tag:blogger.com,1999:blog-23458988876288369162024-12-06T10:14:57.235+09:00ソキウス野村一夫(国学院大学経済学部教授)野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]Blogger217125tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-55033817782060122812023-04-14T15:10:00.020+09:002024-12-01T12:25:21.546+09:00ご案内<div style="text-align: center;"><div><div><span style="font-size: large;">社会学者・野村一夫の著作アーカイブです。</span></div></div><div><span style="font-size: large;">サイドバーのナビゲーションから入って下さい。</span></div><div><span style="font-size: large;">Socius.jpからSocius.schuleへ移行しました。</span></div><div><span style="font-size: large;">(2022年2月に再構築)</span></div><div><div><br /></div></div></div><div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiPYxXrT9ibxf0QBTX10Ty1mEi_pfzdZa7eWriJGf4Sq3DXqptB5H2XAG3bMo1Wk3AKGz7MqvOvUHNTJGt1WJKE230ILOGVvzbrKaytQGYHu6HLsjCZZcEpeEy1Gwhry_lXCF7QYFl9jjfy09lQTfVWAp99ylRNPWz4WJmOBZk3ox12SJLHlOe5NroOSLK_/s4032/IMG_1953.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="4032" data-original-width="3024" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiPYxXrT9ibxf0QBTX10Ty1mEi_pfzdZa7eWriJGf4Sq3DXqptB5H2XAG3bMo1Wk3AKGz7MqvOvUHNTJGt1WJKE230ILOGVvzbrKaytQGYHu6HLsjCZZcEpeEy1Gwhry_lXCF7QYFl9jjfy09lQTfVWAp99ylRNPWz4WJmOBZk3ox12SJLHlOe5NroOSLK_/w300-h400/IMG_1953.JPG" width="300" /></a></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div><div style="text-align: center;"><div>ソキウスは社会学入門のサイトとして始まりました。</div><div>(1995年8月開始)</div><div>社会学(sociology)はsociusとlogosの合成語で、</div><div>sociusは「仲間」の意味のラテン語です。</div><div>現在は自分の著作アーカイブとして公開しています。</div><div><a href="https://web.archive.org/web/19961227082745/http://www.asahi-net.or.jp/~BV6K-NMR/">1996年当時のソキウス</a>(archive.org)</div><div><br /></div></div></div><div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiPeq4DKGGS2xu5f1DGW6iJs7Qes5Wkv_jlo2BpPoBMNJHB12wqsA02PGX44wH8xEfZht_BWafcSrw-YZJv4AArlcAAYqXOGf_XbHjFXugy1mBJBoNjRqpjHYGJuAfotd8gGeFy77WONDl3xxqqriWxrvHOzIaCxZ3dZ9Xg3IN-3U3vPXYw1VpBk-XRWzco/s4032/IMG_1964.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3024" data-original-width="4032" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiPeq4DKGGS2xu5f1DGW6iJs7Qes5Wkv_jlo2BpPoBMNJHB12wqsA02PGX44wH8xEfZht_BWafcSrw-YZJv4AArlcAAYqXOGf_XbHjFXugy1mBJBoNjRqpjHYGJuAfotd8gGeFy77WONDl3xxqqriWxrvHOzIaCxZ3dZ9Xg3IN-3U3vPXYw1VpBk-XRWzco/w400-h300/IMG_1964.JPG" width="400" /></a></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div><div style="text-align: center;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjUiGLWuzrJvG_CkWam2SnHr2c9pvIQ6U4Dmbmxm1zNlyumofWFcNNq-O3-cJrS-srOYMyC4ZuBrq01BGZc3M5hhK0nu_v6bigpfCiRRrjdPrDM9PCwwfgimW9NtsG-5lfl4JSR1WdzDUouNA61YLg5-_wYHlbxmeybIjxJoahfOYaBKUxMJKrfS2jKqL8w/s1760/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%202023-09-19%2010.55.22.png" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1046" data-original-width="1760" height="238" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjUiGLWuzrJvG_CkWam2SnHr2c9pvIQ6U4Dmbmxm1zNlyumofWFcNNq-O3-cJrS-srOYMyC4ZuBrq01BGZc3M5hhK0nu_v6bigpfCiRRrjdPrDM9PCwwfgimW9NtsG-5lfl4JSR1WdzDUouNA61YLg5-_wYHlbxmeybIjxJoahfOYaBKUxMJKrfS2jKqL8w/w400-h238/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%202023-09-19%2010.55.22.png" width="400" /></a></div><br /><div style="text-align: center;">R707FFあっとkokugakuin.ac.jp</div></div><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-3069995965427839732022-02-28T21:14:00.001+09:002022-03-01T09:27:55.693+09:00セオリー道場007ルーマンの「社会秩序はいかにして可能か」旧訳(佐藤勉訳)を読む<p>読解対象</p><p>ニクラス・ルーマン『社会システムの視座──その歴史的背景と現代的展開』佐藤勉訳、木鐸社、1985年。</p><p>レッスンのポイント:論文読解練習</p><p> ここのところジンメルとフロイトを読んでいたが、じつはアリストテレス・デイも丸1日あった。ルーマンの「社会秩序はいかにして可能か」の旧訳(佐藤勉訳)を読んでいて、アリストテレスの未解決の問題というのが出てきたから。それは『ニコマコス倫理学』等で追究された「人と人のつながり」の問題系列と『政治学』で追究された国家と政治の問題系列とがつながっていないということ。「なるほど、そういうものか」と思ったが哲学の勉強をしているわけではないのでアリストテレスについてこのさい概要を押さえておきたいと思って、中公「哲学の歴史」シリーズのアリストテレスの項目を読んだ。薄い新書1冊分ぐらいあって、ちょうどよい。『政治学』は「世界の名著」に入っているし『ニコマコス倫理学』は光文社古典新訳文庫に新訳がある。後者は人生論として読む人がいるよね。</p><p> ルーマンのこの本は『社会構造とゼマンティク2』第4章「社会秩序はいかにして可能になるか」として新訳が出ているが、今回は読書会の題材として簡便な古い翻訳を使用した。まだルーマンの翻訳に難のあった時代で、佐藤勉訳ということで出版されてすぐに読んだ懐かしい本である。貧乏な大学院生時代である。たまたま私の学部ゼミの先生がビーレフェルトのルーマンの下に在外研究に出ていたので、ルーマンの存在は身近だった。論文のためにダブル・コンティンジェンシーに関する英語論文は読んだ。しかし、当時は哲学的な素養がまったくなかったので本論文のアリストテレス周辺の記述は理解できてなかったと思う。だったら、この論文全体も理解できてなかったということになるので読み直すしかない。</p><p> ルーマンの言う「2つの秩序問題」というのは、一方で「人と人との間の関係の分析」があり、他方に「独自存在としての社会的現実の分析」があるということで、要するに両者がつながっていない事態を指している。アリストテレスは前者を「倫理学」で、後者を「政治学」で論じたが、両者の接続については論じなかった。つまり二分法を前提とした社会観になっているのである。これはアリストテレスに限った話ではない。今でもミクロ社会学とメゾ社会学+マクロ社会学の間には深い溝があって、ちゃんとトータルに理解している人は限られていると思う。<br /></p><p> しかしルーマンに言わせると、二分法のまま放置していたのでは、社会学の性質上大きな問題があるという。社会学は限定された対象領域によって定立する他の科学と同じではない。社会学は主題定立によって成立する科学である。社会学にとって存在意義に関わる重要な主題定立は、この両者を接続することである。それは常識や自明でなくてもいいし解決済みである必要もない。社会学が自己準拠的に定立すればいいことである。その問いが「社会秩序はいかにして可能か」という問題である。つまり「人と人との間の関係」がどのようなプロセスで組織や国家などの「独自存在としての社会的現実」を産み出すのか、そして逆のプロセスはどうなっているのかという問題である。</p><p>「いかにして可能か」という問題定立は、所与の現実のコンティンジェンシーを前提にしている(ルーマン1985: 23)。つまり、そうなる場合もあれば、そうならない場合もあるという前提で問いを立てるのである。</p><p> 社会学以前のルネッサンスから近代にかけて、この問題は主として主体アプローチからなされてきた。それは社会が階層化された伝統から機能的に分化した社会へと例外的な進化をし、友愛が影響力をもつ政治から、目的追求の集合体が支配する経済へと社会の主軸が移行したからである。(ルーマン1985: 61-67)</p><p> 主体アプローチの基本線を担うのは、意識を主体性とするデカルトであり、主体が現実を統一するとしたカントである。しかし、これでは他者はいつでも現象にしかすぎないということになり、他者が固有の意識をもつことが理論的射程に入ってこない。87これが独我論の限界であって「相互主観性は錨を下ろすことができないし、社会化は『疎外』に帰着するほかない」ことになる。(ルーマン1985: 95)</p><p> ウェーバーもこうした主体アプローチを前提として社会学を構想した。そのため個人と集合体とは強い緊張関係にある。それに対してデュルケームにおいて個人と集合体は最初から調和的であって、社会概念は始原的な義務意識が生まれる場所として神秘化されてしまう。主体概念の場所がないのである。</p><p> かれらに対してジンメルは、個人が主体として社会を成立させていると同時に社会が個人の主体性を基礎として社会自身を綜合しているとした。ジンメルの場合「万人に対する万人の綜合」(ルーマン1985: 112)によって社会が可能になっているとルーマンは述べている。眼目は外部の観察者を必要としない点である。</p><p> ルーマンが引き合いに出しているのは、ジンメル『社会学』第1章の付説「社会はいかにして可能か」である。ルーマンは、ここで述べられていた3つのアプリオリのうち最初の2つを説明している。先に指摘しておくと、第1のアプリオリは「人と人との間の関係の分析」(友愛関係)の系譜に属し、第2のアプリオリは「独自存在としての社会的現実の分析」(コイノニア)の系譜に属すことになる。ここは訳語の問題があるので一部翻訳を変えてまとめることにする。</p><p> 第1のアプリオリ。人は対人関係において自己と他者をそれぞれ類型化して、基本的にはその役割類型に即して自己を呈示し他者を認識するのであるが、同時にその抽象化された役割からのずれに自分と相手の個性を認識する。これをルーマンは次のように翻訳する。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;">そうしてみると、ジンメルの表現にとらわれずにいえば、次のようにいえるだろう。すなわち、社会的コミュニケーションにとって不可欠の縮減がおこなわれているのであり、それによってその人が自分自身を一瞥して同一性を保持しうるものとして捉えうるあの図式が考え出されることになる。それゆえに、社会的な複合性と個人の複合性とが、それぞれ他方の複合性を拠り所としてそれぞれの複合性の縮減をおこないうることに基づいて、個人としての統合が作り出されている。(ルーマン1985: 114)</p></blockquote><p>&nbsp; 第2のアプリオリ。ルーマンが引用しているジンメルの言葉。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><div style="text-align: left;">「もうひとつの範疇のもとでそれぞれの主体は、自分自身を認め、また互いに相手を認め合っており、そうすることによって諸主体に形式があたえられて、経験的な社会を作り出すことができるのだが、そのような範疇は、次のような平凡ともみえる命題で定式化される。すなわち、同じ集団のそれぞれの要素は、たんに社会の構成部分にとどまらないで、さらにそのほかの何物かである。」(ルーマン1985: 115)</div></blockquote><p> これについてルーマンは次のように結論する。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> ジンメルからすれば、それぞれの人が、一部はまったくその人によって、一部は社会によって構成されているということ、ならびにそれぞれの人は、まさにこのことが他者にもあてはまるのを知っているということが、社会が成り立つための前提条件にほかならず、より的確な術語でいえば、社会の形式が成り立つための先要条件なのである。換言すれば、社会の形式というものは、十全に社会化されることはありえず、そのことを互いに知っている、諸主体の間の関係のことなのである。(ルーマン1985: 117)</p></blockquote><p> ジンメルはアリストテレス以来の2つの問題を1つの統一的なゼマンティークで考えるところまで行った。それは超越理論に立脚していたからである。超越理論というのはカントの批判哲学のこと。ジンメルはカントの立ち位置から一歩踏み込んだ形になる。次の章ではジンメルの解決を「縮減/変位のテーゼ」(ルーマン1985: 122)と呼んでいる。しかしジンメルの場合、心理学への傾斜が行き先を止めている。これがルーマンのジンメル評価である。</p><p> 最後の大家はパーソンズである。かれは『社会的行為の構造』で行為をシステムと捉え「いかにして行為は可能か」を問うた(ルーマン1985: 122)。より正確には「行為の分析的構成要素の間の関係はいかにして可能か」という問題である。その上で「いかにして社会的行為は可能か」という問題を立てると、「行為の客体がオルター・エゴであるばあいに、いかにして行為はその諸構成要素を関係づけられるか」122が問題になる。そうなると「社会的な反照が錯綜してくる」(ルーマン1985: 122)</p><p> オルター・エゴというのは他者、目の前にいる他者のこと。他者に働きかけることを「社会的行為」という。ただしパーソンズの場合、単位は「行為」(単位行為)である。個人ではない。「行為」そのものがすでにシステムであるという認識になる。</p><p> パーソンズの解決は、いわゆる「ダブル・コンティンジェンシー」の公理として示されている。ルーマンが引用するパーソンズの説明は次の通り。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;">「相互行為を分析するさいの決定的に重要な準拠点は、(1)それぞれの行為者が、行為する主体であると同時に、行為者自身と他者の双方にとって指向される客体であるということ、および(2)それぞれの行為者は、行為する主体としては自分自身と他者にたいして指向しており、指向される客体としては、その主な様相ないし側面のすべてにわたって、行為者自身と他者にたいして意味を有しているという二点である。そうしてみると、行為者は、認識する主体であるとともに認識される客体であり、道具的手段を用いる者であるとともに、かれ自身手段そのものであり、他者にたいして情動的に愛着するとともに、他者から愛着される客体であり、自ら評価を下す者であるとともに評価される客体であり、シンボルの解釈者であるとともにかれ自身シンボルなのである。」(ルーマン1985: 123)</p></blockquote><p> これは1968年のシルズ編『国際社会科学事典』の「相互作用」の項目からの引用である。翻訳では1951年の『社会システム』の冒頭部分に「ダブル・コンティンジェンシー」の話が読める。ルーマンは、行為の4つの構成要素である行為者・客体・指向・様相のうち1人の行為者のダブル・コンティンジェンシーしか取り上げていないと批判する。(ルーマン1985: 124)</p><div> しかし、ダブル・コンティンジェンシーの概念は「ホッブス的秩序問題」に解法を与える。これは「諸個人が自らの利害関心に基づいて合理的に行為するばあい、いかにして諸個人は何らかの社会秩序の中で生活しうるか」(ルーマン1985: 125)という問題である。</div><div><br /></div><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><div style="text-align: left;"> というのも、価値基盤がその前提として共通に受け入れられたばあいにのみ、行為者たちは、相互依存の不確定な状況でも行為をすることができるからである。このような価値のはたらきが、行為の先要条件であり、したがってまたその合理性の先要条件なのである。(ルーマン1985: 126-127)</div></blockquote><div><div><br /></div></div><div> これがパーソンズの解決であった。ルーマンはそれが不十分であるとしているが、一般理論としては高く評価する。社会学者たちは大学の制度化で増大する夥しい業務に追われて、正しく評価できていないと叱っている。「グランド・セオリー」と呼んで特殊領域に押し込めて済む話ではないというのである。(ルーマン1985: 134)</div><p> 問題は超越論的な問題設定にある。ライプニッツから始まってカントによって定式化された超越論的な主体の前提である。これは不可避なのかというのである。(ルーマン1985: 135-136)</p><p> ルーマンは、おそらく不可避ではないというのであろう。それは普遍主義を徹底することでできると考えるようである。普遍主義が普遍的に適用されうる概念や規準を生み出し「いかにしてXは可能か」という問題定立を生み出すゼマンティークを発展させるのである。</p><p> そもそも普遍主義は、12世紀の修道院神学と営利指向の経済から始まる。修道院神学は宗教のあり方の基準を設定することで政治や社会に系列化されることを防止し、営利経済は生産や信用制度についての基準を設定することによって同じく政治や社会に系列化されるのを防止した。これはつまり「第二段階のシステム分化」だという(ルーマン1985: 138)。つまり社会システムから宗教システムと経済システムが分化したのちに各システムが自立していったということのようだ。ルーマンによると、このような機能分化の進展によって「普遍主義にそくした社会構造の洞察」(ルーマン1985: 138)が進行したという。</p><p> そして現代。第三段階のシステム分化が進行中である。個々の学問の内部で科学の原理・原則が問われつつある。これは各専門システムのアイデンティティを問い直す動きである。(ルーマン1985: 142)</p><p> 最後の章である「パーソンズを超えて」では、諸システムの相互浸透の理論での打開が提案される。(ルーマン1985: 149)</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 相互浸透の概念は、(システム分化のばあいとはちがって)諸システムが交互に環境でありながら、相手に浸透していくシステムの特有の複合性とその可変性とが、他方のシステムの構成素として活用されている、そういった複数のシステムの間の関係をいい表わしている。(ルーマン1985: 149)</p></blockquote><p> パースン・システムと社会システムの相互浸透領域で共有されているのは「行為」ということになる。あるパースンは個々の行為によって社会システムに相互浸透している。逆に、社会システムを構成する行為集合は複数のパースンが自由に行為することによって成立している。このような場合に「体験処理の形式」として媒介的に作動しているのが「意味」である。「意味」がシステム間を接続するのであるが、厳密に可能性を限定するわけではなく、可能性を開くのである。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> それぞれのシステムには意味によってしかるべき作用空間が開かれており、かかる空間は、それ以外の諸システムからみれば、同一でありながら別種のものであるということによって特徴づけられる。このように、作用空間が「同一でありながら別種のものである」ということは、剰余と選択の基本構造がその意味の中でその瞬間における統一体として提示されているというととに基づいてのみ可能なのである。(ルーマン1985: 156)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> このように意味を基軸として考えると、それ以外のすべてのシステムがその部分システムであるといった包括的なシステムを仮定する必要がなくなる。(ルーマン1985: 158)</p></blockquote><p> つまりスーパー・システムはいらない、すべて意味概念が調整するということである。全体を包括する1つのシステムは必要ないのだ。そのかわりに意味問題の分析が急がれることになる。相互浸透における意味による指示は事象的次元・社会的次元・時間的次元に区分して分析されるべきである。それゆえ「ゼマンティーク」(意味の理論)になるというわけである。&nbsp;</p><p> 以上、旧訳によって「社会秩序はいかにして可能か」論文をたどってきた。新訳によれば、また少し印象がちがうのかも知れないが、今回は大昔の勉強の読み直しというきっかけがあったので、それはまたの機会に譲る。それはそんなに遠くない時期になるはずである。</p><p> ルーマンにしては珍しい学説史的構成の論文だが、結果としてわかるのは、むしろ学史的断絶である。ジンメルを評価した論文として指定されることがあるのは知っているが「主体アプローチとは縁を切りなさい」と言っているのだから、そこは慎重に判断すべきだと思う。しかし「いかにして可能か」という主題定立そのものには社会の機能分化の帰結であるということだから、それは継承したいと思う。</p><p><br /></p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]2tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-30935622664006010712022-02-23T14:30:00.004+09:002022-02-23T14:30:45.597+09:00セオリー道場006言説をめぐる統治へ──フーコー『言説の領界』(前半)を読む<p><b>読解対象</b></p><p>ミシェル・フーコー『言説の領界 コレージュ・ド・フランス開講講義一九七〇年十二月二日』愼改康之訳、河出文庫、2014年。</p><p>レッスンのポイント:長文引用練習</p><p> かつて中村雄二郎訳で出ていた『言語表現の秩序』の新訳である。中村訳の時代には、まだ「言説」という言葉が定着していなかったと思う。内容は副題にあるとおり、教授就任記念講義である。フーコーの思考プロセスにおいては、ちょうど折り返し地点にあたる内容であり、ビフォーとアフターを見渡せる好位置にあると思うので、フーコーの思想を学ぶ上でのとっかかりとしたい。今回は前半を読む。</p><p> 開講講義は一つの不安から始まる。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 口に出されたり書かれたりするものとしての物質的現実における言説とはいったい何かということにかかわる不安。我々には属さぬ持続に従っていずれ消え去るべく定められたその一時的存在にかかわる不安。日常的で灰色のその活動の下に、想像し難い力と危険を感じる不安。かくも長いあいだ使用されたことでその荒々しさが減少したかくも多くの語を通して、闘い、勝利、傷、支配、隷属が見いだされはしまいかと推し測る不安。(フーコー2014:10-11)</p></blockquote><p> 何かを語ろうとするときに感じる不安の正体は何か。一方では、いっそ語ることをスルーして対象そのものに接近したいという「欲望」があり、他方には「制度」によって管理されているので心配するなという声がある。いずれも「不安」の表れであるという。ある種の危険に対する不安である。このうち「制度」については次のように述べている。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 言説は法の領界のうちにあるということ。言説の出現はずっと前から監視下に置かれているということ。言説に対し、言説を称えながらもそれを武装解除するような一つの場所がしつらえられているということ。そして、言説が何らかの力を持つことがあるとすれば、その力は制度たる我々に、我々のみに由来するということ。(フーコー2014:10)</p></blockquote><p> 言説にはあらかじめ言説制度が管理していて、その法的ルールに従ってさえいれば、そんなに不安に思わなくてもいいんだよということ。直接的には、教授就任講義という公式の場で自説を開陳する自分の不安と、制度的な支えとが、これから講義していく内容を規定するという自覚を述べているのだが、半世紀後の現在にあっては、言説の環境が大きく変化している。発言権は誰にでもあり、それがたんに潜在的な可能性ではなく、いつでも範囲を指定して言説を発することができる。一見して無政府状態に見える言説の領界。しかし、もう少しフーコーの言うことに耳を傾けてみよう。</p><p> ここでのフーコーの仮説は次のものである。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> あらゆる社会において、言説の産出は、いくつかの手続きによって、すなわち、言説の力と危険を払いのけ、言説の偶然的な出来事を統御し、言説の重々しく恐るべき物質性を巧みにかわすことをその役割とするいくつかの手続きによって、管理され、選別され、組織化され、再分配されるのだ、というものです。(フーコー2014:11-12)</p></blockquote><p> 要するに、手続きが用意されている。それを明らかにしようということである。すでにこの段階で、言説には力があり危険があり偶発的であり物質性をもつということが語られている。それに対して管理・選別・組織・再分配という制度的手続きが用意されていて、それによって言説は管理されているのだということまで言及されている。この事態を詳細に論じていこうというのである。</p><p> まず排除の3つの手続き(システム)について語られている。第一に禁忌。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> すべてを語る権利などないということ、いかなる状況においてもあらゆることについて語りうるわけではないということ、誰もがいかなることについてでも語りうるわけではないということ、これは、周知の事実です。対象をめぐるタブー、状況に応じた儀礼、語る主体の特権的ないし排他的な権利。こうした三つのタイプの禁忌が、互いに交叉し合ったり、強化し合ったり、補い合ったりして、絶えず変更を被る複雑な格子を形作りながら作用しているのです。(フーコー2014:12)</p></blockquote><p> とくに禁忌が強力に作動している領域としてフーコーはセクシュアリティの領域と政治の領域を指摘している。ここでは言説が欲望および力と結びついている。</p><p> 第二に分割と廃棄。理性と狂気の分割。狂気の側の者の言葉は効力のないものとみなされ真理も重要性もなく裁判証言もできない。逆に、狂者の言葉が「隠された真理を語る力、未来を口にする力、他の人々の知恵が感じ取ることのできないものを全くの無邪気さのなかで見る力」を持つことがある。</p><p> 第三に「真と偽との対立」ここでフーコーは「真理への意志」という概念を導入する。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> すなわち、何世紀にもわたって我々の歴史を貫いてきた真理への意志は、我々の数々の言説を通じて、かつてどのようなものであったのか、そして今なおどのようなものであり続けているのか、あるいは、我々の知への意志を決定づける分割のタイプは、その非常に一般的な形態においてどのようなものであるのか、と。そうすれば、そのとき姿を見せるのはおそらく、排除のシステム(歴史的で、変更可能で、制度的で、拘束力を伴うシステム)のような何かでしょう。(フーコー2014:19)</p></blockquote><p>「真理への意志」が何らかの制限を加えてきたであろうということだが、そのありようが歴史的に大きく転換してきたというのである。便宜的に三段階に整理してみる。</p><p> 第一段階。儀礼に則った特別な人物の言葉。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;">敬意と恐怖の対象とされていた真なる言説、絶大な権力によって服従を強いていた真なる言説とは、依然として、必要な儀礼に従いしかるべき人物によって発せられる言説のことでした。それは、正義を語り、一人ひとりに対して各自の取り分を割り当てる言説でした。それは、未来を予言しつつ、これから起こるであろうことを告げるだけではなく、それに加えて、その実現に寄与し、人々の賛同を促して、自らを運命とともに織り上げる言説でした。(フーコー2014:20)</p></blockquote><p> 第二段階。特定の人物が真理を保証するのではなく、言説そのものの中に真理があるとみなす段階。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> ところが、その一世紀後にはすでに、最も高次の真理は、もはや言説がそうであるところのものや言説が行うことのなかにではなく、言説が語ることのなかに宿ることになりました。真理が、効果的で儀礼化された正義の言表行為から、言表そのものの方へ、つまり、言表の意味、言表の形式、言表の対象、言表とその参照物との関係の方へと自らの位置を移動させる日がやって来たということ。(フーコー2014:20)</p></blockquote><p> 第三段階。科学的な段階。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> この歴史的分割は確かに、我々の知への意志に対し、その一般的形態を与えました。しかしこの分割は、その後も絶えず自らの位置を移動させ続けました。科学的な大変動の数々は、おそらく、時には一つの発見の帰結として読み解かれうるものでもありますが、しかしそれはまた、真理への意志における新たな形態の出現として読み解かれうるものでもあります。(フーコー2014:21)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> ところで、この真理への意志は、他の排除のシステムと同様、一つの制度的支えを拠り所としています。すなわち、この意志は、教育はもちろんのこと、書物や出版や図書館のシステム、かつての学会や今日の実験室といった、諸々の実践の厚み全体によって、強化されると同時に存続させられるものである、ということです。(フーコー2014:23)</p></blockquote><p>「真理への意志」が多くの言説に対して圧力や拘束力を行使するとも述べている。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 禁じられた言葉、狂気の分割、真理への意志という、言説に課される三つの大きな排除のシステムのうち、私は、第三のシステムについて最も長い時間をかけてお話ししました。それは、最初の二つのシステムが、数世紀前から、第三のシステムの方へと絶えずその向きを変えてきたからです。それは、第三のシステムが、最初の二つをますます自らに引き受け直し、それらに変更を加えると同時にそれらを基礎づけようとしているからです。それは、今や真理への意志に貫かれた最初の二つのシステムが、より脆くより不確かなものとなり続けているのに対し、真理への意志の方は逆に、自らを強化し続け、より根底的なもの、より避けて通ることのできないものとなり続けているからです。(フーコー2014:25)</p></blockquote><p> 以上が外部から行使される手続きである。後半は、内部から行使される手続きに移る。「言説が言説自身によって管理される」(フーコー2014:28)手続きであり「分類、秩序立て、分配の原理として」作用する手続き。一言で言うと、偶然を払いのける手続き。平たく言うと「通りすがりの通行人」には語らせないしくみである。これについては別に扱う予定であるが、とりあえず項目を整理しておく。</p><p> フーコーは、注釈と作者原理と研究分野(ディシプリン)の3つを挙げる。第一に、注釈。第二に、作者原理。第三に、研究分野。</p><p> 言説の外からと内からの手続きに続いてフーコーは第三の手続きグループがあるという。第一に、儀礼。第二に、言説結社。第三に、教説(ドクトリン)。第四に、社会的占有。</p><p> 哲学の応答。おそらく言説の制限と排除を強化してきた。第一に、創設的主体。第二に、根源的経験。第三に、普遍的媒介。</p><p> 言説が宙に浮くという話。それに対抗するためのフーコー自身の三つの決断。第一に、逆転の原則。第二に、非連続性の原則。第三に、種別性の原則。第四に、外在性の原則。</p><p> 言説分析についての方針。(フーコー2014:70)</p><p><b>これからのセオリー道場について</b></p><p> こういうものを授業で説明するということが、これまでの教師生活において皆無だったので(この20年間、私は情報メディアの教員だったから)こういう理論的な話をどの程度までほどいたらいいのか、正直よくわからない。日常的に学生に語るということが、じつはとても大事なのである。それがないので、自分を自分で鍛える道場を始めたわけで、とくに長文引用をあまりしたことがないという自分の弱点にあえてフォーカスして乗り越えようとしているにしても、Facebookに書くようにはなかなかいかないものである。長文引用練習は、精読したあとの二度手間になるからノリが今ひとつということもあるし、こういう作業は文献の著者に従属的になるから、もともと自分が言説世界を切り回したいという性向の強い私にとっては、自分を従属的なスタンスのまま持続するのが難しいのだ。</p><p> 長文引用練習に関してはOCRアプリを使用した手順を確定して、だんだん慣れて使えるようになってきたので精読法と引用法まではよしとしよう。</p><p> 次の課題は、読むスピードと書くスピードのギャップをなるべく小さくしたいということ。これは、けっこうな難題で、読むことと書くことと考えることなどのなすべきことが明確になってくると、その総量の実質が重くのしかかってくる。この重圧に負けないようにするためには、一方で文献を絞り込んでいく作業が必要で、これは文献のデジタル化の過程で選別を続けている。つまり、線を引いて精読すべき文献と判断したもの以外はどんどんデジタル化している。他方でFacebookに書くスピード並に書いていかないと、いっさいが「祭りの準備」で終わりかねない。</p><p> ここはひとつ個体発生的に進化させてヴァレリー流に切り回すことにしようと思う。つまり隅から隅まで読むことを自分に課さない。多様な読み方を許容するということ。</p><p> 書くスピードで言うと、なんとしても文体改造が必要だが、これはこれで荒療治が必要な気がしている。つまり、いったん文体模倣のようなこと(文体練習)を自分に課す必要がありそうだ。いや、その前に模倣したい文体の読み込みを集中的にやる段階がないといけない。これまでも文体については模索を続けてきて、吉本隆明の堅実でマイペースなやり方や木田元や野矢茂樹らの哲学エッセイを研究してきた。評論と哲学エッセイの混合あたりがいいと考えている。</p><p> この文脈で、最近になって大物を思い出して本を取り寄せている哲学者がいる。中村雄二郎である。『臨床の知とは何か』を流し読みしていて、今の私が読んできたものが見事にこなされているのにおどろいた。昔はよくわからなかったが、今の私が模倣すべき人はこの人かも知れない。</p><p> 最後に、辻井喬が中村雄二郎について書いている著作集月報の文章の中から、中村に言及する前の記述がおもしろい。下の段に注目。「極めて高い生産性を示す時と、惨めな結果に終り、ついには知的活動を休止してしまう人もいるようである。」前者でありたいと思う。正念場ということだ。</p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-16672035298271698552022-02-15T13:33:00.001+09:002022-02-15T13:33:34.348+09:00セオリー道場005アンソロジスト・メソッドへの道なのか──ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』をこっそり読んでしまう<p><b>読解対象</b></p><p>M・J・アドラー+C・V・ドーレン『本を読む本』外山滋比古・槇未知子訳、講談社学術文庫、一九九七年。</p><p>ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳、ちくま学芸文庫、筑摩書房、二〇一六年。</p><p>レッスンのポイント:長文引用練習</p><p> 英語圏の大学における勉強の柱は二つ。一つは五〇〇ページ以上はある分厚い標準教科書。もう一つの柱はアンソロジー(あるいはリーディングス)。その領域の古典的文献や基本論文を抜粋したものである。これでテキストで説明されている命題や理論の最初の形を学ぶ。二本柱の間を取り持つのが教員の役割ということになる。</p><p> さて、アンソロジーを編集する視点から考えてみる。おそらく専門性の高い領域であれば作りやすいのではないか。逆に、広範な領域を横断的に眺めるものになればなるほど作りにくいのではないか。領域が広がると選択肢が拡大して恣意性(あるいは選択眼)も高度になるからである。</p><p> テクスト内在的に語りたいというのが当初の私の願いであった。書評ではないようなスタイル、外書購読のような精読スタイルで、なるべく原文(と言っても基本的に翻訳を使用する)を紹介しながら書き進めていくようにしたいと思ったのである。 </p><p> となると必要になる能力は次の通りである。</p><p>(1)多読能力。大量の文献を読むことになる。</p><p>(2)有益なパラグラフを選び抜く選択眼。精読が前提。</p><p>(3)文献が置かれているコンテクストの理解。</p><p>(4)多様な読み方。ときには流し読みや部分読みをすること。</p><p> 前提条件は有限な時間と文献の質量とのトレードオフ。学ぼうとする者ならだれしもが抱える問題を「代行」しようとしているわけだから、当然、このトレードオフが圧縮されて到来する。一方で日本は翻訳大国である。今の日本の出版状況は、かつて「12世紀ルネサンス」を呼び起こした多数のアラビア語の翻訳書群と似ている。なじみのある社会学を見ていても英語だけでなくフランス語やドイツ語やイタリア語など夥しい数の翻訳が出版されている。ルーマンの翻訳だけでも40冊ぐらいあるが英語圏では数冊にとどまる。しかも私たちが圧倒的に有利なのは日本語も読めるということである。日本にはオリジナルな思想家が少ないかも知れないが、欧米の思想家(とりわけ英独仏)の学説研究の水準は高い。そういう利点を生かしたい。翻訳の問題については、そのうち主題的に取り上げたい。</p><p> 問題は読み方である。文献について述べるわけだから精読が基本なのは言うまでもないが、隅から隅までを理解していないといけないというわけではない。</p><p> 読書法の世界では比較的正統派だと思うが、アドラーとドーレンの『本を読む本』には四つの読み方が書いてある。(M・J・アドラー+C・V・ドーレン『本を読む本』外山滋比古・槇未知子訳、講談社学術文庫、一九九七年)注:これからは著者が複数の場合は+でつなくことにしたい。</p><p>(1)初級読書</p><p>(2)点検読書</p><p>(3)分析読書</p><p>(4)シントピカル読書</p><p> 最後のシントピカル読書というのは、同一主題の複数の本を読みくらべる作業のことである。著者はこれには五段階があるという。(アドラー+ドーレン1997:227-233)</p><p>(1)問題箇所を見つけること。</p><p>(2)著者に折り合いを付ける(著者のキーワードを見つけて使い方をつかむ。これは一種の翻訳作業になる)。</p><p>(3)質問を明確にすること。</p><p>(4)論点を定めること。</p><p>(5)主題についての論考を分析すること。</p><p> この本も「本は隅から隅まで読め」とは言わない。</p><p> エーコの「反読書」となると「読まない本」が当たり前になるが、それは別の機会に。また、遡るとショーペンハウアーの有名な読書論だと「自分を喪失するから本を読むな」的な論調になる。哲学者はそうかもしれないが、いくらネット社会とは言え、凡人は多少とも何か読まないかぎり死ぬまで無知の人である。</p><p> こうした議論にユニークな観点から論じた本がピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』である。(ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳、ちくま学芸文庫、筑摩書房、二〇一六年。)</p><p> 読書には義務や禁止からなる規範の体系がある。(バイヤール2016:11-13)</p><p>(1)読書義務(神聖とされる本は必ず読んでいなければならない)</p><p>(2)通読義務(始めから終わりまで読まなければならない。飛ばし読みや流し読みは読まないのと同じである。)</p><p>(3)本について語るためには、その本を読んでいなければならない。</p><p> この規範の体系があるために、多くの人(とくに学者)はウソをつかなければならなくなる。これはおかしいだろうというわけである。バイヤールも本書においてときどきウソをつくのであるが、ある意味、本書は本に関するウソについての本でもある。</p><p> タイトルだけで決めつけられがちな本であるが、内容はすこぶるリッチである。