読解対象
M・J・アドラー+C・V・ドーレン『本を読む本』外山滋比古・槇未知子訳、講談社学術文庫、一九九七年。
ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳、ちくま学芸文庫、筑摩書房、二〇一六年。
レッスンのポイント:長文引用練習
英語圏の大学における勉強の柱は二つ。一つは五〇〇ページ以上はある分厚い標準教科書。もう一つの柱はアンソロジー(あるいはリーディングス)。その領域の古典的文献や基本論文を抜粋したものである。これでテキストで説明されている命題や理論の最初の形を学ぶ。二本柱の間を取り持つのが教員の役割ということになる。
さて、アンソロジーを編集する視点から考えてみる。おそらく専門性の高い領域であれば作りやすいのではないか。逆に、広範な領域を横断的に眺めるものになればなるほど作りにくいのではないか。領域が広がると選択肢が拡大して恣意性(あるいは選択眼)も高度になるからである。
テクスト内在的に語りたいというのが当初の私の願いであった。書評ではないようなスタイル、外書購読のような精読スタイルで、なるべく原文(と言っても基本的に翻訳を使用する)を紹介しながら書き進めていくようにしたいと思ったのである。
となると必要になる能力は次の通りである。
(1)多読能力。大量の文献を読むことになる。
(2)有益なパラグラフを選び抜く選択眼。精読が前提。
(3)文献が置かれているコンテクストの理解。
(4)多様な読み方。ときには流し読みや部分読みをすること。
前提条件は有限な時間と文献の質量とのトレードオフ。学ぼうとする者ならだれしもが抱える問題を「代行」しようとしているわけだから、当然、このトレードオフが圧縮されて到来する。一方で日本は翻訳大国である。今の日本の出版状況は、かつて「12世紀ルネサンス」を呼び起こした多数のアラビア語の翻訳書群と似ている。なじみのある社会学を見ていても英語だけでなくフランス語やドイツ語やイタリア語など夥しい数の翻訳が出版されている。ルーマンの翻訳だけでも40冊ぐらいあるが英語圏では数冊にとどまる。しかも私たちが圧倒的に有利なのは日本語も読めるということである。日本にはオリジナルな思想家が少ないかも知れないが、欧米の思想家(とりわけ英独仏)の学説研究の水準は高い。そういう利点を生かしたい。翻訳の問題については、そのうち主題的に取り上げたい。
問題は読み方である。文献について述べるわけだから精読が基本なのは言うまでもないが、隅から隅までを理解していないといけないというわけではない。
読書法の世界では比較的正統派だと思うが、アドラーとドーレンの『本を読む本』には四つの読み方が書いてある。(M・J・アドラー+C・V・ドーレン『本を読む本』外山滋比古・槇未知子訳、講談社学術文庫、一九九七年)注:これからは著者が複数の場合は+でつなくことにしたい。
(1)初級読書
(2)点検読書
(3)分析読書
(4)シントピカル読書
最後のシントピカル読書というのは、同一主題の複数の本を読みくらべる作業のことである。著者はこれには五段階があるという。(アドラー+ドーレン1997:227-233)
(1)問題箇所を見つけること。
(2)著者に折り合いを付ける(著者のキーワードを見つけて使い方をつかむ。これは一種の翻訳作業になる)。
(3)質問を明確にすること。
(4)論点を定めること。
(5)主題についての論考を分析すること。
この本も「本は隅から隅まで読め」とは言わない。
エーコの「反読書」となると「読まない本」が当たり前になるが、それは別の機会に。また、遡るとショーペンハウアーの有名な読書論だと「自分を喪失するから本を読むな」的な論調になる。哲学者はそうかもしれないが、いくらネット社会とは言え、凡人は多少とも何か読まないかぎり死ぬまで無知の人である。
こうした議論にユニークな観点から論じた本がピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』である。(ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳、ちくま学芸文庫、筑摩書房、二〇一六年。)
