逆鉾与治郎
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逆鉾 与治郎(さかほこ よじろう、1871年5月10日 - 1939年10月22日)は、鹿児島県日置郡金峰町(現南さつま市)出身で高砂部屋、のち井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は今井 与次郎(旧姓年永)。最高位は東関脇。現役時代の体格は168cm、82kg。得意手はハズ押し、左四つ。
来歴
子供の頃から土地の宮相撲で活躍していたが、巡業で鹿児島を訪れた初代西ノ海・小錦一行に誘われて高砂へ入門、1893年(明治26年)1月場所序ノ口で初土俵を踏んだ。2年後の1895年(明治28年)6月場所には早くも十両に昇進、十両もわずか2場所で通過して1896年5月場所入幕した。この年の1月場所で初代西ノ海が引退、井筒部屋を興したのでこれに従った。
小兵ながら前捌きが巧みで動きが速く、ハズ押しや左半身からの攻めに加え、「踵に目がある」と評されたほど土俵際の粘りが強く、「名人」と讃えられた。三役から幕内上位を長く務め、横綱常陸山谷右エ門とは対戦がなかったものの梅ヶ谷には3勝7敗3分、大砲には金星を含む3勝4敗4分とほぼ互角に闘い、「梅・常陸時代」と呼ばれる黄金時代にあって大活躍した。
幕内を11年務めて1907年5月場所、西小結にあって1敗9休としたのを最後に現役を引退、年寄関ノ戸(7代)を襲名して検査役を長く務めた。大見嵜と仲が良く巡業にも同行していた。
礼儀正しく質実温厚にして寡黙な人柄、弓取式も相撲同様名人級の腕前だったという。弓を射ても猟銃を取らせても巧かったといわれる。酒豪でも知られた。実弟も達上嘉平と名乗って幕下まで相撲を取った。
晩年は湯河原に旅館を開き狩猟三昧の日々で1939年、老衰で68歳で死去した。
主な成績
- 幕内在位:23場所(うち関脇5場所、小結4場所)
- 幕内成績:72勝47敗26分3預82休 勝率.610
- 金星:1個(大砲。1905年1月場所)
参考文献
関連項目
逆鉾與治郎
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基礎情報 | ||||
四股名 | 川内 元行→逆鉾 與治郎 | |||
本名 | 山口 元行→古田 元行 | |||
生年月日 | 1942年6月7日 | |||
没年月日 | 2000年12月1日(58歳没) | |||
出身 | 鹿児島県川内市五代町(現・薩摩川内市) | |||
身長 | 176cm | |||
体重 | 90kg | |||
BMI | 29.05 | |||
所属部屋 | 井筒部屋 | |||
得意技 | 左四つ、突っ張り、出し投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 廃業 | |||
最高位 | 東前頭6枚目 | |||
生涯戦歴 | 181勝111敗15休(32場所) | |||
幕内戦歴 | 24勝21敗15休(4場所) | |||
賞 | 敢闘賞1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1962年7月場所 | |||
入幕 | 1963年5月場所 | |||
引退 | 1963年11月場所 | |||
引退後 | 相撲料理店店主 | |||
備考 | ||||
2013年8月18日現在 |
逆鉾 與治郎(さかほこ よじろう、1942年6月7日 - 2000年12月 )は、鹿児島県川内市五代町(現在の薩摩川内市五代町)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は山口 元行(やまぐち もとゆき)→古田 元行(ふるた -)。最高位は東前頭6枚目(1963年7月場所)。現役時代の体格は176cm、90kg。得意手は左四つ、突っ張り、出し投げなど。
来歴・人物
中学校を卒業後、地元の県会議員・田中氏の紹介で井筒部屋へ入門し、1958年7月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、出身地の川内市に因んだ「川内」。
以来、順調に出世し、1962年7月場所で新十両に昇進。これを機に四股名を、「逆鉾」へ改めた。
