ラベル ゼミ入門 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ゼミ入門 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年1月16日日曜日

『ゼミ入門』 (6)もうひとつの上級編

野村一夫『ゼミ入門』文化書房博文社、2014年。
(6)もうひとつの上級編

■卒論、ゼミ卒論、卒業制作

 学部生活の上級編となると、4年生のゼミで取り組むのは卒業論文やゼミ論文のたぐいである。それらについては「論文の書き方」のような類書がたくさん出ているので参考にして取り組んでほしい。本書は「ゼミ入門」なので、これについては触れない。

 私の考えでは、あくまでも本気で取り組むという前提の上で言うと、この時代、論文でなくても、何かコンテンツを作るか、結果を残すのであれば、形やスタイルやメディアは何でもいいのではないか。つまり何か「制作物」「作品」でよいのではないかと思う。

 三年生の場合には、ゼミ論として何か研究した実績を残しておかないと、就職活動で「どんな勉強してきたの?」と訊かれたときに困るだろうから、それはそれでやっておく必要はあると思う。けれども、四年生の後半ともなると、学部時代の総仕上げとして何か「作品」を作っておくべきである。

 論文以外となると、アカデミックである必要はない。映画(動画)でもいいし、雑誌でもいいし、ルポルタージュや旅行記でもいいし、自伝小説でも物語でもライトノベルでもコミックでもブログでも写真集でも演奏でもよい。何か文化的なコンテンツであればいいと私は考えている。ただし「労作」であることが条件である。時間をかけたものであれば、おのずと作品性も高まるし、学生時代ならではのものになるだろう。めざすべきゴールは「500」である。写真集なら500枚ということだ。それも、すべてにキャプションぐらいつけないとおもしろくない。かなり妥協しても、せめて「100」はないと「労作」とは呼ばない。天才でない限り若いうちは質に限界があるものなので、分量を桁違いにしないと評価はできないものである。しかし、学部時代にある程度の分量を達成したという成功体験を積んでおくことは将来必ず役に立つ。

■パチンコ玉理論

 最後に上級編のヒントを書いておきたい。私は十年来それを勝手に「パチンコ玉理論」と呼んできたので、ここでもそれで通そうと思う。

 たとえば、ここにパチンコ玉がテーブルの上にひとつあるとする。そのパチンコ玉をよく見てみよう。そこには周囲のすべての光景が映し込まれているはずである。しかも、それを見ている自分の姿も映っている。パチンコ玉自体は小さな球体に過ぎないが、それをじっくり見ることで、そのまわりにあるものが全部見えるということである。

 同様に、どんなに絞り込んだテーマであっても、そこには全世界のさまざまな問題が映し込まれているのである。そういう前提で取り組めば、小さな現象をテーマにしていても、それを詳細に調べることによって、さまざまな大きな問題について考える糸口になるはずである。詳細に調べるためにはテーマを絞る必要があり、絞ってもそれを解く自分の姿も含めて(自己言及)議論を広く展開していけばよい。

 そのときに、広い教養が生きる。それがあれば、いろいろ思いつくはずである。想像力も働く。テーマを絞った一点突破でありながらも広い視野が開けるのであれば最高である。

■勉強こそ貧者の武器、ゼミこそ勉強のエンジン

 ここに書いたことは、長年の教育活動と、国学院大学経済学部の「基礎演習A・B」(1年生対象)と「演習I・II・III」(2年生から4年生対象)、そして1・2年生向けの講義の中で日常的に話してきたことである。参考文献は事前にかなり用意して臨んだものの、自説を展開するので精一杯だった。およそ20年前に書いた『社会学の作法・初級編ーー社会学的リテラシー構築のためのレッスン』(文化書房博文社、1995年)の人文社会系ゼミ版という流れになったかのようだが、本書は「ゼミ入門」なので、ひとまずこれで終了とする。

 どうか、この段階に満足せず、一流の大学生として成長し続け(ちなみに成長し続けることこそが「一流」の条件である)、そして、ぜひ教養ある社会人(私はあえて「中間知識人」と呼びたい)になっていただきたい。昔ながらの「勉強して立身出世」の時代はとっくに終わったかのようだが、グローバル化の激流の中にあっては「勉強こそ貧者の武器」「勉強こそ突破口」だとしみじみ感じる。じつは勉強が一番コストが安いのだ。あなたは、どうだろうか。

 最後に一言。勉強はひとりでするものではない。先生や勉強仲間といっしょでないと、持続するのはなかなか難しいのだ。だからゼミが必要なのであり、大学の勉強のエンジンはゼミなのである。そして、みんなで賢くなっていくのがゼミである。

■本書のあとに読んでほしい本たち

 梅棹忠夫『知的生産の技術』を読んで以来、勉強の仕方について書かれた本はおおかた読んできた。もともとは学生に薦めるための本探しだったが、今では趣味のようなものになっている。その中から、本書が想定している初級段階の次とまたその次の段階に進む人のために、いくつかの本を薦めておきたい。かなり厳選したつもりである。すでに本文で触れた本は除いた。さらにものたりないときは、これらの本の近く(図書館であれ書店であれアマゾンであれ・・・)にある本を見てほしい。

・難波功士『大二病ーー「評価」から逃げる若者たち』(双葉新書、2014年)。

・東郷雄二『[新版]文科系必修研究生活術』(ちくま学芸文庫、2009年)。

・ハワード・S・ベッカー『論文の技法』佐野敏行訳(講談社学術文庫、1996年)この第二版が『ベッカー先生の論文教室』小川芳範訳(慶應義塾大学出版会、2012年)。

・平岡公一・武川正吾・山田昌弘・黒田浩一郎監修『研究道ーー学的探求の道案内』(東信堂、2013年)。

・リチャード・S・ワーマン『それは情報ではないーー無情報爆発時代を生き抜くためのコミュニケーション・デザイン』(エムディエヌコーポレーション、2001年)。

・松岡正剛『知の編集術ーー発想・思考を生み出す技法』(講談社現代新書、2000年)あるいは松岡正剛『知の編集工学』(朝日文庫、2001年)

・松岡正剛『ちょっと本気な千夜千冊 虎の巻ーー読書術免許皆伝』(求龍社、2007年)あるいはウェブで「千夜千冊」を検索して千冊読破とはどういうことかを知る。現在は千五百冊を突破。(http://1000ya.isis.ne.jp/top/)

・トム・ケリー&デイヴィッド・ケリー『クリエイティブ・マインドセット』千葉敏生訳(日経BP社、2014年)。

『ゼミ入門』(7)索引

野村一夫『ゼミ入門』文化書房博文社、2014年。
(7)索引

■あ

アイスブレーク 70

アウトライン 73

アウトライン先行型 78

アカデミズム 106

悪文 110

アマゾン 95

アンテナ 140

生きづらい 129,136

池上彰 61

一芸としての専門知識 131

一里塚方式 43

一流の条件 153

一流の大学生 23-25

引用 46,48,67

ウィーナー 45

ウィキペディア 53

n次創作 46

エリート学生 42

演習 13

演習系 13

おたく 109

おつきあいの世界 135

大人扱い 83

オマージュ 46

オリジナリティ 43

オルテガ 29

オンデマンド印刷 141

■か

学問 47

学力試験 25

箇条書き 67

カタカナ語 77

学校化 82

仮のルール 17

カルチャーリッチ 111

感想 72

基礎演習 14

北杜夫 135

詭弁 117

教育上の配慮 45,50

教育職 36

教授会メンバー 37

教養 89-90,133-134

教養のある人 89,136,153

教養のない人 89

教養モード 95

議論の仕方 112

グーグル 53

クラウド 60,104

クリエイティブ 115,135,141,144

研究会スタイル 16

研究職 36

研究ノート 60

研究の奴隷 138

研究モード 95

現代用語の基礎知識 57,120

講義系 13

後続研究 46

公立図書館 93

古典 119

言葉 128

言葉の力 130

固有名詞の世界 106

コンテンツ成り上がりのすごろく 75-76

■さ

サイバネティクス 45

裁判 115

作品性 92,110,150

サブキーワード 53,78

参照文献 48

司会者 49

自己開示 29

自己責任 83

自己提示の作法 31

辞書アプリ 57

実習系 13

事典アプリ 122

児童書 98

自分計画 31

自分に関するキーワード 32

自分の基本情報 29

事務職 36

シャノン 46

ジャパンナレッジ 56

珠玉のエッセイ 105

自由報告 145

情報源 48

情報・知識の品質 57

情報理論 46

少人数教育 16

職業直結性 133

書評 72

事例の扱い 68

新刊書店 94

新古書店 94

新書 63

人文学 105

推薦入学 25

スケッチブック・プレゼンテーション 71

成果主義 83

精読 99

説明 67

ゼミカフェ 139

セミナー 13

ゼミナール 13

ゼミブログ 143

先行研究 46,145

専任教員 37

専門家 133,136

総合知 107

卒業論文 20

■た

大学生活の求心力 130

大学生入門 19

大学の本質 25

大学は言葉でできている 127

他己紹介 32-33

太宰治 97

縦書きの本 96

探索プロセス 58

チームの力 141

知的好奇心 99

ちゃんとした大人 123

中間知識 137

中間知識人 138,153

つぶしがきく人 99

ディベート 112

データベース 54

テーマ地図 118

です・ます調の本 97

デビュー 27

電子辞書 56-57

問いは議論を制す 117

導入教育 17

ドキュメント化 58

都市空間 123

読書感想文 72

読書モード 95

トピックセンテンス 65

友達ネットワーク 34

努力賞 83

■な

夏目漱石 97

日経テレコン 55

2次創作 46

ニュース 50

入門演習 14

入門段階特有のやり方 17

ノート 101

■は

パチンコ玉理論 151

発見 121

パロディ 46

パワーポイント 69

ハンドアウト 69

百科事典 56

ファイリング 103

フェイスブック 54

プレゼンテーション 61

文化 46

文庫 64,75

分析知 107

編集 44,102

編集会議 143

本というメディア 100,105-108

本のタイトル 73

本はノートである 102

本文 48

本を選ぶ 75

■ま

松岡正剛 102

マルクス 101

見える化 61

命題 67

メディア体験 123

メディア・リテラシー 109

ミメーシス 46

宮沢賢治 97

無作為な自分 27-28

模倣 46

■や

やらせなしの議論 113

雪だるま理論 90

幼稚な大学生 42

要約 48,65

■ら

ライブ感 70

リスペクト 46

レジュメ 69

レーニン 101

労作 150

ロールモデル 131

論点提示式 66

論文 60,106

■わ

話題提供 68

私 49

ヲタクな教養 91-92

■A

Cinii 55

Evernote 104

GoogleApps 104

kotobank 56

SNS 54-55

WordPress 104

YouTube 111

『ゼミ入門』(4)問題関心編

野村一夫『ゼミ入門』文化書房博文社、2014年。
(4)問題関心編

■教養をつける

「教養とは何か」という大きな問いを立ててしまうと答えにくいが、「教養のある人」と「教養のない人」とはどんな違いがあるかについては経験的に答えることができる。「教養のある人」というのは、何を話しても反応してくれる人である。わかるテーマの時はフォローしてくれるし、わからないときは適切な質問をしてくれる。その場では応答できないときも、あとで「あれは、こういうことだったのね」と返してくれる人のことである。それに対して「教養のない人」は関心のないテーマについてはスルーしてしまう。反応を返せない。質問もできない。そんな話をしたことも忘れてしまう。

 ここから「教養とは何か」について答を見いだすとしたら、教養とは、既成事実の知識の獲得を通して、新しい事柄に対する受容能力・対応能力・反省能力を高めることである。すなわち、知らないことをスルーするのではなく、きちんと引っかけて、未知のことを言われても聞き流さない能力のことである。そして、そういう対話をきっかけに学んでしまう人である。そういう知性の発動を総称して「教養」と呼ぶと考えればよい。

 では、どうしたら教養がつくのか。ここでは「雪だるま理論」として説明しよう。

 雪だるまというものは、ただそこらへんの雪を集めても作れない。まず雪で小さな芯をしっかり作って、それから転がすのである。こうすると、芯の周りに雪がくっついていって、だんだん大きくできるのである。

 この「芯」にあたるものを作るのが大学生の四年間である。これは小中高校までの学力とは、また違うものである。これをやりそこなうと、大学に入った甲斐がない。しかも芯を作るのは早いに越したことはない。同じように転がっているように見えても、芯のある人はどんどん大きくなっていくし、芯のない人はくずれてしまう。この残酷なプロセスを今までたくさん見てきただけに、大学生になったらスタートダッシュすることを勧めたいのである。


■連鎖式読書スタイルの確立

 芯を作るメディアは本だ。きちんと編集されている。プロが書いている。パッケージ化されている。もちろんネット上にもしっかりしたコンテンツは数多く流通しているのであるが、それを見つけるリテラシーがないと、たいてい低い方に流れてしまう。低い方というのは、編集されていない、素人が書いた、だらだら議論が流れてしまう方である。素人が書き殴った文章や議論をいくら読んでも教養にはならない。永遠の同語反復である。もちろんテーマによっては「ヲタクな教養」というものもあって、それは今はサブカルでも、そのうちメジャーになることも多々あって、それは否定しない。でも、大学時代でしかできないことをしたくないのか、と問いたい。

 ポイントは「作品性」があるかどうかである。作品というものは、小説やコミックだけではない。美術や音楽だけでもない。およそ文化的コンテンツには、作品性を持つものと持たないものがあって、その区別は難しいが、本の出版は手間がかかるものなので、編集者が時間をかけて著者を吟味して、著者は自分の持ちネタを吟味して執筆し、それを編集者がチェックして、印刷されるものである。総じて作品性は高い。そういうものにふれることが大切だと思う。


