長沙城の戦い
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1942年1月1日、瀏陽河を渡河し終えた第3師団は長沙城外の高地を攻撃、高地の中国兵(前方警戒部隊だった)が一斉に後退すると追撃に移った。長沙の占領を急いだ第3師団は、師団直轄の加藤大隊(長:加藤素一少佐)を戦線に投入した。加藤大隊は中国軍陣地への夜襲を行ったが猛射撃をうけて前進不能となり、加藤大隊長は銃弾を受けて戦死した。翌1月2日、中国軍は加藤大隊長の遺体から出動以来の計画・命令の書類を手に入れた。日本軍の企図や、弾薬が尽きかけている実情を察知した薛岳長官は、「わずかに紙一枚の軽さといえども、万挺の機関銃より重し」と喜んだ。 1月2日になると長沙前面の迫撃砲、岳麓山の重砲が一斉に活動を始め、第3師団の各地域に砲弾が落下した。前線部隊は城壁をめざして突撃を繰り返したが中国軍の抵抗も猛烈で、一進一退の争奪戦が続いた。この日、㮾梨鎮(長沙の東方12キロ)付近にいた第6師団のところへ第3師団の参謀が訪れ、長沙城攻撃への加入を要請した。しかし、第3師団の独走を不満に思っていた神田師団長はこの要請を拒絶した。 第3師団の苦戦を憂慮した軍司令部は、第6師団に長沙城攻撃加入を命令した。重い腰を上げた第6師団は長沙北側へ急進し、翌1月3日から攻撃を開始した。第6師団部隊は長沙城北側陣地を急襲して占領したが、中国軍は対岸の岳麓山から重砲の集中射撃で反撃し、日本側の損害が続出した。 日本軍主力が長沙城への攻撃を続行しているころ、その背後からは中国軍約30個師が包囲網を狭めつつあった。瀏陽河渡河点付近の日本軍守備隊や工兵隊、輜重部隊は押し寄せた中国軍と渡河点を巡っての争奪戦を繰り広げた。
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