石と歴史のエクスタシー 繖山(432m)縦走 後編
2019年3月9日(土) 快晴
雨宮龍神社(瓜生山)を後にし、繖山五嶺主峰の観音寺山(432m)に向かう(9:34)
ここまで大小10以上のピークを越えてきたが、ここから先は少し様子が異なる
繖山(きぬがさやま)
ここまではせいぜい標高差50mほどのアップダウンだったが、ここから先はガバっと80mほど下り、200m以上登り返していく。しかも実に恐ろしい名前が待ち受けて…
せっかく稼いだ標高を無にするように下っていく(涙)
この一帯には6月頃にササユリが自生するようだ。
こちらにもボランティアの方が運搬された丸太階段が設置されている。
キレイな道をありがとうございます。
きぬがさ山「里山に親しむ会」が整備された展望台。
旧五個荘町(東近江市)側が望め、視線の先には鈴鹿山脈の山並み。
霊仙山(1094m)
肉眼ではほとんど残雪が確認できない。
伊吹山(1377m)
近江最高峰の伊吹山も、例年から比べると雪解けがかなり早い
9:43 地獄越(じごくごえ)(標高約218m)
恐ろしい名前の正体はズバリここ(笑)
縦走する場合は、激下り、激登りするのでこう呼ばれてもおかしくないが、下った先の集落との標高差は僅か100m程度で、至って普通の峠。
1568(永禄11)年、天下布武を掲げる織田信長が、足利義昭を奉じて上洛を開始するが、途上には南近江の戦国大名六角氏の観音寺城(繖山)が立ちはだかり、観音寺城の戦いが勃発。
戦いは僅か1日で雌雄を決し、信長勢が圧勝。その際逃げ惑う六角勢の兵士たちにより、この一帯が地獄絵図になったことから、こう呼ばれるようになったと謂われる。
峠には兵士の霊を弔うためなのか、地蔵菩薩が安置されている。
地蔵菩薩は弥勒菩薩が出現するまで間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に現れて衆生を救うとされる。
5つの道(瓜生山、石馬寺、繖公園、観音正寺、須田)と空が合わさる辻でもあり、
まさしく”六道の辻”。
さしずめ下ってきた道が”修羅道”で、これから進む観音正寺への道が”地獄道”なのかも(笑)
”おん かぁかぁか びさんまえい そわか”
真言を3回唱えて、地獄道※に突入(9:45)
※筆者が勝手に名付けただけで、実際は異なります。
次第に石垣が目立つようになってきた。
観音寺城の砦の1つだったのだろうか?
9:54 №249鉄塔(標高約265m)
富山市笹津から豊中市小曽根間を結ぶ東海幹線(関西電力)で、運用開始は1923(大正12)年。
この一帯は大きな木々が少なく、眺望が開けている。
実は2001(平成13)年5月19日に、繖山で大規模な山火事が発生。
雨宮龍神社の加護の甲斐なく、消火困難な山中ということもあり、完全消火まで3日間を費やし、繖山山頂から北西斜面にかけて約27ha(東京ドーム約6個分)の広大な森林が焼失。
その結果、皮肉にも素晴らしい眺望が見られることになった。
現在は精力的な植樹活動により、徐々に森が甦りつつある。
10:02 須田不動の滝コース合流点(標高約290m)
繖山山頂までは残り0.95km。
ようやく失った瓜生山(雨宮龍神社)の標高を回復。
でも繖山山頂まではまだアップダウンがあり、地獄道が続きそう…
近江を手中にした信長公は、1576(天正4)年に安土山に築城を開始。
安土に築城したのは岐阜城より京に近く、繖山東麓を東山道(※後の中山道)(現R8)が通り、北には北陸に通じる北国街道(現R365)、東には伊勢に通じる八風街道(現R421)。さらに当時は麓まで琵琶湖(大中の湖)が迫り水運の便も良く、交通の要衝だったからとされる。
伊吹山や霊仙山には残雪がないのに、比良岳(1051m)はなぜ残っているのだろう?
アセビ(馬酔木)
ツツジ科アセビ属の常緑低木。有毒で、漢字名は馬が葉を食べると、酔っぱらったようにふらつくことから名付けられた。
アセビを食べていなくても、よたよたふらついています(笑)
騙しピークがいくつもあり、道が続く度に意気消沈。
朝からドーピングも含め何も食べていないので、体力も底をつきかけてきた。
今度こそ山頂だよね?