 さて、何から読めばいいかわからないという人は、あえてジュニア向けの新書をたくさん読んでみよう。「岩波ジュニア新書」と「ちくまプリマー新書」から手に取ってみればいい。高校生向けではあるのだが、じっさいに高校生は自発的に読むことはあまりないのではないか。大学に入ったばかりの時が読み時だと思う。岩波はやさしいが、ちくまの方は論点をしぼってちょっと深いことを書いている。文庫は良書が多いが意外に難しいものもあるので、それなら普通の新書を読むとよい。1・2冊読んで満足するのではなく、ある程度、量をこなしてスピード感をつけることが大事だ。


 では、どこで選ぶか。

 図書館の本には時間軸がある。つまり古いものから新しいものまでテーマ別に分類されて並んでいる。大学図書館だとアカデミックな専門書が主役である。文庫・新書などは別に固まっているところが多いので、まずはそこから始めるとよい。

 一般市民向けの本では、地元の公立図書館のほうが使いやすい。それほど専門的な本ではなく、読書好きの人が読むレベルの本が並んでいる。自分の住んでいる自治体はもちろんだが、通っている大学のある場所の自治体の公立図書館も使えるはずである。どちらも本を借りやすいし返しやすいメリットがある。


 買うとなるとまず新古書店かな。安いので、ちょっと前に出たような新書や文庫をたくさん買おう。すでに文庫化された単行本も安いはずだ。今どきなら、もちろん電子書籍でもいいが、たいてい古本の方が安い。新古本として売られている本なら100円で1冊買えることもあるので、少し古い本もいとわず買っていくとよい。案外「少し古い本」あたりが読みやすいものだ。というのは、そこに書かれてあることがある程度常識化していることがあるので、読みやすいのである。「かなり古い本」は立ち位置が現在と違うので理解が難しいし「ごく最近の本」は定価でしか買えない。

 ということになると新刊書店では立ち読み中心になるかもしれない。若いころは、古いことはとっつきにくく、今のことならついて行けることが多いので、生きのいい新刊が並んでいる書店で立ち読みして選ぶのももちろんありである。新刊書店は、とてもいいアンテナになる。近年「棚づくり」に精を出している書店が俄然多くなった。ぜひ、そういう気の利いた書店を行きつけにしてほしい。

 もうひとつ重要なのがネット書店・ネット古書店である。どの本が行けてる本か「あたりをつける」にはアマゾンがいい。とくに、関連する本がずらっと並ぶのがいい。アマゾン独自のおおすめの仕組みがあるのだ(購買履歴のビッグデータから商品間のつながりの強さを数値化して表示する)。マーケットプレイスでは中古も買える。新書だと1円のものもある。じっさいには送料がかかかるのであるが。やさしい本については、本格的書誌データベースよりも、アマゾンの方がいい。アマゾンでもいい、のではない。このあたりを頭のいい先生は勘違いしているように思う。アウトプットを気にする「研究モード」ではなく、ひたすらインプットしていく「読書モード」「教養モード」にはそれなりに独自のやり方があるのだ。アマゾンはそれをよく表現できている。連想検索などというデータベースより、まずはこちらを日常の道具にしてみよう。

■縦書きの本を読む


 いくつかヒントを。

 童話でも伝記でもよい。縦書きの本を読んでみることだ。「今さら縦書きだって」と思うかもしれないが、たとえばコミックだって雑誌だって新聞だって、たいてい縦書き仕様である。日本語圏において縦書きはまだまだ健在なのだ。

 経済学や政治学や社会学の教科書はたいてい横書きである。これで頭に入る人はそれでいいが、そうでない人は縦書きの入門書を読むといい。「古い人は縦書きがよくて、若い人は横書きだ」というのは現代の迷信だと思う。本をよく読む人は、たいてい縦書きが好きなものだ。人文系以外の研究者は横書きが好きである、というか、注をつけたり英語の参考文献を挙げたりするのに何かと便利だからである。

■「です・ます調」の本を読む

 もうひとつヒントを挙げておこう。それは「です・ます調」の本を読んでみようということだ。たとえば現代の高校生が夏目漱石の『こころ』が読めるのは「です・ます調」の手紙文(先生の遺書)が染みるからだ。太宰治の作品にも「です・ます調」はたくさんあって、それが若い人も惹きつける。宮沢賢治の童話も同様である。

 人文社会はもちろん自然科学の本でも「です・ます調」は頭に入りやすいのだ。なぜなら、著者に直接話しかけられているのと同じ構えになるからだ。

 ついでに言うと、文章が書けないときは「です・ます調」で書き下ろすとよい。そのあと「である調」に直せばよい。書きあぐねているときには参考にしてほしい。

 その点では講演や対談も読みやすい。雑誌ではインタビューが読みやすいのと同様である。


 この文脈では児童書もターゲットに入る。児童書は「です・ます調」で書いてあることが多い上に、ルビがふってあり(よみがながついている)分量もほどほどである。字も大きい。おそらく多くの大学一年生は、こうした児童書を系統的に読んでこなかったろうから、このさい近所の図書館から借りて読んでみるといい。気持ちよく読み進めるはずである。

■メガ読みのすすめ

 精読は大切である。しかし、精読すべき本と出会うには多く読む必要がある。たまたま出会った本にしがみついているような人は、これからはやっていけないのではないかと思う。「つぶしがきく人」が求められる時代に「好きなことしか知らない人」は生きづらいのではなかろうか。本人の勝手と言えば勝手だが、専門家としては「それでよい、私はそれでやってきた」と言えるかもしれないが、一介の教師としては、生きづらい目にはあわせたくない。

 だれにでもあると思うが、何らかの知的好奇心が爆発するときがある。「爆発的に知りたくなる」と言うべきか。べつに学問的なことでなくても、たとえば中高生なら「グループアイドルのこの子はなんて名前なのか」「このゲームのあるレベルの攻略のコツは何か」といったことで、ウェブ上であれこれ探しまくって、ある種の深みにハマったことがあるのではないかと思う。ウェブはハイパーテキストだから、わりとかんたんに深みに入ることができる。これが魅力でもあり魔力でもあるのだが。


 じつは本のメガ読みも同じことが生じるのだ。いろいろ読んでいくと謎が自分の中に生じてきて、それを解決したくなる。この「解決したくなる」という気持ちが大事で、これを放置しないで手を尽くすよう心がけるかどうかで、けっこう人生変わってくる。解決方法はいろいろで、リアルであれSNSであれ、友達や先生や知り合いに尋ねてみたり、ネットで検索してみたりするのもありだが、本というメディアはコンテンツに内的な連鎖性をもっているので、1冊読むと数冊は読みたくなるものである。謎が深まる場合もあるが、それなりに納得できる場所に出ることができるものである。

■図書館と付箋

 この両者の関係は密接である。図書館の本に線引きするのは悪いことである。勉強だから許されるということはない。ならばどうするか。ノートを取るか、付箋紙を貼るか、コピーするか、基本的には、そのいずれかである。

 マルクスにせよ、レーニンにせよ、本をよく読みながらノートを取った。のちにそれ自体が貴重な思索の痕跡として出版されて、よく読まれたものだ。昭和の時代に勉強した世代は、たいていこうしたものである。

■「本はノートである」しかし・・

 このフレーズは私の作ではない。松岡正剛さんという博学な「編集者」(この人の「編集」概念には特別な意味がある)が「本はノートである」といろいろなところで語っていて、その受け売りである。これは目から鱗が落ちるフレーズではないだろうか。小説を読み飛ばすのならともかくも、学術的な文章を読むのに「書き込み」は必須である。ましてアウトプットをするためとなると、書き込まずにはおれないはずである。

 私自身は若いときから図書館に依存して勉強してきたので、きれいに読む習慣がついているものの、若いときのように読書しながらノートを取るという習慣がいつの間にか枯れてしまったので、最近は付箋紙をつけるしかない。しかしごく最近は付箋紙をつけるのもおっくうなので、記憶に頼ることが多くなった。しかし記憶は当てにならない。トリガーがあれば思い出せるが、それがないと忘却の彼方に行ってしまう。友人の研究者はブログやSNSを読書ノートにしていたりするので、多少のマネをするのであるが、それには相当なマメさが必要だ。だから、思考のトリガーになるよう、なるべく本を買うようにしている。本は引き出しのようなもので、背表紙を見るだけで記憶が蘇る。今は世界中の古本がネットで簡単に買えるので、手間はかからない。松岡氏も本は買うようにして「ノート」にしてしまうとのことだ。しかし、これは期すところがあるからできる技で(つまり元を取る覚悟がある)学生では文庫と新書に限られるだろう。この2種類の本に限っては古本でいいから買うようにしよう。

 図書館の本の場合、結果的に、使えるところをコピーして、そこに書き込むのが、よくあるやり方で、多くの学者の研究室は本よりもコピーだらけなものである。この場合、ファイリングは必須。図書館で資料の関連箇所をことごとくコピーしてしまうというスタイルもある。目次や奥付も必ずコピーするようにしておけば情報源を明示できる。集めたコピーの範囲でまとめるとなれば、途方には暮れないものだ。書き込みも自由自在。


 すでにクラウドの時代である。使えるところをスキャンあるいは撮影してEvernoteに取り込んで、それにメモをつけておく、といった方法も簡単にできるようになった。こうしたクラウドサービスをノート代わりに使い込むスタイルを早めに作っておくといい。ブログでもWordPressだとパスワードをかけて非公開でできるので、同様に自分のノート代わりになる。GoogleAppsだとほんとに何でもできる。もちろんノートに手書きで書き込むのが一番頭にしみこむのであるが。


■本にこだわる理由

 問題関心を広げていくにはメディアは何でもよさそうである。ましてネット社会である。それはそれで習熟すべきである。その上で、あえて本というメディアの効用を明確にしておきたい。

 本にこだわるのは、世の中には200ページないと言えない知識がたくさんあるからだ。あるいは500ページとか千ページでないと言えないことがあるのだ。

 たとえば歴史や文学や哲学や批評などは、精密に論じようとすればするほど分量が必要になる。これら人文学では、長く詳しい記述は一般に学術性が高いと言えるし、逆に短いとエッセイと見られてしまう。もちろん「珠玉のエッセイ」というものはあって、ことの本質を端的に表現した文章もあるが、それを読み解くには高いリテラシーや背景知識が必要だったりする。

 では理由その一。アカデミズムは基本的に論文が基本単位である。一本の論文はそれほど長いものではない。ほんとに絞り込んでこそ論文は成立する。だから一本だけでは完結しないので、それを継続的に書き継いでいくのが常道になっている。だから学術書は基本的には「論文集」である。こうなってようやくひとまとまりの知識になる。そのあとに、社会的文化的教育的ニーズがあれば、それをわかりやすくしたりする仕事に入るのである。こうしてできた本には、数百ページでないと説明しきれないような、ひとまとまりの知識が用意されているのだ。

 理由その二。学問の世界は意外に具体的であるから必然的に分量が必要である。自然科学はもちろんそうだが、人文学も資料は具体的に提示されるし、社会科学もまた調査などに基くことが多いのでかなり具体的である。固有名詞の世界がそこでは分析され説明されているのである。したがって要約に限界がある場合が多い。つまり要約してしまうと伝わらない事柄があるということだ。研究者というものは、いつも字数制限に悩まされているものである。

 理由その三。それは総合知という方向があるから。そもそも学問には、分析知と総合知という二つの傾向があって、分析知は研究対象をどんどん掘り込んでいくやり方であるのに対して、総合知は多くの研究成果を盛り込んで体系なりストーリーなりを提示するやり方である。基本的には分析知が中心と考えた方が現実的である。この場合、具体性やテーマの絞り込みが勝負になる。これは厳しい世界なので、分析知に命をかけている研究者は、あまり総合知を信用しない。

 総合知の場合は、分析知の上澄みを集めるのであろうから、相当なボリュームになるのが普通である。読者が専門家であれば論文参照を明示しておけば短くまとめることもできるが、論文参照に限界がある場合、つまり読者にその場で参考知識を伝えたいとき、参照文献をその場で要約する必要が出てくる。そうすると、いきおい分厚い説明になってしまう。ていねいに説明する分だけ分量は必要なのだ。

 というわけで、学問に関して本というメディアには格段の重要性がある。ここは押さえておいてほしい。

 本として作られたものなら、ネット上で入手できる電子書籍でもいい。もちろん安直に作られた本もたくさんあるが、どれもそれなりに編集されていて、書きっぱなしということはない。英語圏ではオンライン化とネット化が急速に進んでいて、学術的なところから逆転が進んでいるので、日本語圏でもいずれ逆転するのだろう。しかし、テキストコンテンツの作り方にさほどの違いがあるわけではない。

 いずれにしても、系統的に学ぶには本が適している。本になじんでほしい。

■メディア・リテラシーの訓練

 もちろん文化的コンテンツは文字によるものだけではない。音声や映像など、つまり音楽や映画やそれらに類したものがある。これらについては大学初心者もそれなりに習熟しているだろうから多くは語るまい。

 ネット時代の困難は、深掘りはできるかもしれないが、視野が狭くなってしまうことにある。「たまたま知った」ということが意外に重要なのだが、たとえばネットのニュースの欠点は、自分の関心のない情報と接触しないで済むところにある。


 自称「おたく」と言っても、じつはたんなる「消費者」にすぎないことのなんと多いことか。いまどきの消費はけっこう難しいので、それで満足しているだけなのだ、と言いたい。身を乗り出して未知の領域に踏み出してほしい。広げてほしい軸は2つある。多様性と歴史である。学生時代になるべく関心領域を拡大しておくとよい。たいてい、それ以上広がらない。十年たっても、二十年たっても、五十年たっても。