読書には義務や禁止からなる規範の体系がある。(バイヤール2016:11-13)
(1)読書義務(神聖とされる本は必ず読んでいなければならない)
(2)通読義務(始めから終わりまで読まなければならない。飛ばし読みや流し読みは読まないのと同じである。)
(3)本について語るためには、その本を読んでいなければならない。
この規範の体系があるために、多くの人(とくに学者)はウソをつかなければならなくなる。これはおかしいだろうというわけである。バイヤールも本書においてときどきウソをつくのであるが、ある意味、本書は本に関するウソについての本でもある。
タイトルだけで決めつけられがちな本であるが、内容はすこぶるリッチである。
ムージルの『特性のない男』に登場する図書館司書は所蔵図書をいっさい読まない。「全体の見晴らし」が重要だという。ヴァレリーは読んでいない本について公の場所で「読んでいない」ということをほのめかしながら、その本や著者について賛辞を送る。ヴァレリーは作品そのものと距離を取ろうとする点で流し読みの名手である。エーコの『薔薇の名前』において殺人の理由となる書物はアリストテレスが笑いについて論じた本であるが、それは中世の修道院図書館が表象する「共有図書館なるもの」を台無しにすると殺人犯が考えたためだった。この場合、話題の本は「遮蔽幕(スクリーン)としての書物」(バイヤール2016:84)になっているという。フロイトの「遮蔽幕(スクリーン)としての記憶」に由来したフレーズだが、防御壁とか盾とか矛先とかダミーとか不可視化装置などの類義語を勝手に連想してしまうが、要するに書物の名前を出した段階で「ここから先は立ち入り禁止」という指令を出していることになるということだろう。ちなみにフロイトの「隠蔽記憶」「遮蔽想起」は「意識にとって許容しがたい他の記憶を隠蔽すること」を指している。(バイヤール2016:85)
モンテーニュは自分が著作に書いたことをすっかり忘れていた経験を書いている。そもそも『エセー』のテーマの一つは「記憶の消失」だとのことである。(バイヤール2016:90)
モンテーニュは、自己消失を繰りかえし経験している点で、これまで言及してきたどの作家にもまして「読むこと」と「読まない」こととの境界を無効にする作家であるように思われる。書物というものが、読んだかどうかすら忘れてしまうほど、読みはじめたとたんに意識から消えていくものであるとしたら、読書の概念じたいがいかなる有効性ももたなくなる。どんな本も、それを開くにせよ開かないにせよ、別のどんな本とも等価だということになるからである。
モンテーニュが書物と取り結ぶ関係は、誇張されているように見えるかもしれないが、われわれ自身の書物との関係と本質的には変わらない。われわれが記憶に留めるのは、均質的な書物内容ではない。それはいくつもの部分的な読書から取ってきた、しばしば相互に入り組んだ、さまざまな断片であり、しかもそれはわれわれの個人的な幻想によって歪められている。つまりそれは、フロイトのいう〈遮蔽幕としての記憶〉に似た、捏造された書物の切れはしであって、その機能はとりわけ他の書物を隠蔽することなのである。
したがって、 ここでモンテーニュにならって問題にすべきは、読書というより「脱−読書」である。これはわれわれを絶え間なく引き込む書物忘却のムーヴメントにほかならない。このムーヴメントは、参照項の消失であると同時に攪乱であり、タイトルと何ページかの記述と化してしまった書物を、われわれの意識の表面に浮かぶ漠たる幻影に変える。
書物が、知識だけでなく、記憶の喪失、ひいてはアイデンティティーの喪失とも結びついているということは、読書について考察を加えるさいにつねに念頭に置いておかなければならない要素である。これを考慮に入れなければ、読書のポジティヴで蓄積的な側面ばかりを見ることになる。読むということは、たんに情報を得ることではない。それは一方で忘れることでもある(こちらの方が大きいかもしれない)。それはしたがって、われわれの内なる、われわれ自身の忘却に直面することでもあるのだ。
