坪井杜国
(つぼいとこく)
本名坪井庄兵衛。名古屋の蕉門の有力者。芭蕉が特に目を掛けた門人の一人(真偽のほどは不明だが師弟間に男色説がある)。杜国は名古屋御薗町の町代、富裕な米穀商であったが、倉に実物がないのにいかにも有るように見せかけて米を売買する空米売買の詐欺罪(延べ取引きといった)に問われ、貞亨2年8月19日領国追放の身となって畠村(現愛知県渥美郡
田原市福江町)に流刑となり、以後晩年まで三河の国保美(<ほび>渥美半島南端)に隠棲した。もっとも監視もない流刑の身のこと、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉とともに『笈の小文』の旅を続けたりもしていた。
一説によると、杜国は死罪になったが、この前に「蓬莱や御国のかざり桧木山」という尾張藩を讃仰する句を作ったことを、第二代尾張藩主徳川光友が記憶していて、罪一等減じて領国追放になったという。
元禄3年2月20日、34歳の若さで死去。
愛知県渥美郡田原市福江の隣江山潮音寺(住職宮本利寛師)に墓があるという。
潮音寺境内にある杜国の墓。誰が供えたのか菊の花(牛久市森田武さん撮影)
杜国の代表作
朝月夜紙干板に明そめて
曙の人顔牡丹霞にひらきけり(『春の日』)
足跡に櫻を曲る庵二つ(『春の日』)
馬はぬれ牛ハ夕日の村しぐれ(『春の日』)
この比の氷ふみわる名残かな(『春の日』)
麥畑の人見るはるの塘かな(『あら野』)
霜の朝せんだんの實のこぼれけり(『あら野』)
八重がすみ奥迄見たる竜田哉(『あら野』)
芳野出て布子賣おし更衣(『あら野』)
散花にたぶさ恥けり奥の院(『あら野』)
こがらしの落葉にやぶる小ゆび哉(『あら野』)
木履はく僧も有けり雨の花(『あら野』)
似合しきけしの一重や須广の里(『猿蓑』)
坪井杜国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/25 21:31 UTC 版)
坪井 杜国 | |
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誕生 | 不詳![]() |
死没 | 1690年4月28日![]() |
墓地 | 潮音寺 |
職業 | 俳人 |
ジャンル | 俳句 |
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坪井 杜国(つぼい とこく、生年不詳 - 元禄3年3月20日(1690年4月28日)[1])は、尾張国の俳人。庄兵衛・万菊丸・岩菊丸とも称した[2]。屋号は壺屋[2]。俳号として野人[2]。
人物
尾張国名古屋城下、御園町(現名古屋市中区)において米屋を営む家に生まれた[3]。坪井家は当町において町代を務める名家であった[3]。
松尾芭蕉の弟子であり、貞享元年(1684年)に『冬の日』を編んだ[2]。
貞享2年、手形で空米を売った咎で死罪となったが、徳川光友に恩赦を賜い、三河国渥美郡畠村に追放となった[2]。後に保美に移る[2]。貞享4年に慰めに芭蕉が越人を連れ、当地を訪ねている[2]。
また、1960年(昭和35年)には屋敷跡に石碑が建立され、1988年には杜国公園として整備されている[4]。
杜国が伝えた蕉風の俳諧は、杜国の家僕家田与八郎の孫、家田路喬の時代になって盛んになり、その門下に原子蔵ら多くの弟子らが輩出した。
杜国の墓所のある潮音寺では、毎年4月ごろ、杜国を偲ぶ追善供養とともに、俳人杜國顕彰会の主催する俳句大会の表彰式を行っている[5]。
主な句
- 「昼の空蚤かむ犬のねかえりて」
師である松尾芭蕉が、弟子の越人と杜国の住む保美(現愛知県田原市保美町)に来たときに詠んだ歌である[6]。
その他に
- 「たそがれを横にながむる月ほそし」
- 「しらじらと砕けしは人の骨か何(なに)」
- 「綾ひとへ居湯(おりゆ)に志賀の花漉(こし)て」[7]
など。
ギャラリー
脚注
参考文献
- 市橋鐸「坪井杜国」(日本語) 『愛知百科事典』中日新聞社、1976年、529頁。全国書誌番号:80005338。
- 渥美町町史編さん委員会 編(日本語) 『渥美町史 歴史編 上巻―』渥美町、1991年3月30日。全国書誌番号: 91063382。
- 愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会 編(日本語) 『角川日本姓氏歴史人名大辞典23 愛知県』角川書店、1991年10月30日。 ISBN 4-04-002230-0。
- 愛知県立福江高等学校 編(日本語) 『渥美半島―郷土理解のための32章―』(改訂2版)愛知県立福江高等学校、2013年3月31日。
- 田原市教育委員会 編(日本語) 『ふるさとの偉人を訪ねる 田原を築いた人びと』2015年1月。全国書誌番号: 22694561。
- 栗田勇(日本語) 『芭蕉 上』祥伝社、2017年5月。 ISBN 9784396615918。
外部リンク
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