 おまけで一言。あまり悪文を読まないことも大切である。ネット上には悪文が満ちあふれている。素人が書いた悪文に慣れると、悪文を悪文と感じなくなってしまう。ある程度のプロが(お金をもらって書いているか、それとも自分の地位を守るためか等は問わないが、ともかく)時間をかけて書いたものや、きちんと編集されたものを読むようにしたいものだ。別の言い方をすれば「作品性」のあるものを読んでほしい。


■カルチャーリッチな若者になる

 ビンボーでも、YouTubeなどのネットサービスを利用すれば、映像や音楽には触れることができる。私のようなシラケ世代が聴いた古い音楽などは、今やジャンルを問わずフルヴァージョンで聴くこともできる。たとえばゼミで私が「オノ・ヨーコのWhyって曲がすごいんだよね」と言ったら、その場でゼミ生が見つけて彼女の絶叫をみんなで聴いたり、パフュームの「ポリリズム」について語っていたときに「たとえばマイルス・デイビスのオンザコーナーなんかそうだよね」と言ったとたんにゼミ生がYouTubeで検索して鳴らしてくれる。研究室でけたたましい音を聴きながら「ああ、凄い時代だな」と思う。使いようによっては、古今東西のカルチャーと触れることができる希有な時代だなと痛感するのである。

 このさい、文字コンテンツよりも音楽や動画が先になってしまうのは仕方ないこととは言える。でも、これだけだと半分。あと半分は言葉である。文字コンテンツについては、あえて勉強するという形に持って行くしかない。大学でやるのは、それである。

■議論の作法

 言葉の勉強として重要なのは「議論の仕方」である。これはもう一生使える。

 議論には作法がある。それを学ぶのが「ディベート」という授業である。ディベートは、あらかじめいろいろ仕込んでおいて、大ざっぱなシナリオに従って議論することである。ディベートについては多くの本が出ていて、やる場合には参考にする必要があるが、ここではあえてディベートではない「やらせなしの議論」の初歩について述べておきたい。私自身としてはディベートは正直たいした勉強にならないと思っている。

 トレーニングすべき課題は、さしあたり五つのアクションである。当面、五つだけでいい。アクションしよう。

(1)質問をする

 報告者が答えやすい質問をしてあげるというのが最初の作法である。「こんな初歩的な質問をしていいのか」と思うくらいでもかまわない。みんなスタートしたばかりなのだから、初級編では許されるし、専門家たちだって自分の専門分野を少しでも外れると初歩的なことも知らないものであって、ごく近い分野の専門家の会合でもない限り、初歩的な質問は許されると考えてほしい。そのさいは、なるべく早い段階で済ませることが「議論の作法」にかなうやり方だ。

(2)賛同する


 「その通りだな」と思ったら、いとわずそれを声にしよう。「というのは・・・」とまず言って、それから理由を考える。それでいい。報告者を孤立させないことがたいせつだ。あえて味方になってあげることだ。

(3)反論する


 反論が出ないと議論は平板になる。反論は議論の展開上、必要なものである。ただし、理由がなければならない。予感のレベルで反論してもいいのだが、だれかがバックアップしてくれないと議論が進まない可能性がある。孤立を怖れず反論する。みんながみんな空気を読む時代には度胸がいるかもしれないけれども。私はネット上の安直な攻撃的姿勢は好きではないが、それは一回ひねっただけで自己満足しているからで、あとは同調するだけになっているからだ。結局、空気を読んでいるだけである。


(4)対案提示する


 たんに反論するのではなく「そうではなくて、こうでもありうるんじゃないの」という想像力を発動させてみる。想像力が貧困だと何も出てこないが、あえて何か対案を提示しようと努力してみよう。それだけでも自分の情報感度は高まる。また、これを出せる人は大事にしよう。クリエイティブな人だから。

(5)応答する


 こまかしたり「わからない」ですませないこと。頭をフル回転することをいとわないこと。出し惜しみしないこと。場数(ばかず)をこなすこと。議論というものは「言葉で勝負」の世界なので、ここは感情をこらえて応答することを心がけたいものだ。この点で私自身はずいぶん失敗しているので、感情のコントロールが難しいということは承知した上で、あえて強調しておきたい。慣れることである。

 ここで私は叫びたい気分である。「聞き流すな。流す癖をつけるな」と。議論の渦に入ってほしい。傍観者はいらないのである。

 厳密な議論ということでは裁判こそがモデルになる。しかし、研究学会でないかぎり「判決」は当座必要ない。ただし「整理」はだれかがやらなければならない。進行役の役割である。


 以上は初級編として私なりにポイントを説明したものであるが、議論の仕方には深いロジックや技がある。それを学ぶと将来かなり「できる人」になれるはずである。分野は問わない。それについては、福澤一『議論のレッスン』(生活人新書、2002年)を読んでほしい。この領域の有名な古典は次の本である。スティーヴン・トゥールミン『議論の技法ーートゥールミンモデルの原典』(戸田山和久・福澤一訳、東京図書、2011年)。さらに、議論で負けないための本もある。半分ダークサイドに入るが、日本主義や旧左翼や新左翼の人たちは議論で何かを学ぶというのでなく、また、じっくり説得するわけでもなく、言論闘争として必ずその場その場で「勝利」しなければならないと信じているので、狡猾に詭弁(きべん)を弄するものである。その議論は政治的策略に満ちたものになる。そういう議論につきあうことになったときには、しっかりそのロジック(じっさいには言葉のマジック)を見破らなければならない。「問いは議論を制す」という命題を中心に目から鱗が落ちるような本として、香西秀信『レトリックと詭弁ーー禁断の議論術講座』(ちくま文庫、2010年)参照。これをはじめ「詭弁」をテーマにした本を読むと目が覚める。


■ゼミを選ぶ、テーマを選ぶ、先生を選ぶ


 私学の社会科学系では必ずしも必修ではないかもしれないが、専門のゼミが開かれていれば、ぜひ参加すべきである。ゼミに参加しないと「元が取れない」と考えてもいいくらいである。

 では、何を基準に選ぶか。まず、関心の持てるテーマでなければならない。ここで少しは調べておこう。その上で、先生や先輩を見て、やっていけそうかを考える。

 私が薦めたいのは、研究者として活躍している先生というよりは、博学な先生である。師匠となる先生は、できれば何でも答えてくれる先生がよい。狭い専門分野以外は何も知らない先生だと、ディープに研究できるが、よほど研究テーマに関心が持てないかぎり、やや堅苦しくなってしまう可能性もある。ただし、これは人による。せめてその先生の公開されている業績を確認し、実際に話をしてみよう。


■テーマ地図を見渡す

 問題を知る。テーマを知る。どんどんはみ出して見よう。


 一番よいのは、図書館や書店の棚を何度もじっくりと眺めることである。手に取ってみることをオススメする。アマゾンでオススメをたどってみるのも効果があるが、ネットは一覧性に乏しい。


 なるべく俯瞰できる本を読んでみよう。あえて言うが、いろいろな領域をつまみぐいしているものでいい。有能な先生が必ず言うように、古典にアタックすることはいいことにちがいないが、たいてい挫折するので「まず古典を読め」というのには反対である。入門段階ではいろんなテーマを知っていることの方が重要だと思う。頭の中に、迷子にならない程度の地図ができたあたりで「そろそろ古典に挑戦すれば」と言いたい。

 経済学・社会学・政治学・歴史学・文学・哲学・思想・カルチャーなどなど。およそ文化的なものについてひとあたり手をつけてみよう。趣味とは別に、である。情報学系も外せない。これは文理融合である。コンピュータのしくみや歴史は知っておいた方がよい。

 ここで一言。新しいことは自然と耳に入ってくるが、昔のことは勉強しなければならない。理論と歴史を押さえるのがポイントである。私なら新しい分野に入るときは学説史から始める。これでたいたいのことがわかる。


■専門事典・百科事典を読む

 手元に置いておきたいのは『現代用語の基礎知識』だ。年刊だが、毎年買い換える必要はない。学生時代に1回か2回買えばよい。それは1年次と3年次になるだろう。この本は時事問題だけでなく、たいていの基礎的なことがひと通り載っているので、早いうちに1冊買っておくことをお勧めする。アプリでもいいが、パラパラ見るようにすると、いざというときに使いこなせる。本もアプリもコストパフォーマンスは抜群である。

 専門分野がはっきりしているときは「○○学事典」を(古本でいいから)1冊持っておくこともお勧めしたい。こういうものを眺めるだけでも一利ある。「用語辞典」だと限界はある。


 「○○学の名著」も事典代わりに使える。「○○学文献事典」も役に立つ。こういう本を「やめとけ」と言う先生も多いが、便利な本はさっさと読んでしまえばいい話である。

 よくピアノの先生が生徒に楽譜から直接「自分の演奏」を弾けるようにしなさいと指導することがあるが、プロにでもならないかぎり、何か模範的な演奏を聴いてマネすることから始めた方が早いと思う。それと同じである。自分で発見することは大事だが、それは別に勉強でなくてもかまわないのである。たとえば学生の多くは、すでに音楽だとかコミックだとかゲームの世界で「発見」はしているものである。それに対して人文社会系の原典を読んで何かを発見するのは、それほどかんたんではない。


 さて、事典を読むというのは、とんでもないことだと思うかもしれない。先生も学生も、きっとそうだろう。誰もオススメしないだろうから、あえて書いておこう。事典は図書館から借り出せないので、古いものをヤフオクなどで入手して読み尽くす。学生時代にしかできないことだと思うが、おそらく誰もやらない。だったら『ポプラディア』のような小学生から使えるとされる百科事典だと、じつはスラスラ読めるのである。しかし現実的なのは事典アプリだろう。これは優先順位の高いアプリである。


■街を歩く・現場に立ち会う・ちゃんとした大人に会う

 これから述べる3点は、私自身はあまりしてこなかったことで、今はとても後悔していることである。それだけに大学生になりたての人には最初から心がけてほしいのである。

(1)なるべく街を歩くようにしたほうがよいということ。行動力がある人には「今さら」であるが、現代において都会の優位性は疑いないことなので、都市的センスを磨いてほしい。文化というものは必ずしもメディア上で展開されるとはかぎらない。具体的な都市空間の中にヴィヴィッドに作用しているものである。メディア体験ならどこにいてもできるが、都市空間というものはライブ固有なものなので、そこに行かなければならない。

(2)現場に立ち会うようにすること。たくさんの現場を踏むことだ。これが少ないと、わずかの経験で自分の「世界像」を決めつけてしまいがちである。この点については、イベントやライブが好きな人には今さら言うまでもないことだろう。たとえば学内の講演会なんて学生は誰も来ないが、そういう場所にもマメに顔を出すようにするといい勉強になるのだが。自分の好き嫌いにこだわることなんか、どうでもよいことである。アンテナをピント立てて、動こう。

(3)ちゃんとした大人に会うこと。何をもって「ちゃんとした」と言えるのかは難しい。教養系、職人系、対話系、オシャレ系など、それはいろいろである。よくあるパターンだと、バイト先で出会う人だけが大人だと勘違いしている学生が多い。それだけか? 教員の先生もけっこう「ちゃんとした大人」である。敬遠しないことだ。

『ゼミ入門』(5)もうひとつの中級編

野村一夫『ゼミ入門』文化書房博文社、2014年。
(5)もうひとつの中級編

■大学は言葉でできている

 ここで中間考察。これまで述べてきたことのバックボーンには次のような考え方がある。「大学は言葉でできている」

 大学に通うようになると、まずは建物、つぎに友だち、といった具合に見えてくる。しかし、じつは大学の本質は言葉でできている。それは四年間通うと身にしみてわかるし、卒業すると、もっと実感する。  大学は言葉でできている。では、いったいどんな言葉か。英語はもちろんである。でも、それだけじゃない。ものごとの名前、意味、概念、数字、命題、歴史、解説などなど。こういうことは文学部や法学部の人はなんとなくわかっている。しかし経済学部や社会学部そしてカタカナ学部の人はどうだろう。だから確認しておきたい。  そもそも経済や社会の現象や問題は、そのままでは見えてこない。概念とか理論とか歴史とか、そういう「ことば」がないと本当の姿は見えない。たとえば数字もことばの一種である。数学そのもの以外に、たんなる数字はでてこない。必ず意味をもった「言葉」として登場してくる。経済の場合、これはかなり多い。  経済や社会や文化は、抽象度の高い言葉がないと捉えられない。見えてこないのである。たとえば経済学を学ぶとしても、じつはいろんな「言葉」を学ぶんだということである。  言葉の森を通過することが重要だ。そして、語り合うことばの中でこそ、それらの反応として自分の中に新しいアイデアが生まれたり、個性的な何者かが磨かれていく。  その意味で、言葉は自分を自由にする。他人のいうことがわかる。自分の考えを自在に表現できる。チームで仕事ができる。世の中のことがわかると楽しく生活ができる。逆に「生きづらい」と感じるときは「言葉」が不足しているのだ。  じつは、私たちが暮らしている社会それ自体も言葉でできている。言葉によって動いている。たとえば裁判所で「懲役八年に処する」と言われたら刑務所に入らなければならない。経済で言えば、ローンを借りるときに「五パーセントの利子が付きます」と言われたら、ほんとに五パーセントの利子が付くので、必死で返さなければならない。 だから、言葉をどれだけ知っているか、理解できているか、それらを上手に駆使できるかによって格差ができる。給料からして違ってくる。  というわけで、大学での勉強は、すべて「言葉の力をつける」につきる。このことから逃げてはいけない。スルーしてはいけない。それでは大学に来たかいがない。なにより卒業できない。覚悟を決めてほしい。  これまでたくさんの学生たちを見てきたが、言葉を受け止める能力は、入学時点からくらべてヒトケタアップするものである。つまり、10倍とか50倍とか、それがあたりまえになる。こう言うと「はったり」に聞こえるかもしれないが、実際そうなのだ。  初年次教育として始まる基礎演習では、最初、一ページ分を読んで発表するだけで「ぜいぜい」言っていた人が、一年の後半になると三百ページあるような専門書について発表できるようになる。今どきの大学では、教員スタッフもそうなるように、いろいろ仕掛けをしている。ノリが悪いとだめだが、そこそこついてきてくれると、いつのまにか「言葉の力」がついてくる。これが大学生活の求心力なのである。