10:38 黎明の里(川並)コース合流点(標高約390m)
よっし~は1000ptのダメージを受けた Orz
でも山頂(三角点)まで80mという表示に、体力が僅かに回復(笑)
10:44 繖山(観音寺山)山頂(三角点)(標高432.57m)
地獄越から59分、猪子山からは2時間21分(休憩含)。標準CTは不明だが、2時間台のレポもそこそこあるのでまずまずなのかな?
登頂記念の三角点(二等・繖山)タッチ。
北腰越からの合流点でもあり、2人いたハイカーもそちらから登ってこられた。
ここで昼食にしようかとも思ったが、小休止した後、観音正寺を目指す(11:01)
休憩中、ハイカーの1人が発した言葉が気になるのだが…
「そっちに行くの? 地元のハイカーは近寄らないんだけど…」
しばらく進むと分岐に差し掛かり、道が二手に分かれる(11:06)
左右どちらに進んでも観音正寺に至るようだが、右が0.35kmで左が0.75km。
どちらにしようか迷ったが、距離が短い右側をチョイス。
距離が短いだけでなく、左側には何か禍々しい妖気を感じたのもあるのだが…
この一帯が繖山の最高地点(標高約440m)のようだ。
最高地点なので、当然ガバっと下っていく。
少し道が荒れているのような気がするが…
11:15 観音正寺・観音寺城本丸跡分岐(標高約377m)
左に行くと観音正寺(0.18km)、右に行くと観音寺城本丸跡(0.15km)に至り、まずは観音正寺に寄るべく左に進む。
程なく観音寺城の曲輪の1つでもあった観音正寺の見事な石垣が見えてきた。
石垣を撮影していると、「観音正寺に向かわれるんですか?」と背後から声がかかる。
よ:「あっ、はい、そのつもりなんですが…」
1人の男性がおり、ハイカーの装備でなく行楽客のようだ。
男:「観音正寺側から来られたんですか?」
よ:「いえ、その先の分岐から降りてきました」
男:「この先に進むと門があり、そこから先は有料になりますよ!」
観音正寺の参拝が有料だということは、山頂で話したハイカーからも聞いていたが、通過するだけでも料金を徴収されるらしい。
男性は古城巡りされているようで、観音寺城本丸跡に行くために観音正寺境内を通過しようとしたところ、入山志納料(500円)を請求され、参拝せず通過するだけと食い下がったが徴収されたとのこと。
しかも車で観音正寺林道を利用しているので、通行料600円も支払っているそうだ。
アブナイ、アブナイ、先ほど感じた禍々しい妖気はコレだったんだ!(笑)
これがその関所の入口。
この先に2体の仁王像があるらしく、関所破りしないよう鋭い眼光で睨んでいるそうだ(笑)
参拝する気が失せて、チラッと見える本堂伽藍を拝見して引き返す。
平成5(1993)年の火災で本堂が焼失し、現在の本堂は平成16(2004)年に再建された。
境内参拝や通過だけでなく、繖山登山のハイカーにも志納を求める看板。
かつて信長公が楽市楽座を最初に行ったと習ったが、実は安土築城の約30年も前に、六角氏が城下に布告したことが判明している。
経済の発展のためには人、モノ、情報が障害なく自由に集まることが重要で、不要な関所を廃し、税を免除(減免)し、既得権益をなくすなどがその政策であった。
そんな先進的な制度が始まった六角氏の本拠地で新たな関所を創設したのは、本堂再建費用を回収したいがために、環境整備という免罪符的な旗印を振りかざし、自己の収益を増やそうとする意図がありありと感じられ、”イヤなら通るな!”と言わんばかりに見えるのは私だけ?
