ゆと里スペース

いなくなってしまった仲間のことも思い出せるように。

2024年の振り返り

  2024年が終わろうとしている。去年も一昨年も(適当だけれど)振り返りの記事を書いたので、今年も書くことにする。

 まずは出版。今年は3冊の書籍を出すことができた。1冊目は『トランスジェンダーと性別変更』(岩波書店)で、性同一性障害特例法についての入門書。4名のプロフェッショナルの方に寄稿を依頼して、わたしは編者として全体の調整と、冒頭と末尾の短い文章を執筆した。類書のない、意義の大きな書籍を出せたと思う。
 2冊目は『トランスジェンダーQ&A:素朴な疑問が浮かんだら』(青弓社)。こちらは『トランスジェンダー入門』(2023年)でもコンビを組んだ周司あきらさんとの共著。前著『入門』では、トイレとかお風呂とか、トランスへの敵意を煽るためだけに動員される話題については触れず、大事なことだけを書いたのだけれど、そういうヘイト言説に対してどのように向き合うべきか、どんな風にほんとは考えるべきなのか、ということも書籍として整理した方がいいなということになり、書いた。実際、対面で会う多くの人に感謝された。組織内でLGBTに関して研修など担当する人に役立ててもらえたようで、書いてよかった1冊。こんな感じで、世情に合わせて書いた著作だけれど、個人的には内容もかなり気に入っている。トランスジェンダーについては「性自認の特殊さ」がマイノリティであるという、よく分からない理解のされかたをしがちで、「この人たちの性自認をどう扱うか」という問題枠組みを勝手に設定されることが多いのだけれど、実際にはそんな枠組みから考え始めてもあまりも資するところがないと思っている。詳しくは『Q&A』を読んで欲しい。ちなみに、この本の表紙にはMiyabi Starrさんの作品を使わせていただくことができた。トランスの本をトランスの人と一緒に作ることができた。(表紙の作品は、勝手に周囲から性別を押し付けられるトランスのユースの戸惑いと失望を描いたものと解釈しています※わたしの解釈です)。
 3冊目は『じぶんであるっていいかんじ:きみとジェンダーについての本』(テレサ・ソーン作:ノア・グリニ絵)。エトセトラブックスから絵本を翻訳した。まさかわたしが絵本の翻訳を?という感じだったが、原著を見て一目ぼれしてしまい、引き受けた。4歳くらいからよめる絵本にするために、表現や訳語に悩んだ。「Be Yourself」を「じぶんらしくある」ではなく「じぶんである」と訳すことができたのは、エトセトラブックスの松尾さんと思いが一致したから。エトセトラブックスと仕事ができたのも、2024年の大切な思い出だ。ずっとお客さんとして通うだけだったエトセトラブックス。一昨年あたりからすこしずつ距離が縮まって、ついに本が出せた。数年以内にトランスジェンダーフェミニズムの書籍も出版したい。
 残念ながら、今年も博論は書籍化できなかった。ずっと時間がない。ずっと引っかかっていて、ずっと自尊心を削られる理由になっている。はやく出版したい。ちなみに、来年は翻訳2冊(いずれも共訳)と教科書2冊(いずれも共著)が刊行される予定。博論も出さないと…。トランスジェンダー関係でも、来年中にあと1冊書くかも。数年後には、トランスジェンダー理論の単著を出す予定。

 出版の話が続いてしまったけれど、今年は「書く」よりも圧倒的に「話す」仕事が多かった。おのおの性質は違うけれど、だいたい50件くらい講演や研修の仕事をした。自分でも意味がわからないと思う。どうやって生活していたのか、思い出せない。ただただ、呼ばれたところでできるかぎりの務めを果たそうとした。つねに講演の準備に追われ、毎日深夜まで資料をつくり、1日中メールを書いていた。とはいえ、1つ1つの仕事にきちんと思い出があるし、断ればよかったと思うような仕事は、1つもなかった。それぞれの自治体や会社・組織で、担当者の方が頑張って企画を作ってくれて、予算を確保してくれて、わたしに声をかけてくれた。参加してくださった方たちに少しでも得るものがあればいいなと思って、いろんな人たちに向けていろんな話や話し方をした。
 ちなみに、今年もいくつか群馬の仕事もできた。それはよかった。群馬県で初めてのレインボープライド(前橋)が開催されて、トークショーに登壇した。玉村町と渋川市でも講演をして、来年は前橋市からもいくつか仕事をいただいている。あまり地元に貢献できてないので、たまに呼ばれるとうれしい。

 トランスジェンダー関連で、いくつかメディアにも出た。TBSラジオにはたぶん3回出た。東京レインボープライドに合わせてNHKラジオにも出た。同じ5月に出演した朝日新聞ポッドキャストは、長時間にわたって大事な話をいくつもすることができた。かなり気に入っている。6月だけで毎日新聞に3回登場する偶然もあった。ひとつは「女性スペース」をめぐる差別言説にかんする閣議決定についての記事、ひとつは出版物関係の取材、もうひとつは関西学院大学での講演の報道だ。すべて別々の記者さんで、地域も背景もばらばらだった。あとメディア関係だと、ananの「セックス特集号」でトランスジェンダーについてのインタビュー紙面を作ることができた。これも思い出深い。時代は少しずつ前に進んでいる。

 社会運動(活動)として1番の大きな経験は、ジュネーブ国連に行ったこと。今年は女性差別撤廃条約の日本審査にあたり、わたしは自分がアドバイザーを務める「Tネット」(トランスジェンダーの当事者団体)と一緒に「SRHR市民社会グループ」に加わり、国連から指名された女性差別撤廃員会に提出するレポートを書いたり、記者会見をやったり、実際にジュネーブまで行ってアドボカシーをしたりすることができた。このチームに加えてもらえて、日本の女性・マイノリティのSRHRのために活動するアクティビストたちと多くの時間を共有することができて、ほんとうに大きく成長した。ここ数年のわたしの働きを見てくださっている人たちがいる、ということも励みになった。ジュネーブで目の当たりにした、人権を守るために知恵を振り絞って国々を動かそうとする委員たちの姿勢。いっさいの誇張抜きに胸が熱くなった。来年はそういう「胸アツ」な機会を日本で作れるように、今度はわたしが頑張りたい。

 研究に関しては、研究倫理分野で大きな進展があった。今年は学会発表2つ(+研究会報告複数)程度と、アウトプットが控えめだったけれど、来年は研究倫理関係でがりがりアウトプットが出る予定。それ以外では、日本倫理学会の主題別討議(学会が設置するシンポジウム)で「フェミニスト倫理学」を関するシンポの責任者(兼発表者)を務めた。学会の委員会からこのテーマで委嘱され、明らかに力不足だとは思いつつ、自分が最善だと思うパネリストとともにシンポを成立させることができた。とくに、同志社大学の岡野八代さんをお招きできたのは倫理学会として大きな刺激になったと思う。
 ちなみに、いまは日本哲学会と日本倫理学会の評議員、日本現象学会の「委員」を務めている。正直、ここ数年はこれら哲学系の学界でのわたしのプレゼンスは高くないはずだが、おそらくは学会・学術活動以外のところで露出が多いせいで、いずれも会員からの投票を集めてしまっているのだと思う。あまりよいことではない。

 去年も一昨年も「1年の振り返り」では体調がぼろぼろな感じだったのだが、今年は4月に救急車で運ばれてしまった。とあるオンラインの研究会の最中に、とつぜんあごの筋肉が麻痺してしまい、ろれつが回らなくなり、発声もできないし、水も飲めなくなった。それ以前から、階段を上り下りするのもやっとという感じで、気を抜いたら失神しそうな状況でふらふら生きていたけれど、急にろれつが回らなくなったのは焦った。いろいろと検討した結果、親しい人に救急車を呼んでもらった。結果、脳に異常はなし。原因はわからないが、おそらくストレス。ちなみに救急隊員は、救急時にもかかわらず、わたしが念のため伝達した説明事項を的確に理解し、受け入れ先となる病院に対しても正確に伝達しようとしてくれた。受け入れ先の病院でも、とくに問題なく検査のプロセスを経ることができた。自分が急患で運ばれたにもかかわらず、ここでも時代の前進を感じた。
 そんなこともあって、いろいろ身体について考えざるを得なくなった。1年くらいとくにひどくなっている立ち眩みや、軽度の失神など、不調の原因を医学的に特定することはできなかったけれど、状態としては低血圧と頻脈であることが分かった。ただ、頻脈のせいで、血圧をあげるための薬を飲むことができず、不調を薬剤で改善するのは難しそうだった。代わりに医師から提案されたのは「運動すること」で、今年の後半はだから週2回ほどスポーツジムに通う時間を強引にねん出した。ジムに通う時間がもったいない気もしたが、運動をしないことで発生する損失を考えて、まじめに通った。結果として、腹筋がかなりついた。ただ、年間通して体重は減少し続けていて、去年より2kgくらい減った。来年はもっと太りたい。

 順番がめちゃくちゃになってしまったけれど、12月13日に「私のからだデモ」を東京駅前で開催した。トランプ当選後に勢いづくマノスフィア、総選挙で議席を獲得した日本保守党の代表のおぞましい発言(※これも毎日新聞の取材受けた)などあり、11月に「私のからだは私のもの、お前のじゃない」という緊急オンライントークを開催した。たった3日間の告知で540名以上の申し込みをいただいて、すごい関心の高さだった。そのままのメンツで、街頭でのデモを企画した。この「私のからだデモ」は、全国にも波及し、SNS上でもたくさんのアートワークなどが展開された。わたしは呼びかけ人の1人に過ぎないけれど、このデモを作ることができて本当によかったし、わたし自身励まされた。
 ここ数年、ずっとトランスジェンダーのことばかりやってきた。本を訳したり、書いたり、講演をしたり、クローズの場所で勉強会をしたり、組織や学会の相談に乗ったり、個人的に困りごとの解決をサポートしたり、ずっとトランスジェンダーのことばかりやってきた。今年は、その活動の幅をすこしだけ広げることができた。女性差別撤廃員会にあわせて、いろんなフェミニスト団体・SRHRの活動組織と繋がることができたし、「私のからだデモ」でも、移民女性の健康・権利やセックスワーカーの健康・権利のために活動するひとと一緒に場所を作ることができた。来年からは、こうしたウィングの広いつながりをもっと活動に生かすことができたらと思っている。これはしばしば指摘されることだけれど、右派・保守派のひとたちは、反フェミニズムだろうが反LGBTだろうが反ワクチンだろうが白人至上主義だろうが反気候変動だろうが、とにかく「タッチングポイント」と見つけてエネルギーを結集させるのがうまい。それに対して、そうした巨大なエネルギーに対抗しなければならない運動は、大抵はばらばらだ。それではまずいとみんなが思っている。思うだけでなく、行動したい。急ぎ過ぎず、慎重になりすぎず、コストがかかるとしても、行動に移していきたい。
 それとも関連して、Twitter(X)をほぼ完全にみなくなった。たまにイベントの告知に使うくらいで、タイムラインも通知も見ていない。Twitterを離れて、やはりあそこは時間の流れが異常だと思う。放っておけばいい小さな「違い」や、すこし時間がかかるとしても埋まっていたはずの「違い」が、ものすごい勢いで拡張・拡大されていく。なりすましアカウントが出現する可能性があるのでアカウントは削除できないのだけれど、やめてみて改めて異常さに気が付くことも多い。そもそも差別は社会構造の問題なのに、「差別をしてはいけない」という個人道徳や個人の倫理をベースに誰か個人の言動を評価し、変えさせようとする人が多すぎる。そして、ほぼ全てのケースにおいてその試みは失敗して悪い結果に終わっている。トランプも返り咲くことになり、今年はますますTwitterが嫌いになった。

 最後に、ふたたび個人的なこと。今年はっきりはかったのは、もう「やめなければならない」ということ。去年(2023年)の振り返りの記事で、わたしは一昨年(2022年)の自分の振り返りを引用しながら次のように書いていた。

この「限界」が、はっきり見えた1年だった。脳みその回転量を上げても、もう補いきれない。朝起きた瞬間から夜寝る瞬間まで働き続けた1年だった。フルで休んだ日は年間通して5日もないとおもう。精神よりも先に肉体の方が限界に近付いてしまった。

ずっと限界にいる。限界のままで走り続けている。もうやめなければならない。大学の仕事と、自分の研究と、社会運動(活動)の3つを、いまのようなコミットメントのまま保つことは不可能だ。高額療養費制度のおかげでなんとか持病のコンディションをキープできているからよいものの、身体もずっとぼろぼろだ。もうやめなければならない。どれも諦めずに、続けたかったけれど、わたしは超人でも天才でもなかった。
 だから来年(2025年)の目標は「やめること」。なにをやめるのかは、これから丁寧に考えたいけれど、大なり小なりなにかをやめなければならないことだけは確か。仕事でかかわる多くの人から「休んでくださいね」と言われるが、わたしが自分から「やめる」をしない限り、周りの人がわたしの仕事を減らしてくれることはない。やめなければならないし、やめたい。でも、ただやめたいわけじゃない。したいこともたくさんある。ほんとうにしたいことをしたい。いっぱいある。したいこと、したい研究、読みたい本や、書きたい文章、無限にある。
 去年の振り返り記事のわたしは、つらそうだったし、死にそうだった。

得たものは多かった。失ったものも、多かった。そういう1年だった。年末年始は、すこし休ませてもらう。わたしは来年の振り返りを書くことができるのだろうか。

 今年、無事にわたしは振り返り記事を書くことができている(4月は救急車に乗っていたが)。ただ、来年はもう、こういう辛い文章を書きたくない。感動したことや、嬉しかったことをもっと書きたい。仕事に追われて苦しい毎日のことじゃなく、達成できてよかったことや、今よりも健康になった身体のことについて書きたい。
 2021年くらいから、2024年末日の今日まで。ずっとひとりでまっすぐ同じ道を走ってきた。このまま走りつづけるのは、もうやめだ。いろんな道と交差したり、誰かと一緒に道をもっと拡張したり、したい。道をつないでいって、広場もつくりたい。よかった。来年が楽しみになってきた。

社会の混乱を生んできたのは~宇賀裁判官の反対意見が示唆すること~

 この記事では、昨年の性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(以下「特例法」)最高裁判決に付された、宇賀裁判官の反対意見を少しだけ紹介します。(※以下、「宇賀さん」と表記します)
 とはいえ、特例法についてここで詳しく解説することはしません。この法律に関心のある方には、以下のブックレットをおすすめします。わたしの編著です。

www.iwanami.co.jp

1.昨年の最高裁判決

 これから扱う宇賀さんの反対意見は、2023年10月25日に大法廷で下された判決に対する反対意見です。この裁判では、トランス女性の原告が、自身の法的な登録(戸籍の性別)を「男」から「女」に変更することを求めていました。そのプロセスで、最高裁は特例法の4号(不妊化)要件に違憲判断を下したのですが、しかし最高裁は、原告の訴えそのものは斥けました。つまり原告の女性は、戸籍の変更が認められませんでした。なぜなら、原告の女性の戸籍変更を阻んでいるもう1つの要件、すなわち5号の外観要件については、高裁できちんと審理されておらず、そのため最高裁ではすぐに判断ができないとされたからです。結果として、原告の戸籍変更の訴えも、ひとまず持ち越し(=広島高裁に差し戻し)となりました。
 この5号要件については、まもなく高裁で違憲判断が下ることが自明視されています。ことの詳細については以下のブログに書いたので、そちらを参照してください。

yutorispace.hatenablog.com

 この判決に付されたのが、これから紹介する宇賀裁判官の反対意見です。

2.宇賀裁判官の反対意見

 宇賀さんは、このときの最高裁大法廷の多数派意見に与していません。そのため個別意見として、反対を述べています。しかし宇賀さんは、特例法の4号要件が違憲ではないとか、そのような反対意見を述べているわけではありません。実態としてはむしろ逆です。宇賀さんは、4号要件だけでなく、5号要件も憲法に違反するのだから、高裁に差し戻すことなどせず、すみやかに原告の戸籍の登録を「女性」に修正すべきだと、多数派意見に反対したのです。
 そうした宇賀さんの個別意見は、5号要件の違憲性のみならず、リプロダクティブ・ライツや「性自認に従った法的扱いを受ける権利」を日本の憲法に位置づけようと試みる、果敢な論理となっているように思います。
 今日わたしが注目したいのは、その宇賀さんの個別意見のなかに一瞬だけ現われた重要な指摘です。それは、直接的には5号要件ではなく4号要件について述べた、次のパラグラフにあります。

そもそも、性同一性障害者は、法的性別の変更によって、突然、自認する性別による生活を開始するわけではなく、ホルモン療法等によって外見上の性別が変化し、さらに家庭裁判所の許可を得て名の変更を行い、外見も名も自認する性別に合致した生活をしているのが一般的であると考えられる。したがって、外見や名からうかがわれる性別と法的性別が不一致であることの方が、社会的混乱を招くことが少なくないように思われる。

 この宇賀さんの指摘は、重要な示唆を与えているとわたしは思います。鍵を握るのは「社会的混乱」の概念です。
 このパラグラフの直前で、宇賀さんは4号(不妊化)要件が特例法に設けられた理由を整理しています。それすなわち「生殖能力を残存させたまま法的性別の変更を認めた場合、女である父、男である母が生じ得ることとなって、社会的混乱が生ずること」。そうした社会的混乱を防ぐために、4号要件は設けられた。それが宇賀さんの整理です。
 しかし、「男である母」や「女である父」が出現して15年以上たつにもかかわらず、実際にはなんの混乱も起きていないことから、こうした「混乱」への懸念は4号(不妊化)要件を正当化する理屈にはなりえない。宇賀さんはそうまとめています。
 そのあとに続くのが、上のパラグラフです。そして、このパラグラフで提起された指摘をわたしなりに整理するなら、次のようになります。
―――社会的混乱を防ぐために4号要件は存置されてきたけれど、むしろ4号要件の方が、社会的混乱を招いてきたのではないか。

