2005年脱北の男性、来日して「豊かで夢のような国で逆に心がおかしくなった」…密告・餓死の状況語る
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北朝鮮の人権問題について考える「北朝鮮人権フォーラム福岡2024」が福岡市内で開かれた。北朝鮮で生まれ育ち、2005年に脱出して東京で暮らす男性(59)が脱北後初めて講演し、北朝鮮での監視された生活や脱北した際の様子などについて、自身の体験を生々しく語った。(梅野健吾)
14日に行われたフォーラムは、北朝鮮の人権侵害状況を啓発する目的で、日韓の有志らによる実行委員会が開催。約50人が参加した。
「地上の楽園」と宣伝された北朝鮮への帰還事業で1960年に日本から現地に渡った韓国人の父と日本人の母の間に生まれた男性。現地では食品関係の会社で働くなどしていたが、2005年、40歳のときに母と2人で脱北した。2年後には妻と当時6歳の息子も脱出。男性は現在、両親がかつて住んでいた日本でラジオのシナリオライターとして働いている。今回、顔を出さないことなどを条件にフォーラムでの取材に応じた。
「北朝鮮の生活に『人権』という言葉はない。国民がどれくらい厳しい状況に置かれているか、皆さんは想像もできないかもしれない」。男性はこう語った。北朝鮮は監視による密告社会で、親は子どもに「よそで絶対に不満を言ってはだめ」と教育するという。そのような環境で育つと、本音を話せず、言われるがままを受け入れるようになると説明した。
男性の姉の嫁ぎ先の親族がある日突然、行方が分からなくなることがあった。1年ほどして、仕事の酒の席で以前暮らしていた日本のことを話していたことが密告され、政治犯として収容されていることを知った。男性は「『怖い』とは思ったが、それを『おかしい』とは思わなかった。おかしさに気付いたのは日本に来てからだった」と振り返った。
1990年代後半から食料事情が厳しくなり、餓死する人を多く見た。脱北を決意し、母と凍った国境の川を渡って中国側に脱出。当時はまだ警備が緩かったが、その2年後に脱北した妻と息子は銃撃を運良く逃れての脱出だったという。
日本での生活は、北朝鮮と違って停電もなく、水もお湯もいつでも使えた。だが、「豊かで夢のような国で、逆に心がおかしくなった」という。自分が日本人と比べて惨めな存在に思え、数年はそうしたストレスに苦しんだと明かした。
最近、脱北者が撮影した北朝鮮の映像を見てショックを受けた。多くの餓死者を出した20年前と全く変わっていなかったからだ。「今の時代も飢え死にしている住民は残念ながら向こうにいる。日本の人に北朝鮮の問題をもっと知ってほしい」と語った。