が、何故今年のカレンダーを買い占めようとしているのか、また、ホームズが何にたどり着いたのかを考えているうちに、ゆっくりと眠りの淵に落ちていった。
翌朝早く、頼まれた荷物を持って駅に行くと、小寒いホームでホームズが待っていた。こんなこともあろうかと、昨晩ハドソン婦人に作り置いてもらったサンドイッチと、ポットに入った熱い紅茶を、列車に揺られながら味わうことにした。
定刻どおりに発車した列車が、都心部から郊外に差し掛かった頃には、深い霧は晴れ、おだやかな朝の光が、我々のコンパートメントを照らした。
「何かわかったかい?」
私が問いかけるより先に、ホームズが口を開いた。
「え?君、なんのことだい?」
「おやおや、もう忘れたのかい。昨日のカレンダーのしるしのことだよ。」
彼はからかうように私に問いかけると、サンドイッチを包んでいた紙で、指先をぬぐった。
実際、ホームズに問われるまでは、あの印のことなどすっかり忘れていた。私はしばし考えをめぐらせて見たものの、やはり何も思い出すことは出来なかった。私は仕方なくホームズに白旗を揚げた。
「駄目だ。何一つ思い出せないよ。それよりも、昨日の依頼に関しては大いに進展があったようだね。」
「ああ、あのカレンダー愛好家氏が、何をやろうとしているかの見当はついたよ。レストレードにも、二三の調べ物を頼んであるんだけれど、まず、間違いない。」
「今日の小旅行は、どういう意味があるんだね?」
私の問いかけに、ホームズはにやりと笑って、鳥打帽を深くかぶった。
「それは君、着いてのお楽しみだよ。到着まで1時間ほど眠るとしようじゃないか。」
それ以上、ホームズは何も話す気はなさそうで、そのうち小さないびきをかき始めた。私は「カレンダー愛好家」氏が、何故今年のカレンダーを買い占めようとしているのか、また、ホームズが何にたどり着いたのかを考えているうちに、ゆっくりと眠りの淵に落ちていった。
我々は、アルミニの一つ前のアルスター駅で下車した。ロンドンからは大分離れているが、意外にも駅前には数件の商店が立ち並び、また、若い人通りが多かった。ホームズによれば、この地にはいくつかの大学や寄宿制の学校があり、学術研究の田園都市として整備されているとのことだった。
私が駅前で馬車を借りていた少しの間、ホームズは駅員をつかまえて、何やら尋ねていた。駅員は二つ三つうなづいたあと、懐から取り出した手帳を開きながら、壁にかかった時計を示した。どうやら彼は、帰りの列車の確認をしているらしかった。
馬車に乗り込むと、ホームズは御者に「ヴェットシュタイン教授邸」と、行き先を告げた。
「ヴェットシュタイン教授?」
「ああ、有名な古生物学の教授だよ。何度か捜査に力を借りたこともあるんだ。」
「古生物?。恐竜や三葉虫が、今回の事件に何か関係があるのかい?」
私の問いかけに、ホームズは薄い笑みを浮かべ、肩をすくめた。
教授の屋敷は、駅から馬車で15分ほど離れた丘の上にある、年季の入った大きな二階建ての建物だった。屋敷の前で御者に「2時間後に迎えに来るように」と指示を出し、馬車を降りたホームズは、勝手知ったる様子で、すたすたと建物の裏手に周った。裏手には母屋に寄り添うように建てられた小屋があり、ホームズはためらう事無く、良く磨かれたオーク材のドアをノックした。
返事とともに、扉を開けて出てきたのは、ホームズよりも一回り大きな黒人の大男だった。頬に大きな傷がある巨漢の黒人は、うさんくさそうに私を見下ろした後、ホームズに視線を向け、はっとした様子で静止した。ホームズは親しげに声をかけた。
「やあ。ティポー。久しぶりだね。」
大男はホームズを見ると、その巨大な顔中をくしゃくしゃにして、ホームズの両手をつかみ、ぶんぶん振り回した。
「ああ!ホームズさん!!お久しぶりです!!どうしてまた…ご連絡いただいたら、駅まで、いや、事務所までお迎えにあがりましたのに!!」
「ありがとう。今日は教授に用があって来たんだ。しばらく会わない間に、ずいぶんと大きくなったねえ。」
「はい。私も20歳になりましたから。」
巨漢は、ホームズの顔ぐらいある、隆々とした二の腕をもち、がっしりとした広い肩幅だったが、美しい黒い瞳には、まだあどけなさが残っていた。
「さあ、すまないけれど、教授にホームズが来たことを伝えてくれないか?」
そう言われて、ぱっと顔を赤らめた巨人は、やっとホームズの両手を離し、「わかりました」と答えた。私の前を通って、母屋の勝手口に消えていくときに、彼がひどいびっこをひいていることに気がついた。