3.生活する性別

 この宇賀さんの指摘は、本質的なポイントを突いているように思います。
 そもそも、特例法によって戸籍の性別登録を変更するというニーズは、生活上の性別移行の結果として生じるものです。つまり、トランスジェンダーに該当する人が、生きていく性別を変えた結果、戸籍に書かれた性別表記によって「身分を保証されない」自体が生じてしまい、それが生活上の著しい不利益を生んでしまうから、トランスの人たちは戸籍を修正するのです。より詳しくは、以下の記事を読んでください。

yutorispace.hatenablog.com

  この記事のなかから、1つ図を載せておきます。

 これが、特例法によって戸籍変更のニーズをもつ人たちです。大部分の「生活する性別」が「戸籍の性別」と食い違うことで、①~③のような状態に置かれ、不利益が発生しているために、特例法が必要なのです。
 別の言い方をするなら、特例法によって戸籍を変えるくらいの状態にある人たちは、生活するうえでの性別をほとんど移行してしまっています。そうして、社会的に「女性」や「男性」になっているにもかかわらず、戸籍だけが「男性」や「女性」のままだから、不利益が生じ、特例法による戸籍訂正のニーズが生まれるのです。
 先ほどの宇賀さんの個別意見には、「外見や名からうかがわれる性別」という表現が出てきます。少々舌足らずではありますが、これは「生活する性別」とわたしが呼ぶものと、おおむね同じものを指すと考えられます。
 そのうえで、もう1度先ほどのパラグラフを見てみましょう。

そもそも、性同一性障害者は、法的性別の変更によって、突然、自認する性別による生活を開始するわけではなく、ホルモン療法等によって外見上の性別が変化し、さらに家庭裁判所の許可を得て名の変更を行い、外見も名も自認する性別に合致した生活をしているのが一般的であると考えられる。したがって、外見や名からうかがわれる性別と法的性別が不一致であることの方が、社会的混乱を招くことが少なくないように思われる。

 宇賀さんは「よく分かっている」と思います。トランスの人たちは、戸籍の性別を変えることによって「突然」性別移行をするわけではなく、むしろ逆であると、宇賀さんは分かっています。名前を変え、外見を変え、生活を変えた後になって――すなわち「外見や名からうかがわれる性別」を移行した後になって――戸籍の性別表記を訂正するニーズが発生します。宇賀さんはよく分かっています。

4.社会的混乱

 そのうえで宇賀さんは、興味深い結論を導きだします。――そうだとしたら、4号要件(手術要件)のような要件によって必要以上に戸籍訂正を難しくされていることの方が、社会的混乱を招いているのではないか。
 宇賀さんはよく分かっています。「生活する性別」をシフトするプロセスに、生殖腺の有無が関係ないことを理解しています。「生活する性別」は移行してしまったけれど、生来の生殖腺を保持したままである。そういうトランスの人たちが生きていることを理解しています。にもかかわらず、4号(不妊化)要件があるせいで、そうしたトランスの人たちが戸籍を訂正できない状態に置かれてきたことを、理解しています。そして、鍵になるワード。「社会的混乱」。
 宇賀さんがすでに整理したように、4号(不妊化)要件は「社会的混乱を防ぐ」という目的のために挿入されていました。しかし、事態はむしろ逆ではなかったか。それが、このパラグラフで宇賀さんが示唆することです。4号要件があるせいで、「生活する性別」と「戸籍の性別」が食い違う状態の人がたくさん生まれてしまった。それがむしろ、社会的混乱の原因になっているのではないか。宇賀さんはそのように示唆しています。そして、明示されてはいないものの明確に含意されているのは、次の結論です―――。トランスの人たちの戸籍の性別登録によって生じる「社会的混乱」を防ぎたいのならば、「生活する性別」に則してさっさと戸籍を訂正できる環境を作った方が、生じる「混乱」は少なくなるだろう。

5.誰がための特例法

 特例法は、トランスジェンダーにあたる人たちの法的な性別登録を修正することを可能にしています。かつては「性同一性障害」という(今はなき)病理概念が支配的でしたが、現代の概念に置きかえるなら、特例法はトランスの人たちのために存在すると、そのように理解できます。
 しかし、そうして「トランスジェンダーの利益のため」という側面ばかり見ていると、特例法が持っている重要な役目を見失うことにもなります。それは、特例法による戸籍の訂正が、社会の混乱を減らすのに役立っているという役目です。
 かつてより、トランスジェンダー・性同一性障害者は「社会に混乱を招く存在」として枠づけられてきました。だからこそ、特例法の立法者たちは、今から見れば非人道的な要件をたくさん盛り込んで、「混乱」を抑えようとしました。戸籍変更によって、トランスの人たちに利益を与えることは許すけれども、社会に混乱を招くのは許さない、という思考法です。
 しかし、特例法による性別表記の訂正で利益を得るのは、トランスの人たちだけではありません。例えば、生活する性別と戸籍の性別が食い違う状態の人がいて、その人がトランスであることを周囲にカミングアウトしていないとき、その人を雇用する企業は、知る必要のない、極めてセンシティブな秘密を握ってしまうことになります。特例法に手術要件がなければ、その企業はそんな秘密を抱え込まなくて済んだかもしれません。これも一種の「社会的混乱」です。
 ほかにも、保険証の性別と生活する性別が食い違う患者さんが来院したことで、病院やクリニックのスタッフが混乱してしまうというのも、よくある事態です。健康の相談を要するドクターに対しては、自身がトランスであることをカミングアウトする必要があるかもしれませんが、受付や会計のスタッフたちにまで保険証の性別を知られることに、ほとんど意味はありません。むしろここでは、保険証の性別と生活する性別が食い違うことによって、病院やクリニックのなかに「社会的混乱」が生じています。もし、そうした「食いちがい」が生じている理由が、特例法に存在し続けてきた(憲法違反の)過酷な要件なのだとしたら。この「混乱」を生んでいる原因は、他でもない特例法だとすら言えるかもしれません。
 宇賀さんの個別意見が示唆する知見を、もう一度を繰り返しておきましょう。社会的混乱を少なくしたいのなら、生活する性別を移行してしまったトランスの人たちが、なるべくスムーズに戸籍を訂正できる環境を作った方がベターです。その方が、生活する性別と戸籍の性別の齟齬という、社会的混乱の原因を除去できるからです。
 実際のところ、(いくつもの過酷な要件を含みつつ)2003年に特例法が成立したことは、そうした混乱の解消に一役買ってきました。約12000人もの人が、これまで戸籍を訂正してきました。特例法がなければ、これらの人たちの戸籍の表記は、多くの「社会的混乱」を生む原因となり続けていたでしょう。
 しかしその特例法は、社会の混乱を防ぐためとして、実際にはいくつもの非人道的な要件を備え、維持してもきました。もし、それらの要件がもっと緩やかで、人権侵害的なものでなかったとしたら。もっともっと社会的混乱は減っていたのかもしれません。宇賀さんの反対意見は、私たちにそう示唆しています。

6.終わりに

 いま、特例法の手術要件がなくなろうとしています。しかし、その代わりにと、不合理に厳しい条件を入れようとする政治家がいます。でも、それで社会の混乱は減りますか?宇賀さんの反対意見から示唆される答えは、むしろ逆です。戸籍訂正の要件を厳しくすればするほど、生活する性別と戸籍の性別が食い違う人の数は増えていき、それに合わせて社会的混乱も増えていくでしょう。
 そして同時に、私たちは改めて考える必要があります。トランスの人たちを「混乱を招く存在」として枠づけ、混乱を防ぐためにと厳しい要件を設ける。そうした転倒した発想を、私たちはいつまで続けるのでしょうか。社会の混乱を本当に減らしたいと願うのなら、混乱を招く誤った情報に流されることなく、私たちは(宇賀さんのように)現実に即した議論を一歩ずつ進めるべきです。

特例法5号(外観)要件はなぜなくなるのか

 この記事では、性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(以下「特例法」)に含まれた、外観要件について書きます。特例法は、トランスジェンダーにあたる人たちのうち、生きていく性別を変えたことで戸籍上の性別登録とのあいだに齟齬が生じ、それが生活上の不利益となっている状況の人たちが、戸籍の性別登録を変更できるようにする法律です。いま、これだけ読んでも分からなかったという方は、以下の記事をお読みいただければと思います。

yutorispace.hatenablog.com

 また、そもそも特例法って何?という方は、わたしが編者として刊行した『トランスジェンダーと性別変更』(岩波ブックレット)をお読みいただければと思います。

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 さて、この特例法ですが、トランスの人たちの戸籍変更にあたって、過酷な条件を課し続けてきました。具体的な要件は同法の3条にあるのですが、そこに挙げられている5つの要件のうち、5番目がこの記事のテーマです。この記事では、最初にこの要件が何を命じているかを確認してから、まもなくこの要件が無効化していくこと、そしてその理由について書きます。

1.外観要件

 今日の主題である5番目の要件は「外観要件」と呼ばれます。

その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。(特例法第三条の五)

 現在の一般的な解釈では、この要件は、戸籍上の性別登録を「女」から「男」に変更したい人に対しては、ホルモン治療(テストステロン)で陰核が肥大化していることを求めています。肥大化した陰核をもって、それが「矮小陰茎」に近似する外観となっている、という解釈です。対して、戸籍上の性別登録を「男」から「女」に変更したい人に対しては、外科手術によって陰茎を切除することを求めています。とくに問題なのは、この手術です。
 なぜなら、性別登録の変更を必要とする状態にある人のなかには、陰茎切除の手術を受けていない人や、受けられない人、また受けるつもりが(現在のところ)ない、という人も存在しているからです。つまり5号要件は、戸籍を変更する(出生時登録「男性」の)人に対して、戸籍変更時点で一律に手術を受けていることを求めるために、少なからぬ人に結果として手術を強制してしまうものとなっています。
(※ただし、実際には「外観が近似する」というのは極めて曖昧な文言であり、最終的な判断は戸籍変更申立にあたって所見などを提出する泌尿器科医等の主観的な判断に依存しています。そのため、過去に戸籍変更が認められた全ての人がホルモン治療や陰茎切除を受けていたかは不明です)

2.昨年の最高裁判決(4号違憲) 

 この5号(外観)ですが、まもなく消滅します。秋の臨時国会あるいは来年の通常国会で特例法が改正されるタイミングで確実になくなりますし、国会での法改正を待たずとも、死文化する見通しです。なぜなら、もうすぐ下る広島高裁の判決で、5号要件に対して違憲判断が下り、その高裁判決後は、各地の家裁はこの決定に従うだろうと見込まれているからです。
 こうした状況が出現したのは、昨年10月に最高裁で重要な判決が出たからです。それは、同じ特例法の4号(不妊化要件)が憲法に違反する、というものでした。

四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。

 この4号要件に対する最高裁の違憲判決は、5号要件の消滅のための道を開きました。なぜなら、4号違憲を導いたこのときの判決の論理は、そっくりそのまま5号要件にも適用できるからです。加えて、最高裁の多数意見としては5号の違憲性は審査しなかったものの、同時に5号違憲にまで踏み込んだ個別意見がいくつも出たからです。あまりこういう言い方はすべきではありませんが、最高裁は下級審である広島高裁が5号に違憲判決を下すための完璧なお膳立てをした、と言えると思います(後述)。
 では、最高裁はどのような論理で4号に違憲判決を下したのでしょうか。簡単に示しておくと、次のようになります。

 最高裁はまず、4号(不妊化)要件は戸籍変更を求めるトランスの人たちに「原則として生殖腺除去手術」を求めるものであるとしました。実際、この要件を満たすには卵巣摘出や精巣摘出の手術が必要になります。そのうえで最高裁は、そうして手術を一律に強いることは、憲法13条が保障する「自己の意思に反して身体への侵襲を受けない自由」を制約するとしました。これは「身体的統合性」と呼ばれることもある権利ですが、この4号要件があるせいで、トランスの人たちは「手術を受けるか、戸籍変更を断念するか」という「過酷な二者択一」を強いられることになり、結果として身体的統合性の権利が侵害される状況になっているとしたのです。ここまでが、議論の大前提です(①)。
 そのうえで最高裁は、次の問いを立てました。果たして、このような人権の制約を正当化するだけの理屈はあるのか。手術を一律に強いるほどの、よほどの事情はあるのか(②)。この問いに対して最高裁が出した答えは、NOです(③)。現在の日本社会において、性別変更を求めるトランスの人の大切な権利を制約するほどの事情や根拠はない。よって、特例法の4号要件は憲法に違反する。
 この結論を導く問い(②)を検討するなかで、最高裁は4号要件を正当化しうるかもしれないいくつかの材料を検討しています。例えば「生殖能力を有したまま法的な性別を変更した人が生殖をすると、親子関係に問題が生じ、社会が混乱する」あるいは「女性は卵巣をもつ、男性は精巣をもつといった、性別についての社会の常識的な区分が急変してしまう」といったものです。しかしそのいずれも、戸籍変更を求める当事者の数が少ないことや、すでに「女である父」(※本人の戸籍の登録は女だが、子との関係では父である人のこと)や「男である母」は存在するが、社会に混乱は生じていない、といった根拠に基づいて斥けられます。つまり、そこで言う「社会の混乱」や「常識の急変」といったものは、大前提となる人権侵害(①)を許容する・正当化するだけのよほどの理由にはなりえない、ということです。

3.外観要件(5号要件)はどうなる?

 以上の論理を5号要件に適用します。先ほどと同じように考えてみましょう。

 前提は同じです。最初に確認したように、5号要件は(男→女への戸籍変更にあたり)手術を一律に求めており、憲法13条が保障する権利を制約しています(①)。
 次に、問いです。そうした権利の制約(人権侵害)を正当化するだけの事情が、現在の日本社会にはあるのでしょうか(②)。
 そもそもこの5号(外観)要件が特例法に挿入されたのは、公衆浴場での混乱を避けるためであったとされています。法的な登録は「女」だが、身体的には陰茎のある状態の人が存在すると、公衆浴場が混乱してしまうのではないかと、その当時の立法者たちは考えたようです。
 この懸念には、いくつも不適当な前提が含まれています。しかし、いったんその懸念の妥当性を認めたとしても、だからといってこれは、トランスの人たちの人権を制約することを許すような根拠には到底なりえません。なぜなら、言われている「混乱」は、浴場の利用に身体的な特徴に関するルールを設けるとか、そのていどの工夫で解決しますし、実際のところすでに、公衆浴場はそのようなルールによって運用されているからです。
 別の言い方をするなら、「お風呂の混乱を防ぐ」という目的に対して、「一律に手術を強制しよう」という手段はあきらかに不釣り合いです。例えば、アルバイトによる売り上げの略取を防ぐために、採用したバイトの右手を切断しようと言ってる店長がいたら、明らかに間違っていると思うでしょう。「採用するバイトが売り上げを盗むのではないか」と、はじめから疑ってかかるのもどうかと思いますが、仮にそうした「バイトによる略取を防ぎたい」という目的が仮に正当だとしても、そのための手段としてバイトの右手を切断するなど、手段としては到底理解不能な、意味の分からない傷害行為でしかないからです。
 5号要件も同じです。そもそも、ほとんど全てのトランスの人たちは、陰茎のある状態で女湯に入ってそれを露出すれば、混乱が起きることくらい理解しています。ずっと身体の特徴によって人生を狂わされ、生きていくためだけに、いま自分の身体で通過できる空間と通過できない空間を見極めることを強いられる。それが、これまでの社会で性別移行を経てきた人たちの経験です。ですから、そうしたトランスの人たちが、わざわざ女湯で陰茎を露出しようと思案するという想定自体が、そもそも現実味を欠いています。アルバイトで採用する人をはじめから全員「レジ泥棒」として疑うよりも、はるかに合理性がないとわたしは思います。
 そのうえで、仮にその「懸念」が正当であるとしたとしても、言われている「お風呂の混乱を防ぐ」という目的に比して、「そういうわけで陰茎を切って来てください」という手段は、明らかに過剰です。
 もう1つ別の例も挙げておきましょう。例えば「体重100kg以上の人が使うと壊れてしまう遊具がある」という理由で、特定の転校生の受け入れを拒んでいたり、転校したければ痩せろと命じている学校長がいたとしたら、その校長が間違った判断をしていることは明らかです。遊具・設備が壊れないようにするとか、転校生本人を含めて児童・生徒の安全を守るとか、そういった目的自体は正当かもしれませんが、だからといって「転校を諦めるか、体重を減らすか」という二者択一を転校生に強いるのは、手段として明らかに間違っています。そこで学校長がなすべきことは、転校生に事情を説明して遊具・施設の利用を控えてもらうとか、100kg以上の人でも使える設備に改修するといったことでしょう。転校を拒むとか、痩せるよう命じるとか、そんな「手段」は間違っていますし、人権侵害です。
 5号(外観)要件も同じです。「女性」へと戸籍を変えるニーズをもつトランスジェンダーの人がいたとして、社会生活のごくごく局所的な機会でしかない公衆浴場を取り上げて「陰茎があると混乱が起きる」と、戸籍変更を認めなかったり、あるいは陰茎の切断を命じるなんて、明らかに間違っています。特定の身体的特徴を持つ人には適さない遊具が1つだけ校庭にあるからと、転校生の受け入れを拒んだり、痩せるよう命令している校長と同じです。目的と手段が噛み合っておらず、人権侵害が起きています。
 以上で、問い(②)に対する吟味は終わりです。特例法制定時から、この5号要件を支える根拠としてはずっと公衆浴場のことだけが指摘され続けてきましたから、それが人権侵害(①)を許容・正当化するようなよほどの理由にはなりえないことが分かった以上、5号要件は憲法違反であるということになるでしょう。