■一芸としての専門知識  ひとつの専門だけでやっていけるのか。「一芸」として専門領域をマスターするのは重要である。「芸がない」のでは社会へのアピールのチカラが乏しい。  たとえば、私の勤務する経済学部で想定しているのは、次のような一芸学生である。以下の例は女子の場合を考えたときのロールモデルである。とくに経済学科は女子が少ないので、具体的に女子のロールモデルを提示しなければならないと別件で考えていたので、その私案をここで流用しておく。 例)一芸で社会と勝負しよう!女子編 マクロガール、ミクロガール、経済史女、統計女子、英語女子、金融女子、証券女子、街おこし引受人、NPO運動家、メディア文化系、ITおたく系、資格マニア女子、経理おまかせ人、冒険的起業家  たまたま女子で示してみたが、もちろんマクロ経済学が得意なマクロボーイも、ミクロ経済学が得意なミクロボーイもいていいのである。こうした一芸を磨くのがゼミの目的である。

 このようなことはゼミにいる人には自明であろう。私が強調したいのは、その次のステップである。

■知的鎖国を解く・全関心領域解禁・知的放牧

 若いころ複数の理系キャンパスで教養科目を担当していたので、多少の事情はわかる。理系のキャンパスでは、進級するとどんどん専門特化されていく。教養科目なんかほとんど選択の余地のない配置になっていたりする。学部の先生たちもそれが当然だと信じている。「教養(科目)なんていらない」という思想が丸出しである。社会科学系でも、古いカリキュラムが残っていると、そういう傾向のキャンパスがあって、その視野の狭さにビックリする。

 でも、ほんとうに「教養なんていらない」のだろうか。この小さな本で扱うには大きすぎる問いだが、少し持論を展開しておくので、それをたたき台にして議論してほしい。

 教養は必要である。昔ながらの技術系・理系・医療系では専門の勉強が職業に直結するから教養はノイズ扱いされ、その結果として、ややいびつな知性形成がおこなわれる。技術的優越性を誇示する「専門家」(エキスパート)とはそのような人たちのことで、これは何も大学教授だけの話ではない(むしろ大学教授になる人はちょっとまたひと味違うことが多いのがなぜかはわからない)。それに対して、広く人文社会系では職業直結性は薄いので、幅広い教養で役に立たないものは何もないくらいである。なぜなら教養は人と人を知的に結びつけるからである。クリエイティブなチームに入るにせよ、ばりばりの営業の最前線に配置されたとしても、教養を媒介にしたつながりは力強いものである。こういうものはどこでも役に立つ。

 というわけで、学生時代に教養的知識は広げるだけ広げておくことをオススメする。社会に出ると職業知識以外は狭くなるばかりである。  ほんとうは順序が逆なのだ。最初に専門科目を集中して勉強したあとに教養科目を勉強するといいんじゃなかろうか。そうすれば立ち位置を確保した上で自由に飛勇できる(知的冒険!)はずなので、教養科目は、砂漠の中のオアシスのように瑞々しい風景に見えるのではないか。現状は必ずしもそうではないので、自分で工夫して、勝手にどんどんやっていけばいい。時間はあるはずだ。

 そもそも、多くの人が思っているように学生時代はそんなに限られた時間なのか。限られているから「今、遊ばないでいつ遊ぶんだ」的な考え方がはびこっているような気がする。

 しかし、案外そうではない。時間はあるのだ。じっさいの多くの時間が友人関係の維持に使われていて、夜はしたたか飲んでばかりいるような気がする。

 有名な作家の北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』には、青春期とは無駄に時間を使うことだとしみじみ書いてあるが、歴史は際限なく繰り返していて、リア充の学生たちは壮大な「おつきあいの世界」に時間を費やしている。他方、オタクな学生たちは、、ネット依存の学生たちは・・・(中略)。こういうことは仕方のないことかもしれないが、そうして「普通の人」になっていくのである。それ以上は望まない人は、そこまで。この本ともここまでである。グッドラック! しかし、何かにつけてクリエイティブでありたいと思う人は、そこにとどまってはいけない。

■中間知識論

 今の時代背景としては、一つのことしかできない人は生きづらいのではないか。時代の傾向としては「何でも対応できる」「つぶしがきく」ことがかなり重い意味を持つようになっているように思う。

 一芸だけの「専門家」でも、それ以外のことは何にも知らないし関心もないといった人は、「○○一筋」としてテレビなんかで賞賛されることも多いが、それを取材し伝える側は、毎日異なるジャンルの「一芸」を持っている人の取材をしているのである。人文社会情報国際系の人は、この「伝える側」の方に立つことが多いのではあるまいか。そのとき専門家でも素人でもない「教養ある社会人(物知り・見識ある市民・事情通)」であることに意味がでてくる。

 ただし「教養」という言葉を使ってしまうと「教養主義」というのが絡んできて、古色蒼然たる、やおら重い言葉になってしまう。

 そこで勝手に造語すると「中間知識」というレイヤー(層)があるのだ。学術的知識から見ると二次的情報になるが、常識のレベルよりも一段高度な水準の知識である。知識のレイヤーをざっと並べてみよう。ただし、どれが上にあるか下になるかはわからない。一応、大学という場所での順位を想定して並べてみると、こうなる。

・学術的知識(専門的知識)

・中間知識(総合教養)

・その時代・その地域に妥当な常識

・特定領域でのみ妥当な特殊な知識(宗教の教義、職人わざ、先端的芸術、職場のノウハウなど)

・おそらく妥当性のない知識(うわさ、都市伝説、とんでも情報など)

 ここでいう「中間知識」は「媒介する知識」でもある。「つなぐ知識」である。それを豊富に利用できる人を「中間知識人」と呼ぶことにしたい。私たちは大学で「ただの若者」から「中間知識人」になるのである。

 もはや知識は特定のディシプリン(学問領域)から自由になっている。たとえば文芸批評家が思想界を主導していたりするのは、ディシプリンから自由に発言できる特権を公認され来たからである。みはやこの特権は、どんな人でも行使可能になっている。  そういう意味では、学部生を「研究の奴隷」にする必要はなくなった。学問の継承者づくりは研究中心の大学院大学でやればよい。ふつうの大学の学部教育は「教養教育の原理」私の言葉で言うと「中間知識の原理」によって進められるべきだ。目標は研究者ではない。教養ある社会人(中間知識人)になることだ。そこから逆算して勉強していけばよい。

■ゼミカフェ

 飲み会はどこでも盛んだ。ゼミも毎回飲み会付きというところも多いかもしれない。飲み会で仲良くなれることは確かだ。しかし、そればかりでいいのかと思うところがあって、私は「ゼミカフェ」というのを休日の朝から始めることがある。雰囲気作りには香りが大事なので、近くのスターバックスでポットサービス(ポットごと借りてくる)を利用して、コーヒーの香り豊かにして、自己紹介や近況報告などをしている。4年生のゼミでも就職活動の具合で中途半端な時間が生まれたときは臨時にゼミカフェにしてしまうこともある。リラックスしているが、シラフで語り合うのが重要なのである。

 こういう場所では、おもいっきり雑談をしよう。雑談の中にも情報や知識は埋まっている。自分が知らなかったことを友だちが教えてくれることも多いだろう。ゼミではお互いがお互いにアンテナである。教員の私でさえもゼミ生をアンテナにして今の動向を知ることが多い。ゼミは私にとって現在知の宝庫である。逆にゼミ生は先生をアンテナにしてしまえばいいのである。けっこう先生のアンテナは頼りになるものだ。

■企画しよう

 ゼミで何か企画してみよう。ゼミはサークルではないので、それが好きなことでなくてもいいと考えてほしい。たとえばテレビ局の人になったとしても自分の好きな番組を作れるわけではない。別のところで決まったテーマがあって、それに即して企画を立てているものだ。逆に言うと、テーマというものはたいてい外部から与えられるもので、それでもなお創意工夫ができるかどうかが問われるのだ。

 公開ゼミ。討論会。サブゼミ。いろいろありうるが、チームを作れるかどうかがカギである。たったひとりで「クリエイティブ」になることはあまりないが、チームでやると「クリエイティブ」になることはけっこうある。「チームの力」はスポーツの世界だけではないのだ。48グループを見れば歴然であろう。

■ゼミ雑誌を作ろう

 今はオンデマンド印刷があるので、ページ数と部数しだいで比較的安くできる。A4オールカラー六十ページだと、だいたい一冊千円前後である。私のゼミでは三年生の前期にコンセプト雑誌を作る。もうかれこれ十年になる。アドビCSをインストールしたパソコンを貸与して、おもにインデザイン(プロ用のレイアウトソフト)で作成している。今はワードでもそこそこのものにはなる。縦書き四段組みぐらいにすると雑誌っぽくになる。必ずしもアカデミックな論文集である必要はないと私は考えていて、普段読んでいる雑誌レベルの記事であればよしとしている。  プロセスは以下のようになる。 (1)コンセプト会議 (2)チーム作り、編集長設定。 (3)編集会議 (4)取材・調査・記事作成・写真撮影 (5)インデザインでレイアウト作り (6)プリントして確認などの調整モード (7)印刷会社に出稿(PDFにするとまちがいない)  編集会議は多数決ではやらない。議論を重ねて合意に落とし込んでいくことを目指す。編集長・副編集長の腕の見せ所である。というか、編集プロセスが貴重なトレーニングになる。いいものができたら就職活動にも使える。ふつうゼミ冊子と言えばワードで作ったモノクロの論集だと思われるから、きれいなものを作ってどかんと面接官の前に出せばよい。教員はプロデューサーとして環境を作りスケジュールと費用の心配をすればよい。 ■ゼミブログを作ろう 「印刷はお金がかかるからイヤ」というゼミは、ブログを作ればよい。無料ですぐに開始できる。問題はどれだけ続けられるかということと、そのゼミらしいコンテンツになるかどうかだ。  チームで発信することがポイントである。個人単位でブログを書くのはやさしいが、チームでコンテンツを作るとなると話は別だ。「作家」とは区別した意味で「クリエイティブ」という言葉を使うと、それはチーム制作に参加するということである。  チームでやるとなると、まず企画を立てなければならない。分担とスケジュールを決めて、コンセプトも明確でなければならない。編集会議も必要だ。これはゼミ雑誌と同じである。  これらのことは必ずしも学術的である必要はないが、たんなる紹介ではやったかいがない。批評精神がないと意味がないとも言える。私のゼミでは「メディア文化論」をテーマにしているが、雑誌については「メディア文化批評」でよいとしている。自分なりに自由に考えて書いてよいということである。  今やネットでの公開は選択肢が多い。動画や音声で制作するのであればユーチューブに公開すればよい。公開できるレベルもに時間をかけて編集することが重要である。 ■自由報告のポイント  何でもいいから自由に報告しなさい、というのはすでに中級編である。  テーマのしぼり方がまず問題になるが、漠然と頭で考えるのではなく、選択肢をにらんで考えることにすべきである。その選択肢というのは先行研究である。つまり、どんなテーマでも先に研究している人はいるものだと考えてほしい。  ポイントは、最低一冊は本を見つけることだ。学術書である必要はない。なるべく分厚い単行本を見つけること。なぜ分厚い本かというと、具体事例が豊富に含まれていると予想できるからである。そういう本が見つけられないのなら(中級編としては)他のテーマにした方がよい。論文や記事やネットだけだと、かなりたくさん集めないと視野が狭くなる。コピペにもつながる。資料がないのであれば、そのテーマが不適切な可能性が高い。ねらいよりも少し広い範囲で探索しよう。

 素材を徹底して集めることもポイントである。オシャレ雑誌の分析するというのなら、その雑誌のバックナンバーをどんとそろえることから始める。ヤフオクやブックオフでセットになって売っていることが多いので、まず買ってしまうのが早い。これはなんでもそうで、まず素材をたくさん集めることから始めよう。

『ゼミ入門』(2)出会い編

野村一夫『ゼミ入門』文化書房博文社、2014年。
(2)出会い編

■一流の大学生になるという決意

 案外、カンちがいされていることだが、大学生活においてスタートラインは、みんないっしょである。キャンパスによってキャラクターは多様だが、学生の質をひとりひとり見たときに、それほど大きな差はない。こと大学での勉強に関して、有名大学の学生が優秀で、そうでない大学の学生が劣るわけではない。案外、そうではないのである。私大の場合だと、英語の勉強を3年早くやったか、これからやるかの差があるだけだと考えた方がいい。そして多くの学生は、大なり小なり後者である。義務教育が終わって高校に進学してすぐににスタートダッシュしたか、大学に入った今からスタートダッシュするかのちがいである。

 理由の1つは、勉強の内容である。義務教育と高校では、勉強する内容は文部科学省が基本的に決めた内容である。文部科学省検定教科書を使用して、それに基づいた授業がなされ、それに基づいたさまざまな試験が課せられてきたということだ。これは国家が望む国民になるための教育内容である。それはそれで必要なことだ。

 しかし、大学での勉強内容は、それとは大きく異なることが多い。「大きくずれる」と言った方がいいかもしれない。それは人文社会系のキャンパスや学部においては、かなりの割合でそうである。なぜかというと、大学での勉強は、そのまま学問の世界・科学の世界に直結しているからである。それらが文部科学省の推奨する内容とは限らないのは当然である。これは歴史や政治や社会や文化に関しては、かなりずれると考えた方がよい。だからスタートラインは同じなのである。

