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新井浩文の出演作品見れなくなっていいのか問題

ちなみに俺はネットで見かける報道が新井浩文さん表記から新井浩文容疑者に切り替わった瞬間に真田丸のブルーレイBOX6万円をポチった。俺がもっかいくらい見たかったので、大事を取った。

色々考えたんだが、掲題の件について、俺の結論は「見れなくなっても、まあ、いい、仕方がない」よりになった。なぜそう思うに至ったか、の話をする。

とりあえず、まあ、ぼくも、「見れなくなるのはおかしい」という人たちの気持ちも、まあ、わかる。「おかしい」というか「これからも見たい」という気持ち、まあ、わかる。でも「これからも見たい」って、「既に見た」人の言い分ではある。思い入れがあるんだろう。僕も、『青い春』とか、すごく思い入れがある。けど、それって、過去に「見た」から、そう思うわけで、見てない人からすると、「どっちでもいい」んだと思う。そして、もし、そういう作品が闇に葬り去られたとするなら、10年後20年後50年後となっていけば、個別の作品の見れる見れないにおいて「どっちでもいい」人の割合は増えてくる。

「今はもう見れないんだけどさー」って誰かに言われて、「見たいな」って思う人もそりゃ少しはずっと出てくるんだろうけど、今はもう見れないそれを「見たい」と思う人はどんどんどんどん死んで減っていくのだろう。そして、100年とかの長いスパンで考えれば、「最初からなかったのと同じ」、になるのだろう。その時依然としてそうもなってない語り草で在り続けられる作品ってのはそれはそれで復刻するかもしれないし、それならそれで別にいいし。

つまりは、「なかったものと思って諦めろ」ってのが僕の言い分だ。もっと言えば、「これからも見れるままにしてくれ」と思ってしまうのは、それに携わった者の感傷だ。携わったってのは「作品作りに参加した人」もそうだし「その作品に感銘を受けたり救われたりした人」もそうだし、しかし全部どうあれ、そうして携わった関係者が「これからも他の人の目にこの作品が触れてほしい」と思うのは、広義の感傷に過ぎないのではないだろうか。

表現の自由みたいな話では全くない。なぜなら、その表現が闇に葬られるのは表現に問題があったからではない、「運が悪かった」からだ。

運が悪かったから日の目を浴びなかった作品は世の中に掃いて捨てるほどある。運も実力のうちという言葉もある。運とか実力とかがなかったから、誰の目にも触れられなかった作品があるように、実力があるから一時は多くの人の目に触れた作品が運が悪かったから人の目に触れなくなったとしても、それはそれで自然なことなんじゃないかなと思えてきた。

あと、俺は、真田丸を大変面白く視聴したけれども、もし俺の人生に無くても死にゃあしなかっただろうなと思う。一方で、真田丸に出会わなかったら死んでたと思う人も世の中にはいるんだろうなとは思う。ただ、これからの未来に蠢く死にたい人の中に「真田丸以外には死にたさから救われる作品はない」って人はいないんじゃないかなとも思う。真田丸に救われた人はいるだろうが、その人は「たまたま」真田丸に救われただけで、作品は「見た人」にとってのたまたまのオンリーワンになっても、いつの時代も代替性ゼロのオンリーワンであり続けられる作品なんてのはありえないとも思っている。むしろ、当時代性を以って、常に誰かを救う作品がいつの時代も作られ続けるのが健康な創作界隈だとも思っている。

真田丸が人目に付かなくなることがそんなに嫌でそんなに必要だと思うなら、誰かが真田丸的なものをまた作ればいい。真田丸の加藤清正のシーンだけ別の役者で撮り直すのはどう考えても不可能だけど、真田丸に心酔した人たちが「真田丸を見たら救われただろう人たちを救う、真田丸とは別の作品」を作ることは全く不可能ではないと思う。所詮、創作って、焼き直しと新陳代謝だ。

「そんなこと不可能だから、犯罪者が出てるくらいなんだ、これからも真田丸を未来永劫語り継いでいこう」と叫ぶのは、やっぱり感傷なんじゃないかと思う。

これから見れなくなったとしても、その時代でリアルタイムにそれを見て救われた人がいるなら、本当に好きなら発禁になる前に即ポチったり悪いやり方でアクセスしたりとかいくらでもやりようはあるんでしょう、知らんけど。そこまでして作品を大事にしたい人たちが、次の時代につなげていった方がいいんじゃねえかなと思う。

100年後を考える。僕がもう死んで居ない世界。

100年前の僕が好きな作品だったからって理由で、犯罪者も良い演技してるし良い作品だからオッケーオッケーって言われてる世界よりかは、100年前にすごい良い大河ドラマがあったんだけど犯罪者が出演者の中にいて発禁になって、それでもアレはいい作品だったよなって集まった人たちが50年前に作った真田信繁を主人公とした大河がこれなんだよこの作品すげえよなみたいな世界の方が、僕は健全なんじゃないかと思う。

ここまで、さんざ真田丸を引き合いに出してきたけど、台風家族の関係者が「なんとか公開させたい」みたいに言ってるのがすげえ気持ち悪くて、あれ新井浩史そのままで流したいですって言ってるようにしか見えないし、それって「被害者がいる」ってことをすげえ蔑ろにしてるなって思うし、犯罪者が出てる映画が世の中に出るってことの問題をすげえ矮小化してるし、犯罪それ自体を些細な問題としてるように思うし、当人達がそう思うのは仕方ないにしても、それってすげえ感傷的なだけで身勝手なことだと思うし、そういう態度を応援するのは違うだろと本当に思う。

運が悪かった人たちが諦めきれないのはわかるけど、気の毒だなとも思うけど、「運が悪かっただけだから」って犯罪者が関わってようとそれは些細な問題だよね、ってするのは良くないよ。そういうスタンスを後世に残すのは良くない。

作品に罪はないよ、しかし作品は運が悪いと死ぬ。その無念を晴らすのは、その作品から何かを受け取った別の作品であるべきなんじゃねえかな。運悪く犯罪者を引いちゃってた作品をなあなあで語り継ぐのが、本当に創作の役割なのだとは俺にはとても思えないな。

そんなことを、考えていました。以上です。

 

※このエントリは、容疑者と罪が確定してる人との区別は一切置いています。そこの区別の手前の話だと思って書かれています。