このままだと、「観音正寺側は有料→ハイカーは敬遠→登山道が荒れる→より敬遠」といった負の連鎖が一段と加速するのではないかと思う。
事実山頂から分岐に至る道は、北尾根の道と比べると荒廃が進んでいるように感じた。
奇しくも観音正寺がある旧五個荘町は近江商人発祥の地とされ、彼らが実践した”三方よし”(売り手よし、買い手よし、世間よし)の精神はいったいどこにいったのだろう…
ブツブツと毒を吐きながら分岐を直進し、観音寺本丸跡に向かう(11:28)
11:32 観音寺城本丸跡(標高約405m)
守護大名六角氏の居城跡で、国の史跡や日本100名城にも指定されている。
六角氏は”近江源氏”とも呼ばれる宇多源氏佐々木氏の嫡流で、佐々木泰綱(やすつな)の屋敷が京都六角東洞院にあったことから六角氏を名乗るようになった。
同族には京極氏や尼子氏などがおり、山中幸盛(鹿介)、佐々成政なども佐々木氏支流とされる。
繖山の南斜面に1000以上の曲輪(郭)を持つ戦国最大級の山城で、特徴は総石垣造。
平井丸、池田丸といった家臣に由来する曲輪名が多く、家臣団の屋敷が配置されていた。
安土城以前の城郭で総石垣造は極めて稀で、ここでも時代の最先端をいっていた。
近江には古くから穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれた高い技術を持った石工衆がおり、信長公は地の利だけでなく、優れた築城技術や有能な六角家臣団(蒲生氏、三雲氏、後藤氏など)やその統治手法、先進的な経済政策なども吸収すべく、安土の地を選んだのかも。
六角義賢(承禎)は山全体が要塞化された観音寺城を中心に18にも及ぶ支城で、侵攻する信長勢を挟撃しようと目論むが、信長勢は軍勢を観音寺城と支城の和田山城、箕作城の三方面に分けて攻撃。和田山城と箕作城は1日も持たずに落城し、目論見が外れた義賢は夜陰に乗じて甲賀に逃れ、観音寺城もあっさり落城。これにより信長公は上洛を果たし、天下布武への道を突き進むことになる。
台風の影響なのか、本丸には多数の倒木があり、無残な姿。
環境維持のため、敢えて放置してあるんですよね。いかんいかん、また毒づいてしまった(笑)
昼食にしようかと思ったが、ベンチ等はなく、火気厳禁の恐れもあるのでパス。
虎口脇にあった道標(十丁)
岐阜城では本丸が基点(一丁)だったが、これは麓の桑実寺を起点に設置されたものなのだろう。
この先は目指す桑実寺の山域となり、別途入山料(300円)が必要となる。
吝嗇家の私は分岐から繖山山頂に戻り、無料の西尾根から北腰越に降りようかとも考えたが、登り返すのがイヤだったので直進。桑実寺には寄ってみたかったし…
道理であの方が、「地元のハイカーは近寄らないんだけど…」と言った訳だ(笑)
土地所有者や管轄行政(東近江市・近江八幡市)が違うとはいえ、同じ山塊で個別に入山料を徴収するシステムはどうも納得がいかない。安土山(安土城址)も有料(700円)なので、これらを全て歩く場合、合計1,500円も払うことになる。
ちなみに安土城址の場合は、近江八幡市が2011年に駐車場の有料化(510円)に踏み切って批判を浴び、無料化する代わりに2016年に1箇所しかないトイレを有料化(200円)するという暴挙に出る。しかしこれまた大きな批判を浴びて、2018年に無料化するというお粗末な事態を行政自らが引き起こしている。
地元では皮肉を込めて、”安土城の変”と呼ばれるそうだ(笑)
もっともこれらは近年の台風被害などが関係しており、私有地や財政難を理由に行政が復旧を援助しないので、それぞれ独自に財源確保しなければならない事情があるからだと思われる。
ただし山は繋がっており、個別の関所ごとに徴収されてはハイカーはたまったもんじゃないので、各自治体、各所有者に加え、繖山登山者も含めた横断的な連絡協議会を作って入山料等を一本化し、もう少しハイカーの負担を減らすべきなのではないだろうか?