「一流の大学生になる」かどうかは、大学に入学した今からスタートダッシュできるかどうかにかかっている。もしあなたが推薦入学で入ったとしても、やる気さえあれば、一躍「一流の大学生」に躍り出ることができる。もしあなたが学力試験で入ったのであれば、油断をしないほうがいい。多少の英語ができるだけだと思って、謙虚に取り組むべきである。

 もしあなたが第1志望の大学ではなく第2志望・第3志望の大学に入ったとしても、挫折する必要はないし、いじける必要もないし、まして、まわりの同級生たちをバカにしてはいけない。第1志望と言っても、所詮「ブランド」「プライド」「偏差値」「親の評価」「先生の評価」「マスコミの評価」の混合物にすぎない。第3志望となると、ほとんどその大学のことを理解しないで、スケジュールと偏差値という数字だけで大学を決めていることがほとんどだから「ここにいる」という意味を見いだせないのだろう。ちなみにどの大学でも、こういった学生たちはオープンキャンパスに来た経験がなく、その大学のことを入学式の日まで知らなかったということが多い。

 というわけで、そんなものをいつまでも引きずっていないで、さっぱりと1から始めた方が賢明である。そういう雑多なものを引きずった学生は、新入生にもかかわらず表情が暗く、やる気もない。同級生とも打ち解けないので友達もできないまま、勉強にもすぐについて行けなくなるものである。何度も言うように、大学の勉強は「文部科学省によって配慮されてつくられたパッケージ」ではないのである。そのまま現実の学問や社会や文化に開かれたものなのであって、その分、容赦ないところがあるから、スタートダッシュしないと、あっという間に落ちこぼれてしまう。だから「この大学でやっていくんだ」という決意をもっていて、その大学のことをきちんと理解して入学動機も明確な自己推薦系の学生の方が、しばしば大きく伸びるのである。これがシビアな現実である。

■自己紹介する

 デビューには気を使うべきだ。第一印象はけっこうモノを言う。それをくつがえすのは、けっこうたいへんだったりする。

 だから、クラスや基礎演習のような単位での自己紹介は、とても貴重なチャンスである。大学生になれば、そのうちサークルや合コンでの自己紹介のようなものもこなさなければ一人前にはなれない。その第一歩である。これがやがて丸3年後の就職活動につながる。

「自分をプロデュースする」と考えればよい。べつに仮装人格(仮想人格)を演じるというのではない。「盛ってる」とか「自慢してる」と、多くの学生がそう見られることを過剰に怖れて「無作為な自分」を提示する。過剰に空気を読み合う時代の若者なので仕方ないとは同情するが、それではすぐに限界が来てしまう。「無作為な自分」なんて、他人から見れば、たいてい「つまらない人」だからである。

 クラスなどでの公式の自己紹介の場合、次の選択肢から、いくつかをみつくろって提示してみよう。

(1)自分の名前の特徴・由来・これまでのニックネーム(自分も気に入っているものだけでよい)

(2)どこから来たか(育った地域・通った学校・その特徴)

(3)どうしてこの大学・この学部へ来たか(進学理由・ちょっとした事情・入学ルート・エピソード1・エピソード2・・・)

(4)どういう人か(性格らしきもの)

(5)これまでの活動(部活・委員・勉強)

(6)マイ・フェイバリット・シングス(私のお気に入り)

(7)何をしたいか・どうなりたいか・夢・あえての決意表明

(8)同級生・教員へのメッセージ(愛を込めて)

 こういうことを「くだらない」と言うことなかれ。自分の基本情報である。これから手探りでおつきあいを始めようというのである。相手がどういう人なのか、どこまで自己開示をしているのか、信頼できるのかを判断するのであるから、ここは真剣勝負なのである。言いたくないことは言わなくてもいいし、不利になることは隠していていい。それを同級生に明かすときに友情が試されるのであろう。秘密はここぞというときに公開されるためにある。その上で強調したいのは、最初に言うべきことを言わなかったために縁が結べないままになってしまうことは避けるべきだ。だから、自己開示をできるだけ最初にやっておくことである。「恥ずかしいんですけど○○が好きです」でもかまわない。

 そのさい、頭においてほしいことが2つある。

「私は、私と私の環境である」と、オルテガという哲学者が述べている。自分は自分だけで存在するのではなく、自分の環境との相互作用(交渉)の産物だというのである。「我思う、故に我あり」ではないのだ。この場合の「環境」とは、自分と関わりのある人びとや空間や自然などである。たとえば、留学生がいて、その生まれ故郷がかつて「戦争状態」にあったとすれば、それはその人の「人となり」を強く形成するにちがいない。それが「大災害」「大地震」「大津波」であることもあれば、「ヤンキーしかいない地域だった」とか「みんなオシャレな学校だった」とか「部活が人生のすべてだった」といったことが、自分というものを形成しているわけである。だから、自分の内面を話す必要はなく、自分を形作った環境について熱く語ればいいのである。それなら、そんなに構えることはないだろう。そして、そこから人生を進めるか、あるいは「脱却」する道を探して大学に来たということになるのだから、つまり自分の意志で環境を変更する選択をしたということを語ればよい。そして、どんな自分になりたいかを語れればいい。決意表明は「予言の自己成就」の第一歩として、ぜひすべきである。自分計画のヴィジョンを語れ。そのためには事前の準備が必要なのは言うまでもない。口からでまかせを言っても、それは自分に還ってくる。ちゃんとしたヴィジョンを語れるようにしよう。

 第2に、自己提示の作法について。卑下したフリをしないこと。「ここしか受からなかったので、ここに来ました」とか「自分に声をかけて下さい」といったことを言うのは、謙虚なようでいて、じつは逆である。なぜなら、それらの裏では「ほんとうは自分にふさわしい大学があるはずなんだけどね」とか「そっちから声をかけろよ、答えてやるから」といったフレーズが鳴り響いているからである。私は「自分に声をかけて下さい」と言う学生を見ると「自分から声をかけろよ」と言いたくなるが、つまり自分では「無視されるリスク」を回避しながら、相手にリスクを負わせるという身勝手なことを平気でいう人には声をかけにくいだろうと思うが、どうだろう。

 全体の人数と時間によるが、自己紹介はじっくりやったほうがいい。「長い自己紹介は嫌われる」と思う人が多いかもしれないが、私は逆だと思う。公開の場で自分を開示しない人は信用できない。そんな人には、かんたんに自分のことを話せないのではないだろうか。「あんた、こんなこと言ってたよね。じつは私もそうなんだよ」というトリガー(きっかけ、引っかかり)は多い方がいい。その意味では「自分に関するキーワード」をあらかじめ吟味しておいた方がいい。

■他己紹介、あるいは同級生とはどのような人か

 お互いの名前と顔と特徴を覚えるのは難しい。多少の工夫が必要だ。グループを作って、そこで自己紹介を繰り返して、クラスに対してグループ単位で他己紹介をしてみよう。他人のことをその場で理解して、みんなに紹介するという能力はとてもたいせつである。こういうゲームじみたことをバカにしてはいけない。

 最近は、こういうことを何回かシャッフルしておこなうことが多い。人をシャッフルすることで、出会いを増やすチャンスになるからである。その点では、これから始まるさまざまな作業もグループ単位ですることが、自分を知ってもらい他人を知る上では効果的である。

 さて、同級生とはどのような人なのだろうか。大学に入る前にも同級生はたくさんいたわけだから、それなりに答はあると思う。では、大学の同級生はどうだろう。

 そもそも大学の勉強は、ひとりでは無理である。卒業に必要な124単位をひとりで取得して卒業できると考えるのは大間違いだ。それはゴーマンというものである。私は毎年、定期試験の監督をたくさん引き受けているのだが、かりかり答案を書いている学生たちの姿には同情することしきりである。三コマ連続で試験を受けている学生たちもしばしば目撃する。これがまた試験問題を見ていると、専門家である先生たちは容赦ないのだ。  結論から言うと、大学の単位はネットワークで取っていくものである。「けしからん」と言うことなかれ。学問はきびしいのだ。それに大人扱いされるきびしさが加わり、重い自己責任が課せられる。

 だからこそ、ともに勉強する人が必要なのだ。そしてまた、あなたを頼りにする友人もいるのだ。友達ネットワークを築いて、ともに勉強していかないと太刀打ちできない。だから「同級生とはぐれる」ことは致命的なのである。

 今は、SNSがあって、入学式の前々から大学の学部別のコミュニティで知り合うということが当たり前になった。入学式当日が最初のオフ会になることも多いようだ。出会いがかんたんにできるという点では、いい時代だと思う。問題は、その後、どう維持するかであろう。飲み友達として低く流れることも多いと思うが、しかるべきときは協働して困難な試験を乗り越えよう。それだけに、しばしば一生つきあう人もいるはずだということを付け加えておきたい。

 とりわけクラスやゼミというのは教員が不動に近いので、輪ができやすく、維持されやすいのだ。たとえ先生がいなくても、まるでドーナツのようにつながるものである。その場合、ドーナツは穴があるからドーナツなのだとも言える。このあたりがサークルとの違いではないだろうか。

■大学教授とはどのような人か

 さて、同級生との出会い方について語ってきたが、もうひとつ大事な出会いがある。そう、教員との出会いである。大学の先生とは、どういう人なのか。

 日常の業務は、高校の先生とたいしてちがわない。教えて、試験して、学生を指導して、報告書を書いて、引率して、会議して、学校のことを決めて、学生と語り合って・・・というあたりは同じである。これは教育職・事務職として同じだということだ。

 ちがうのは大学教授は研究職でもあるということだ。

高校の先生でも研究活動をしている先生もいるし、大学の先生でもほとんど研究活動をしていない先生も(じつは)いる。前者の先生は、やがて大学で教えることもあるし、後者の先生も(じつは)昔はがんばって研究していたという事実があるはずである。

 大学の先生には序列がある。この序列は業績に比例するようになっているということになっていて、じっさいにはいろいろあるのだが、じっさい給料表もちがう。学部にもよるが、おおかた次のようになっている。

教授、准教授、専任講師

 しかし、医学系や理科系、そしてそれらを中心とする国立大学法人では序列はきびしいものの、私立文系であれば、それはたんに「なるタイミング」のちがいだったりする。「専任教員」は通常「教授会メンバー」であり、大学や学部のいろいろな組織の仕事をする。これがまた最近は大変なことになっていて、とても忙しいというのが普通である。秘密の仕事も多いので、ここに列挙できないのが残念なくらいである。 それに対して、兼任講師や非常勤講師や客員教授と呼ばれる先生は、その大学に所属しているとは言えない。他の大学の専任教員であったり、どこの専任でもなく、無所属で非常勤として教えている先生である。そのコマだけ教室に来て教えているという先生である。それはあくまでも大学との雇用関係の違いであって、授業そのものは専任教員と何も変わらない。きちんと教授会の業績審査を通っている先生たちである。  それらの先生に加えて、助教や大学院生や助手がいる。助教は給料をもらっている先生であり、大学院生は学費を払って研究している学生(院生)である。助手は職員に位置づけられている。いずれにしても「修行中の身」である。研究者である限り、この「修行」はずっと続くのであるが。  しかし、学生にとっては先生であり先輩であることには変わりなく、知識やその他いろいろを教えてくれる人たちである。物怖じせずに積極的に話をするとよい。

 掛け値なく、ほんとにキャンパスは出会いの場である。だから、なにはともあれキャンパスに行くことが大事なのである。

『ゼミ入門』(3)導入編

野村一夫『ゼミ入門』文化書房博文社、2014年。
(3)導入編

■ゼミで一人前の大学生になる

 基礎編では、テーマが特定されていない初年次のゼミについて考えることにする。この場合は「学びの方法を実践的に学ぶ」ことが目標になる。

 これから述べることに対して「ものたりない」とか「もっとアカデミックにやりたい」という人(あるいは指導される先生)には次の2冊を先に薦めておく。

松野弘『大学生のための知的勉強術』 (講談社現代新書、2010年)

橋本努『学問の技法』(ちくま新書、2013年)

他にもいくつかあるが、上記2冊はとりわけ良書であり、主張にぶれがない。松野弘さんの本はかなり高度であり、私自身は自己否定になるので賛同はしないし、こういう学生とはお付き合いがない。橋本努さんの本は中くらいのレベルであり、意欲的な学生にはお勧めである。ただし、どんな大学生もこの通りにできれば完璧ではあるけれども、しかし現実的には一部のエリート学生のためのものである。何を称して「エリート学生」と呼ぶのかは、客観的にはかなり微妙であるが、ここでは主観的に「エリート学生」としての自覚のある学生のことをさすことにしたい。たとえば大学院に進んで研究者になろうという人や、いわゆるグローバル人材として世界に羽ばたこうともくろんでいる人は、最初からこの2冊のアドバイスにそって自分の勉強を進めてほしい。そういう皆さんとは「ここでさよなら」である。グッドラック!