</p><p> ムージルの『特性のない男』に登場する図書館司書は所蔵図書をいっさい読まない。「全体の見晴らし」が重要だという。ヴァレリーは読んでいない本について公の場所で「読んでいない」ということをほのめかしながら、その本や著者について賛辞を送る。ヴァレリーは作品そのものと距離を取ろうとする点で流し読みの名手である。エーコの『薔薇の名前』において殺人の理由となる書物はアリストテレスが笑いについて論じた本であるが、それは中世の修道院図書館が表象する「共有図書館なるもの」を台無しにすると殺人犯が考えたためだった。この場合、話題の本は「遮蔽幕(スクリーン)としての書物」(バイヤール2016:84)になっているという。フロイトの「遮蔽幕(スクリーン)としての記憶」に由来したフレーズだが、防御壁とか盾とか矛先とかダミーとか不可視化装置などの類義語を勝手に連想してしまうが、要するに書物の名前を出した段階で「ここから先は立ち入り禁止」という指令を出していることになるということだろう。ちなみにフロイトの「隠蔽記憶」「遮蔽想起」は「意識にとって許容しがたい他の記憶を隠蔽すること」を指している。(バイヤール2016:85)</p><p> モンテーニュは自分が著作に書いたことをすっかり忘れていた経験を書いている。そもそも『エセー』のテーマの一つは「記憶の消失」だとのことである。(バイヤール2016:90)</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> モンテーニュは、自己消失を繰りかえし経験している点で、これまで言及してきたどの作家にもまして「読むこと」と「読まない」こととの境界を無効にする作家であるように思われる。書物というものが、読んだかどうかすら忘れてしまうほど、読みはじめたとたんに意識から消えていくものであるとしたら、読書の概念じたいがいかなる有効性ももたなくなる。どんな本も、それを開くにせよ開かないにせよ、別のどんな本とも等価だということになるからである。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> モンテーニュが書物と取り結ぶ関係は、誇張されているように見えるかもしれないが、われわれ自身の書物との関係と本質的には変わらない。われわれが記憶に留めるのは、均質的な書物内容ではない。それはいくつもの部分的な読書から取ってきた、しばしば相互に入り組んだ、さまざまな断片であり、しかもそれはわれわれの個人的な幻想によって歪められている。つまりそれは、フロイトのいう〈遮蔽幕としての記憶〉に似た、捏造された書物の切れはしであって、その機能はとりわけ他の書物を隠蔽することなのである。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> したがって、 ここでモンテーニュにならって問題にすべきは、読書というより「脱−読書」である。これはわれわれを絶え間なく引き込む書物忘却のムーヴメントにほかならない。このムーヴメントは、参照項の消失であると同時に攪乱であり、タイトルと何ページかの記述と化してしまった書物を、われわれの意識の表面に浮かぶ漠たる幻影に変える。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 書物が、知識だけでなく、記憶の喪失、ひいてはアイデンティティーの喪失とも結びついているということは、読書について考察を加えるさいにつねに念頭に置いておかなければならない要素である。これを考慮に入れなければ、読書のポジティヴで蓄積的な側面ばかりを見ることになる。読むということは、たんに情報を得ることではない。それは一方で忘れることでもある(こちらの方が大きいかもしれない)。それはしたがって、われわれの内なる、われわれ自身の忘却に直面することでもあるのだ。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> モンテーニュの文章から見えてくる読書主体のイメージは、統一性のある、自己を保証された主体のイメージではない。それは不確かな、テクストの断片のあいだで自分を見失った主体、これらの断片が誰のものかも分かっていない主体である。この主体は人生の途上でひっきりなしに難局に直面させられる。そして、自分のものと他人のものとを区別することもできなくなって、ついには書物と出会うたびに自分自身の狂気と対面する羽目になるのである。(バイヤール2016:100-102)</p></blockquote><p> 私たちもついに「脱−読書」の境地に到達したようだ。正直を信条とするモンテーニュに倣うことにしよう。</p><p> ここまでが第Ⅰ部「未読の初段階(「読んでいない」にも色々あって‥‥)になる。読んでない、ざっと読んだ、聞いたことがある、読んだが忘れた、といった四段階を見てきた。</p><p> 第Ⅱ部は「どんな状況でコメントするのか」である。本書の白眉と言えるものだが、これを踏まえた上で第Ⅲ部「心がまえ」を重点的に検討したい。ちなみに読み飛ばしたわけではない。第Ⅲ部がおもしろいのだ。余裕があれば最後に戻ってもいいが、これは回収されないと思う。</p><p> 第Ⅲ部の最初の章「気後れしない」は、デイヴィッド・ロッジの『交換教授』と『小さな世界』が題材である。この二冊によって「キャンパス・ノヴェル」という文学ジャンルが生まれたという。バイヤールが取り上げるのは『交換教授』の中にある「屈辱」と呼ばれるちょっとした会話ゲームである。「自分がまだ読んでいない有名な本を各人で挙げ、すでにそれを読んだほかの者一人につき一点獲得、というゲーム」(バイヤール2016:188)で『ハムレット』を挙げた生真面目で曖昧さが大嫌いなリングボームが冗談だと笑う参加者たちに対して断固として読んでいないと言い放ってしまったために座がシラけてしまったエピソードが出てくる。この気まずい状況をバイヤールは詳細に分析する。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> このリングボームの行為は、曖昧さを残さないという過ちによって「われわれが自分と他人とのあいだに普通に成立させている決定不能な文化空間から自らを排除するのである」という。(バイヤール2016:193-194)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> この空間において、われわれは、自分自身にも他人にも一定範囲の無知を許す。というのも、あらゆる文化は数々の空白や欠落の周りに構築されるということをよく知っているからである(ロッジは先の引用で「教養のギャップ」について語っている)。しかも、この空白や欠落は、別のたしかな情報を所有する妨げとはならない。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 書物に関する──いや、より一般的に、教養に関する──このこのコミュニケーション空間を〈ヴァーチャル図書館〉と呼んでもいいだろう。これはイメージ(とくに自己イメージ)に支配された空間であり、現実の空間ではないからである。この空間は、本が本の虚構によって取って代わられる合意の場としてこれを維持することを目的とする一定数のルールに従う。これはまた、幼年期の遊戯や演劇でいう演技とも無関係ではないゲーム空間、その主要なルールが守られなければ続けられないようなゲームの空間である。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> この暗黙のルールのひとつに、ある本を読んだことがあると言う人間が本当はそれをどの程度まで読んでいるかを知ろうとしてはならないというルールがある。なぜかというと、ひとつには、言表の真実性に関するあいまいさが維持されると、また出された問いにはっきりと答えなければならこの空間内部で生きることはたちまち耐えがたくなるからである。もうひとつは、この空間の内部では、誠実さの概念そのものが疑問に付されるからだ。先に見たように、まず「ある本を読んだ」ということの意味からしてよく分からないのである。(バイヤール2016:194-195)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> つまり、教養とは個人の無知や知の断片が隠蔽される舞台だということだ。(バイヤール2016:195)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 重要なのは、その人間が潜在的書物からなるこの中間領城の外に出ないということだ。この領域のおかげでわれわれは他人と共生し、コミュニケーションをはかることができるのである。(バイヤール2016:197)</p></blockquote><p> ここでバイヤールは大学教員の世界(「小さな世界」)を一種の社交空間として語っている。社交空間であるから、それは演技される世界であり、偽善の世界である。逆に言うと特別な空間ではない俗物の社交空間にすぎないということだ。こういう見切りが必要なのだ。</p><p> この社交空間において書物の名前とそれがほのめかすものは独自の機能を果たす。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> こうした文化的コンテクストでは、書物は──読んだものも読んでないものも──第二の言語となる。われわれはこれを使って自分について語ったり、他人の前で自己を表象したり、他人とコミュニケートしたりするのである。書物は、言語と同様、われわれが自分を表現するのに役立つだけでなく、自分を補完するのにも役立つ。つまり、書物から抽出され、手直しされた抜粋によって、われわれの人格に欠けている要素を補い、われわれが抱えている裂け目を塞ぐ、そうした役割を果すのである。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"><span style="white-space: pre;"> </span>しかし書物は、言葉と同様、われわれを表象しつつ、われわれを歪めて伝えるものでもある。(バイヤール2016:198)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> われわれが他人と書物について語りながら交換するのは、したがって、われわれの外部にあるような情報である以上に、自己同一性が脅かされる不安な状況にあってわれわれの内的一貫性を保証するのに役立つような、われわれ自身の一部である。恥ずかしさの感情の背後にあって、こうした交換によって脅かされているのは、われわれのアイデンティティーそのものなのである。この潜在的な空間があいまいさを保持しつづける必要があるのはそのためである。(バイヤール2016:199)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 相互のプライドとアイデンティティを守るための言葉として書名が使われる。著者名も同様。「ニーチェみたいにさ」「フーコーが言うように」という具合に。文字通り「遮蔽幕」になる。言われた方は「ここから先は突っ込むなよ」という隠れたシグナルを読み取らなければならない。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> この意味で、このあいまいな社交空間は学校空間の対極にあるといえる。学校空間というのは、そこに住む生徒たちが課題とされた書物をちゃんと読んでいるかどうかを知ることが何よりも大事とされる空間である。そこには完全な読書というものが存在するという幻想が働いている。あいまいさを一掃し、生徒たちが真実を述べているかどうかを確認しようというその狙いも錯覚を孕んでいる。読書というものは真偽のロジックには従わないものだからである。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 書物に関する議論の空間は、遊戯の空間であり、絶え間ない折衝の、したがって偽善の空間である(後略)。(バイヤール2016:199)</p></blockquote><p> ここで反省したい。私は柄にもなく学校空間を生きていたのだ。というより、学び直しをする過程で、いつのまにか自らを学校空間においてしまっていたのだ。バイヤールの結論はこうだ。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 読んでない本について気後れすることなしに話したければ、欠陥なき教養という重苦しいイメージから自分を解放すべきである。(バイヤール2016:200)</p></blockquote><p> 次の章「自分の考えを押しつける」ではバルザックの『幻滅』に登場して主人公を翻弄する辛口評論家のやり方を取り上げている。その評論家は本を読まないで批評することを自慢げに主人公に語るのである。まるで生徒や学生が本を読まないで読書感想文やレポートを書いて単位をもらったと自慢するように。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> バルザックがここで披露しているのは、私のいう〈ヴァーチャル図書館〉の諸特性の戯画にほかならない。この小説家が描く知識人の小宇宙で重要なのは、もっぱら、そこで立ち動く人々の社会的ポジションである。書物そのものは、陰に追いやられていて、大きな役割を果すことはない。しかも、書物について意見を言う前にそれを読む者はだれもいない。書物は、社会的および心理的諸力のあいだの不安定な関係によって定義される中間的対象に取って代わられているのであって、それじたいでは問題にされないのである。(バイヤール2016:218)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> ここで問題となっているのはしたがって書物そのものではなく、その書物について人々が交わす言葉の相互作用である。(バイヤール2016:222)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> どちらもある一個の作品を読んだことがないことになっているのだが、もし二人とも読んでいないとしたら、どちらも相手が読んでいない(つまり読んだと言って嘘をついている)ということも分からないはずなのである。ある本についての対話のなかで嘘という言葉が意味をもつためには、少なくとも一方が本を読んでいなくてばならあるいは本についてだいたいのことを知っていなければならない。(バイヤール2016:234)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> このように、このヴァーチャルな空間は騙し合いのゲームの空間である。その参加者たちは、他人を購す前に自分自身が錯誤に陥る。(バイヤール2016:234)</p></blockquote><p><span style="white-space: pre;"> </span>ここで少し戻る。コンテクストの話。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 彼はたしかにこの重要性を戯画化しているが、コンテクストの決定力を強調している点は見逃せない。コンテクストに関心を向けることは、書物というものは永遠に固定されてあるものではなく、動的な対象であり、その変わりやすさは部分的には書物の周りで織りなされる権力関係総体に由来している、ということを思い出すことである。(バイヤール2016:221)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 書物は固定したテクストではなく、変わりやすい対象だということを認めることは、たしかに人を不安にさせる。なぜなら、そう認めることでわれわれは、書物を鏡として、われわれ自身の不安定さ、つまりはわれわれの狂気と向き合うことになるからだ。ただ、それと向き合うリスクを受け入れる──リュシアンよりも決然と──ことをつうじてはじめて、われわれは作品の豊かさにふれると同時に、錯綜したコミュニケーション状況を免れることができるということもまた事実である。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> テクストの変わりやすさと自分自身の変わりやすさを認めることは、作品解釈に大きな自由を与えてくれる切り札である。こうしてわれわれは、作品に関してわれわれ自身の観点を他人に押しつけることができるのである。バルザックのヒーローたちは、〈ヴァーチャル図書館〉の驚くべき可塑性を見事に示している。〈ヴァーチャル図書館〉は、本を読んでいるいないにかかわらず、読者を自称する人間たちの意見に惑わされることなく自分のものの見方の正しさを主張しようと心に決めた者の欲求に合わせて、いとも容易に変化するのである。(バイヤール2016:224-225)</p></blockquote><p> これは、かなりすごい考え方である。本は素材として自由に語ってよしというのである。ホールのエンコーディングとデコーディングというコミュニケーションの理にかなっている。本書はデコーディングの話をしているのだ。</p><p> さて、第Ⅲ部第3章「本をでっち上げる」の題材は『吾輩は猫である』である。ここに「金縁眼鏡の美学者」が登場して苦沙弥先生に架空の本について滔々と語るシーンがある。苦沙弥先生は感心しながら聴いているが、あとあとになって美学者は「そんな本はないんです」と言ってのける。これが「本をでっち上げる」ということである。そしてバイヤールは「それでいい」と言うのである。そのためには「〈他者〉は知っていると考える習慣を断ち切ること」が必要だという。(バイヤール2016:235)</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"><span style="white-space: pre;"> </span>書物についての言説で問題になる知というのは不確かな知であり、〈他者〉とは話し相手の上に投影された、不安を呼ぶわれわれ自身のイメージであって、そのモデルはかの遺漏なき教養というフィクションである。学校制度によって伝播されるこのフィクションが、われわれが生きたり、考えたりする妨げとなっているのである。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> しかし(他者〉の知を前にしたこの不安は、とりわけ書物にまつわる創造の妨げとなっている。〈他者〉は読んでいる、だから自分より多くのことを知っている、と考えることで、せっかくの創造の契機であったものが、未読者がすがる窮余の策に堕してしまうのである。しかし、本を読んでいる者も読んでいない者も、望むと望まざるとにかかわらず、書物創造の終りのないプロセスのなかに巻き込まれているのだ。真の問題は、したがって、そこからどのように逃れるかではなく、それをいかに活性化し、その射程をいかに拡げるかを知ることなのである。(バイヤール2016:235-236)</p></blockquote><p> いま私がやっていることも同じなのだろう。テクスト内在的に思考を進めていくことは、たんなる要約や訓詁解釈だけでなく、ときとして創造的な局面に至る瞬間があるかもしれない。そのためには「読者は読んでいる」と想定することをやめなければならない。ちゃんと説明する、そして自分なりの読みを提示する。それをまた自分の中で吟味する。それをまた別の本について述べるときに提示する。少しずつ思考が進む。それがバイヤールの言う〈内なる書物〉となる。それでいいということだ。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> もしわれわれが、本書で分析してきたような多様で複雑な状況において、重要なのは書物についてではなく自分自身について語ること、あるいは書物をつうじて自分自身について語ることであるということを肝に銘じるなら、これらの状況を見る目はかなり変わってくるだろう。なぜなら、いまや重視すべきは、何らかのアクセス可能な与件を出発点とした、作品と自分自身とのさまざまな接触点だということになるからである。その場合、作品のタイトル、〈共有図書館〉における作品の位置、作品を語って聞かせる人間のパーソナリティー、そのときの会話やテクストのやりとりのなかで生み出される雰囲気など、数多くの要素が、ワイルドのいう口実として、作品にさほど拘泥することなく自分自身について語ることを可能にするはずである。(バイヤール2016:264)</p></blockquote><p> これはやはり高めの能力を必要とすることである。作品を語るという行為は、その人の創造力の高さを結果的に表示するのだ。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。目立たないかもしれないが、これより社会的認知度の高い活動と同じくらい立派な活動なのだ。(バイヤール2016:269)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> この〈創作者になること〉は、読んでいない本について語る言説だけに関係しているのではない。より高いレベルでは、創造そのものが、その対象が何であろうと、物から一定の距離をとることを要求する。というのも、ワイルドが示しているように、読書と創造とのあいだには一種の二律背反が見られるのであって、あらゆる読者には、他人の本に没頭するあまり、自身の個人的宇宙から遠ざかるという危険があるのだ。読んでいない本についてのコメントが一種の創造であるとしたら、逆に創造も、普物にあまり拘泥しないということを前提としているのである。みずから個人的作品の創作者になることは、したがって、読んでいない本についていかに語るかを学ぶことの論理的な、また望ましい帰結としてあるといえる。この創造は、自己の征服と教養の重圧からの解放に向けて踏み出されたさらなる一歩である。教養というものはしばしば、それを制御するすべを学んでいない者にとって、存在することを、したがってまた作品に生命を与えることを妨げるものなのである。読んでいない本について語る方法を学ぶということが、創造の諸条件との出会いの最初の形であるとするなら、教育に従事するすべての者にはこの実践の意義を説く責任があるということになろう。彼ら以上にそれを伝達するのにふさわしい人間はいないからである。(バイヤール2016:271)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"><span style="white-space: pre;"> </span>教育が書物を脱神聖化するという教育本来の役割を十分果さないので、学生たちは自分の本を書く権利が自分たちにあるとは思わないのである。あまりに多くの学生が、書物に払うべきとされる敬意と、書物は改変してはならないという禁止によって身動きをとれなくされ、本を丸暗記させられたり、本に「何が書いてあるか」を言わされたりすることで、自分がもっている逃避の能力を失い、想像力がもっとも必要とされる場面で想像力に訴えることを自らに禁じている。本は読書のたびに再創造されるということを学生に教えることは、数多くの困難な状況から首尾よく、また有益なしかたで脱する方法を彼らに教えることである。というのも、自分の知らないことについて巧みに語るすべを心得ているということは、書物の世界を超えて活かされうることだからである。言説をその対象から切り離し、自分自身について語るという、多くの作家たちが例を示してくれた能力を発揮できる者には、教養の総体が開かれているのである。わけてももっとも重要なもの、すなわち創造の世界が開かれている。われわれが学生たちにできる贈り物として、創造の、つまり自己創造のさまざまな技術にたいする感受性を養うことほど素晴らしい贈り物があるだろうか。あらゆる教育は、それを受ける者を助け、彼らが作品にたいして十分な距離をとり、みずから作家や芸術家になることができるよう導くべきだろう。(バイヤール2016:272-273)</p></blockquote><p> 最後に、自分なりの思考を書いておきたい。それをとりあえず「アンソロジスト・メソッド」と名づけておく。ヒントは日曜読書会をいっしょにやっている池田隆英さん(岡山県立大学)の講義資料の作り方にあった。池田さんは学生に自分で作ったアンソロジーを配って、それについて解説するとのこと。原典を読ませて、そこから議論を立ち上げていくという。それは理想的だなあと思うが、日本語圏では適当なアンソロジーがとても少ないから、手作りせざるを得ないというところがマネできない。私は長めの引用でさえ苦手なのである。かといって、よくある「命題集」では、原典のコンテクストがつかめない。</p><p> たとえばパスカルの『パンセ』を読了した人とは出会ったことがないが、それなりに語ることができるのは、いくつかの有名なフレーズが流通しているからだ。「人間は考える葦である」がそれである。しかし、これは何を言いたいのだろうか。やはり、これだけを抜き出してもパスカルの言いたいことは伝わらない。解釈は自由だが、素材はもう少し多い方がいいのではないか。それが書かれた断章は次のような文章である。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 人間は一本の葦にすぎない。自然の中でも最も弱いものの一つである。しかし、それは考える葦なのだ。人間を押し潰すためには、全宇宙が武装する必要はない。蒸気や一滴の水でさえ人間を殺すに足りる。しかし、たとえ宇宙が人間を押し潰したとしても、人間は自分を殺す宇宙よりも気高いと言える。なぜならば、人間は自分が死ぬことを、また宇宙のほうが自分よりも優位だということを知っているからだ。宇宙はこうしたことを何も知らない。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"><span style="white-space: pre;"> </span>だから、わたしたちの尊厳は、すべてこれ、考えることの中に存する。わたしたちはその考えるというところから立ち上がらなければならないのであり、わたしたちが満たす術を知らない空間や時間から立ち上がるのではないのだ。ゆえに、よく考えるよう努力しよう。ここに道徳の原理があるのだ。(断章三四七)(パスカル2012:213)ブレーズ・パスカル『パスカル パンセ抄』鹿島茂編訳、飛鳥新社、二〇一二年。</p></blockquote><p>「人間は考える葦である」というフレーズは、こうしてみると巧みに要約していると言えるが、断章を丸ごと読むと印象はかなり異なるのではないか。要するに「考えよ」と呼びかけているのである。この程度のまとまりがあれば、本全体を読んでいなくても、人類遺産としてのパスカルのメッセージの一部は伝わるのであり、次の局面を想像できるのではないだろうか。これがアンソロジーの美点であり、読まないで堂々と語る主体の創出基盤になるのである。</p><p> 単独で大著を書くのもいいが、同じ大著であれば思考に役立つパラグラフを集めたアンソロジーの方が有意義である。なぜならテクストが著者の思考から解放されているから。読者はそのパラグラフだけを読んで思考を始めることができるようにする方がいい。それだけのリソースはすでに人類は作り上げてきたのであり、日本の翻訳文化においてそれはいつでも利用可能になっているからである。池田さんが授業でやっているように、それを素材として池田さん自身が自由に思考を語ればいいし、学生たちがそれぞれに思考を語り合えばいいのである。その結晶が池田さんの来るべき論文や著作になったり、学生たちが自分の人生の中で思い起こして応用する局面が出来するのであれば、それは有益な財産となるはずである。</p><p> 逆に言うと、単独で大著(とまでは行かなくとも中規模の書き下ろし作品であっても)を書くためには、そういうプロセスが欠かせないのである。それを抜きにして一定水準の著作は書けないと思う。まして私の場合は理論研究のブランクが長いのだから、入学したての勤勉な大学院生のように、ひたすら文献を読んで書写して自分自身の思考のための教材づくりから着手しなければならない。</p><p> お手本となるものは、学術的なものが少ないというだけで、じつはないわけではない。翻訳の場合、版権の許諾作業が必要なので、どうしても中堅大手出版社のものになる。</p><p> そもそも文学全集はアンソロジーである。そういうブームもあったが、今は過去の話。背景には、もはや大部な作品は読まれないという事実がある。現代の大衆小説であれば大部なものはいくらでもあるが、海外の古典作品の翻訳となると相当ハードルが高くなる。昔からそうだったと言えなくもないが、とりわけ若い人が読書習慣から縁遠くなってしまい、物量をこなすことができなくなった事情が大きいと思う。そこで筑摩書房は、それまでの大全集主義を改めアンソロジーに力を入れた時期があった。文学では『ちくま文学の森』『新・ちくま文学の森』があり、その次に『ちくま哲学の森』シリーズ全八巻が編まれた。内容的には哲学者そのものより人生哲学的な教訓エッセイがほとんどを占める。高校生あたりをターゲットにした感じのものだが、編集力の高さを感じるシリーズである。これに似たのがポプラ社の「百年文庫」で、今これを手放したことを猛烈に後悔している。もうボックスは市場にない。先行する二冊の企画は残しておいた。『諸国物語』と『百年小説』がそれである。「百年文庫」はそのスピンオフになる。これらも文学アンソロジーである。こういうものは出版社にいる(あるいは委託された)アンソロジストへの信頼がないとセールスは成り立たないのだろう。著者名を手がかりにする多くの読書家の目にはとまらなかったのではないか。</p><p> 時代的には遡るが、人文社会科学全般に網をかけたのが平凡社の『現代人の思想』シリーズ全二十二巻である。これは全集と言ってもいいような陣容の内容だが、論争的な論文や著作の一部分が大量に収められていて、今や忘れられてしまった著者も多いのである。このうちの三冊が二〇〇〇年に記念復刻されているものの久しく絶版になっていて、平凡社ライブラリーにそっくりそのまま収録できないものかと思う。こういうものでゼミをやって議論すると面白いと思う。</p><p> 『世界の名著』シリーズもじつは抄録があって、そのうちのいくつかは中公文庫で全訳化されている。しかし、これは全集というべきだろう。よりアンソロジー的なのは講談社の『人類の知的遺産』シリーズである。全八十巻のうち何冊かは講談社学術文庫で文庫化されている。前半は伝記と著作解題で、後半がアンソロジーになっている。特筆すべきは東洋思想の巨匠にも十分に配慮しているところで、異例なものとしては「達磨」だけで一巻をなすという具合である。フッサールの巻などは学術文庫になっていて読みやすい。これも歴史講座ものと同様にシリーズとして文庫化するといいと思う。買うのは一冊であっても、シリーズの全体観を意識することが重要だと思う。</p><p> じつは大学入試問題集いわゆる過去問集もアンソロジー的な性質を秘めている。現代文という科目の評論文というジャンルがそれである。試しに河合塾による『センター試験過去問レビュー国語』を買ってみた。過去問と解説とで計一八〇〇ページあって八八〇円という驚異の蓄積本だったが、センター試験国語の現代文の設問はすべて日本の著者であった。翻訳は一つもない。同じく駿台予備学校編『京大入試紹介25年現代文2019〜1995』も買ってみたが、ここでもすべて日本人著者である。しかし選り抜かれた文章ばかりで、たいていの場合、他の文献を解説するようなものになっているので、自説をこんこんと述べた大作家の文章ではない。たとえば京大2019年入試問題では、金森修がアガンベンや寺田寅彦の所説を説明している文章が出題されている。もちろん著者の属性にも配慮されるのであろうが、それとともに明晰であることと、何カ所か読み込みに工夫が必要な個所があることが出題の要件である。どこをどれだけ切り取るかは熟考を要する。</p><p> 日本語の哲学教科書としてよくできていると思ったのが、菅野盾樹編『現代哲学の基礎概念』大阪大学出版会、二〇〇八年である。引用された文章は基本的に原語の原典である。英独仏というところ。と言っても十行に満たない分量であれば解説付きで理解できる。かつての外書購読に較べるとたいした負担ではなかろう。</p><p> こうして眺めてみると、アンソロジーは索引であり事典であり目録でもあるということだ。小さな図書館の役割を果たしてくれる。</p><p> アンソロジーによって切り取られた原典・著作・論文は思考の道具である。道具でいいのである。踏み台と言ってもいい。これを「亜流」「低俗化」「にせもの」扱いするインテリが大部分であろうが、これまで詳細に検討してきたように、本は必ずしも全部読まなくていいのである。文化総体のテクストの中から切り取った断片をいくつか集めて自分が思考することこそ重要なことなのである。大部な著作を読み切ったところで、それは文化総体のテクストのごく一部分にすぎないということは変わりないのだから。こういう見切りが大事なのだ。その上で、デコーダー(あるいはそう言ってよければ創造的な読み手)としてより創造的な思考やテクストを産出することが大事なのである。そのさい私たち自身は一時的にテクストの奴隷であってもいいが、断じて図書館そのものである必要はないのだ。</p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]6tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-23705242979110808502022-02-15T12:08:00.000+09:002022-02-15T12:08:19.452+09:00セオリー道場004弱い思考に定位する──ヴァッティモ、ロヴァッティ、エーコを読む<p><b>読解対象</b></p><p>ジャンニ・ヴァッティモ、ピエル・アルド・ロヴァッティ編著『弱い思考』上村忠男・山田忠彰・金山準・土肥秀行訳、法政大学出版会、2012年。</p><p>レッスンのポイント:長文引用練習</p><p> ヴァッティモとロヴァッティ編『弱い思考』において対立概念とされる「強い思考」は、最高原理や究極目標や最終的真理を目指す思考である。</p><p> 編者二人による「まえおき」では次のように説明している。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;">「弱い思考」というタイトルには、こういった最近の思想動向のはらむ問題点についての批判的見解のすべてが込められている。すなわち、基本的に、つぎのような考え方がそのタイトルには込められているのである。(一)形而上学的明証性(したがって根拠のもつ強制力)と、主体の内と外において作動している支配とのあいだには結びつきがあるという、ニーチェの、そしておそらくはマルクスの発見を、真剣に受けとめなければならないということ、(二)だからといって、この発見をただちに──仮面を剥ぎ取り、脱神話化することをつうじて──解放の哲学へと語形変化させるのではなく、現象と言説手続きと「象徴形式」とを存在の可能的な経験の場とみて、これらのものからなる世界に、新しい、より友好的な──というのも、そこでは形而上学にあまり苦しめられず、伸び伸びとくつろぐことができるからであるが──まなざしを向けること、(三)しかしまた、その真意は「シミュラークルを称揚すること」(ドゥルーズ)にあるのではなく──そのようなことをしてみても、とどのつまり、シミュラークルに形而上学的な「オントース・オン〔存在者の存在〕」の重荷を背負わせることになってしまうだけだろう──、(ハイデガーの使っている「リヒトゥング(Lichtung)」という語のありうる意味のひとつに従うなら)おぼろげな光のなかで分節化されうる(それゆえ「推論されうる」)思考をめざすことにあること、(四)解釈学がハイデガーから採用した存在と言語の──きわめて問題の多い──同一化を、形而上学が科学主義的で技術主義的な成果をあげるなかで置き忘れてしまった、根源的な真実の存在を再発見するための方法としてではなく、痕跡や記憶としての存在、あるいは使い古され弱体化してしまった(そしてこのためにのみ注目に値する)存在に新たに出会うための方途として理解すること。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:5)</p></blockquote><p> 私としては「現象と言説手続きと『象徴形式』とを存在の可能的な経験の場とみて、これらのものからなる世界に、新しい、より友好的なまなざしを向けること」に着目したい。たいせつなことは、世界の背後に存在する何かを想定するのではなく、経験可能な「現象と言説手続きと『象徴形式』」に即して世界を語ることである。形而上学的な何かによって境界づけられないような仕方で、ということだ。</p><p> ヴァッティモは自分の論考で次のように念を押している。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> わたしたちが出発点とすることのできる経験、またわたしたちが忠実でなければならない経験とは、なによりもまず先にあるもの (innanzitutto)の経験であり、概して日常的な経験である。そして、このような経験はつねに歴史的な性質を付与され濃密な文化の累積を支えとする経験でもある。なんらかの還元とかエポケーをつうじて歴史文化的な地平へのわたしたちの同意を中断することによって到達しうるような、経験の可能性の先験的[超越論的]条件といったものは存在しない。経験の可能性の条件はつねに歴史的な性質をおびている。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:10-11)</p></blockquote><p> さらに真理の概念について次のように述べている。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 真理は、明証というタイプのノエシス的把握の対象ではない。そうではなくて、すでにつねにそのつどあたえられている一定の手続きを尊重しながらなされる検証過程の結果である(《現存在〉であるかぎりでわたしたちを構成する世界の投企)。いいかえると、それは形而上学的ないしは論理学的なものではなくて修辞学的な性質を有している。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:31)</p></blockquote><p> このような「真理の修辞学的なとらえ方」をしたい。これによって新しい「配置」つまり知の配置が見えてくるかもしれない。</p><p> ロヴァッティは「経験の過程でのさまざまな変容」論文の「弱い思考とはなにを意味するのか」という節において、哲学者の名前を出さない説明の仕方で語る。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> わたしたちがもろもろの事物に付与している意味、わたしたちのノーマルな知とでも呼びうるものは、通常、反省を要求することのない自動的なものとしてわたしたちに提供される。しかし、じつをいうと、そのように自動的とみえるのは、一連の論理的・文化的な操作一般の結果なのである。わたしたちは、自分たちが引きずり込まれている潮流はたえず水位が上昇し水量も増すと考えており、自分たちの認識が進歩していくことをなんら疑っていない。そしてたしかにわたしたちの自由になる情報量が増大しており、大小の知の網の目が細かくなっていることには疑いがない。しかし、それはなによりも名称の問題なのだ。使われる術語は増えるが、操作のタイプそのものは変わらない。わたしたちに提供される自動的で反省を要求することがないように見えるものは、じっさいには力ずくで遂行される単純化の結果でしかない。そして、その単純化はとりもなおさず抽象化の過程にほかならない。というのも、それは事物を経験の総体から分離して最小限のものに還元し一点に統合すること、いろいろと放棄がなされたり遺漏が生じたりするのを犠牲にしても、いくつかの単純な要素、いつも同一で、あらゆる認識の固定した流出路をなす要素を手に入れることを目指すからである。日常的なもののありきたりの論理は、単純化と抽象の最大限値に服従させられてしまう。認識と伝達の行為はこうして途方もなく容易なものとなり、社会的な力を獲得するにいたるのである。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:36-64)</p></blockquote><p> とくに注目すべきは「わたしたちに提供される自動的で反省を要求することがないように見えるものは、じっさいには力ずくで遂行される単純化の結果でしかない。そして、その単純化はとりもなおさず抽象化の過程にほかならない。」という記述である。「力づく」なんだ。それが私たちの教科書として立ち現れてきたり経験値として押しつけられてきたりするということである。教科書主義も前例主義も根は一つだ。力づくの単純化なのである。</p><p> フーコー流に言えば強い思考は排除し切り捨てる。それに抗するためには、関係の束を解きほどき、解きほどいたものをそのまま保存するようなやり方で記述するしかないのではないか。</p><p> この本に収められた「反ポルフュリオス」という論考の中で、ウンベルト・エーコはさらに独特の解釈を論じてみせてくれる。エーコは、思考は意味論的に強い「辞書」ではなく、弱い「百科事典」であるべきだというのだ。『弱い思考』が一九八三年刊行なので、おそらくこの論考が元になる詳論が一九八四年の単著『記号論と言語哲学』第2章「辞書対百科事典」になるのだろう。</p><p> エーコは強い思考には二つの理想があるという。経験界あるいは自然界の複雑さの理由を明らかにする思考であること、そしてコントロール可能な程度に縮減されているが世界の構造を反映している世界モデルを構築することである。このように要約してみると、強い思考がいかに虫のいい要求を掲げているか、よくわかる。それは経験界あるいは自然界の複雑さをきちんと反映していなければならない。しかも、その世界モデルはコントロールできないほど複雑であってはならないというのであるから。</p><p> この部分だけでフッサールを思い出す。晩年のフッサールは、ガリレイ物理学に始まる世界の数学化こそが現代の悲惨を帰結していると主張していた。この数学化こそが典型的な強い思考ではないか。</p><p> エーコ論文に話を戻すと、意味論的に強い思考は「辞書」だという。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> 理想的な辞書はつぎのような特質をもつ。</p><p>(1)有限な構成要素を接合して、不特定多数の語量の意味を表現することができなければならない。</p><p>(2)右の構成要素はより小さな構成要素で解釈されてはならず(さもなければ、1の要件が満たされないであろう)、原素 (primitivi)を構成しなければならない。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:83-84)</p></blockquote><p> しかし、このような「辞書の理論的理想は実現不可能であり、どんな辞書も、純粋性を侵食する百科事典的要素を含んでいる」という。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:84)</p><p> エーコはこのことをその原初形態としてポルフュリオス『アリストテレス範疇論入門』を取り上げて論証する。この論証は私にはわからない。系統樹によって論理を組み立てるやり方の破綻(エーコはこれを「論理的痙攣」と呼ぶ)として理解しておく。</p><p> しかし、これは辞書を引く時にしばしば経験する無限ループと関連があるくらいのことはわかる。少数のモデル言語によって世界の自然言語を説明できるわけがない。</p><p> というわけで、理論モデルとしての辞書はじつは「擬装された百科事典」ということになる。これによって自然言語とモデル言語の区別がなくなり、理論的メタ言語と対象言語の区別がなくなる。このごたまぜな感じが百科事典なのだ。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 百科事典は解釈の、したがって、無限の記号過程 (semiosi illimitata)のパース的原理によって支配されている。言語が表現するどんな思考も力動的対象(あるいは物自体)の「強い」思考では決してなく、それ自身他の表現によって解釈することができる直接的対象(純粋な内容)の思考である。この表現は、自立的な記号過程において他の直接的対象を参照させるのである。たとえ、パースのパースペクティヴにおいて、解釈者のこのひと連なりが習慣を、したがって、自然的世界の変形という様態を生じさせるとしても。しかし、力動的対象としての世界に関するこの行為の結果は、それ自身他の直接的対象を介して解釈されなければならず、こうして、自己自身の外へひんぱんにあらわれ、自己自身へとひんぱんに閉じこもるという、記号過程の円環が生じるのである (Eco 1979, 2 参照)。