公民権法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 10:02 UTC 版)
「リンドン・ジョンソン」の記事における「公民権法」の解説
アメリカは第二次世界大戦において「自由で平等な国」を自称してきたが、建国以来200年近くアフリカ系アメリカ人などの少数民族に対する法の上での人種差別が認められてきた。 しかし第二次世界大戦中におけるアフリカ系アメリカ人兵士の活躍や、戦後間もない1950年代に入って起きたモンゴメリー・バス・ボイコット事件などをきっかけに、このような法の上での人種差別をなくそうとする公民権運動が全米で盛り上がりを見せてきていた。 ケネディ時代の1962年にアラバマ州でアフリカ系学生の州立大学への入学をめぐって、またバーミングハムの差別撤廃闘争で白人側の反撃で流血に発展して連邦軍を派遣する事態となり、1963年8月に「ワシントン大行進」が行われていた。しかしケネディは言論こそ巧みだが、そもそも異人種カップルを自分の結婚式に呼ぶのを断るなど人種差別的行動が目につき、しかもいざ行動に移すのは躊躇し自分の政権時代には何も起こさなかった。 これらの動きを受けて、かねてから人種差別に対して否定的であり、公民権運動に強い理解を示したジョンソンは、公民権法の成立に向けてキング牧師などの公民権運動の指導者らと協議を重ねる傍ら、人種差別的な議員の反対に対して、院内総務を長年務めた経験を生かして粘り強く議会懐柔策を進めた. ジョンソンが粘り強く動いた結果、1964年7月2日に公民権法に署名し、公民権に関わる訴訟には司法長官が介入することが出来て、ここに長年南部で続いてきた人種差別制度はすべて連邦法で禁止され公共施設での人種差別は全て撤廃されることになった。 またジョンソンは、翌1965年8月6日には、白人側の妨害で遅れていた選挙権登録における差別をなくすための投票権法にも署名し、連邦政府の介入で投票権の保障を強化することなどを定めて、アフリカ系アメリカ人への差別撤廃に対する積極的な姿勢を示した。なおアメリカ合衆国司法省によれば、国内で法制化された公民権法の中でも最も実効力あるものと考えられている。 この投票権法の法案審議を前にした1965年3月15日、議会合同会議においてジョンソンは、公民権運動の象徴である「われらは勝利する(We Shall Overcome)」という言葉を用いた演説を行っている(「アメリカの約束 (The American Promise)」)。 ただし、こうした施策を実施してもなお人種差別の根絶には至らず1967年にはデトロイト暴動が発生している。これに呼応するようにメリーランド州のケンブリッジやオハイオ州のトレドなどでも暴動が発生した。ジョンソンは大統領の権限で、デトロイトへ数千人規模の連邦軍を動員させて沈静化を図った。
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