4.最高裁の個別意見

 この記事の冒頭でも述べたように、まもなく広島高裁で5号要件について憲法判断が下ります。この裁判は、先ほど紹介した最高裁判決で積み残された「宿題」として、高裁に差し戻しになっているものです。すなわち、最高裁は4号については違憲判決を下したのですが、5号については「広島高裁できちんと考え直して」と、下級審にボールを投げ返したのです。
 しかし、そうした差し戻しにあたって、最高裁はいくつかの「お土産」を高裁に渡しています。そもそも、上記のように4号違憲を導く論理は5号に適用できますし、加えて最高裁判事のなかには「5号要件も違憲であることは明白なのだから、高裁に投げ返す必要はない」と、5号違憲の論理まで判決文で提供した人もいたからです。それは、昨年の4号違憲判決の「個別意見」として、公開されています。
 そこで示された個別意見は、まさしく先ほどの節で確認したようなものでした。例えば三浦裁判官は、公衆浴場のルールは事業者の措置によって決まっており、身体的な外観を基準としているのだから、5号要件がなくても、混乱が生じることは極めてまれであるとしています。同じように草野裁判官も、「公衆浴場で羞恥心・恐怖心・嫌悪感を抱かされないようにする」という目的は正当かもしれないが、5号要件という手段はそれに対して釣り合わないとしています。なぜなら、そもそもトランスの人の人口は極めて少なく、また浴場施設の管理者が利用規則を定めるだけで、言われている目的は達成されるからです。
 以上のように、これら最高裁判事は広島高裁が5号に違憲判断を下すための完璧なお膳立てをしています。個別意見も同じように図にしておきましょう。


5.外観要件はなくなります

 広島高裁の判決が近づいています。ほんとうにまもなくだと思います。高裁では5号の違憲性が審査されますが、この状況で、広島高裁が新たなロジックを立てて5号(外観)要件を合憲だと判断する可能性は極めて低いでしょう(――仮に広島高裁が合憲と判断しても、上告後の最高裁が合憲と判断する可能性は限りなく0です――)。現在、全国の家庭裁判所がこの高裁判決の行方を見守っていますが、高裁で5号(外観)要件に違憲判断が下れば、速やかにそれに従い、5号要件は申立人に適用されなくなると考えられます。
 これで、4号・5号がいずれも死文化し、いわゆる「手術要件」はなくなることになります。当事者の人のなかに、手術要件がなくなることへの不安を抱く人がいるのも確かです。そのなかには、「手術までしたのだから、もう女/男として法的にも(社会的にも)認めてください」と、周りの人間(や社会・国家)に頭を下げながら自分の生活を守ってきたという意識の人もいると思います。
 でも、あなたが手術要件によって守られてきたと感じるのと同じくらい、あるいはそれ以上に、手術要件は当事者たちに負担を課し続けてきました。法律が命じているからという理由で、したくもない手術を受けてきた人たち、いると思います(とくにFTM・トランス男性)。本当は自分の望むタイミングではないけれど、結婚や就職のためにどうしても戸籍を変える必要があり、借金をしてまで手術をしたという人、いると思います。社会的には性別を移行してしまったけれど、戸籍の登録だけがおかしく、そのせいで正社員として働く先が見つからず、結果としてSRSをするための貯金に時間がかかってしまったという人(――あるいはまだそのせいでSRSができない人――)、いると思います。法律が手術を命じているのだから、手術をした人間が「ホンモノ」なのだと、意味の分からないマウントを取られて傷ついてきた人、いると思います。手術要件がなければ開けていたはずの人生や、手術要件がなければ救われていたはずの人生が、たしかにあります。
 なにより、もう手術要件はなくなるのです。なくなるほかないのです。昨年の最高裁判決が出た時点で、手術要件が今後の日本社会で温存される道は断たれました。なくなるのです。なくならないで欲しいと願っても、要件撤廃に反対しても、もう無駄です。手術要件はなくなるのです。だったら、手術要件がなくなった後の社会で、これからの当事者たちが幸せに生きるための道を少しでも広げるのが、先に進んできた人間の務めではないでしょうか。

特例法を必要とするのは誰か?

 この記事では、性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(以下「特例法」)について、この法律を必要としている状況にある人とはどんな人たちなのか、わたしなりに説明したいと思います。昨年には特例法の一部に違憲判決が下り、大きなニュースになっていましたが、今年も同様の違憲判決が予想されており、法改正の議論がこれから加速していきます。そんなとき、「そもそもこの法律って誰のためのものなの?」と疑問に思う人は増えることが予想されます。ですから書きました。
 最初に自己紹介をしておくと、わたしは『トランスジェンダー問題』(明石書店)の訳者で、『トランスジェンダー入門』(集英社)の共著者です。また、まもなく『トランスジェンダーQ&A』(青弓社)という書籍が発売になるほか、先月ちょうど、この特例法について扱った『トランスジェンダーと性別変更』(岩波書店)という書籍を出版しました(編著者として)。特例法について考えたい方には、まずは『トランスジェンダーと性別変更』をおすすめします。ブックレットなので読みやすいです。

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1.戸籍の性別がおかしい

 特例法を必要としているのはどのような人たちでしょうか?この問いに答えるにあたり、ひとつ一緒に考えて欲しいことがあります。
 突然ですが、あるとき自分の身分証の性別欄が書き換わってしまったと仮定しましょう。例えばあなたがシスジェンダーの女性だとして、あなたは女性として生きているのに、気づいたら保険証やマイナンバーカードの性別欄が「男」になっていたと、そう仮定します。怖くて調べてみたら、どうやら住民票も戸籍も「男」になっているようです。逆でもかまいません、あなたが男性で、男性として生きているのに、保険証や住民票、戸籍には「女」と書かれてしまっています。
 そんなこと、大したことではないと思うかもしれません。確かにそうですね。日常生活を送っていて、他の人に住民票や戸籍謄本を見られる機会なんてありませんから、生活にすぐに不便が生まれることはないように見えます。
 でも、これから就職・転職をする、というタイミングであればどうでしょうか。履歴書の性別欄にはなんと書けばよいでしょう? そもそも自分は女だし、女として生きているし、女として働くつもりなのだから、当然「女」と書くに決まっている。そう思うと思います。でも、あなたがそうして「女」と書くと、採用内定までもらった後に、「嘘をついていた」という理由で内定を取り消されるかもしれません。勤め先の共済に加入する手つづきをしている途中で、あなたの住民票の性別が「男」になっていることがバレてしまって、虚偽申告をしたから採用できない、というのです。
 だったら仕方ない。履歴書には「男」と書いて、面接で説明すればいい。そう思うかもしれません。しかし、履歴書に「男」と書いていたはずの候補者が、どう見ても女性であり、本人も女性として働くつもりだと聞かされて、会社の人事担当は困ってしまうかもしれません。なぜこんなことに?どうして住民票が「男」なんですか?――そんな質問に答えているあいだに、あなたは面接時間を使い切ってしまいます。他の候補者ならば、自己アピールに使えたかもしれない時間を、あなたは書類の性別に対する弁明で使い切ってしまうのです。
 ほかにも、病院にいくときはどうでしょう。例えば、コンタクトを新調するために眼科に行くとします。しかし受付で保険証を提示したところ、スタッフさんはぎょっとしてじろじろ自分を見てきます。場合によっては、「ご本人でないと処方箋は書けません」と突き返されたり。
 投票所でも同じです。一部の自治体では投票所入場券に性別欄がありますから、地域の投票所の入り口で、あなたは自分の生きている性別とは違う入場券を差し出さなければならないかもしれません。近所に住む町内会の人が受付をしていますが、あなたの入場券を見た人たちは、裏でひそひそ話をしているようです。
 なぜ、こんな面倒なことになってしまったのでしょうか。
 それは、あなたが生きている性別と、あなたの公的書類の性別欄(の表記)のあいだに、食い違いがあるからです。あなたは女性として、あるいは男性として生きているのに、書類に「男性」とか「女性」とか、おかしな性別が書かれているからです。そのせいで、あなたは深刻な困難を経験します。就職や通院、投票など、生きていくなかで大事なタイミングで、あなたの書類が、あなたの人生を阻みます。身分証に身分を保証されないからです。そしてあなたが異性愛者なら、あなたは結婚ができないことにもなるでしょう。―――戸籍の性別が生活の現実とずれてしまっているせいです。
 生きている性別とは違う性別が、公的書類に書かれてしまっている状況。少しだけ想像してもらいました。突飛な思考実験だと思われるかもしれません。でも、それが面倒な事態であることは、すぐに分かると思います。

2.生活する性別

 生きている性別と、公的書類に書かれた性別が食い違うこと。それは大きな困難を帰結します。先ほどはシスの人を想定したうえで、ある種の思考実験として、急に住民票や保険証の記載がおかしくなってしまった!という状況を考えました。しかし、もうお気づきの通り、このような「食いちがい」が生じている状況というのは、一部のトランスジェンダーの人たちが置かれている状況にほかなりません。
 トランスの人のなかには、生きていく性別を変えていく人たちがいます。生まれた時に法的に登録されてしまった性別とは異なる性別へと、生活をシフトさせていくということです。このような性別移行を理解するには、「生活する性別」という概念を持っておく必要があります。詳しくは、以下の記事に書いたので、まずは読んでください。

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 現実問題として、生活する性別と法的登録が「食い違う」人たちが存在しています。その人がトランスジェンダーで、比較的バイナリーな(男女二元的な)性別としての生活実態を自分のものとしていくタイプの人だとすると、そのような「食いちがい」が起きることがあります。
 ただ、注意してほしいことがあります。いま、トランスジェンダーについての標準的な理解としては、「出生時に割り当てられた(=法的に登録された)性別と、性自認(=性同一性/ジェンダーアイデンティティ)が食い違っている」という説明が一般的となっています。ただ、わたしがいま考えたいのは、この「食いちがい」ではありません(!)。いま考えたいのは、生活する性別と法的登録の食いちがいであって、性自認と法的登録の食いちがいではありません。このことに注意してください。

   
 さて、特例法は法的に登録された性別を変更するための法律です。なぜそのような法律ができたのでしょうか?それは、先ほど皆さんに想像してもらったように、生活する性別が法的な登録と食い違っていると、看過できないほどの著しい不利益が発生してしまうからです。その不利益を解消し、就活や通院、転居や投票、場合によっては婚姻にあたってトランスの人たちが差別を受けないようにすること。加えてまた、性別移行後の生活を安定的に送っているトランスの人たちが、書類の表記によって意に反して自分のプライバシーを暴かれないようにすること。それが、特例法の目的です。
 このような特例法の目的を理解するために必要なのは、ですから(性自認ではなく)「生活する性別」という概念ないし発想です。そして、わたしが「生活する性別」について記事を書いてきたのは、この特例法の意義を説くためにほかなりません。

3.特例法を必要とするのはどのような人か?

 特例法を必要とするのはどのような人たちでしょうか。それを説くのが、この記事の目的でした。その答えは、これまでの議論を踏まえれば次のようになります。

特例法を必要とする状況の人

法律上登録された性別と大部分の生活上の性別が食い違っており、そのことによって重要な生活上の領域における安全が損なわれたり、生活上重要性の高い活動に支障が生まれたりしている、もしくは今後そのような状況になる可能性が高い状態の人

 分かりにくいので図にしておきます。

 このうち緑で囲ってある部分が、前提です。生活する性別(生活上の性別)についてこの記事では詳しく説明しませんが、ようするに生活実態として生きている性別のことです。トランスの人のなかには、生まれた時の登録とは異なる性別で学校に通ったり、会社で働いたり、出かけたり、遊んだり、家族と過ごしたりしている人がいます。全員ではありません。でも、現実にいます。それは否定しようのない事実です。そのような人たちは、男性や女性として、生活をしているのです。もちろん、生活上の性別をほとんど移行できたとしても、実家の両親だけには拒絶されるとか、昔の同級生だけは過去の性別で扱ってくるとか、そういうことはあります。ですので、ここでは「大部分の生活上の性別」という表現を使用しました。
 そのようにして、基本的な生活実態が法的登録と異なっていることは、多くの不利益を生みます。例えば、男性として企業で務めているのに、法的登録が「女」になっているせいで、一部の人事関係の人だけにはトランスジェンダーであることを知られてしまっている、といったケース(この記事のトランス男性①ハルトなど)。こういう状況にある人は、絶えず会社でのアウティングに怯えなければならず、働く上での安全を著しく損なわれています。あるいは、法的登録は「男」だが、女性として大学に通っている学生のケース(わたしのこれまでの大学の教え子にも複数人いました)。彼女の法的登録が「男」であることを、ほとんどの同級生が知らない一方で、男女比を調整する語学のクラス分けや、健康診断の通知の宛名などによって、彼女はアウティングされてしまうかもしれません。これらのケースにおける、会社(勤め先)や大学が、上の説明における①重要な生活上の領域に相当します。働いたり、学んだりするにあたって、法的登録が生活上の性別と「食い違う」ことが、大きな困難になっています。
 他方で②生活上重要性の高い活動としては、就職活動や通院、投票、入国審査、あるいは結婚などを念頭に置いています。生活上の性別と法的登録が食い違っていると、そうした大事な場面で、たいへんな困難を経験してしまうことがあります。
 ③今後そのような状況になる可能性が高いというのは、いま現在は①②のような困難を経験していないが、これから経験する可能性が高い、という意味です。例えば、いまの会社ではトランスであることをオープンにしつつ働いているけれども、これから転職する可能性がある(&できれば埋没したい)とか、いますぐに結婚したい相手はいないけれども、将来的に(異性と)結婚する可能性があるとか、そのような状況を考えています。なお、わたしは大学の教員でもありますので、一番は学生のことを念頭に置いています。いまの大学生には、大学入学時点ですでに生活上の性別を移行している方も多く、そうした学生は、就職活動が始まる3年次~4年次には①②のような困難を経験することが多いです。結果としてそうした学生は、1~2年次の時点で特例法によって法的登録を変更するニーズをもつことになります(結果として③に該当)。

4.法的登録を変える

 以上で、特例法を必要とするのは誰か?という問いには答えが与えられたことになります。最後に、いくつか注釈も添えておきます。
 まず、特例法によって法的に登録された性別を変更するということを、性自認の観点から理解することには意味がありません。わたしは少なくともそう考えています。なぜなら、生活上の性別移行が進んでいないにもかかわらず、法的な登録だけを(性自認に合わせて)書き換えたところで、本人にはなんのメリットもないからです。例えば生活の大部分を女性として過ごしている(過ごすほかない)トランス男性が、戸籍の性別だけを(性自認に合わせて)男性に書き換えたところで、彼にとって新たに利益が発生することはありません。むしろ、それこそ「身分証に身分を保証されない」状況が新たに出現することになり、この記事の冒頭で考えてもらったような不利益状態に陥ると考えられます。もちろんこれは、トランス女性でも同じです。
 ですので、特例法の話は性自認の話とは独立に考える必要があります。特例法を必要とするのは、法的に登録された性別を変更することによって、生活上の危険性や障壁の経験、およびその可能性が取り除ける状態にある人であり、まさにそのような危険や障壁を除去する国家の責任から、特例法は制定されたのでした。特例法が性自認を書き込むためのものではないということは、よく理解しておく必要があります。
 第二に、法的に登録された性別を変えることは、文字通りに理解される必要があります。戸籍の性別が変わっても、本人の身体の特徴は変わりません。見た目も変わりません。過去も変わりません。振る舞い方も変わりません。身分証を見せない限り、戸籍の性別を変えたことを他者に気づかれもしません。特例法とは、そういうものです。これは『トランスジェンダーと性別変更』のなかで野宮亜紀さん(※特例法制定に尽力された当事者の活動家です)も繰り返し書いていることですが、トランスの人たちは、戸籍を訂正することによって性別を移行しているのではありません。逆です。性別移行をして、生きている性別が変わった結果として、上で書いた①~③のような状況に置かれてしまうから、戸籍を訂正するのです。つまり、戸籍を変えるくらいのニーズを抱いている人は、もうすでに性別移行を終わらせてしまっています。あるいは「最後の一手」として戸籍を訂正しさえすれば、「男性」や「女性」としての生活の安定と安全が得られる見込みが高い、そのような人たちです。そうでない状況の人が、戸籍だけを(性自認に合わせて)書き換えても、本人にはほとんど利益はなく、おそらく不利益が増えるだけです。このことを理解していないと、特例法について誤った「懸念」を抱いてしまう結果にもなります。法的な登録を変えることのニーズが、トランスの人の性別移行のプロセスのどの時点に生じるものなのか、私たちはよく理解しておく必要があります。(もちろん、性自認に沿った生活が得られないのは苦しいことです。しかし戸籍の表記を変えられることで動かせる生活の範囲は、そんなに広くありません。それは知っておく必要があります。戸籍は魔法ではないからです。むしろ、性自認に沿った生活が得られないことによる困難については、生活上の性別を形づくる要素(自身の状態や周囲の理解)を動かしていくことによって解決する部分の方がはるかに大きいはずです。)
 ちなみに、手術要件の話に絡めて、SRS(性別適合手術)と戸籍変更の前後関係について議論されることも多いですが、戸籍の性別を生活実態にあわせてから働くことができれば、安全に手術費用を貯めやすくなるので、合理的に考えれば、SRSよりも先に戸籍変更ができる世界の方が、SRSへのハードルは低くなるはずです。すぐにでもSRSを受けたいのに、戸籍の表記が生活と食い違っているために安全に働くことができず、そのせいでSRSのための資金が貯まらない… それなのに、戸籍変更にあたって実質的にSRSが義務付けられている…(絶望)というのは、SRSや戸籍変更を視野に入れたことのある人にとってはおなじみの「負のスパイラル」ですが、このような酷い状況は早く変わる必要があり、実際にもうすぐ終わります。
 繰り返しますが、SRSに先立って戸籍変更ができる状態になっていた方が、SRSをするためのハードルは下がります。(※ここまで説明しても理解できないという人は、おそらく「生活する性別」という概念を理解していない(つまりは性別移行についてよく分かっていない)からだと思いますので、繰り返しますがこちらの記事を読んでください。私たちは服を着て生きているので、外性器周辺の身体の状態と、生活する性別は必然的に連動していません。そしてSRSや戸籍変更を経験する当事者の多くは、それらが規範的な(シス的な)組み合わせとは異なる、という状態を経由しています。)