もう一度”三方よし”の精神を思い出して欲しいものだ。
また低山ハイクの場合、財布を持たずに歩くハイカーも少なくないので、全登山口や山頂も含めもっと周知するべきだと思う。
入山料は取るけど整備はしないようで、こちら側は六道の餓鬼道なのかも。
11:51 道標(七丁)
桑実寺の裏門に差し掛かり、門を潜ると突然大きなチャイム音が鳴る(12:04)
人感センサーが設置されており、通過するとチャイムが鳴る仕組み。
六道に迷い、道を踏み外そう(=関所破り)とする衆生を、チャイムの音で”人道”に踏み留まらせるという高尚な考えなのかもしれないが、確実に徴収できるように目を光らせるのが目的のようで、性悪説的な発想なのが残念。
開門は9~17時(冬期は16時30分)で、時間外は山門が閉鎖されるのでご注意を。
下った先の関所(寺務所)で入山(拝観)料300円を志納する。
12:06 桑實(実)寺(くわのみでら)(標高約225m)
白鳳6年※に天智天皇の勅願で、中臣(藤原)鎌足の長男(次男が藤原不比等)である定恵(じょうえ)上人が創建。寺名は定恵が唐から持ち帰った桑の実をこの地で栽培し、日本で初めて養蚕を始めたことに由来し、山号(繖山)にもなったと謂われる。
※白鳳は逸(私)年号で、正史年号だと天智天皇5(666)年か、天武天皇6(677)年に該当。
中世から幾多の戦火に見舞われてきた繖山の中で、幸運にも火災に遭っておらず、
入母屋造檜皮葺の本堂は南北朝期に建てられたもので、国の重要文化財に指定。
本尊は薬師如来像だが、秘仏で非公開(30年毎)で、レプリカの前立本尊が安置。
天智天皇の第4皇女の阿閉皇女(あべのみこ=のちの元明天皇)の病気回復を祈祷させたところ、琵琶湖より薬師如来が降臨し、皇女が平癒したという言い伝えに基づく。
脇を薬師三尊の日光・月光菩薩像に、不動明王像、十二神将像などが守護する。
大日如来坐像
文明15(1483)年に六角(佐々木)高頼(義賢の祖父)が三重塔(現在は滅失)建立した際に制作。
信長公の時代にも篤い信仰を集めており、天正9(1581)年に信長公が竹生島(ちくぶじま)参詣で安土城を留守した際、女中たちが”鬼の居ぬ間の洗濯”、つまり”サボって”この桑実寺に参詣。
女中たちは信長公の帰城はてっきり翌日だと思っていたが、信長公はその日のうちに帰還してしまい、女中たちの怠慢ぶりに大激怒。女中たちと庇った僧侶を処罰(死罪)してしまったとされる(信長公記)
ここで昼食にするつもりだったが、飲食禁止、火気厳禁だったのでパス(12:27)
朝からまだ何も食べていないが、昨日がグルメ三昧だったので、ちょうどいいのかも(笑)
地蔵堂
明和6(1769)年に建立。縁結・子安地蔵尊として善男善女の祈願が多いとされる。
往時は2院16坊の僧坊があったとされる。
1532(天文)元年には、室町幕府第12代将軍足利義晴公が細川氏の内乱で混乱する都を避け、約3年の間近江に避難。滞在した桑実寺が仮幕府となり、近江幕府とも呼ばれる。
義昭公も観音寺城の戦いの後、父義晴に倣って桑実寺に遷座し、入洛して15代将軍となる。
現在も残る野面積みの石垣。
安土城築城の際に石垣普請用として近郷から多くの石が供出され、中には墓石や石仏すらも徴用されたのが分かっているので、もしかするとこの石垣は後年のものなのかも。
12:36 桑実寺山門(標高約135m)
観音寺城本丸跡から1時間。
ここにもセンサー式のチャイムがあった。
300m以上も離れたところにもあるのは、途中に西尾根に至る抜け道があるからなのかも。もう何も言うまい…
約1.5km先の駐車場に戻るべく、歴史公園「近江風土記の丘」方面へ。
ここには10年以上前に訪れていて、時間もないので今回見学はパス。
安土城 天主信長の館
安土城天守(主)閣の最上部(5・6階)が原寸大で復元されている。
安土城 天主信長の館
博物館イメージキャラクターのまめのぶくんが案内してくれる(笑)
天下人の信長公を”くん”呼ばわりし、挙句に”そら豆”と合体させるとは、何とも不謹慎な… ”キツくてカワイイ妹(=お市の方)”もいるらしい(笑)
滋賀県立安土城考古博物館
観音寺城や安土城などからの出土品や近世城郭史研究や安土の歴史・風土が展示されている。
滋賀県立安土城考古博物館
振り返り、縦走してきた繖山を望む。
次に登る場合は絶対、北腰越からだな(笑)
13:09 安土城址無料駐車場(標高約90m)
安土城址にも登るつもりだったが、結局今回はパス。
チョッと?辛口なレポになったが、天気に恵まれ、磐座の巨石信仰と戦国歴史ロマンに触れ合えたハイクだった。歩くコースによっては入山料や電車代がかかるので、お財布は忘れずに(笑)
今回のルート図 (クリックすると拡大します)
やっぱり、山っていいね!