</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 百科事典における意味論的思考が「弱い」というのは、表現のためにわれわれが言語をどのように使うかをうまく説明できないという意味ではない。この思考は、意味の法則を文脈と状況の継続的な境界設定にしたがわせる。百科事典における意味論は、ある言語の表現の生成と解釈のための規則を提供することを拒否しないが、この規則は、文脈へと方向づけられている。意味論は実用論を組みいれている(辞書は、記号論化されているとはいえ、世界の認識を組みいれている)。百科事典を生産的に弱くしているのは、百科事典によっては、決定的で、閉じた表現が決して与えられないという事実、百科事典的表現は決してグローバルではなく、つねにローカルであり、特定の文脈と状況に際して提供され、記号論的活動に限定されたパースペクティヴを構成するという事実である。つぎに見るように、もし百科事典的モデルがアルゴリズムを供給するならば、そうしたアルゴリズムは、迷宮を進むことを可能にするアルゴリズムのように、近視眼的でしかありえない。百科事典は合理性の完全なモデルを提供するのではなく(整序された世界を一義的な仕方で表現するのではなく)、合理的であることの規則を、それぞれの段階で、条件を協議するための規則を提供するのである。その条件が、整序されていない(あるいは、秩序の基準が見逃されている)世界に──秩序のなんらかの暫定的な基準にしたがって理(ことわり)を与えるためにわれわれが言語を使えるようにするのである。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:107-108)</p></blockquote><p> まず「無限の記号過程」とはどういうことか。篠原資明『エーコ──記号の時空』講談社、1999年には次のように説明されている。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p>解釈項の理論</p><p> パースの記号論、とりわけその解釈項の理論を、エーコは高く評価する。パース自身による解釈項の定義は、かなりばらつきのあるものだが、エーコは、実り多い仮説と断ったうえで、次の定義を採用するだろう。すなわち、解釈項とは、「同一の対象と結びつけられる別の表象である」のだと。さらに続けて次のように言い換えている(『記号論』2.7.1)(篠原資明1999:120)</p></blockquote><p> ここからエーコの『記号論』が引用される。孫引きになるが、とりあえずここで学んでしまう。『記号論』を正面から読解する作業は近いうちに来るはずだから。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 記号の解釈項とは何であるかを明らかにしようとすれば、別の記号でそれを名指すことが必要になろうし、その記号はまた別の記号で名指されるといったふうに続いていくのである。この点で、無限の記号過程が始まる。これは、逆説的に思えるかもしれないが、完全に自らの手段によるだけで自らを検証しうるような記号体系の基礎を保証する唯一のものなのである。(篠原資明1999:120)</p></blockquote><p> こうしてみると「記号過程の円環」というのは再帰的循環のことではないかと思う。</p><p> 第二に「意味の法則を文脈と状況の継続的な境界設定にしたがわせる。」とはどういうことか。これは「グローバルではなくローカル」という言明に通じる。要するに普遍的ということはないのだ。必ず限定された領域における文脈に依存しているということ。</p><p> 第三にアルゴリズム云々の議論は「機械的に延長していくとどうなるか」ということである。どうなるのか。それは迷宮になるとエーコは言う。百科事典モデルでは、ポルフュリオスの樹形図のように「多次元的な迷宮を二次元的な図式に還元する試み」(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:109)は徹底的に排除される。迷宮は迷宮として現象するということだ。迷宮としてエーコが挙げるのは、一方向的な迷宮、迷路、網状組織の三つのタイプである。網状組織についてはリゾームにも言及されている。そして、これこそが百科全書で採用された迷宮だという。エーコは百科全書の編集方針を参考要求して長めの引用をしている。これについてはあとで検討しよう。むしろエーコはこの序論に準拠して「弱い思考」について(あるいは百科事典的モデルについて)語っているように見える。</p><p> 「反ポルフュリオス」論文の最後は次のようなパラグラフで締められている。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 理性の危機が語られるとき、グローバル化した理性が念頭にある。これは、世界に(世界がそうであるから、あるいは、そうであるならば)適用される、その「力強く」定義されたイメージを提供することを欲していた。迷宮の思考、百科事典の思考は、推測的で文脈依存的であるかぎり、弱くはあるが、しかし合理的である。というのも、この思考は間主観的コントロールを可能にし、断念にも、独我論にも流れ込まないからである。これが合理的であるのは、包括性を要求しないからである。これが弱いのは、相手の勢いを自分のものとする東洋の闘士が弱いのと同様である。彼は、他者が創りだした状況で、勝ち誇って応答するための(推測可能な)方法を後で見つけるために、相手に屈服しようとする。東洋の闘士は、前もって整えられた規則をもたず、外から与えられるすべてのできごとを一時的に規制するための推測的なマトリクスをもっている。そして、適切な、最終的条件へと、できごとを変えるのである。格闘は強い辞書次第だと信じているひとの前では、彼は「弱い」。彼はときどき強く、勝利する。彼は合理的であることに満足しているからである。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:114)</p></blockquote><p> とくに「これが合理的であるのは、包括性を要求しないからである。」に注目したい。弱い思考の、これが最大の強さだと思う。</p><p> じつはこれに似た考え方について論じたことがある。それはレヴィ=ストロースの「バラ模様型」の言説である。この発言は、クロード・レヴィ=ストロース/ディディエ・エリボン『遠近の回想』竹内信夫訳、みすず書房、 1991年にある。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> では現在、ひとたびプロポリス言説圏に入った人がどのような言説に遭遇することになるのか。紙数の関係でプロセス抜きの印象批評的な説明にならざるを得ないが、それなりに共通するものと変奏されるものとに分けて整理しておこう。</p><p> 第一に、それは徹底した自己中心性の言説である。他の民間医療や健康食品については言及しない。と同時に他の健康食品を批判する言説もまたほとんどない。禁欲的なまでの自己完結性と言っていいかもしれない。それは神話について語ったレヴィ−ストロースの次の説明そのままである。「中心にどんな神話を選ぼうとも、その変異形がその周囲に広がっていて、バラ模様の形を作っているのです。それがだんだん広がっていきながら複雑な形を作り上げる。またそのバラ模様の周辺に位置している変異形を一つ選んで、それを新しい中心に据えるとしますね。すると同じことが起きて、別のバラ模様が描き出されるのです。この新しいバラ模様は、最初のバラ模様と部分的には重なり合っていますが、それからはみ出したところもある。」(レヴィ=ストロース 1988=1991:230)</p><p> おそらくバラ模様を描くプロポリス言説圏の場合も、アガリクス言説圏、クロレラ言説圏、キチン・キトサン言説圏、霊芝言説圏、そして赤ワイン=ポリフェノール言説圏などと相互に重なり合いながら、それぞれの自己中心的世界を描くのであろう。比較の視点は用意されない。(野村一夫「メディア仕掛けの民間医療──プロポリス言説圏の知識社会学」佐藤純一編『文化現象としての癒し──民間医療の現在』2000:121-122) </p></blockquote><p> この論文を書いて以降、バラ模様型言説については放置していた。再確認が必要だ。</p><p> 最後に、エーコが引用した『百科全書』の編集方針の記述を読んでみたい。中略を二つ含んでいる。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> 学問と技術との一般的〔全体的〕体系は曲りくねった道をなす一種の迷路であり、そのなかへ精神は自分がとるべき道をあまり知らずに入ってゆくのである。……しかし、この無秩序は、精神の本分から生じるまったく哲学的な無秩序であるが、そのままでは、精神をそこに写しだすことが望まれている百科全書の樹を醜いものにするか、あるいはむしろそれを完全に壊してしまうであろう。</p><p> さらに、私たちが「論理学」に関してすでに明らかにしたように、他のすべての学問の諸原理を内蔵していると見なされ、このため百科全書的順序においては当然最上位を占めるはずの学問の大部分が、観念の生成史的順序において同じ地位を占めることはない。なぜなら、こうした学問は〔時間的に〕最初に創り出されたのではないからである。……</p><p> 要するに、私たちの知識の体系はさまざまな部門から構成され、そのいくつかは同じひとつの結合点をもっている。この結合点から出発しても、一度にすべての道に入ることはできないから、どの道を選択するかは個々の精神の生来の資質が定める。……</p><p> 私たちの知識の百科全書的順序に関しては事情は同じではない。この順序は、私たちの知識をできるかぎり小さい場所に寄せ集めて、いわば哲学者をこの広大な迷路の上で、主要な学問と技術を一度に見わたせるような非常に高い視点に位置づけることで、成立する。すなわち、哲学者は、その高い視点から、自分の理論的考察の対象とその対象に加えうる〔技術的〕操作を一目で見ることができ、人間知識の一般的諸部門と、それらを分離・結合する諸点とを見分けて特徴づけることができ、さらにときには、各部分をひそかに関係づけている秘密の通路をかいま見ることさえもできよう。それは一種の世界全図である。この地図は、主要な国々の位置と相互依存、ある国から他の国へと直通する道、を示さなければならないが、この道は数知れない障害物によってしばしば遮断されている。しかもこの障害物は各国の住民と旅行者にしか知られえず、非常に詳細な個別的な地図にしか示されえないであろう。これらの個別的な地図がこの「百科全書」の個々の諸項目にあたり、「系統図」あるいは「体系」が個別的な地図をまとめる世界全図となるであろう〔ディドロ、ダランベール『百科全書──序論および代表項目』桑原武夫訳編、岩波文庫、一九七四年、六五─六七頁〕。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:112-113)</p></blockquote><p> 序論を書いたのはダランベールである。ダランベールは人間知識の全体を系統樹で提示してはいるが、エーコが引用しているのは、そのことに但し書きをしている部分である。これはネットワーク上に設置されたハイパーテキストを想起すれば今はかんたんに理解できる。そして、まさにバラ模様状ではないか。これこそ「弱い思考」なのだ。</p><p> さらに私は「弱い思考」にキュビズムを加えたい。「弱い思考」に出会う前は「理論的キュビズムの立場を取る」と宣言していたくらいなのだ。キュビズムを成立させたのはブラックとピカソの二人であり、その直前には後期セザンヌがいた。この三人は遠近法という「強い思考」から脱出して、もののかたちの描き方を根本から変えた人たちである。近いうちに私はとりあえずこの三人の画家に焦点を当てて「弱い思考」としてのキュビズムについて論じてみたい。手元には次の三冊を用意した。</p><p>ニール・コックス『キュビズム』田中正之訳、岩波世界の美術シリーズ、岩波書店、2003年。</p><p>飯田善國『ピカソ』岩波書店、1983年。</p><p>アルベール・グレーズ『キュービスム』貞包博幸訳、中央公論美術出版、1993年。</p><p> これからは、屈強で偏狭な「強い思考」に別れを告げて、輪郭のはっきりしない「弱い思考」に移行する作業に入る。一見すると手広いぼんやりした作業だが、ネットワーク上のものについてはすでに明確なイメージを私はもっているので、それほど困難は感じない。ただ、手数が多いだけである。</p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-19560388886003176332022-02-14T23:36:00.001+09:002022-02-19T13:11:59.653+09:00セオリー道場003原ファシズムとは何か、そして知識人はそれにどのように抵抗したか──ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』とホルヘ・センプルン『人間という仕事』<p><b>&nbsp;読解対象</b></p><p> ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』和田忠彦訳、岩波現代文庫、2018年。</p><p> ホルヘ・センプルン『人間という仕事──フッサール、ブロック、オーウェルと抵抗のモラル』小林康夫・大池惣太郎訳、未来社、2015年。</p><p>レッスンのポイント:長文引用練習・特性列挙練習</p><p><b>原ファシズムとは何か</b></p><p> エーコは自身が体験したイタリア・ファシズムは固有の哲学を持っていない、あったのは修辞だけだと述べる。しかしイタリア・ファシズムこそ軍事宗教やフォークロアを初めて作り出したとする。(エーコ2018:38-39)</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> しかし、全体主義運動においてイタリア・ファシズムは、その一部にしか過ぎないのに、なぜ「ファシズム」という言葉がその全体を表すようになってしまったのか。エーコは聴衆を「提喩(メトニミー)の機能」の謎に直面させる。つまり、ナチズムは明確な明確な政治綱領宣言をもち人種差別とアーリア主義の理論を装備し反キリスト教思想の陣容を備えていた点で、唯一無比である。それに対してファシズムの方はそのような陣容はなく、もっとファジーな存在であったために、他の政治運動や政治体制と家族的類似性を形成しやすいということである。(エーコ2018:46-47)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> いずれにしても、たとえ政治体制が転覆され、その結果、体制のイデオロギーが批判され非合法化されることはありうるとしても、体制とそのイデオロギーの背後には、かならず特定の考え方や感じ方、一連の文化的習慣、不分明な本能や不可解な衝動が渦巻く星雲のようなものが存在するわけです。(エーコ2018:36)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> かつてイヨネスコが「大切なのは言葉だけだ、それ以外は無駄話だ」と言ったことがあります。言語的習慣は往々にして、表出されない感情の重要な兆候なのです。(エーコ2018:36)</p></blockquote><p> エーコは、このような言葉の特徴に焦点を当てて、ファシズムと呼ばれる政治運動に典型的に現れる特徴を十四点あげて、それを「原ファシズム(Ur-fascismo)」もしくは「永遠のファシズム(fascismo eterno)」と呼ぶ。「原」というのは原初的ということであり、「永遠の」というのは「歴史上存在したあのイタリア・ファシズムではなく、他にも将来的にも出現しうる」というような意味合いであろう。この十四点の特徴がとても的中度が高いので、順次ていねいに読んでいきたい。</p><p> 一点目は「伝統崇拝」。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 結論からいえば、「知の発展はありえない」のです。真実はすでに紛れようもないかたちで告げられているのですから、わたしたちにできることは、その謎めいたメッセージを解釈しつづけることだけなのです。ファシズム運動の一つひとつの目録を点検し、そこから主要な伝統主義思想家たちを洗い出せばすむことです。(エーコ2018:49)</p></blockquote><p> なぜなら、この知的伝統は混合主義的なものであって、対立する考え方が併存する矛盾をもともと抱えているから。それらの伝統を任意に組み合わせてしまうところがファシズムだということ。</p><p> 二点目は「モダニズムの拒絶」。啓蒙主義や理性を近代の堕落とみなす。それゆえ非合理主義と規定される。</p><p> 三点目は「行動のための行動を崇拝する」こと。考えることは去勢の一形態とされ、自由主義的な知的世界は告発と攻撃の対象になる。</p><p> 四点目は「混合主義であるために批判を受け入れられない」こと。「意見の対立は裏切り行為」とみなされる。</p><p> 五点目は「余所者排除」であり「人種差別主義」であること。</p><p> 六点目は「欲求不満に陥った中間階級へのよびかけ」であること。</p><p> 七点目はナショナリズムであるがゆえに「陰謀の妄想」がその心性の根源にあること。「外国人嫌い」の感情に訴えるのが手っ取り早い手段になる。</p><p> 八点目は頻繁にレトリックの調子を変えるために「敵は強すぎたりも弱すぎたりもする」こと。結果的に敵の力を客観的に把握できない。それが体質になっている。</p><p> 九点目は「生のための闘争」ではなく「闘争のための生」とされること。あるのは最終解決のみであり平和主義は悪とされる。</p><p> 十点目は「大衆エリート主義」を標榜すること。</p><p> 十一点目は「一人ひとりが英雄になるべく教育される」必要が強調される。英雄主義が規律となる。「原ファシズムの英雄は、死こそ英雄的人生に対する最高の恩賞であると告げられ、死に憧れるのです。」(エーコ2018:56)</p><p> 十二点目は永久戦争や英雄主義が困難なためマチズモのように性の問題にすり替えること。男根の代償としての武器いじり。</p><p> 十三点目は「質的ポピュリズム」。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 原ファシズムにとって、個人は個人として権利をもちません。量として認識される「民衆」こそが、結束した集合体として「共通の意志」をあらわすのです。人間存在をどのように量としてとらえたところで、それが共通意志をもつことなどありえませんから、指導者はかれらの通訳をよそおうだけです。委託権を失った市民は行動に出ることもなく、〈全体をあらわす一部〉として駆り出され、民衆の役割を演じるだけです。こうして民衆は演劇的機能にすぎないものとなるわけです。(エーコ2018:57)</p></blockquote><p> 十四点目は「新言語(ニュースピーク)」を使用すること。貧弱な語彙と平易な構文に限定して総合的で批判的な思考ができないようにする。ニュースピークとはオーウェルが『一九八四年』の中で使用した用語法で、最近出た新訳の中では付録として「ニュースピークの諸原理」がある。これはまたの機会に集中して扱いたい。ジョージ・オーウェル『1984』田内志文訳、角川文庫、2021年。</p><p> 以上十四点を一気にまとめてきたが、それらは相互に呼応している要素として説明されており、それをあえて切り分けて分節化して見せているのである。がっちり組まれた特性群だと、なかなかきれいに適用できないことがあるから、あえて要素をばらして並列しているのである。そのおかげで、これらは歴史的現在の政治を評価するさいの徴候測定装置として役立つ。</p><p> 原ファシズムが感情政治あるいは感情動員の形式であることがよくわかる。そして、この感情は言葉あるいは言説によって動員されるのである。</p><p> ここにはいくつかの塊があるように思うが、その塊はある程度までは必然的につながる。ここの含まれた修辞学的要素が相互に結合することで、そこに求心力が生じて一種のハブになる。ハブができるとネットワーク外部性が作動してハブと周囲のノードが次々に連結して明確な物語性を持つようになる。そういうことだとすると、ばらばらに言説が生み出されていくプロセスにおいて接合の力を絶たないといけないということになる。それが例外状態を成立させないための手立てである。</p><p> エーコのこのやり方は言説分析の一つのスタイルであるように感じる。じつは私もかつてこのような形で健康主義(ヘルシズム)を説明したことがある。野村一夫「健康クリーシェ論──折込広告における健康言説の諸類型と培養型ナヴィゲート構造」佐藤純一・池田光穂・野村一夫・寺岡伸悟・佐藤哲彦『健康論の誘惑』文化書房博文社、2000年。</p><p>表2 折込広告における健康クリーシェの諸類型</p><p>■近代医学模倣言説系(1)栄養学的言説(2)検査値言説(3)医学的権威主義(4)ストレス言説</p><p>■伝統回帰・減算主義的言説系(5)非西洋医療権威主義(6)伝統主義(7)自然治癒力主義(8)薬の忌避・薬害への恐怖(9)無添加主義(10)素材よければ主義</p><p>■道徳言説系(11)継続は力なり言説(12)良薬口に苦し言説(13)リスク放置非難言説(14)嗜癖不道徳説(15)死の恐怖(16)性的健康(17)フェティシズム的道徳</p><p>■救済言説系(18)まだ間に合う言説(19)万病解決言説(20)お手軽主義(21)遍歴言説(22)生まれ変わり言説</p><p>■身体アイデンティティ言説系(23)体質という個性(24)恋愛共同体への誘惑</p><p>■承認言説系(25)半信半疑言説(26)他者の承認(27)マスコミで話題言説</p><p>■汎用言説系(28)健康の汎用性</p><p> これは原ヘルシズムではなく最小公倍数としてのヘルシズムである。ここから抽出して原ヘルシズムの構成要素を組み直すことができそうである。それは今後の課題としたい。</p><p> また「換喩とは何か」について書くつもりでいたが、今回は見送る。レトリック論について重点的に書く計画があるので、そこでやることにしたい。</p><p><b>ファシズムと闘う、あるいはファシズムに耐える</b></p><p> センプルン『人間という仕事』副題は「フッサール、ブロック、オーウェルと抵抗のモラル」である。原題では「抵抗のモラル」となっている。</p><p> 読み始めは、いったいどんな共通点があるのかと思ったが、三者がそれぞれの場所で一九三〇年代のヨーロッパの危機に直面して、どのような精神で抵抗したかについての講演であった。しかし実際には三者だけでなく、その周辺や同時期に行動した知識人の話がたくさん出てきて、ナチズム、ファシズム、スターリニズムに席巻されるヨーロッパの知識人たちの群像が語られる。フッサールとオーウェルはある程度わかっているがアナール学派のマルク・ブロックの抵抗活動と最期についてはよく知らなかった。センプルンはブロックの『奇妙な敗北』を主軸に語っている。センプルンは三者に共通する抵抗精神を「批判的合理性」「理性の勇敢さ」「民主主義に対する信」「民主的理性」と呼ぶ。こういう確信こそこれからも反復して学び直すべきものだということである。</p><p> さて、もう少し詳しく見ていこう。最初の講演は「エトムント・フッサール 一九三五年五月、ウィーン」と題されている。フッサール晩年のウィーン講演「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」についての章である。この講演の最後の部分は次のようになっている。センプルンの翻訳書から抜き出してみる。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> ヨーロッパ存続の危機には二つしか出口がありません。ヨーロッパがそれ本来の理性的生の意味から遠のいて没落し、精神に対する憎悪と野蛮のなかに失墜するか、それとも理性の勇敢さ(ヒロイズム)によって自然主義を最終的に超克し、そこから哲学の精神を通して再生するかです。ヨーロッパにとって最も危ぶむべきは倦怠であります。良きヨーロッパ人として、この危険のなかの危険と戦おうではありませんか。戦いが果てしなく続くことに怯まぬ勇気をもって。そのとき私たちは目にするでしょう。このニヒリズムの猛火、人間性に対し西洋が使命を帯びていることを疑わせる絶望の逆巻く炎、巨大な倦怠の灰傭から、新たな内的生と新たな精神的活力に満ちた不死鳥が、人間の遠大な未来の保証として蘇るのを。なぜならば、精神のみは不減なのですから。(センプルン2015:11)</p></blockquote><p>「戦おうではありませんか」の文は意外な感じがする。平凡社ライブラリーに収められた清水他吉・手川誠士郎編訳では次のような訳文になっている。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> もしわれわれが、「善きヨーロッパ人」として、無限に続く闘いにも挫(くじ)けぬ勇気をもち、諸々の危機のなかでも最も重大なこの危機に立ち向かうならば(後略)(M・ハイデッガーほか『30年代の危機と哲学』清水多吉・手川誠士郎編訳、平凡社ライブラリー、1999:95)</p></blockquote><p> ここでは「立ち向かうならば」と訳されているのは、「立ち向かおう、そうすれば」ということだと理解しておく。センプルンは「戦おうではありませんか」という呼びかけを特筆しているので、ここではそれに従う。</p><p> それほど切迫した一九三五年のヨーロッパ。その危機において知性の抵抗はどのようであったかをセンプルンは描き出す。歴史的背景は次の四点。独仏の和解の失敗、一九二九年の経済恐慌、計画主義の発展、大衆化の拡大。そしてスターリン主義の増幅。このなし崩し的な歴史の転回の中で、七十六歳のフッサールを始め、フロイト、ヤスパース、ムージル、ジード、マルク・ブロック、アルブヴァックス、ベンヤミン、レオン・ブルム、オーウェルたちの知的抵抗が描かれる。短い講演の中にヨーロッパ知識人の動向が収められている。フロイトは一九二〇年から二一年にかけての『集団心理学と自我分析』の中でいち早く大衆化現象に言及し「大衆化の現象においてはカリスマ的なリーダーが現われ、その出現が決定的な役割を果たす」(センプルン2015:15)ことを指摘していた。ムージルはフッサールの講演のひと月後のパリ講演で「集団主義(コレクティヴィズム)の興隆を問題にしていた。センプルンはこう述べている。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 私が思うにフッサールこそ初めて、哲学的観点から、知的観点から三〇年代の危機と将来の危機に対する唯一の解決策としてヨーロッパの超国家性を構築する必要を表明したのです。(センプルン2015:43)</p></blockquote><p> そして、それを真に受けて受け継いで死んだのがマルク・ブロックだという。彼が一九四〇年に原稿を書いた『奇妙な敗北』にそれが読み取れるという。この本については、そのうち正面から取り上げることにしたい。</p><p> これらの事態を引き起こしたナチズムの進展についての再確認になるが、センプルンが強調している中で再認識したことを三点あげておきたい。</p><p> 第一に、現代的なユダヤ人排斥運動が始まったのはフランスのドレフュス事件からだということ。ここから伝統的な反ユダヤ主義は大衆的な反ユダヤ主義、民衆的な反ユダヤ主義に移行したということ。</p><p> 第二に、「ドイツにおける野蛮はむき出しで、おおっぴらであり、隠されることすらしていなかった」(センプルン2015:19)のに、それがそのまま実行され続けた背景は「民主主義諸国が完全譲歩の態度をとったこと」(センプルン2015:53)だという。ヒトラーは「誰も行動を起こさないことを知っていた」(センプルン2015:54)。</p><p> 第三に、フッサールとブロックとオーウェルに共通していたのは「批判的理性、民主的理性に対する同じ信念」「ヨーロッパ的批判精神の起源にある批判的理性」(センプルン2015:106)だということ。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> もちろん彼らが成す同一性、彼らが成す精神的共同体には微妙な差異があります。三人のうちおそらく最もヨーロッパ的なのはエトムント・フッサールでしょう。ブロックやオーウェルの場合と違い、フッサールにとってヨーロッパの問題は彼の考察の中心にありました。フッサール は実際、[ドイツではなく]中央ヨーロッパの知識階級(インテリゲンチャ)として語っています。つまり、(理性という言葉のカント的な意味における)世界市民主義(コスモポリタニズム)に最も慣れた地域の知識階級(インテリゲンチャ)としてです。彼はまた、災厄を前にしながら、その終りについて、災厄のあとにやってくるはずのことについて語っています。マルク・ブロックとオーウェルは反対に、災厄のなかで、つまり爆弾の下、ナチスの侵略のさなか、あるいはその可能性の脅威のなかで語っています。ブロックが語ったのは他国による占領下であり、オーウェルが語ったのは他国に占領されるという見通しのなかででした。(センプルン2015:106)</p></blockquote><p> その一方でハイデガーはフライブルク大学総長時代に次のようなことを考えていたという。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> フェディエが細心の慎み深さをもって「不幸なる大学総長の年」と書いた時代のテクストがすべて収めてあるわけですが、この巻で目にする最も衝撃的な事実とは、大量の文書、声明文、調査書、大学本部の回状の終りに、あの欠かすべからざる敬礼が──もちろん当時のドイツ語の挨拶「ハイル・ヒットラー」のことを言っています──記されているということではありません。最も衝撃的な事実、それは、この大哲学者が三度か四度、自分の哲学において最も内密で最も個人的な主題(史実性、歴史性、現存在(ダーザイン)の世界への関係)を取り上げ、それをナチズムの公準との関連で再解釈し、そこに新しい生命を──あるいは死をと言うべきでしょう──与えているということです。(センプルン2015:17-18)</p></blockquote><p> このあたりには先輩あるいは師匠であったフッサールとヤスパースの警告が書簡として残っている。この点については別稿を期したい。最後に私たちが教訓として学び取るべき言葉をひとつ。それは「民主的理性」という言葉である。これから常用したいと思う。</p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-51215535484923339852022-02-14T18:09:00.001+09:002022-02-14T18:09:39.323+09:00セオリー道場002眺望的思考についての予備的考察<p><b>読解対象</b></p><p>野矢茂樹『心と他者』中公文庫、2012年。</p><p>野矢茂樹『哲学・航海日誌Ⅰ・Ⅱ』中公文庫、2010年。</p><p>野矢茂樹『心という難問──空間・身体・意味』講談社、2016年。</p><div>レッスンのポイント:キーワード選択練習</div><p><b>眺望的思考とは何か</b></p><p> 「眺望」という言葉のヒントは、野矢茂樹『心と他者』中公文庫2012年および『心という難問:空間・身体・意味』2016年から得た。野矢茂樹は1995年刊行の『心と他者』の眺望論から『哲学・航海日誌I・II』を経て『心という難問』で眺望論を完成させた。『心という難問』では「知覚の眺望構造」「感覚の眺望構造」の章で眺望論を詳細に説明している。野矢の理論は主として「他者の心を理解できるのか」に焦点を当てているので、本研究計画とは方向が異なる。しかし、たんに「パースペクティブの複数性」ということ以上のことを指摘している。つまり複数のパースペクティブはキュビズム絵画のように同時に世界了解に描き込まれているということである。単純な例として「図と地」の議論を思い出してみるとよい。どっちが図でどっちが地なのかは、このさいどうでもよい。要するには私たちはどちらも同時に見ているのである。注意の当て方によって「図と地」が現象する。どちらも同時に注意するとキュビズム絵画のようになる。</p><p> この議論を手がかりに眺望的思考について考えてみたい。世の中には多様な考え方や理論があり、それらはそれぞれに妥当性領域をもつ。つまり、特定の妥当性領域においてはその考え方や理論は正しいとされる。それらの考え方や理論は相互に排他的であることが多い。本研究計画では、それをたんに志向性のちがいと見なして、同時に一定の妥当性をもつものとして扱いたい。これはたんに複眼的でありたいということではなく、志向性のちがいを評価するメタ認知を採用するということである。</p><p> それがどこまで可能なのかはわからない。おそらくは専門知をいくら集積させても眺望的思考には至らない。専門知は境界を作ってその外部を排除するからである。そうではなくリベラルアーツに拓かれた知識をパッチワーク的に集積させる方が可能だと踏んでいる。</p><p><b>グランドヴュー</b></p><p> ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』最終行を「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という有名なフレーズで締めている。この本の冒頭「序」の第2パラグラフにも同様の言明があって、本書の中心命題であることが示されている。すなわち「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じ得ないことについては、ひとは沈黙せねばならない。」(野矢茂樹訳2003:9)</p><p>「沈黙しなければならない」というのは、通常「説明の禁止」もしくは「語ってしまうことの傲慢」をたしなめているように感じられるが、そういうことではないのではないか。</p><p> 命題の中で世界は実験的にそのつど構成される。だから言い得ることは明晰に言えるが、そうでないものは言いようがないので結果的に沈黙することになる。沈黙したくて沈黙するのではない。わからないことについては沈黙すべきだというのでもない。もともと思考しようがなく表現しようもないのだ。</p><p> 学問の役割は、論理空間において概念と命題から構成される知識を供給することによって、人びとが生きる事実空間を言及可能なものに加工するのである。そしてこの加工技術は学問だけがもつのではなく芸術や文学や宗教にも存在する。それらはそれぞれの領域において自律的に論理空間を創造するので自然調和することはない。論理空間におけるこうした多元的な世界観とコスモロジーが事実空間の見え方を多重モードにする。だから私たちの経験する(語りうる)世界はいつも多重モードなのである。つまり私たちはキュビズム的世界を生きているのである。</p><p> それぞれの論理空間の限界線は領域によって異なる。日常生活の慣習的行動に内在する経験値からなる論理空間の限界のその先まで科学的論理世界は説明できるし、さらに宗教的論理空間はその先の複数世界について説明できるということはある。しかし、それらはすべて各論理空間で使用される言語による。私たちはその言語で語られる限界までは行けるが、その先はただの暗闇だということ。ウィトゲンシュタインは「ナンセンス」と断じていた。</p><p> 当たり前のこと? いや、そうでもない。論理空間からしか事実空間を捉えられないとすると、私たちが知っているあらゆる事実空間はすべて論理空間の投影だということになる。</p><p> 同様のことをデュルケムがわかりやすく言明している。ウィトゲンシュタインとデュルケムを組み合わせるのは奇異に思われるかもしれないが、じつはジェイムソンが『政治的無意識』の冒頭掲示でそれをやっている。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p>「言語を想像することは、生活様式を想像することを意味する。」ウィトゲンシュタイン</p><p>「概念の全システムによって表出される世界とは、社会がみずからに対して表象するような世界であるといってよく、それゆえ、社会だけがそのような世界の表象に欠くことのできない一般化された理念を供給できる。・・・宇宙は、それが思惟されるかぎり、そのときにのみ存在する。また宇宙をまるごと全体として思惟できるのは社会だけである。それゆえ、宇宙は一社会のなかに場所を占め、社会の内的生活の一要素となる。まただからこそ、社会は、それを超えたところにはなにも存在しないような、すべてを包みこむ類とみなしていいのである。全体性の概念そのものは、社会の概念の抽象的形式にすぎない。それはすべてを包括する全体であり、他のすべてのクラスがそこに吸収されなければならないような至高のクラスなのである。」デュルケム</p></blockquote><p> 後者はデュルケム『宗教生活の原初形態』原著630ページの引用である。山崎亮訳では下巻435ページだった。最後の最後のところである。一見して、ふつうの常識人には受け容れがたい社会学主義の表明に見えるが、経験的研究の果てに辿り着いたメタ理論である。</p><p> ウィトゲンシュタインの言う「論理空間」がここでは「社会がみずからに対して表象するような世界」と語られている。「概念の全システムによって表出される世界」とは「事実空間」に対応している。このように考えればジェイムソンが2人を並べている理由も理解できる。つまり2人は同じことを言っているのだ。ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」をデュルケムは社会の外部にあるものと述べているだけである。すなわち「社会は、それを超えたところにはなにも存在しないような、すべてを包みこむ類とみなしていいのである。」</p><p> 社会は、それを超えたところにはなにも存在しないような、すべてを包みこむ類とみなしていいのである。詳細な検討は後回しにして、ウィトゲンシュタインが「言語」こそが限界を決めるとしたのと、デュルケムが「社会」こそが限界を決めるとしたのは、ほぼ同じ事態だと理解できるのではないか。あるいはウィトゲンシュタインの「論理空間」とデュルケムの「社会」はほぼ同じことだと理解できるのではないか。メタ理論的なこの仮説をこれから始める私たちの探究の足場としたい。</p><p> 清水幾太郎『倫理学ノート』にはウィトゲンシュタインについての章が3つ収められているが、この中で注目したいのは次のことである。後期ウィトゲンシュタインの集大成である『哲学的探究』への道筋にプラグマティズムとくに若い友人のもたらしたパースの間接的影響があって、プラグマティズムが得意な子どもの扱いが、もっぱら大人だけを想定してきた哲学を乗り越える契機になったと指摘されている。もちろん大学をやめたあとの小学校教師時代の経験も大きいのだろう。つまり「子どもの哲学」を発見したことが後期の『哲学的探究』の「生活形式」「言語ゲーム」の理論に展開したのではないかということである。かつてミードを勉強した社会学者がのちのち言語ゲーム論に触れたときに感じたデジャブ感はこれかと思った。</p><p> もう1つ、通常「言語ゲーム」と訳されている元の言葉はSprachspielであるが、この英訳への違和感が素直に書かれている。本人がそうしているので文句は言えないが、英語でも日本語でも慣用的に使われている意味からかなり離れていることに注意しないと訳がわからなくなる。清水が言うには、Spielは「活動」の意味があって、それをGameに置き換えるのには少しムリがある。ウィトゲンシュタイン自身はgameの部分をイタリックにしているが、それじゃ「際限のない多様性」は伝わらんよということ。そして前期の『論理哲学論考』の沈黙テーゼに匹敵する『哲学的探究』の締めのテーゼは「ザラザラした大地に戻ろう!」だという。私なりに言うと、これは一種の社会学的着地である。論理哲学を裏切りラッセルを裏切り大人の哲学を裏切って、氷上のツルツルの地平からザラザラした大地に着地したという理解である。これなら納得できる。清水がこのあたりを書いていたのは70年代で、清水はコンピュータの時代は『論理哲学論考』が極めたツルツルの氷上の世界の時代になるだろうと文明批評的に結んでいる。じっさい半世紀後の私たちの全生活に数学とアルゴリズムが浸透していることを思えば「ザラザラした大地に戻ろう!」というスローガンは身に染みる。これを社会学的着地として、これからの探究の作業仮説としたい。</p><p><b>参考文献解題</b></p><p>野矢茂樹『心と他者』中公文庫、2012年。</p><p>野矢茂樹『哲学・航海日誌Ⅰ・Ⅱ』中公文庫、2010年。</p><p>野矢茂樹『心という難問──空間・身体・意味』講談社、2016年。</p><p> この一連の哲学エッセイには「眺望」に関するヒントだけでなく、どのような文体で書くかについてヒントを得た。もともと「俯瞰」という言葉は上空から見下ろすという超越論的なニュアンスを伴うので、別の言葉として「眺望」を考えていた文脈で出会った。加藤郁乎『眺望論』を参照したあとだった。「眺望」であれば、対象と同じ地平の見晴らしのよい場所に立つというニュアンスが出るのでちょうどよいと考えた。野矢「眺望論」については、のちにまとめて検討したい。</p><p>フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識──社会的象徴行為としての物語』平凡社ライブラリー、2010年。</p><p> この本からは冒頭掲示のみを参照したので、孫引きに当たるが、ウィトゲンシュタインとデュルケムが並んでいることにヒントを得たので、そのままページごと引用した。ジェイムソンはラディカルな批評家であるが、ここのところ考えていることのヒントがありそうなので、これものちに検討することにしたい。ジェイムソンだけでなく、じつは批評理論と呼ばれる文学理論に多くのヒントがあることはわりと最近になって知った。批評の対象の多くは文学作品ということになるが、世界というテクストを言説分析する試みにとっては先行研究に当たるはずで、方法論として学ぶことが多い。</p><p>エミール・デュルケーム『宗教生活の基本形態──オーストラリアにおけるトーテム体系』上・下、山崎亮訳、ちくま学芸文庫、2014年。</p><p> 長らく「原初形態」として呼ばれてきたが、新訳では「基本形態」となった。本研究では基本的に「デュルケム」と表記するが、この翻訳では「デュルケーム」である。こちらの方が昔風である。ジェイムソンの翻訳は英訳からおこなわれているようなので、あらためて新訳の方の該当個所を引用しておきたい。</p><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 概念(コンセプト)の体系全体が表わしている世界は、社会が思い描く世界であるので、ただ社会のみが、それによって世界が表象されるはずの最も一般的な諸概念を、われわれに提供しうる。ただ、すべての個別的な主体を包み込みうる[社会という]一主体のみが、そのような目的を実現することができるのである。宇宙は、それが思考されるかぎりにおいて、はじめて現存するのであるから、またそれは、社会によってしか全体的に思考されることはないのであるから、宇宙は社会のうちに位置を占めているのである。宇宙は、社会の内的な生活の一要素となる。このように社会それ自体が全体的な類(ジャンル)なのであって、その外部には何も現存しない。全体性の概念は、社会の概念の抽象的な形態にすぎない。社会は、すべての事物を包含する全体なのであり、諸他のクラスをすべて含む至高のクラスなのである。これこそが、これらの原始的分類──そこではすべての領域における存在が、人間と同様の資格で社会的枠組みのなかに位置づけられ、分類されていた──が立脚している深い原理なのである。」(デュルケーム2014:435)</p></blockquote><p>ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫、2003年。</p><p> ウィトゲンシュタインについては、中期と後期と後継者の研究をそれぞれ読解する予定。</p><p>清水幾太郎『倫理学ノート』講談社学術文庫、2000年。</p><p> 最初の刊行は1972年。清水が学習院大学を辞めて独立したときのもの。研究ノート的な色彩が強いが、ノンジャンルの研究を始めたころの作品で、文体上の参考にもした。本書についてはヴィーコについての章もあるので、再び取り上げることになると思う。</p><div><div><b>取り組み方に関するメモ</b></div><div><br /></div><div> シュンペーターもウイーンの人なんだと唸るフレーズ。