5.おわりに

 特例法については、これまでずっと「要件」の話ばかりされてきました。つまり、どんな人ならば戸籍の訂正を認めてもよいか、という条件の話です。しかし、特例法を必要としているのはどのような状況の人なのかが明らかになっていないかぎり、そのような「要件」論には何の意味もないとわたしは思います。だから、この記事ではトランスの人たちの生活の現実になるべく即した形で、「そもそも戸籍訂正を必要とする状態にあるとはどういうことか」を考えました。「誰の戸籍変更を認めるのか」という、国家の視点あるいはマジョリティの視点だけではなく、トランスの人たちのニーズから、特例法の議論は出発するべきだとわたしは思います。そしてそのような議論が、この国にはまだまだ圧倒的に不足しています。
 この記事が、わたしのそうした思いを共有してくださる方の理解の助けになることを願っています。冒頭でも書きましたが、これから特例法について日本社会は大きな議論の波を迎えることになるでしょう。そんなとき、トランスの人たちの存在を議論の「材料」に貶めるのではなく、生活と人生をもつ生身の人間として、いつも考えられる人が増えて欲しいと思います。岩波ブックレット『トランスジェンダーと性別変更』も、参考にしてもらえれば幸いです。
 なお、今回はトランスの当事者のニーズに焦点を当てましたが、実際には戸籍の性別表記が生活実態と食い違う人が存在することによってトラブルを経験するのは、当事者に限られません。企業や学校は従業員や学生の重大な秘密を抱えてしまうことになりますし、投票所やクリニックの受付スタッフにとってもそれは同じです。だから特例法による性別変更は、実際にはトランスの人の周囲にいる人たちに大きな利益をもたらす制度であることも、覚えておいてください。

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心でも身体でもない「生活する性別」について

 この記事ではこれから、「生活する性別」という概念を紹介します。この概念を手に入れることで、トランスジェンダーの人たちの生きる状況がよく理解できるようになるからです。反対から言えば、この「生活する性別」という発想を持っていないと、トランスの人たちについて、誤った理解を持ってしまう結果にもなります。

1.「心の性」と「身体の性」

 トランスジェンダーの人たちの状況を言うために、これまでずっと「心の性」と「体の性」という概念が使われてきました。「トランス男性は『身体が女性で心が男性』の人です」といった風に。これらの言葉は、社会がトランスジェンダーの存在を理解し、受け入れるために確かに役に立った面もありました。しかし、その目的にとって、明らかに物たりない面があります。詳しくは以下に書きました。

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 上の記事では、「心の性」と「身体の性」をやめるべき理由を手短に説明しつつ、トランスの人たちの現実を理解するにはもっと複層的な視点が必要なのだ、ということを書きました。記事で紹介したのは、以下の表です。

 4人の男性がいます。一番左のシス男性は、ジェンダーアイデンティティも、法的に登録された性別も、身体の性的特徴も、生活も、すべて「男性(的)」です。対して、左から2番目にあたるトランス男性①(ハルト)は、アイデンティティは男性ですが、法的登録は女性です。そして、働く場所ではほとんど「男性社員」でしかないものの、一部の上司からは「男性ではない」扱いを受けていることで悩んでいました。商業施設などに行けば、当然のように男性として接客され、男性として買い物やレジャーを楽しみますが、実家に帰れば「娘」扱いをされてしまいます。こんな風に、生活する様々な場所(職場・実家・商業施設…)に応じて、生きている性別が食い違っている状況のトランスの人は、結構います。
 もちろん、全てが一貫している状態の人もいます。上の表だとトランス男性②の人がそうです。この人は、生活空間の全領域において「男性」として一貫して生きていますので、シス男性と実態として違いがありません。なお、このような状況の人が、生活の(ほぼ)全領域においてトランスジェンダーとしてカミングアウトすることなく、この一貫性を保持しているとき、このような状態を「埋没している」と言います。他方で、一番右のトランス男性のように、自身のアイデンティティ(男性)に沿った仕方では、生活を送れていないという人もいます。
 このようなトランス男性の多様性は、「身体は女性だが心は男性」といった説明では一向に見えてきません。彼らの状況は、一人一人ちがいます。性別移行の状況が違うからです。そして、まさしくその「性別移行」について理解するために必要なのが、これから紹介する「生活する性別」です。そして同じことが、トランス女性の人たちにも、ノンバイナリーの人たちについても言えます。

2.性別移行

 「生活する性別」という言葉あるいは発想を耳にしたことがある人は、少ないかもしれません。わたしはその理由を知っています。それは、世の中で広く使われてきた言葉はシスジェンダーを前提としたものだからです。
 上で紹介した表を思い出してください。一番左の男性はシス男性でした。この男性は、上から下まで全部が「男性(的)」です。結果として、このようなタイプの男性は自分のことを「男性」としてしか考えていません。「性別」というものをこの(表の)ように複層的な観点から考える必要性が、そもそもないのです。要するにシスの人たちには、そもそもジェンダーアイデンティティと法的な登録を分けて考えたり、身体の特徴と生活の在りようを分けて考える必要がありません。だから「生活する性別」という概念や発想にも、多くの人は馴染みがありません。
 しかしトランスの人は違います。トランスの人のなかには、法的登録とアイデンティティが食い違っていたり、法的登録と生活の実態が違っていたりする人がいます。それらが分離しうるということを、実体験から知っています。おのずと「生活する性別」という概念が必要になります。しかし繰り返しますが、世の中に流通する概念、言語そして情報は、シスの経験を中心に構築されているので、そのような概念は普及していません。ここにはシス/トランスのあいだの解釈上の非対称性があります。
 このような言葉の非対称性は、性別移行の経験の有無という点から考えることもできます。トランスの人には、生きていく性別を変えていこうとしたり、実際に変えたりする人たちがいます。これは、シスジェンダーには基本的にあり得ない経験です。このとき、トランスの人たちは何を移行しているのでしょうか?性別移行だから、性別を移行しているのですが、ではその「性別」とは何でしょうか?
 多くの人にとって最も分かりやすいのは、身体的な移行(すなわち治療)だと思います。ホルモン治療によって声が低くなったり、毛深くなったり(テストステロン)、胸に膨らみが生まれたり、脂肪がつきやすくなったり(エストロゲン)します。また手術によって胸の膨らみを除いたり、陰茎を作ったり、あるいは陰茎や精巣・陰嚢を除去したりします(性別適合手術)。そのような医療的介入のニーズを深刻に抱えるトランスの人は確かにいますし、そうして引き起こされる身体の変化が、性別移行において重要な意味を持つことは間違いなくあります。
 他方で、そのような身体的改変「だけ」で性別移行を理解することは、できません。例えば、陰茎の存在に強い違和を経験しているトランスの女性がいたとします。彼女にとって、性別適合手術はとても重要な医学的ニーズなのです。彼女は、陰茎のない身体(むしろ膣のある身体)をこそ自身の身体として経験するため、そうした彼女の性別違和を解消するための性別適合手術は、きっと彼女に大きな喜びをもたらすでしょう(激痛は伴いますが)。
 しかし、陰茎がなくなることだけが、彼女の望みでしょうか。それだけが彼女の性別移行でしょうか。もし、彼女が標準的に理解されるトランスジェンダーの女性であるなら、きっとそうではないはずです。
 陰茎は、ふつう他人からは見えません。下着やズボン・スカートを履いているからです。ですから、このトランスの女性が、あるとき陰茎を切除したとしても、バイトの同僚や、学生時代の友人には、全く分かりません。このことは、陰茎の有無は実のところ社会生活にほとんど何の変化ももたらさないことを意味しています。
 このとき、そのような手術を望むトランスの女性の「性別移行」とは、いったい何なのでしょうか。もちろん、手術を必要とする人はいます。この身体では生きていけないという違和で目の前が真っ暗になり、他のことが何一つ考えられなくなり、自分の身体を傷つけてしまうくらいに身体のことが憎くて憎くて気持ち悪くて吐きそうになるという人はいます。(※これは性別違和に関する1つの経験的描写にすぎません)
 ―――しかし、たとえ身体にまつわる性別違和が非常に深刻であるとしても、「陰茎のない男性として生きていくこと」を、きっと彼女は望んでいないでしょう。彼女が望んでいるのは、男性から女性へと性別を移行することであり、「陰茎がなくなりさえすれば(それまでと同じように)男性として生きていてもいい」とは、多くの場合考えないだろうと思います(――そのようなケースは、性別違和というよりも身体完全性同一性障害(BIID)の経験に近いのではないでしょうか――)。もちろん、身体の違和に思考を支配されているときに、生活のことなんて考えられなくなるという人もいるでしょう。とにかく身体を治療することだけを考えていて、それから先の人生を生きていく未来なんて想像すらできないという人もいると思います。そういう人は確かにいますし、分かります。しかし、いざあるていど性別移行を済ませた人のなかで、身体の特徴を変えること「だけ」が性別移行であると考える人は、ほとんどいない(あるいは標準的には想定されない)だろうと思います。
 別の角度からも考えてみましょう。このような手術をするトランス女性は、おそらくはそのほとんどが、すでに女性として生きています。もしくは、女性として生き始めています。多くの場合はホルモン治療をすでに始めているでしょうが、体つきや外見、周囲からの見なされ方、視線の動かし方や、髪型、名前などなど、性別と関連する多くの要素をすでに「女性(的な状態)」へとシフトさせているケースが多いでしょう。このとき、彼女はすでに性別を移行し始めています。男性から女性への移行です。そして、そうした性別移行がかなりのていど進んでから、上に挙げたような性別適合手術を受けていることがきっと多いはずです。そう考えるとやはり、このようなトランス女性に対して「陰茎がなくなりさえすれば(それまでと同じように)男性として生きていてもいい」という欲求を見いだすのは標準的には不適当だということになります。
 さて、ここでは「性別移行とはなにか?」ということをイメージするために、身体的な移行(治療)について少しだけ考えてきました。このような議論から分かるのは、トランスの人たちが行う「性別移行」は、個人的な水準、法制度的な(登録上の)水準、身体的な水準、社会生活上の水準など、複数の水準にまたがっているということです。そして、この記事にとって大事な発想が、ここに登場します。「生活する性別(生きている性別)」です。

3.生活する性別

 トランスの人たちには、生きていく性別を変えていく人たちがいます。生活するそれぞれの場所で、自分がどんな性別で生きるのか。その性別を、場所に応じて1つずつ変えていくのです。これこそが、性別移行において大きな意味を占める実践です。上に紹介したハルトを見てください。ハルトは、おそらくはその男性的な身体の特徴をふくむ外見や、声の低さ、また名前や振る舞い方などから、職場では「男性社員」として基本的に働くことができています。しかし、戸籍の性別表記を知られている部長の認識は「ひっくり返す」ことができていません。また実家の家族にも、状況がよく理解されておらず、「娘」扱いされてしまう状況を「ひっくり返す」ことができていません。しかし、知り合いのいない商業施設や公共交通機関においては、かつて「女性」的に生活していた状況を「ひっくり返す」ことができています。かつてはあらゆる場所で「女性」として存在させられていたであろう状況を変えるべく、ハルトはそれぞれの場所「ひっくり返して」きたのです。その過程では、転職をしたり、人間関係を大規模に再編(清算)している可能性も高いですが、それもまた「ひっくり返す」実践の一部です。
 そうした性別移行は、とはいえ男性➤女性/女性➤男性といったバイナリーなプロセスとは限りません。例えば、以下のようなノンバイナリー・トランスフェムの人がいたとします(アミ(さん)と呼んでおきましょう)。

 こういう状況の人は、少なからずいます。アミは2つの職場を持っています。1つ目は飲食店で、2つ目は雑貨屋さんです。飲食店は学生時代からずっと勤めていて、アミが男性として大学に通っていたときから、料理長とはずっと同じ職場です。仕事はそこそこ気に入っています。現在のアミはぱっと見の外見も話し方も、体つきもほとんど女性的になっているので、新しく入ってきたスタッフはアミのことをなんとなく「女性の仲間」として認識し、実際に女子会などにも誘っています。ただ、料理長だけはアミの過去を知っていることもあり、アミを男性の延長戦上で扱い続けてしまうようです。そのせいでアミがトランスであることは職場には知られていますが、他のスタッフもあまり気にはしていません。職場②(雑貨屋さん)の方では、アミはもっぱら女性として働くようにしています。男性のふりをするよりも、その方がアミは自然体でいられます。
 知り合いのいない映画館や商業施設に来ると、アミはもうシスジェンダーの女性と見分けがつきません。アミは、着ているものも女性用のものばかりで、髪も長く、女性の顧客に混じって、買い物をしたり映画を観たりします。
 アミはしかし、女性としてのアイデンティティを持っていません。アミはトランスフェムですが、ノンバイナリーなのです。そのことをオープンにできるのが、地元のLGBTサークルです。サークルと言っても、月に1度、地元の当事者たちで集まるお茶会です。ここでは、アミは自分がノンバイナリーであることを伝えています。だから周りの参加者も、アミを「女性」としてではなく、ノンバイナリーとして受け入れます。
 実家の両親も、今ではアミが男性ではないことを受け入れています。しかし、両親の頭の中ではどうしても「男性から女性になった」という認識になってしまうようで、アミはもう諦めています。かつては性別移行について猛烈に反対されていたので、そのころを思えば、「女性」として受け止め、接してくれているだけで十分です。
 家族と会って疲れた時などは、SNSを開きます。Twitterのアカウントを持っていて、そこではトランスっぽい人たちとゆるく繋がっています。このアカウントはアミが性別移行を始めたときに開設したもので、プロフィールにも「ノンバイナリー/トランスフェム」と記載しています。かつては「MTF-GID」の人たちとの交流が多かったアミですが、最近は「ノンバイナリー」を自認する人たちとの方が、居心地がいいと感じます。
 地元には、親友がいます。中学時代からの仲良し3人組です。性別移行を始めた時、アミはもう3人組は解散だと思いました。しかし、縁を切るつもりでLineグループに投稿したアミのカミングアウトを見た親友2人は、一生懸命アミを理解しようとしました。本を読んで勉強したり、アミとの関わり方を丁寧に探ったりしてくれました。結果として、親友2人は(ほぼ女性として生きている)ノンバイナリーとしてアミのことを理解し、そういうアミと一緒にいまも3人組を続けています。
 これが、アミの生活する性別です。アミは、生まれた時に男性を割り当てられています。ですので、実家でも学校でも、外出先でも、生活はすべて「男性」として送っていました。それからアミは、性別を移行し始めました。様々な場所で自分が生きることになる性別を、1枚ずつひっくり返していったのです。新しい職場を手に入れ、ちょっとした説明もしつつ、女性として働くことができるようになりました。実家の両親とは激しい喧嘩もしましたが、いまは和解しています。「息子」の状態をひっくり返して、いまは「娘」ということで落ち着きました。他方で、親友3人組における性別も、アミは「ひっくり返し」ました。とはいえそれは、男性➤女性 ではなく、男性➤ノンバイナリーへの変化です。カミングアウトと、親友の努力によって、アミは「親友3人組」における「生活する性別」を移行することができたのです。
 こんな風に、生活する性別は「女性」と「男性」だけに限りません。周囲の理解と、カミングアウトのための言葉があれば、「ノンバイナリー」や「ノンバイナリー/トランスフェム」として存在することもできるのです(常にうまくいくとは限りません)。
 そして一般的な話としても、トランスの人たちが実践する性別移行にはこうした機微があることを理解しておく必要があります。いま見てきたように、性別移行の中核には場所ごとに生活の在りようをシフトさせる実践がありますが、それぞれの場所には、それぞれの事情が複雑に絡み合っており、それぞれの場所で重視される要素が違っているからです。例えば、アミの職場①には、料理長がいました。料理長にとっては、アミが男子大学生だったときの記憶が「重み」をもつので、アミをいつまでも「男性」扱いしてしまいます。他方で新規のスタッフにとっては、アミの見た目や振る舞い方、また職場でのコミュニケーションの在りかたのほうが「重み」をもつので、たいていのスタッフとはアミは「女性」としてコミュニケーションしています。
 料理長にとって過去が相対的な「重み」をもったように、実家の両親にとっても、アミを「息子」として育ててきたという過去の来歴は圧倒的な「重み」をもったはずです。しかしその「重み」は、アミのカミングアウトと度重なる喧嘩、そして両親の理解と受容によって、少しずつ減りました。今では、アミの現実の在りかたの方が「重み」をもつに至り、実家では「娘」として存在することができています。
 このように、ある場所において、トランスの人がどのような性別を生きているのか/生きることができるのかというのは、それぞれの「場」ごとに異なる「要素の重みづけ」に依存します。知り合いのいない商業施設では、せいぜいぱっと見の外見(そこには身体の動かし方なども含まれる)くらいしか「重み」をもつ要素はありませんが、実家や級友との関係では、そうもいきません。トランスの人たちは、それぞれの「場」において働く「重みづけ」の力学を見極めつつ、ときにカミングアウトをしたり、しなかったりしながら、生活する性別を移行していかなければならないのです。
 そして、その性別移行のプロセスでは、誰もが(アミやハルトのように)生活する性別の「分散」を経験します。すべての「場」を、一挙に同時にひっくり返すことはできないからです。しかし、その「分散」の状態を減らしていって、特定の性別の状態で生活を一貫させていく人も(上述のトランス男性②のように)います。いずれにせよ、「生活する性別」というこの概念を持っていないと、そのようなトランスの人たちの現実と変化を理解することはできません。

4.抜け落ちる現実

 この記事は、「生活する性別」という概念・発想を皆さんに紹介することを目的としていました。ここで改めて、「心の性」と「身体の性」という概念の組み合わせに戻ってみましょう。いまや(前回の記事以上に)この概念の組み合わせから抜け落ちてしまう現実があることがお判りいただけると思います。私たちの生活の「場」には、それぞれ「重み」をもつ要素があり、その要素をうまく見極め、周囲の人との関係を調整することによって、トランスの人たちは「生活する性別」を移行していきます。カミングアウト1回で完了する「場」もあれば、激しい葛藤を伴う「場」もあるでしょう。徐々に理解を得ていく「場」もあれば、ぱっと見の外見だけで生活する性別をコントロールできてしまうような「場」もあるでしょう。
 「心の性」と「身体の性」に欠けているのは、ですからこの「生活の現場」です。トランスの人たちが生きている現実が、その概念の組み合わせからは見えてきません。トランス男性のハルトについて、「身体が女性で心が男性」などという理解をしたところで、ハルトの職場での働き方や、実家での葛藤、日常生活の在りかたは見えてきません。先ほどのアミに対して「身体が男性で心がノンバイナリー」などと説明してみたところで、アミの現実はさっぱりひとつも理解できません。それらの言葉には、生活の現実を表現する力がないからです。
 そのような表現はむしろ、トランスの人たちの現実を表現するよりも、覆い隠してしまっているかもしれません。実際、いまSNSで盛り上がってしまっているトランスヘイトの多くは、そのような「覆い隠し」の結果であるとさえ、言えるかもしれません。私たちはシスの人たちを中心にして編成されてきた言葉や情報の在りかたを、変えていく必要があるのです。
 この長い記事を最後までお読みくださりありがとうございました。ここに書いた内容は、まもなく発売の『トランスジェンダーQ&A   素朴な疑問が浮かんだら』の執筆を通して明晰化されたものです。この記事を興味深く読んでくださった方がいらっしゃいましたら、ぜひ書籍を手に取っていただければと思います。