繖山(432m)
標高差342m
登り 3時間13分、下り 1時間35分、TOTAL 5時間5分
出会った人 30人ぐらい 出会った動物 なし
2019年:9座目
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雨宮龍神社(瓜生山)を後にし、繖山五嶺主峰の観音寺山(432m)に向かう(9:34)
ここまで大小10以上のピークを越えてきたが、ここから先は少し様子が異なる
繖山(きぬがさやま)
ここまではせいぜい標高差50mほどのアップダウンだったが、ここから先はガバっと80mほど下り、200m以上登り返していく。しかも実に恐ろしい名前が待ち受けて…
せっかく稼いだ標高を無にするように下っていく(涙)
この一帯には6月頃にササユリが自生するようだ。
こちらにもボランティアの方が運搬された丸太階段が設置されている。
キレイな道をありがとうございます。
きぬがさ山「里山に親しむ会」が整備された展望台。
旧五個荘町(東近江市)側が望め、視線の先には鈴鹿山脈の山並み。
霊仙山(1094m)
肉眼ではほとんど残雪が確認できない。
伊吹山(1377m)
近江最高峰の伊吹山も、例年から比べると雪解けがかなり早い
9:43 地獄越(じごくごえ)(標高約218m)
恐ろしい名前の正体はズバリここ(笑)
縦走する場合は、激下り、激登りするのでこう呼ばれてもおかしくないが、下った先の集落との標高差は僅か100m程度で、至って普通の峠。
1568(永禄11)年、天下布武を掲げる織田信長が、足利義昭を奉じて上洛を開始するが、途上には南近江の戦国大名六角氏の観音寺城(繖山)が立ちはだかり、観音寺城の戦いが勃発。
戦いは僅か1日で雌雄を決し、信長勢が圧勝。その際逃げ惑う六角勢の兵士たちにより、この一帯が地獄絵図になったことから、こう呼ばれるようになったと謂われる。
峠には兵士の霊を弔うためなのか、地蔵菩薩が安置されている。
地蔵菩薩は弥勒菩薩が出現するまで間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に現れて衆生を救うとされる。
5つの道(瓜生山、石馬寺、繖公園、観音正寺、須田)と空が合わさる辻でもあり、
まさしく”六道の辻”。
さしずめ下ってきた道が”修羅道”で、これから進む観音正寺への道が”地獄道”なのかも(笑)
”おん かぁかぁか びさんまえい そわか”
真言を3回唱えて、地獄道※に突入(9:45)
※筆者が勝手に名付けただけで、実際は異なります。
次第に石垣が目立つようになってきた。
観音寺城の砦の1つだったのだろうか?
9:54 №249鉄塔(標高約265m)
富山市笹津から豊中市小曽根間を結ぶ東海幹線(関西電力)で、運用開始は1923(大正12)年。
この一帯は大きな木々が少なく、眺望が開けている。
実は2001(平成13)年5月19日に、繖山で大規模な山火事が発生。
雨宮龍神社の加護の甲斐なく、消火困難な山中ということもあり、完全消火まで3日間を費やし、繖山山頂から北西斜面にかけて約27ha(東京ドーム約6個分)の広大な森林が焼失。
その結果、皮肉にも素晴らしい眺望が見られることになった。
現在は精力的な植樹活動により、徐々に森が甦りつつある。
10:02 須田不動の滝コース合流点(標高約290m)
繖山山頂までは残り0.95km。
ようやく失った瓜生山(雨宮龍神社)の標高を回復。
でも繖山山頂まではまだアップダウンがあり、地獄道が続きそう…
近江を手中にした信長公は、1576(天正4)年に安土山に築城を開始。
安土に築城したのは岐阜城より京に近く、繖山東麓を東山道(※後の中山道)(現R8)が通り、北には北陸に通じる北国街道(現R365)、東には伊勢に通じる八風街道(現R421)。さらに当時は麓まで琵琶湖(大中の湖)が迫り水運の便も良く、交通の要衝だったからとされる。
伊吹山や霊仙山には残雪がないのに、比良岳(1051m)はなぜ残っているのだろう?
アセビ(馬酔木)
ツツジ科アセビ属の常緑低木。有毒で、漢字名は馬が葉を食べると、酔っぱらったようにふらつくことから名付けられた。
アセビを食べていなくても、よたよたふらついています(笑)
騙しピークがいくつもあり、道が続く度に意気消沈。
朝からドーピングも含め何も食べていないので、体力も底をつきかけてきた。
今度こそ山頂だよね?