モンテーニュの文章から見えてくる読書主体のイメージは、統一性のある、自己を保証された主体のイメージではない。それは不確かな、テクストの断片のあいだで自分を見失った主体、これらの断片が誰のものかも分かっていない主体である。この主体は人生の途上でひっきりなしに難局に直面させられる。そして、自分のものと他人のものとを区別することもできなくなって、ついには書物と出会うたびに自分自身の狂気と対面する羽目になるのである。(バイヤール2016:100-102)
私たちもついに「脱−読書」の境地に到達したようだ。正直を信条とするモンテーニュに倣うことにしよう。
ここまでが第Ⅰ部「未読の初段階(「読んでいない」にも色々あって‥‥)になる。読んでない、ざっと読んだ、聞いたことがある、読んだが忘れた、といった四段階を見てきた。
第Ⅱ部は「どんな状況でコメントするのか」である。本書の白眉と言えるものだが、これを踏まえた上で第Ⅲ部「心がまえ」を重点的に検討したい。ちなみに読み飛ばしたわけではない。第Ⅲ部がおもしろいのだ。余裕があれば最後に戻ってもいいが、これは回収されないと思う。
第Ⅲ部の最初の章「気後れしない」は、デイヴィッド・ロッジの『交換教授』と『小さな世界』が題材である。この二冊によって「キャンパス・ノヴェル」という文学ジャンルが生まれたという。バイヤールが取り上げるのは『交換教授』の中にある「屈辱」と呼ばれるちょっとした会話ゲームである。「自分がまだ読んでいない有名な本を各人で挙げ、すでにそれを読んだほかの者一人につき一点獲得、というゲーム」(バイヤール2016:188)で『ハムレット』を挙げた生真面目で曖昧さが大嫌いなリングボームが冗談だと笑う参加者たちに対して断固として読んでいないと言い放ってしまったために座がシラけてしまったエピソードが出てくる。この気まずい状況をバイヤールは詳細に分析する。
このリングボームの行為は、曖昧さを残さないという過ちによって「われわれが自分と他人とのあいだに普通に成立させている決定不能な文化空間から自らを排除するのである」という。(バイヤール2016:193-194)
この空間において、われわれは、自分自身にも他人にも一定範囲の無知を許す。というのも、あらゆる文化は数々の空白や欠落の周りに構築されるということをよく知っているからである(ロッジは先の引用で「教養のギャップ」について語っている)。しかも、この空白や欠落は、別のたしかな情報を所有する妨げとはならない。
書物に関する──いや、より一般的に、教養に関する──このこのコミュニケーション空間を〈ヴァーチャル図書館〉と呼んでもいいだろう。これはイメージ(とくに自己イメージ)に支配された空間であり、現実の空間ではないからである。この空間は、本が本の虚構によって取って代わられる合意の場としてこれを維持することを目的とする一定数のルールに従う。これはまた、幼年期の遊戯や演劇でいう演技とも無関係ではないゲーム空間、その主要なルールが守られなければ続けられないようなゲームの空間である。
この暗黙のルールのひとつに、ある本を読んだことがあると言う人間が本当はそれをどの程度まで読んでいるかを知ろうとしてはならないというルールがある。なぜかというと、ひとつには、言表の真実性に関するあいまいさが維持されると、また出された問いにはっきりと答えなければならこの空間内部で生きることはたちまち耐えがたくなるからである。もうひとつは、この空間の内部では、誠実さの概念そのものが疑問に付されるからだ。先に見たように、まず「ある本を読んだ」ということの意味からしてよく分からないのである。(バイヤール2016:194-195)
つまり、教養とは個人の無知や知の断片が隠蔽される舞台だということだ。(バイヤール2016:195)
重要なのは、その人間が潜在的書物からなるこの中間領城の外に出ないということだ。この領域のおかげでわれわれは他人と共生し、コミュニケーションをはかることができるのである。(バイヤール2016:197)
ここでバイヤールは大学教員の世界(「小さな世界」)を一種の社交空間として語っている。社交空間であるから、それは演技される世界であり、偽善の世界である。逆に言うと特別な空間ではない俗物の社交空間にすぎないということだ。こういう見切りが必要なのだ。