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「心の性」と「身体の性」をやめるべき理由

 この記事では、トランスジェンダーの人々について説明するためにずっと用いられてきた「心の性」と「身体の性」という表現について考えます。わたしが誰か知らない方向けに自己紹介をしておくと、わたしは『トランスジェンダー問題』(明石書店2022年)の訳者であり『トランスジェンダー入門』(集英社2023年)の著者の一人であり『トランスジェンダーと性別変更』(岩波書店2024年)の編者です。4月には『トランスジェンダーQ&A:素朴な疑問が浮かんだら』(青弓社2024年)が出版されます。
 この記事を通して、わたしは、これらの概念の組み合わせは、それだけではトランスの人々について何かを語るための役に立たないと主張します。しかし、それは「心の性など存在しない」とか「身体の性など存在しない」という主張とは違います。また、「心の性という表現を使うべきでない」という主張とも微妙に違います。誰かに何かを説明するにあたっては、相手の予備知識や発達段階などに応じて、様々に表現方法を変えることが求められます。ですから、これらの概念やその組み合わせに「それ自体で問題がある」とはわたしは思っていません。使わないで済むなら使わない方がいいと思っていますが、それはまた別の話です。
 「心の性」と「身体の性」という組み合わせが役立たずである理由は、いくつもあります。なかでも今回の記事では、「トランスの人たちの状況についてちゃんと語ろうと思うなら、そんなものでは足りない」という話をします。なお、この記事は先述の『トランスジェンダーQ&A:素朴な疑問が浮かんだら』の執筆を通して得た知見を多くふくんでいます。ですので、記事に興味をもった方はぜひ本を予約してください(※発売は 4/25 です)。

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1.あるトランスジェンダー男性の例

 具体的な議論を始めるにあたり、ひとりの架空の人物に登場してもらいます。トランス男性のハルトです。
 ハルトは現在27歳、都内の企業で働いています。生まれた時は「女性」として登録されましたが、大学時代に自身の性別違和をやり繰りできなくなり、性別移行を始めました。大学在籍中から、すでに初対面の人には「男性」として認識される状態になっており、21歳のときに始めたホルモン治療の影響で、声も低くなっています。筋トレも頑張ったので、そのへんの男性よりも肩回りはがっしりしています。卒業後はフリーターとして飲食店などで働き、お金を貯めて胸の膨らみを取る手術を受けました。26歳になったころから、現在の会社で正社員として働いています。
 ハルトは、男性としての人生に充実感を覚えています。自分がそうではないはずの性別を押し付けられ、自分を騙していた「女性」時代とは違って、これこそが自分の人生だったと感じます。これからも自分は男性を生きるだろうし、男性として死ぬのだろうと当たり前に思います。男性であることがハルトのアイデンティティなのです。
 会社の同僚たちは、ハルトがトランスジェンダーであることを知りません。ただの男性社員として認識しています。しかし、会社の人事部の担当者と、部長だけは別です。戸籍の性別の表記が「女性」である状態で入社したので、就職の話をもらった時点で、どうしても伝えざるを得なかったからです。
 ハルトの戸籍の登録は「女」です。昨年10月の最高裁判決まで、ハルトのような人は卵巣(と子宮)を取らなければ戸籍を訂正できなかったのですが、ハルトにはその手術を受ける希望も、お金も、時間もありませんでした。今も住民票や保険証には「女」と書かれています。
 会社の部長とは、日常的にはあまり接点はありません。しかし部長と会うと、ハルトは嫌な気持ちになります。周囲の男性社員とは違った扱いを受けていると感じるからです。部長は自分を「男」ではなく「女性」(それも幼い女性)として見下している気がする。ハルトはそんな気持ちになります。大人数が集まる機会に部長がいると、ハルトは落ち着かない気持ちになります。
 ハルトは中部地方の出身です。実家の両親は、ハルトの性別移行に理解があるはずでした。しかしホルモンで声変わりをしても、筋トレで立派な上半身を手に入れても、胸オペをしてフラットな胸になっても、どうやら両親はハルトを「娘」だと思い続けているようです。人前でも平然と昔の(女性の)名前で呼んできますし、ハルトはもうなかば諦めています。
 最近の趣味は、地元のバドミントンサークルです。性別への違和感が理由で高校時代に退部してしまったのですが、もともと運動は好きだったので、地元のクラブで再開しました。もちろん、仲間たちはハルトがトランスジェンダーであることを知りません。そういえば、ハルトは映画を観るのも大好きです。もちろん、会員登録は男性です。

 ―――さて、ハルトの状況はどのようになっているでしょうか?

 ハルトのようなトランス男性は、いっぱいいます。生活している様々な場所に応じて、存在する性別の様態が「ばらけて」いたり、「まだら」になったりしている状況のトランスの人です。(『トランスジェンダー入門』では、これを「分散」という言葉で説明しました)

2.性別の多元性

 注目すべきは、それだけではありません。ハルトの「性別」について考えるとき、私たちはいくつもの側面からそれを考えることができます。上の表にある通り、性別は多元的なのです。
 まずはジェンダー・アイデンティティ。性自認や性同一性とも呼ばれます。自分をどの性別として理解し、納得し、将来にわたってどの性別として生きていこうとするのかという、アイデンティティにおけるジェンダーの側面です。
 次に書類上の性別。日本では戸籍の性別と言えば分かりやすいかもしれません。ハルトは、アイデンティティが男性であるにも関わらず、出生時の登録が「女性」だったせいで面倒な目に遭ってきたようです。
 その次は身体の性的特徴。第一次性徴や第二次性徴をはじめとして、女性にありがちな身体の特徴と男性にありがちな身体の特徴には傾向の違いがあります。ただし、それらの性的な特徴はあくまで平均や傾向の違いにすぎず、「男性」の全員が同じ身体の特徴を持つわけではなく、それは「女性」も同様です。また、そうした性的特徴のいくつかは、医学的な措置によって変化させることもできます。ハルトの場合は、声の低さ(高さ)、筋肉のつき方、平らな胸…といった点では男性的な身体の特徴を持っていますが、多くの男性にはない内性器を持っているようです。果たして、ハルトの身体は「男性の身体」でしょうか「女性の身体」でしょうか。そんなに乱暴な二分法でハルトの身体を切り刻むのは、どうやらひどいことに思えてきます。
 そして最後は、生活上の性別。これは、生活の「場」に応じて変化することがあります。ハルトについては、職場では完全に「男性」として過ごせていますが、部長の存在だけは気がかりです。映画館でもスポーツジムでも、バトミントンのサークルでも「男性」として存在できていますが、実家では「娘」扱いされてしまっているようです。
 こんなふうに「性別」は多元的です。ジェンダーアイデンティティ、書類上の性別(法的登録)、身体の性的特徴、生活上の性別……。これらを区別しながら丁寧に見ていくことで、やっとハルトの「性別」の状況が見えてきます。

3.トランスジェンダーの多様性

 この多元性は、トランスジェンダーの人たちに多様性をもたらします。すぐに分かると思いますが、これらの多元的な性別の組み合わせは、多様だからです。例えば次の表を見てください。

 字が小さくて申し訳ないです。生活上の性別としては、職場・実家・商業施設の3つの「場」を挙げました。そして4人の男性がいます。一番左がシス男性で、残り3人がトランス男性です。うち1人がハルトです。
 まずシス男性。ジェンダーアイデンティティも、法的登録も、生活上の性別も全て「男性」です。身体の性的な特徴も、ほぼ男性に典型的なものです。次のハルト(トランス男性①)は、さっき見た通りです。
 では、トランス男性②を見てください。彼は、法的登録も男性です。性同一性障害特例法に則って、すでに戸籍の訂正をしたようです。身体の性的な特徴も、ほとんど完全に男性に典型的なものになっています。上から下まで「男性」ですね。こういうトランス男性は、現実にたくさんいます。シス男性と区別がつきません。
 最後はトランス男性③です。こちらの男性は、アイデンティティは明確に男性ですが、それ以外の点では「女性」ないし「女性的」である部分が多いです。書類にも「女性」と書かれ、職場でも「女性社員」として働き(=働かざるを得ず)、実家に帰れば「女性」扱いされ、映画館など商業施設でも「女性」として接客されます。身体の特徴も、筋トレやホルモン治療、胸オペなどしていませんので、現在の社会では「女性」に典型的・ありがちな特徴を多めに備えています。もしかしたら本人にとっては、それが強い違和感の理由になっているかもしれません。そして、この③のような状況のトランス男性も少なくありません。彼は、これから様々な水準での性別移行を経験するかもしれません。あるいはしないかもしれません。いずれにせよ、こういう状況のトランス男性も多く実在しています。
 これまで、性別の多元性に注目しつつトランス男性の多様性を見てきました。すぐに分かることですが、こうした多様性はトランス女性の人びとにも、ノンバイナリーの人びとにも存在しています。「トランス男性/トランス女性/ノンバイナリー」といった集団のなかには、無限の多様性がありますが、実は「性別」という点だけとっても、状況はほんとうに多様なのです。

4.「心の性」と「身体の性」

 トランスジェンダーの人たちについては、これまで「心の性と身体の性が異なる」といった説明がなされてきました。新聞報道でも、いまだにそうした表現が使われることがあります(たとえばこの東京新聞の記事)。シスジェンダー中心に文化や言語が構築されてきたなかで、シスの人たちでも理解できる言葉として選ばれてきたのは確かに事実です。
 しかし、落ち着いてよく考えて欲しいのです。たとえば先ほど4人の男性(うち3人がトランス男性)が出てくる表をご紹介しました。こうした多様性は、「身体が女性」だけど「心は男性」…といった説明では、ぺっちゃんこにされてしまいます。「身体は女性だけど、心は男性である」という、これまでずっとトランス男性の説明に使われてきた言いまわしからは、このような多様性は見えてきません。トランス男性のなかにはシス男性とほとんど変わらぬ性別の実態を生きている人がいるという事実も、トランス男性のなかに著しい差異があるという事実も、見えてきません。
 これが、「心の性」と「身体の性」という概念の組み合わせが役に立たない理由です。この概念の組み合わせは、トランスの人々が生きる現実をほとんど全く反映していません。むしろ、聞き手に対して偏ったイメージを惹起するという点で、もはや有害さの方が最近は指摘されるようになっています。
 ただし、注意してください。わたしは「心の性が存在しない」とか、そういうことが言いたいのではありません。むしろ逆です。「心の性と身体の性」という言い回し(概念の組み合わせ)は、ほんらいはトランスジェンダーの存在を承認するためにこの社会が求めてきたものだったはずです。その目的を忠実に遂行するならば、むしろわたしはその表現をそろそろ卒業しよう、と言いたいのです。

 以上で、この記事を終わります。最後にもう一度、宣伝で恐縮ですが、これまで書いてきたことは、新刊『トランスジェンダーQ&A:素朴な疑問が浮かんだら』(青弓社2024年)の執筆のなかで明晰化されたアイディアに基づいています。この本は『トランスジェンダー入門』で書ききれなかったこうした着想と議論を周司あきらさんと総動員したものです。ご興味ある方はぜひ読んでください。
 この記事が皆さんの役に立つことを願っています。

2023年の振り返り

 はてなブログの機能で「去年のあなたのエントリを読み返しましょう」みたいな提案がメールで届いていた。去年「2022年の振り返り」を書いていた。12月30日。

yutorispace.hatenablog.com

 読み返して驚いた。自分では今年(2023年)の仕事だと思っていたことがいくつも書かれていた。自分のアウトプットすらきちんと追跡的に記憶することができていないのはよくない。

 去年の時点で「できなかったこと」として書き留めたもののうち、今年も実現できなかった大きなこと。博論の書籍化。書きたいこともあるし骨格もとうにできているが、最近の先行研究を反映したものとして著作にまとめ上げる時間がまったくとれなかった。出版社も待たせてしまっていて本当に申し訳ない。

 今年の生活にとって最も大きかったのは『トランスジェンダー入門』の出版。実際の執筆活動は昨年中に終わっていたが、とにかく7月の出版後が忙しかった。合計7つの出版記念イベントを組むことができたが、どれも非常に参加者が多く、プレッシャーがすごかった。相手が研究者で、話の内容について想像がつく機会は除いて、イベント前は対談相手の方との話のシミュレーションに多くの精神的リソースを使った。
 わたしには「話す」機会が与えられている。より正確には、わたしみたいな人間に偏ってその機会が与えられるようにこの社会はできてしまっている。何もしないこともできる。ただ、この歪な状況でわたしに与えられている機会と課せられた責任を、わたしは額面通りに引き受けることにした。周司あきらさんと『トランスジェンダー入門』を書くと決めたときに、そう決めた。こんな責任、逃げた方が楽だといつも思う。
 去年は『トランスジェンダー問題』を翻訳した。2022年の日本に必要だったと胸を張って言える。ただ、状況は変わった。トランスジェンダーをめぐる情報と言論の環境はさらに悪くなった。だから『トランスジェンダー入門』を書かなければならなかった。とはいえ昨年『問題』を訳していて本当によかった。『問題』を訳していないのに『入門』を書くのは、想像もできない。
 出版後の忙しさは、執筆以外の仕事が激増したことに由来する。新書を出すとはこういうことかと思った。ちょっと仕事を入れすぎた。新書の出版とは関係ないものも含めると、今年は8件くらい新聞に出て、3回くらいラジオに出た。講演の数は数えていない。ただ、ひとつひとつとても記憶に残っている。これまでつながりのなかった多くの方とつながることができた。
 新書執筆以外にも、トランスジェンダーに関連する執筆がいくつか。ひとつは雑誌『すばる』8月号にエッセイを寄稿した。もうひとつは『現代用語の基礎知識2024』に周司あきらさんと共著でトランスジェンダー関係の項目を書いた。この『基礎知識』のエントリは、新書を書いてから半年たった時点でのわたしたちの認識をまとめたもので、めちゃくちゃ良い文章が書けたと思っている。
 そして、去年の振り返りの時点ですでに『トランスジェンダー入門』の原稿ができていたように、来年もトランスジェンダー関連書籍がいくつも出る。今年の10月からはそれらにかなりエネルギーを注いだ。来年でる。再来年はもう出ないだろう。というか、再来年にはわたし以外の書き手がもっと増えていてほしい。わたしの役目それまでの開墾と「つなぎ」役にすぎない。
 研究の方では、がんセンター以来のチームでひとつ英語の論文が出た。日本語の論文は、『生命倫理』にトランスジェンダーの性別承認法における不妊化要件についての論文を載せた。今年の10月にちょうど日本の最高裁でも違憲判断が出たやつ。あとは実存思想協会の『実存思想論集(特集:フェミニズムと実存)』にも寄稿した。フェミニスト・クィア現象学とハイデガー『存在と時間』についての論文。関わりが深いにもかかわらず、あんまり研究が進んでいないのでサーヴェイ的に書いた。詳しくは今度論文にしたい。学会発表は例によって何件やったのか数えにくい。医哲倫の大きなシンポと、生命倫理学会の公募シンポ、公募ワークショップに登壇したほか、大学主催のオープンな研究会・シンポジウムにも何件も呼ばれて発表した。よく身体がもったと思う。30代前半のわたしは本来は若手の研究者に数えられるはずだから、研究領域全体のことなんて考えずにただただ研究論文を量産していたい。ただ、なんだかそれももう許されなくなってしまった。逃げたいときもある。ポストが安定しているのは確かにありがたい。ただ、もうすこし若手研究者でいさせてほしかった。
 教育の方では大学でベストティーチャー賞(優秀賞)をもらった。昨年の履修者学生からの投票で、学部からひとり選ばれる。今年は新しく英語の論文を講読する授業を担当することになったのでJenny Morris のフェミニスト障害学の論文を学生たちと読むことにした。後期は東大で「生殖=再生産の倫理」を開講している。14年ぶりに戻った駒場は、全体としてあんまり変わってはいなかったけれど、わたしの授業に出てくれている学生たちの様子はかつてからは想像もできないくらい違う。ただ、マイノリティの学生が安全に学ぶことのできる環境はぜんぜん整っていない。

 群馬に住み始めて1年8カ月が過ぎた。死ぬほど忙しかったのに、群馬県内ですでに1回引っ越した。群馬は、住むにはいいところだ。野菜が美味しい。大きな河、きれいな河が流れている。家が広い。そして、カフェやレストランの座席の間隔がひろい。東京なら10人収容されるだろうスペースに、群馬だとだいたい6人くらいのテーブルと椅子が置かれている。夜は星がきれいにみえる。月明かりのありがたさを感じる。
 よく考えたら、東京がどうかしている。乗車率が常に150%あるような電車を当たり前のように利用するなんて、どうかしている。お金を払わないと座って休むこともできないなんて、街の設計としては落第点以下だ。不快感ばかりが溜まるギチギチのチェーンのコーヒー店で、昼休憩を過ごす時間を奪い合っている。美味しくもないのに見た目ばかりが均一できれいな野菜を買うしかない。群馬に来て「星が見える!」とテンションが上がったけれど、よく考えたら逆だ。東京の夜が明るすぎるんだ。

 あまり体調がよくない。9月ごろから、階段をあがるだけで心臓が異常に拍動するようになった。階段を上り下りするときに深呼吸をすると意識を失いそうになる。自転車をこぐだけで全身がぐったりしてしまう。90分の授業をする前は、毎回「倒れませんように」と念じている。昨年のブログの時点で、こう書いていた。

とはいえ、この状況をあと何年も続けるのはどう考えても無理だ。これまでは脳の回転数を上げて、メモリを開拓してしのいできたけれど、ここ1年くらいで物理的な限界が近付いている感覚がある。あとは生活の時間を抵当に入れて脳みその稼働時間を増やすしかないけれど、1日は24時間しかないし、結構これも限界が近づいている。

この「限界」が、はっきり見えた1年だった。脳みその回転量を上げても、もう補いきれない。朝起きた瞬間から夜寝る瞬間まで働き続けた1年だった。フルで休んだ日は年間通して5日もないとおもう。精神よりも先に肉体の方が限界に近付いてしまった。
 最近、絶対に意識を失ってはならない場所で意識喪失してしまった。たまたま友人が近くにいたから命を救われたけれど、状況がすこし違えば文字通り死んでいた(溺死)。あとで振り返って「わたし死にかけたんだな」と思うと、なんだか変な気持ちになった。友人には心から感謝している。友だちがほんとうに少ない人生だけれど、この数年で新しく親しくしてくれている友だちと、わたしの仕事を通じてわたしを気に懸けてくださるすべての仲間には、平和に長生きして欲しい。

 得たものは多かった。失ったものも、多かった。そういう1年だった。年末年始は、すこし休ませてもらう。わたしは来年の振り返りを書くことができるのだろうか。

 ※ 最近はThreadsによくいます。

www.threads.net

特例法の諸要件はなんのために存在するのか?

