奇跡の通訳 耳と口の味付け

子供のころはいつも食べていた(うまい棒・・)ものが大人になってはめったに口にしないものが言葉にもあったりします。


年を経た分、単体のものから食べ合わせ・素材を組み合わせることを知って幅が増えるようになったとしても

肝心なのは調味料だったりします。そこにはたとえ気味悪がられても譲れない部分も。

ほとんどの場合は受け入れられるギリギリの線までにはいたりませんが、たまぁに伝説を体験する・見てしまうことも一回くらいは。



ネットや本など目を通して入ってくる言葉は通常においては頭に常駐している通訳もほぼ冷静に言葉を伝えてくれます。

どんなものが出てくるかをあらかじめ自分のが選んだ上での事なので、落ち着いて楽しむことが可能です。

一方的にそれを楽しむ時間においては、やがて通訳が演奏家や絵描きさんを連れてきて彩りをそえてくれます。



参加型の場合には、同じ素材を新しい味に昇華するとても有用な出会いがたくさんあります。通訳は訳せません。初めてですから。

何がどう美味しいのか美味く伝えられないけれど美味しいものは美味しい。それでまずは許してください(by通訳)となる事が。

もしも揉めてしまったとしてもそこには調味料が大事なときもあります。どこでそれを投入したかでも。




耳から入ってくる言葉は擬態の場合があります。ひらがなの言葉なのにカタカナで入ってきたり。

昔のフランス映画のように「愛してる。でも大嫌い」などとあきらかに通訳が考え込む場合が多いです。

そこには演奏家などの代わりにタオルを握り締めたトレーナーがいたりします。



それだけ奇跡の働きをしている「通訳さん」へのご褒美のため・勉強のためにたくさんの出会いがあるのであれば

もう少し勇気を持ってそこに到着するまでの時間さえも楽しむくらいのキモチでドアを開けたいと思います。そこで得るものは

知識であるのか体力であるのか、もしくは「しばらく起こさないでください」の札を掛けっぱなしになるのかはわかりません。



そのときに解らなくても・ずっとそうであっても目の前で見た手品のように、解らないからこそいいときだってたくさんあります。

解らないことが損だとは思いません。一生が心の過渡期なんです。