「彼はおそろしい誘拐事件の被害者だったんだ。」
ティポーの後姿を見ながら、ホームズは話しはじめた。
「事件当時、まだほんの子供だった彼は、その事件の所為で身寄りを全て亡くしたんだ。彼の父親は、有名な学者で、ヴェットシュタイン教授もその事件に巻き込まれてしまった。当時5歳だった彼が、犯人が放ったスマトラ虎の前に立ちはだかり、傷つけられながらも勇敢に振舞ったおかげで、教授の命が助かり、僕も彼が殺される前に駆けつけることが出来たんだよ。」
「だから足をひきずっていたのだね。」
ホームズはうなずいた。
「だけど君、足が悪くても彼を侮ってはいけないよ。5歳の少年ながら、彼は二つの拳だけで、大きな虎と対等に渡り合ったのだからね。
事件以降、教授は彼のことを本当の息子のように思って、ともに暮らしている。ただ、彼は誘拐された時の心の傷が原因で、広いお屋敷の中で眠ることが出来ない。だからこうやって、離れに一人で住んでいるんだ。」
「なるほど。君は事件以来、何度かここに?」
「ああ。お迎えが来たようだ。その話はまた今度。」
巨人ティポーに迎え入れられ、お屋敷の2階に上がった。長い廊下を歩き、建物の中ほどの部屋まで来ると、彼は「ホームズさんがお越しになりました」と告げ、ゆっくりと扉を開けた。
部屋の中は、西に向いた広い窓を背に、どっしりした机と応接セットが並び、まるで校長室のようであった。机で何か書き物をしていた女性が、眼鏡をはずし、にこやかに我々に歩み寄ってきた。
「お久しぶりです教授」
「そうね、お久しぶり。こちらの方はワトソンさんね。お噂は聞いておりますわよ。」
そう言うと、校長先生然とした女性は、やわらかな笑みを口元に浮かべながら、握手のために手を伸ばした。
「ラミー・ヴェットシュタインです。」
ソファーに座り、ヴェットシュタイン教授に勧められたお茶を飲みながら、部屋を見渡すと、壁はびっしりと分厚い専門書が並んだ、つくりつけの本棚になっていることがわかった。そのうち一つの区画には、書籍が収められておらず、床に山のように積まれていた。
古代のサメの歯について、ホームズと話し合っていた教授は、私の視線に気がつくと、天井を指差しながら、「雨漏りなんですよ」と言った。
「二週間ほど前の嵐で、屋根が傷んでしまったようで、あちらこちら雨漏りがするようになってしまって。今日はお休みですけれど、先週からずっと修理をしてもらっているんですよ。」
「他の部屋もなんですか?」
そうホームズが聞くと、教授は小さくため息をついた。
「ええ。二階の部屋はほとんど。今週はずっと専門の業者に屋根裏を修理してもらっていますわ。」
「教授のコレクションに雨は禁物ですしね。」
ホームズが言った。
「コレクション?古生物の化石か何かですか?」
私が訪ねると、教授は微笑みながら首をふった。
「それもあるけど…。ホームズさん。今日のご用件は、そちらのほうかしら?」
「実はそうなんです。ワトソン君、教授はすばらしい文房具のコレクションをお持ちなんだよ。特にカレンダーやスケジュール帳については、英国一の収集家なんだ。」
それで合点がいった。ホームズは、例のカレンダー愛好家氏の事件の手がかりをつかむため、教授のコレクションの力を借りようとしているのだ。
(つづく)
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私が駅前で馬車を借りていた少しの間、ホームズは駅員をつかまえて、何やら尋ねていた。駅員は二つ三つうなづいたあと、懐から取り出した手帳を開きながら、壁にかかった時計を示した。どうやら彼は、帰りの列車の確認をしているらしかった。
馬車に乗り込むと、ホームズは御者に「ヴェットシュタイン教授邸」と、行き先を告げた。
「ヴェットシュタイン教授?」
「ああ、有名な古生物学の教授だよ。何度か捜査に力を借りたこともあるんだ。」
「古生物?。恐竜や三葉虫が、今回の事件に何か関係があるのかい?」
私の問いかけに、ホームズは薄い笑みを浮かべ、肩をすくめた。
教授の屋敷は、駅から馬車で15分ほど離れた丘の上にある、年季の入った大きな二階建ての建物だった。屋敷の前で御者に「2時間後に迎えに来るように」と指示を出し、馬車を降りたホームズは、勝手知ったる様子で、すたすたと建物の裏手に周った。裏手には母屋に寄り添うように建てられた小屋があり、ホームズはためらう事無く、良く磨かれたオーク材のドアをノックした。