 特例法の4号要件(不妊化要件)に対して、明日(10/25)憲法判断が下る。違憲判決となれば4号要件は失効し、性別変更要件は大きく緩和される。5号要件についても、憲法判断がなされる可能性がある。

1.有害な発想

 特例法については、いわゆるトランスジェンダー/性同一性障害の当事者のあいだでも誤解が多い。典型的な誤解は、(GIDの診断を受けていることを前提とした)特例法の5つの要件を「おのずから」満たす人だけが、この特例法をそもそも必要としている人であり、「おのずから」満たさない人は、そもそも法律によって性別変更をする資格のない人だ、という誤解である。そして、こうした誤解に基づき、次のようなことが言われることもある。――そもそもこの特例法は、この5つの要件を「おのずから」満たしている人たちが作ったのであり、この5つの要件を「おおずから」満たす人たちだけが、この法律の恩恵を受けることのできる「本物の性同一性障害者/本物のトランスジェンダー」なのだ、と。

 これは、ただの誤解である。もちろん、勝手に思い込んでいるぶんには、勝手にすればよい。しかしこうした誤解に基づき、べつの当事者に向けて「お前たちは本物ではなく偽物だ」と言ったりするのは、おそろしく有害だ。そしてまた、トランスジェンダーの存在をよく思わない人たちも、同じようなことを言うことがある。この法律は、そもそも5つの要件を「おのずから」満たす「気の毒な性同一性障害者」のための法律なのであり、要件緩和を訴える人々は「自己主張が強いだけの活動家」なのだ、と。

 以下では、こうした有害な人々が前提とする先の発想が、どのように誤っているかを説明する。

2.特例法

 特例法は3条において次のように定めている。

第三条 家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。
一 十八歳以上であること。
二 現に婚姻をしていないこと。
三 現に未成年の子がいないこと。
四 生殖腺(せん)がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

 これらの要件が「本物の性同一性障害者」や「本物のトランスジェンダー」の基準を示すものだと考える人たちがいるようだ。しかし法律を読めば分かるように、これらの要件は、トランスジェンダー(的な人たち)がどんな状況を生きていて、どんな医学的ニーズを持っているのか、といったこととは関係がなく挿入されている。

 1号の年齢要件は、民法の成人年齢に準じている。さすがに「18歳以下のトランスジェンダー/性同一性障害者は偽物だ」と言う人はいないだろうが、重要なのはこの要件が民法の規定によって挿入されているという事実だ。

 2号の非婚要件は、民法で同性婚が認められていないため挿入されている。特例法の「公式解説」として見なされている、南野知惠子(監修)『「解説」性同一性障害者性別取扱特例法』(日本加除出版2004)でも、当然ながらそう説明されている。重要なのはここでも、この要件が民法の規定から挿入されていることだ。

 3号の子なし要件は、なぜ挿入されたのか明らかになっていないことが多い。特例法の骨子が明らかになったとき、突如法案に入れ込まれたこの要件をめぐって、当事者団体はじめ立法に尽力した人たちのあいだい大きな困惑と混乱が生じたことは周知のとおりである。とはいえ、先の『解説』や直近の判決などを見るに「子どもの福祉を守るため」というのが、この要件の根拠らしい。要件の妥当性はいったん脇に置くが、ここでも重要なのは、この要件がトランスジェンダーの人たちがどのように生きているのか、という現実とは無関係に挿入されたことである。子なし要件の存在は当事者のあいだでも大きな紛糾の種となったし、要件が入っている理由も「子どもが可愛そうだから」という、性別変更をする当事者の状況とは無関係の、漠然としたものに過ぎない。

 4号の不妊化要件は、性別移行前の性別にありがちな生殖能力による生殖の結果として生まれる子の法的登録に混乱が生じるという理由で、挿入されている。詳しくは以下の拙稿を参照。

yutorispace.hatenablog.com

ここでも重要なのは、この要件が、トランスの人たちが望んで性別適合手術をしていることがあるという事実とは無関係に挿入されていることである。上記ブログにも書いた通り、4号要件はトランスの人々が「不妊状態=生殖不能」であることを求めているに過ぎない。たとえ自ら望んで受けた性別適合手術によって、結果として不妊状態になっている当事者が一定数いるのだとしても、それはこの要件の理屈とは関係がない。この要件は、ただただ「生まれる児の法的登録が混乱する(法秩序の混乱)」とか「”妊娠する父”や”妊娠させる母”は社会通念として受け入れられない」とか、トランスの人たちの現実とは関係のないところから挿入されているにすぎないからである。

 5号の外観要件も同様である。先の『解説』にも言及のある通り、この要件は、公衆浴場という空間があるため「陰茎のある女性」は存在してはならない、という理由で挿入されているとされる。実際には、公衆浴場の利用など日常生活において極めて限定的な場面でしかないのだから、この法律にわざわざこのような要件を入れること自体が不当なのだが、とはいえここでも重要なのは、この要件がトランスジェンダーの人たち自身の(医学的)ニーズから挿入されたわけではなく、「社会の秩序」という、それとは別の観点から挿入されたことである。医学的なニーズから、自ら望んで陰茎を切除しているトランス女性が一定数いることは、べつに5号要件が特例法に入っている理由とは関係がない。

 以上のように、特例法の5つの要件が挿入された理屈は、トランスや性同一性障害の人たちのニーズや現実とは関係がない。たとえば2号要件は民法で同性婚ができないから挿入されたのであり、「本物のトランスジェンダーは結婚しないから」という理由で挿入されたのではない。4号要件も「法秩序の混乱」という国家の理屈で挿入されたのであり、「本物のトランスジェンダーはみんな性別適合手術をしていて不妊だから」という理由で挿入されたのではない(そもそもみんながそれを望むならわざわざ要件に入れる意味はない)。そもそも、国はそんなことに興味がない。新たに戸籍登録の性別を変える人間が出てきたとき、既存の法体系や社会秩序・社会通念に「バグ」が生じないかどうかにしか、国は興味を持っていない。そして特例法の5つの要件は、そうした「バグ」を未然に防ぐという意図で、挿入されたものである。

 そのため、特例法の5つの要件をもって「本物」と「偽物」の線引きができるという考えは誤っている。そして、馬鹿げている。自分オリジナルの「本物」と「偽物」の線引きを使い、自分を「本物」の側に位置づけることによって精神的な安定を得ようとする当時者がいることは、否定しない。有害な発想であると思う一方で、どちらかと言えば気の毒だなと思う。とはいえ、そうしたオリジナル基準をつくるとき、特例法の要件がその線引きに使えると考えるのは、少なくともやめた方がいい。

3.運動家たち

 これまでは、特例法の要件を挿入する国家の理屈を見てきた。ここからは、特例法を作るために尽力した運動家たちの見解・状況を参照する。

 特例法の制定にあたり国会で尽力した運動家としては、FTM日本の虎井まさ衛、TSとTGを支える人々の会(TNJ)の野宮亜紀ならびに上川あや、gid.jpの山本蘭などの名前が知られている。ここに挙げた3団体は、2003年3月18日、南野知恵子がリードしていた自民党の「性同一性障害勉強会」に要望書を提出している。戸籍訂正を可能にする法律がまもなくできることが明らかとなり、特例法策定の詰めの作業が行われていただろう2003年の3月である。

 この要望書を先日見る機会があった。上記3団体の代表が名を連ねたこの要望書では、要件について一切の記載をしていなかった。「こうした要件は入れないでください」とか「こうした要件なら入れてもいいです」といった要望は、一切の具体的な記載がなかった。理由は、当事者が分断されるからである。許容すべき要件と、許容できない要件を、当事者団体の側から線引きすることは、まもなく成立する特例法によって「救われる当事者」と「救われない当事者」の線引きすることである。もちろん、なんらかの法ができる以上、そうした「線引き」は発生してしまう。でも、そうした「線引き」を当事者団体の側から提示することはできないし、すべきでない。上記3つの当事者団体は、そう判断したのである。

 当時の運動家たちがもっていたこのような賢明さは、gid.jpの山本蘭の名前で出された以下の「公式見解」にも記録されている通りである。

gids.or.jp

この「公式見解」は、次のパッセージで始まる。

戸籍の性別訂正の話を持ち出すと、まずこの要件をどうするかという話がすぐに始まります。でも、性同一性障害をかかえる人と言っても、実は様々な方がいらっしゃいます。みんな同じように苦しんでいます。そして、多くの方は戸籍を変えて欲しいと思っています。それをどうして当事者が同じ当事者をあなたはいい、あなたはダメって区別することができるでしょうか?それって、差別じゃないのでしょうか。要件に入らない人を見捨てることができましょうか。私たちにはできません。だって同じ仲間なんですから。

 山本蘭氏の過去の言動には首肯できない点も無数にあるが、このパッセージに現われている氏の姿勢は、賢明かつ尊敬に値するものだと思う。

 ここで、改めて問いたい。現在5つの要件を抱えている特例法は、果たして「本物の性同一性障害者/本物のトランスジェンダー」を見つけ出すための基準になるのだろうか。断じてそのようなことはない。そして、特例法の要件をそのような目的で使うのは、この法律を作るために尽力した運動家たちの精神に照らして、許されない。

 冒頭でも紹介した誤解は、次のようなものだった。――特例法の5つの要件を「おのずから」満たしている人たちが、そもそもこの特例法は作ったのであり、この5つの要件を「おおずから」満たす人たちだけが、この法律の恩恵を受けることのできる「本物の性同一性障害者/本物のトランスジェンダー」なのだ――。この発想は、明確に誤っている。特例法を作るために尽力した運動家たちは、具体的な要件を差し出すことで仲間たちのあいだに線を引くことをよしとしなかった。

 実際のところ、国会議員との面談・交渉など、法律制定時に走り回っていた運動家たちには、最終的に出来上がった特例法の要件を満たさない人もたくさん含まれていたという。個人名を挙げることはしないが、当時の与党自民党を動かすために尽力した3名の当事者の運動家のうち、国内で性別適合手術を受けていた人は0人だった。そして3名のうち2名は、その時点でいわゆる性別適合手術を受けてもいない。そのため、日本で「正式に」性別適合手術ができるようになったから、「国内で正式に手術を受けた人たちのために法律ができた」というのも、特例法ができるまでのストーリーとしては正確ではない。余談をさらに付け足しておけば、当時の大きな当事者団体の活動に加わり、法律制定にも尽力した人たちのうち、およそ半数以上は、やはりその時点で(不妊化を伴う)性別適合手術を受けていなかったということである。だから「手術を受けた人たちが法律を作った」わけではない。

 しかし、法律ができたことで、要件もできた。2003年当時、世界のどの国の性別承認法にも(性同一性障害者の)診断要件や不妊化要件が入っていた。特例法ができるにあたっては、そうした世界の先例も当然参照されているだろう。当事者団体や運動家にとっては、いわゆる手術要件(4号不妊化、5号外観)が当事者たちに線引きをもたらすものであることは苦々しいものだったに違いない。しかし、日本の特例法で「世界初」を実現するのは難しいと誰もが考えただろう。結果「小さく生んで大きく育てる」という国会との約束のもと、特例法はできた。

 特例法の制定から20年が経つ現在、私たちはこれらの要件とどのように向き合うべきか。その5つの要件を「おのずから」満たす人間だけが、特例法による救済対象なのだとか、これらの要件を「おのずから」満たす人間だけが、「本物の性同一性障害者/本物のトランスジェンダー」なのだとか、そのようなことを言うために特例法の要件は存在しているわけではない。特例法の要件は、当事者たちのニーズや現実とは無関係の理屈で挿入されたものであり、特例法を作った運動家たちは、要件による線引きをけっして積極的には提示しなかった。

 

 明日、2023年10月25日には最高裁判決が下る。4号の不妊化要件と、場合によっては5号の外観要件について、憲法判断が下る。「小さく生んで大きく育てる」という、当事者たちと国会との約束は、20年間ほとんど果たされなかった。その結果、司法による判断が、大きく要件を動かそうとしている。もちろん、4号がなくなろうと5号がなくなろうと、線引きは残り続ける。20年前からずっと問題視されている3号要件も、まだ存在する。しかし、不要な要件は少しでもなくなるべきだ。それだけは確かである。

 特例法の要件が大きな社会的注目を集める現在、個々の要件の是非について考えるにあたって「この要件を満たすのが本物だ」とか「この法律は要件を満たす人たちのためにできたのだ」とか、誤った発想に流されないようにしてほしい。なんのためにこの要件はあるのか。特例法を作った運動家たちはどのように要件と向き合っていたのか。そのことを考えるための一助として、この文章が使われることを願っている。

特例法の4号要件は「手術」を求めているのか?

 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(以下「特例法」)の4号要件を、わたしは「不妊化」要件と呼ぶ。これには理由がある。この要件は「手術要件」と呼ばれることもあるが、わたしはそれらの呼び方を採用していない。それには理由がある。

 呼称など、実際には些末な問題に過ぎない。しかし、この要件をどのように呼ぶかという問いは、この要件が何を求めているのかについての理解と密接に関わっている。

 

1.不妊化要件(4号要件)は何を求めているか?

 そもそも、特例法のいわゆる4号要件――正確には同法3条4号――は何を求めているのか。同法3条は次の通りである。

第三条 家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。

一 十八歳以上であること。

二 現に婚姻をしていないこと。

三 現に未成年の子がいないこと。

四 生殖腺(せん)がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。

五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

上の通り、4号要件は「生殖腺(せん)がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること」を求めている。まず確認すべきこととして、ここに「手術」の文字はない。しかし(閉経その他の医学的理由により生殖の能力を失っている場合を除いて)ひとが生殖腺の機能あるいは存在そのものを失うには手術を受ける必要がある。そして、特例法に沿って戸籍性別を変更しようとするトランスの人々の多くは、外科的な手術を受けた結果としてこの要件をクリアしている。そのため、4号要件を「手術要件」と呼ぶことには妥当性があるように見える。

2.求められているのは「不妊状態」

 しかし、そうした呼称は4号要件の正確な理解を妨げる。なぜなら、4号が求めているのは「生殖能力を持っていないこと」つまり「不妊状態であること」だからである。

 絶対に理解しなければならないことがある。特例法4号要件は、トランスの人々に「手術を受けること」を求めてはいない。4号要件が求めているのは、性別登録を訂正するトランスジェンダーが「不妊状態であること」だ。そして、そうした「不妊状態であること」を創り出すためならば、手術を希望しない人や希望できない人も含めて、一律にまとめて不妊化を伴う手術を強いても構わないと特例法は考えている。

 そもそも、なぜ特例法に4号要件があるのだろうか。つまり、なぜ特例法はトランスジェンダーたちに不妊状態であることを求めているのだろうか。それは、法案が成立した際に自民党の議論をリードした南野知恵子が書き残しているように、そして2019年の最高裁判決でも採用されてきたように、「移行前の性別に備わる生殖能力で生殖をすると、法秩序に混乱がもたらされるから」である。もっとも法律が懸念するのは、トランス男性が法的に「男性」へと登録を変えたのちに、妊娠・出産するケースだろう。関連してまた、「父=妊娠させる」「母=妊娠する」という通念に反する事態が出現するため「社会が混乱する」ということも、4号要件の存置の理由に挙げられる。

 それだけのことだ。だから、絶対に勘違いしてはならない。特例法は、そして日本国家は、トランスジェンダーの人々に「手術をしてほしい」とは思っていない。特例法が望んでいるのは、トランスジェンダーが「不妊状態であること」だ。そして、その状態を作り出すためなら、トランスの人たちが望まない手術を結果的に強いられたり、そのことで生殖の権利を侵害されたり、望まない医学的措置を受けない権利を侵害されたり、家族を形成する権利を侵害されたりしても、いいと思っている。トランスの人々の権利など、どうでもいいと思っているからだ。それが、現在の4号要件だ。

 だから、「手術を望む当事者もいる」といった理由で4号要件の存置に賛成する(もしくは撤廃に反対しない)のだとしたら、そこにはおかしな「ボタンのかけちがい」が起きている。何度でも繰り返す。特例法は、トランスの人たちに「手術をしてほしい」とは願っていない。特例法は「不妊状態であれ」と命令しているのであって、しかもそのとき「望まない人にまで手術を強制しても構わない」と思っているのである。つまり、ここで「手術」は”コストのかかる手段”にすぎない。不妊化を伴う手術という、極めて身体的な負荷の大きい医学的措置を、特例法はせいぜい「必要なコスト」程度にしか思っていない。

 もちろんトランスの人のなかには、自らの医学的ニーズとして性別適合手術を受ける人がいて、そうした人は手術の結果として不妊状態となる。しかし、そんなトランスの人々のニーズなど、特例法には関係がない。特例法が求めているのは、繰り返すが「不妊状態であること」であって、自分の望んだ手術によって不妊状態になったのであろうと、あるいは望まぬ手術によって不妊状態になったのであろうと、そんなことに国家は1ミリも関心を持っていないからである。その意味で、4号要件に「違憲」判断を下した先日の静岡家裁が「生殖腺除去手術」という言葉を使っていたのは示唆的である。

