100日行を、はじめた。

昨日から自分なりの「100日行」なるものを考えて、実践をはじめた。

100日後にこんな風に変わりたい、という目標を立てて、それに向けて毎日少しの活動をする、というもの。
そもそも1日目から10日目までは、いったいどんな風に変わりたいのか、ということ自体を問い続けることが活動なので、そんなペースで進めていて、果たして100日後にちゃんと効果のあるものになっているのかどうかはわからない。
ただ、こうやって自分で目標を立てて、内容も自分で決めて、自己完結的に取り組むということがはじめてなので、これからどうなるかが楽しみだ。

開始して2日目で、すでに変化が起こった。
理想の自分について考え続けていたら、なぜか急に人生がとても空しいものだと感じるようになった。
理想と現実のギャップが大きすぎて、悲しくなってきた。
自分が今のようなつまらない境遇にいるのは、これまでやってきた過ちや実力不足のせい、またそれに気づかずに空回りしてきたせいで、まったくもって自己責任だと思うようになった。
そんな自分には生きている価値はなく、消えてしまいたいと思うようになった。
布団の中に閉じこもって、早く消えてしまいたいと願っていると、涙が出てきて、それでも何の救いもないこの世界はとても冷徹で、残酷で、空虚なものだとわかった。
それから少し眠った。

起き上がってみると、悲しみや空虚さは変わらないが、どうせ世界が空しいものなら、自分みたいなものが何をしたところで誰も気にしないだろう、という気がしてきた。
思うがままに生きてやろう、と思った。
こんなクソみたいな、なんの愛嬌もないくだらない世界に、自分の人生を任せてたまるか、と思った。
そういう意味では、まだまだ自分は中途半端だ。
もっと偏って、もっと執着して、もっと遠くに、もっと速く、もっと自由に生きてやると思った。

それから残っていた仕事を片付け、風呂に入り、ヨガの運動をして、子どもと少し話し、それから今ブログを書いている。
これからどうなるか、まったくわからない。
ただ、明日も何かが起こる気がしている。
毎日、違う自分に生まれ変わっていく。
何をやっても空しいだけの世界の中で、この世界に生きる人たちを愛し、生きるに値すると思えることを見つけるのが、空虚さへの反逆であり抵抗だと思う。
ぼくはこの世界の空しさを憎む。
許さない。
徹底的に戦ってやろうと思う。

それがぼくにとっての、心地よさ。

何か、自分について書き始めると、「この辛い場面を乗り越えてこそ人生」とか「しんどいことから逃れることなんてできなくて、苦しみ、悩みながらも進んでいくのが人生」とか書きがちだ。

それを氷河期世代ならではの抑圧されたかわいそうな価値観だというなら、まあそうかもしれない。
もっと気楽にやったほうがいいんじゃないかと言われたら、きっとそうなのだろう。

しかし、ぼくの人生というのは、気楽に手を抜きながらやっていこうとすると必ず何か失敗するし、失敗しないまでも、不完全燃焼の日々が続き、勝手にモヤモヤとしはじめ、ロクなことにならない。
それよりも、ここが勝負どころだと決めこんで、目の前のことに集中して、あまり後先を考えずに取り組む。
その間は試行錯誤の繰り返しで、なかなか光明が見えてこなくて、あれこれともがいてみて、どうやら行き詰まったかもしれないと思って、しかしもうこれ以上何も打開策が思いつかないので風呂にも入らずに寝ることにする。
翌朝、だるい気持ちを引きずったまま、面倒だなと思いながらシャワーを浴びているうちに気分が良くなってきて、体の内側からアイデアが湧き上がってきて、よっしゃあ!と叫ぶ。
残念ながら、そんな、他人から見れば非効率極まりない、ムダだらけの時間が、ぼくにとっては心地のよいものなのだ。

ただまあ、もうちょっとそういう瞬間を計画的に作っていってもいいのかもしれない。
つまりは、何かを仕上げるまでのリードタイムを、そういう抑揚のある、生きものとして扱うということだ。
あるいは一つの曲を演奏するように。

ぼくにとって人生とは、(人生だけに)とても生き生きとしていて、予測がつかず、波のように寄せては引き、しかし呼びかければ応えてくれて、いつも自分の真ん中にあるものだと思う。
そのとき、ぼくは自分自身は自然の一部だと感じるし、自然はぼくの一部だとも思う。
そうやって、何もかもが一体となる瞬間を感じたくて、ぼくはもがき続ける人生を選んでいるのかもしれない。

ハエを叩き落すために、生まれてきたわけではない。

自宅で仕事をしていたら、どこからかコバエが入ってきたようで、パソコンの前を何度も飛びまわり、うっとうしい。

叩き落そうとしても、早いわ、小さいわで、まったく命中しない。
その度に集中力が途切れるので、うんざりする。

先方はますます調子に乗って、ついにはキーボードを打つぼくの指にもひょいと止まってみせてきた。
この野郎、と思って、もう片方の手でつぶしてやろうとして、ふと、オレは何をやってるのだろうと思った。

コバエと見たら駆除対象、それはそうなのだが、果たして本当にそれだけの話なのだろうか。
ひょっとして、このハエは自分に何かメッセージを伝えようとしているのではないか?
そんな風に思った。

サラリーマンの仕事の多くは、ハエを追っ払ったり叩き殺したりする反応速度を競い合うような仕事ばかりだ。
ただただ速く、的確に、小さな仕事を叩き落し続けている。
それが良いとか悪いとかではなく、最近、そういうことを特に意識もせず、ハエ叩きゲームに参加し続けている。
いつからこのゲームに参加しはじめたのか?
なぜそれが当たり前だと思うようになったのか?
本当にハエを叩き続けることに夢中になることが、ぼくのやりたいことだったっけ?

2020年から、ぼくは新しい人生を生きようと思った。
見た目にはそれほど変わっていないかもしれないが、大事にするもの、判断の根拠とするもの、あきらめずに挑戦し続けることなど、すべてを変えたつもりだ。
だけど、また元に戻ろうとしてしまっていないか?
漫然と、周りの雰囲気に流されて、自分が進もうとしている道から大幅に外れていってはいないか?
コバエを見たら、何の疑問も持たずに叩き落そうとするように、そのこと自体にも気づかなくなっているのではないか?

そんなことを考えていたら、コバエはいつの間にかいなくなっていた。