その後、1963年5月場所で新入幕。同場所では、元大関・若羽黒や後に横綱へ昇進する琴櫻を降すなど11勝4敗と大勝ちし、生涯唯一の三賞となる敢闘賞を受賞している。
左四つの体勢から内掛け、出し投げなど多彩な技を駆使し、持ち前の優れた運動神経も相俟って将来を有望視された。
しかし私生活が乱れた事もあり、女性問題(駆け落ち)を引き起こして同年秋の準場所開催中に井筒部屋から失踪。暫くして発見されたものの、11月場所前に自ら髷を切り落とし、21歳という若さで廃業してしまった。
その後は京都市内で、相撲料理店を営んでいた。2000年12月、58歳で死去[1]。相撲料理店は現在も営業している。
主な戦績
- 通算成績:181勝111敗15休 勝率.620
- 幕内成績:24勝21敗15休 勝率.533
- 現役在位:32場所
- 幕内在位:4場所
- 三賞:1回
- 敢闘賞:1回(1963年5月場所)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) | 三月場所 春場所(大阪) | 五月場所 夏場所(東京) | 七月場所 名古屋場所(愛知) | 九月場所 秋場所(東京) | 十一月場所 九州場所(福岡) | |
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1958年 (昭和33年) | x | x | x | (前相撲) | 西序ノ口15枚目 7–1 | 西序二段91枚目 6–2 |
1959年 (昭和34年) | 西序二段66枚目 7–1 | 西序二段29枚目 3–5 | 西序二段34枚目 6–2 | 東序二段4枚目 4–4 | 西序二段筆頭 5–3 | 西三段目78枚目 5–3 |
1960年 (昭和35年) | 西三段目59枚目 7–1 | 西三段目18枚目 5–3 | 東幕下84枚目 7–1 | 西幕下56枚目 2–5 | 東幕下79枚目 6–1 | 東幕下52枚目 4–3 |
1961年 (昭和36年) | 西幕下44枚目 5–2 | 西幕下32枚目 6–1 | 西幕下14枚目 3–4 | 西幕下15枚目 4–3 | 東幕下12枚目 3–4 | 東幕下14枚目 3–4 |
1962年 (昭和37年) | 西幕下20枚目 5–2 | 東幕下10枚目 5–2 | 東幕下3枚目 5–2 | 西十両18枚目 9–6 | 東十両13枚目 8–7 | 西十両9枚目 7–8 |
1963年 (昭和38年) | 西十両10枚目 10–5 | 東十両3枚目 10–5 | 西前頭14枚目 11–4 敢 | 東前頭6枚目 7–8 | 東前頭8枚目 6–9 | 東前頭9枚目 引退 0–0–15 |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
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宇多川 | 0 | 3 | 大晃 | 2 | 1 | 小城ノ花 | 1 | 0 | 開隆山 | 1 | 0 |
金乃花 | 1 | 0 | 君錦 | 1 | 0 | 清勢川 | 1 | 0 | 黒獅子 | 1 | 1 |
高鐵山 | 0 | 1 | 琴櫻 | 0 | 2 | 佐田乃山 | 0 | 1 | 玉嵐 | 2 | 0 |
常錦 | 2 | 1 | 出羽錦 | 0 | 1 | 栃王山 | 1 | 0 | 栃ノ海 | 0 | 1 |
栃光 | 0 | 1 | 羽黒花 | 1 | 0 | 廣川 | 1 | 1 | 房錦 | 1 | 1 |
前田川 | 0 | 2 | 明武谷 | 3 | 0 | 若浪 | 1 | 1 | 若ノ國 | 2 | 1 |
若羽黒 | 1 | 1 | 若前田 | 0 | 1 |
改名歴
- 川内 元行(せんだい もとゆき、1958年9月場所-1962年5月場所)
- 逆鉾 與治郎(さかほこ よじろう、1962年7月場所-1963年11月場所)
関連項目
脚注
- ^ 『大相撲名力士風雲録 27』
参考文献
- 『大相撲人物大事典』(ベースボール・マガジン社刊)
- 『戦後新入幕力士物語 第2巻』(著者:佐竹義惇、ベースボール・マガジン社刊)
固有名詞の分類
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