というわけで本書では、このような学問研究直結の勉強法をアドバイスする方針はとらない。一定の教養ある市民になるための学びに照準を定め、一般学生として最低限のスタートラインを強調提示することに徹するつもりである。かといって、けっして幼稚な大学生になってしまうことがないように、また「失敗」のないように、最初に押さえるべきポイントを指摘しておきたい。


■オリジナリティについての考え方

まず総論としてオリジナリティについて説明しておきたい。これをどうとらえるかによって、勉強の仕方も違ってくるからだ。  結論から先に言うと「まず型を学ぶ、いきなりオリジナリティをめざさない」である。おそらく、この結論に反対する先生も多いと思う。しかし、最初からオリジナリティのあるものを作り出すのは無理というものである。しかも完璧なものを求められるから、多くの大学生がコピペに走ってしまうのだ。次善の策として、ちゃんとした考え方を立てる必要がある。これを、とりあえず「一里塚方式」と呼んでおこう。すなわち、勉強はステップ・バイ・ステップで進めるしかない。たいていの場合「ワープ」はない。はしごを登るように一段一段進めることだ。

この前提に立って考えると、学部1年次にまず習得するべきことは「編集」である。機械的に言えば「インプットした情報をデザインしなおしてアウトプットする」ということになるが、じっさいに学問に直結した領域では、それほど機械的なものにはならない。機械的に処理できないから「編集」は知的な活動なのである。

まず、信頼できそうな資料を集める。それらを全部読む。論点を把握する。その上で使える部分をピックアップしていく。それらを整理できるようなアウトラインを考える。今度はアウトラインに沿って情報の配置を決める。要約か引用によって文章化していく。文章化の過程で自分なりの理解も進むので、それに合わせてアウトラインを何度も見直す。文章化しないと「自分なりの理解」も把握できない。そして発表の形式(口頭報告かレポートか)に合わせてアレンジする。  編集とは、ざっと以上の作業である。細かい注意点などはあとで述べることにして、学部1年次だと、まずここまできちんとこなすことが「一里塚」つまり当面の目標である。  これらのことは、あくまでも「教育上の配慮」であって、学問の世界では通用しないことを肝に銘ずるべきである。大学院生や若手研究者が、学部生時代に「教育上の配慮」で許されてきたことを無自覚に学問の世界でやってしまうと、とんでもないことになる。しかし、本質的には次のようなことが言えるのだ。


■学問は集合知である

およそ天才が一から作り上げる学問ということがあるのだろうか。あるにはあるかもしれない。「サイバーパンク」「サイバースペース」などの言葉のもとになったウィーナーの「サイバネティクス」や、情報の「量」をビットという単位で数学化したシャノンの「情報理論」のようなものはある。これらはブレイクスルーとも言うべき業績で、かれらが天才であることはまちがいないが、それでも数学的な基礎付けの方法などは無数の研究の上に成り立っているのである。  既成知識に対する反発もふくめて、先行研究があって偉大な業績が生まれるのであり、あるいは後続研究があってこそその業績は「先行研究」として評価されるのである。

さらに根っこの話をしよう。

文化の基本は「模倣」である。およそ文化というものは、そういうもので、文学の世界では「ミメーシス」と呼ばれ、音楽の世界では「パロディ」「リスペクト」などと呼ばれ、美術の世界では「オマージュ」と呼ばれ、映画の世界では「引用」と呼ばれ、コミックの世界では「2次創作」もしくは「n次創作」と呼ばれる。模倣することは必ずしも悪いことではない。どう模倣するかによって評価は異なる。

言い方を換えると、オリジナリティは「巨人の肩の上で」のみ可能なのであって、それが「文化の継承」に連なっていく。おそらく先生も学生もじっさいにすることは「文化の継承」なのである。そのような「再創造」の中にわずかな(ほんとにわずかな)「創造」の芽が宿っていると考えた方がよい。  学問は、ひたすら進歩しているというより「たえまない変奏」を繰り返しながら変態(メタモルフォーゼ)していくと考えた方がよい。それゆえに古びた古典が光彩を放つときがあるし(そういうときは○○ルネサンスと呼ばれる)当時理解されなかった理論がようやく最近になって理解されるようになって現役の理論として論じられることもあるのだ。

私たちが学問の扉を開けるとき、それはこのような集合知に参加することになると考えてほしい。たとえそれが「模倣」であったとしても、その「模倣」によって集合知は維持補完されるのである。

そう考えていくと、アカデミズムの基本中の基本として最低限、次の2点を意識することが重要であることがわかる。

(1)情報源の明示

(2)本文と参照文献の区別

常識的なことについては無用だが、自分にとって新鮮だった事柄については、その情報源を明示しておくことが望ましい。初級者はそのくらいでよい。 「本文」というのは「私」が書いている部分である。それ以外は必ず「参照文献」が情報源になるはずである。それをしっかりと区別することである。やり方には「引用」と「要約」がある。丸写しにするところは「引用」としてかっこに括って明示する。これをひとつやっておくと、どんより混濁した意識が鮮明になるはずである。「私」が述べている箇所と、参照文献の「著者」が述べている箇所の区別の意識が立ち上がってくるからだ。そうなると「要約」のほうも、「○○によると、問題点は次のようなところにあるという。すなわち・・・」というスタイルになる。こればかりになると文体上の変化が乏しくなるが、そこは辛抱である。多少、平板な記述になるのはやむを得ない。区別するのが優先である。 「司会者になる」と考えればいいんじゃないか。司会者は基本的には自分の意見を述べる役割ではなく、他の出席者に意見を引き出し、議論を整理しながら、全体の進行を司る役割である。その意味では「私」を主語にしてまとめるのが次善の策だと思う。「学術的な文章においては『私』を登場させてはならない、なぜなら主観的だから」という指導がしばしばなされてきたが、「私」をはずすと「○○と思われる」のような受動表現によってゴマカシが生じやすいので、最近では、判断の主体としてむしろ「私」が出てくるのが自然であるという指導になりつつあるのではなかろうか。私はそのスタイルを支持する。このさい担当教員の指導と異なる場合は「この立場でやりました」と言えばよい。ここは時間を割いて事前に議論していただきたい。

教員の先生に確認しておきたいのは、(先生ご自身のように天才でも秀才でもなく)たいていの学生は凡人であるということを前提にして、学生に過剰な要求をしてはいけないということだ。過剰な要求ができるのは、手取り足取り赤ペン添削の細かな指導ができる場合に限られるべきである。  というわけで、以下の説明は、すべてこの立場で「教育上の配慮」の存在を前提して、なるべく適切な方法をとるという方針で進めていく。このことこそが本書の特徴であるので、この方針をとれない方とは「ここでさよなら」である。グッドラック!


■ニュースを調べる

ニュースに親しむようにしておくことは大学生の知的生活の第一歩である。一年生の基礎演習や入門演習では、もっぱら新聞記事を素材にして授業を進める先生もいるくらいである。高校時代、ニュースをきちんとこなしてきたという人は少ないだろうから、ここからゼミという知的活動を始めるのが適切である。

一年生でスタートダッシュしてニュースへの感度を高めておくと、四年間で相当な知識になる。逆に大学時代に感度を高めておかないと、いつまでも鈍感なままの人生である。後輩に後れを取ったり、みすみす損をしたり、思わぬ恥をかいたり・・・の長い人生が待っている。

ゼミの進め方としては、いくつかのやり方がある。

(1)『朝日キーワード』『日本の論点』のように一年分の時事問題をまとめたものに準拠してテーマ設定をおこない、そのテーマについて自分なりに(あるいはチームとして)調べたことを発表する。

(2)最近一週間の記事の中から自分なりに(あるいはチームとして)自由に選び、それを紹介するとともに、歴史や問題点を調べて発表する。 (3)先生が記事を選んで、それについてチームで議論して、それに対する考えをチームごとに発表する。そして議論へ。  こうしたニュースについて調べるときは、本よりもネットで調べることの方が多いだろう。では、どのように調べるのが適切かを考えてみよう。


■ネットで調べる

「自分はネットに強い」と思っている人は多いと思う。けれども、じっさいには「自分の好きなこと」と「自分の周辺」と「今現在のこと」についてのみ「ネットに強い」だけのことが多いのではないかと反省してみよう。これはネットの特性としてよく指摘されることだが、自分好みにカスタマイズされた世界にとどまって、なお情報過多なので満足してしまうのである。

それに対して、大学で身につけなければならないのは、次の三つを調べる能力である。

(1)自分が好きでないこと

(2)見ず知らずの他人のこと

(3)過去のこと

まず「だいたいのこと」を知る。さしあたってはグーグルでよいし、その検索結果の上位に上がりやすいウィキペディアでもよい。あくまでも「だいたいのこと」を知るためであると割り切った方が賢明である。ウィキペディアについての大学教員の評価は総じて低いが、それは自分の専門分野を見て判断するからであり、しばしば日本語版しか見ていないことが多いからである。編集合戦が多いのは確かだが「知の闘い」の現場が見えて勉強になると思えばよい。それに医学用語のように自分が聞き慣れない言葉を探るにはウィキペディアはけっこう役立つ。しかし、それを丸写ししてはいけない。みすみす罠にかかるようなものである。では、具体的にどういう作業をすればいいのだろうか。

それはサブキーワードをみつけるということである。そして今度はサブキーワードで調べてみる。そうすると詳しい状況や問題点などが出てくるはずである。  それとともに「○○とは」「○○の歴史」「○○の問題点」「○○の動向」などというのでも検索するとよい。これらの情報を掛け合わせて、再構成すると、ある程度のフレームワークが見えてくる。

しかし、グーグル検索では出ないものが3つある。じつは、これをしっかり把握することが大学生のポイントである。

(1)データベース

(2)現在有料販売中の日本語の本の中身(タイトルと一部は出る)

(3)フェイスブックなどのSNS

まずデータベースである。データベース内の情報は格納されているのでグーグルでは検索されない。ただでは出さない、というか流用されないようにしている情報である。つまり、それはお金と手間ひまがかかっていて、パブリシティにはならない情報である。だからこそ役に立つ。新聞記事データベースはかなり役に立つ。たいてい記事はわかりやすく書かれているからだ。具体的なエピソードもゲットできる。経済系なら「日経テレコン」で一網打尽にできる。

販売中の本については、電子書籍でかなり入手可能になっているとは言え(ちなみに英語圏の電子書籍化はかなり進んでいる)、図書館で借りるか古本を買う方が安くつくので、新書か文庫ぐらいは一冊入手するとよい。評判はアマゾンでだいたいわかる。関連する本もだいたいわかる。図書館も完全に分類されているので、書棚の前に立てば様子がわかる。読めそうなものを借りればよい。

学術的なデータベースはCinii(サイニー)などたくさんあるが、おそらく訳がわからないだろうから、大学初心者にはあえて強くお勧めしない。世の中には、いきなり「Ciniiで調べろ」という先生が多すぎる。Ciniiはコピペの温床である。

SNSも役に立つことがある。専門家や事情通の人が発信していることがあるからだ。公式アカウント以外は見分けるのが難しいが、とりあえずの基準は実名で発信していて所属も明示している人である。正しいとかまちがっているとかということではなく「論」として成り立っている可能性が高い。


■辞典と事典で調べる

辞典類については、データベースのkotobankやジャパンナレッジで一網打尽にできる。とくにジャパンナレッジはとてつもなく大規模な辞典類・事典類が網羅されている。これは多くの大学図書館で利用できるはずである。私は自宅でも利用できるように個人で契約している。物書きはそうしている人が多いはずである。

百科事典という本のスタイルは過去のものになりつつある。しかし、電子辞書上では健在だ。これが一番コストパフォーマンスがよい。百科事典の入った電子辞書にしておこう。スマートフォンでも辞書アプリをいくつか入れておくと、精度の高い情報が得られる。辞書アプリは比較的安く、しかもカラフルで、説明の文中の言葉を長押しすると、その言葉の説明にリンクできるものが多いので勉強になる。  専門的なことであれば、なるべく新しい専門事典にあたるのが、ほどよい解決策である。そのさいには、あらかじめ専門分野を特定できていなければならない。『現代用語の基礎知識』があれば、分野特定はかんたんにできるし、ウィキペディアもそういうふうに使えば、いいツールである。

ポイントは、いかに品質のよい情報・知識にたどり着くかである。なんとなくわかったではなく、大学では、情報・知識の品質が問題なのである。品質のよい情報や知識は、何らかの形で保護されているか、本やアプリなどとしてパッケージされて商品として流通していることが多い。そこに踏み込まなければならない。品質にこだわりつつ安くあげるのなら断然、図書館に通うことだ。図書館の範囲であれば司書さんたちのフィルターがかかっているので知識や情報の品質はよいはずである。


■ドキュメント化  こうした探索プロセス自体をレポートにする方法もありである。名探偵や刑事たちが推理を進めるように、あるいはテレビのレポーターのように、自分の探索過程を順々に明かしていくのである。ドキュメント化である。それを上手にするためにはメモを取りながら調べるようにしなければならない。初級編ではまずまず許される書き方だと思うが、どうだろう。  大学初心者にとって、調べ物をして発表するというのは基本的に新しい体験である。小中高でやったと言う人があるかもしれないが、それは「まねごと」にすぎないのであって、たんにコピペをしゃべってほめられる段階であろう。すでに述べたように文化の原型は「模倣」なので、それでもって型を覚えるレッスンをしていたのだ。

しかし、大学に入ると、子ども扱いはされない。先生たちは学問のプロである。右から左に情報を運んで終わりということはない。ポーターからリポーターに変身しなければならない。大学初心者は、その変身の過程をドキュメント化すればよい。

つまり、こんな感じである。「テーマを与えられても、なんだかさっぱりわからなかったので、とりあえずウィキペディアと電子辞書で調べてみたら、こういうことだった。「引用」・・・サブキーワードもわかってきたので、それでもって調べるとだいたいの輪郭がわかってきた。どうもこういう分野があるらしいということがわかったので、図書館の専門事典にあたってみたら、けっこう詳しく書いてあった。最近の動向はどうなのか気になって、新聞データベースでここ一年の記事を出してみたら、問題点が浮上してきた。論点は三つほどある。第一に○○。つまりこういうことらしい。第二に○○。一点目の結果、こういう問題が生じている。第三に○○。その対策として、ごく最近はこういうことがおこなわれているとのこと。まとめてみると、以下のようになる。・・・」以上の文章に、調べたことをはめ込んでいくと形になる。こういうスタイル自体は模倣してよいものなので、一度お試しあれ。