この社交空間において書物の名前とそれがほのめかすものは独自の機能を果たす。
こうした文化的コンテクストでは、書物は──読んだものも読んでないものも──第二の言語となる。われわれはこれを使って自分について語ったり、他人の前で自己を表象したり、他人とコミュニケートしたりするのである。書物は、言語と同様、われわれが自分を表現するのに役立つだけでなく、自分を補完するのにも役立つ。つまり、書物から抽出され、手直しされた抜粋によって、われわれの人格に欠けている要素を補い、われわれが抱えている裂け目を塞ぐ、そうした役割を果すのである。
しかし書物は、言葉と同様、われわれを表象しつつ、われわれを歪めて伝えるものでもある。(バイヤール2016:198)
われわれが他人と書物について語りながら交換するのは、したがって、われわれの外部にあるような情報である以上に、自己同一性が脅かされる不安な状況にあってわれわれの内的一貫性を保証するのに役立つような、われわれ自身の一部である。恥ずかしさの感情の背後にあって、こうした交換によって脅かされているのは、われわれのアイデンティティーそのものなのである。この潜在的な空間があいまいさを保持しつづける必要があるのはそのためである。(バイヤール2016:199)
相互のプライドとアイデンティティを守るための言葉として書名が使われる。著者名も同様。「ニーチェみたいにさ」「フーコーが言うように」という具合に。文字通り「遮蔽幕」になる。言われた方は「ここから先は突っ込むなよ」という隠れたシグナルを読み取らなければならない。
この意味で、このあいまいな社交空間は学校空間の対極にあるといえる。学校空間というのは、そこに住む生徒たちが課題とされた書物をちゃんと読んでいるかどうかを知ることが何よりも大事とされる空間である。そこには完全な読書というものが存在するという幻想が働いている。あいまいさを一掃し、生徒たちが真実を述べているかどうかを確認しようというその狙いも錯覚を孕んでいる。読書というものは真偽のロジックには従わないものだからである。
書物に関する議論の空間は、遊戯の空間であり、絶え間ない折衝の、したがって偽善の空間である(後略)。(バイヤール2016:199)
ここで反省したい。私は柄にもなく学校空間を生きていたのだ。というより、学び直しをする過程で、いつのまにか自らを学校空間においてしまっていたのだ。バイヤールの結論はこうだ。
読んでない本について気後れすることなしに話したければ、欠陥なき教養という重苦しいイメージから自分を解放すべきである。(バイヤール2016:200)
次の章「自分の考えを押しつける」ではバルザックの『幻滅』に登場して主人公を翻弄する辛口評論家のやり方を取り上げている。その評論家は本を読まないで批評することを自慢げに主人公に語るのである。まるで生徒や学生が本を読まないで読書感想文やレポートを書いて単位をもらったと自慢するように。
バルザックがここで披露しているのは、私のいう〈ヴァーチャル図書館〉の諸特性の戯画にほかならない。この小説家が描く知識人の小宇宙で重要なのは、もっぱら、そこで立ち動く人々の社会的ポジションである。書物そのものは、陰に追いやられていて、大きな役割を果すことはない。しかも、書物について意見を言う前にそれを読む者はだれもいない。書物は、社会的および心理的諸力のあいだの不安定な関係によって定義される中間的対象に取って代わられているのであって、それじたいでは問題にされないのである。(バイヤール2016:218)
ここで問題となっているのはしたがって書物そのものではなく、その書物について人々が交わす言葉の相互作用である。(バイヤール2016:222)
どちらもある一個の作品を読んだことがないことになっているのだが、もし二人とも読んでいないとしたら、どちらも相手が読んでいない(つまり読んだと言って嘘をついている)ということも分からないはずなのである。ある本についての対話のなかで嘘という言葉が意味をもつためには、少なくとも一方が本を読んでいなくてばならあるいは本についてだいたいのことを知っていなければならない。(バイヤール2016:234)
このように、このヴァーチャルな空間は騙し合いのゲームの空間である。その参加者たちは、他人を購す前に自分自身が錯誤に陥る。(バイヤール2016:234)
