鈴木茂は、17歳の時に細野晴臣からの電話で、新しいバンドを始めるのにリード・ギタリストが欲しいと言われた。
それが、日本の音楽史に残る伝説のバンド「はっぴいえんど」の誕生へとつながっていく。
(詳しくはこちらのコラムで⇒鈴木茂のギターで記念碑的な名曲となった、はっぴいえんど「12月の雨の日」)
鈴木茂の父は東京の世田谷区上野毛で、鈴木モータースという自動車の修理工場を営んでいた。家の商売柄、エンジンとか車の部品が積まれた仕事場を見て育った鈴木茂は、幼い頃から機械には馴染んでいたので、ガラクタやスクラップの部品を使って、自分で4輪車を作ったりして遊ぶ器用な子供だったという。
エジソンの伝記を読んで、実験とか電気が好きになったのは小学校四年の時だった。それからラジオの組み立てやアマチュア無線に興味を持ち、秋葉原にあった電気街まで出かけて部品を買い揃えて、ラジオや受信機を作ったりするようになっていく。
「初歩のラジオ」という雑誌を参考にして作った、最初の真空管ラジオから流れてきた音楽はビートルズだった。
自作のラジオが出来上がってスイッチを入れた時、初めて流れてきたのがビートルズの曲だった。もう曲名は覚えていないけど、「シー・ラヴズ・ユー」とか「ア・ハード・デイズ・ナイト」とか、そのあたりの曲だったと思う。まだビートルズの曲がどうこうというのじゃなくって、ただ単にラジオが鳴ったことに興奮してただけなんだけどね。でも、今でもこの曲を聞くと、あのときの嬉しかった気持ちがよみがえるんだ。
ちょうどその頃、1964年の夏から秋にかけて巻き起こったのが空前のエレキ・ブームである。ブームの中心にいたのはベンチャーズだった。
鈴木家では兄が近所の友達とバンドを作っていた。そしてテスコという、日本の楽器メーカーのエレキ・ギターを買ってきた。そこで鈴木茂もギターに興味を持つようになり、兄が家にいないときにはこっそりテスコのギターを弾いた。
友人の家でベンチャーズの「パイプライン」のリフなどを教わり、家に帰ってそれを兄のギターで練習して覚えていく。先生はベンチャーズのレコードだった。
ギターの練習は全くの我流だった。ひたすらレコードに合わせて弾くんだ。フレーズが速くて分からないときは、レコードの回転数を落としてコピーした。とにかくぼくにとってはレコードが先生で、簡単なコード(和音)は、本で読んだり知っている人から教わったりしてた。
そうやって1曲マスターすると次に進むという方法で、ベンチャーズの「ダイアモンド ・ヘッド」や「ブルドック」、さらには「キャラバン」などの難しい曲も、確実にマスターしていった。
その頃はやっぱりベンチャーズが憧れだったね。なんといってもノーキー・エドワーズがアイドル。あの人のおかげで今の自分はあると思う。
初めて自分で手に入れたエレキ・ギターは、エルクという日本の楽器メーカーのジャガー・モデル。ベンチャーズが使っているモズライトは価格が高すぎて、中学生にはとても手が届かない高嶺の花だった。
だから国産品を購入したのだが、コピーモデルでもエルクは国産の最高価格だ。夏休みに入るとギターを買うために、肉体労働のアルバイトでお金を貯めたが、残り半分は兄が出してくれたという。
なぜストラトキャスターじゃなくてジャガーなんだ?っていう質問が今なら出るところなんだけど、当時はストラトキャスターって日の目を見ていなくて、あまり評判の良いギターではなかったんだ。その後、ジミ・ヘンドリックスが現れるまではね。あの頃はベンチャーズが流行っていたから、むしろ初期の彼らが使っていたフェンダーのジャガーとかジャズマスターの方が人気があったんだよ。
自分のギターを手に入れた頃から、鈴木茂は早くもプロのミュージシャンになろうと決めていた。まだ中学1年生だったが、憧れではなく将来の職業と目標を定めてギターを弾いていた。そのあたりの意識が、同世代の音楽仲間たちとは根本的に異なっている。
それから6年後、はっぴいえんどが結成されてプロになってからも、最初に手に入れたエルクのギターは使われていた。岡林信康のバックバンドを務めていた頃に弾いていたのは、このエルクのギターだった。
(注)文中の鈴木茂の発言はすべて「自伝 鈴木茂のワインディング・ロード はっぴいえんど、BAND WAGON それから」( リットーミュージック) からの引用です。
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