40近い歳ですでに子供を持つ身であるにもかかわらず学歴コンプレックスを感じ始めた。
実家が世帯年収500万円の三人きょうだいで学習塾や私立高の受験に縁のなかったわたしは、高校に上がるまで大学というものが認識の圏内になかった。一年生の夏にはじめて県内の国立大学や「東京大学」という名前の施設で高校卒業後も勉強を続ける人がいるそうだという他人事としての捉え方をした。
高校二年生の秋、運動会が終わって進路選択を迫られる時期にようやく、大多数のクラスメートへの同調という消極的な動機で大学進学すると決めた。そのころには大学の名前を10個以上は知っていた。そのなかから志望大学を決める段で初めて気が付いたのは、東京大学、京都大学といった一部の大学はほかの大学よりも受験科目数が多く、それらを履修していない私では受験の入り口に立てていないというハードルだった。
その頃の模試でわたしは東京大学B判定、京都大学A判定を出していた(最近実家の遺品を整理したときに模試の結果を親が保存していたのを発見したのだ。それが学歴コンプレックスのきっかけともなった。高卒の親にとってはあるいは誇るべき記録だったのだろうか?)。 科目数が少ないのにどうやって判定したのか、分からないが、国数英くらいの主要科目の採点に基づく判定だったのだろう。
そのときに思い返すと、東大京大志望者は放課後の追加授業に集められて追加科目を勉強していた。大学というものをほとんど意識していなかったわたしは当然参加していなかったのだが。
わたしの成績は東大京大志望者たちと比較しても上位にあったが、東大京大受験を諦めて大阪大学に進んだ。入試は簡単だった。
大人になった今思い返すと高校二年の秋からでも追加授業への参加を頼み込むことは可能だっただろうし、わたしであれば独学で合格レベルまで到達しえただろう。
家庭の経済事情や友人間の風潮から浪人は絶対悪と信じていたのも挑戦リスクを取らなかった理由だろう。
妹が別の高校で三年生になったとき、担任からこう言われたそうだ。
「お姉ちゃん(あるいはお兄ちゃん。ここでは性別をぼやかしておく)はセンター試験の結果がこんなに良かったのに東大に行かなかったんだね」
わたしの自己採点の結果が、わたしの担任を経て妹の高校に転送され、当時の平成中期には許容されるも現在では無神経とみなされるそのような言葉を発させるに至ったのだろう。
ともかくわたしの試験結果は客観的にみて十分に優良だった。自己採点では得点率が95%近かったと記憶している。試験結果を開示請求しなかったので本当の点数は分からないが。
これを書きながら思い出した。小学四年生のときに当時の担任から「君なら東大に行ける」と言われた。受験マシーン養成所たる私立中高一貫校が県内にありそこへの進学を勧められた。だから東大という単語は少なくとも聞いたことがあったのだ。それを自分の人生で実現しうる進路だとは認識できなかっただけで。
東大京大にいった友達は、大企業の社外取締役を務めているとか、一流大学の教員をしているとか、弁護士になって親の法律事務所を継いだといった者もいる。
わたしは家系で最初の大学進学者だった。その機会をもっと活かして家運を飛躍させることができたのかもしれない。
わたしにもそれが可能だったのだろうか。そうはならなかったけれど。
自分の子供に対して勉強を強制するつもりはない。しかし情報を与えようとは思う。
加えて、わたしのようにある程度よい成績を出せるなら、さらに高い場所へ行くためのサポートもしよう。
しかし勉強ばかりではつまらない。勉強ばかりして入試に対して自己を最適化していく子供時代では、勉強熱心な他の子供たちと似た経験だけをすることになってしまい、個性がないからつまらない。
子供時代にさまざまな物事にふれて子供の感受性を通してでしか得られない思い出を形成することが人生の本当の財産であり、自分がしたいこと・すべきことを見つけるのに必要な価値観を作ることになるとも思う。