3.時間が経ちすぎてしまった

 トランスの人々のなかには、出生時に戸籍に登録された性別(女or男)と、現実に生きている性別とが食い違っている状態の人がいる。そうした状況にある人たちは、就労や婚姻、住居探し、病院への通院などにあたって、著しい不利益を被っている。とくに就労は経済状況(貧困)と直結しており、通院は健康と直結している。いずれも、人生=生存全体にかかわる問題である。そのため、トランスジェンダーたちのこうした不利益は、国家の責務として解消されなければならない。これが、日本の特例法をはじめとして、一般に性別承認法が必要とされる背景である。先に触れた、特例法ができたときに出版された南野らの著作でも、そうした社会的困難の解消の一助として、特例法の意義が明確に説かれている(南野知惠子(監修)『「解説」性同一性障害者性別取扱特例法』日本加除出版2004)。

 しかし、そうしてトランスの人々の生活上の不利益、法的な不利益をなくすための特例法には、厳しい要件が残され続けてきた。「小さく生んで大きく育てる」という期待のもと作られた特例法は、当事者コミュニティのそうした期待を完全に裏切り、20年間ほとんど変わらなかった。4号の不妊化要件もそうした「取り残された要件」の1つだ。だから、今こうして裁判闘争が繰り返されている。

 明後日10月25日には、最高裁で4号要件についての憲法判断が下る。問われているのは、4号要件を国家が残そうとする理由が、この要件があることで生み出される多様な人権侵害に優越するかどうか、である。すなわち、4号の不妊化要件を残したいという国家の願いは、不妊化を伴う手術を希望しない・希望できない人びとにまで、一律に手術を強制し、そのことによっておびただしい権利侵害を生み出すにたるだけの重要な「願い」なのかどうかが、問われている。(図を参照)

 わたしは、そのようなことはありえないと思っている。性別変更を願い、権利として性別承認の機会を得ようとするトランスの人々に対して、一律に不妊化を強いるなどあってはならないことであり、4号要件は憲法13条(幸福追求権)や24条(の含意する家族を形成する権利)に違反すると考えている。

 そしてそもそも、不妊化を求める理由である「混乱」は、出生登録や戸籍登録にあたって新たな附則を設けたり、特例を設けたりすることによって容易に回避できるはずのことだ。そうした運用上の工夫によって解決可能な「混乱=問題」の解決のために、不妊状態であることを一律に要求するのは、明らかにコストに見合っていない。先日、裁判所として初めて特例法の4号要件に「違憲」判断を下した静岡の家庭裁判所も、同様の論理を立てていた。もはや、不妊化を一律に求めることなど許されないのだ。

5.これは「手術要件」ではない

 もう一度くりかえす。4号要件が求めているのは「手術をすること」ではない。4号要件が求めているのは「不妊状態であること」であり、しかもその不妊状態を一律に実現するためなら「望まない人びとにまで一律に手術を強要してもいい」と国家は考えている。これが、特例法の4号要件である。だから、つねに考えなければならない。

1)なぜ国家は性別承認(戸籍訂正)を求めるトランスジェンダーに「不妊状態であること」を求めるのか?そこに正当性はあるのか?

2)そうして「不妊であること」を求める国家の理屈は、はたして手術を望まない人びとに対してまで一律に手術を強いることを正当化するだけの理屈なのか?

 この2つの問いを区別することは、つねに重要である。

 だから、わたしは4号要件を「手術要件」と呼ばない。その呼び名は、4号要件がどのような理屈で不妊化を求め、その理屈がほんとうに手術の強制を正当化するのかどうかという、真に考えるべき問いを見失わせるからだ。

フェミニズムとアイデンティティの政治(NHKカルチャー青山)

 明日、9/29(金)NHKカルチャー青山さんにて、清水晶子さんと2度目のフェミニズム対談(?)をやります。テーマは「フェミニズムとアイデンティティの政治」。伝説的に楽しかった昨年の講座「トランスジェンダーとフェミニズム」を受けて、今年も講座が実現しました。

 以下のリンクから、対面とオンラインと、それぞれ申し込みができます。アーカイブ動画の配信ももちろんあります。

◆9/29(金)19:00~20:30 

教室受講:

https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1277343.html

オンライン受講

https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1277345.html

 アイデンティティの政治という言葉は、いま(特にアメリカなど英語圏で)やっかいな使われ方をしています。「ジェンダーだのLGBTだの、新奇な言葉を使いながら、マイノリティがやかましく自分たちのアイデンティティを主張して、社会に余計な分断を持ち込んでいる」とか。あるいは「アイデンティティの承認を求める運動にリベラル派が注意を持っていかれたせいで、本当に大切な問題が見失われ続けている」とか。なんとなく気に入らない社会正義の実践や社会運動をまとめて腐すためのレッテルとして、「アイデンティティの政治(identity politics)」が使われています。

 日本語圏で、そうしたレッテル貼りとして「アイデンティティの政治」という言葉が使われる機会は少ないですが、「マイノリティによる不合理なアイデンティティの主張によって、キャンセルカルチャーが加速している」みたいな、すさまじく解像度の低いバックラッシュ言説は、掃いて捨てるほどあります。あの感じを、なんとなくイメージしてもらえれば。

 他方で、そうしたレッテルとしてではなく、アイデンティティの政治とはどのようなものであるかを考えるのはとても重要なことです。そして今回の講座では、とくにフェミニズムとアイデンティティの政治について、重点的に話をします。

 現代的な感覚としては、もしかするとピンとこないかもしれませんが、フェミニズムもまたアイデンティティの政治としての側面を持っています。歴史的に、間違いなくそうした面がありました。ときに「女性であることはアイデンティティではなく階級なのだ」と表現されることもありますが、その実質がアイデンティティの政治であると言うほかない理論や運動は、フェミニズムのなかにたくさん見いだすことができます。それ自体は、多くの人が異論なく同意できる事実だと思います。

 考えるべきは、そこで「女/おんな/女性」というアイデンティティのもとに集ったフェミニストたちの実践そして理論が、なぜそのようなアイデンティティの政治を求めることになり、そこにどのような功罪があったのかということです。

 そもそも「アイデンティティの政治」という言葉自体は、コンバヒー・リバー・コレクティブのステイトメントのなかで使われ始めたものであることが知られています。異性愛の中産階級の白人女性中心のフェミニズム運動においてしばしば不可視化されてきた(あるいは不可視化され続けてきた)、黒人のレズビアン女性や労働者階級の女性たちの経験、そして彼女たちの置かれている政治的な環境の差異を際立たせ、主張する必要が「アイデンティティの政治」という言葉と、そうしたパースペクティブに基づく運動とを求めたということです。

 もちろん、コンバヒーコレクティブ以前のフェミニズムが、アイデンティティの政治と無縁だったわけではありません。それは先ほども書いた通りです。とはいえその事実から想起すべきは、アイデンティティを前に出さなければならないという、のっぴきならない政治状況こそが、アイデンティティの政治を求めてきたということです。

 たほうで、少し時代がくだって90年代。清水さんが専門とするクィア理論が運動と共に生まれたのは、アイデンティティを基礎に置く政治をまさに批判し、それを乗り越える必要性が(それこそ緊急に)認識されたからでした。今回の講座のための打ち合せで清水さんがおっしゃっていたのは、清水さんがフェミニストとしての思考の歩みを始めたのは、そのような「アイデンティティ(の政治)に対する信頼/安定的な依拠」がゆらぐ時代のテクストや思考と共に、だったということです。

 あるアイデンティティのもとに集う人々は、本当に「○○としての経験」を共有しているのでしょうか。置かれた状況は、同じなのでしょうか。レズビアンにせよ、トランスジェンダーにせよ、あるいは「女性」にせよ、あるアイデンティティのラベルを自分に「引き受けること」は、そのような人「である」ことと、どらくらい同じであることができ、あるいは同じであることができない(ことがある)のでしょうか。もし、そこに「すきま」があるのだとしたら、アイデンティティの政治は、そのような「引き受け」のプロセスをなかったことにもしてしまうのではないでしょうか。

 そうして振り返ると、アイデンティティの政治としてのフェミニズムの歴史にも、多様な「フェミニスト」がいたという事実が、また違った仕方で/あるいはより多彩に、見えてきます。この講座でとくに注目されるのは、トランスジェンダー・トランスセクシュアルの存在です。

 昨今「第二派フェミニズムこそが、真に女性の状況をまじめに考えるフェミニズムであり、第二派フェミニズムはトランスジェンダーという存在など認めなかった➤だからトランスジェンダーに親和的なフェミニズムは偽物のフェミニズムだ」といった乱暴なもの言いをするトランス排除的フェミニストが増えています。つまり、第二派フェミニズムとはなんであったか(なんであるか)という歴史の解釈が、トランス排除をめぐるフェミニストの政治の一部を構成しているということです。

 これに対して、「第二派フェミニズム運動のなかにもトランス女性は混じっていた」と主張することは、確かに大切でしょう。そうした歴史研究もたくさん積みあがっています。しかし、それだけでよいのでしょうか。

 ひとつには、今でいうトランス男性やトランスマスキュリンな人々が、フェミニズムの歴史において(理論のうえでとくに)果たしてきた貢献が、このような応答によっては忘れられてしまいがちです。ある時代、ブッチレズビアンとトランス男性(マスキュリン)のあいだに走った、切迫感のある(血の流れるような)緊張の歴史も忘れるべきではありませんが、「男性もフェミニストになれるのか」という問いに対して、その実存をかけて答えを出してきたトランスの男性/マスキュリン的な人たちがいることは無視できない事実です。

 もうひとつには、「女であるとはどのような意味なのか」という、第二派フェミニズムにとっての核心的な問いに対して、トランスセクシュアル(当時の言葉)の女性たちの存在と思考が与えてきた貢献を無視してはならないということです。ラディカルフェミニストであるマッキノンのような論者が問うてきた、女性sex であることはどのように構成され、どのように性差別的な抑圧の構造に挿入されているか?という問いが、トランス的な問いと無縁でないというのは、近年の研究をまつまでもなく明らかです。

 問いはこうして、アイデンティティとはそもそもなにか、という水準にも到達することになります。ただ、この問いだけを見るなら、歴史を参照する必要などないかもしれません。トランスやクィアな人たちは、自分たちにとってアクセス可能な言葉のなかから、「しっくりくる」ものを探し出すという経験をするものだからです。とはいえ、そうしたプロセスを「引き受け可能な言葉を探すプロセス」として見るか、「本当の自分を探すプロセス」と見るかで、そのアイデンティティを政治へと転化する場合の方向性も大きく変わってくるでしょう。

 あぁーー!書きたいことが止まらなくなってきました。

 明日が楽しみで仕方がありません。

 ちなみに昨年の講座のあとは、あまりにも楽しかったので記録のブログを書きました。

yutorispace.hatenablog.com

  今年も、終わった後にこんな楽しい報告ブログを書けるといいなと思います。

 皆さんと講座でお会いできるのを楽しみにしています!

 

トランスヘイト言説を振り返る(wezzy)

『トランスジェンダー入門』の発売から、来週で2カ月になります。この間、ずっと勢いも衰えることなく書店さんでも手に取っていただいてるということで、著者としては安心しています。朝日新聞にも載っていましたが、4刷で2万部弱が出ています。

 刊行記念イベント5つ目が明日に迫っています。場所はwezzyさん。テーマは「トランスヘイト言説を振り返る」。能川元一さん、堀あきこさん、松岡宗嗣さんの3人によるレクチャーに加えて、わたしを含む4人での討議になります。
➤ 申し込みは以下より


wezz-y.com

・9月8日(金)19:00~21:00
・オンラインのみ。
・アーカイブ配信あり。視聴期限は9/29。
・書籍付きチケットは完売。オンライン参加 ➤ 990円。

 さて『トランスジェンダー入門』では、ここ数年日本国内でも激化しているヘイト言説については扱いませんでした。ヘイト言説によって自分たちの語るべきことを制約されるのは不本意ですし、それに応答するはるか手前のところで、基礎的な情報を書籍にまとめる必要があると判断したからです。

 今回のイベントでは、そうしてスルーすることになった「トランスヘイト」言説を正面から扱います。この5年ほどで、日本におけるトランスヘイト言説の担い手は広く拡大しましたが、その発端やヘイト拡散の経緯について知らないという方は多いと思います。そのため、今回のイベントは「トランスヘイト言説を振り返る」としました。現在進行形で拡大・拡散しつつあるヘイトの現状があるからこそ、その過去にもう一度目を向け、どのような対抗軸が必要であり、また可能であるかを探ろうと思います。

 堀あきこさんからは、いわゆる「フェミニズムにおけるトランス排除」問題を論じていただきます。「女性」という立場からトランスの人々に集中的に投げつけられ続けるヘイト言説がどのような装いをしており、どのような点で問題性を含むのか、お話しいただく予定です。能川元一さんからは、右派・保守系論壇の分析を中心に、右派に流通するトランスヘイト言説がこの1年でどのような質的変貌を遂げたかを詳細に論じていただきます。これまで女性の健康や権利のこと、ましてやトランスのことなど一切関心を寄せていなかった右派論壇が、「女性の安全」なるタームをフックとして「女性の味方」面をしているというおぞましい現在に至るまでの経緯において、どのような言説の輸入・交換があったのか、わたしも高い関心を持っています。他方で松岡宗嗣さんからは、LGBT理解増進法(2023)が成立するまでの経緯をひとつの軸に、国政・地方政治両面におけるトランスバッシングの波、そして圧力を論じていただきます。理解増進法は、2021年にも国会に上梓される寸前までいきましたが、自民党内の反対により廃案になりました。それが2023年に再び取り沙汰されたとき、その内容はより酷いものとなり、国会審議の期間・過程では、目を疑うレベルのヘイト言説が政治家の口からも繰り返し飛び出しました。許しがたいこうした過去を記憶し、現在の状況を理解するためにも、松岡さんからのまとめは非常に有益なものとなるはずです。

 なお、お三方からの報告のあと、わたし(高井)からも短いレクチャーを行います。「素朴な疑問は存在しない~トランスヘイト言説に触れたら~」という題で、トランスの人々の生活や現実に関する「素朴な疑問」を連発することが、どのようにしてヘイト(憎悪)の扇動や拡散としての機能を持つのか、そしてそうしたヘイト的な「疑問」に触れたとき、どのような対応が望ましいのかといったことを論じます。普段わたしはトランスヘイト言説そのものを相手取る機会が少ないのですが、いい加減に言いたいことも溜まっているので、明日は言うべきことをはっきり言わせていただきます。

 以上が全体の予告(?)です。イベントではヘイト言説が多く引用されるため、皆さんには心身の安全と安寧を守っていただくことを最優先としていただきたいのですが、重要なイベントになることは確かです。皆さまのご参加をお待ちしています。

 最後になりましたが、このイベントはショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』(拙訳:明石書店2022年)の翻訳刊行からまもなく1年を記念するイベントでもあります。『トランスジェンダー入門』を通して、トランスの人々を取り巻く社会・経済・法・政治の状況について基礎的な知識を得ることができたら、ぜひ『トランスジェンダー問題』へと歩みを進めてほしいと願っています。トランスの人々を苦しめている諸問題については『トランスジェンダー入門』で簡単に論じましたが、そうした ”問題” は実のところ、トランスではない人も含む、多くの人々を苦しめている問題と同じ根っこを持っています。だったら、共に連帯して世界を変える以外に道はありません。「トランスジェンダー」という集団に対して、良くも悪くも注目が集まる現在だからこそ、「議論は正義のために」という『トランスジェンダー問題』の翻訳副題が、いま改めて想起されて欲しいと願います。

フェミニズムがフェミニズムであるために(エトセトラブックス)


 『トランスジェンダー入門』の発売から5週間ほど経ちました。ありがたいことに4刷も決まり、一時期は在庫不足がいろいろ懸念されてもいましたが、現在はネット書店でも実店舗の書店さんでも、問題なく発注数が出回っているのではないかと思います。

 『トランスジェンダー入門』の刊行記念イベント、3つ目が今週の土曜日に迫っています。

etcbooks.co.jp

・8月26日(土)19:00~21:00
・エトセトラブックショップ&オンラインにて。
・共著者の周司あきらさん、エトセトラの松尾亜紀子さんとの鼎談です。
・テーマは「フェミニズムがフェミニズムであるために」
・アーカイブ動画あり。
・オンライン配信参加1200円です。
・Zoomでの配信となり、リアルタイムで字幕が表示できます。

 今回のイベントでは、思いっきりずっとフェミニズム(と男性学)の話をします。『トランスジェンダー入門』の第6章も「フェミニズムと男性学」だったのですが、紙幅の関係もあって、(わたしは)書きたいことの2%くらいしか書いていません。このイベントでは、書けなかったことも含めて、そした何よりエトセトラの松尾さんと3人で、ぞんぶんに「フェミニズムとトランスジェンダー(の政治)」の話ができるかなと思います。

 今日ちょうど登壇者による打合せがありました。話したいことや考えたいことは無数にあり、2時間で収まるか不安です。今日の打ち合わせで出た、当日話したいテーマや「問い」は、こんな感じでした。


・フェミニズムによるトランス排除
 ➤ ラディカルフェミニズムとトランスジェンダーの関係について
 ➤ ラディカルフェミニズム=つねにTERF なのか?