</div><div><br /></div></div><blockquote style="border: none; margin: 0 0 0 40px; padding: 0px;"><div><div style="text-align: left;"> 克服をではなく理解を、批判をではなく習得を、単なる是認もしくは否認をではなく、分析と各命題における正しいものの抽出とを、われわれは望むものである。(シュムペーター1983:7)</div></div></blockquote><div><div><span style="white-space: pre;"> </span></div><div>シュムペーター『理論経済学の本質と主要内容』大野忠男・木村健康・安井琢磨訳、岩波文庫、1983年。</div><div><br /></div><div> シュムペーター二五歳のときの著作デビューの大著の冒頭部分から引用。</div><div> 若きシュンペーターの考えに全面的に同意する。先行研究に対してクリティカルに取り組むのは当然だが、ポジティブなものが何も提示できないのでは困る。「結局、何が言いたいの?」と聴き直したくなる。先行研究の場合、学べる点を探し出すのが基本であり、そういうものがないのであれば、そもそも取り上げなければいい。とくに狭小な専門の壁に抵触する決意のもとでは、こういう態度が必要だと思う。</div></div><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-73797555957839125372022-02-14T15:20:00.004+09:002022-02-14T17:34:38.669+09:00セオリー道場001小説こそが生活世界を明るみにしてきた──ミラン・クンデラ『小説の技法』を読む<p>今回の読解対象</p><p>ミラン・クンデラ『小説の技法』第1部「評判の悪いセルバンテスの遺産」 西永良成訳、岩波文庫、2016、9-34ページ。</p><p>レッスンのポイント:長文引用練習</p><p> 詩については多くの詩論を読んできて、それなりに理解できていた。しかし小説についてはそうではなかった。小説の批評の方は理解できる。では、小説そのものは?</p><p> 半ばあきらめかけては小説論を読んでいたところの一冊。ここでは冒頭の論考「評判の悪いセルバンテスの遺産」にフォーカスを絞って考えてみたい。</p><p> 私の思考をわしづかみしたのは冒頭フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の元になった一連の講演から始まっていることだった。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> 死の三年前の一九三五年、エトムント・フッサールはウィーンとプラハでヨーロッパ的人間性の危機に関する有名な講演をおこなった。彼にとって「ヨーロッパ的」という形容詞は、古代のギリシャ哲学とともに生まれ、地理的なヨーロッパを越えて、(たとえばアメリカに)広がった精神的同一性のことを指している。古代のギリシャ哲学こそが〈歴史〉において最初に、世界(総体としての世界)を解決すべき問題として把握し、しかじかの実際的欲求を満たすためではなく「人間が認識の情熱にとりつかれた」がゆえに、世界に問いかけたというのである。</p><p> フッサールが語っている危機はじつに根深いものに思われたので、はたしてヨーロッパはこの危機の後も生き残ることができるかどうかと、彼自身が自問したほどだった。彼はこの危機の根源が近代の黎明期に、ガリレイやデカルト、すなわち世界を技術・数学的探求のたんなる一対象に還元して、その地平から人生の具体的世界、彼の言葉では「生活世界 die Lebenswelt」を排除したヨーロッパ諸科学の一方的な性格にあると信じていた。</p><p> 人間は諸科学の飛躍的な発展によって、様々に専門化された領域のトンネルに押しやられ、知識が増えれば増えるほど、世界の全体もじぶん自身も見失っていった。その結果、フッサールの弟子のハイデガーが「存在忘却」という美しく、ほとんど魔術的な言い回しで呼んだものの中に沈みこむことになった。</p><p> かつてデカルトによって「自然の支配者にして所有者」の地位にまで祭り上げられた人間は今や、人間を超え、人間を凌駕し、所有する諸力(技術、政治、〈歴史〉などの力)にとってはたんなる事物にすぎなくなった。これらの諸力には人間の具体的な存在、人間の「生活世界 die Lebenswelt」はもはやなんの値打ちも面白みもないものになって霞んでしまい、あらかじめ忘れられているのだ。(クンデラ2016:11-12)</p></blockquote><p> このときフッサールは大学教授の名簿から外され、国際学会への出張も認められず、事実上公的研究活動ができなかった。つまり自身も1933年に誕生したヒトラー政権から正式に排除された状態であった。この講演は1935年。ウィーンとプラハにおける講演である。このとき自由な学問活動は統一されたドイツでは不可能になり、中欧の歴史的都市においてなされたのである。</p><p> 勇み足で先取りをして言っておくと、彼自身を排除したナチズムは、ヨーロッパ近代のプロジェクトのゆがめられたヴァージョンだった。その分岐点にいるのはガリレイで、彼は自然の数学化に舵を切った。自然の数学化によるリアルな現実へのアクセス(それは絶えざる近似値への接近)だった。これによって生活世界のディテールは根こそぎ「存在忘却」されることになったというのである。</p><p> しかしクンデラは、それは近代の両義性を指摘したのであって、近代のプロジェクトには他の重要な知的潮流があるのだという。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> 私ならむしろ、このふたりの偉大な哲学者は、堕落であると同時に進歩であり、人間的なもののすべてと同じく、誕生のうちに終罵の萌芽を含んでいたこの時代の両義性を明るみに出したのだと言うだろう。このような両義性があるからといって、ヨーロッパのこの四世紀が貶められていいとは思えないし、哲学者ではなく小説家である私としては、なおさらそれに愛着を感ずる。というのも、私にとって近代の創始者はデカルトだけではなく、またセルバンテスでもあるからだ。(クンデラ2016:13)</p><p> このふたりの現象学者が近代を評価するさいに考慮するのを怠ったのは、おそらくセルバンテスだろう。つまり私は、哲学と諸科学が人間存在を忘却したというのが事実なら、セルバンテスとともに一つの偉大なヨーロッパの芸術が形成され、この芸術が当の存在忘却の探求に他ならないことが、よけい明瞭に分かると言いたいのだ。(クンデラ2016:13)</p></blockquote><p> セルバンテスに始発点を持つ、小説の伝統と進歩。これこそが忘却された生活世界を掘り起こしてきたとクンデラは主張する。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> じっさい、ハイデガーが『存在と時間』の中で分析し、これまでの哲学全体によって打ち捨てられていると判断した実存の主要なテーマのすべては、この四世紀のヨーロッパの小説によって明るみに出され、示され、解き明かされてきたのである。小説は固有の仕方、固有の論理によって、人生の様々な諸相を一つひとつ発見してきた。すなわち、セルバンテスの同時代人たちとともに冒険とは何かを問い、サミュエル・リチャードソンとともに「内面に生起するもの」を検討し、秘められた感情生活を明るみに出しはじめ、バルザックとともに〈歴史〉に根ざす人間を発見し、フローベールとともにそれまで「未知の大陸 terra incognita」だった日常性を探求し、トルストイとともに人間の決断と行動に介入する非理性的なものに関心を寄せた。小説は時間を測定して、マルセル・プルーストとともに過去の捉えがたい瞬間を、ジェームズ・ジョイスとともに現在の提えがたい瞬間を測定した。トーマス・マンとともに時代の奥底からやってきて、私たちの歩みを遠隔操作する神話の役割を問うた、等々。(クンデラ2016:13-14)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 小説は近代の端緒からたえず人間に忠実に伴ってきた。この端緒から、「認識の情熱」(フッサールがヨーロッパ的精神性の本質とみなす情熱)が小説にとりついて、小説は人間の具体的な生活を吟味し、これを「存在忘却」から保護して、「生活世界」に絶え間なく照明をあてることになった。この意味において、ただ小説だけが発見できることを発見することこそ小説の唯一の存在理由だ、と執拗に繰りかえし述べたヘルマン・ブロッホを私は理解し、彼に賛同する。それまで未知だった実存の一部分でも発見しない小説は不道徳であり、認識こそが小説の唯一のモラルなのだ。(クンデラ2016:14)</p></blockquote><p> フッサールがヨーロッパ的精神とみなす「認識の情熱」つまり「総体としての世界を問題として認識したい」という思考には、小説という系譜も存在するというのだ。そしてそれは近代の生活世界の方に照明を当てる。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 小説はヨーロッパの所産であり、様々な言語でなされていても、小説の諸発見はヨーロッパ全体のものだということである。諸発見の継承(すでに書かれたものの加算ではない)こそがヨーロッパの小説史となっているのであり、このような超国民的なコンテクストにおいてのみ、一つの作品の価値(つまりその発見の射程)が十全に検討され、理解されるのである。(クンデラ2016:14-15)</p></blockquote><p> ここで一区切り。一般的に小説はそれぞれの地域や国の環境や生活や風俗を描き出すと思われてきたと認識していたが、それは世界そのものを認識したいという、もう一つの方法だということだ。では、なぜそうした認識への欲求が小説というスタイルに結晶することになったのか。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 神がそれまで宇宙とその価値の秩序を統御して善悪を区別し、それぞれの事物に一つの意味をあたえていた場所からゆっくりと立ち去ろうとしていたとき、ドン・キホーテは家の外に出てみたものの、世界を世界として認識することがもはやできなくなっていた。〈最高審判者〉がいない世界は、突如恐るべき両義性をまとって現れ、神の唯一の〈真理〉は多数の相対的な真実に解体されて、人間たちがそれを分かちもつことになった。このようにして近代の世界、それとともに近代のイメージとモデルとしての小説が誕生した。(クンデラ2016:15)</p></blockquote><p> ここで述べられているのは、神なき世界としてのヨーロッパ近代のスタートラインで生じた認識上の混乱である。この混乱はおそらく視覚障害のあった人が手術によって視野を獲得したその瞬間に生じる混乱のようなものだと思う。あるいは逆に眼の病気によって視覚を喪失した人に生じる混乱のようなものかもしれない。後者については、梅棹忠夫『夜はまだあけぬか』(講談社文庫、1995年)に詳しい記述がある。あるいは幼少から幽閉されたまま育ったカスパル・ハウザーの例。しかし、ミクロな場面にフォーカスしていくと、それが必ずしも特殊な経験でないことはあきらかである。夏目漱石『三四郎』に始まる、地方の農村から都会に出てきた青年たちが共通に体験する混乱を想像してみればいい。これは前近代的社会から近代的世界に降り立った人間に共通する体験である。</p><p> このような事態をより一般化すると、現象学とその後継者たちが「自明性の喪失」と呼ぶ現象に他ならない。「自明性の喪失」は社会学でも広く使われている捉え方である。</p><p> デルタ株によるコロナ感染第5波の渦中にある現在の東京においても「自明性の喪失」による認識の混乱は続いている。時間と空間を共有し皮膚感覚で交流することによって親密な関係を築いてきた人たちの自明性は、ちょうど「図と地の反転」のように感染対策上の回避事項になっている。そういうとき、新しい状況において従来の認識を切り換えられない人たちや、ビジネスモデルを切り換えられない組織の人たちが、どうしていいかわからないまま居直ってみせることで感染は拡大し混乱がますます複雑化する。みんなパンデミックに投げ出されたドン・キホーテなのだ。</p><p> その混乱のなかで際立つのは多声性である。これまでは伽藍いっぱいを満たしてきた絶対者の声が相対的に小さく残響するように変化していく過程で、そこに置かれた人たちはくちぐちに問い・怒り・泣き叫ぶ。それら多数の声は、相互に反応し合って、複雑な残響を構成していく。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> セルバンテスとともに世界を両義性として理解し、唯一の絶対的な真理ではなく、互いに異論を唱え合う多数の相対的な真実(登場人物と呼ばれる想像的自我に体現される真実)に直面しなければならず、その結果、唯一の確信として不確信性の知恵をもつようになるのにも、やはり大きな力が必要とされる。(クンデラ2016:16)</p></blockquote><p> 小説の登場人物は作者によって創作された自我である。それら想像上の自我は小説空間の中でくちぐちに現状認識を語り、自分の心情を語る。同意する他の想像的自我があるかと思えば、ムキになって反論する想像的自我もある。小説空間において絶対的なワンヴォイスは存在しない。読者がそのような小説空間にひとたび入るや、相対的な真実が浮遊する世界を受け入れざるを得なくなる。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> 人間は善悪が明確に区別できる世界を願う。というのも、理解する前に判断したいという御しがたい生得の欲望が心にあるからだ。この欲望の上に諸々の宗教やイデオロギーが基づいている。これらは相対的で両義的な小説の言語を明白で断定的な言説の形に言い表せる場合にしか小説と和解できず、つねに誰かが正しいことを要求する。アンナ·カレーニナが偏狭な暴君の犠牲者なのか、カレーニンが不道徳な女性の犠牲者なのか、そのどちらかでなければならないのだ。あるいは、無実なKが不正な法廷によって粉砕されるのか、裁判所の背後に神の正義が隠れているのだからKは有罪なのか、そのどちらかでなければならないのだ。&nbsp;</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> この「どちらかでなければならない」ということの内に、人間的事象の本質的な相対性に耐えることができない無能性、〈最高審判者〉の不在を直視できない無能性が内包されている。このような無能性のために、小説の知恵(不確実性の知恵)を受け容れ、理解することが困難になるのである。(クンデラ2016:16)</p></blockquote><p> 結論が宙に浮いた状態に耐えられないという無能さ。むしろ「宙ぶらりんの恐怖」と呼ぶべきか。</p><p> 推理小説のように必ず結論に導いてくれるスタイルが好まれるのは、一度読み出したら結末まで読まないとおさまらないのは理の当然とも言える。「宙ぶらりんの恐怖」から逃げ出したいから。結末が存在するという確信があるから。</p><p> 物語構造が繰り返し使用される作品群が並列的に林立するのも「和解」の仕方なのだろう。キャンベルの言う「ヒーローズ・ジャーニー」にせよ折口信夫の「貴志流離譚」にせよ、物語のプロットはある程度収斂する。収斂するから物語だとも言える。物語において読者はある程度の予測を立てて読むから、途中で投げ出さない。</p><p> この場合、解決へ向かっているのだと確信できることが重要で「すべては回収される」との確信があるから「宙ぶらりんの恐怖」に耐えられるのだ。ジェットコースター(絶叫マシン)もかならず帰還できるから耐えられる。この場合はむしろ「システムへの信頼」と言うべきなのかもしれないが。</p><p> ここからは20世紀的世界認識に入る。そこで小説空間が遭遇するのは理由なき権力の姿である。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> 力は露骨、カフカの小説におけるのと同じように露骨なのである。じっさい、法廷がKを処刑することによってなんら得るものがないのと同様、城は測量士をやきもきさせることによってなんの得をするわけでもない。(クンデラ2016:21)</p><p> いや、ちがう。力の攻撃性はまったく利害を超えたもの、動機のないものであり、それはおのれの意欲しか欲せず、ただたんに不合理なものなのだ。(クンデラ2016:21)</p><p> したがってカフカとハシェクは、次のような途方もない逆説に私たちを直面させる。すなわち、近代のあいだ、デカルト的理性は中世から引き継がれたあらゆる価値を一つひとつ腐食させていった。だが、理性の全面的な勝利の瞬間に世界の舞台を占拠することになるのは、たんに不合理なもの(ただおのれの意欲しか欲しない力)なのだ。なぜなら、この不合理なものを阻止できるような、共通に認められた価値体系などもはや何もないのだから。(クンデラ2016:21-22)</p></blockquote><p> クンデラがフッサールとハイデッガーを通して指示している「デカルト的理性」という近代的なるものは、社会学で「システム」と呼ぶ一連の制度構成体のことだと思う。ハーバーマスの有名な対立図式を借りると「システムによる生活世界の植民地化」において生起する状況のことだと理解していいと思う。クンデラの意をくむと「植民地化」の代わりに「侵食」と呼んでもいい。</p><p> この不合理な力を二〇世紀小説はどのように描いたか。クンデラは次のように総括する。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> 人間がただおのれの魂の怪物とだけ闘っていればよかった最後の平和な時代、ジョイスとプルーストの時代は過ぎ去った。カフカ、ハシェク、ムージル、ブロッホらの小説では、怪物は外からやってくる。それが〈歴史〉と呼ばれるものだが、この怪物はもはや冒険家たちの列車とは似ても似つかない、非人格的で、統御も計測もできず、理解を超える──そして誰も逃れられないものだった。この時(一九一四年の戦争直後)に中央ヨーロッパが輩出した偉大な小説家たちは、近代の最後の逆説に気づき、触れ、捉えたのだった。(クンデラ2016:23)</p><p> 逆に、これらの小説家たちは「ただ小説だけが発見できること」を発見する。(クンデラ2016:23)</p></blockquote><p> 例えばマックス・ウェーバーが官僚制について、あるいは国家について、あるいはカリスマの日常化と教団・教義の構築について述べるとき、そして「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」で、もとは「絶対的孤独の感情」から個人として覚醒した信徒たちのBerufから離陸した資本主義というシステムがやがて個人のそうした心情とはまったく無関係に作動する巨大な自動機械になっていくプロセスを描いてみせたように、近代というプロジェクトの無慈悲で無責任なありようを、カフカのような小説家は、そのとんでもなく不条理な設定と展開でもって指し示しているのである。ウェーバーが「鉄の檻」と呼んだものをカフカは「城」と呼ぶ。</p><p> 「鉄の檻」も「城」も徹底的な一元化システムであるから、多様で多声的で両義的な生活世界を表現する小説は、必ずそのような強大な力と対立する。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> 人間的事象の相対性と両義性に基盤を置く世界のモデルとしての小説は、全体主義の世界とは両立できない。この非両立性は異端派と共産党幹部、人権擁護派と拷問者をへだてる非両立性よりもさらに根深い。なぜなら、この非両立性は政治的もしくは道徳的であるばかりか、存在論的なものだからだ。これは唯一の〈真理〉に基づく世界と両義的かつ相対的な小説の世界とは、それぞれまったく別の質料によってつくられているということに他ならない。全体主義的な〈真理〉は相対性、懐疑、問いかけを排除し、したがって私が小説の精神と呼びたいものとは断じて和解できないのである。(クンデラ2016:26)</p><p> スターリン主義の帝国では、小説史はほぼ半世紀前に停止している。したがって、小説の死というのはなんら根拠のない考えではなく、すでにじっさいに起こったことなのだ。そして私たちは今や、小説がいかにして死にかけるものかを知っている。つまり小説は消滅するのではなく、その歴史が停止し、あとに残るのがただ反復の時代であり、そこでは小説がその固有の精神を取りのぞかれた形式を再製するのみである。だからそれは誰にも気づかれず、誰にも衝撃をあたえない、隠された死になるのだ。(クンデラ2016:27)</p></blockquote><p> ここで語られているのは、全体主義における発禁、検閲、イデオロギー的圧力による小説の終焉である。小説というジャンルがなくなるわけではなく、ありきたりのパターンをひたすら反復するだけになって、次に開くべき局面が現れなくなってしまうということである。お決まりのパターンを何度でも繰り返すだけの、スタイルとして意外性のないマス・プロダクトな小説群は夥しい数量で生産され続けるだけで、世界認識の新しい局面を切り拓くことがないというのである。</p><p> こうなるプロセスをクンデラは次のように描いている。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> だが残念ながら、小説もまた、世界の意味だけでなく作品の意味をも還元する還元の白蟻にさいなまれる。小説は(文化全体と同様)ますますメディアの掌中に握られ、地球の歴史の統合を代行するこのメディアが還元の過程を増幅し、誘導する。彼らは最大多数に、みんなに、人類全体に受け容れられるような同じ単純化と紋切り型を全世界に配給する。だからいろんな機関で様々に違った政治的利害が表明されることなどはさして重要ではない。この表面上の違いの蔭には共通の精神が支配しているのだから。左派であれ右派であれ、《タイム》誌から《シュピーゲル》誌までのアメリカやドイツの政治週刊誌にざっと目を通すだけで充分だ。彼らはいずれも同じ人生観をもち、この人生観が目次構成の同じ順序、同じ見出し、同じジャーナリズム形式、同じ語彙と文体、同じ芸術趣味、彼らにとって重要なものと無意味なものとが判断される同じ序列などのなかに反映されている。様々な政治的違いの蔭に隠されているマスメディアのこのような共通の精神が私たちの時代精神なのであり、この精神は小説の精神とは反対のもののように私には思われる。(クンデラ2016:31)</p></blockquote><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 小説の精神とは複雑性の精神であり、それぞれの小説は読者に「物事はきみが思っているより複雑なのだ」と言う。これが小説の永遠の真実なのだが、この真実は問いに先立ち、問いを排除する単純で迅速な答えの喧騒の中ではだんだん聞かれなくなる。私たちの時代精神にとっては、正しいのはアンナなのかカレーニンなのかであり、知ることの困難さと真実の捉え難さを語るセルバンテスの古い知恵などは迷惑で無益に思われるのだ。(クンデラ2016:31-32)</p></blockquote><p> 「還元の白蟻」というのは、ものごとをステレオタイプに還元して終わりにしてしまう作用のことである。ものごとの複雑さに耐えることができないから単純化してしまう乱暴なやり方こそが現代の時代精神なのだろう。誰でも知っている既成の方程式に変数を入れるだけの処理。社会学ではおなじみの「システムの複雑性の縮減」がまさに複雑性を複雑なままに表現する小説の精神をなぎ倒すのである。</p><p> クンデラは「還元の白蟻」について次のように描写する。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 地球の歴史の統合、意地悪くも神が達成を許したこのヒューマニストの夢は、目が眩むほどの還元の過程に伴われている。還元の白蟻たちが久しい以前から人間生活を蝕み、最高の愛すらも結局取るに足らない思い出の残骸にされてしまうのは事実である。しかし、この呪いは現代社会の性格によって途方もなく強化される。人間の生活はその社会的な機能に還元され、一国民の歴史はいくつかの出来事に還元され、これらの出来事が今度は一つの片寄った解釈に還元される。社会生活は政治的な闘争に還元され、この政治的な戦いはただ地球の二大強国の対決に還元される。人間はまさしく還元の渦巻きの中にいて、そこではフッサールが語った「生活世界」はどうしても霞んでしまい、存在は忘却の中に落ちこんでしまう。(クンデラ2016:30)</p></blockquote><p> このような「還元の白蟻」の典型として、ブロッホが抵抗した「キッチュ」がある。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> もう一人の大小説家、ヘルマン・ブロッホはキッチュの波に逆らうけれども、結局打ちのめされる現代小説の英雄的な努力について語ることになります。キッチュという言葉は何が何でも、最大多数の者たちに気に入られたいという態度を指します。気に入られるためには、みんなが聞きたがっていることを承認し、紋切り型の考えに奉仕しなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えという愚行を美と感動の言葉に翻訳することです。キッチュは、私たちがじぶん自身、私たちが考え、感じることの凡庸さにほろりとして注ぐ涙を引き出します。(クンデラ2016:228)</p></blockquote><p> コロナ禍にあって東京オリンピックが開催されている現時点でこれを読んでしまうと、テレビが視れなくなる。今さらではあるが、まさにテレビはこうした還元の装置である。</p><p> 「還元の白蟻」については、本書第7部の「エルサレム講演」の結び近くに「世界の出来事の因果的連続への還元」についての記述がある。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 十八世紀の合理主義はライプニッツの有名な文句「理由なく存在するものは何もない(nihil est sine ratione)」に基づいています。このような確信に刺激された科学は万物の何故を熱心に検討し、その結果、存在するものすべてが説明でき、したがって計算できると考えるようになりました。じぶんの人生になんらかの意味があることを願う人間は、原因も目的もないようなどんな行いも断念することになり、あらゆる伝記はそんなふうに書かれることになります。人生は原因、結果、失敗、それに成功の明るい軌跡として現れ、人間はみずからの行為の因果関係を示す繋がりにじりじりと眼差しを注ぎ、死に向かう狂おしい走行をますます速めることになります。(クンデラ2016:225-228)</p></blockquote><p> すべての物事をありきたりな因果関係に還元するというのも「還元の白蟻」なのである。それはなぜか。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> ポエジーは行動の中ではなく、行動が中断するところ、原因と結果のあいだを繋ぐ橋が砕け、思考が甘美で無為な自由をさ迷うところにあると言うのです。スターンの小説は、実存のポエジーは逸脱の中にこそあると言っているのであります。それは計算できないものの中、因果関係の反対側に、理由がないまま(sine ratione)に、ライプニッツの文句の反対側にあるのだ、と。(クンデラ2016:226)</p></blockquote><p> このような例としてクンデラはフローベールによる「愚行の発見」を取り上げる。これこそ一九世紀最大の発見だと言う。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> もちろんフローベール以前にも、愚行が存在することを疑う者はいませんでしたが、それはすこし別なふうに理解され、たんに知識の欠如、教育によって正されうる欠陥と見なされていたのです。ところがフローベールの小説では、愚行は人間の実生活と不可分の側面になり、日々の生活を通して、愛の床や死の床まで哀れなエンマにつきまとうのです。(クンデラ2016:226?)</p><p> しかし、フローベールの愚行の見方において、もっともショッキングでスキャンダラスなのは次のこと、すなわち愚行は科学、技術、進歩、現代性などを前にしても消えることなく、逆に進歩とともに、愚行もまた進歩する!ということなのです。(クンデラ2016:227)</p><p> フローベールは底意地の悪い情熱を傾けて、じぶんの周囲の人々が利口であり、事情に通じていると見せようとして口にする、紋切り型の決まり文句を収集し、これをもとに有名な『紋切り型辞典』を作りました。この表題を使ってこう言いましょう。現代の愚行とは無知ではなく、紋切り型の考えの無−思考を意味しているのだ、と。フローベールのこの発見は、世界の未来にとって、マルクスやフロイトのもっとも衝撃的な考えよりずっと重要です。なぜなら、階級闘争のない、あるいは精神分析のない未来を想像できても、紋切り型の考えの抗しがたい増大のない未来は想像できないからです。紋切り型の考えはコンピューターのなかに登録され、マスメディアによって伝播されて、やがてどんな独創的で個人的な思考をも押しつぶし、その結果、近代のヨーロッパ文化の本質そのものを窒息させる力となりかねないのです。(クンデラ2016:227)</p></blockquote><p> では、当のフローベールはどのような小説を思い描いていたのか。気になるのでフローベールの書簡から引用しておく。いかにして紋切り型から距離を取るかについての決意と読める一節。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> ぼくにとって美しいと思われるもの、ぼくが書いてみたいもの、それは何についてでもない書物、外部との繋がりをもたず、地球が支えもなく宙に浮かんでいるように、文体の内的な力でみずからを支えている書物、できれば主題がほとんどないか、少なくとも主題がほとんど見えないような書物です。最も美しい作品とは、最も素材の少ない作品です。表現が思考に近づけば近づくほど、語は思考に密着して消えてゆき、いっそう美しくなる。(堀江敏幸編2016:732)</p></blockquote><p> このような志の高さは、たんに純粋なのではない。それは抵抗の精神である。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 私が知っていると信じるのはただ、小説がもはや私たちの時代精神とは平和に生きられないということだけだ。もし小説がなお、発見されていないものを発見しつづけたいのであれば、なお小説として「進歩」したいのであれば、世界の進歩に抗してしかそれをなしえないのだ。(クンデラ2016:33)</p></blockquote><p> 生活世界の複雑な事実を「存在忘却」から守ることに小説の意味があるとするクンデラの議論に照らして、あるいはクンデラが「小説の知恵」と呼ぶことに照らして(クンデラ2016:220)ここで自分の立ち位置について思うことは、生活世界の事実は複雑なディテールの内部にしかないということ、数学化やアルゴリズム化による機械的単純化に抵抗し立ち向かわないかぎり、生活世界の事実の理解はできないということだ。まずはノーと言うこと。</p><p> 最後に、私自身のための読書案内をしておく。</p><p> クンデラは「聞き届けられなかった呼びかけの墓場」としての小説の歴史を次のリストにまとめている。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p>遊びの呼びかけ:軽さ(ディドロ)</p><p>夢の呼びかけ:夢と現実の融合、想像力の爆発(カフカ)</p><p>思考の呼びかけ:知的な総合(ブロッホとムージル)</p><p>時間の呼びかけ:個人生活の時間から解放された集団の時間とヨーロッパの時間への拡大(ブロッホ、アラゴン、フエンテス)(クンデラ2016:28)</p></blockquote><p> こうしてみるとカフカ以外の作家の小説を読んだことがない。たとえば、ブロッホについては、最近『希望の原理』を入手したばかりで、小説としては長編の『誘惑者』が筑摩書房の古い筑摩世界文學大系にあり、後継のセレクト集である世界文学全集にも収められていた。どちらもかなりな大著である。世界文学全集は全巻揃いを購入したので、たいていの作家の作品は読める。筑摩世界文學大系については、こういう作業の中で端本を一冊ずつ買っている。ムージルについては、同じ全集に中編小説4編が収められていた。有名な『特性のない男』はレーヴィットが参照していたことがあって大昔から探しているが、翻訳はムージル全集に収められたものしかなく、長編であることもあってかなり高価になっている。アラゴンとフエンテスについてはまったくわからない。その点では、入手しやすいカフカを優先的に読みたいと思う。そして、そもそもセルバンテスの『ドン・キホーテ』について私はほとんど手に取ったことがなかった。完全版は筑摩世界文學大系にある。簡略版が集英社文庫ヘリテージシリーズ『ポケットマスターピース13セルバンテス』にある。派生ストーリーをカットして短くしたもので、私はこれで挑戦しようと思う。これだと四〇〇ページ。</p><p> 積み残し。1度は論じたいと思った引用なので、資源ゴミとして引用だけを記録しておく。</p><p> 第2部の「小説の技法についての対談」では次のような発言があった。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 人間と世界はかたつむりとその殻のように結びついているのであり、世界は人間の一部であり、人間の次元であって、世界が変わるにつれ、実存(in-der-Welt-sein)もまた変わるというものです。(クンデラ2016:55)</p></blockquote><p> 第3部の「『夢遊の人々』によって示唆された覚書」では、ブロッホの小説が明らかにした「象徴の森」について次のように述べている。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> 個人的なものであれ集団的なものであれ、あらゆる行動の基になっているのが混同のシステム、象徴的思考のシステムだと、ブロッホは私たちに理解させる。この非合理的なシステムが理性による考察よりもどれだけ私たちの態度を変えるものか見るには、私たち自身の生活を検討するだけで充分だ。(クンデラ2016:92)</p><p> もう一度ボードレールの詩を引けば、人間は「象徴の森」の中で迷っている子供だ。(成熟の基準とは、象徴に抵抗する能力に他ならない。しかし、人類はますます幼稚になっていく。(クンデラ2016:93)</p></blockquote><p> 同じ論考から。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> あらゆる偉大な作品には(そしてまさしくそれが偉大な作品だからこそ)未完成な部分がある。ブロッホは彼が達成したすべてのものだけではなく、目指したが到達できなかったすべてのものによっても私たちの創作意欲を掻きたてる。彼の作品の未完成の部分は私たちを次のような探求に誘うのだ。(1)徹底した簡略化の技法(このおかげで構築的な明瞭さを失わずに現代世界における実存の複雑性を見わたすことができる)。(2)小説的な対位法の技法(これによって哲学、物語、夢が唯一の音楽に接合できる)。(3)小説に特有のエッセーの技法(すなわち明白なメッセージをもたらそうとするのではなく、あくまで仮説的、遊戯的、イロニー的なものとしてとどまるエッセーの技法)である。(クンデラ2016:96)</p></blockquote><p> 94ページを参照して上記を解釈すると、(1)は「ただ小説だけが発見できるもの」を追及できるということ。(2)は「小説には並外れた統合力があること」。(3)は小説は「遊びと仮定の領域」にあり、小説の外にある「断定の領野」にはないということ。これは112ページを参照。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: left;"> 小説精神とは継続性の精神であり、それぞれの作品は先立つ作品への答えとなり、それぞれの作品の中には先行する作品の経験がそっくり含まれている。しかし私たちの時代精神は今日性(アクチュアリテ)の上に固定されている。今日性はじつに外向的で夥しいから、私たちの地平から過去を追い払い、時間を唯一現在の瞬間に還元してしまう。このような体系の中に加えられる小説はもはや作品(持続し、過去と未来を繋げるべきもの)ではなく、他の出来事と同じような今日の出来事、明日のない行為になってしまうのである。(クンデラ2016:32)</p></blockquote><p> 平和にではなく戦争によって一体化する世界について。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px; text-align: left;"><p> たとえば近代は様々な個別の文明に分かれていたが、いつの日か一体性を、そして一体性とともに、永遠の平和を見出す人類という夢をはぐくんできた。こんにち、地球の歴史は分割できない一つの一体性を成しているが、久しく夢みられてきたあの人類の一体性を実現し保証しているのは、たえず所を変える恒常的な戦争なのだ。人類の一体性とは、誰も、どこにも逃れられないということを意味するのである。(クンデラ2016:22)</p><p> かつては私もまた、私たちの作品や行動を裁く唯一適格な審判は未来によってなされるとみなしていた。のちになって、未来との馴れ合いは最悪の順応主義であり、最強者への卑劣な追従だと理解した。というのも、未来はつねに現在よりも強いからだ。じっさい、私たちを裁くのはたしかに未来なのだろうが、しかしそれはきっといかなる適性もなしに、なのである。(クンデラ2016:33)</p></blockquote><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]2tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-62215628617068467102022-01-19T18:11:00.007+09:002022-01-19T18:41:02.347+09:00経済学部のすべての人のための表現プラットフォームの検証実験的研究(平成30年度学部共同研究費)<p>平成30年度学部共同研究費による共同研究報告書</p><p>野村一夫</p><p>経済学部のすべての人のための表現プラットフォームの検証実験的研究</p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/a/AVvXsEhaJ_AUNAvPw8q4xthLAGvz9xZ31oI1sxRhYQCTEZmqgK5Slqc0dWpDBtdIJ9p7ZiJfkLRMteGWTium6_pQXASdoYuIV04ypV0yEUVZVXy9kw740jJieLxqZz8p_b8NyEj4kSDwPPb4TlTMj5BP9KuA4fyVJpNrMXz6UQVxgQ_5FZ5u2CnZ2lt7dZij6w=s1482" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1482" data-original-width="1454" height="433" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/a/AVvXsEhaJ_AUNAvPw8q4xthLAGvz9xZ31oI1sxRhYQCTEZmqgK5Slqc0dWpDBtdIJ9p7ZiJfkLRMteGWTium6_pQXASdoYuIV04ypV0yEUVZVXy9kw740jJieLxqZz8p_b8NyEj4kSDwPPb4TlTMj5BP9KuA4fyVJpNrMXz6UQVxgQ_5FZ5u2CnZ2lt7dZij6w=w425-h433" width="425" /></a></div><br /><p>研究概要および研究成果</p><p> 本研究は、平成28年度から継続してきた学内研究助成プロジェクトのまとめとして学部内で使用できるマニュアルを制作するプロジェクトである。これまでメディア制作を中心とする活動は、ゼミなどの演習系授業にかぎられていた。緊密な指導と膨大なコミュニケーションがないと頓挫するからである。</p><p> この実績の上で、本研究では学部全体への拡大共有を目指した。なぜなら本学経済学部は表現活動全般において決定的に弱いからである。とくに能動的な日本語作文ができない。学生たちは自分が書いた文章を積極的に公開したり共有したりしない。いわゆる発信力も異常に弱い。ソーシャルメディア上において大人としての言論活動をおこなっている者はごくごく少数である。</p><p> セカンドマシンエイジと呼ばれて久しい現代において、これでいいわけがない。メガバンク採用における一般職の消滅に見られるように、機械的な作業マシンとしての事務仕事は劇的なスピードでスマートマシンに置き換わっていく。能動的な日本語表現が不得手な者たちは淘汰され、その分、知識豊富で表現の達者なコンサルティング的な仕事が増えていく。英語やデータ分析などの能力はその次である。と言うか、それらはスマートマシンに置き換え可能な段階に来ていると私は判断している。それがどこまで進んでいるかに関する知識が欠落しているから方向を読みまちがえる。</p><p> 母語による表現と思考の不断の活動が、世界に循環する多様な知識を能動的に摂取し吟味し、それを駆使して問題を定義し問題解決できるようになる。そのレッスンをどのような手順でおこなうかを考えることこそが高等教育の喫緊の課題である。</p><p> 本研究プロジェクトで実施できたのは次の項目である。</p><p>(1)作業上必要なタイムラインを確保する。ケースマにはそれがない。Workplace by Facebookを運用して2年になるが順調である。アカデミックとして登録してあるので無料である。学部全体を網羅することがすでに可能である。</p><p>(2)作業上必要な執筆場所を確保する。Stockは有料だが、アカデミックを設定してもらったので、予算化できれば拡大して使用できる。これは文書中心の業務用クラウドである。ギガ単位の大きなファイルもそのまま取り込める。学生たちは、こちらが使いよいと言う。</p><p>(3)Workplace by FacebookもStockも完全にクローズドなので、著作権のある現役の書籍も共有できる。いわゆる自炊をすれば、ゼミ程度の単位であれば共有できる。しかもビューアーも内蔵されているので、そのままの状態で閲覧できる。今回は行動経済学の文献を共有した。</p><p>(4)多様な表現スタイルで記録する。記録しないかぎり、来たるべき他者とは共有できない。記録されないその場限りの表現では、その場しのぎの態度を放置してしまいかねない。いつでも再現可能でなければならない。</p><p> これらに対して本研究プロジェクトでできなかったことは次の項目である。</p><p>(1)他の研究助成プロジェクトとともに大幅に始動が遅れ、制作物も納期ぎりぎりになり、普及活動がまったくできなかった。</p><p>(2)試作品として3年ゼミ生34名に企画から版下制作までチーム単位で自主的に制作させたが、総じて幼児帰りを起こして低水準のものしかできなかった。これだけ経験を積ませた学生たちでも、朝な夕なの指導をしなければ、ちゃんとしたものにならない。</p><p> 評価と課題。</p><p> 志は高く持ちたいが、学内および学部内での普及は絶望的であるというのが結論である。グロスハックの発想で経済学部のために手のかかる開発研究をしてきたが、総じてこの大学でできることは少ない。今後は本学から離れて、全面的にインターネット上で展開することにした。</p><p><br /></p><span><a name='more'></a></span><p><br /></p><p># 平成29年度特別推進研究助成金報告書</p><p>## 平成29年度 國學院大學特別推進研究助成金 研究成果報告書(概要)&nbsp;</p><p>## 平成30年9月26日&nbsp;</p><p>決定番号  國特推助第98号</p><p>研究代表者  野村 一夫(経済学部 教授)</p><p>研究課題名   中間知識とメゾメディア:高等教育パラダイムの応用倫理的転回</p><p>研究経費  1,640千円</p><p><br /></p><p>### 研究の概要</p><p><br /></p><p> 本研究は、平成29年度国内派遣研究員として大阪大学COデザインセンター招へい教授であった期間の後半を当てて実施したものである。私の中間知識論は理論的側面と実践的側面を持っているが、本特別推進研究では実践的側面の検証に充てることにした。