ここで少し戻る。コンテクストの話。
彼はたしかにこの重要性を戯画化しているが、コンテクストの決定力を強調している点は見逃せない。コンテクストに関心を向けることは、書物というものは永遠に固定されてあるものではなく、動的な対象であり、その変わりやすさは部分的には書物の周りで織りなされる権力関係総体に由来している、ということを思い出すことである。(バイヤール2016:221)
書物は固定したテクストではなく、変わりやすい対象だということを認めることは、たしかに人を不安にさせる。なぜなら、そう認めることでわれわれは、書物を鏡として、われわれ自身の不安定さ、つまりはわれわれの狂気と向き合うことになるからだ。ただ、それと向き合うリスクを受け入れる──リュシアンよりも決然と──ことをつうじてはじめて、われわれは作品の豊かさにふれると同時に、錯綜したコミュニケーション状況を免れることができるということもまた事実である。
テクストの変わりやすさと自分自身の変わりやすさを認めることは、作品解釈に大きな自由を与えてくれる切り札である。こうしてわれわれは、作品に関してわれわれ自身の観点を他人に押しつけることができるのである。バルザックのヒーローたちは、〈ヴァーチャル図書館〉の驚くべき可塑性を見事に示している。〈ヴァーチャル図書館〉は、本を読んでいるいないにかかわらず、読者を自称する人間たちの意見に惑わされることなく自分のものの見方の正しさを主張しようと心に決めた者の欲求に合わせて、いとも容易に変化するのである。(バイヤール2016:224-225)
これは、かなりすごい考え方である。本は素材として自由に語ってよしというのである。ホールのエンコーディングとデコーディングというコミュニケーションの理にかなっている。本書はデコーディングの話をしているのだ。
さて、第Ⅲ部第3章「本をでっち上げる」の題材は『吾輩は猫である』である。ここに「金縁眼鏡の美学者」が登場して苦沙弥先生に架空の本について滔々と語るシーンがある。苦沙弥先生は感心しながら聴いているが、あとあとになって美学者は「そんな本はないんです」と言ってのける。これが「本をでっち上げる」ということである。そしてバイヤールは「それでいい」と言うのである。そのためには「〈他者〉は知っていると考える習慣を断ち切ること」が必要だという。(バイヤール2016:235)
書物についての言説で問題になる知というのは不確かな知であり、〈他者〉とは話し相手の上に投影された、不安を呼ぶわれわれ自身のイメージであって、そのモデルはかの遺漏なき教養というフィクションである。学校制度によって伝播されるこのフィクションが、われわれが生きたり、考えたりする妨げとなっているのである。
しかし(他者〉の知を前にしたこの不安は、とりわけ書物にまつわる創造の妨げとなっている。〈他者〉は読んでいる、だから自分より多くのことを知っている、と考えることで、せっかくの創造の契機であったものが、未読者がすがる窮余の策に堕してしまうのである。しかし、本を読んでいる者も読んでいない者も、望むと望まざるとにかかわらず、書物創造の終りのないプロセスのなかに巻き込まれているのだ。真の問題は、したがって、そこからどのように逃れるかではなく、それをいかに活性化し、その射程をいかに拡げるかを知ることなのである。(バイヤール2016:235-236)
いま私がやっていることも同じなのだろう。テクスト内在的に思考を進めていくことは、たんなる要約や訓詁解釈だけでなく、ときとして創造的な局面に至る瞬間があるかもしれない。そのためには「読者は読んでいる」と想定することをやめなければならない。ちゃんと説明する、そして自分なりの読みを提示する。それをまた自分の中で吟味する。それをまた別の本について述べるときに提示する。少しずつ思考が進む。それがバイヤールの言う〈内なる書物〉となる。それでいいということだ。
