有職料理
大饗(だいきょう/おおあえ)料理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 09:17 UTC 版)
「有職料理」の記事における「大饗(だいきょう/おおあえ)料理」の解説
長屋王邸出土木簡などから、奈良時代には既に貴族社会で接待料理が成立していたことが窺えるが、その具体的な形式は不詳である。それが発達した物が「延喜式」神祇項目に出てくる「神饌」と思われ、春日大社の神饌や、談山神社の「百味御食」(ひゃくみのおんじき)などにその形式を残していると考えられている。 平安中期になると、貴族の中でも皇族、摂関家、それ以外の貴族の序列は動かしがたい物となり、その接待の形式として「大饗」が定められる。唐文化の影響を受け、「台盤」と呼ばれるテーブルに全料理を載せたり、「唐菓子」など渡来の料理も添えられるなどの献立の多さもさることながら、食べる側にも食べ物の種類ごとに細かい作法が要求されたことが『内外抄』や『古事談』の記述から分かり、現代人から見ると大変堅苦しい物だったようである。出汁を取る、下味をつけるなどの調理技術が未発達で、各自が塩や酢などで自ら味付けをしていた。珍しいものを食べる事によって貴族の権威を見せつけ、野菜を「下品な食べ物」とみなして摂取しなかった事や、仏教の影響で味の美味い料理を口にする事をタブー視していたことから、栄養面から見るとかなり悪い食事であった。「大饗」には少なくとも「二宮大饗」と「大臣大饗」の2形式が存在していた。
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