返事とともに、扉を開けて出てきたのは、ホームズよりも一回り大きな黒人の大男だった。頬に大きな傷がある巨漢の黒人は、うさんくさそうに私を見下ろした後、ホームズに視線を向け、はっとした様子で静止した。ホームズは親しげに声をかけた。
「やあ。ティポー。久しぶりだね。」
大男はホームズを見ると、その巨大な顔中をくしゃくしゃにして、ホームズの両手をつかみ、ぶんぶん振り回した。
「ああ!ホームズさん!!お久しぶりです!!どうしてまた…ご連絡いただいたら、駅まで、いや、事務所までお迎えにあがりましたのに!!」
「ありがとう。今日は教授に用があって来たんだ。しばらく会わない間に、ずいぶんと大きくなったねえ。」
「はい。私も20歳になりましたから。」
巨漢は、ホームズの顔ぐらいある、隆々とした二の腕をもち、がっしりとした広い肩幅だったが、美しい黒い瞳には、まだあどけなさが残っていた。
「さあ、すまないけれど、教授にホームズが来たことを伝えてくれないか?」
そう言われて、ぱっと顔を赤らめた巨人は、やっとホームズの両手を離し、「わかりました」と答えた。私の前を通って、母屋の勝手口に消えていくときに、彼がひどいびっこをひいていることに気がついた。
「彼はおそろしい誘拐事件の被害者だったんだ。」
ティポーの後姿を見ながら、ホームズは話しはじめた。
「事件当時、まだほんの子供だった彼は、その事件の所為で身寄りを全て亡くしたんだ。彼の父親は、有名な学者で、ヴェットシュタイン教授もその事件に巻き込まれてしまった。当時5歳だった彼が、犯人が放ったスマトラ虎の前に立ちはだかり、傷つけられながらも勇敢に振舞ったおかげで、教授の命が助かり、僕も彼が殺される前に駆けつけることが出来たんだよ。」
「だから足をひきずっていたのだね。」
ホームズはうなずいた。
「だけど君、足が悪くても彼を侮ってはいけないよ。5歳の少年ながら、彼は二つの拳だけで、大きな虎と対等に渡り合ったのだからね。
事件以降、教授は彼のことを本当の息子のように思って、ともに暮らしている。ただ、彼は誘拐された時の心の傷が原因で、広いお屋敷の中で眠ることが出来ない。だからこうやって、離れに一人で住んでいるんだ。」
「なるほど。君は事件以来、何度かここに?」
「ああ。お迎えが来たようだ。その話はまた今度。」
巨人ティポーに迎え入れられ、お屋敷の2階に上がった。長い廊下を歩き、建物の中ほどの部屋まで来ると、彼は「ホームズさんがお越しになりました」と告げ、ゆっくりと扉を開けた。
部屋の中は、西に向いた広い窓を背に、どっしりした机と応接セットが並び、まるで校長室のようであった。机で何か書き物をしていた女性が、眼鏡をはずし、にこやかに我々に歩み寄ってきた。
「お久しぶりです教授」
「そうね、お久しぶり。こちらの方はワトソンさんね。お噂は聞いておりますわよ。」
そう言うと、校長先生然とした女性は、やわらかな笑みを口元に浮かべながら、握手のために手を伸ばした。
「ラミー・ヴェットシュタインです。」
ソファーに座り、ヴェットシュタイン教授に勧められたお茶を飲みながら、部屋を見渡すと、壁はびっしりと分厚い専門書が並んだ、つくりつけの本棚になっていることがわかった。そのうち一つの区画には、書籍が収められておらず、床に山のように積まれていた。
古代のサメの歯について、ホームズと話し合っていた教授は、私の視線に気がつくと、天井を指差しながら、「雨漏りなんですよ」と言った。
「二週間ほど前の嵐で、屋根が傷んでしまったようで、あちらこちら雨漏りがするようになってしまって。今日はお休みですけれど、先週からずっと修理をしてもらっているんですよ。」
「他の部屋もなんですか?」
そうホームズが聞くと、教授は小さくため息をついた。
「ええ。二階の部屋はほとんど。今週はずっと専門の業者に屋根裏を修理してもらっていますわ。」
「教授のコレクションに雨は禁物ですしね。」
ホームズが言った。
「コレクション?古生物の化石か何かですか?」
私が訪ねると、教授は微笑みながら首をふった。
「それもあるけど…。ホームズさん。今日のご用件は、そちらのほうかしら?」
「実はそうなんです。ワトソン君、教授はすばらしい文房具のコレクションをお持ちなんだよ。特にカレンダーやスケジュール帳については、英国一の収集家なんだ。」
それで合点がいった。ホームズは、例のカレンダー愛好家氏の事件の手がかりをつかむため、教授のコレクションの力を借りようとしているのだ。
(つづく)
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