支給金額に合わせて実地検証の対象学生を2年新ゼミ生34名に限定することに変更し、後期授業で8冊の新書本を制作することにした。今回は「論文の卵の産み方」というシリーズとして情報源とフォーマットをきっちり指定して総計約千ページをすべてクラウド上で執筆・編集・制作させた。プロセスは以下の通りである。&nbsp;</p><p>A 研究ワークフローの設計:メディア制作を主軸にするアクションリサーチの手法を採用する。被験者のサポート体制を整備する。&nbsp;</p><p>B スタートアップ:ゼミ生の選抜ができた6月1日からWorkplace by Facebook(アカデミック)に全員を登録して連絡体制を作った。サポートスタッフとしてゼミOBOGやメディア系コンサルタントを招待して協力を仰いだ。Workplace by Facebookはニュースフィードが流れてしまうきらいがあったので、まとめ用としてベータ版がリリースしたばかりだったリンクライブ社のStockを使うことにした。&nbsp;</p><p>C キックオフ:今回は24冊の課題図書を提示して8チームがそれぞれ3冊を担当して、チーム全員がその3冊を読んで、引用文を出し合い、それをチームの課題に合わせてキュレーションをして選択させた。この引用文を主軸にして、各項目2ページと決めて、次のように編集するよう求めた。タイトルを付ける。引用文と文献注を付ける。解説を書く。キーワードをハッシュタグ付きで書く。討議用資料として使えるように論点をまとめる。担当者としてのコメントを書く。参考文献情報を書く。これを「論文の卵」と呼ぶことにして、これを被験者全員で500項目を作成した。トッパンエディナビを使用して版下を被験者が制作して、それを相互チェックし、各チームの体裁や用語法を統一した。最後の振り返り本は期間内試験終了を待って2週間で企画・分担執筆・デザイン・版下制作・校正・校閲をおこなった。&nbsp;</p><p>D トランスモード:「論文の卵の産み方」シリーズを題材に1セッション10分間のラジオトークをWorkplaceに記録した。約80セッションを収録。ここまでで研究対象とするコンテンツが出そろったことになる。報告書ではこれを整理して今後の研究の分析対象・引用元とする。&nbsp;</p><p><br /></p><p>### 研究成果の概要</p><p>研究成果の概要</p><p> 私の中間知識論では「認知科学的転回」の帰結として、知識が教授され伝達されるものではなく、能動的な主体による学びとしてコミュニケーションの過程でそのつど新たに創造されるものだと考える。エンコーディングとデコーディングの循環過程に学生を参加させる状況を作り出して、そこに正統的周辺参加させることで主体的学習が生じると考える。ただし、そのような創造的局面を実現するには明確な目標設定と有効な手段や環境、そしてバックヤードの膨大なコミュニケーションが必要である。今回はその具体的な環境設定を実地検証するものであった。</p><p> 被験者学生によって制作された「論文の卵の産み方」シリーズは以下の通り。</p><p>『弱気で頑固な自分の動かし方』</p><p>『パッとしない自分をスイッチする』</p><p>『他人を変える、自分を変える、関係を変える技術』</p><p>『腑に落ちるデザイン』</p><p>『学び方を学び直す』</p><p>『弾けるアイデアをひねりだす』</p><p>『遠くの雲のつかみ方』</p><p>『正しいチームワークの編み出し方』</p><p> 以上新書8冊を刊行したのち振り返り本として『アクティブラーニング授業の作品化プロジェクト全行程』を刊行した。このような学生自身による本づくりは半年の課題としては、かなり重いものである。そのバックヤードでなされたコミュニケーションの総量はプリントアウトすると優に600ページを超える。とりあえず平成29年度の研究成果としては、この全プロセスのロウデータを整理して、次につなぐことである。</p><p> 一方、平成30年度科研費申請における進展について報告したい。これまで私は単独で研究計画を立ててきたが、派遣研究先の池田光穂・大阪大学教授(COデザインセンター副所長)と共同で研究することになり、Facebook上でも、研究室でも、相当な分量のやりとりをおこなって「社会知の理論」に絞って申請することにした。研究課題は「知識理論の再編による社会学教育の再構築とコミュニケーションデザイン」というもので、社会学領域の挑戦的研究として申請したが、科研費自体は不採択だった。これまでの苦い経験から、オフィシャルなプロジェクトにしておかないと後発組に「なかったもの」にされてしまうので再度挑戦する。ただし、当初計画した書き下ろしの著作シリーズではなく、ウェブ上で展開するリゾーム状の公開形式への転換を考えている。https://socius.jp</p><p> 専門家の知識を学生に教授すればよしという「知識のティーチングモデル」はグーテンベルク以来最大の情報環境の変動によってほぼ破綻している。学習者主軸の「知識のラーニングモデル」への転換は必至である。これは理論的には「知識の認知科学的転回」として理解すべきであり、その具体的実践には情報メディア環境の周到な考察が欠かせない。</p><p> 平成31年度科研費申請については、大阪大学の池田教授と理論面での研究を計画している。できればカリキュラム案まで提示したいと考えている。挑戦的研究の審査に社会学者があまりいないことを鑑み、科学論分野で申請する予定である。</p><p><br /></p><p>## スタートアップからキックオフへ</p><p> 科研費が不採択となったため本学特別推進研究助成に申請したが規模を縮小せざるをないと判断して、経済学部全体を対象とするのをあきらめ、野村ゼミ2年生のみを対象とすることにした。Workplace by Facebookの日本語版がリリースされたばかりであったので、それをアカデミック申請して、それを主軸にプロジェクトをおこなうことにした。そこへの投稿はすべてアーカイブ化されている。また、そのエッセンスをStockに整理しつつ進行させたので、それをそのまま掲載して、プロジェクトのブループリントの提示としたい。</p><p><br /></p><p>### 野村ゼミ13期生 ゼミ手帖【ゼミ初日キックオフ用】&nbsp;</p><p>2017年度後期用&nbsp;</p><p>MesoMediaFab</p><p>&nbsp;平成29年度國學院大學特別推進助成採択プロジェクト&nbsp;</p><p>「中間知識とメゾメディア:高等教育パラダイムの応用倫理的転回」</p><p>&nbsp;研究代表者・野村一夫 </p><p><br /></p><p>### 01 3分でわかる野村ゼミ</p><p>**■ ゼミのテーマ**</p><p>トランスメディア環境におけるクリエイティプの条件</p><p>**■ゼミの目標**</p><p> 多様なメディアが情報の玉突きをするトランスメディア環境において、多彩な能力を発揮するプロデューサー的存在になるためのレッスンを主軸にする。この複雑な社会の中では、適切に「つなぐ人」が、多くの人びとや組織を創造的なネットワークに組み入れるのだ。「つなぐ人」に必要な知識と能力を学ぶ。そして有能な「つなぐ人」を目指す。</p><p>**■ゼミの到達目標**</p><p>1. 現在のトランスメディア環境について総合的に知識を学ぶ。ジャンルや技術の枠組みにとらわれない視野を獲得する。</p><p><br /></p><p>2. 速攻で何でも作ってしまうクリエイターとして、いつも作品あるいはプロダクツを制作できる人になる。</p><p>3. 即興的に自在なコミュニケーションができる人になる。</p><p>4. 誰にも負けない読書力をつける。</p><p>5. 好きとか嫌いとかにとらわれない高いレベルの対話的知性をゼミに生み出す。</p><p>**■ゼミの5つのエンジン**</p><p>1. ノンジャンル(好奇心いのち! 好きか嫌いかはどうでもいいじゃん)</p><p>2. 速攻(前のめりでスタートダッシュ! スピード感を優先する)</p><p>3. プロダクト(ひたすら作品づくり! 作ってみないとわからない)</p><p>4. 即興と対話(手ぶらで何が言えるか、何ができるか、何をわかりあえるか)</p><p>5. オープンなマインドセット(すべて公開する不屈の根性)</p><p>**■ゼミの作品形式(メゾメディア)**</p><p>レベル1(非公開コンテンツ):Workplace、WorkChat、Stock、ゼミ内プレゼン、企画編集会議、対話、討論、メゾメディア工房(815研究室)でのティータイム</p><p>レベル2(公開コンテンツ):名刺、パンフレット、新書、ラジオ番組、公開ウェブ。</p><p>レベル3(作品としてのゼミ):ドキュメンタリー</p><p>**■演習1(2年後期)でやること**</p><p>1. 名刺をつくる。(9月)</p><p>2. ゼミの手帖をつくる。(9月)</p><p>3. 新書8冊をつくる。(クリスマスまで)</p><p>4. 新書をもとにラジオトークする。(1月)</p><p>**■使用するクラウドツール**</p><p>1. Workplace by Facebook(ゼミ活動をタイムラインで共有)</p><p>2. WorkChat(かんたんな打ち合わせ)</p><p>3. Stock(完成稿ストック)</p><p>4.&nbsp; [G-Suit(@kgi.tokyo)Googleエデュケーション](mailto:G-Suit%EF%BC%[email protected]%EF%BC%89Google%E3%82%A8%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3)&nbsp;</p><p>5. Toppan Editorial Navi(トッパンエディナビ・ゼミの手帖と新書制作)</p><p>6. プリスタ( [http://www.printsta.jp/](http://www.printsta.jp/) ・名刺制作)</p><p>7. MEME PたAPER(リーフレット、カタログ)</p><p><br /></p><p>いっしょに危ない橋を渡ろう!</p><p>### 02 野村ゼミ名簿</p><p>経済学部史上かつてない陣容! 情報共有とチームワークで乗り切ろう!&nbsp;</p><p>●野村ゼミ13期生一覧</p><p>(省略)</p><p>### 03 メゾメディアとは何か</p><p> 「メゾメディア」という概念は、2016年度におこなった「国学院大学 特色ある教育研究」に採択された「すべてクラウドによる授業の作品化」プロジェクトで初めて提案した概念です。私の造語です。</p><p> **メゾメディアとは、配付範囲あるいは到達範囲を限定したメディアの総称です。**マスメディアは全面公開が原則です。だれでも一定の条件を満たせば、情報・知識・コミュニケーションを得ることができるメディアです。たとえばテレビを買えば誰でも番組を観ることができるというように。</p><p> 逆に「通信」と言われるメディアは、一般に公開されません。当事者同士でコミュニケーションをおこなうためのメディアです。</p><p> 「メゾメディア」と呼びたいメディアは、マスメディアと通信メディアの中間領域にあります。**ある一定の範囲で共有するけれども、共有範囲が明確に定義されていてコントロールできるメディアのことです。**SNSはその典型です。</p><p> 2016年度のプロジェクトでは、大学教育における成果物の適切な公開について、主として2つのメゾメディアを使用しました。</p><p> 1つはトッパンエディトリアルナビとオンデマンド印刷を組み合わせて新書シリーズを刊行しました。私のゼミやクラスだけでなく、他の先生のフィールド調査報告書やシンポジウムの記録を制作しました。いずれも執筆しているのは学生です。</p><p>もう1つは「ノムラゼミラジオ計画」です。iPhoneを使ってFacebookページに始めました。学生と私とでラジオトークをしました。Facebookページは企業や団体がコンテンツを公開するアーキテクチャーですが、広告費をそのつど出せば、お知らせや投稿が指定したクラスターの人たちのタイムラインに表示されます。ラジオとは言えませんが、録音できる時間が最も長いのがFacebookページでした。</p><p> そもそも学生の制作物は、発展途上の一里塚なので、そのまま公開するのは難しいのです。よくあるコピペ乱用のレポートが1つでも混じっていれば、冊子の評価がどんと落ち、いっしょに掲載されている制作物も含めて評判が悪くなってしまいます。本学経済学部でも大学院の留学生の書いた論文がコピペだらけで掲載雑誌を全部回収したこともあります。事件化することがあるのです。</p><p> だから、大学は学生が書いたものや動画を公式サイトや入学ガイドにはそのまま掲載することはほとんど皆無です。事なかれです。だから経済学部では経済学会の方の費用で学生の論文集を作ったり、独自のサイトを設定して現役ゼミ生によるゼミ紹介を掲載したりしているのです。それは教育的見地からやっているのです。</p><p> **授業での成果物(プロダクツ)は適切な範囲で共有するべきです。**たとえば卒論は指導教員しか読みません。あまたのレポートも、それで終わりです。ゼミ仲間にも共有されないし、まして後輩たちにも伝わらない。伝わらないから授業としては毎年同じような繰り返しで、授業そのものがなかなかアップデートできないのです。それで100年やってきた。</p><p> しかし、この20年間に急速にアーキテクチャーとインターフェイスの進化が進みました。だれでもブログを書き、だれでもSNSでかんたんにグループ・コミュニケーションができるようになりました。かつてはサーバ管理者しかできなかった設定も今ではだれでも自分やグループの設定をコントロールできるようになりました。</p><p> これはネットだけではなく、印刷や放送の領域にも及んでいます。昨年「特色ある教育研究」で使用したトッパンエディトリアルナビは、クラウド上でページものを編集できる画期的なサービスです。もともと出版社用に開発されたものなので文庫判と新書判しかありませんが、インターネットとブラウザだけで、こまかい編集作業ができ、ゲラもPDFですぐにできます。EPubもできます。クラウドでないと、こちら側の設備が相応に必要で経費がかかります。クラウドですと、ブラウザだけで済みますし、操作もかんたんです。</p><p> これとオンデマンド印刷を組み合わせて,教育機関として適切な費用計算の仕方を提案して、授業の作品化の基軸メディアにしたのです。配付は手渡し。関係者だけがもっています。</p><p> 授業体験もたいせつですが、それをドキュメントとして残すこともたいせつです。そう考えて「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」というタイトルのプロジェクトをやったのです。今年度はこれをさらに展開したいと考えて大学の特別研究助成に申請しました。そこで提案したのがリアルなメゾメディア工房という部屋です。工房とはアトリエ。ものを作る場所です。最近はFabと呼ぶのがオシャレなようです。これを編集室にして成果物を限定範囲で共有するシステムを構築したいと考えています。6月中には合否判定が発表されるでしょう。</p><p> というわけで**作業部屋としてのメゾメディア工房(省略してメメ工房)**に対応する情報共有の場所として、この仮想メゾメディア工房を設置したのです。コンテンツ制作に関わることは、すべてWorkplace by Facebookに集約します。**教育的には、ここがすでに言葉の道場であります。**LINEグループもやりますが、こっちに集約したいと考えています。</p><p> インターフェイスはFacebookと似ていますが、完全クローズドで安全です。容量制限もありません。アカデミックとして契約すると無料です。LINEをやっていると、だいたい適応できると思います。タイムラインには、登録してあるグループの投稿が反映するので、そこを注意して、できれば毎日見るようにして下さい。質問も自由です。全部私が答えるのではなく、お互いが知っていることを共有するような形でいければいいなと思っています。</p><p> 「1人だけで勉強する」のではなく**「みんなで賢くなる」**のがゼミの本質です。10人程度のゼミではなく30人超のゼミですから、週1の授業だけで情報共有はできません。ここはそういう規模で「みんなで賢くなる」ための**ナレッジ・コモンズ**として活用していきたいと決意しています。</p><p>### 04 ワークプレイスの使い方</p><p> メゾメディアという概念は、学生が作ったコンテンツの公開にあたって、安全性を優先して、しかるべき範囲とリーチするメンバーを限定して配付・共有するためのプラットフォームを指します。教育現場における適切な範囲内でのコンテンツ共有のことです。どれがメゾメディアかということより、どのように運用するかに焦点があります。したがって「学生の安全」と「コンテンツ共有」の両立を目指したいと考えます。そのために必要な確認事項を明記しておきます。</p><p>(1)メンバーを増やすことができるのは野村だけに限定します。必要があれば、CEOまでWorkChatでお知らせください。これまでの経験上、Excelのテンプレートがありますので、その項目を埋める形でリストを作成してCEOまでお知らせ下さい。</p><p>(2)参加者全員に以下の条件のパスワードを求めます。</p><p>・10桁以上</p><p>・大文字小文字混入</p><p>・記号 !”#$%&amp;'() を必ず入れる</p><p>・KEANのアドレスを利用しますが、KEANに使っているパスワードは絶対に流用しないでください。そこがこのコミュニティにとってのセキュリティホールになるからです。</p><p>・覚えられるパスワードは、たいていパスワードの機能を果たしません。パスワードの使い回しも厳禁です。乗っ取られたときの被害がその分、深刻なものになります。</p><p>(3)推奨する利用環境</p><p>・スマートフォン。必ず2つのアプリをインストールして下さい。主としてパソコンで利用する方も、2段階認証のさいにスマートフォンが必要です。若い人は問題ありませんが、今後スマートフォンを利用しない先生が参加する際には、さきにスマートフォンを用意していただくことにします。スマートフォンが本人確認の証拠になるからです。</p><p>・パソコン。完全なクラウドなのでOSは選びません。性能も関係ありません。とにかく新しいものにしてください。2万円台のものでかまいません。メゾメディア工房は交流サイトではありません。ワークするための業務用SNSです。そのためスマートフォンだけでは十分なワークはできません。必ず用意して下さい。</p><p>・ブラウザ。基本はGoogle Chromeにしてください。Chromeにパスワードを覚えさせておくと日常的には手がかかりません。メゾメディア工房をブックマークバーに入れておきましょう。</p><p>(4)何か納得のいかないことがあれば、放置することなく、すぐに野村までWorkChatでお知らせ下さい。「異変に気づいた人には通報する義務がある」と考えて下さい。CEOは深夜以外はたいてい対応できます。</p><p><br /></p><p>■2段階認証</p><p>いきなり難しいことを要求するようで申し訳ないですが、セキュリティ確保のため「2段階認証」をしてください。</p><p>(1)自分のページを開いた段階で右上の歯車マークをクリックすると「設定」に入ります。</p><p>(2)「セキュリティ」を開いて下さい。ここで自分のアカウントのセキュリティが設定できます。</p><p>(3)2番目の項目が「2段階認証」です。これはログインしたときに自分の携帯電話のSMSに6桁の数字が届きます。それをWorkplaceに入れるとログインできます。1度やっておくと、しばらくは何もする必要はありません。パスワードだけでは守れないご時世なのでスマホと連携して、ひとつひとつのデバイスを認証するのです。電話番号を入れてSMSと連携して下さい。</p><p>(4)わからないときは研究室で手伝ってあげます。研究室にいる日は前日にWorkChatのティーパーティで予告します。</p><p><br /></p><p>■ボトルネック</p><p> ここまでのプロセスでボトルネックになっていたことは次の3つです。</p><p>(1)案外パソコンを持っていない。</p><p> これまではスマホで足りていたと思いますが、これからは両方使うことになります。2万円台のマシンで十分なので何とか手に入れましょう。HPのネットストアを見て下さい。クラウド時代はハードディスだってもういらないんです。研究室にHP2台ありますので差し上げます。オシャレライフにしたい人は自宅にiMacを置いておけば、あとはスマホでたります。自習室のパソコンはやめましょう。</p><p>(2)案外メールを見ることがない。</p><p> 大学のメールはスマホでかんたんに確認できます。OutlookとExcelとWordとPowerPointは必ずスマホに入れて設定しておいて下さい。ゼミでのプレゼンはスマホのPowerPointでやります。HDMI端子を用意しておいて下さい。</p><p>(3)案外パスワードの使い回しがある。</p><p> パスワードはサービスごとに替えるべきです。小さなノートに書いておいてカバンの中にいつも入れておくといいです。今回、2人の方のKEANのアカウントを使って「管理チーム」にリクエストをしてきた件がありました。KEANの管理者がここを確かめに来たのでしょう。システム管理者はそういうことをするもんです。なのでパスワードはサービスごとに替えましょう。そうすれば、1つのサービスが乗っ取られたり侵入されても、他のサービスに累が及びません。</p><p> 質問とかアドバイスはコメントにつけて下さい。</p><p>### 05 なぜリスポンスが重要なのか</p><p> メールにしても業務システムにしてもSNSにしても、大昔のように電話しなくて済むようになって、ほんとうによかったと思う。電話は同期型のメディアだから即答をしなければならないから、考える暇がない。だから適切な対応ができないことが多い。もう20年ほど早く生まれていれば、電話中心の世の中にあって私なんか何も仕事ができなかったと思う。</p><p> 非同期型のメディアは、それなりに余裕があるし、テキストになるので「言った言わない」トラブルが少ない。ただしテキストに置き換える言語能力が求められる。</p><p> だから毎日Facebookなんかに書いていると、リスポンスを返してくれるのは、高い言語能力を誇るハイスペックな先生たちばかりになる。教え子たちは人工知能によって私のタイムラインから消えてしまう。逆もそうだと思う。</p><p> 総じて、うちの大学の人びとはリスポンスがないか、とても遅い。職員はいいけれど、教員も学生もとても遅いか無反応である。最近はかつてよりめきめきよくなったとは思うけれども、それは一部で、たいていは巷間ビジネス文脈で言われているほどスピード感はない。</p><p> 理由はいくつかある。ヒントも少し。</p><p>(1)優先順位をまちがえている。公的なものが優先するはず。</p><p>(2)決断ができない。考えたり調べたりしないから思考停止する。つまり手数を惜しむから決断できない。</p><p>(3)処理能力が追いつかない。数をこなせない。</p><p>(4)リア充方面を優先している。だったら引きこもってはいけない。</p><p> 他方、何か判断を求めている人には明確な理由がある。それに無反応でいることは、実質的にはブレーキをかけているのと同じ効果になる。本人は「自分は何もしていない」と思っているかもしれないが、そうではない。相手に「ノー」を突きつけているのである。沈黙は「ノー」である。</p><p> だから、そういう人は次のことをすべきである。</p><p>(1)その関係から離脱する。</p><p>(2)状態が悪いときは、そう宣言してアプリを削除する。</p><p>(3)なるべく現場に立ち会う、顔を出す。</p><p>(4)だれかにヘルプして引き上げてもらう。</p><p>(5)自分のコストの損得勘定をやめてみる。感情計算はやめた方がいい。</p><p><br /></p><p>Q: どういうときに「いいね!」をしていいか,よくわかりません。「いいね!」に何かお約束とかお作法といったものがあるのでしょうか。</p><p>A: LINEとかTwitterにも同じ機能がありますが、Facebookの「いいね!」は名前もすぐにわかるし、親密な関係の中でおこなわれるため、とても強力です。それだけに先生や先輩方が居ならぶメメ工房においては気を遣うかもしれません。コメントにしても、どう絡んでいいか、わからないかもしれませんね。</p><p> まず大前提は、ここには不審者はいないということです。ゼミ生もOBOGも親切でリスポンスのいい人たちです。基本的には、絡んでも大丈夫なタフなみなさんに来ていただいています。</p><p> 2年生のみなさんの立ち位置から見ると、リスポンスのよい人は(たとえば私のように)怖いかもしれませんね。じっさい私なんか先生方からはかなり怖れられていますが、それはうちの大学の人たちがネット上のリスポンスに慣れてないからなんです。でも、ここはクローズドな場所なので(そのために2段階認証をしていただいているわけです)怖れることはありません。</p><p> 私の第一の希望は「リスポンスのよい人」になってもらいたいということです。その最初の第一歩が「いいね!」(Like!)なんです。「いいね!」なら、それに対して反撃することはルール違反になりますから安心して付けて下さい。</p><p> リスポンスを返すことからコミュニケーションが始まるのです。リスポンスがないとコミュニケーションは始まらない。原理的には、これだけ押さえておいて下さい。</p><p>だから、ここでは「読んだ、わかった」という意味で「いいね!」をしてください。「何ですか、これ?」というときは、そのようにコメントして下さい。そこからコミュニケーションが始まるはずです。あまり「責任ある言動」なるものに囚われる必要はありません。そのうち勉強していきますが、そのようなものが言われる組織から何か創造的なものは生まれません。創造の芽を摘むだけです。</p><p> というわけで,お気軽に「いいね!」してください。まずはそこから始めましょう。</p><p>Q: 出遅れてしまいました。すでにラビリンスです。どうすればいいですか。</p><p>A: 急ぎすぎましたかね。私はひとたび決断すると、いつもこんな感じです。1人でやってる分には「仕事が速いね」でいいのですが、周りを巻き込むと迷惑がられます。今回は人数が多いので、いろんなケースを想定して「前のめり」でセッティングしています。</p><p> そもそもゼミはまだ始まっていないのですから、時間のあるときにグループ単位で読んでいくといいと思います。「読んだ、わかった」と感じたら「いいね!」してください。</p><p>Q: いまごろになって3日前の投稿に「いいね!」しにくいです。</p><p>A: いやいや、それはLINEやTwitterの話でしょう。あの界隈は時間の刻みが細かいので、あっという間に「旬」が終わってしまいます。だから24時間態勢でキャッチしないと波に乗れない、あるいは「イケてない」と思われるんじゃないかと強迫観念に囚われてしまうんです。</p><p> メゾメディア工房をWorkplace by Facebookに設置したのは、もうちょいLINEやTwitterより、じっくり時間を取りたいと考えたからでもあります。容量も多いし、ずっと残ります。タイムラインは必要だと思いましたが(ケースマにはそれがない)もっと複線的でないと、じっさいのゼミ活動には対応できないし、1人ひとりの温度差や瞬発力の差もタイムラインに吸収できないだろうということです。</p><p>Q: むずかしいです。。</p><p>A: そのうちわかる。今は、スタートアップのステージなので、来たるべきスタートラインをめざして、ピッチを上げていけばいいんです。</p><p> だから、何日前の投稿であっても、いま「読んだ、わかった」なら,その場でリスポンスを返せばいいんです。そういう人がたくさんいれば、そこが現時点での「旬」なんです。Workplace by Facebookも、そうなるようにできているはずです。なぜなら、リスポンスがあった時点からコミュニケーションが始まるからです。</p><p>### 06 ゼミは6つのチームで運営する</p><p> 全員で手分けして運営チームを担当します。演習1は公費が支給されるプロジェクトでもあるので基本的な課題は提示しますが、具体的にはそれぞれの運営チームで計画して実施して下さい。今後は詳しい情報もまず運営チームに提示して検討してもらい、運営チームからゼミ全体に告知してもらいます。</p><p>**●運営チームの役割**</p><p>(1)担当する仕事について具体的にチームで計画して実行する。そのために**スケジュールを先読みして**準備をする。</p><p>(2)チームで決めたことをWorkplaceに報告する。途中経過であればWorkChatに報告する。**ドキュメントを残す習慣**を付ける。</p><p>(3)**各チームの役割を個人単位で振り分けない**で、チーム全体で調整しながら進める。個人単位で役割を振り分けてしまうと、その人が動けない場合、ゼミ全体が前に進めなくなるから。</p><p><br /></p><p>**▶進行チーム5人</p><p>Mission1 ゼミを番組として扱い、番組進行(MC: Master of Ceremonies)を担当する。</p><p>Mission2 スケジュール管理(ガントチャートあるいは行程表を作成してチェック)。</p><p>Mission3 作業グループ分けを担当する。くじ、誕生日、コースなど。</p><p>**▶サポートチーム5人</p><p>Mission1 渉外(経済学会学生委員会との交渉)。</p><p>Mission2 会計(プロジェクト全体の会計)。</p><p>Mission3 いきもの係(出席管理と生存確認担当)。</p><p>Mission4 お茶会セッティング(メメ工房の飲食提供、月1万円程度を自由に采配)。</p><p>**▶工房管理チーム4人</p><p>Mission1 設営(教室のセッティング)</p><p>Mission2 Workplace運営。</p><p>Mission3 メメ工房カフェマスター、執事、メイド。</p><p>Mission4 IT担当(メメ工房にあるパソコンの管理とサポート)。</p><p>**▶記録チーム5人</p><p>Mission1 博物館見学ドキュメントを制作する。テキスト、写真、動画。</p><p>Mission2 言葉で記録する。順次Workplace内で共有できるようにする。</p><p>Mission3 映像記録を撮る(セッティングと編集、事前に安全な公開のために工夫する)。</p><p>**▶名刺・リーフレットチーム6人</p><p>すべてクラウドサービスで作成する。</p><p>Mission1 名刺制作はゼミナリステン全員で個人単位。プリスタ( [http://www.printsta.jp/](http://www.printsta.jp/) )使用。9月23日から9月30日まで。</p><p>Mission2 リーフレットはプロジェクト全体の紹介。カラー4ページか8ページ。MEME PAPER( [https://www.memepaper.jp/](https://www.memepaper.jp/) )使用。</p><p>Mission3 プロジェクト紹介はカラー文庫サイズ。トッパンエディナビ( [https://toppan-edinavi.jp/](https://toppan-edinavi.jp/) )使用。チェキ写真つきメンバー紹介。</p><p>**▶新書編集チーム9人</p><p>100ページの新書を8冊制作する。8つのチームを作る。中心となる編集長8名と調整係1名。今期課題はスキル系の命題集を作る。シラバスに提示した本の引用とかんたんな解説にする。詳しくは編集チームともむ予定。できれば来年度以降の基礎演習のディスカッション教材にしたい(少なくとも野村担当クラス)。具体的には、仕様を決める、レイアウトを決める、原稿をチェックする、掲載順序を決めたり、かたまりを作る、校正を進める。</p><p>**■活動手順**</p><p>(1)チーム単位でWorkChatグループをつくる。</p><p>(2)WorkChatでチームのリーダーを決める。</p><p>(3)土曜ゼミの進行表を作成する。</p><p>(4)アイデアを出し合う。</p><p>(5)調整が必要なときは「ティーパーティ」でおこなう。</p><p>キックオフ段階では野村が調整する。</p><p>**■印刷物作業期間**</p><p>名刺・パンフ・文庫 9月いっぱい</p><p>新書 10月から12月いっぱい</p><p>**■サブゼミ(別の曜日に定期的にメメ工房で開催)**</p><p>CMPV研究会</p><p>デザイン研究会</p><p>読書会(4年)</p><p>名画会(4年)</p><p><br /></p><p>みんながスケジュール管理に苦労していることは、これまでの長い経験で理解しています。とくに(やめるにやめれない)ブラックバイトと、対外的な試合が目白押しの部会やサークルに深く関わっている人はいつもジレンマになります。</p><p> 野村ゼミでは募集段階から「土曜日に来れる人」という条件をつけて募集したので正規授業のある土曜日はいいだと思いますが、努力してくれれば参加不参加の結果は問いません。</p><p> で、今のうちに考えておかないといけないのはブッキングすることがあらかじめわかっているときにどう対処するかです。</p><p> ゼミとしての取り組み方を確認しておきます。</p><p>(1)土曜日はゼミの日。土曜日はゼミ生34人が唯一集合する日なので、15回分の日程は先に埋めておく。3限だけでなく,その前後も予定を入れない。運営チームにせよ、新書チームにせよ、みんなが集まるのはこの日だけなので最優先する。なぜなら他の曜日に集合するのは(自分も含めて)たいていムリだから。</p><p>(2)ブッキングすることが事前にわかった段階で、チームとの打ち合わせと調整をWorkChatでやっておく。ギリギリになってからは調整できないので、事前に調整するのが大人の作法。調整は所属チームと進行チームといきものがかりに自分から申し出る。私には言わなくていい。</p><p>### 07 新書制作</p><p>■何のためにやるのか</p><p>(1)読むレッスン:シラバスに掲示した文献を読んで、議論の題材になりそうな文章を見つける。文献は新しいビジネス・スキルに関する翻訳書中心。</p><p>(2)書くレッスン:引用文の解説と論点を整理する。</p><p>(3)編集するレッスン:どんなメディアコンテンツでも編集作業が必須。読む人のことを考えて編集する。</p><p>(4)情報をデザインするレッスン:膨大なメディアコンテンツをどのようにデザインし直すか。キュレーションを学ぶ。</p><p>■スタイル</p><p>1項目2ページ単位。タイトル、引用文、出典、紹介文、論点。</p><p>議論の道具箱。</p><p>判型 新書判。1冊100ページを目安にして8冊に分けて制作する。</p><p><br /></p><p>■人事労務用語辞典より「キュレーション」</p><p> 「キュレーション」(curation)とは、情報を選んで集めて整理すること。あるいは収集した情報を特定のテーマに沿って編集し、そこに新たな意味や価値を付与する作業を意味します。もともとは美術館や博物館で企画展を組む専門職のキュレーター(curator)に由来する言葉ですが、キュレーターが膨大な作品を取捨選択して展示を構成するように、インターネット上にあふれる情報やコンテンツを独自の価値基準で編集して紹介するサービスもキュレーションと呼ばれ、IT用語として広く使われています。さらに近年では、人材教育や組織開発の分野においても、価値創造を促す新たな役割としてキュレーションの概念に注目が集まっています。</p><p><br /></p><p>■新書制作作業手順</p><p>(1)8つのテーマについて説明したのちに1つを選択する。</p><p>(2)テーマに即してチームを作る。このさい偏りのないように微調整が必要。新書編集チームのメンバーが各チームの編集長となる。新書編集チームはたえず情報共有してレベルを上げていく。レベルの高いチームに合わせるよう心がける。</p><p>(3)チーム内でのクルーの分担を決める。分担のやり方には、本の章単位で分担するやり方と、チーム全体でプロセスを共有しながら進めるやり方がある。前者は機械的な役割分担になりがちで、体温の低い人の担当個所が手薄になりがちである。後者は(叩き台を提示する人とリスポンスを返す人のように)有機的な分担ができると理想的だが、かなり手数が多くなる。どちらでもよい。</p><p>(4)本を入手して、線引きしながら(付箋紙でもよい)通読する。メメ工房に課題図書は常備するが、編集上使用するため貸し出せない。私費で購入するか図書館で借りることが必要。</p><p>(5)クルーは引用集を作成してチーム内で発表する。それを叩き台にしてチームで内容を検討する。このさい議論が必要。かなり時間がかかると予想されるので、叩き台はしっかり作っておくこと。議論のさいは各人がメモを取ってチームのWorkChatグループに共有すること。</p><p>(6)チームの編集長を中心に原稿を練り込むこと。自分たちで判断できないときはメメ工房で相談してほしい。同時に表紙デザインを決める。</p><p>(7)トッパンエディナビにコンテンツを投入する。クラウド仕様なので、どこでも投入可能だが、メメ工房に入力用のパソコンを6台用意してあるので、メメ工房でも作業できる。この場合はサポートつき。編集の技術が身につく作業である。エクセルより簡単。</p><p>(8)初校。内容の訂正はここまで。修正を再びトッパンエディナビに入力する。</p><p>(9)再校。ここまでにカラー表紙デザインも確定させる。修正を入力。</p><p>(10)印刷工場に送る。あとは寝て待て。</p><p>■完成後の作業手順</p><p>(1)配付。</p><p>(2)これらを使って実際にディスカッションをしてみる。→ラジオトーク</p><p>### 08 新書制作の8つのテーマと参考文献(決定版)</p><p>到達目標(シラバス掲載)&nbsp;</p><p>○ (1)現在のトランスメディア環境について総合的に知識を学ぶ。ジャンルや技術の枠組みにとらわれない視野を獲得する。&nbsp;</p><p>○ (2)速攻で何でも作ってしまうクリエイターとして、いつも作品あるいはプロダクツを制作できる人になる。&nbsp;</p><p>○ (3)即興的に自在なコミュニケーションができる人になる。&nbsp;</p><p>◎ (4)誰にも負けない読書力をつける。&nbsp;</p><p>○ (5)好きとか嫌いとかにとらわれない高いレベルの対話的知性をゼミに生み出す。&nbsp;</p><p><br /></p><p>(1)正しいチームワークの編みだし方(チーム論)&nbsp;</p><p> もちろん1人で何かを成し遂げる人はいます。けれども、ほんとうに1人で画期的な何かを成し遂げる人はごく限られています。ほとんどはチームによって何かが成し遂げられるのです。たとえ1人でやったとしても、少なくとも評価する人がいないと「何か」にはならない。たとえば、シャーロック・ホームズはワトソン博士がいるからこそ「名探偵」なんですね。&nbsp;</p><p> だからチームのことをきちんと考えましょう。なんとなくで、よいチームはできません。役割をジャンケンで決めて終わりというようなレベルではチームを組む意味がありません。チームワークには、メンバーの合計以上のチカラが生じることがあるのです。それはどういうことなのか。どうすればいいのか。基本的な考え方はどのようなものなのか。&nbsp;</p><p>●ジェイソン・フリード&デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソン(黒沢健二・松永肇一・美谷広海・祐佳ヤング訳)『小さなチーム、大きな仕事:働き方の新スタンダード』早川書房(ハヤカワノンフィクション文庫)2016年。&nbsp;</p><p>●リッチ・カールガード、マイケル・S・マローン(濱野大道訳)『超チーム力:会社が変わるシリコンバレー式組織の科学』ハーパーコリンズ・ジャパン、2016年。&nbsp;</p><p>●バーナード・ロス(庭田よう子訳)『スタンフォード大学dスクール 人生をデザインする目標達成の習慣』講談社、2016年。&nbsp;</p><p><br /></p><p>(2)弾けるアイデアをひねりだす(クリエイティブ論)&nbsp;</p><p> 自由に企画せよと言われても、手ぶらでよいアイデアがひらめくことはありません。もしそれが採用されるとしても、たいてい誰も代案を言えないだけのことが多いと思います。良いアイデアをひねり出すには、知識と意欲とアンテナを持っていることが前提だと思いますが、もっと詰めて考えてみましょう。総じて大卒として就職した人がずっと定型業務に携わることは稀です。きっと何か定型業務ではない裁量的かつ創造的な何かに携わることが多くなります。とりわけ若い人には、そういう役割が期待されます。その期待に応えることができますか?&nbsp;</p><p>●チップ・ハース、ダン・ハース(飯岡美紀訳)『アイデアのちから』日経BP社、2008年。&nbsp;</p><p>●トム・ケリー、デイヴィッド・ケリー(千葉敏生訳)『クリエイティプ・マインドセット:創造力・好奇心・勇気が目覚める驚異の思考法』日経BP社、2014年。&nbsp;</p><p>●佐藤可士和『佐藤可士和のクリエイティブシンキング』日経ビジネス人文庫、2016年。</p><p><br /></p><p>(3)弱気で頑固な自分の動かし方(自我論)&nbsp;</p><p> 最近、新しいことをしましたか? 昨日と同じことをしていませんか? たとえばゼミで次々に繰り出される課題に向き合って自発的に準備をするのが「おっくう」ではありませんか? 締切直前まで課題に手を付ける気がしないということはありませんか? そういうとき、あなたはあなたをコントロールできていますか? どうやったら自分を動かせるのか考えてみましょう。&nbsp;</p><p>●ケリー・マクゴニガル(泉恵理子監訳)『スタンフォードの心理学講座 人生がうまくいくシンプルなルール』日経BP社、2016年。&nbsp;</p><p>●キャシー・サリット『パフォーマンス・ブレークスルー』徳間書店、2016年。&nbsp;</p><p>●タイラー・コーエン(高遠裕子訳)『インセンティブ:自分と世界をうまく動かす』日経BP社、2009年。&nbsp;</p><p><br /></p><p>(4)他人を変える、自分を変える、関係を変える技術(コミュニケーション技術論)&nbsp;</p><p> 社会の基本単位は個人ではありません。コミュニケーションです。コミュニケーションの集積が社会の実体です。だから、この社会で生きていくためには、いつだって注意深くコミュニケーションをおこなうようにしなければなりません。コミュニケーションはある程度まで技術で乗り越えられます。メディア技術ばかりではありません。手ぶらでコミュニケーションをおこなうときにも、それなりの技術があるのです。&nbsp;</p><p>●ヘンドリー・ウェイジンガー、J・P・ポーリウ=フライ(高橋早苗訳)『プレッシャーなんてこわくない』早川書房、2015年。&nbsp;</p><p>●アンドリュー・ニューバーグ、マーク・ロバート・ウォルドマン(川田志津訳)『心をつなげる:相手と本当の関係を築くために大切な「共感コミュニケーション」12の方法』東洋出版、2014年。&nbsp;</p><p>●ダグラス・ストーン、ブルース・パットン、シーラ・ヒーン『話す技術・聴く技術』日本経済新聞出版社、2012年。</p><p><br /></p><p>(5)腑に落ちるデザイン(情報デザイン論)&nbsp;</p><p> 魅力的なデザインはあります。同時に、わかりやすいデザインもありますね。ゼミで考えたいのは後者の方です。複雑なものごとをすとんとわからせるデザインを「情報デザイン」と言います。地下鉄の路線図や観光マップは美術的なデザインであると同時に巧みな情報デザインです。情報デザインという考え方は最近は「デザイン思考」として語られています。どういうことでしょうか。&nbsp;</p><p>●D. N. ノーマン(野島久雄訳)『誰のためのデザイン:認知科学者のデザイン原論』新曜社、1990年。&nbsp;</p><p>●アビー・コバート(長谷川敦士監訳、安藤幸央訳)『今日からはじめる情報設計』BNN、2015年。&nbsp;</p><p>●ティム・ブラウン(千葉敏生訳)『デザイン思考が世界を変える:イノベーションを導く新しい考え方』早川書房(ハヤカワノンフィクション文庫)2014年。