10:38 黎明の里(川並)コース合流点(標高約390m)
よっし~は1000ptのダメージを受けた Orz
でも山頂(三角点)まで80mという表示に、体力が僅かに回復(笑)
10:44 繖山(観音寺山)山頂(三角点)(標高432.57m)
地獄越から59分、猪子山からは2時間21分(休憩含)。標準CTは不明だが、2時間台のレポもそこそこあるのでまずまずなのかな?
登頂記念の三角点(二等・繖山)タッチ。
北腰越からの合流点でもあり、2人いたハイカーもそちらから登ってこられた。
ここで昼食にしようかとも思ったが、小休止した後、観音正寺を目指す(11:01)
休憩中、ハイカーの1人が発した言葉が気になるのだが…
「そっちに行くの? 地元のハイカーは近寄らないんだけど…」
しばらく進むと分岐に差し掛かり、道が二手に分かれる(11:06)
左右どちらに進んでも観音正寺に至るようだが、右が0.35kmで左が0.75km。
どちらにしようか迷ったが、距離が短い右側をチョイス。
距離が短いだけでなく、左側には何か禍々しい妖気を感じたのもあるのだが…
この一帯が繖山の最高地点(標高約440m)のようだ。
最高地点なので、当然ガバっと下っていく。
少し道が荒れているのような気がするが…
11:15 観音正寺・観音寺城本丸跡分岐(標高約377m)
左に行くと観音正寺(0.18km)、右に行くと観音寺城本丸跡(0.15km)に至り、まずは観音正寺に寄るべく左に進む。
程なく観音寺城の曲輪の1つでもあった観音正寺の見事な石垣が見えてきた。
石垣を撮影していると、「観音正寺に向かわれるんですか?」と背後から声がかかる。
よ:「あっ、はい、そのつもりなんですが…」
1人の男性がおり、ハイカーの装備でなく行楽客のようだ。
男:「観音正寺側から来られたんですか?」
よ:「いえ、その先の分岐から降りてきました」
男:「この先に進むと門があり、そこから先は有料になりますよ!」
観音正寺の参拝が有料だということは、山頂で話したハイカーからも聞いていたが、通過するだけでも料金を徴収されるらしい。
男性は古城巡りされているようで、観音寺城本丸跡に行くために観音正寺境内を通過しようとしたところ、入山志納料(500円)を請求され、参拝せず通過するだけと食い下がったが徴収されたとのこと。
しかも車で観音正寺林道を利用しているので、通行料600円も支払っているそうだ。
アブナイ、アブナイ、先ほど感じた禍々しい妖気はコレだったんだ!(笑)
これがその関所の入口。
この先に2体の仁王像があるらしく、関所破りしないよう鋭い眼光で睨んでいるそうだ(笑)
参拝する気が失せて、チラッと見える本堂伽藍を拝見して引き返す。
平成5(1993)年の火災で本堂が焼失し、現在の本堂は平成16(2004)年に再建された。
境内参拝や通過だけでなく、繖山登山のハイカーにも志納を求める看板。
かつて信長公が楽市楽座を最初に行ったと習ったが、実は安土築城の約30年も前に、六角氏が城下に布告したことが判明している。
経済の発展のためには人、モノ、情報が障害なく自由に集まることが重要で、不要な関所を廃し、税を免除(減免)し、既得権益をなくすなどがその政策であった。
そんな先進的な制度が始まった六角氏の本拠地で新たな関所を創設したのは、本堂再建費用を回収したいがために、環境整備という免罪符的な旗印を振りかざし、自己の収益を増やそうとする意図がありありと感じられ、”イヤなら通るな!”と言わんばかりに見えるのは私だけ?
