水島地域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 08:55 UTC 版)
地域
当地域は水島(中南部。前述の狭義の水島)・連島(西部)・福田(東部)の3つのエリアに分けられる。
水島
前述の東高梁川河口廃川地と沖合の干拓・埋立による新開地である。廃川地には市街地が、干拓・埋立地には工業地帯が造成されている。当地域の中枢地区である。近代以降、都市計画の元に何もない土地から造成されたため、碁盤目状の道路によって区画された土地が多い。現在この地の多くに、住所の大字の一部に水島の表記が冠せられている。
- 主な大字
水島海岸通一〜五丁目、水島川崎通一丁目、水島中通一〜四丁目、水島西通一・二丁目、水島福崎町、水島東千鳥町、水島西千鳥町、水島相生町、水島東常盤町、水島西常盤町、水島東栄町、水島西栄町、水島東弥生町、水島西弥生町、水島東寿町、水島西寿町、水島東川町、水島南緑町、水島北緑町、水島南瑞穂町、水島北瑞穂町、水島南春日町、水島北春日町、水島南幸町、水島北幸町、水島青葉町、水島高砂町、水島神田町、水島明神町、水島南亀島町、水島北亀島町、潮通一〜四丁目(松江四丁目)
連島
旧連島町域の内、前述の水島新開地に該当する部分を除いたエリアである。水島地域西部にあたり、連島山塊とその南北の平地からなる。南部に広大な平地が広がるため、人口の大半は南側に集中しており、山塊北側は地図上は飛び地ではないが、南部とは山塊で隔てられて集落等も連続しておらず事実上の飛び地のような状態である。
西部の西之浦は、島嶼時代は物資の集散港として、陸地化すると行商の拠点と加工産業の地として栄え、近代以降は旧連島町の中枢として機能した。現在も往事の名残を感じさせる古い家並みが現存している。
- 主な大字
連島町西之浦、連島町矢柄、連島町連島、連島一〜五丁目、連島町亀島新田、連島中央一〜五丁目、亀島一・二丁目、神田一〜四丁目、連島町鶴新田、鶴の浦一〜三丁目(潮通一〜四丁目)
福田
旧福田町域の内、前述の水島新開地に該当する部分を除いたエリアである。水島地域東部にあたり、児島山塊北西部とその西麓の平地部からなる。
古くは小規模の半農半漁の村が点在する地であったが、呼松港は周辺でも屈指の漁港として栄えていた。現在は、漁業は全盛期に比べると大きく後退しているが、港は現役であり、港町の名残を感じさせる古い家並みも見られる。
- 主な大字
福田町浦田、福田町福田、福田町古新田、北畝一〜七丁目、中畝一〜十丁目、福田町東塚、東塚一〜七丁目、南畝一〜七丁目、松江一〜四丁目、潮通一〜三丁目、福田町広江、広江一〜八丁目、呼松町、呼松一〜三丁目
島嶼部
高梁川河口沖に水島諸島の一部である水島群島と網代諸島がある。両者とも現在は無人島であるが、水島群島の上水島には古くから人が住んでいた。明治期には精錬所が設営され、従業員や関係者などを含め63戸268人が居住していた。戦後に精錬所が閉鎖されると人口は激減し、無人島と化した。
現在、両者とも住所は水島川崎通となるため、行政区画上は前述の水島新開地と同じ地区となる。
- ^ 倉敷市は2011年3月に策定した「都市計画マスタープラン」[1] の「地域別まちづくりの方針<地域別構想>」[2] において、水島支所管轄エリアを水島地域と設定している。
- ^ a b c d e f g h i j k l みずしま財団
- ^ a b c 岡山県大百科事典編集委員会編集『岡山県大百科事典』(1979年)山陽新聞社
- ^ a b c d e 岡山県編集発行『水島のあゆみ』(1971年)
- ^ a b c d e f 巌津政右衛門 『岡山地名事典』(1974年)日本文教出版社
- ^ a b c d e f g 下中直也 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』(1981年)平凡社
- ^ a b 渡辺光・中野尊正・山口恵一郎・式正英『日本地名大辞典2 中国・四国』(1968年)朝倉書店
- ^ 当時の水島は、柏島もしくは乙島、あるいは両島周辺を指した。
- ^ 倉敷市ホームページ
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