</p><p><br /></p><p>(6)パッとしない自分をスイッチする(人生デザイン論)&nbsp;</p><p> 情報デザインの応用編として「人生のデザイン」を考えてみましょう。私たちは過去の自分の経験から未来を想像しますが、ほんとうにそれでいいのでしょうか。さなぎから蝶が変態するように、スパッと人生路線を切り替えることはできないのでしょうか。鬱々として立ち上がれない自分をどうすれば立ち上がらせることができるのでしょう。こういうスイッチングは、ある程度までは技術的に解決できます。まずはそこまで立ち上がってみて、次のステップに進みましょう。&nbsp;</p><p>●メグ・ジェイ(小西敦子訳)『人生は20代で決まる:仕事・恋愛・将来設計』ハヤカワノンフィクション文庫(早川書房)2016年。&nbsp;</p><p>●チップ・ハース、ダン・ハース(千葉敏生訳)『スイッチ! :「変われない」を変える方法』ハヤカワノンフィクション文庫(早川書房)2016年。&nbsp;</p><p>●ブレネー・ブラウン(小川敏子訳)『立て直す力:感情を自覚し、整理し、人生を変える3ステップ』講談社、2017年。</p><p><br /></p><p>(7)学び方を学び直す(知的生活論)</p><p> これからの長い人生を今の自分の知識在庫だけでやっていけると思いますか。みなさんから見ると、今の老人や中年の人たちの考え方って古いと思いますよね。そうです。たいていは賞味期限の切れた知識を使い回していることがとても多い。なぜなら自分の知識をアップデートしてないから。知識のアップデートなしに一生涯やっていけるわけがありません。カビの生えた陳腐な知識や考え方と縁を切る唯一の方法は勉強です。正しく言えば独学です。独学の仕方を学びましょう。&nbsp;</p><p>●花村太郎『知的トレーニングの技術[完全独習版]』ちくま学芸文庫、2015年。&nbsp;</p><p>●東郷雄二『独学の技術』ちくま新書、2002 年。&nbsp;</p><p>●ベネディクト・キャリー(花塚恵訳)『脳が認める勉強法:「学習の科学」が明かす驚きの真実!』ダイヤモンド社、2015年。&nbsp;</p><p><br /></p><p>(8)遠くの雲のつかみ方(クラウド体験記)&nbsp;</p><p> これを読んでおられるみなさんは、すでにクラウドに跳んでいます。すでにクラウドがスタンダードになっている現代、クラウドを使いながら、その効用や落とし穴を考えてみましょう。そして未来のありようを想像してみましょう。これから企業や組織で働く人には必須の知識(新しい教養)です。&nbsp;</p><p>●江崎浩『インターネット・バイ・デザイン:21世紀のスマートな社会・産業インフラの創造へ』東京大学出版会、2016年。&nbsp;</p><p>●ダナ・ボイド(野中モモ訳)『つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』草思社、2014年。&nbsp;</p><p>●イーライ・パリサー(井口耕二訳)『フィルターバブル:インターネットが隠していること』ハヤカワノンフィクション文庫(早川書房)2016年。</p><p><br /></p><p> 以上の8つのテーマごとに新書制作チームを作ります。チームのクルーは、それぞれ3冊の本を読んで、キュレーションをして、新書形式で討論資料を作成し、それでもって他のゼミ生に説明する役割を実行します。言わば「ゼミの中のエキスパート」として振る舞って下さい。演習1で必要な本はその3冊だけですので、必ず3冊買って読んで下さい。&nbsp;</p><p>### 09 読書の技法</p><p> 新書制作にあたっては最初に「読書の技法」について考えておく必要があります。おそらく野村ゼミで最初に「たいへんだ」と感じるのは、読書量が格段に多いことなんです。</p><p> たとえば、半年前に卒業したゼミ生が2年だったときには、野村ゼミ名物「メガ読み」として20冊のカルチャー本を読みました。軽いものです。なんですが、みんな自分の担当した本しか読んでおらず、しかも他の人が発表した説明もほとんど聴いていないので、じっさいには全然メガ読みにはなりませんでした。つまり</p><p>・自分が発表する本しか読まない。</p><p>・他人の発表には関心がない。</p><p>・結局、ゼミでやったことを説明できない。</p><p> だからシューカツで「大学での勉強」を問われて立ち往生した人も少なくありません。まあ、それでもみんなそれなりのところに就職していったので「結果オーライ」なんですが、せっかく私のそばにいて、全然それが生きてこないというのが、かねてからの悩みでした。</p><p> そこそこ人気があって、他ゼミとは一桁ちがう分量のエントリーシートをこなさないと入れないゼミなのに、今ひとつゼミ生の才能を伸ばしきれないのはなぜか。それで、健康になったここ数年、一歩進めて積極的に試行錯誤をしてきたのです。すなわち</p><p>・アクティブラーニングを取り入れる。それまでの「先生を軸にした扇型の教授モデル」をやめて、チーム中心の運営に変える。うちはこれが決定的に弱い。私も弱かったので、基礎演習2年分で大幅にアップデートしました。だから34人でも大丈夫なんです。</p><p>・すべてクラウドによる作品化を導入する。フルカラー雑誌制作については、過去十年やってきました。編集はすべてゼミ生に任せましたが、表面的なデザインに気を取られるのでコンテンツに新鮮みがありませんでした。経済学部出身者は結局、文章の内容が勝負。デザインは職人さんに任せればいい。そう考えて新書を中心にした作品づくりに切り替えました。</p><p>・特定のプロダクトやサブカルチャーのケース研究をするなかで知識や創造性やスキルを学んできましたが、じっさいには表面的な現象理解でとどまってきたきらいがあります。つまり「おたくゼミ」だった。なのでジェネラルスキルをがっちり意識してから各論に跳ぶことにしました。</p><p>・情報共有の態勢を万全にする。もうLINEじゃ間に合わない。</p><p> 一貫して変わらないのは「量をこなす」ことです。これは場数を踏む必要がありますが、慣れれば誰でもなんとかなります。ポイントは</p><p>・手数(てかず)をかける。</p><p>・才能の出し惜しみをしない。</p><p>・「自分はじつは特別な人である」という幻想を捨てる。</p><p> というわけで、全然「読書の技法」まで行きませんでしたね。勉強の仕方については、基礎演習レベルから1段上がります。次の本は、とても参考になります。どうやら今年の夏休みは涼しいようなので、この1冊を読んでおいて下さい。質問はいつでもどうぞ。</p><p>・橋本努『学問の技法』ちくま新書、2013年。</p><p>### 10 Stockにストックする</p><p>チーム単位の打ち合わせや連絡は、チーム専用のWorkChatでおこないます。</p><p>チームで決まったことはWorkplaceに投稿してゼミ生全員に情報共有します。</p><p>完成原稿はStockに投稿します。Word書類はドラッグすると、ここに収まります。</p><p>印刷用のファイルやネット公開用のファイルは、Stockに保存することにします。</p><p>ここではファイルを軸にチャットができます。主役はファイルです。完全原稿になったものをここにアーカイブ(貯蔵)します。ここがそのまま成果物の倉庫になります。</p><p><br /></p><p> じつはライティングツールとしても使えます。直接、自分のノートに書けばいいんです。Stockに満足できなくなったらEvernote(無料)をおすすめします。</p><p> ゼミのStock管理は工房管理チームに権限があります。</p><p>### 11 野村ゼミの構造</p><p>■場所</p><p>土曜日1303教室、拠点815研究室=MesoMediaFab■2種類のチーム</p><p>運営チーム×6</p><p>新書チーム×8</p><p>■6つのクラウドサービス</p><p>Workplace by Facebook(タイムライン、プロセス管理)</p><p>Toppan Editorial Navi(編集システム)</p><p>Stock(アーカイブ、タスク管理、文書中心チャット)</p><p>G-Suite(Chromeによるセキュリティ管理)</p><p>プリスタ(名刺制作)</p><p>MEME PAPER(リーフレット制作)</p><p>■協力企業</p><p>凸版印刷株式会社</p><p>Google</p><p>LinkLive Inc.</p><p>■経費支援</p><p>國學院大學特別推進研究助成金</p><p>管理 研究開発推進機構事務課(AMC5F)</p><p>■アドバイザリーチーム</p><p>美奈子Breadsmith様(from Crossmedia Inc.)</p><p>野村ゼミOBOG有志</p><p>野村ゼミ12期生(4年生)有志</p><p>### 12 KGI.TOKYOアカウント一覧</p><p>グーグル上にある@kgi.tokyoのアットマークの前を決めました。これでStockに登録します。このアカウントは自由に使って下さい。グーグルの有料ビジネス用と同じ仕様です。審査を受けてアカデミックとして無料で運営しています。ふだんは工房管理チームが管理しています。サイト全体は野村が管理しています。ただしサーバー管理者ではないので、メールの内容などを見ることはできません。できるのはアカウントの登録や削除などです。</p><p>(省略)</p><p>## Stock採用理由書</p><p>Stock採用に関する理由書</p><p> 平成29年度國學院大學特別推進研究助成金採択プロジェクト「中間知識とメゾメディア:高等教育パラダイムの応用倫理的転回」(研究代表者・野村一夫)において、LinkLive社のクラウドサービスStockを使用します。このサービスは申請時には公開されていなかったもので、プロジェクト開始直後に被験者である学生から教えられたものです。当時試用期間であったので、すぐに試してみて、のちに採用しました。</p><p><br /></p><p>サービス名 Stock</p><p>企業名 株式会社リンクライブ / Link Live,Inc.</p><p>代表者 代表取締役社長 澤村 大輔</p><p>設立 2014年4月1日</p><p>事業内容 ITサービス関連事業/事業戦略コンサルティング</p><p>所在地 〒101 - 0047東京都千代田区内神田2丁目15番地2号 内神田DNK-RO 10号室</p><p>http://www.linklive.co.jp</p><p><br /></p><p> Stockを採用した理由は以下の通りです。</p><p> 当初、クラウド上のライティングスペースとしてGSuiteを予定していましたが、被験者の学生が使い切れず、共有範囲の調節もむずかしいために、クラウド上のライティングスペースを探しました。Stockは業務用の文書管理クラウドなので、特定の文書にコメントが付けられます。共有範囲も微調整できるのが好都合です。</p><p>Wordでできそうなものですが、Wordで書かれた原稿をクラウド上に置き換えるのが、ひと手間かかります。加えて古いWordの予期せぬ指定が悪さをして、途中でエラーがでます。この指定は見えないので苦労します。というわけで使えません。</p><p>文書管理クラウドとしてはサイボウズ社のKintoneがありますが、1人あたりの月額料金になっていて、被験者の学生の人数を契約するとなると高価です。</p><p> Stockであれば、スマートフォンでも文章が書けます。これはパソコンを所有していない学生に書かせるためにはとても都合がいいです。</p><p> チーム単位で原稿を書き、それをまた修正する作業に向いています。しかも、かなりシンプルなのがとても使いよいと思います。同様のクラウドサービスとしてはEvernoteがありますが、こちらは複雑で、リテラシーが高くないと使えません。とくに共有の設定をまちがえるとリスキーな事態が発生しますので、クローズドであることを保証してもらえるサービスでなければなりません。これはGSuiteもOffice365も同様です。</p><p> 登録を一斉に「招待メール」という形でできるので、まとまった人数を登録するのに向いています。</p><p> 以上の理由でStockを採用します。Stockは2018年1月から課金を始めて本格運用に入るそうです。中小企業向けのサービスになります。本研究プロジェクトは学術的な試用にあたりますので、アカデミックとして扱ってもらうことができました。格安であるだけでなく、登録人数に関係なく、本研究の管理下にある者を登録して、月額固定料金にしてもらいました。これは本プロジェクトがLinkLive社にとって初めてで唯一の高等教育機関であるために、ビジネス的にも用途開発的にも試験的な運用になるための配慮になります。</p><p> したがいまして、本研究の期間内の2月と3月分の支払いをお願いしたいと考えます。</p><p>平成30年1月10日</p><p>研究代表者 野村一夫(経済学部教授)</p><p><br /></p><p>## 作業の経緯</p><p> 授業の作品化プロジェクトは平成29年10月から30年2月までの限られた期間において2年生ゼミのメンバーだけで実行したものである。そのプロセスはWorkplace by FacebookとWorkChatに克明に記録しておいた。これらはFacebookが作った業務用SNSであって、厳密に閉じたフォーマットになっている。それをそのまま公開することはできない。しかし、このバックヤードの膨大なコミュニケーションこそが「授業の作品化」の動態的なプロセスなのである。作品化とは、作品に向かって一定の記法によって構築していく過程なのである。この過程は、そのままアーカイブ化してあるので、この試みに深い関心のある方にはアカウントを発行できる。またWorkplace by Facebook内の主要な作業グループのタイムラインであるニュースフィード「スタートアップ」「キックオフ」「トランスモード」およびメインのグループチャット「ティータイム」については丸ごと画像としてキャプチャーして冊子体にしてある。これだけで444ページある。このコミュニケーションの集積をデザインしてドキュメントとして残すことも「授業の作品化」なのである。</p><p> サンプルとして差し障りのなさそうなページをランダムに写真として紹介する。</p><p><br /></p><p> このプロセスの詳細な分析は、その後のゼミ生の成長過程を踏まえて平成30年度特別推進研究においておこないたい。確認しておくが、この時点でかれらは大学2年生である。</p><p><br /></p><p>## 科学研究費助成金申請</p><p> 本学特別推進研究助成金の義務として科研費申請がある。申請が不採択の場合でも少しでも研究実績を積み上げておきたいというのが研究者としての思いである。</p><p> 私の研究プランは連続して不採択であったので、1人ではムリと判断して、大阪大学コミュニケーションデザインセンターの池田光穂教授に共同研究者をお願いした。池田教授とは過去に医療社会学系の外部資金による共同研究を3回した間柄であるが、大阪大学に行かれてからは、ほぼ同じ頃に國學院大學に情報倫理の教員として就任した私とは、方向がかなり相違していた。しかし私がかなり高等教育論に傾斜してプランを考えるようになったのは池田教授の教育実践の影響もあってのことであり、私のプランにも共同研究の余地ありと見なしていただけたということである。</p><p> 議論は主にFacebook上のMessengerでおこなった。ほぼ毎日、数回から数十回の意見交換をした上で以下のような申請書を書き上げた。ここに到ったこと自体が本研究助成の成果であると考えている。</p><p><br /></p><p>研究計画調書の概要</p><p>1 研究目的および研究方法</p><p>研究目的</p><p> 従来、社会学教育そのものが議論されることは数えるほどしかなかった。しかし、ここ10年で大きく様変わりし、日本学術会議の参照基準のように議論の足場が設定されつつある。しかし「能動的学習者が社会学的知識に接近するにはどのような方法がありうるか」といった学習者視点の議論には届いていない。本研究はその試案づくりに挑戦する。</p><p> 本研究では「社会学教育におけるコミュニケーションをどのようにデザインすれば学習者が社会学的知識とスキルを能動的に学べるか」を知識理論的かつ実践技法的に明らかにすることを目的とする。「どのようにデザインすれば」の部分が「コミュニケーションデザイン」の問題となる。</p><p>研究方法</p><p> 本研究では上記の課題を方法論的に3つの問題系に分けて研究を進める。</p><p> 第1の問題系は「知識理論から社会学教育を再定義する」研究である。これは脱領域的な理論研究としておこなう。国際バカロレア「知の理論」(Theory of Knowledge)を始めとする高等教育の動向と、学習の考え方を一転させる認知科学の動向を批判的に評価した上で「学習者による知識とスキルの能動的学習」の視点から社会学教育の土台となるべき知識理論を「社会知の理論」として再定義する。</p><p> ここで想定されている「社会知の理論」のフレームワークに関する現時点での仮説は次の通りである。高等教育において主体的に学習されるべき内容は「研究成果の薄められたヴァージョン」ではなく、社会の中に埋め込まれた共有知識の特定の階層である。その階層を「社会知」と総称することにすると、社会学教育は「社会知の理論」を用意しなければならない。この仮説を正確かつ詳細に記述するために高等教育論・認知科学・科学論・広義の知識社会学などの文献にあたり、学習者視点からの知識理論を組み立てる。</p><p> 第2の問題系は「社会知に関する学習者の表現実践(制作)のためのクラウド環境のデザイン」である。本研究では、ミクロ場面において能動的な学習を引き出す有力な方法として「作品制作」に注目する。なぜなら、何かを作らなければならないときには必ず能動的学習が生じるからである。個人であれチームであれ、どこかで能動的にならないと作品はできない。これまで申請者は作品制作を目標にした授業実践研究プロジェクトを平成28年度と29年度におこなっているが、これまでの研究に拠れば、教員の任務は適切な問題設定と環境作りにある。あとは学生が決めればよい。このように「作品制作」環境のコミュニケーションデザインを主軸に据えると、メゾレベル(教員1人で100人以上の授業)においても能動的学習が可能ではないか。これがこの問題系の最も挑戦的な課題となる。</p><p> 第3の問題系は、「マクロウィキノミクス」原則による社会知協働構築のためのコミュニケーションデザインを明らかにすることである。換言すると、どのようにコミュニケーション環境をデザインすれば、社会学が能動的学習者と出会えるのかを問うことである。</p><p> 能動的学習を志向するコミュニケーション環境を形成するのに必要なのは、学習者に「応答すべき仕掛けや表現手段」を用意することである。このアプローチによって「社会学の能動的学習のためのコミュニケーション環境をデザインする」ことを目指す。このデザインの基本方針と知識内容を決めるのが「社会知の理論」である。</p><p> 具体的には、以上3つの問題系をさらに6つの作業に分割して進行させる。番号は着手開始の順序になっている。具体的には、ほぼ毎日、クラウド上に設置したベース上で議論を続ける。その上で年間12回を基準に研究会を開催し、そこで1段階ずつ研究成果を吟味して確定していく。クラウド上にはすべての議論とプロセスが記録され蓄積される。部分的には、そのまま公開もできる。</p><p>[image:3633860C-9C5E-4C89-9D18-64BF9A841C13-20416-000057400563336D/スクリーンショット 2019-02-12 13.04.06.png]</p><p><br /></p><p> 3年目に報告書にまとめるものとする。研究期間内に5つの論点に即して論文を公開し、このあとの出版につなげたい。研究に遅れが生じた場合は、⑤の詳細を次期研究課題として、本研究計画内では理論的方針の提示までにとどめることになる。②③については漫然と進めるのではなく、ある程度のめどが立った段階で終了させ、⑤⑥にエフォートを集中させる。</p><p><br /></p><p>2 挑戦的研究としての意義</p><p>(1)教育思想の転換。各種教育指針の考え方を精査し、認知理論的転回の意味を明らかにすることで、社会学教育に埋め込むことが求められる複数のファクターを確定できる。とくに能動的学習がデザインされたコミュニケーションの中で応答として生じるという知見から、実践的かつ具体的な環境設計に進むことができる。</p><p>(2)能動的学習を引き出す環境設計の提案。社会学教育におけるコミュニケーションをマクロ局面では「マクロウィキノミクス」原則でデザインし、ミクロ局面ではクラウド環境を利用した「作品制作」を有効に活用する教育実践を実地におこなうことによって、学習者の知的エンジンを作動させる環境設計を立体的に提案できる。メゾレベルにも挑戦する。</p><p>(3)社会知の理論の提案。社会知の理論として社会学教育を再定義してヴィジョンを明らかにすることで、社会学教育そのものを研究する分野を新たに開</p><p>拓する。</p><p><br /></p><p>3 応募者の研究遂行能力</p><p> 申請者2人はディシプリンの枠を越えて社会学理論と知識理論の研究をしてきた。健康主義に関する一連の共同研究も構築主義的な知識理論に基づいている。クラウド環境に関する利用技術に関しても、学習者の表現実践に関するプラットフォームを適切に設定でき、研究成果も随時公開できる。研究室の設備も先行プロジェクトにより整備されている。</p><p><br /></p><p> 以上が概要である。以下が申請書本文である。</p><p><br /></p><p>1 研究目的及び研究方法</p><p>研究課題名「知識理論の再編による社会学教育の再構築とコミュニケーションデザイン」</p><p>本研究の目的</p><p> 従来、社会学教育そのものが議論されることは数えるほどしかなかった。しかし、ここ10年で大きく様変わりし、日本学術会議の参照基準のように議論の足場が設定されつつある。しかし「能動的学習者が社会学的知識に接近するにはどのような方法がありうるか」といった学習者視点の議論には届いていない。近年の教育技術の急速な発達や、人工知能に直結する認知科学の進展などと比較すると、諸学をリードするどころかキャッチアップもできていない現状を認めざるを得ない。社会学の強力な俯瞰能力や批判能力を知る者としては危機感をもつ。とりわけ大きな弱点となっているのは「知識の教授」の視点から離れられないことである。たとえば「能動的学習者が社会学的知識に接近するにはどのような方法がありうるか」といった学習者視点の議論は追求されていない。そして、これこそ近年の教育理論や認知科学が強力に推進している研究領域なのである。</p><p> これに対して本研究では「社会学教育におけるコミュニケーションをどのようにデザインすれば学習者が社会学的知識とスキルを能動的に学べるか」を知識理論的かつ実践技法的に明らかにすることを目的とする。</p><p> 上記の「どのようにデザインすれば」の部分が「コミュニケーションデザイン」の問題となる。能動的学習は自然には生じない。ネット上の書き込みに見られるように、かりに生じたとしても「けもの道」に入りがちである。これは、学習者のコミュニケーション環境を周到にデザインする必要があるということを示している。このコミュニケーションデザインの問題に社会学者はどれだけ系統的に取り組んできただろうか。本研究では、この問題に正面から向き合い、社会学教育に関する系統的な「理論と技法」一式を提案するところまで行きたい。</p><p><br /></p><p>研究目的を達成するための研究方法(研究体制ほか)</p><p>(1)概要:2つのアプローチ</p><p> 本研究では、知識理論研究と実践技法研究の2つの方向からアプローチする。</p><p> 第1に知識理論研究では、国際バカロレア「知の理論」や諸学の認知科学的転回に対する知識理論的検討を梃子にして、これからの社会学教育が解決しなければならない論点を明らかにする。このアプローチによって「知識理論から社会学教育を再定義する」ことを目指す。</p><p> 第2に実践技法研究では、社会学的知識の能動的学習を促進するために、学習者のコミュニケーションをどのようにデザインすれば有効なのかについて研究する。能動的学習を志向するコミュニケーション環境を形成するのに必要なことは、学習者に「応答すべき仕掛けや表現手段」を用意することである。このアプローチによって「社会学の能動的学習のためのコミュニケーション環境をデザインする」ことを目指す。</p><p>(2)基本仮説とスケジュール</p><p> これまでの先行する研究プロジェクトを経て得られた研究成果から、本研究では次のような基本仮説に基づいて研究を進めるものとする。</p><p> 能動的学習を志向するコミュニケーション環境を形成するのに必要なのは、学習者に「応答すべき仕掛けや表現手段」を用意することである。このアプローチによって「社会学の能動的学習のためのコミュニケーション環境をデザインする」ことを目指す。このデザインの基本方針と知識内容を決めるのが「社会知の理論」である。</p><p> 具体的には、以上3つの問題系をさらに6つの作業に分割して進行させる。番号は着手開始の順序になっている。具体的には、ほぼ毎日、クラウド上に設置したベース上で議論を続ける。その上で年間12回を基準に研究会を開催し、そこで1段階ずつ研究成果を吟味して確定していく。クラウド上にはすべての議論とプロセスを記録して蓄積する。</p><p><br /></p><p>[image:084F5637-6F21-484D-8B8B-CE01870F7D5F-20416-00005775EB1F8934/スクリーンショット 2019-02-12 13.04.06.png]</p><p>(3)3つの問題系と6つの作業</p><p> 第1の問題系は「知識理論から社会学教育を再定義する」研究である。これは脱領域的な理論研究としておこなう。</p><p>①各種教育指針の批判的評価 現代の高等教育を底上げしようとする各種教育指針を検討する。たとえば国際バカロレア「知の理論」(Theory of Knowledge)は、さまざまな知識のありようを根源的に認識することを推奨している。社会学の知識在庫と照合して、その社会学的意義を明らかにする。→論文として公開</p><p>④社会学教育の認知科学的転回 心理学などが次々に「認知科学的転回」とも呼びうるパラダイムチェインジをおこなっている。認知科学的転回をするか否かは、コンピュータサイエンスに直結する点で、現代の学術研究として重要な判断である。認知科学は学習の考え方を一転させるので、ここが社会学教育のリスタート地点となる。「認知科学的転回」に関する論文を作成し、社会学教育への適用可能性を検証する。→論文として公開</p><p>⑤「社会知の理論」のフレームワーク ①と④の研究は「社会知」と呼びうる知識領域の社会学的再編を予告するものになると予想される。「社会知の理論」として社会学の知識在庫を位置づける。ここで想定されている「社会知の理論」のフレームワークに関する現時点での仮説は次の通りである。高等教育において主体的に学習されるべき内容は「研究成果の薄められたヴァージョン」ではなく、社会の中に埋め込まれた共有知識の特定の階層である。その階層を「社会知」と総称することにすると、社会学教育は「社会知の理論」を用意しなければならない。この仮説を正確かつ詳細に記述するために高等教育論・認知科学・科学論・広義の知識社会学などの文献にあたり、学習者視点からの知識理論を組み立てる。→論文として公開</p><p> 第2の問題系は「③社会知に関する学習者の表現実践(制作)のためのクラウド環境のデザイン」である。</p><p> この問題系では主としてミクロ場面に焦点を定める。ここでは、社会学への能動的な学習を引き出す有力な方法として「作品制作」に注目し、最新のクラウド環境とアナログ的なメディア制作活動によって学習者間のコミュニケーションを飛躍的に活性化させる環境デザインを実地検証の上で具体的かつ実践的に提案する。→論文として公開</p><p> 「作品制作」環境のコミュニケーションデザインを主軸に据えると、メゾレベル(教員1人で100人以上の授業)においても能動的学習が可能ではないか。これがこの問題系の挑戦的課題となる。</p><p> 第3の問題系は、マクロレベルにおいて第2問題系と同様のことを可能にするコミュニケーション環境がデザインできないかという問題系である。すなわち③「マクロウィキノミクス」による社会知協働構築のためのコミュニケーションデザインを明らかにすることである。換言すると、どのようにコミュニケーション環境をデザインすれば、社会学が能動的学習者と出会えるのかを問うことである。コラボレーション、オープン、共有、公正さの4原則をいかに社会学教育というコミュニケーション現場に落とし込んでいくかを実地検証の上で具体的かつ実践的に提案する。→論文として公開</p><p>(4)報告書作成と公開</p><p>⑥報告書作成と公開 研究期間内に上記5つの論点に即して論文を公開して、それを3年目に報告書にまとめる。そののち出版して広く世に問いたい。なお、何らかの理由によって研究に遅れが生じた場合は、⑤の詳細を次期研究課題として、本研究計画内では理論的方針の提示までにとどめることにする。</p><p><br /></p><p>本研究を実施するために使用する研究施設・設備・研究資料等、現在の研究環境の状況</p><p>①研究施設・設備・研究資料等 國學院大學渋谷キャンパスでおこなう。野村の研究室がここにあり、図書館・教室・食堂などが完備している。研究室の設備はすでに学内研究プロジェクトにより整備されている。表現実践を支援する環境もクラウドサービス委託を前提に構築済みである。すべてクラウドにすれば高価な機材がいらずセキュアである点で教育現場への導入に適している。また、公開範囲を厳密に管理する点でオンデマンド印刷が適している。使用しているクラウドサービスは、Workplace by Facebook、G-Suite、Stock、Toppan Editorial Navi、MEME PAPERである。とくに現在唯一の出版社用日本語編集クラウドToppan Editorial Naviと用途開発において協力関係にある。このシステムではじめて印刷製本化された本は、じつは私たちの先行研究プロジェクトの成果物である。このシステムは高等教育用の表現実践メディアとして非常に大きな可能性をもつ。</p><p>②現在の研究環境の状況 現在進行中の学内研究プロジェクトの一環として研究室を「メゾメディア工房」(MesoMediaFab)として整備した。少人数の研究会であれば、ここでできる。学生やゲストを交えての研究会の際は教室を手配できる。</p><p><br /></p><p>2 挑戦的研究としての意義(本研究種目に応募する理由)</p><p>本研究種目は、これまでの学術の体系や方向を大きく変革、転換させる潜在性を有する挑戦的研究を募集するものです。本欄には、</p><p>* これまでの研究活動を踏まえ、この研究構想に至った背景と経緯</p><p>* 学術の現状を踏まえ、本研究構想が挑戦的研究としてどのような意義を有するか</p><p>について1頁以内で記述してください。</p><p>※特設審査領域に応募する場合は、③「本研究構想が当該特設審査領域に合致する理由」についても記述してください。</p><p>①これまでの研究活動を踏まえ、この研究構想に至った背景と経緯</p><p> 野村の研究活動の多くは社会学教育に照準を合わせたものである。教科書づくりから始まった単独の著作活動は、社会学教育およびリベラルアーツに関する知識のあり方とメディア環境との関連領域に関するものである(この経緯については論文「社会学を伝えるメディアの刷新」『社会学評論』第232号、2005年を参照)。</p><p> 主たる論点は、知識理論、見識ある市民(新しい大人)、インターネット、社会学教育、メディア実践である。リベラルアーツを現代のメディア環境に即して「インフォアーツ」として再定義することも提案した。いずれも社会学に準拠した教育的情報空間の協働的構築を提案したものである。本研究計画は、この一連の構想の延長線上にある。</p><p> しかし今回の研究計画では、知識理論の研究に大きくシフトさせている。これは近年の高等教育論と隣接分野の大きな転換を考慮したものである。とくに国際バカロレア「知の理論」にヒントを得た。そして気づかないでいられなかったのは、単著『リフレクション』(文化書房博文社、1994年)でラフに提示したまま放置してきた「知識過程」という概念である。ここから社会学教育研究の知識理論をリスタートできると考えたのが本研究構想に至った背景である。</p><p>②学術の現状を踏まえ、本研究構想が挑戦的研究としてどのような意義を有するか</p><p> (1)教育思想の転換。「教授」(ティーチング)から「学習」(ラーニング)に大きく舵を切った高等教育論の研究動向を「認知科学的転回」と評価して、社会学教育も大きく舵を切ることを提案する。各種教育指針の考え方を精査し、認知理論的転回の意味を明らかにすることで、社会学教育に埋め込むことが求められる複数のファクターを確定できる。とくに能動的学習がデザインされたコミュニケーションの中で応答として生じるという知見から、実践的かつ具体的な環境設計に進むことができる。</p><p>(2)能動的学習を引き出す環境設計の提案。社会学教育におけるコミュニケーションをマクロ局面では「マクロウィキノミクス」原則でデザインし、ミクロ局面ではクラウド環境を利用した「メディア制作」を有効に活用する教育実践を実地におこなうことによって、学習者の知的エンジンを作動させる環境設計を実践的かつ具体的に提案できる。メゾレベル(中規模教室の授業)にも挑戦する。</p><p>(3)社会知の理論の提案。社会知の理論として社会学教育を再定義してヴィジョンを明らかにすることで、社会学教育そのものを研究する分野を新たに開拓する。</p><p> その他に、技術的な開拓として、発信環境をクラウドに委託することで安全かつ臨機応変に対応可能にする仕組みの開発がある。とくに印刷物について、従来の教育成果物は、学習者間で共有されることがなく、学習者の社会的なスキルとならず、しかも品質が悪いので外部から評価されなかった。ところがここ数年でクラウドサービスが急速に進化し、特別な装置を購入することなく編集製版印刷ができるようになった。このことは高等教育の現場においてほとんど共有されていない。</p><p><br /></p><p>3 応募者の研究遂行能力</p><p>本欄には応募者の研究遂行能力を示すため、これまでの研究活動の具体的な内容等について1頁以内で記述してください。必要に応じて今回の研究構想に直接関係しないものを含めても構いません。</p><p> 申請者2人はディシプリンの枠を越えて社会学理論と知識理論の研究をしてきた。健康主義に関する一連の共同研究も構築主義的な知識理論に基づいている。クラウド環境に関する利用技術に関しても、学習者の表現実践に関するプラットフォームを適切に設定でき、研究成果も随時公開できる。研究室の設備も先行プロジェクトにより整備されている。</p><p>●研究代表者(野村一夫)</p><p> 野村は社会学者である。社会学史研究とコミュニケーション論から出発して、その後、社会学教育論とメディア文化論を主たる研究領域とする。勤務校では情報メディアコースに設置された「情報メディア問題入門」や「情報倫理とセキュリティ」などを担当している。</p><p>①社会学教育領域 『社会学感覚』(1992,1998)『社会学の作法・初級編』(1995)『子犬に語る社会学』(2005)『未熟者の天下』(2005)『ゼミ入門』(2014)の単著がある。論文として「インターネットと大学教育のクロスロードで」(1997)「ネットワーク時代における社会学教科書の可能性」(2003)」「社会学を伝えるメディアの刷新」(2006)などがある。</p><p>②知識理論 本研究に直結する分野である。『リフレクション』(1994)がある。緻密なものではないが、社会学教育を前提として「見識ある市民」における社会学的知識の意義を300ページ程度で全体像を描いた。</p><p>③インターネット論 1995年以来、いくつかの論文などで書いた内容は、単著『インターネット市民スタイル』(1997)『インフォアーツ論』(2003)に集約されている。</p><p>④健康文化の知識社会学 池田を研究代表者とする一連の共同研究がある。『病気と健康の日常的概念に関する実証的研究』平成11年度〜13年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(2))など。その他共同研究の成果物として『健康論の誘惑』(2000)『文化現象としての癒し』(2000)『健康ブームを読み解く』(2003)の共著がある。</p><p>⑤メディア制作による授業実践 過去10年間「学部共同研究」として情報教育研究を続けてきた。その上で平成28年度國學院大學「特色ある教育研究」として「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」を遂行した。すべてクラウド上で授業成果物(1年間で新書7冊)を制作したのは日本初である。これはアクティブラーニングの次の局面を試行した教育研究である。平成29年度はさらに國學院大學特別推進研究採択「中間知識とメゾメディア」プロジェクトを推進中である。</p><p>●分担研究者(池田光穂)</p><p> 池田は文化人類学者である。とくに医療人類学に関する夥しい数の研究業績がある(http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/gyosekiy2k.html)。さらに10年前から大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授として、主として大学院生(その多くは理系)のリベラルアーツ開発をめざして、アクティブラーニングのスタイルで斬新な教育活動をおこなってきた。その中で社会学の導入も活発におこない、野村の社会学的問題関心とシンクロするようになった。教育プロジェクトの教材はそのつどすべて新規に開発され、ウェブ上に公開あるいは限定公開されている。その数は5000ページを越える。野村はそのプロセスのほとんどを認識しており授業に参加したこともあるが、一般の社会学者がおこなっている社会学教育よりもはるかに社会学的であると高く評価する。</p><p><br /></p><p>4 人権の保護及び法令等の遵守への対応(公募要領4頁参照)</p><p>本欄には、本研究を遂行するに当たって、相手方の同意・協力を必要とする研究、個人情報の取り扱いの配慮を必要とする研究、生命倫理・安全対策に対する取組を必要とする研究など法令等に基づく手続が必要な研究が含まれている場合、講じる対策と措置を、1頁以内で記述してください。</p><p>個人情報を伴うアンケート調査・インタビュー調査、提供を受けた試料の使用、ヒト遺伝子解析研究、遺伝子組換え実験、動物実験など、研究機関内外の倫理委員会等における承認手続が必要となる調査・研究・実験などが対象となります。</p><p>該当しない場合には、その旨記述してください。</p><p> 本研究の遂行にあたっては、日本社会学会による「本社会学会倫理綱領」(http://www.gakkai.ne.jp/jss/about/ethicalcodes.php)および「日本社会学会倫理綱領にもとづく研究指針」(http://www.gakkai.ne.jp/jss/about/researchpolicy.php)を遵守するものとする。</p><p> また高度なクラウド環境において受講者の表現行為を作品化するにあたり、情報処理学会の「倫理綱領」および「なぜ倫理綱領が必要か」(http://www.ipsj.or.jp/ipsjcode.html)に準拠する。より一般的には「電子情報通信学会倫理綱領」(https://www.ieice.org/jpn/about/code1.html)も参照する。</p><p> これらの綱領と研究指針については、研究の各年度の初回の研究会ごとに、事前にクラウドで共有し印刷配布もして、倫理上のミスコンダクトがおこらないように留意したい。</p><p> 研究の進行過程に関しては本学の研究関連諸規定(https://www.kokugakuin.ac.jp/research/policy)を遵守するものとする。研究経費の執行については、本学の研究開発推進機構事務課がすべて代行する。</p><p> 技術的には各種クラウドを組み合わせて使用するが、実地検証に参加する学生にアカウントを取らせるため、暗号化はもちろん、2段階認証も加えて万全の対策を取る。アカデミックとして無料のものも含めてクラウドはすべて業者委託することになるので、信頼性の高いクラウドのみを吟味して使用し、トラブルがあったさいの自動通知や運営状況のチェック体制を構築する。以上のことは、すでに先行研究プロジェクトの中で経験値として蓄積されている。情報漏えいを徹底的に管理し、研究者ならびに研究に参与する人たちの人権擁護に配慮する。</p><p> この点については、制作物の公開・非公開・限定公開を明確に峻別し、学習者との合意の元で公開の範囲を厳密に判断し、書類化して保管するものとする。学習者にとって利益にならないことはおこなわない。</p><p><br /></p><p>## 論文の卵の産み方</p><p>2年ゼミでは、私の企画をアクティブラーニング形式で順次進めていった。通常のアクティブラーニングでは分単位で作業を進行させるから、正確にはグループ討論を媒介したPBLと言うべきかもしれない。2年ゼミ生34名を8つのグループに分け、各グループに3冊の図書を指定し、それを解体構築あるいはリバースエンジニアリングする形でテーゼ集を作ってもらった。図書は夏休み以前に指定しておいたものの、ゼミ自体は後期から始まるので、事前に読んでいた学生は皆無で、大急ぎで3冊を読んでもらって、そこからテーゼを抜き出し、テーゼ集としてセレクトしたのちに、そのテーゼの解説を執筆するという流れである。テンプレートはあらかじめ提示しておいた。それは次のようなものである。</p><p><br /></p><p>### テンプレート</p><p>自らの強みに集中する</p><p>不得手なことの改善にあまり時間を使ってはならない。自らの強みに集中すべきである。</p><p>ドラッカー(1999=1999: 199)</p><p>解説</p><p> ドラッカー晩年の著作の一節。ドラッカーは「マネジメント」の重要性を発見した人だが、たんに経営者哲学にとどまらず、組織の中で働く人の生き方についても多くの指南を与えている。漠然とした人生論ではない。組織に置かれた人への具体的なアドバイスである。</p><p> このテーゼは、近年よく言われることの真逆である。「不得意なところをなくしなさい」というのが普通であろう。ドラッガーは、そんなことに労力をさいていたら、いくらがんばっても並のレベルにしかならないとし、それよりも得意分野を徹底的に伸ばした方が楽だし、組織への貢献になると言うのである。</p><p> では「自分の強み」とは何だろう。ドラッカーは別のところで、案外、人は自分の強みをわかっていないというようなことを書いている。</p><p>論点</p><p>(1)不得意科目を捨てるのは得意だ。すでにやっていることかもしれない。そういうことと何が違うのか。</p><p>(2)不得手なことを改善しないと、のちのちトラブルになるんじゃないのか。</p><p>(3)不得手なことは、ほっといてもやらないから、別にドラッカーに言われなくてもわかる。でも、そういうことではないの?</p><p>(4)自分の強みって、自分ですぐにわかるものだろうか。他人に聴いた方がわかるかも。</p><p>(5)勉強の場合だと、どういうことになるの? 就職のときはどうなの?</p><p>コメント</p><p> 不得意なことを改善しないとダメ人間になってしまうように思いがちだが、組織の中では全部やらなくてもいい。不得意なことをやってくれる相棒とチームを組めばいいんじゃないか。その相棒が不得意なことを自分が得意であれば、きっとうまく行く。だから何かしらの強みをしっかり伸ばしておくことが大事なんだと思う。(野村一夫)</p><p>参考文献</p><p>P.F. ドラッガー『明日を支配するもの』(上田惇生訳)ダイヤモンド社、1999年。</p><p>P.F. ドラッカー『[英和対訳]決定版ドラッカー名言集』(上田惇生編訳)ダイヤモンド社、2010年。</p><p>### 執筆メモのテンプレ</p><p>基本的には「テンプレの解説」に沿って、メモしていきます。直接、Stockに「テンプレの解説」全文をコピペして、それに沿ってメモして下さい。字数は意識しなくてもいいです。