このままだと、「観音正寺側は有料→ハイカーは敬遠→登山道が荒れる→より敬遠」といった負の連鎖が一段と加速するのではないかと思う。
事実山頂から分岐に至る道は、北尾根の道と比べると荒廃が進んでいるように感じた。
奇しくも観音正寺がある旧五個荘町は近江商人発祥の地とされ、彼らが実践した”三方よし”(売り手よし、買い手よし、世間よし)の精神はいったいどこにいったのだろう…
ブツブツと毒を吐きながら分岐を直進し、観音寺本丸跡に向かう(11:28)
11:32 観音寺城本丸跡(標高約405m)
守護大名六角氏の居城跡で、国の史跡や日本100名城にも指定されている。
六角氏は”近江源氏”とも呼ばれる宇多源氏佐々木氏の嫡流で、佐々木泰綱(やすつな)の屋敷が京都六角東洞院にあったことから六角氏を名乗るようになった。
同族には京極氏や尼子氏などがおり、山中幸盛(鹿介)、佐々成政なども佐々木氏支流とされる。
繖山の南斜面に1000以上の曲輪(郭)を持つ戦国最大級の山城で、特徴は総石垣造。
平井丸、池田丸といった家臣に由来する曲輪名が多く、家臣団の屋敷が配置されていた。
安土城以前の城郭で総石垣造は極めて稀で、ここでも時代の最先端をいっていた。
近江には古くから穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれた高い技術を持った石工衆がおり、信長公は地の利だけでなく、優れた築城技術や有能な六角家臣団(蒲生氏、三雲氏、後藤氏など)やその統治手法、先進的な経済政策なども吸収すべく、安土の地を選んだのかも。
六角義賢(承禎)は山全体が要塞化された観音寺城を中心に18にも及ぶ支城で、侵攻する信長勢を挟撃しようと目論むが、信長勢は軍勢を観音寺城と支城の和田山城、箕作城の三方面に分けて攻撃。和田山城と箕作城は1日も持たずに落城し、目論見が外れた義賢は夜陰に乗じて甲賀に逃れ、観音寺城もあっさり落城。これにより信長公は上洛を果たし、天下布武への道を突き進むことになる。
台風の影響なのか、本丸には多数の倒木があり、無残な姿。
環境維持のため、敢えて放置してあるんですよね。いかんいかん、また毒づいてしまった(笑)
昼食にしようかと思ったが、ベンチ等はなく、火気厳禁の恐れもあるのでパス。
虎口脇にあった道標(十丁)
岐阜城では本丸が基点(一丁)だったが、これは麓の桑実寺を起点に設置されたものなのだろう。
この先は目指す桑実寺の山域となり、別途入山料(300円)が必要となる。
吝嗇家の私は分岐から繖山山頂に戻り、無料の西尾根から北腰越に降りようかとも考えたが、登り返すのがイヤだったので直進。桑実寺には寄ってみたかったし…
道理であの方が、「地元のハイカーは近寄らないんだけど…」と言った訳だ(笑)
土地所有者や管轄行政(東近江市・近江八幡市)が違うとはいえ、同じ山塊で個別に入山料を徴収するシステムはどうも納得がいかない。安土山(安土城址)も有料(700円)なので、これらを全て歩く場合、合計1,500円も払うことになる。
ちなみに安土城址の場合は、近江八幡市が2011年に駐車場の有料化(510円)に踏み切って批判を浴び、無料化する代わりに2016年に1箇所しかないトイレを有料化(200円)するという暴挙に出る。しかしこれまた大きな批判を浴びて、2018年に無料化するというお粗末な事態を行政自らが引き起こしている。
地元では皮肉を込めて、”安土城の変”と呼ばれるそうだ(笑)
もっともこれらは近年の台風被害などが関係しており、私有地や財政難を理由に行政が復旧を援助しないので、それぞれ独自に財源確保しなければならない事情があるからだと思われる。
ただし山は繋がっており、個別の関所ごとに徴収されてはハイカーはたまったもんじゃないので、各自治体、各所有者に加え、繖山登山者も含めた横断的な連絡協議会を作って入山料等を一本化し、もう少しハイカーの負担を減らすべきなのではないだろうか?
