27歳のボブ・マーリィが夏でも肌寒いロンドンで、夜の寒さに耐えていたのは1972年のことだった。
ピーター・トッシュとバニー・ウェイラー、そしてボブ・マーリィの3人からなるザ・ウェイラーズは、現在でも名曲との誉れ高い「ワン・ラブ(One Love)」をヒットさせるなどして、ジャマイカでは60年代の半ばから不動の人気を得ていた。
そこでジャマイカ移民が多く住むイギリスでも大々的に売り込もうと、楽曲の権利を持っていたダニー・シムズがウェイラーズのツアーを企画した。
だが当時のジャマイカはカリブ海の小さな島のひとつに過ぎなかったので、ロンドンにあったジャマイカ人コミュニティーの外ではウェイラーズといえども無名だった。
そのためにツアーのスケジュールがなかなか決まらず、3人は待たされたまま安アパートで無為に時間が流れていくのを耐えるしかなかった。
ところがある朝、気がつくとシムズの姿が消えていたのだ。
シムズはウェイラーズを置き去りにしたまま、別の仕事でアメリカに行ってしまったという。
こうして一文無しでロンドンに残されたウェイラーズは、アイランド・レコードを率いるクリス・ブラックウェルに相談することにする。
イギリスに生まれてジャマイカに育った白人のクリスは、イギリスに住むジャマイカ人に向けてレコードを販売するアイランド・レコードを設立して成功していた。
さらにはスペンサー・デイヴィス・グループのマネージメントをきっかけにして、トラフィックやキング・クリムゾン、エマーソン・レイク・アンド・パーマーといったロック・ミュージシャンでヒットを出し、アイランドは世界的にも注目を集めるインディーズ・レーベルになった時期であった。
ボブ・マーリィにとって、ロンドンは見知らぬコンクリート・ジャングルだった。
だからそこで出会ったジャマイカ育ちのクリスは、希望の光に見えたかもしれない。
クリスにしてみるとレゲエ・シンガーのジミー・クリフが、アイランドを離れてメジャーのEMIへ移籍したところだった。
ジャマイカのアーティストがいなくなったというタイミングだったので、ウェイラーズとの出会いはクリスにとっては新しい展開となった。
すぐにアルバム契約を結んだクリスは、ボブ・マーリィを信用して4000ポンドもの大金を前金で渡した。
ジャマイカに帰ったボブはすぐにアルバム制作を始めて、その年が終わらないうちに『Catch a Fire』を完成させている。
そしてマスターテープを持って、冬のロンドンに戻ってきたのだった。
きっと どこかに光があるはず
このコンクリート・ジャングルのかわりに・・・
幻想・・・混乱・・・
冷たい都会のコンクリート・ジャングル
おまえたちが作り出したんだ
このコンクリート・ジャングルに
俺が生きていかなきゃいけない理由があるのかい?
(「コンクリート・ジャングル」)
マスターテープを聴いたクリスは加速度的に広まっていたロックのマーケットでも、ボブ・マーリィ&ザ・ウェイラーズが間違いなく成功すると確信する。
そこで全世界に向けてもうひとつ、別ヴァージョンのアルバムを制作するアイデアを提案した。
それまでの黒人スターのようにではなく、彼らをロック・スターのように売り出すべきだという私の直感を、ボブは信じてくれたんだ (クリス・ブラックウェル)
完成した作品に後で別人に手を加えられることは、表現者ならば誰もが何らかの拒否反応を起こすのが当然である。
だがボブ・マーリィは、全面的にクリスを信頼していた。
世界のマーケットを意識したアルバム『Catch a Fire』には、アメリカ南部のマッスルショールズから呼ばれたギタリストのウェイン・パーキンスと、やはりアメリカ生まれで父親がカントリー・ミュージシャンだったジョン“ラビット”バンドリックのオルガンで、オーバーダブが行われていった。
『Catch a Fire』は彼らの音が加わったことで、ロック・ファンにも受け入れられるサウンドになった。
そして1973年4月にリリースされると、リスナーに大きな衝撃を与えた。
社会的な内容の歌詞と力強いサウンドを持つレゲエという新しい表現と、ボブ・マーリィという稀有なシンガーの存在が、ここから世界中に知らしれていく。
クリスとの間にある信頼関係は、ボブ・マーリィが1981年5月11日に36歳の若さで息をひきとるまで、変わることなく続いたという。
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*このコラムは2014年6月21日に初公開されました。