ボブ・マーリィ(Bob Marley)とジャマイカ、そしてレゲエ
俺の命より、他の人々の命が重要だ。
みんなを救ってこそ俺はある。
自分のためだけの命なら俺は要らない。
俺の命は人々のためにある。
政治抗争に揺れるジャマイカにはボブ・マーリィの力が必要だった。ボブは敵対する二つの政党の代理人を英国に呼んで休戦協定を仲介。その直後、1978年4月22日にはジャマイカの国立競技場での「One Love Peace Concert」にメインアクトとして出演する。亡命先のロンドンから帰国を決めた理由として語ったのが上の言葉だ。
そして「Jamming」演奏中に、PNP(人民国家党)のマイケル・マンリーとJLP(ジャマイカ労働党)のエドワード・シアガに対して「話があるんだ。二人ともステージに上がってきてくれないか」と呼び掛ける。
聞いてくれ。
すべてを解決するために心を一つにしよう。
至高の精神である皇帝陛下ハイレ・セラシエ1世が呼び寄せる。
この国の2人のリーダーたちをここで握手させるため。
人々に愛を示せ。団結の意志を示せ。
問題はないと示せ。すべてうまくいくと示せ。
心配などない。一つになれる。
団結するんだ!
握手をした二人の手を何も言わずに頭上に掲げたボブは、「愛と繁栄よ、我らと共にあれ。ジャー・ラスタファーライ」と観衆に向けて伝えた。それは白人と黒人の二つの血が流れる者、山の手とゲットーどちらでも生きた者だからこそ、一つに結びつけることができた歴史的な出来事だった。
──ボブ・マーリィは1945年2月6日、ジャマイカの山間部の小さな村ナイン・マイルズ(蛍の光くらいしか輝きがないような田舎)で生まれた。父は英国系の白人、母は黒人という混血児。両親はすぐに別れたので、幼いボブは母親に育てられた。
12歳の時、生活と職のために母とともに首都キングストンへ移住。郊外の貧困街トレンチタウンで暮らしながら、ある日音楽を始めた。ボブにはそれが吹き溜まりから抜け出すための唯一の手段であることが分かっていた。混血児というだけで拒絶されたりすることもあったようだが、どちらにも属する(あるいは属さない)ボブのアイデンティティは多感な思春期に形成された。ラスタファリ運動に出逢ったのもこの頃だ。
1962年に「Judge Not」を初録音して国内でプロデビュー。しかしレコードはまったく売れなかった。その後、バニー・ウェイラーやピーター・トッシュらとウェイラーズを結成。グループ名には嘆き悲しむ(=ウェイラー)町から来た連中という意味があった。ジャマイカは1962年8月に英国から独立した。
1964年、スタジオ・ワンで録音した「Simmer Down」が国内チャートで1位になる。ウェイラーズはそれからトップ10ヒットを連発していく。1966年はエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世がジャマイカを訪れたこともあり、ボブたちはラスタファリ運動により深く傾倒し始める。だが、レコード会社の搾取もあってギャラは安く、とても音楽だけで食べていける額ではなかった。ウェイラーズは国外ではまったく無名だったのだ。
リタと結婚したボブは、仕事を求めて米国デラウェア州ウィルミントンへ移住。しかし、すぐにジャマイカに戻って今度は独立レーベル「Tuff Gong」を立ち上げる。プロデューサーにリー・スクラッチ・ペリーを迎え、心臓の鼓動をとらえたレベル・ミュージック=レゲエの誕生に貢献する。
起きろ立ち上がれ
権利のために
起きろ立ち上がれ
闘いを諦めるな
そして1972年、黒人のロックバンドを求めていたクリス・ブラックウェル率いるアイランド・レコードと契約。ウェイラーズは録音費用として4000ポンドを受け取り、ジャマイカで吹き込んだテープをロンドンに送り返した。これが1973年にリリースされた世界デビュー第1弾『Catch a Fire』だった。
わずか半年後には第2弾『Burnin’』が発表されるが、英国や米国ツアーはアルバムの販売促進のためでギャラもほとんど入らず、クリスとも確執が絶えなかったバニーとピーターは正当な評価を求めて脱退。オリジナルのウェイラーズは解散する。
その後はボブ・マーリィ&ザ・ウェイラーズとして再始動。『Rasta Revolution』『Natty Dread』をリリースするが、転機となったのは1975年7月のロンドン公演の一夜を収録した『Live! 』で、ボブ・マーリィの名は遂に世界中に知れ渡っていく。また、前年のエリック・クラプトンの復帰作『461 Ocean Boulevard』にもボブの「I Shot the Sheriff」が収録されて大ヒットしており、レゲエ音楽は多くのロックファンをも魅了していた。
ジャマイカ(特に首都キングストン)は、PNP(人民国家党)とJLP(ジャマイカ労働党)という二つの敵対する政党による抗争が悪化し、人々は不安な日々を送っていた。ボブはどちらの過激派メンバーとも友達だったので中立のようにも見えた。この立場が災いして1976年12月3日、自宅にいるところを狙撃されてしまう。ボブはそれでも8万人の観衆を前にフリーコンサートを決行して、再び命を狙われるかもしれない状況で熱い演奏した。
翌年、妻リタの意向でロンドンに亡命。チェルシーに住むようになる。ボブの心には「死の意識」と「一瞬を無駄しない」ことが強く宿った。1977年の『Exodus』は最高傑作と言われる作品であり、以前にも増してボブのメッセージが聴き手の胸を打つ。冒頭の伝説のコンサートはこの後のことだ。
愛は一つ
心は一つ
一緒になれば何も心配はない
神に感謝すれば心は安らかに
『Kaya』と『Babylon by Bus』をリリース後、ボブは白人だけでなく黒人の聴衆にも自らの音楽を届けるべく、アフリカの国々を訪問。ジンバブエ革命の心の支えになったり、米国の黒人にも完全に浸透していく。『Survival』『Uprising』といったアルバムはそんな頃に録音された。
人生は非情。ボブは足の親指にガンを発症。部分切除を思想上の理由で断ったが全身に転移。ツアーも限界だった。ラストステージはピッツバーグ公演。体調が優れなくても、アンコールに何度も何曲も応えた。
雪景色のドイツへ治療に向かうが、死は迫っていた。ラスタマンとしての誇りであるドレッドヘアーを切り、痩せこけていくボブ。そして1981年5月11日、フロリダ州マイアミにて妻や母に見届けられて永眠。享年36。祖国ジャマイカのキングストンで国葬。
俺には野心なんてない。
ただ一つ叶えたいのは、
人類が共に生きること。
黒人も白人も黄色人種も共に。
それだけだ。
Bob Marley 1945.2.6-1981.5.11
★NEWS 2024年5月17日、ボブ・マーリィの伝記映画『ONE LOVE』が公開。
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*このコラムは2015年5月11日に初回公開されました。なお、冒頭部は「ボブは敵対する二つの政党の党首を英国に呼んで」と記されていましたが、DVDを確認したところ、それぞれにつく組織のリーダー格を亡命先の英国に呼び寄せたとの証言があり、よって「代理人を呼んで」の間違いでした。訂正いたします(2019年3月)。ご指摘いただいた読者の方、ありがとうございました。
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