もう一度”三方よし”の精神を思い出して欲しいものだ。
また低山ハイクの場合、財布を持たずに歩くハイカーも少なくないので、全登山口や山頂も含めもっと周知するべきだと思う。
入山料は取るけど整備はしないようで、こちら側は六道の餓鬼道なのかも。
11:51 道標(七丁)
桑実寺の裏門に差し掛かり、門を潜ると突然大きなチャイム音が鳴る(12:04)
人感センサーが設置されており、通過するとチャイムが鳴る仕組み。
六道に迷い、道を踏み外そう(=関所破り)とする衆生を、チャイムの音で”人道”に踏み留まらせるという高尚な考えなのかもしれないが、確実に徴収できるように目を光らせるのが目的のようで、性悪説的な発想なのが残念。
開門は9~17時(冬期は16時30分)で、時間外は山門が閉鎖されるのでご注意を。
下った先の関所(寺務所)で入山(拝観)料300円を志納する。
12:06 桑實(実)寺(くわのみでら)(標高約225m)
白鳳6年※に天智天皇の勅願で、中臣(藤原)鎌足の長男(次男が藤原不比等)である定恵(じょうえ)上人が創建。寺名は定恵が唐から持ち帰った桑の実をこの地で栽培し、日本で初めて養蚕を始めたことに由来し、山号(繖山)にもなったと謂われる。
※白鳳は逸(私)年号で、正史年号だと天智天皇5(666)年か、天武天皇6(677)年に該当。
中世から幾多の戦火に見舞われてきた繖山の中で、幸運にも火災に遭っておらず、
入母屋造檜皮葺の本堂は南北朝期に建てられたもので、国の重要文化財に指定。
本尊は薬師如来像だが、秘仏で非公開(30年毎)で、レプリカの前立本尊が安置。
天智天皇の第4皇女の阿閉皇女(あべのみこ=のちの元明天皇)の病気回復を祈祷させたところ、琵琶湖より薬師如来が降臨し、皇女が平癒したという言い伝えに基づく。
脇を薬師三尊の日光・月光菩薩像に、不動明王像、十二神将像などが守護する。
大日如来坐像
文明15(1483)年に六角(佐々木)高頼(義賢の祖父)が三重塔(現在は滅失)建立した際に制作。
信長公の時代にも篤い信仰を集めており、天正9(1581)年に信長公が竹生島(ちくぶじま)参詣で安土城を留守した際、女中たちが”鬼の居ぬ間の洗濯”、つまり”サボって”この桑実寺に参詣。
女中たちは信長公の帰城はてっきり翌日だと思っていたが、信長公はその日のうちに帰還してしまい、女中たちの怠慢ぶりに大激怒。女中たちと庇った僧侶を処罰(死罪)してしまったとされる(信長公記)
ここで昼食にするつもりだったが、飲食禁止、火気厳禁だったのでパス(12:27)
朝からまだ何も食べていないが、昨日がグルメ三昧だったので、ちょうどいいのかも(笑)
地蔵堂
明和6(1769)年に建立。縁結・子安地蔵尊として善男善女の祈願が多いとされる。
往時は2院16坊の僧坊があったとされる。
1532(天文)元年には、室町幕府第12代将軍足利義晴公が細川氏の内乱で混乱する都を避け、約3年の間近江に避難。滞在した桑実寺が仮幕府となり、近江幕府とも呼ばれる。
義昭公も観音寺城の戦いの後、父義晴に倣って桑実寺に遷座し、入洛して15代将軍となる。
現在も残る野面積みの石垣。
安土城築城の際に石垣普請用として近郷から多くの石が供出され、中には墓石や石仏すらも徴用されたのが分かっているので、もしかするとこの石垣は後年のものなのかも。
12:36 桑実寺山門(標高約135m)
観音寺城本丸跡から1時間。
ここにもセンサー式のチャイムがあった。
300m以上も離れたところにもあるのは、途中に西尾根に至る抜け道があるからなのかも。もう何も言うまい…
約1.5km先の駐車場に戻るべく、歴史公園「近江風土記の丘」方面へ。
ここには10年以上前に訪れていて、時間もないので今回見学はパス。
安土城 天主信長の館
安土城天守(主)閣の最上部(5・6階)が原寸大で復元されている。
安土城 天主信長の館
博物館イメージキャラクターのまめのぶくんが案内してくれる(笑)
天下人の信長公を”くん”呼ばわりし、挙句に”そら豆”と合体させるとは、何とも不謹慎な… ”キツくてカワイイ妹(=お市の方)”もいるらしい(笑)
滋賀県立安土城考古博物館
観音寺城や安土城などからの出土品や近世城郭史研究や安土の歴史・風土が展示されている。
滋賀県立安土城考古博物館
振り返り、縦走してきた繖山を望む。
次に登る場合は絶対、北腰越からだな(笑)
13:09 安土城址無料駐車場(標高約90m)
安土城址にも登るつもりだったが、結局今回はパス。
チョッと?辛口なレポになったが、天気に恵まれ、磐座の巨石信仰と戦国歴史ロマンに触れ合えたハイクだった。歩くコースによっては入山料や電車代がかかるので、お財布は忘れずに(笑)
今回のルート図 (クリックすると拡大します)
やっぱり、山っていいね!
繖山(432m)
標高差342m
登り 3時間13分、下り 1時間35分、TOTAL 5時間5分
出会った人 30人ぐらい 出会った動物 なし
2019年:9座目
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