肯定的に見れば、こういうものを「研究ノート」と呼んで「論文」と区別する。初級編では「研究ノート」になれば十分だと思う。通常の研究者でも「研究ノート」をたくさん貯めていって、そこからエッセンスを抽出する形で「論文」を作成するという手順を踏むのが普通である。理系なら「実験ノート」がさらにその前に来る。この「研究ノート」のメディアが、大学ノートからパソコンになり今日のクラウドになっていっただけで、思考の手順はそれほど変化ないと言ってもいいくらいである。「研究ノート」では、自分が見たもの・読んだもの・調べたものを素材感豊かに記録していき、自分の思考過程を「見える化」する。


■記事をレポートする

プレゼンテーションでは、まず名乗る。すべてはここからである。名前を覚えてもらうことは大事なことなので、ことあるごとに名乗ることである。学生には、自己顕示欲が強いと見なされることを敬遠してか、あえて名乗ることを恥ずかしがる傾向があるが、それは間違っている。いざというとき「アンタ、だれ」と言われないように、日常的にきちんと名乗ることから始めよう。

ここではニュースについて報告するケースを考えてみよう。模倣すべき見本は池上彰さんのあの語り方である。テレビを見て、その語りのスタイルを学ぼう。池上さんはすこぶる物知りで、しかもどんなニュースも事前にきちんと調べて、わかりやすく語ってくれるが、そのスタイルはほとんど定型である。その定型を崩さないから、私たちはどんなニュースについても池上流にわかるのである。

(1)こんなニュースがありました。・・・[動向]

(2)○○というのは、かつて・・・なんですね。[歴史]

(3)それがこういうことになっているわけです。[結果]

(4)なぜかというと・・・[理由]

(5)じゃあ、どうすればいいかというと・・・[対策]

(6)・・・そこが問題なんですね。[論点]

このスタイルを模倣してみよう。このスタイルに、調べたコンテンツを投入すればいいのである。

しかし、じつは池上さんには、もうひとつの技がある。それは質問にちゃんと答えることである。これは想定問答を考えて、何も知らない人が疑問に思うであろうことを想像して、ちゃんと用意しておくのである。だから池上さんは「そもそも○○って何ですか」といった質問が終わるか終わらないかのタイミングで答え始めることができる。「そこからですか?」といった質問にも事前に答を用意しているのがエライところである。世の優秀な大学教授はこの点を認めるべきだと思う。


■新書を読む

さて、ニュースについてはこのくらいにして次の課題に取り組もう。それは新書を読むことである。

初年次の基礎演習や入門演習では輪読スタイルをとる先生が多いと思う。読書会のようなものである。初年次では、たいてい新書を読むことが多い。それは一番とりつきやすいからだ。新書は編集者がかなり手を入れて読みやすくするのが通例で、タイトルも見出しも決めるのは著者ではなく編集部である。ちなみに文庫はちょっとグレードが高いものが多い。評価の高い本ではあるが難しいものもある。  さて、最近の新書はこういうものなので軽く読み飛ばせるようになっている。だからダメだというのではなく、たくさん読むことがポイントである。1冊2冊で手こずっているようでは勉強にならない。スピード感をつけることと分量をこなすことが大事なのだ。

とはいうものの、長い文章はライトノベル以外に読んだことがないという人も多いと思う。こういう読書については、どこのキャンパスの学生もスタートラインは同じである。それだけにスタートダッシュしてほしい。

1年生でいきなり一冊丸ごと担当ということはないだろうから、ふつうの新書であれば、せいぜい複数の章を担当してまとめることになるだろう。発表することを前提に読むとなると三回は読まなければならない。

(1)線を引きながら一冊通し読み(担当箇所がどこであれ)

(2)担当箇所を重点的に精読。書き込みしつつ。

(3)使うところを決めるために読む。


■要約の仕方

仕込みが終わったところで、料理に取りかかろう。基本的なスタイルは要約説明である。

よくある「大事そうな箇所を抜粋して並べる」という方法でいいのだろうか。小中高での要約は少ない字数制限でおこなわれるので正解というものが成り立つようにできている。つまり「トピックセンテンス」を抜き書きすればよいというものが多い。それは間違ってはいないが、大学では、かなり長い要約が必要になるので、根本的に態度を変える必要がある。大学生になったのだから、そろそろワンランク上げようではないか。  まず要約の分量を決める。発表時間が15分ほどであればレジュメA4で3枚ぐらいである。持ち時間によるので、それを事前に確認しておこう。

もちろん本の順序に沿って整理していくのもありである。しかし、これだと冗長になりがちで、本はたいてい結論に向かって論述を進めていくものなので、なかなか結論がでてこない。本の書き方に大きく依存してしまうことになる。そこで本書では、ちょっと思い切ったやり方(でも案外うまくいく方法)を説明してみよう。ここでは仮に「論点提示式」と呼ぶことにする。

たとえば本の一章分を担当する場合、論点は一つだけある。三章分をまとめて要約する場合は、おそらく論点は三つである。もし足りなければ随時足せばよい。こう決めて、論点を本から切り出す。読書のさいチェックした箇所を点検して、ここぞという箇所を抜粋する。短くまとまっていれば引用であるし、多少長いようであれば自分なりにまとめる。要素が複数あれば箇条書きにすればよいが、それらは文になっていなければならない。難しくいうと「命題」になっていなければならない。「○○は○○である。だから○○である」といった形にする。

適切な引用をしておくと議論しやすい。トピックセンテンスか、著者自身が「要するに」とまとめている箇所である。出所を明示するためにページ数は書いておこう。引用でなくても、論点として整理されていれば、それをメインに据えて、その論点をほどくように説明を入れていくのである。  つまり構成はこうである。「論点(命題)」を提示して、そのあとに「説明」を配置する。説明は「何でこういうことを著者が主張するのかというと・・・」「・・・こういうことなんです」というスタイルをとればよい。

論点提示式はひとつの解決法である。要約というものに正解はないので、それぞれでいい。多少の振り幅は個性として認知される。教育的には「そういうまとめ方もありかな」という感じである。

さて、注意すべきは事例の扱い。著者があげている事例を丸ごと説明する必要はないが、しばしば見られる「事例だから省略」という考えはよくない。適切な事例は討論のよき素材になる。著者の主張を評価するさいにも、事例をもとにみんなで議論できる。ゼミは議論する場所だから、そこでの発表は「話題提供」になるのである。ゼミは「いかに自分は優秀な学生であるか」を誇示する場所ではない。みんなに突っ込んでもらってナンボのプレゼンテーションなのである。突っ込まれることは悪いことではなく、むしろゼミを盛り上げた功績になる。ツッコミどころ満載にするのに、とっておきの事例は大切である。著者が事例を挙げていないのであれば、多くの先生が講義中にやるように、自分で事例を提示すべきである。ここまでできればすばらしい。


■レジュメの書き方

レジュメはハンドアウトともいう。履歴書の意味があるが、日本ではどちらでもよい。先生の言い方に合わせればよい。

もちろんパワーポイントを使う場合もある。こちらの方がかんたんだ。しかし、ほんとは紙の方がよい。記録が残るし、余白に書き込みもできる。真剣に報告を聞く人にとって、そして質問がある人にとっては、じつは紙の方がよい。しかし、ここは賛否両論ある。パワーポイントはかんたんで、小学生のパソコン授業といえば「調べ学習にパワーポイントで発表」というパターンになるが、それはパワーポイントはごまかしがきくからである。わたしはいつも画面が切り替わるたびに「論理の飛躍」「ストーリーの断絶」を感じる。画像でもごまかせる。とくに意表を突いた画像で笑いをとることもできる。でも私は「ごまかされたなあ」と思ってしまう。会場の雰囲気をほぐして発言しやすくするアイスブレークだと思うから許すのであるが。

さて、紙でレジュメを配付する場合、作業はワープロでレジュメを先に作成する。そこに書き入れることは上記のような論点提示式に整理したものである。デザインはできる範囲でヴィジュアルに凝ればよい。

発表はレジュメを見ながら自分の言葉でするのが原則。しかし言葉が出てこない場合もあるので、補足してしゃべることを事前にレジュメに書き込んでおくとよい。発表の場で本を出して読み上げるのはよくない。退屈だし、準備不足。ノートにまとめておくか、レジュメを複製して別のファイルを作成して、自分用の詳しい説明付きレジュメを書くようにすればよい。しばしばしゃべる内容を完全原稿にして、それをただ読み上げて終わりという人がいるが、それだとライブ感に乏しい。つまり聞きづらい。「今、ここで、自分が発言している」感が必要だ。完全原稿にするのは悪いことではないし、言葉に詰まるのが怖いのはよくわかるものの、せいぜい「ちらちら見ながらしゃべる」くらいにした方がよい。

そういうことがスムースにできるためには、対象となっている本の担当部分を何度も読み返すことが必要だ。いったん自分なりに論点ができレジュメにまとめたあとに読めば、本の内容はぐいぐい頭に入ってくるものである。人は既知となった知識をもとに学習すると効果があるものだから、いったん既知にしたその本を読み返すと細かいところの意味も理解できるようになる。そうなると自信もつくので堂々とライブ感たっぷりに発表できるはずだ。

最後にもう一言。スケッチブック・プレゼンテーションはいかがだろう。一度、基礎演習でやってみてもらったが、みんなテレビのキャスターのように、けっこう楽しくできていた。こちらはアンプラグドである。電気もコードもいらない。ただし、きちんと編集する作業が必要となり、本気で取り組むと、こちらのほうがじつは難易度は高い。準備にかけた時間によって出来にかなり差が出るのもおもしろい。


■書評の書き方

前節までは新書本の一部を担当する発表のことを説明したが、今度は一冊丸ごとの場合を考えてみよう。一冊丸ごととなると、それは書評と呼ばれるものになる。けっして読書感想文ではない。感想なんて採点評価しようがない。大学では、この場合、書評になっているかどうかが問われているのである。

書評を書くことは大学での勉強の基本である。書評とは、対象とした本を読み、内容について適切に説明したのちに、批評的に論じる文章のことである。まず、本が指定されているケースについて。

手順は「新書を読む」で説明したことの拡大版になる。最初に決めておかなければならないのは分量である。A4で三枚程度なら、大きな論点一つで十分だが、A4で十枚程度なら、論点は三つから五つ設定することになる。じつは後者の方が書きやすい。大学初心者の場合は、本の内容に畏れ入ってしまって、ざっくりと論点を切り出すのが難しいからだ。

書評を書くときに、本のタイトルは意外に当てにならない。むしろ目次をじっくり眺めよう。章なら章のタイトルを見て、そのショートアンサーを本文から見つける。それで論点とする。その作業を繰り返して十章なら十個の論点を書き出して、それらの相互関連を見定める。それらの論点の間には主従関係のようなものがあるはずである。それを自分なりに再構成していくのである。それでアウトラインの完成。  次に、このアウトラインに見合うコンテンツを見つけていく。論点つまり基本命題を解説する素材を本文から探すのである。引用すべき箇所があれば引用し、要約すべき箇所があれば要約する。それぞれページ数を書き込むことが必要である。一冊の本しか扱わないのであれば(5ページ)でかまわない。

そうやってアウトライン丸出しのトルソーができる。これを文章として流れのあるものに推敲(すいこう)していくと出来上がり。・・・のはずだが、新書本といえども高度な内容が盛り込まれているので、このプロセスの中で何度も読み返すことになるにちがいない。それでようやく「ものになる」と考えよう。そのさい、自分の頭の中に生じる反応もどこかに位置づけておくといい。素朴な疑問やささやかな反論もあっていい。それが本文で解決されたのであれば、それを記録しておこう。解決されなかったら問題点として提起すればよい。

昔、書評仲間の関係で同世代の作家さんと飲んでいたときに「私は書評となると何回も何回も読み返しますよ」と力強くおっしゃられていた。多作な方なのに、そういうものかと思った記憶がある。そう、だから書評を書くのは「いい勉強」になるのである。


■書評対象の選び方

適当に本を一冊選んで書評を書けというのは一段高いレベルになる。本を選ぶのが、けっこうたいへんなのである。いくつかヒントを書いておこう。  著者がひとりで書き下ろした本がわかりやすい。共著や論文集はわかりにくい。章によって著者や意図が変わるからである。いろんな人がいろんな角度で論じると、そこに議論の土俵が浮かび上がってくる。それを提示するのが目的だったりするからだ。しかし、特定の章や論文を特定して読むのは案外近道である。そういうものは焦点が明確だからである。

この文脈では文庫本が適切である。評価の高い本が文庫になるという「コンテンツ成り上がりのすごろく」があるので、良書が多いし、単著が基本なのでまとまりもよい。ただし時間がたっている。最近のものでも数年前の刊行になるし、有名な本はたいていかなりの年数がたっている。この時間差が若い人には障壁になる。

逆に、私たちは、この時代の雰囲気というものを感じて生きているから、今現在のものは共通了解があるので読みやすい。そういうわけで、出たばかり本は読みやすいのである。となると新刊の単行本がわかりやすいかもしれない。

専門書であることという条件がついていたら、まっしぐらに大学図書館で探そう。分野が指定されていたら、その分類の書棚に行けばよい。データベースもいいが、手にとってみるのが一番である。

最初は日本人研究者が書いたものがいい。総じて翻訳は難しい。

大学初心者の場合、どんな本を読むにしても前半部に注目すること。後半部は手強いことが多い。前半だけでも書評にはなる。千代舎の問題関心をしっかり受け止められれば十分である。


■短いレポートに何を書くか

次に、指定されたテーマでレポートを書く場合を考えてみよう。私は基礎演習の後半で必ずこれをしてもらう。25人クラスのケースだと30強ぐらいのテーマを用意して、できそうなものをひとりひとりに選んでもらう。そうして全員が各自固有のテーマをもつようにする。  私はとくにカタカナ語をテーマに選ぶ。かつて翻訳語は漢字で表記されたが、今は音をそのままカタカナにして、違和感をあえて残すやり方で流通してしまうことが多い。たとえば「インフォームド・コンセント」は、かつては「説明と同意」とか「よく説明された上での同意」と訳されたが、訳語を当てる段階で解釈や見解が入ってしまうから、いつのまにかカタカナでいいじゃないかというふうに変わってきた。でもカタカナだと長いから病院では「IC」である。万事こんな具合である。