もしわれわれが、本書で分析してきたような多様で複雑な状況において、重要なのは書物についてではなく自分自身について語ること、あるいは書物をつうじて自分自身について語ることであるということを肝に銘じるなら、これらの状況を見る目はかなり変わってくるだろう。なぜなら、いまや重視すべきは、何らかのアクセス可能な与件を出発点とした、作品と自分自身とのさまざまな接触点だということになるからである。その場合、作品のタイトル、〈共有図書館〉における作品の位置、作品を語って聞かせる人間のパーソナリティー、そのときの会話やテクストのやりとりのなかで生み出される雰囲気など、数多くの要素が、ワイルドのいう口実として、作品にさほど拘泥することなく自分自身について語ることを可能にするはずである。(バイヤール2016:264)
これはやはり高めの能力を必要とすることである。作品を語るという行為は、その人の創造力の高さを結果的に表示するのだ。
読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。目立たないかもしれないが、これより社会的認知度の高い活動と同じくらい立派な活動なのだ。(バイヤール2016:269)
この〈創作者になること〉は、読んでいない本について語る言説だけに関係しているのではない。より高いレベルでは、創造そのものが、その対象が何であろうと、物から一定の距離をとることを要求する。というのも、ワイルドが示しているように、読書と創造とのあいだには一種の二律背反が見られるのであって、あらゆる読者には、他人の本に没頭するあまり、自身の個人的宇宙から遠ざかるという危険があるのだ。読んでいない本についてのコメントが一種の創造であるとしたら、逆に創造も、普物にあまり拘泥しないということを前提としているのである。みずから個人的作品の創作者になることは、したがって、読んでいない本についていかに語るかを学ぶことの論理的な、また望ましい帰結としてあるといえる。この創造は、自己の征服と教養の重圧からの解放に向けて踏み出されたさらなる一歩である。教養というものはしばしば、それを制御するすべを学んでいない者にとって、存在することを、したがってまた作品に生命を与えることを妨げるものなのである。読んでいない本について語る方法を学ぶということが、創造の諸条件との出会いの最初の形であるとするなら、教育に従事するすべての者にはこの実践の意義を説く責任があるということになろう。彼ら以上にそれを伝達するのにふさわしい人間はいないからである。(バイヤール2016:271)
教育が書物を脱神聖化するという教育本来の役割を十分果さないので、学生たちは自分の本を書く権利が自分たちにあるとは思わないのである。あまりに多くの学生が、書物に払うべきとされる敬意と、書物は改変してはならないという禁止によって身動きをとれなくされ、本を丸暗記させられたり、本に「何が書いてあるか」を言わされたりすることで、自分がもっている逃避の能力を失い、想像力がもっとも必要とされる場面で想像力に訴えることを自らに禁じている。本は読書のたびに再創造されるということを学生に教えることは、数多くの困難な状況から首尾よく、また有益なしかたで脱する方法を彼らに教えることである。というのも、自分の知らないことについて巧みに語るすべを心得ているということは、書物の世界を超えて活かされうることだからである。言説をその対象から切り離し、自分自身について語るという、多くの作家たちが例を示してくれた能力を発揮できる者には、教養の総体が開かれているのである。わけてももっとも重要なもの、すなわち創造の世界が開かれている。われわれが学生たちにできる贈り物として、創造の、つまり自己創造のさまざまな技術にたいする感受性を養うことほど素晴らしい贈り物があるだろうか。あらゆる教育は、それを受ける者を助け、彼らが作品にたいして十分な距離をとり、みずから作家や芸術家になることができるよう導くべきだろう。(バイヤール2016:272-273)
最後に、自分なりの思考を書いておきたい。それをとりあえず「アンソロジスト・メソッド」と名づけておく。ヒントは日曜読書会をいっしょにやっている池田隆英さん(岡山県立大学)の講義資料の作り方にあった。池田さんは学生に自分で作ったアンソロジーを配って、それについて解説するとのこと。原典を読ませて、そこから議論を立ち上げていくという。それは理想的だなあと思うが、日本語圏では適当なアンソロジーがとても少ないから、手作りせざるを得ないというところがマネできない。私は長めの引用でさえ苦手なのである。かといって、よくある「命題集」では、原典のコンテクストがつかめない。