・フェミニズムにおける「女」とはなにか?
 ➤「女性の経験」をフェミニズムの基礎に置くとき何が起きているか

・傷つきやすさとフェミニズム
 ➤ 被害者性や傷つきやすさが連帯の基礎に来るとき何が起きるか。
 ➤(性)暴力をなくすための闘いはどのような道を目指しうるか

・リプロ運動とトランスジェンダー
 ➤ 日本における優生保護法をめぐる社会運動から学べること

・トランスジェンダーという言葉が指すもの
 ➤ 「トランス女性」「トランス男性」という新しい言葉。
 ➤ 「TGのTS化」と「ノンバイナリーの登場」

・トランス女性が「マイノリティ女性」であるとはどういうことか?
 ➤ トランスの人々の経験、変化、アイデンティティ
 ➤ トランス女性が「男性」扱いされることで置かれる立場

・男性学とトランスジェンダー、フェミニズム
 ➤ なぜ「政治的レズビアン」はあっても「政治的ゲイ」はないのか
 ➤ 男性的な割り当てや生存からスタートする「クィア」はなぜ少ないのか
 ➤ AMABのノンバイナリー、Aセクシュアルの人はなぜ少ないのか

・トランスジェンダー差別と家父長制
 ➤ 「きちんとした夫」でないと見なされた存在へのおぞましい攻撃
 ➤ 「トランス的な人たち」への差別と、トランスジェンダーへの差別
 ➤「性別らしさ」の越境が許容されても「性別の越境」は拒否される世界

 ……… なんと!思い出すだけでも楽しそうです。

 昨今はフェミニストたちによるトランスジェンダー排斥・差別言説の拡散もほんとうにひどいありさまで、「フェミニズムとトランスジェンダー」が、ある仕方で対立的にイメージされる機会も増えてしまっているかもしれません。

 そうした不安を抱いてしまうことがあれば、ぜひイベントに来ていただきたいです。エトセトラブックスの書店の陳列や装飾から始まり、雑誌『エトセトラ』の刊行を始めとした編集業にいたるまで、トランスジェンダーへの差別や憎悪扇動をフェミニストとして許さない姿勢を明確にしてきた松尾さんと、『トランスジェンダー入門』の著者2人で語り合う機会です。性を巡る差別や抑圧のない社会を作るために必要なことを、フェミニズムと男性学において蓄積されてきた知恵の歴史から学び取る時間にしたいと思います。それでは、よろしくお願いいたします。

「まずは現実を知ることから」(B&B書店)

『トランスジェンダー入門』の発売から3週間が経ちました。この間多くの方に手に取っていただき、ありがとうございます。ただ、初版があっという間にはなくなってしまったため、在庫僅少状態が続いています。早く2刷・3刷が行き届くとよいのですが。

『トランスジェンダー入門』の刊行記念イベント、2つ目が3日後に迫っています。

bookandbeer.com


・8月10日(木)19:30~21:30
・下北沢の本屋B&Bさんにて。
・認定NPO法人ReBit代表理事である藥師実芳さんとの対談です。
・テーマは「まずは現実を知ることから」
・会場参加あり+オンラインあり。アーカイブ動画もあります。
・来店参加だと2,750円、オンラインだと1650円です。

 上記の通り、やや高額です。そのため参加してくださる方には申し訳ないのですが、薬師さんとはずっと一度お話しをしてみたいという思いがあり、わたし個人としてはいつになくエンジンがかかっています。刊行されたら薬師さんとぜひイベントをしたいと、出版前から集英社の編集さんにはお願いをしており、今回こうして実現しました。

 ReBitさんは2009年の設立。LGBTQに関する教育・啓発のみならず、キャリア支援や様々な調査の実施など、多岐にわたる活動をされています。例えば、今年の3月に公開されたこちらの調査報告「LGBTQ医療福祉調査2023」などは、時間の関係で『トランスジェンダー入門』には反映できなかったのですが(校正作業の最終版でした…)、非常に重要なデータがたくさん集まっています。

rebitlgbt.org

 今回のイベントは「まずは現実を知ることから」というテーマに設定しました。わざわざこのようなテーマを掲げているのは、現実を知りもしない人たちが、トランスジンダーについて誤った/誤解を招く/偏見に満ちた/差別的なことを言いふらす時代になっているからです。それも、ここ数年で急激に、です。
 もう、時計の針を戻すことはできません。だったら、改めて現実を知り、皆さんと一緒にトランスの人たちの状況を考えることから、始めるしかありません。だからこのイベントを企画しました。「まずは現実を知ることから」。
 『トランスジェンダー入門』には、多くのデータを引用しました。3章「差別」の章では、国内外のデータを、その簡単な解釈と共に提示しています。ReBitの薬師さんは、そのデータのなかに隠れている、LGBTQそしてトランスジェンダーの人たちの現実をよくご存じです。そして、ときに非常に厳しいそうした現実を生み出してしまうような、社会の構造についても、鋭い理解をお持ちです。今回の対談では、わたしと薬師さんで、そうした社会構造の偏りも含めて、存分に話していこうと思います。
 加えて、最近ReBitさんが達成したクラファンについても、当日は詳しくお伺いしたいと思っています。LGBTQであることで福祉を利用しづらい、LGBTQであることに加えて、精神障害や発達障害である/と共に生きていることで、困難の質が変わる。そうしたLGBTQそしてトランスジェンダーのコミュニティの現実と向き合い、状況を変えるための取り組みにReBitさんは従事しておられます。その活動を支える、現状認識や思いについても、当日はぜひ伺いたいです。

camp-fire.jp

 先日、代官山蔦屋書店に李琴峰さんをお迎えして、著者2人と鼎談をしたときは『トランスジェンダー入門』という書籍の出版そのものについての話がけっこうな比重を占めていました。今回はすこし違います。今回は、書籍そのものについての話ではなく、私たちが変えていきたいと思っている現実そのものの話をします。これからも、何件も『トランスジェンダー入門』関連のイベントが予定されていますが、薬師さんとの対談は、おそらく他のどこでもできないようなバッキバキのトランスの話ができると思っています。なぜなら、わたしと薬師さんだからです(その意味はご参加いただければすぐに分かります)。

 当日は、福祉・医療、教育、就労といった、生きていくうえで避けられない、そしてとても重要な各領域において、どのようにトランスの人々への排除が構造的に作用しているか、そしてそれがどのようなデータに現われているか、といったような話しをしようと思います。もちろん、ReBitの薬師さんですから、単に抽象的な話だけには終始しません。しかし私たちは、社会構造の話をすることをためらいません。変わらなければならない現実が、そこに確かにあるからです。

 なお、今回のイベントとは直接は関わらないのですが、本屋B&Bさんは、わたしにとって、そして『トランスジェンダー入門』という著作の成り立ちにとって、実は思い出深い場所でもあります。というのも、『トランスジェンダー入門』の共著者である周司あきらさんと知り合ったのは、このB&Bのイベントだったからです。昨年の2月、周司さんの『トランス男性による トランスジェンダー男性学』(大月書店)の刊行記念イベントが本屋B&Bさんで開催されることになり、書店員さんの取り計らいで、対談相手にわたしをお呼びいただきました。

bookandbeer.com

「ジェンダーアイデンティティが分かりません!」という(ふざけた/オマージュ込みの)テーマで、本当に楽しい時間を過ごしました。周司さんと初めて話したのが、このイベントの打ち合わせでした。その後、わたしの『トランスジェンダー問題』の翻訳にあたってもご助力をいただき、そのプロセスで「やっぱりこういうトランスの入門書が必要だよね」という流れで生まれたのが、『トランスジェンダー入門』でした。2月に初めて知り合ってから、8か月後には執筆が始まり、10か月後には原稿ができていました。B&Bのイベント担当さんには、私たちを出会わせてくださったことに感謝申し上げたいです。いただいたご縁がこうして新書になり、そしてまた、B&Bさんでイベントをすることができました。※今回のイベントは周司あきらさんは参加しません。

 最後に個人的な思い出話になってしまいました。皆さんと10日お会いできることを楽しみにしています。

『トランスジェンダー入門』関連情報(随時更新)

『トランスジェンダー入門』に関連する情報を以下にまとめています。

1.出版情報、2.イベント情報、3.書評等、 4.メディア出演 5.その他 

1.出版情報

・2023年7月14日。集英社新書として発売されました。
・7月20日重版(2刷)決定。7月27日重版(3刷)決定。8月14日重版(4刷)決定。1月12日重版(5刷)決定(➤帯が更新)。3月5日重版(6刷)決定。

・発売前に書いたものですが以下に内容紹介があります。


2.イベント情報

(1)代官山蔦屋書店【終了しました】
・7月28日。作家の李琴峰さんと著者2人による鼎談。
【イベント&オンライン配信(Zoom)】『トランスジェンダー入門』(集英社新書)刊行記念 李琴峰×周司あきら×高井ゆと里トークイベント | イベント | 代官山T-SITE | 蔦屋書店を中核とした生活提案型商業施設
・イベント予告時のブログ
『トランスジェンダー入門』刊行記念イベント:代官山蔦屋さん - ゆと里スペース
・イベントの記録レポート(周司さんが執筆)(2)本屋B&B【終了しました】
・8月10日。ReBit代表理事の藥師実芳さんと高井の対談。
藥師実芳×高井ゆと里「まずは現実を知ることから」『トランスジェンダー入門』(集英社)刊行記念 – 本屋 B&B
・イベント予告のブログ。
「まずは現実を知ることから」(B&B書店) - ゆと里スペース
・イベントレポート(周司あきらさん執筆)

(3)エトセトラブックス【終了しました】
・8月26日。周司あきら✕高井ゆと里✕松尾亜紀子。三者の鼎談。
・「フェミニズムがフェミニズムであるために」。
【イベント】2023/8/26 『トランスジェンダー入門』(集英社新書)刊行記念イベントのお知らせ | book | エトセトラブックス / フェミニズムにかかわる様々な本を届ける出版社
・イベント予告時のブログ。
フェミニズムがフェミニズムであるために(エトセトラブックス) - ゆと里スペース


(4)LOFT HEAVEN【終了しました】
・9月1日。高井ゆと里×吉田豪×武田砂鉄
・『トランスジェンダー入門』刊行記念~今この社会のジェンダー問題を考える~
『トランスジェンダー入門』刊行記念トークイベント – LOFT PROJECT SCHEDULE
・イベントレポート(周司あきらさん執筆)

(5)wezzy【終了しました】
・9月8日。能川元一さん、堀あきこさん、松岡宗嗣さん(3者報告)+高井
・「トランスヘイト言説を振り返る」
【販売終了】高井ゆと里×能川元一×堀あきこ×松岡宗嗣「トランスヘイト言説を振り返る」 - wezzy|ウェジー
・イベント予告時のブログ
トランスヘイト言説を振り返る(wezzy) - ゆと里スペース
・イベント発表部分の集約記事(周司あきらさん執筆)

webmedia.akashi.co.jp

・高井ゆと里の報告を文章化しました。

webmedia.akashi.co.jp・クロストーク部分の報告記事(周司あきらさん執筆)

webmedia.akashi.co.jp

(6)NHKカルチャー青山【終了しました】

・9月29日。清水晶子さんとの対談
・「フェミニズムとアイデンティティの政治」
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1277343.html
・予告ブログ
フェミニズムとアイデンティティの政治(NHKカルチャー青山) - ゆと里スペース
・イベントレポート(周司あきらさん執筆)

(7)梅田Lateral【終了しました】
・11月12日(日)。西田彩さんと高井の対談。
・「『トランスジェンダー入門』の向こうに」
『トランスジェンダー入門』の向こうに -
・イベント報告記事(周司あきらさん執筆)

(8)マルジナリア書店【終了しました】
・2024年3月8日(金)。田代美江子さん、松岡宗嗣さんとの鼎談。
・大月書店『Q&A:多様な性・トランスジェンダー・包括的性教育―バックラッシュに立ち向かう74問』との合同刊行記念イベント。
・「時を超えたバックラッシュ」。
・イベント報告記事(周司あきらさん執筆)

shinsho-plus.shueisha.co.jp

3.書評等 (著者で気づいたもの)

*東京新聞(2023.7.22)山崎ナオコーラさんの「今月の3冊」。
*「青春と読書」(2023年8月号)武田砂鉄さん「変わらなければいけないのは誰か」 
*乙女塾(2023.7.26掲載)みなみさん「『トランスジェンダー入門』を読んで」
*生活ニュース・コモンズnote(2023.7.27掲載)「知った瞬間、世界は変わる 『トランスジェンダー入門』を読んで」
*集英社新書プラス(2023.7.28掲載)江原由美子さん「「知っているつもり」の人こそ読んでほしい本」
*集英社新書プラス(2023.8.4掲載)桜庭一樹さん「立ち去るために質問するな」
*日本経済新聞書評(2023.8.12)リンクはこちら。
*朝日新聞読書欄(2023.8.19掲載)杉田俊介さん〔新書速報〕
*沖縄タイムス「大弦下弦」(2023.08.21)「「トランスジェンダー入門を読んだ後は」
*フェミ・ジャーナル「ふぇみん」(2023.8.5)特集「後退したLGBT理解増進法とトランスジェンダーのリアル」面にて書籍紹介。
*全国商工新聞(2023.8.21)書評欄。
*朝日新聞読書欄「売れてる本」(2023.8.26)三木那由他さん執筆
*好書好日 (上記「売れてる本」選評:オンライン全文公開)

*かなたいむ:Youtube(2023.8.26)「まだまだ暑い日々のLOOK BOOK!撮影の裏側はこんな感じです。」
*毎日新聞書評欄(2023.9.2)橋爪大三郎さん執筆「今週の本棚」
*読売新聞「新書」(2023.9.17)川口晴美さん短評
*週刊読書人(2023.9.22)森山至貴さん「誠実に読むことから始める」
*労基旬報【新刊紹介】(2023.10.13)
*現代性教育ジャーナル(2023.11.15)「今月のブックガイド」
*中日新聞書評欄(2023.11.26)藤井誠二さん「読書かいわい」

4.メディア出演等

*TBSラジオ【アシタノカレッジ】2023年8月10日出演。
➤アシタノカレッジ | TBSラジオ | 2023/08/10/木  22:00-23:30 https://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20230810222112
*東京新聞2023年8月10日夕刊➤トランスジェンダーの「入門書」が売れている デマが広がる中、著者2人が込めた思いとは:東京新聞 TOKYO Web
*TBSラジオ【荻上チキ・Session】2023年8月18日出演➤【音声配信】特集「トランスジェンダー入門~性別を変えるとは、どういうことなのか」高井ゆと里×荻上チキ×南部広美▼2023年8月18日 | トピックス | TBSラジオ FM90.5 + AM954~何かが始まる音がする~
*朝日新聞「ひと」欄:「トランスジェンダー入門を書いたひと」(高井ゆと里)
*SPUR オンライン(2023.9.28)「話題の『トランスジェンダー入門』の著者にインタビュー。トランスジェンダーと共にある社会を目指して」
*図書新聞(2023.12.16)(3619号)「差別を真に受けないために」(著者2人のロングインタビュー)

5.その他

*紀伊國屋じんぶん大賞2024にて3位を受賞しました!

*中央公論2024年新書大賞にて5位を受賞しました!

『トランスジェンダー入門』刊行記念イベント:代官山蔦屋さん

 『トランスジェンダー入門』が発売されてから約2週間が経ちました。その間、発売4日で重版が決まり、それから1週間ほどで重版(3刷)が決まりました。本当に多くの方に手に取っていただき、ありがとうございます。

 そんな書籍の、最初の刊行記念イベントが明日28日(金)に予定されています。著者である2人が作家の李琴峰さんをお迎えして、代官山蔦屋書店での鼎談になります。

store.tsite.jp

 李琴峰さんと知り合ったきっかけは、昨年わたしが刊行した『トランスジェンダー問題』に推薦文(帯文)を寄せていただいたことでした。ちょうど1年くらい前です。それから、色々な場所でご一緒することも増えました。今回もこうして『トランスジェンダー入門』のイベントでお会いすることになりましたが、書籍の出版を通して色々な方と繋がれるのは嬉しいものですね。

 先日、明日のイベントの打ち合わせがありました。めっちゃ楽しかったです。

 今回の『トランスジェンダー入門』については、周司あきらさんと書いていることもあり、「当事者が書いた本」のように言われることがあります。しかし、著者である私たち自身はその点にさほど意味を見いだしていません。詳しくは明日のイベントで話しますが、この新書に関しては、私たちは「誰かが書かなければならない本だった(から書いた)」という意識の方が強いです。(そのあたりの現状認識については、明日ばきばきにお話ししたいところです。わたしにも生活があり仕事がありますが、昨年から今年にかけて、トランス関係の出版にいくつも主体的に携わってきました。なぜ寿命を削るようなことをしているのか、ふだんあまり話す機会はないので、明日は語りたいだけ語らせてもらおうと思います)

 それに対して、日本語の小説家として、レズビアンが登場する、クィアが登場する、そしてトランスジェンダーが登場する優れた小説を書いてきた李琴峰さんは、私たちのそうした動機とは全く違った原動力で、小説を書いていることでしょう。実に当たり前ですね。

 もちろん、著者である私たち2人のあいだでも、想定する読者や、この本の「読まれ方」については違いがあります。打合せのときに周司さんに言われたのですが、わたしはこの本の出版を「矛」のように理解していますが、周司さんはそれを「盾」のように理解しています。言い得て妙だと思います。そして、それぞれが想定するこの本の想定読者も、実はけっこう違います。周司さんは、かつての自分に読ませたいという思いもあったようですが、わたしにはそうした動機はありません。

 打ち合わせでは他にも、クィア表象における「若さ」の問題や、クィア表象における「説明しすぎのむずかゆさ」問題、そして「トランスジェンダーの本が今こんなにも売れてしまう」問題(?)も話題に上がりました。いま、私たちが手にできるトランス関連の書籍は、ほんの3年ほど前とは大きく変わっています。この変化を、積極的な転化に変えていけるか。打ち合わせで李琴峰さんに言われたことが、忘れられません。

 ということで、明日は私たち3人の執筆活動のモチベーションとか、エネルギーとか、世の中でどんな風に本が読まれて欲しいかとか、そういった話から、クィア表象一般についての話など、しようと思います。打ち合わせも一瞬で90分くらい経ってしまいました。とても楽しみです。

 なおイベントの終了後は、会場が閉まるまで時間がすこしあるようですので、その場にいらっしゃる方と少しお話ししたり挨拶したりする時間になります。イベントに絡めた言い方をすると、李琴峰さんとサイン会的な時間にもなります。代官山蔦屋さん、2階のラウンジは本当にきれいなところなので、皆さんとお会いできることを楽しみにしています。2階を貸し切りにできそう、ということで、来場参加もまだチケットがあるはずです(27日22時時点)。

 最初のイベントですので、オンラインの方も含め、皆さんとお祝い的にイベントを作っていけたらいいかなと思います。それでは。