</p><p>●タイトルはワンフレーズで。キャッチコピーと同じ。ただしウソはつかない。</p><p> キャッチコピーと同じなので、1つとは言わず複数考えて、チームで揉んでもらうのがベスト。</p><p> テーゼの一部分を抜き出してもよい。</p><p>●テーゼ(引用文)は短めに。これも引用しようと思った個所が長いので半分を削除した。削除した部分は「解説」で補えばよい。</p><p> 正確に引用すること。チームでチェックすると良い</p><p>●引用個所の文献注を必ず付ける。著者名+全角カッコ+原著刊行年+イコール+訳書刊行年+半角コロン+半角アキ+ページ+全角カッコ閉じ</p><p> 執筆メモの段階で、ここは確定。</p><p>●解説は、文脈を軽く説明して、引用部分を取り上げた理由を説明する。取り上げた理由は主観的なものなのでよい。改行は2つか3つ。</p><p> テーゼの周辺を眺めて、文脈を思い出す。そのテーゼが含まれている小見出しを参照する。</p><p>●論点は全角カッコの中に全角数字を入れて箇条書きにする。このテンプレのように細かく5つまで提示する方法でもよいし、2つぐらいに絞って「ああでもない、こうでもない」と論じてもよい。</p><p> 少なくとも2つぐらいは持参して、あとはチームで出た意見などをメモしておく。</p><p>●コメントは主観的でよいし、チームでの議論を反映させてもよい。感想ではなく「こう考えてみた」風がよい。好きか嫌いかはどうでもいいじゃん。</p><p> コメントが担当者の見解を自由に表現できるコーナーになる。何を書いてもいいが「ふざけ」だるけはダメ。ユーモア表現はオーケー。「ふざけ」は内輪受けなので、内輪でない人からは「ばか」にしか見えないから。</p><p>●参考文献の書式をマネしてほしい。</p><p> 各チーム3冊だけなので、コピペすればよい。</p><p>●最後に担当者の名前を書く。実名のみ。しかるべきシーンで「ほう、君はどこを書いているの?」と言われたときに、実名でないと意味がない。難読の名前の場合は「担当 野村一夫(のむらかずお)」と書く。「れいな」か「れな」か、読者にちゃんと意識させよう。</p><p><br /></p><p>### 本にする</p><p> 本にする作業はトッパンエディナビを使用して、学生たち自身が投入して編集作業をやった。12月に仕上げたチームから何人かが遅れたチームをサポートし、私は作業が進展しない3つのチームに直接入って指導した。チームで議論していない原稿は最終段階ですべて削除した。チームで議論することが重要だからだ。</p><p> 論文の卵の産み方シリーズは8冊あって、それぞれが独立して見られる可能性があったので、すべてに重複して「まえがき」と「解説」を書いておいた。その内容は次のものである。</p><p><br /></p><p> 本書は、平成29年度國學院大學特別推進研究助成金に採択された「中間知識とメゾメディア:高等教育パラダイムの応用倫理的転回」(研究代表者・野村一夫経済学部教授)プロジェクトの基軸的企画として、平成29年度「演習Ⅰ」(2年生)受講生34名によって制作された「論文の卵の産み方」シリーズ計8冊のうちの1冊である。</p><p> 詳しい解説は末尾の説明を見ていただくことにして、本書のテーマについて述べておきたい。</p><p> 本書は私が提示した8テーマのうちの1つである。このテーマを選択したメンバー4人で「クリエイティブ論チーム」を結成し、3冊の課題書をチーム全体で読破し、これはと思う1文をテーゼとして選択し、それに解説・論点・コメントを付けていったものである。</p><p> 私が提示した本書のテーマは次のようなものである。以下Workplace by Facebookの投稿からの引用。</p><p>***</p><p>弾けるアイデアをひねりだす(クリエイティブ論)&nbsp;</p><p> 自由に企画せよと言われても、手ぶらでよいアイデアがひらめくことはありません。もしそれが採用されるとしても、たいてい誰も代案を言えないだけのことが多いと思います。良いアイデアをひねり出すには、知識と意欲とアンテナを持っていることが前提だと思いますが、もっと詰めて考えてみましょう。総じて大卒として就職した人がずっと定型業務に携わることは稀です。きっと何か定型業務ではない裁量的かつ創造的な何かに携わることが多くなります。とりわけ若い人には、そういう役割が期待されます。その期待に応えることができますか?&nbsp;</p><p>●チップ・ハース、ダン・ハース(飯岡美紀訳)『アイデアのちから』日経BP社、2008年。</p><p>●トム・ケリー、デイヴィッド・ケリー(千葉敏生訳)『クリエイティプ・マインドセット:創造力・好奇心・勇気が目覚める驚異の思考法』日経BP社、2014年。</p><p>●佐藤可士和『佐藤可士和のクリエイティブシンキング』日経ビジネス人文庫、2016年。</p><p>***</p><p> 見開き2ページで1項目としてほぼ50項目ある。これらはたんなる「テーゼとその感想」と言ったものではない。1項目で小さなミニ論文のスタイルになっていることに注目していただきたい。言わば「論文の卵」である。参考文献から知識の最小単位を取りだして、タイトルを付与し、正しく引用し、出典を表示し、前後の文脈を要約しておいた上で論点を引き出す。それに対してチームとして議論したことをコメントにまとめておく。これが論文の最小単位である。これらを集積してレポートや研究ノートそして1段高いレイヤーに視点をあげることで論文にすることができる。今回は後期からゼミに入ったばかりの2年生なので、まずは「論文の卵」をたくさん産んでもらうことにした。</p><p> 次の段階では、この本を素材にワールドカフェなどによるディスカッションをおこなう。自分が担当していない他の7冊もこのディスカッションの中で「自分の作品」にできるはずである。それをそのままラジオトークとして記録し公開する。ここまでの中心的理念は「知性は対話の中に宿る」ということである。項目ごとに担当者の名前は記載されているが、事前にチーム内で執筆内容について議論してほぼ確定した段階で分担執筆している。知性はこうした作品制作チームの活動の只中に宿っている。そこに個人の力量を超えるための学びがある。</p><p> 「論文の卵の産み方」シリーズは、論文執筆への3段跳びのホップにあたる。これから3年生前期がステップ、後期がジャンプになる。これらの活動のすべては2017年に公開されたばかりのWorkplace by FacebookとStockを基軸とするクラウドに記録されている。新書制作にはトッパン・エディトリアルナビを活用した。私はこれらのクラウド環境を用意して方向性を提示しただけで、実質的な制作はすべて学生によってなされたものである。ただし学生たちの校了直後にエディナビの改修があり、若干の仕様変更があったため、最後にレイアウト調整をおこなった。この点で学生たちの意図とは若干の相違があることをお断りしておきたい。</p><p><br /></p><p>2018年1月28日</p><p>野村一夫</p><p><br /></p><p>平成29年度國學院大學特別推進研究助成金採択プロジェクト</p><p>「中間知識とメゾメディア:高等教育パラダイムの応用倫理的転回」</p><p>研究代表者 野村一夫(経済学部教授)</p><p>[email protected]</p><p>〒150-8440</p><p>東京都渋谷区東4-10-28国学院大学経済学部</p><p>815野村研究室(MesoMediaFab)03-5466-0313</p><p><br /></p><p><br /></p><p>### 本シリーズについて(巻末解説最終稿テンプレート)</p><p> 8冊刊行予定の「論文の卵の産み方」シリーズは、平成29年度國學院大學特別推進研究助成金に採択された「中間知識とメゾメディア: 高等教育パラダイムの応用倫理的転回」(研究代表者・野村一夫)プロジェクトの基軸的モデルとして、平成29年度「演習Ⅰ」(2年生)において制作された新書シリーズである。</p><p> 学生による新書制作は、平成28年度「國學院大學特色ある教育研究」に採択された「すべてクラウドによる授業の作品化」プロジェクトの実施によって得られた知見をもとに、ひとつ駒を進めて、論文作成に至る本格的な演習プログラムの一環としておこなう企画である。昨年度プロジェクトの総括は、本書とほぼ同時に出版される『國學院大學教育開発推進機構紀要』第9号に掲載される論文「すべてクラウドによる授業の作品化と教育のメディア:授業を協働制作過程として可視化する技法」にまとめてある。</p><p> 今年度の研究プロジェクトでは「中間知識とメゾメディア」の構想を「学生による知識のセカンダリーな生産とそれを可視化する教育のメディア」と再定式化した上で、次の6点を実地に検証することを具体的目標としている。以下、上記論文の一部を利用して記述する。</p><p>①クラウドによる徹底的な情報共有をエンジンとすること。もはやメールでもLINEでも間に合わないことがわかったので業務用のWorkplace by FacebookとStockを徹底的に活用している。おそらくこのやり取りの総量は読者の想像をはるかに超えているはずである。</p><p>②リバースエンジニアリングの発想が効果的であること。これは模倣行為の再評価と独創性の再定義に関連する。授業課題そのものがリバースエンジニアリングになるようにした。完成品を解体して、そのしくみを調べ、自分たちなりに組み立て直す授業課題である。これは教育を「知識の伝達」と考えるのをやめて「知識の再演と再創造」と考えることにしたからである。学生が「知識のデコーディングとエンコーディングの循環過程に参加すること」こそが高等教育の眼目であると考える。このさい「エンコーディング/デコーディング」についてはスチュアート・ホールの概念を想定している。</p><p>[弱] James Proctor(2004=2006), Stuart Hall, Routledge.(ジェームス・プロクター『スチュアート・ホール』小笠原博毅訳、青土社)。[/弱]</p><p>③編集オフィスを用意すること。ラーニングコモンズがあれば、その片隅に設置できる。2017年4月に同志社大学を訪問して詳しく見学してきたが、大学としてのトータルデザインがないとラーニングコモンズはできない。そのかわり小さな工房があればいいと考え、研究室を大改造してMesoMediaFabとした。Fabについては田中浩也・門田和雄(2013)参照。アクティブラーニング自体がラーニングコモンズを前提にしているように、授業の作品化は制作工房を前提とする。週1の授業時間内ではまったく収まらないからである。</p><p>[弱] 田中浩也・門田和雄(2013)『FABに何が可能か:「つくりながら生きる」21世紀の野生の思考』フィルムアート社。[/弱]</p><p>④チームとしての集合的知性を信頼すること。信頼するが放置したままでは集合的知性は生じない。学生は機械ではないので指示すればすぐ動くというわけでもないし、個人として独立して動くわけでもない。スタンフォード大学などのビジネススクールの教員が執筆する直近のビジネススキルの翻訳本がとても役立つことを発見したので、今回のプロジェクトの課題書に採用した。学生自身が理解することが重要である。</p><p>⑤記録するというのは振り返ることである。そしてそれを共有することである。仲間と、そして未来の自分と共有することである。そのさい重要なことは、情報の発生する現場に立ち会った人が自発的に記録し共有していかないと組織や共同体における情報の透明性は確保できないということである。記録と共有、つまり自発的な発信がないと公共性は成立しない。じつはこのプロジェクトのはるかな先には公共世界の担い手育成という目標がある。</p><p>⑥学生が知識のデコーディングとエンコーディングの循環過程に参加することが高等教育の眼目であるとすれば、知識のセカンダリーな制作こそが高等教育のエンジンであり、それを可視化するのが「教育のメディア」であるはずである。ライティングスペース、表現空間、討議空間といった場所が必要である。このような学びの場においてこそ自律的な学習者が育つはずである。</p><p>[弱] Ambrose, Susan, et al.,(2010=2014) How Learning Works: 7 Reseach-Based Principles for Smart Teaching, John Wiley &amp; Sons.(スーザン・A. アンブローズ他『大学における「学びの場」づくり:よりよいティーチングのための7つの原理』栗田佳代子訳、玉川大学出版部)。[/弱]</p><p><br /></p><p> 今年度の「演習Ⅰ」のテーマは「トランメディア環境におけるクリエイティブの条件」である。現代のメディア環境を「トランスメディア」として理解するとともに「トランスメディア・ワーカー」として生きて行くには、どのようなチカラが必要なのかを自分ごととして考えていこうという趣旨である。この趣旨を理解して応募してくれた2年生のべ51名から34名を選抜して野村ゼミ13期生とした。</p><p> 作業は第1次選考の合格者30名を決めた6月初めから開始した。はからずも大所帯になったため、LINEでの情報共有をあきらめ、日本語版ができたばかりのWorkplace by Facebook上にコミュニティを作った。その後、第2次選考の合格者4名を加えて、自己紹介などの情報交換をして、初顔合わせのお茶会をこのメンバー自身でおこなった。これが7月14日である。</p><p> その間に特別推進研究助成金が採択された。予算の大幅修正があったので新書プロジェクトの範囲を野村ゼミ13期生(2年生)のみに限定することにして、すぐに新書プロジェクトを開始した。と言ってもゼミは後期から始まるので正規の授業はない。しかし本番が始まると超絶的に多事になることが予想されたので、事前にできることとしてゼミ生有志とともに研究室を大改造してMesoMediaFab(メゾメディア工房)とし、機材などを導入し、チームを構成するなどの準備をおこなった。トッパンの印刷博物館見学も実施した。ゼミの運営は6つの「運営チーム」でおこなうことにした。</p><p> 後期授業が始まり、正式なゼミが始まった。初めは印刷表現の手始めとしてオリジナルデザインの名刺制作をおこなった。これにはクラウド仕様の「プリスタ(名刺制作)」を使用した。完成した段階でゼミ内名刺交換会をおこなった。</p><p><br /></p><p> 新書制作をする目的は次の4点である。</p><p>(1)読むレッスン:シラバスに掲示した文献を読んで、議論の題材になりそうな文章を見つける。文献は新しいビジネス・スキルに関する翻訳書中心。</p><p>(2)書くレッスン:引用文の解説と論点を整理する。</p><p>(3)編集するレッスン:どんなメディアコンテンツでも編集作業が必須。読む人のことを考えて編集する。</p><p>(4)情報をデザインするレッスン:膨大なメディアコンテンツをどのようにデザインし直すか。キュレーションを学ぶ。</p><p> いきなりオリジナル論文を書くのではなく、指定図書をよく読んで、それを多数の論点に分解して、それを素材として議論の道具箱を作るというのが目標である。リバースエンジニアリングの発想である。新書制作作業手順は以下の通りである。</p><p>(1)8つのテーマについて説明したのちに1つを選択する。</p><p>(2)テーマに即してチームを作る。新書編集チームのメンバーが各チームの編集長となる。新書編集チームはたえず情報共有してレベルを上げていく。レベルの高いチームに合わせるよう心がける。</p><p>(3)チーム内でのクルーの分担を決める。分担のやり方には、本の章単位で分担するやり方と、チーム全体でプロセスを共有しながら進めるやり方がある。前者は機械的な役割分担になりがちで、体温の低い人の担当個所が手薄になりがちである。後者は(叩き台を提示する人とリスポンスを返す人のように)有機的な分担ができると理想的だが、かなり手数が多くなる。今回は後者にするよう指導した。</p><p>(4)本を入手して、線引きしながら(付箋紙でもよい)通読する。メメ工房に課題図書は常備するが、編集上使用するため貸し出せない。私費で購入するか図書館で借りることが必要。</p><p>(5)クルーは引用集を作成してチーム内で発表する。それを叩き台にしてチームで内容を検討する。このさい議論が必要。かなり時間がかかると予想されるので、叩き台はしっかり作っておくこと。議論のさいは各人がメモを取ってチームのWorkChatグループに共有すること。</p><p>(6)ライティングスペースとしてStockを使用する。クラウド上に用意されたクローズドなスペースに直接原稿を執筆する。Stock上でチームの編集長を中心に原稿を練り込む。自分たちで判断できないときはメメ工房で相談する。</p><p>(7)トッパンエディナビにコンテンツを投入する。クラウド仕様なので、どこでも投入可能だが、メメ工房に入力用のパソコンを6台用意してあるので、メメ工房でも作業できる。</p><p>(8)版下を印刷して校正と校閲を繰り返す。そののちに印刷工場に送る。</p><p><br /></p><p> 今回はシラバス掲載の到達目標の中の「誰にも負けない読書力をつける」をメインテーマとした。8テーマ8チームを選択肢として提示して、希望を優先しつつ均等な構成になるようにした。以下はそのさいに共有した概要である。</p><p><br /></p><p>(1)野村ゼミ13期生チーム論チーム</p><p>前述。</p><p><br /></p><p>(2)弾けるアイデアをひねりだす(クリエイティブ論)</p><p> 自由に企画せよと言われても、手ぶらでよいアイデアがひらめくことはありません。もしそれが採用されるとしても、たいてい誰も代案を言えないだけのことが多いと思います。良いアイデアをひねり出すには、知識と意欲とアンテナを持っていることが前提だと思いますが、もっと詰めて考えてみましょう。総じて大卒として就職した人がずっと定型業務に携わることは稀です。きっと何か定型業務ではない裁量的かつ創造的な何かに携わることが多くなります。とりわけ若い人には、そういう役割が期待されます。その期待に応えることができますか?</p><p>●チップ・ハース、ダン・ハース(飯岡美紀訳)『アイデアのちから』日経BP社、2008年。</p><p>●トム・ケリー、デイヴィッド・ケリー(千葉敏生訳)『クリエイティプ・マインドセット:創造力・好奇心・勇気が目覚める驚異の思考法』日経BP社、2014年。</p><p>●佐藤可士和『佐藤可士和のクリエイティブシンキング』日経ビジネス人文庫、2016年。</p><p><br /></p><p>(3)弱気で頑固な自分の動かし方(自我論)</p><p> 最近、新しいことをしましたか? 昨日と同じことをしていませんか? 例えばゼミで次々に繰り出される課題に向き合って自発的に準備をするのが「おっくう」ではありませんか? 締切直前まで課題に手を付ける気がしないということはありませんか? そういうとき、あなたはあなたをコントロールできていますか? どうやったら自分を動かせるのか考えてみましょう。</p><p>●ケリー・マクゴニガル(泉恵理子監訳)『スタンフォードの心理学講座 人生がうまくいくシンプルなルール』日経BP社、2016年。</p><p>●キャシー・サリット『パフォーマンス・ブレークスルー』徳間書店、2016年。</p><p>●タイラー・コーエン(高遠裕子訳)『インセンティブ:自分と世界をうまく動かす』日経BP社、2009年。</p><p><br /></p><p>(4)他人を変える、自分を変える、関係を変える技術(コミュニケーション技術論)</p><p> 社会の基本単位は個人ではありません。コミュニケーションです。コミュニケーションの集積が社会の実体です。だから、この社会で生きていくためには、いつだって注意深くコミュニケーションをおこなうようにしなければなりません。コミュニケーションはある程度まで技術で乗り越えられます。メディア技術ばかりではありません。手ぶらでコミュニケーションをおこなうときにも、それなりの技術があるのです。</p><p>●ヘンドリー・ウェイジンガー、J・P・ポーリウ=フライ(高橋早苗訳)『プレッシャーなんてこわくない』早川書房、2015年。</p><p>●アンドリュー・ニューバーグ、マーク・ロバート・ウォルドマン(川田志津訳)『心をつなげる:相手と本当の関係を築くために大切な「共感コミュニケーション」12の方法』東洋出版、2014年。</p><p>●ダグラス・ストーン、ブルース・パットン、シーラ・ヒーン『話す技術・聴く技術』日本経済新聞出版社、2012年。</p><p><br /></p><p>(5)腑に落ちるデザイン(情報デザイン論)</p><p> 魅力的なデザインはあります。同時に、わかりやすいデザインもありますね。ゼミで考えたいのは後者の方です。複雑なものごとをすとんとわからせるデザインを「情報デザイン」と言います。地下鉄の路線図や観光マップは美術的なデザインであると同時に巧みな情報デザインです。情報デザインという考え方は最近は「デザイン思考」として語られています。どういうことでしょうか。</p><p>●D. N. ノーマン(野島久雄訳)『誰のためのデザイン:認知科学者のデザイン原論』新曜社、1990年。</p><p>●アビー・コバート(長谷川敦士監訳、安藤幸央訳)『今日からはじめる情報設計』BNN、2015年。</p><p>●ティム・ブラウン(千葉敏生訳)『デザイン思考が世界を変える:イノベーションを導く新しい考え方』早川書房(ハヤカワノンフィクション文庫)2014年。</p><p><br /></p><p>(6)パッとしない自分をスイッチする(人生デザイン論)</p><p> 情報デザインの応用編として「人生のデザイン」を考えてみましょう。私たちは過去の自分の経験から未来を想像しますが、ほんとうにそれでいいのでしょうか。さなぎから蝶が変態するように、スパッと人生路線を切り替えることはできないのでしょうか。鬱々として立ち上がれない自分をどうすれば立ち上がらせることができるのでしょう。こういうスイッチングは、ある程度までは技術的に解決できます。まずはそこまで立ち上がってみて、次のステップに進みましょう。</p><p>●メグ・ジェイ(小西敦子訳)『人生は20代で決まる:仕事・恋愛・将来設計』ハヤカワノンフィクション文庫(早川書房)2016年。</p><p>●チップ・ハース、ダン・ハース(千葉敏生訳)『スイッチ! :「変われない」を変える方法』ハヤカワノンフィクション文庫(早川書房)2016年。</p><p>●ブレネー・ブラウン(小川敏子訳)『立て直す力:感情を自覚し、整理し、人生を変える3ステップ』講談社、2017年。</p><p><br /></p><p>(7)学び方を学び直す(知的生活論)</p><p> これからの長い人生を今の自分の知識在庫だけでやっていけると思いますか。みなさんから見ると、今の老人や中年の人たちの考え方って古いと思いますよね。そうです。たいていは賞味期限の切れた知識を使い回していることがとても多い。なぜなら自分の知識をアップデートしてないから。知識のアップデートなしに一生涯やっていけるわけがありません。カビの生えた陳腐な知識や考え方と縁を切る唯一の方法は勉強です。正しく言えば独学です。独学の仕方を学びましょう。</p><p>●花村太郎『知的トレーニングの技術[完全独習版]』ちくま学芸文庫、2015年。</p><p>●東郷雄二『独学の技術』ちくま新書、2002 年。</p><p>●ベネディクト・キャリー(花塚恵訳)『脳が認める勉強法:「学習の科学」が明かす驚きの真実!』ダイヤモンド社、2015年。</p><p><br /></p><p>(8)遠くの雲のつかみ方(クラウド体験記)</p><p> これを読んでおられるみなさんは、すでにクラウドに跳んでいます。すでにクラウドがスタンダードになっている現代、クラウドを使いながら、その効用や落とし穴を考えてみましょう。そして未来のありようを想像してみましょう。これから企業や組織で働く人には必須の知識(新しい教養)です。</p><p>●江崎浩『インターネット・バイ・デザイン:21世紀のスマートな社会・産業インフラの創造へ』東京大学出版会、2016年。</p><p>●ダナ・ボイド(野中モモ訳)『つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』草思社、2014年。</p><p>●イーライ・パリサー(井口耕二訳)『フィルターバブル:インターネットが隠していること』ハヤカワノンフィクション文庫(早川書房)2016年。</p><p><br /></p><p> 本シリーズにおいては、読書習慣のない学生に読書力をつけることに重点を置き、さらに「論文の卵」としてミニマムな学術的スタイルを繰り返し学ぶ知識空間の創造を期した。10月から1月前半までのきわめて短い期間での作業となったために、舌足らずで誤解を受ける表現が残っているかもしれない。すでにチーム内での修正は相当量あり、その中には私の指導も入っているが、チームとして投入した最終形にはあえて私の添削は入っていない。実地検証の素材であることを鑑み、良くも悪くもチームの作品そのままであることをご承知置きいただきたい。</p><p>2017年12月14日</p><p>国学院大学経済学部 野村一夫</p><p><br /></p><p><br /></p><p>[image:9DD3A872-506E-4D7E-8B3D-4758AD8D3DAE-20416-00005B843E9D9779/IMG_0490.JPG]</p><p><br /></p><p><br /></p><p>[image:B427AC98-1B03-4799-AE0B-855CFA40A779-20416-00005B860C1ECB24/IMG_0492.JPG]</p><p><br /></p><p>## アクティブラーニング授業の作品化プロジェクト全行程:クラウドを活用したMesoMediaFabをつくる</p><p>[image:1F941FAD-6D95-47AF-8AA4-289343AB421B-20416-00005B634E980608/IMG_0491.JPG]</p><p>### 目次</p><p>[image:2FE7E7F5-6B58-4046-AC5D-1491824A0B98-20416-00005C53BC21BCBA/スクリーンショット 2019-02-12 14.37.08.png]</p><p>[image:174B5F75-6468-44C1-AD05-2DCA5E6B5409-20416-00005C579E9E50DD/スクリーンショット 2019-02-12 14.37.23.png]</p><p>プロジェクトの概要</p><p> 本書は、平成29年度國學院大學特別推進研究助成金採択プロジェクト「中間知識とメゾメディア:高等教育パラダイムの応用倫理的転回」(研究代表者・野村一夫経済学部教授)の9冊目の成果物である。</p><p> このプロジェクトでは、高等教育における知識理論的な研究と同時並行的に、認知科学的転回を意図した具体的なモデル授業をおこなっている。基調は「知識の教授モデル」から「知識の主体的学びモデル」への転換である。</p><p> ポイントは次の4点である。</p><p>(1)チーム単位での討論をメインにして、学びの最小単位をチームに移行する。つまりチームで調べ、チームで考え、チームで成果物を作成するスタイルを確立する。</p><p>(2)ゴールを作品制作に設定し、制作過程の中に学びの機会がたくさんできるように知識環境を整備し、自発的な学びを促進する。</p><p>(3)学びを進めながら、たえず反省的に記録を残す授業スタイルを構築する。実感と経験値をたえず言葉で再現することで反省(振り返り)のレベルを高次化する。</p><p>(4)知性は対話の中にある。対話と議論の只中にこそ借り物でない思考が宿る。対話と議論は授業の現場だけではなく、日常的に研究室でおこなう雑談や、クラウド上に設定したライティングスペースでもできる。</p><p> この4点を集約させてモデル授業を野村ゼミ13期生(2年生)34名とともに2単位の「演習Ⅰ」で実施した。知識理論的見地から言うと「認知科学的転回」によってモデル授業の主体は教員ではなく学生になる。だから本プロジェクトにおいて学生は実験授業の被験者であると同時に、授業の枠組みの中に教員が設定した知識環境と相互作用しながら、認知科学的意味における学びの能動的実践者になるわけである。つまり学生には正しい意味における研究協力者の役割を果たしてもらったのである。</p><p><br /></p><p>本書の位置づけ</p><p> 本書は、そのモデル授業のプロセスを学生たちによって反省的に再現したものである。言葉だけでなく写真表現やグラフィカルな表現にも挑戦してもらった。表現スタイルは多様であっていいのであるし、学びのプロセスに生じる主観的感情も表現してよいのである。なぜなら学びはそういう感情や表現を伴って反省的かつ再帰的に起動するからである。</p><p> 「認知科学的転回」を主軸に授業スタイルをひっくり返して、全面的にアクティブラーニングに切り替え、パソコンとスマートフォン以外に高価な装置を必要としないクラウドサービスを全面的に採用した。PBLとして授業の目標は作品制作とし、そこに向かってチーム単位で精密な読書をしキュレーションをし議論した結果を文章化してオンデマンド印刷する。私たちは本書に至るまでに個人別の名刺とビジネススキルに関する経営学の翻訳書をリヴァースエンジニアリングした「論文の卵の産み方シリーズ」を新書8冊として制作してきた。本書では、それを全員で総括したものである。もちろん制作過程では「あのときのあの作業は何だったのか」「叱られたとき先生は何を考えていたのか」といった無数の学びが生じている。それが本書の本文に反映していることもあり、そうでなくとも利用してきた各種クラウド内にすべて痕跡が残っている。本研究プロジェクトとしては、それを分析対象として報告書・資料集・研究論文に昇華させていく予定である。</p><p><br /></p><p>謝辞</p><p> 野村ゼミ13期生には、アクティブラーニング授業の作品化として半年のあいだに計9冊の本を協働制作するという、1セメスター2単位分をはるかに超えるミッションを果たしてもらった。ゼミ募集の時には「土曜日はゼミの日」キャンペーンをおこなったが、事実上「毎日がゼミの日」になった。10単位ぐらい付けたいが制度上できない。</p><p> 私が「メゾメディア」と名づけた教育のメディア方式に関しては、Workplace (Facebook社)、トッパンエディトリアルナビ(凸版印刷株式会社電子事業部)、Stock(リンクライブ社)という3つのクラウドを駆使できた。本来は業務用に開発されたクラウドを快く大学向けにチューニングして使わせていただいたことを感謝したい。</p><p> また、2年生のみの授業であったため、Workplace by Facebookに「メゾメディア工房」立ち上げのさい、アドバイザリースタッフをお願いしたBreadSmith美奈子さん(クロスメディアコミュニケーションズ社)と野村ゼミOBのみなさんに感謝したい。</p><p> 研究助成金すべての管理を担当していただいた本学研究開発推進機構事務課スタッフにも感謝したい。また、従来的常識を反転させる冒険的な教育研究に助成金を採択してくださった本学執行部に感謝したい。</p><p><br /></p><p>2018年2月8日 野村一夫</p><p>[email protected]</p><p>〒150-8440</p><p>東京都渋谷区東4-10-28国学院大学経済学部</p><p>815野村研究室(MesoMediaFab)03-5466-0313</p><p><br /></p><p><br /></p><p>## すべてクラウドによる授業の作品化と教育のメディア:授業を協働制作過程として可視化する技法</p><p>平成28年度特色ある教育研究の成果として論文「すべてクラウドによる授業の作品化と教育のメディア:授業を協働制作過程として可視化する技法」を『國學院大學教育開発推進機構紀要』に投稿した。これは『國學院大學教育開発推進機構紀要』第9号(平成30年3月)31-49ページに掲載された。すでに本プロジェクトが進行中だったため、先取り的にいくつかの論点を提示しておいたので、これも本プロジェクトの成果物である。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p>## トランスモードへ</p><p> 年度が変わってしまったが、このプロジェクトにはまだ続きがある。それは自分たちが作った8冊の本を題材にランダムなチームでラジオトークすることである。これがなければ、ゼミ全体として知識を共有したことにならない。そこで平成30年度4月から5月を当てて、この作業に入ることにした。これらは音声データであるから、Workplace by Facebook内に各チームごとにセッションを録音していった。1セッション10分のラジオ番組と想定して、1つのテーゼについて議論するのである。全部で80セッションあるが、いくつかベストテイクを選択してYouTubeに出す計画をしていた。すでにFacebookページ上に「ノムラゼミラジオ計画」(https://www.facebook.com/shibuyaeast/)を公開してきたので、その展開形を構想していたが、次の「世界語計画」と「トランスマガジン計画」が控えていたので、公開作業はしていない。</p><p><br /></p><p>## クロスメディアコミュニケーションズ社による評価</p><p> 平成28年度特色ある教育研究として学生たちと制作しているプロセスは折に触れてFacebookに投稿してきたが、それに関心を寄せてくれたクロスメディアコミュニケーションズ社のBreadSmith美奈子氏にはアドバイザリーとしてプロジェクトのWorkplace by Facebookに加わっていただき、一部始終を見ていただいていた。プロジェクトが一段落した段階で、記事化の依頼があり、学生有志とともにインタビューしてもらい記事にしていただいた。以下はその引用とキャプチャー画像である。</p><p><br /></p><p>「大学ゼミにおける『学びの可視化』プロジェクトの連載インタビューがスタートします! 人生100年時代を踏まえ、社会人のスキルが見直される中、個人とチームの能力の伸ばし方には工夫が必要です。学生の皆さんのこの活動には、社会人の私たちにも参考となるヒントが隠されています。」として3回にわたって紹介記事が公開された。クロスメディアコミュニケーションズ社から掲載許可を取った上でキャプチャー画像を分割して掲載する。</p><p>&nbsp;[http://www.crossmedia.co.jp/2018/04/20/4619](http://www.crossmedia.co.jp/2018/04/20/4619?fbclid=IwAR2MOVXGD8gd7Ejjrmt57UO7rB5EG7ikR0w8bjIBfzQxAbLSOhr4a4JgTgg)&nbsp;</p><p>[image:B01778D3-A55B-4F24-9A68-DC8F25A9254B-76983-00012453D4240ED7/クロス00.png]</p><p>[image:EB226DFF-C81A-4877-B506-F240BFD39443-76983-0001245671FFD83B/クロス01.png]</p><p>[image:9827EF86-A9DB-4FE1-A160-3721CD65BDCE-76983-0001245884603CCF/クロス02.png]</p><p>[image:6EEE28C1-C7B6-4418-993C-CF62A5897B27-76983-0001245B8572D47E/クロス03.png]</p><p>[image:C5EFA22A-4C1D-4379-9A50-84E44B1B9CB6-76983-0001245E39C63194/クロス04.png]</p><p>[image:93DDD7F7-1203-49B6-98F1-F6D1DB104BCC-76983-000124607ADE3656/クロス05.png]</p><p>[image:BF30F405-6708-4813-A7D8-FA36CCDC0033-76983-000124624B90241F/クロス06.png]</p><p><br /></p><p>## 授業の作品化に関する中間考察</p><p> この報告書はすでに刊行した9冊とバックヤードとして活用したWorkplace by FacebookとStockとトッパンエディトリアルナビ上の膨大なコンテンツを前提として記述しているので、それらと合わせて総合的な評価をいただきたい。また前年度「特色ある教育研究」に基づいた論文「すべてクラウドによる授業の作品化と教育のメディア」も合わせて参照してほしい。</p><p> その上で、本報告書では「中間考察」として「授業の作品化」に関する論点を明確にしておきたい。それぞれの論点間の関係および総合的考察については現在進行中の「平成30年度特別推進研究助成」の来たるべき報告書に譲りたい。議論になった論点から順に並べることにする。時間的に説明できない項目は、項目を並べるにとどめておく。</p><p>### 作品化とは何か</p><p> コンテンツが作品と呼びうる条件は3つある。第1に署名性。第2にメディア形式。第3にオリジナリティである。作品化は、その3要素を合わせ持つ作品をめざして制作するプロセスのことである。このさい重要なのは成果物が完成された作品であることではなく、そこをめざすプロセスが教育のプロセスだということである。作品として出てきたアウトカム自体の評価とプロセスの評価は同一のものとは限らない。</p><p>### 授業は作品化できるのか</p><p>「授業の作品化」と名づけたのは「授業そのものが作品である」と言いたいのではない。正しくは「授業を学生自身の作品制作の過程にする」ということである。作品はメディア形式を取らないと作品とは呼べないので、当然メディア制作を授業の推進力に設定することになる。作品は署名性を持つので、学生にとっては自分の名前の入ったメディアになる。しかも作品はオリジナリティがなければならないので、レポート以上の創意工夫や努力が要請される。要するに授業空間を最初から最後まで明確な目標に向かう緊張感のある空間にすることである。単位取得を目標とする現在の授業空間では、いくらでも手を抜くことができる。そういう余地を与えないということでもある。逆に、制作過程においてはミクロな創造性を発揮できるという意味での余地がある。</p><p>### オリジナリティとコピペをめぐる学生と教員と大学の問題</p><p> 小項目事典の各項目にオリジナリティがあるだろうか。それは編集物として作品なのだと考えるべきである。学生が何か作品を作れるとしたら、このような編集物か、さもなければ個人的なエッセイのようなものである。体験記や調査報告書のようなものもありうる。しかし大学の授業においてエッセイを目標にするのは難しい。感想文も同様である。</p><p> 表現されたものしか評価しないと決めると、レポートか論文かということになる。しかし、その分野について学び始めた者が何かをオリジナルに論じることができるものだろうか。</p><p> 習作は習作である。しかし、だからといって従来のように教員しか読まない、評価するためにしか読まないのでは、毎年同じことの繰り返しになる。作品の共有が必要だというのが本研究の要衝である。</p><p> 新書本スタイルでまとめた「論文の卵の産み方シリーズ」という名前は、事後的に創案したものである。論文の要素をもっともミニマムにそろえて説明する。それをチームとゼミで共有する。できれば、それをゼミ外の人と共有できれば、習作は習作として意味を持つ。</p><p><br /></p><p>### 学生のメリットとデメリット</p><p> 表現しなければ何も起こらない。悪いことも起きないが、いいことも起きない。作品性をもつ条件としてあげた署名の問題はその第一条件である。だから「個人情報」云々という筋ではない。</p><p><br /></p><p>### 教員のメリットとデメリット</p><p> チーム作り、課題設定、高度な編集能力</p><p>### ディシプリンによる差異</p><p> 学生が自分で考えることを推奨するにしても「自由に考えよ」と言うか「信頼できるデータに即して考えよ」と言うかでまったく異なる道筋を通ることになる。</p><p>### プラットフォームをクラウド化する意味</p><p> </p><p>### 大前提となるコミュニケーションの集積</p><p>量をこなすこと</p><p> 主体的な学びということでは量をこなすことが絶対的な条件だと考えている。量をこなせば、自分のそれまでの一定水準を単純に繰り返すだけでは済まなくなるからである。</p><p>表現とは何か</p><p>### メディア形式の選択</p><p>### テーマの選択、教材の選択</p><p>### 学生の資質</p><p>### 手続きの壁問題</p><p>### 学習環境のリセット</p><p>### クリエイティブとリーダーシップとフォロワーシップ</p><p>リーダーシップを発揮できる人はかなり少ない。次々にアイデアを出せるクリエイティブはさらに少ない。</p><p>### ソーシャルメディアの通信教育は可能か</p><p>『インフォアーツ論』ではネットワーク型の知性について考えた。</p><p>### テンションの維持と脱力傾向</p><p>15回の授業で完結しなければならないセメスター制は、通年授業よりもピッチを維持しやすい。しかし、</p><p>### 読書力がないとスカスカのコンテンツになることについて</p><p>情報源と図書は指定すべきである。けっして自由にしてはならないということ。</p><p>### 結局、学びの共同体は出現するのか</p><p><br /></p><p>## 知識の理論へ</p><p> もともとメディアリテラシー教育の次のステップとして2003年に発表した『インフォアーツ論:ネットワーク的知性とはなにか』(新書y、洋泉社)の「メディア制作を媒介にした正統的周辺参加」という考え方からゼミで継続してきたメディア制作活動を、理論的にもメディア的にもコンテンツ的にも洗練させて行こうというのが本研究プロジェクトの主旨であった。</p><p> その中で、一方で科学論的な大きな転換(知識の認知科学的転回)についての理解が深まるとともに、他方で大学教育の現場における授業改革に従事して、その実践的なソリューションを目指した検証実験であった。さまざまな問題がありつつも、国内派遣研究期間というエフォート率100%の特殊事情のもとでは一定の成果を上げることができた。</p><p> 次の問題は、平常業務の中でどこまでできるのかということである。当然1つの授業当たり10%程度のエフォート率でできることは限られるから、学生サイドの自発性・能動性・主体性が問われることになる。とくに優秀な学生を選んでトレーニングするのではなく、ごく一般的な学生がそういう資質を発揮できる環境設定が重要になる。</p><p> また、今回は34名という通常のゼミ換算で2つか3つ分というスケールであったが、これを中規模・大規模教室での講義形式授業において、どのように応用できるかも考えていかなければならない。私も1セメスターあたり500名超の学生を担当するが、その大部分は中規模・大規模教室での授業である。とくにアシスタントもなく教員1人でどのような展開方法がありうるかを実証実験する必要がある。</p><p> さらに、たんに教育工学的なアプローチではなく、人文学および社会科学を学びの対象とするのにふさわしいアプローチの仕方を理論的に固めておく必要がある。教育工学的な技術は不可欠だと考えるが、それだけで済むとは到底思えないのである。中間知識という概念を発案したのは、その課題を明確に名指しする必要があったからである。その内実は、次のステップで考究すべき方向になる。</p><p><br /></p><p>## 謝辞</p><p> 本研究プロジェクトは平成29年度特別推進研究助成金を受けておこなったものである。メディア制作を媒介とする教育研究という、本学としては周辺的な研究テーマにご理解をいただいたことを謹んで感謝申し上げたい。研究開発推進機構、とりわけ事務課には多大なご負担をおかけした。謹んで感謝申し上げたい。また、平成29年度国内派遣研究員として大阪大学COデザインセンター招へい教授として迎えて下さった池田光穂教授とは理論的研究に関しても実践的手法に関しても膨大な議論を重ねることになり、このプロジェクトから共同研究の道を拓くことができた。謹んで感謝申し上げたい。2年ゼミ生には、2単位授業にもかかわらず10単位分くらいの勉強量と作業量を課した。それが将来に役立つことを切に願う。