たとえばパスカルの『パンセ』を読了した人とは出会ったことがないが、それなりに語ることができるのは、いくつかの有名なフレーズが流通しているからだ。「人間は考える葦である」がそれである。しかし、これは何を言いたいのだろうか。やはり、これだけを抜き出してもパスカルの言いたいことは伝わらない。解釈は自由だが、素材はもう少し多い方がいいのではないか。それが書かれた断章は次のような文章である。
人間は一本の葦にすぎない。自然の中でも最も弱いものの一つである。しかし、それは考える葦なのだ。人間を押し潰すためには、全宇宙が武装する必要はない。蒸気や一滴の水でさえ人間を殺すに足りる。しかし、たとえ宇宙が人間を押し潰したとしても、人間は自分を殺す宇宙よりも気高いと言える。なぜならば、人間は自分が死ぬことを、また宇宙のほうが自分よりも優位だということを知っているからだ。宇宙はこうしたことを何も知らない。
だから、わたしたちの尊厳は、すべてこれ、考えることの中に存する。わたしたちはその考えるというところから立ち上がらなければならないのであり、わたしたちが満たす術を知らない空間や時間から立ち上がるのではないのだ。ゆえに、よく考えるよう努力しよう。ここに道徳の原理があるのだ。(断章三四七)(パスカル2012:213)ブレーズ・パスカル『パスカル パンセ抄』鹿島茂編訳、飛鳥新社、二〇一二年。
「人間は考える葦である」というフレーズは、こうしてみると巧みに要約していると言えるが、断章を丸ごと読むと印象はかなり異なるのではないか。要するに「考えよ」と呼びかけているのである。この程度のまとまりがあれば、本全体を読んでいなくても、人類遺産としてのパスカルのメッセージの一部は伝わるのであり、次の局面を想像できるのではないだろうか。これがアンソロジーの美点であり、読まないで堂々と語る主体の創出基盤になるのである。
単独で大著を書くのもいいが、同じ大著であれば思考に役立つパラグラフを集めたアンソロジーの方が有意義である。なぜならテクストが著者の思考から解放されているから。読者はそのパラグラフだけを読んで思考を始めることができるようにする方がいい。それだけのリソースはすでに人類は作り上げてきたのであり、日本の翻訳文化においてそれはいつでも利用可能になっているからである。池田さんが授業でやっているように、それを素材として池田さん自身が自由に思考を語ればいいし、学生たちがそれぞれに思考を語り合えばいいのである。その結晶が池田さんの来るべき論文や著作になったり、学生たちが自分の人生の中で思い起こして応用する局面が出来するのであれば、それは有益な財産となるはずである。
逆に言うと、単独で大著(とまでは行かなくとも中規模の書き下ろし作品であっても)を書くためには、そういうプロセスが欠かせないのである。それを抜きにして一定水準の著作は書けないと思う。まして私の場合は理論研究のブランクが長いのだから、入学したての勤勉な大学院生のように、ひたすら文献を読んで書写して自分自身の思考のための教材づくりから着手しなければならない。
お手本となるものは、学術的なものが少ないというだけで、じつはないわけではない。翻訳の場合、版権の許諾作業が必要なので、どうしても中堅大手出版社のものになる。
そもそも文学全集はアンソロジーである。そういうブームもあったが、今は過去の話。背景には、もはや大部な作品は読まれないという事実がある。現代の大衆小説であれば大部なものはいくらでもあるが、海外の古典作品の翻訳となると相当ハードルが高くなる。昔からそうだったと言えなくもないが、とりわけ若い人が読書習慣から縁遠くなってしまい、物量をこなすことができなくなった事情が大きいと思う。そこで筑摩書房は、それまでの大全集主義を改めアンソロジーに力を入れた時期があった。文学では『ちくま文学の森』『新・ちくま文学の森』があり、その次に『ちくま哲学の森』シリーズ全八巻が編まれた。内容的には哲学者そのものより人生哲学的な教訓エッセイがほとんどを占める。高校生あたりをターゲットにした感じのものだが、編集力の高さを感じるシリーズである。これに似たのがポプラ社の「百年文庫」で、今これを手放したことを猛烈に後悔している。もうボックスは市場にない。先行する二冊の企画は残しておいた。『諸国物語』と『百年小説』がそれである。「百年文庫」はそのスピンオフになる。これらも文学アンソロジーである。こういうものは出版社にいる(あるいは委託された)アンソロジストへの信頼がないとセールスは成り立たないのだろう。著者名を手がかりにする多くの読書家の目にはとまらなかったのではないか。