テーマが決まったらアウトライン専攻型で行こう。アウトラインは指定してもよいくらいである。私は基礎演習では指定している。

(1)概念

(2)歴史

(3)論点

(4)動向

順序はどうでもよい。この四つを書くのである。もしこれをチームに分けてやるとすると四人でやるとよいことになる。これらはそのままサブキーワードになる。


 アウトラインで書こうと決めると、けっこう長いものも平気になる。調べて書く場合、短くまとめる方がかえって難しい。字数や発表時間に制限がないのであれば、アウトラインでかっちり書こう。字数制限がある場合は、いったんまとめた長いものを短く要約すればよい。これを「刈り込む」などという。二度手間になるのを嫌わないことがとても大切である。このさい「身を惜しむな、要領に走るな」が大学初心者に贈る言葉である。

 専門分野のレポートとなると別のレベルになるが、教養科目などではこれでたいていいけるはずだ。ただし先生によって評価が異なるので注意が必要だ。万事、大学というところは先生によって裁量がちがう。

 調べ方についてはすでに述べたので、心してほしい点を若干加えておこう。

 初めて取り組むテーマの場合、自分の立ち位置を決めるのが難しい。だから準拠すべき一冊を入手するとよい。新書か文庫で探すのが無難であろう。内容はいろいろ調べたことを取り混ぜればよいが、自分の視点のさしあたりの立ち位置はきちんと決めておくと明解なレポートになる。

 どのようにパソコンでレポートを書くか。編集と構成。コピペの回避。感想の位置。このあたりについては次の本が徹底して説明している。

・山口裕之『コピペと言われないレポートの書き方教室』(新曜社、2013年)

 とくに異論があるわけではないが、ここでは大学一年生の実態に即して、もう一段「ゆるく」しておきたい。

 コピペは「楽」だからするのだと、厳しい学問世界を生き延びてきた先生は決めつけるのであるが、もうひとつの側面があって、それは今どきの学生は「謙虚」だからである。確実に昔の方が「ゴーマン」な学生は多かった。居直りのような答案とか、そもそも「試験粉砕」のような巧妙な回避方法を集団でとる世代もあった。私が知っている今どきの学生(評価をつけたのは累計2万人ぐらいになるはずである)は、そんなに間違ったことは書かない。たしかに「受け売り」は多いかもしれないが、レポートや試験と掲示板との使い分けぐらいは適切にできるのである。

 この立場なので私自身は教員としてレポートそのものを出さない方針でやっている。つまり、ゼミの現場で発表してもらうか、内容をいったん頭に入れてもらって、それを試験方式で書いてもらう。完成度よりも時間制限を優先させることと、きちんと準備することを覚えてもらうことと、何より、そのテーマについて手元に資料がなくてもある程度しゃべれるようになってほしいからである。このさい本音を言ってしまうと、この時代にオリジナルなレポートなんて成り立ちやしない。上手に編集された明解なレポートと発表で十分ではないか。先生方も、レポートを使った才能探しは、もうやめたほうがよいのではないかと思う。

■大学の中の学校と社会と学問

 これまで大学一年生を念頭において説明してきた。そういう限定付きで「次善の策」あるいは「とりあえずここまで」を説明してきたつもりだ。読者には、ここにとどまることのないように、先に進んでほしい。

 導入編の最後として、大学という現場の特徴について説明しておこう。こういうことは最初からわかってしまえば何でもないことであるが、案外カン違いしていることがあるものである。

 まず、大学というところは、半分は学校で、もう半分は社会である。

 近年の大学は「学校化」していて、学生を一人前の大人として扱わないところがある。学生の半分は未成年なので、それも一理あるが、カリキュラムの改編ごとに必修科目が増えたり、出席要件がきびしくなったりする。とくに語学・体験型・実習型・専門基礎科目の授業は出欠重視である。一年生の時は、あまり大学らしい自由がないと思っている人も多いと思う。

 ところが一方で「試験さえできればよい」といった授業もあるし、出席点を認めない授業もある。努力賞がないのである。これは「社会」の側面である。成果主義というか自己責任というか大人扱いといった考え方がセットになっている。履修自体も学年が上がるごとに自由度が増すはずである。大学がだんだんシビアな社会の写し絵のようになっていく。

 視点を変えてみよう。大学は半分は学校で、もう半分は学問世界である。学問世界は厳しいが、それに準拠しておくと社会で役に立つ。ジャーナリズムも教育もビジネスも、学問の精神を基準にやると間違いがない。高度な専門性を謳う学部は、厳しい学問世界のルールによって支配されていて、本書で述べてきたような処方箋が否定されることも多いと思う。「どうせそうでなくてはやっていけないのだから、最初からアカデミックにやれ」ということである。すでに述べたように、いずれにしても小中高の「調べ学習」的な常識は通用しない。

 だから大学は「ひとつ」ではなく「ひとつと半分」なのであり、過剰なものを抱えているというわけだ。単位は三年半でおおよそ取得できるものだが、まともにやると四年間には収まらないだろう。そんなにのんびりしてはいられないだろうと思うので、私はスタートダッシュを勧めるのである。

 この点で、ありがちなパターンを踏んでいては、そのままリアル社会に出ると通用しないことがあるので、しっかり勉強しておくことをオススメしておく。「なんとかなる」「好きなことしかしたくない」とか言っていても、残念ながらリアル社会はそれを認めないことが多い。具体的には、つまり一人前に稼げない。あるいは、若いときはいいけれども、25を超えたあたりから年下の若い上司から命令されるようなことが頻発する。まあ、それはどこで働いても同じで、もっと歳を取るとどうでもよくなるのだが、比較的若いと苦になる人は苦になるのである。また、二重に自由なフリーランスでやっていくには、健康な楽観主義と日常的な知的積み上げがしばしば必要になる。知的にタフにやっていかないと生きづらい社会ではあるのだ。

 以上、大学初心者は「案配」がわからないだろうから、余計なお節介とは思いつつ、初級編の「案配」を説明してきた。学生数の多い私立文系やカタカナ学部であれば、ざっとこんな感じである。みなさんのキャンパスはどうだろう。

『ゼミ入門』(1)予告編

野村一夫『ゼミ入門』文化書房博文社、2014年。
 (1)予告編

 本書のテーマはゼミである。もともとドイツ語でSeminar(ゼミナール)を日本式に略してゼミという。ドイツ語でSeは「ゼ」と読む。英語ではSeminar(セミナー)である。日本の大学での科目名は通常「演習」である。

 人文社会系の大学に入ると、3つのタイプの授業と出会う。講義系と実習系と演習系である。講義系はたいてい大きな教室で一方通行の話を聴く。実習系は、専用の場所でスポーツをしたりコンピュータの操作をしたりする。フィールドワークや調査実習というのもある。この2種の授業は比較的なじみやすい。手取り足取り教えてもらえるからだ。先生の指示に従って作業を進めればよい。しかし、これらに対して演習系は戸惑うことが多いのではなかろうか。それは双方向のコミュニケーションであり、しばしば学生がイニシアティブをとらなければならない。そのため演習系の授業は3年生あたりから始まることが多かった。かつてゼミはいかにも大学生後半の応用的なメインイヴェントだったのだ。

 ところが最近は「基礎演習」「入門演習」といったタイトルで、1年次からいきなりゼミが始まる。たいていそれらは必修科目である。その目的は、大学生として身に着けなければならない能力を早めに教育することで、その後の大学生活を順調につつがなくこなしてもらいたいというところにある。これを講義形式でやると必ず落ちこぼれる人が出てしまうので、それは少人数で、こぼれ落ちそうな人をみんなでサポートしながら進めなければならない。教員と近い距離で、双方向のコミュニケーションを確保しながら授業を進めていくことで、一人前の学生としての基本的な能力を培う。これが主旨である。

 ひと昔前の大学は、こういう教育にまったく無頓着だった。ほとんど手ぶらと言ってもよい。自分で勝手に身につけなさいというのが大学側のスタンスで、学生はさまざまなタイプの教員の授業に直面して、戸惑いながらも自分たちなりに(しばしば「先輩」の体験談が過度に参照されて)乗り切る方法を見いだしてきたのである。

 たとえば、大学に入って初めて体験するのは、長文の論文形式試験であったり、レポートであったりする。レジュメを書いて報告したり、討論したりする。しかし、その方法について直接、系統的に指示されることは少ない。かつての学生たちは見よう見まねで方法を探ったのである。それが何とかできたのは、大学生自体が社会の中のエリート的存在だったからである。

 しかし、今はそういう時代ではない。大学は大衆化した。かつては同世代の1割とか2割しか大学に進学しなかったのに対して、今は同世代の半分が大学に進学する。かつてのエリート性は期待できない。というか、期待してほしくないというのが、今の学生の本音だろう。むしろ「最初からきちんと教えて」ということだろうと思う。何もしないと、大学生活からこぼれ落ちていく学生はぐんぐん増加する。手を打たなければならない。逆に、きちんと教えると、意味なく逆らったりすることなく、すぐにこなせるようになるのも今の学生の美質である。

 「基礎演習」「入門演習」といった授業がおもに初年次用に用意されたのは、そのためである。それは従来のゼミとは全然ちがう授業であるはずだ。なぜならゼミは本来、応用的な授業なのだ。それは研究者たちが日常的にやっている研究会スタイルの模倣なのだから。しかし初年次におこなう「基礎演習」「入門演習」はそれらとは異なる。それは「手取り足取り」やらなければ目的を達成できないがゆえの少人数教育としてのゼミなのである。

 ここでは、教員が、かつては不文律とか慣習とか掟として自明視されていた大学生活のノウハウをきちんと明示しなければならない。たとえば、論文試験答案の書き方、レポートの書き方、レジュメの書き方、報告の仕方、本の読み方。

 しかし、専門家・研究者のやり方をそのまま学生に押し付けることに対して私は明確に反対である。それは、エリートだったかつての学生や、エリート大学のエリート学生には通用するかもしれないが、一般大学のふつうの学生には通用しない。エリート大学においてさえ、エリート志向のない一般学生には通用しない。大学の教員は長いあいだ、我田引水をやってきた。自分の専門分野への導入しか考えてこなかった。しかし、これからはちがう。他のさまざまな専門分野に開かれた導入教育をやっていかなければならないのである。だから、教員も変わらざるを得ない。

 入門段階には入門段階特有のやり方があるのだ。それを認めることが教育の大前提である。しかし、小学生にいきなり複素数を教えるようなことを、これまでの大学はしてきた。複素数を教える前に、自然数があり、小数があり、分数があり、負の数があり、無理数があることを順序立てて説明することが必要なのだ。そのために「3から4は引けない」とか「ルートの中は正の数でなければならない」とか、あとから見ると、ある種のウソを教えることになるのだが、教育のプロセスの中においては、それは正しく機能する仮のルールなのである。そうした仮のルールを仮設することによって、学生は次の段階に進むことができる。

 こういうことが大学では十分に意識されてこなかった。もちろん高度専門科目の前提科目に入門的な科目を置いておくというようなことはしてきたのであるが、もっとその前の前にすべきことがあったはずなのである。専門課程の先生は教養課程の先生にそれを期待しているが、じっさいの教養課程は先生たちの得意な専門性の高いことをばらばらにやっているにすぎないので、学生はけっこう混乱させられてきたのである。

 このような方針転換は、特定専門分野の研究者である教員としては、けっこうツライことである。右手だととても器用に使えるのに、あえて左手を使ってするようなところがある。ツライところを共有しながら、新しい世代の大学生たちと、とことんつきあっていこう、というのが本書の立場である。ナヴィゲーターとしての教員、全能ではない、ただしどこへ行けばいいかを知っている。それでいいのだ。

 というわけで、じつは本書はゼミを担当する教員の先生方にも向けられている。ゼミは教員と学生とが協同して初めて成立するものである。双方に語りかけていかないと、なかなか効果が上がらない。ともに模索しながらゼミを作り上げていきたいものだ。その模索の手がかりにしていただこうと企画されたのが本書である。

 本書のタイトルである「ゼミ入門」というのは、演習系授業の初歩の初歩から考え直してみたいということを示している。

 本書は「出会い編」「導入編」「問題関心編」「もうひとつの中級編」「もうひとつの上級編」の五部構成になっている。「出会い編」「導入編」は1年次の「基礎演習」「入門演習」を想定して、そこで何をどのようにすればいいのかについて論じている。これは「大学生入門」に相当する内容である。「問題関心編」は、その次の段階。これも1年次になされる場合も多いが、専門演習の最初の部分にも相当する。「もうひとつの中級編」では、いかにもゼミらしい勉強の仕方について、いくつかのアイデアを述べている。

 じっさいには、本書のメニューを一年次の一年間でこなす場合もあれば、二年次以降の専門のゼミの冒頭で一気にこなす場合もあるだろう。ケースバイケースでいいと思う。

 本書には通常の意味での「上級編」は用意されていない。おそらく多くのゼミは卒業論文あるいはゼミ論文と直結していて、それが「上級編」に相当するのであろう。しかし、論文の書き方などについては、すでに数多くの案内書があるので、それ以前のところに焦点を当てている本書では思い切って割愛した。というか、もはや卒業論文のようなアカデミックな勉強のみが大学生としての最終目標ではないというのが、私の考えである。この点についてだけ最後にかんたんに論じよう。

 本書は私なりの考えで一貫させたので、テキストやマニュアルとしてというより、「叩き台」や「メニュー」としてゼミの現場でアレンジして使っていただければ幸いである。(2014年9月20日)