時代的には遡るが、人文社会科学全般に網をかけたのが平凡社の『現代人の思想』シリーズ全二十二巻である。これは全集と言ってもいいような陣容の内容だが、論争的な論文や著作の一部分が大量に収められていて、今や忘れられてしまった著者も多いのである。このうちの三冊が二〇〇〇年に記念復刻されているものの久しく絶版になっていて、平凡社ライブラリーにそっくりそのまま収録できないものかと思う。こういうものでゼミをやって議論すると面白いと思う。
『世界の名著』シリーズもじつは抄録があって、そのうちのいくつかは中公文庫で全訳化されている。しかし、これは全集というべきだろう。よりアンソロジー的なのは講談社の『人類の知的遺産』シリーズである。全八十巻のうち何冊かは講談社学術文庫で文庫化されている。前半は伝記と著作解題で、後半がアンソロジーになっている。特筆すべきは東洋思想の巨匠にも十分に配慮しているところで、異例なものとしては「達磨」だけで一巻をなすという具合である。フッサールの巻などは学術文庫になっていて読みやすい。これも歴史講座ものと同様にシリーズとして文庫化するといいと思う。買うのは一冊であっても、シリーズの全体観を意識することが重要だと思う。
じつは大学入試問題集いわゆる過去問集もアンソロジー的な性質を秘めている。現代文という科目の評論文というジャンルがそれである。試しに河合塾による『センター試験過去問レビュー国語』を買ってみた。過去問と解説とで計一八〇〇ページあって八八〇円という驚異の蓄積本だったが、センター試験国語の現代文の設問はすべて日本の著者であった。翻訳は一つもない。同じく駿台予備学校編『京大入試紹介25年現代文2019〜1995』も買ってみたが、ここでもすべて日本人著者である。しかし選り抜かれた文章ばかりで、たいていの場合、他の文献を解説するようなものになっているので、自説をこんこんと述べた大作家の文章ではない。たとえば京大2019年入試問題では、金森修がアガンベンや寺田寅彦の所説を説明している文章が出題されている。もちろん著者の属性にも配慮されるのであろうが、それとともに明晰であることと、何カ所か読み込みに工夫が必要な個所があることが出題の要件である。どこをどれだけ切り取るかは熟考を要する。
日本語の哲学教科書としてよくできていると思ったのが、菅野盾樹編『現代哲学の基礎概念』大阪大学出版会、二〇〇八年である。引用された文章は基本的に原語の原典である。英独仏というところ。と言っても十行に満たない分量であれば解説付きで理解できる。かつての外書購読に較べるとたいした負担ではなかろう。
こうして眺めてみると、アンソロジーは索引であり事典であり目録でもあるということだ。小さな図書館の役割を果たしてくれる。
アンソロジーによって切り取られた原典・著作・論文は思考の道具である。道具でいいのである。踏み台と言ってもいい。これを「亜流」「低俗化」「にせもの」扱いするインテリが大部分であろうが、これまで詳細に検討してきたように、本は必ずしも全部読まなくていいのである。文化総体のテクストの中から切り取った断片をいくつか集めて自分が思考することこそ重要なことなのである。大部な著作を読み切ったところで、それは文化総体のテクストのごく一部分にすぎないということは変わりないのだから。こういう見切りが大事なのだ。その上で、デコーダー(あるいはそう言ってよければ創造的な読み手)としてより創造的な思考やテクストを産出することが大事なのである。そのさい私たち自身は一時的にテクストの奴隷であってもいいが、断じて図書館そのものである必要はないのだ。