</p><p><br /></p><p><br /></p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-24985350426891776442022-01-19T18:06:00.000+09:002022-01-19T18:06:42.969+09:00授業の作品化と教育のメディア ──理論的意味と実践的解決のクロスロードで<p><br /></p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/a/AVvXsEigzJaej745XP3RsIEaoMbtoxu2Soi4za_n-DjrqC4WoBnmhC2Wyj5sV45lWPGOPg3yZhZs-PYkiUDA45LLlDYXMR4mOH9Xm7AaXzwMCkJ4TL9zlahTRzZ3JmxxHdFzdAhpZzzmCQbly49xx0gUlfQH_DvGgwlnR-YHEgyfpwththZI5RIvUQeOsJfqpQ=s1434" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1432" data-original-width="1434" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/a/AVvXsEigzJaej745XP3RsIEaoMbtoxu2Soi4za_n-DjrqC4WoBnmhC2Wyj5sV45lWPGOPg3yZhZs-PYkiUDA45LLlDYXMR4mOH9Xm7AaXzwMCkJ4TL9zlahTRzZ3JmxxHdFzdAhpZzzmCQbly49xx0gUlfQH_DvGgwlnR-YHEgyfpwththZI5RIvUQeOsJfqpQ=s320" width="320" /></a></div><br />授業の作品化と教育のメディア<p></p><p>理論的意味と実践的解決のクロスロードで</p><p><br /></p><p>野村 一夫</p><p>國學院大學経済学部</p><p><br /></p><p>【要 旨】</p><p>本稿は平成28年度「特色ある教育研究」に採択された「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」で得られた知見をもとに「大学教育のメディア」の要件について総論的に考察をする。その上で「授業の作品化」の意義と問題について議論する。基本的な考え方は、学生の作品は必ずしも「創作物」でなくてもいいのではないか、むしろ「編集物」でいいのではないかということである。巨人の肩の上で模倣を繰り返しながら学ぶ。その足跡をドキュメントとして記録して共有する。その場で終わるのでなく、それらを蓄積するメディアが大学には必要である。</p><p><br /></p><p>【キーワード】</p><p>メディア制作、大学のメディア、教育のメディア、授業の作品化、クラウド</p><p><br /></p><p>&nbsp;</p><p>1.PBLとしてのメディア制作</p><p>本稿では、平成28年度「特色ある教育研究」に採択された「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」プロジェクト(研究代表者・野村一夫)に基づいて「大学教育のメディア」について考察したい。このプロジェクトは数量的なデータを獲得するものではなく、特定の理論的作業仮説に基づいて実践的解決を試行したものである。本稿では、その両者の接続を主軸に総論的な議論を組み立てていきたい。高等教育において20世紀的な自明性が次々に崩れる時代、何にしても総論が必要な時代だという認識からである。</p><p>まず経緯をかんたんに振り返る。2004年から演習(以下「ゼミ」)を担当することになった。当時のゼミでは基礎的なメディア論を学ぶとともに、コンテンツ制作者の視点を獲得してもらうためにウェブサイトやブログを制作させた。しかし、それが定着することはなく卒論も低調であった。ゼミ生と相談した結果、雑誌制作がよいとのことで試作をしてみたところ成果物としてそれなりの手応えが得られた。そこで当時の「特色ある教育研究」に応募して編集環境を整備して毎年1セメスターを使ってコンセプト雑誌を作ることにした。これは10年続いた。コンセプトは毎年変わり出来映えも毎年異なるものであった。チームとしてのゼミは雑誌制作を中心にまとまり、その後は個別テーマ研究に移行してゼミ論・卒論へ向かうという基本線ができた。</p><p>ゼミは協働しての手仕事が必要である。よくある輪読形式はほとんど効果がないので放棄して、各自が拾ってきたテーマ素材(課題図書も含む)を見ながら議論する方向に寄せてきた。しかし10年もやっていると限界も見えてくる。第1にデザイン能力の限界。プロ仕様のAdobe InDesignを基本ツールに編集をしてきたが、やはりデザインの基本を勉強していないので「いかにも同人誌」になってしまう。私としては美術的なデザインではなく情報デザインに集中してほしいのだが、なかなかそうはならない。第2に基礎演習でのアクティブラーニングの採用をきっかけにして2つの決断をした。1つは扇型教授モデルの廃棄。もう1つはチーム単位での発信作業。いずれについても学びの機会を多くするために1学年のゼミ生を20人以上にしたことが背景にある。</p><p>メディア制作はメディア形式だけを決めておいて企画から完成までゼミ生で協働するPBLである。これを既存の研究(野村ゼミで「メガ読み」と呼んでいる事例研究)と統合できないかというのが今回の課題となっていた。さらにメディア論を対象としない他のゼミや授業に応用できないかということも強く意識していたポイントである。とくにアクティブラーニングを導入した経済学部1年生の基礎演習への導入を挑戦的課題とした。</p><p>今回のプロジェクトで新たに採用したメディア形式は、次のものである。</p><p>①トッパン・エディトリアル・ナビとオンデマンド印刷を組み合わせた新書本</p><p>②Facebookページを利用したラジオトーク</p><p>③LINEグループをイントラネットとして活用したワークフロー</p><p>じつはそれぞれ前史(あるいは試行的実験)があって本プロジェクトにおいて本格的に導入した。プロジェクト名に「すべてクラウドによる」と銘打ってはいるが、それぞれあえてアナログ感のあるメディア形式であることに留意されたい。とくに①は画期的なクラウドサービスで、日本語の冊子体がブラウザ上のみで編集できる。とりわけ縦書きがかんたんにできる点で貴重である。判型は文庫と新書のみであるが、もともと出版社仕様に開発されたクラウドサービスである。これだとレイアウトデザインを1からやらなくて済む。ほぼアウトラインプロセッサ並あるいはWordPress並である。主として電子書籍編集に使用されていたが、これとオンデマンド印刷をワンセットにしてもらって少部数印刷を実現した。高度なデザイン機能はないものの、テキストに集中したコンテンツを編集するのに向いている。USBメモリのようなリスキーなデバイスは編集行程においていっさい使用しないことにした。また、本プロジェクトでは1冊1冊作るたびに新しい挑戦をした。まず縦書きにするというのが編集上とても難しい。苦労があったとしたら、ほとんどが縦書きにするための編集上のノウハウに関するものであった。横書きであれば、数日で版下はできあがることも検証した。トッパンエディナビは学生でも操作できることもわかった。2016年初頭から2017年5月までに、このサービスによって制作した作品は以下の10冊である。教員名が書いていないのは、すべて野村の担当授業の受講者によるものである。著者(受講生)の名前は煩瑣なため省略する(写真1. 2)。</p><p>&nbsp;写真1 写真2</p><p>①『女子経済学入門:ガーリーカルチャー研究リポート』私費による基礎演習Aの書評レポート集</p><p>②『渋谷物語』就職活動中の4年ゼミ生の自己分析からのスピンオフ</p><p>③『キャッチコピー越しの世界』3年ゼミ生のコンセプト企画</p><p>④『ベトナムの今を訪ねて』古沢広祐教授担当のフィールドワーク報告書</p><p>⑤『国学院物語計画』経済学部企画OBOGインタビューとそれを含む提案</p><p>⑥『基礎演習Aを全員で振り返ってみた』基礎演習Aの授業を新書に再現</p><p>⑦『渋谷において本はいかに扱われているか』基礎演習Bの企画リポート集</p><p>⑧『菅井益郎先生の8つの物語』3年ゼミ生によるロングインタビュー</p><p>⑨『地域おこし協力隊の課題と解決策』田原裕子教授担当のフィールドワーク報告書</p><p>⑩『すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究最終報告書』野村が担当授業の新書のために書いた解説や中間考察などをまとめて時系列で収載したもの。</p><p>第2に「ノムラゼミラジオ計画」があるが、技術的にはほとんど苦労しなかった。機材はiPhoneアプリ、公開はFacebookページで済んでしまったからである。問題はどのようなコンテンツに学生を巻き込んでいくか、それが学生にとってどのようなトレーニングになるかということである。学生の発信意欲はきわめて低く、自発的に何かを発信するということはない。それゆえ、それを引き出すメディア仕掛けが必要である。</p><p>第3のLINEによる進行はきわめてスムーズであった。過去3年間、ゼミとクラスの学生との連絡はLINEに集約させてきたが、学生のアクセシビリティが高い。クラスであれば入学式直後から連絡体制が組めて、きめ細かく指導ができる。「授業の作品化」もLINEの連絡体制が日常的に作動していたから可能であったとも言える。LINEグループのタイムラインの一部は上記新書シリーズの中でも引用している。</p><p>クラウド技術を使用するとは言え、内容は言語表現そのものである。それを記録して一定の範囲において非同期で共有することがポイントである。つまり教室でのアクティブラーニング体験だけで終わらせず「授業の作品化」までを目標に設定することに意義がある。文章表現まで一気に持っていくのである。これは大学においてどういう位置価をもつのか。次章では、その意味について大学全体のメディア・プラットフォームの問題から考えてみたい。</p><p><br /></p><p>2.大学における5つのメディア</p><p> 今回のプロジェクトは、高等教育における「教育のメディア」について実地に検証をおこなうものであり、私が強い関心を持つのは「教育のメディア」だけである。ところが、じっさいには「教育のメディア」は教室の整備をして終わりというものではない。</p><p>そもそも大学は知識と情報のプラットフォームである。このことは、しばしば勘違いされているように大学が「発信者になる」ことではない。大学が「中継ぎに徹する」という意味で「プラットフォーム」より正確には「メディア・プラットフォーム」なのである。これをどのように整備していくかという問題がある。というのは、どこの大学でもこの点では混濁した認識が見られるからである。本章では、あえて大局的な見地から考えてみたい。</p><p>総じて、大学のメディア・プラットフォームはどうあるべきか。本稿では、これを理念によって5つに分割すべきであると考える。</p><p>①広報のメディア</p><p>②研究のメディア</p><p>③教育のメディア</p><p>④入試のメディア</p><p>⑤事務のメディア</p><p>これらを分割して考える理由を明確にしておこう。</p><p>広報のメディアは、大学のプレゼンスを広く知ってもらうためのものである。しかし、日常的にはグッド・ニューズ・オンリー・システムになる。大学にとって都合の悪いことは出せない。この場合「大学にとって」ということが大きな論点になる。つまり、その場合の「大学」とは何を指しているのか。それが特定の部署の都合のいいように御旗として使用されることの多さに私自身は辟易している。たとえば「大学にとって不名誉」という判断は、そうかんたんになされるべきではない。たとえば学生の不祥事が「大学にとって不名誉」かどうかは、全学の学生部委員会の慎重な議論によって定義されるのである。ところが広報のメディアに関しては、広報課とその周辺で「バッド・ニュース」として先行して判断されてしまう。広報はそういう原理で動くものである。とくに古い体質の広報はそうなのである。最近の企業広報は「バッド・ニュース」も伝える工夫をするようになっているが、ネットの対応のように、そう単純ではない。</p><p>研究のメディアは、研究内容と成果物を広く公開するものである。理念的に言えば、リポジトリのようにオンラインで世界中からアクセス可能でなければならない。完全な公開性をめざすなら多言語対応である必要がある。Googleなどの翻訳サービスは約100カ国語に対応しているが、これを活用すれば、ほんとうの世界への発信になる。それによって外国の研究者との交流も始まる。日本語だけでは不十分である。せめて論文のスタイルを世界標準に揃えておくことが前提であろう。私が編集長をしていた『國學院経済学』では『シカゴ・スタイル』に準拠するように変更したばかりである。スタイルが世界標準であれば、機械翻訳であっても、ある程度のことは伝わる。</p><p>教育のメディアについては、これまで十分に議論されてきたとは言えない。教育学系のメディア実践の論文はたくさん生産されているが、高等教育レベルのものでヒントになるものはほとんどない。たいていそれは教室内でのコミュニケーションにとどまって、しかも、あとに何も残らないからである。なぜなにも残らないかには理由がある。</p><p>教育のメディアの特徴は「教育現場を安全に公開すること」と「学生の成果物を安全に公開すること」の2つである。なぜ公開が必要なのかというと、関係者における成果物の共有が必要だからである。たとえば学生が提出したレポートを読むのは担当教員だけである。学生の友だちが何を書いたかも共有されない。情報共有のスタイルとしては、教員を中心とする扇型になる。全体を掌握しているのは教員のみとなる。これだと学生間でレポートについて語り合うチャンスはほとんどない。だから口頭発表が必須である。しかし、次の年にはつながらないから、また1からやり直しになる。それでは授業としての成長がない。じっさいに「これしとけば、いいんじゃない」みたいな先輩の言葉を鵜呑みにして縮小再生産になることが多い。研究と同様、年々、学生たちの成果物がレベルアップしていかないと高等教育とは言えない。先輩たちを乗り越えていく仕掛けが必要だ。そのためには継承することが必要なのである。</p><p>入試のメディアは、厳格に運用されなければならない。入試情報とウェブ出願のメディアとして別個に運用されるべきである。センター試験が終了することが決まって、これからAO入試が多角的に分岐していく。そのさいに情報端末でデータベースを活用して小論文を書くといったものも出てくるはずである。そのときに使うセキュアなシステムが必要である。つまり入試のメディアの仕事は「入試広報」だけでなくなるのである。すでにウェブ出願は当たり前のことになっている。次は入試そのものに使用できるメディアが必要になる。その準備はできているだろうか。</p><p>事務のメディアは、基本的に厳格に管理されている。問題なのは、情報共有の仕方である。エクセルやワードで文書作成して、それをメールに添付して共有するというやり方は安全ではない。ファイルをアップロードしたりダウンロードしたりする方法はレガシーなものである。転送に転送をされた場合、ファイルの行方がわからなくなる。だれがそのファイルを共有しているのか、改訂したのか、最終ヴァージョンはどれなのか、といったことが誰にもわからない。これは「情報のガバナンスができていない」ということである。職員のシステムは教員の心配することではないと考えられているが、じっさいには教員も膨大な事務作業をおこなっている。教務・入試・自己点検などはセキュアな情報システムが必要になるはずだが、基本的に使えるのは授業用のシステムだけである。</p><p>以上の5つのメディアの管理権限は、それぞれのトップが持つべきである。トップが直接管理できないときは、トップ直属のオペレーターが指示通りにおこなえばよい。大学のメディアは5つの理念と活動によってそれぞれ独立かつ自律的に運用されるべきである。混在させたシステムは邪悪になりがちである。なぜ邪悪になるかというと、情報システムとメディアの管理者が、ユーザーと内容に関するヘゲモニーを持つからである。管理者権限は、ふつう人が漠然と想像しているものよりも、はるかに強力である。それはほぼビッグブラザー並である。職位は高くなくても事実上の最高権力をこっそりと行使できる。しかし、それにもかかわらず5つのメディア領域の原理とルールはまるで異なるのである。教育のメディアを広報のメディアの原理で運用されたら、万事ことなかれになるにちがいない。何もできないように設定にするのが無難ということになる。それでは教育のメディアとして機能しない。</p><p>現状の管理態勢から5メディア態勢に移行する最もかんたんな方法は「すべてクラウド」にすることである。クラウドでは、暗号化と2段階認証は必須であり、しかも活動のすべてが記録される。日常的な管理は劇的にかんたんになり、コンテンツに集中できるし、サポートする余裕ができる。システムのアップデートはクラウド側でおこなわれるので、こちらは必要ない。ヴァージョン管理も容易である。端末は高性能パソコンである必要はなく、数万円のハードディスクなしのパソコンで可能である。安いパソコンであれば、2年周期ぐらいでリプレイスでき、リスキーな古いパソコンとOSの排除がかんたんになる。クラウドはマルチプラットフォームだから、スマートフォンでも作業ができる。</p><p>組織のガバナンスとしては、メディア・プラットフォーム担当理事を置くべきであろう。情報メディアの管理を課レベルに任せるべきではない。みずほ銀行の大規模なシステムトラブルでは、現場のことが上層部に伝わらず見切り発車をしてしまったことが構造的な要因であった。対策としてなされたのは情報システム担当取締役を設置することだった。たんに実務に長けた人ではなく、情報メディアに関する技術・法務・理論・政治に見識のある人とチームを組んで効果的に制御できる態勢を整えることが重要である。</p><p>あと重要なのは、5つのメディアごとに編集長をおくことである。内部限定公開であれ一般公開であれ、公開されるコンテンツについて編集長を置くのは常識である。印刷だけでなく、あらゆるメディア・コンテンツには編集者と編集長の役割が必須である。そうでないと、管理権限を担っている部署の専横か、あるいは無政府状態になる。メディア・コンテンツには、見識のあるコントールが必要であることを強調しておきたい。</p><p>以上概観したように、大学における情報のガバナンスは明確に切り分ける必要がある。そして、これらの影響を受けて最も萎縮しているが「教育のメディア」なのである。</p><p><br /></p><p>3.教育のメディアの要件</p><p> 教育のメディアとして確保しなければならない要件は安全性である。では、安全とは何か。メディアは何がいいのか。どのように運用するか。教員の資質をどのようにアップデートするか。小さなプロジェクトであったが、確認できたいくつかの論点を列挙しておきたい。</p><p>①学生のコンテンツをむやみに公開することはリスキーである。学生は「学びのプロセスにある人」であるから、すでにあるコンテンツに学ぶのは当然のことである。それを授業においてレポートにして提出されたものには、公開にふさわしくないものがある。引用や出典が明確にさせれば解決するから、そう指導するにしても、個人情報を含めて全面公開というわけにはいかない。したがって、一般公開用のブログやサイトでは難しい。</p><p>②印刷媒体は有効である。手触りのある本にすると、書類とともに破棄されることなく本棚に残る。授業の経験そのものに価値があるのと同時に、授業の作品化とくに印刷媒体にすることの価値は大きい。ただしワードで作成したA4の簡易製本は残らないし、手に取られない。手渡したその場でのみ見られることで、かろうじて安全であるにすぎない。品質がとても重要である。</p><p>③ソリューションとして本プロジェクトで実地検証したのが、クラウドによる編集システムとオンデマンド印刷の組み合わせであった。「トッパン・エディトリアル・ナビ」はクラウド上でページものを編集できる国内ではほとんど唯一のシステムである。縦書きとなると、ここの独擅場ではないかと思う。もともと出版社向けのクラウドサービスであったものの、電子書籍用に使用されることがほとんどで、私たちの『女子経済学入門』が最初の印刷本だったとのことである。現時点では判型が文庫と新書に限定されているのは、そういうものを大量に出す出版社を想定して作られているからである。これをオンデマンド印刷と組み合わせてみたのが本プロジェクトの創案である。</p><p>④予算の問題については、あれこれ工夫した。トッパンとしてはエディナビについて大学と契約するのは初めてで、最初は従来の出版社用の見積もりであった。しかし、大学はベストセラーを狙っているわけではないので、それだと割高になってしまう。全学的対応であれば、それでもかなり安く済むが、一研究プロジェクトとしては荷が重い。そこでページ単価で契約することを提案し、研究開発機構もトッパンも合意してもらえた。本プロジェクトは全部で12万ページとして契約した。これだと予定通りに行かなくても、他の本の部数を増やして調整すればいい。授業は「なまもの」なので、予定通りに行くとは限らないから。</p><p>⑤コンテンツの配付範囲をコントロールしながら関係者のあいだにコンテンツ共有する仕組みを本プロジェクトでは「メゾメディア」と名づけた。メゾメディアの有力候補がトッパン・エディトリアル・ナビによる編集とオンデマンド印刷の組み合わせであった。では、それだけでいいのか。ネットでメゾメディアはできないのか。と考えて、計画にはなかったネット活用を始めた。それがネットラジオである。これは「渋谷のラジオ」にゼミ生がレギュラー出演していて話を聴いて気づいた。ラジオだと顔が見えない。それだと身内以外にも公開できる。ファイルの流出を防げるサービスを探したところ、Facebookページが最適だと判断して「ノムラゼミラジオ計画」を制作した(https://www.facebook.com/shibuyaeast/)。</p><p>本プロジェクトで「授業の作品化」というのは、換言すれば「教育のメディア」に載せるということである。学生の作品を安全に見える化するメリットはさしあたり以下の点にある。</p><p>①当該授業受講者が相互に作品を読んで話し合える。</p><p>②翌年以降の当該授業受講者の到達目標になる。</p><p>③当該授業を受講していない友人・先輩・後輩が参照できる。</p><p>④就職活動やインターンシップなど対企業活動で「勉強の成果」として提示できる。</p><p>⑤家族が大学での学びについて知るきっかけになる。</p><p>⑥総じて大学の学びを蓄積できる。</p><p>授業体験とともに作品を残していくという二重の作業を学生がおこなうことは、現代の職業生活のありようにマッチしてことである。タスクを遂行しながら記録を欠かさない。これが習慣として定着することができれば立派なスキルである。</p><p><br /></p><p>4. 学生が書くということ、その著者は誰か</p><p> 「教育のメディア」について本プロジェクトで試行した基本的な考え方のひとつは、学生の作品は必ずしも「創作物」でなくてもいいのではないか、むしろ「編集物」でいいのではないかということである。この点については誤解が生じやすい。というか、事なかれ主義が蔓延していて結局何もしないことになりがちである。</p><p>この点については複数の条件がつく。</p><p>①信頼できる情報源に到達しているか。</p><p>②それなりの分量の情報・知識を収集しているか。</p><p>③自分なりの基準をもってセレクトしているか。</p><p>④素材から的確な論点を引き出せているか。</p><p>⑤チームでの議論に耐えうるかを検証しているか。</p><p>⑥自分なりの工夫をして表現しているか。</p><p>原稿としては、この6点を満たすのが理想である。企画編集執筆の各段階で何度も確認してきたことだが、本ができたのちに全ページを読んだ上でゼミとして振り返りができればいいと思う。つまり、授業の「成果」であるとともに「プロセス」を表示するドキュメントとして扱えば良いのである。</p><p>学部授業において「研究成果」は「編集物」でよいという論点について、背景となる考え方を補足しておこう。</p><p>一般に人文社会系の勉強をまとめるさいには次の点が充足していなければならない。</p><p>①先行研究をフォローすること。</p><p>②オリジナルな論点があること。</p><p>③妥当な手続きを取っていること。</p><p>④形式的要件を満たすスタイルで表現されていること。</p><p>もし学生の作品が一般公開されるとなると、この4点を満たす必要がある。しかし、そうでない場合は①を満たすことが重要である。これを無視できるのは天才かカリスマだけであろう。②さえあれば、他の条件は支持者や追随者によって整備されるからである。こういう人は、それほど世の中にいるものではない。そう、学生にも教員にも。そもそも、天才にしてもカリスマにしても日本の大学制度にはなじまないであろう。</p><p>経済やその隣接領域について、学生はほとんど白紙状態で大学に来る。高校の「政治経済」の教科書のうち経済を扱っているのは、わずか百ページである。しかも受験は経済の授業より早く来る。だから経済学部生であっても「政治経済」で受験した経験のあるものはごく少数である。</p><p>この領域は年ごとに大きく変化する。たとえば1年生の基礎演習Aでこの春に検索の実習として扱ったテーマは「パナマ文書」である。これは春までだれも知らなかった情報である。その背景には「タックスヘイブン」「オフショア経済」などがある。グローバル経済が直面する「闇の経済、裏の経済」について「パナマ文書」から系統的に説明できる人はまだまだ少ないはずだ。しかし、かれらが就職したとたんに、この種の問題は無関係ではなくなるのである。だからこそ、ニュースの背景にある事柄についての先行研究を読む必要があり、何を重点的にセレクトするかなど、それはそれで重労働なのである。学生は先行研究にキャッチアップできれば十分だと思う。とくに新しいテーマだとアカデミズム的には「また色物」「たんなる趣味」「おたく」「まがいもの」といった視線を浴びるのが常である。私に言わせれば「ラブライブ!」も「パナマ文書」も「欅坂」も「ドラグネット」も問題として同値である。新しいから扱いが難しいのは当然である。学生の側も指導する側もともに猛勉強しないと、たんなる趣味に堕してしまう。とくに指導する教員が「手ぶら」ではいけない。方法論と理論がないと指導はムリである。</p><p>新しいどんな現象であっても、まったく新しい現象とは言えない。たいてい新しい表層の下に古い構造や文化を前提にしているものである。最新のSF映画であっても、物語構造としては神話と同型であったりする。「スターウォーズ」とキャンベルの神話学の関係は、それを逆手に取ったものである。学生が興味を持った新しい文化現象には、こうした表層の新しさと深層の古さがある。そこを見分けると、その現象単体では見えない膨大な文化的文脈が見えてくる。そこに注目すれば、そのテーマは豊作である。</p><p>私は「パチンコ玉理論」と呼んでいるが「シャボン玉理論」と呼び変えてもいい。パチンコ玉もシャボン玉もその周りのすべての風景を表面に映し出している。だから小さなパチンコ玉であってもシャボン玉であっても、その表層を慎重に見ていけば、それが拠って立つ背景世界を描くことになるのである。もちろん球面という形式にデフォルトされているのだから、そこは補正して見ていけばいい。テーマは狭くても、それを通して世界を俯瞰できるのである。この方法論はどこにでも「転用」できる。学生としてオリジナリティやイノベーションを獲得する最短の道は、このような「転用」である。転用をひとつの評価ポイントにすれば、空疎なオリジナリティ信仰に対しても距離を取る必要があるだろう。</p><p><br /></p><p>5. 授業の作品化とは何か、あるいは巨人の肩の上で</p><p> 以上のような作品に対して、どのような評価をするか。今問われているのは学生ではなく教員サイドの評価基準であろう。</p><p>本プロジェクトで私が周囲の抵抗を感じたのは2点である。第1に「学生が書いたものを本にして何がいいの?」というもの。第2に「学生はコピペする」という疑いの眼。前章で述べたように、学生も教員も「巨人の肩の上で」書くのであって、先行研究を参照するのは当然のことである。文化も社会も「模倣」からすべて始まるのであり、模倣されるからこそオリジナルは価値があるのである。この点については、ラウスティアラ&C・スプリグマン(2012=2015)が雄弁に論じている。</p><p>学生がグーグルで検索した最初の1ページに出てくるサイトからコピペしてくるのは、与えた課題がおざなりで適切でないからである。この点については近年、研究が進みつつある。たとえば成瀬 (2016) などは注目すべきだと考えるが、本プロジェクトにあたっては、課題を出されて途方に暮れる学生の立場から考える方が近道と判断して、本プロジェクトを進めながら、私は小論文の参考書をありったけ読んで自分なりの工夫を考えた。</p><p>①課題を疑問文にして、その意図を明確にすること。</p><p>②評価ポイントを明確にしておくこと。</p><p>③アプローチの仕方を指定しておくこと。</p><p>④それに即してアウトラインを提示しておくこと。</p><p>⑤文体についてテンプレートを提示すること。</p><p>⑥「私」を主語にして書くことを推奨する。</p><p>⑦ありうる邪悪なアプローチを事前に提示して警告すること。</p><p>⑧個人的な問い合わせの回路を開いておくこと。現時点ではLINEだと学生は手軽に質問できる。</p><p>⑨チェックシートをいったん提出させてから執筆に入るように2段階にすること。</p><p>⑩参照すべき書籍・サイト・データベースをあらかじめ指定しておく。</p><p>⑪課題を統一しないで、ヴァリエーションを作って学生に選択させ、1人ひとりが個別の課題と向き合うようにする。</p><p>一見自明な項目に見えるが、全部をセットにして実行する教員は稀だと思う。⑥とか⑧などは論争的でさえある(してもよい)。あとの項目も手間ひまを要するので敬遠しがちである。しかし、全部をセットすることで学生は一発で完成稿を提出できる。その方が作品化しやすいのである。いちいち教員が原稿に手を入れたら、学生にとって責任を持って書いた「自分の作品」にはならない。通常とは順序を逆転させるのである。</p><p>『女子経済学入門』の場合、1年生の基礎演習Bの期末レポートとしてガーリーカルチャーに関する本40冊の中から1人1冊選んでもらって書評を書くことにした。基本的には「紹介文を書きなさい」と指示した。12月18日の年末最後の授業でそれをして1月10日締切にした。その間授業はないのでLINEで相談を受け付けることにした。全員が異なる課題になるので相談は個別指導になる。年末の相談で見本の必要性を感じ、正月に長めの「ガーリー総論」を書いて共有し、その上で個別に指導をした。その結果、クラス全員が締切に間に合い、すぐにエディナビで編集して年明け1回目の授業で校正をしてもらい、その翌週に本を配付した。</p><p>『キャッチコピー越しの世界』の場合、ゼミ3年前期のPBLということで企画から発刊まで3ヶ月で実施した。アクティブラーニング形式でチーム単位で進め、ゼミ生25人全員が書いた。</p><p>『渋谷において本はいかに扱われているか』の場合は、1年生後期の基礎演習Bの「オクトーバー・プロジェクト」と称して4回分で実地見学のレポートを執筆させた。課題は次のようなものである。</p><p>「気がつけば渋谷の本屋さんは多彩です。こだわりもいろいろ。おそらくこれからの本と書店のあり方の未来形は広域渋谷圏にあります。「本はコンテンツ・メディア」「書店は文化メディア」として見てみると、今後さまざまな分野で展開するメディアのスタイルが見えてきます。この授業では「情報デザイン」という観点から、渋谷の書店のメディア・スタイルを考えてみたいと思います。」</p><p>このときのテーマは「街の中に情報デザインを読み取る」ことを意図している。まず授業中に渋谷近辺で本のあるところを探してLINEに集約させた。この60前後の対象を全員に振り分けた。1個所あたり2人まではよしとした。最初に「ヒントとアプローチの仕方」に基づいたチェックリストを提出させた。それは以下のようなものである。</p><p>①ミクロレベル</p><p> 商品</p><p> パッケージ</p><p> ポップ</p><p> ジャンル</p><p> 文脈棚</p><p> 店内の配置構造</p><p>②メゾレベル</p><p> 店内の順路・ナビゲーション</p><p> 迷路化</p><p> 空間メディアとしての演出(BGM、吹き抜け)</p><p> 居心地</p><p>③マクロレベル</p><p> 立地条件</p><p>それをチェックしたのちに文体のテンプレートを書いて共有した。それはこういうものである。即興でLINEに書いたので代入個所を顔文字にしていたので一括して□に変換してある。</p><p>「まとめの仕方についてヒントを書きます。私を主語にして書く。基礎演習Bで□をやることになった。私は□をやってみようと思った。というのは□だからだ。ほんとは□もやりたかったが、□なのでこっちにした。</p><p>まずはともあれ行ってみようと思って、□に行ってみた。ここは□な場所にあって、周りは□だった。すぐそばには□があって□な感じだった。ここでマクロ目線。</p><p>迷いつつもなんとかたどり着いた。入口は□な感じで地味ガラス張りオシャレ一見さんお断り、な印象だ。</p><p>入ってみると、天井が□で陰気な音楽がかかっていた。ここからメゾレベルの話。店員さん、香り、本棚の配置、□</p><p>このショップらしいのが□で、その周りには□が置かれている。そこを中心に本棚を眺めていると、□とか□とか□とかの本があり、どうやら□当たりをクローズアップしているようだ。これはナイス。ぐるっと回ってみたら、□がたくさん積んである。これって□のこと? ミクロ視点のあれこれ。</p><p>というわけで、このショップにおいて本はこのように置かれているのだ。ポイントを並べてみよう。</p><p>中でも注目すべきだと思ったのは□である。これは他にはないと思う。店主のセンス好みこだわり□が明確に表現されている。</p><p>みたいな感じ。」</p><p>要するに手順を書いてある。このあと文体はどうにでもなる。いったん書き上げることが重要である。最初から文体に拘泥するのはやめたほうがいい。書店だけではなくブックカフェや展示施設も入っているので、提出されたレポートは多彩である。足を運び、自分事として書いて、人に読んでもらえるのがポイントである。ジェネラルスキルもここから始まる。</p><p>『菅井益郎教授の8つの物語』の場合、ゼミ3年生で特別チームを作り、8時間のロングインタビューをしたもの。事前に菅井教授と打ち合わせをして「8つの物語」として整理しておいて臨んだ。それをテキストに起こして、教授にチェックを入れてもらい、本にした。学生によると、この一連の作業はたいへん勉強になったようだ。私は「賢人シリーズ」と呼んでいるが、多様な展開が可能である。</p><p>ここで論点をまとめておこう。</p><p>①エーコが言うように「作品」とは開かれたものでなければならない。公開されること。</p><p>②成果ではなくプロセス。論文ではなくドキュメント。メイキング映像にあたる。</p><p>③評価には動態的な理解が必要である。</p><p>この3点に関しては4年ゼミの書いた『渋谷物語』の解説に記しておいた。小見出しになっている「原宿ナウマン象」とは、渋谷キャンパスの1つおいた隣にある白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に発掘された骨が展示されている。代々木公園から原宿あたりにはナウマン象が生息していたのである。</p><p><br /></p><p>原宿ナウマン象のように</p><p>「ここにいた」ことを記録する。それをアナログで残す。残像を形にする。教育のプロセスにおいてなされるものごとはすべて未熟であるに決まっている。だから、足跡も痕跡も残さないようにする方が安全だという考えはまちがっている。生きて学んで感じたことをそのつど形にしていくことで、それは共有され、あとから来る人たちに踏み石として活用されれば、十分意味がある。自分たちの足跡も形になれば、それを読んで「ああ、こんな時期もあったね」と感じることで吹っ切って、自然に次のステップに進めるものである。国学院大学におけるそうした痕跡の集積が「渋谷物語」という群像劇を形成していくことになるのではないか。百年続くといいね。本書はその第一歩である。原宿ナウマン象の新しい第一歩である。</p><p><br /></p><p>私は本プロジェクトに並行して、これを推薦系特選系入試に導入した。大学や学部にとって最大のメッセージは入試問題である。推薦系特選系の場合、従来は面接中心であったが、面接こそテンプレ依存になっていて、しかも面接者しか評価できず、あとで確認ができない。だから小論文に転換しようと提案したさいに、この方式を取り入れた。詳しくは、國學院大學経済学部入試委員会編「平成30年度入試 國學院大學経済学部 課題レポート テーマと解説」という小冊子を参照してほしい。</p><p>なお、評価方法の問題については紙幅の関係で別稿を期したい。かんたんに論点を示しておく。</p><p>巨人の肩の上で書かれたものをどう評価すべきか。とくにアクティブラーニングを導入すると評価がやっかいである。ルーブリックなどさまざまな工夫がされているが、これまで述べてきたような「授業の作品化」に徹すると、比較的容易になる。ただし、ここで改めて「作品」にどのようなものがありうるかを考えなくてはならない。</p><p>サスキー(2009=2015: 160)には「エッセイ、学期末レポート、リサーチレポートを超えたアサインメントの例」として42の形式が列挙されている。これらの中にはパンフレットや物語やビデオまたは音声録音が含まれている。多様な「授業の作品化」スタイルがあるということである。</p><p>そのさい評価する側が心得ておかなければならないことは質的研究に関するものである。フリック(2007=2011)が雄弁に論じているように、質的研究の評価はとても難しいし、なにより多様である。そのためいわゆるサイエンスウォーズのようなことが生じるし、論文審査においても物議を醸し出すことになる。このあたりは学生のレポートから博士論文や査読審査に一貫して見られる問題である。</p><p>学生の場合には「作品」として位置づけること、その作品は完成品ではなく学びのドキュメントであるということ、それゆえ作品のシークエンス自体をタイムラインで評価することが重要である。</p><p><br /></p><p>6. 教育のメディアと大学の未来</p><p> 授業のありようも根本的な転換と変換が必要になっている。授業の管理強化だけが質保証ではない。私自身が自覚的におこなおうとしているものだけでも、以下のような転換があり、これらについて集中的に議論すべき段階に来ている。</p><p>①相互作用のプロセスとして教育を考える(認知科学的変換)</p><p>②講義から学習へ(視点の変換)</p><p>③オーケストラ型からコンボ型へ(規模の変換)</p><p>④パッケージからライブへ(様式の変換)</p><p>⑤シナリオ上演から即興演奏へ(計画性の変換)</p><p>⑥聴衆から表現者へ(学生像の変換)</p><p>こうした潮流にあって、それらを系統的におこなうには「教育のメディア」を自覚的に整備することが重要である。タブレットを与えればオーライといった安直なメディア仕掛けが横行する現代、理論と実践のクロスロードがどこにあるのかを見定める必要がある。おそらく、それは「大学が社会を変える新しいルートの探索」につながるはずである。</p><p><br /></p><p>参考文献</p><p>Flick, Uwe(2009=2011)An Introduction to Qualitative Research, Sage. (ウヴェ・フリック『新版 質的研究入門:〈人間の科学〉のための方法論』小田博志監訳, 春秋社).</p><p>成瀬尚志(2016)『学生を思考にいざなうレポート課題』ひつじ書房.&nbsp;&nbsp;</p><p>Raustiala, Kal &amp; Christopher Springman(2012=2015)The Knockoff Economy: How Imitation Sparks Innovation, Oxford University Press. (K・ラウスティアラ&C・スプリグマン『パクリ経済:コピーはイノベーションを刺激する』みすず書房).</p><p>Suskie, Linda(2009=2015)Assessing Student Learning: a common sense guide, 2nd ed., Johon Wiley &amp; Sons. (リンダ・サスキー『学生の学びを測る:アセスメント・ガイドブック』玉川大学出版部).</p><p>&nbsp;</p><p>At the Crossroad of the Educational and Teaching Works of Media:&nbsp;</p><p>A theoretical meaning and practical solutions</p><p>授業の作品化と教育のメディア</p><p>理論的意味と実践的解決のクロスロードで</p><p>Nomura Kazuo</p><p>Kokugakuin University Faculty of Economics</p><p>Abstract</p><p>Book paper was adopted to "special education 2016, all pieces of the cloud by: study of utilizing the meso media" in findings based on "media education" requirements to study in General. On top of that to discuss the significance of the work of the lessons and issues. In that it is not a basic idea is student's work is not necessarily "creations" may not be of a rather nice in the "edit product". Learn through imitation on the shoulders of giants. To share the records document as its footprint. Media instead of ending on the spot, they accumulate in the University should be.</p><p><br /></p><p>Keywords: Works of media production, College media, educational media, works of class, cloud</p><p><br /></p><p>本稿は平成28年度「特色ある教育研究」に採択された「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」で得られた知見をもとに「大学教育のメディア」の要件について総論的に考察をする。その上で「授業の作品化」の意義と問題について議論する。基本的な考え方は、学生の作品は必ずしも「創作物」でなくてもいいのではないか、むしろ「編集物」でいいのではないかということである。巨人の肩の上で模倣を繰り返しながら学ぶ。その足跡をドキュメントとして記録して共有する。その場で終わるのでなく、それらを蓄積するメディアが大学には必要である。</p><p>キーワード:メディア制作、大学のメディア、教育のメディア、授業の作品化、クラウド</p><p><br /></p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-30745335676249087102022-01-19T08:45:00.001+09:002022-01-19T08:45:05.768+09:00ノマドサークル共同利用コモンズ<p>共同利用コモンズ</p><p>部室のないサークルや新しいサークルが利用できるエリアを設定して新しいキャンパスカルチャーを育成する。</p><p>古いサークルの既得権益を崩そうとしてもラチがあかない。</p><p>百周年記念館の2階と3階を活用する。</p><p>大部屋方式 参考になるイトーキのオフィス設計</p><p>フリーアドレスオフィス https://www.itoki.jp/solution/f_address/</p><p><br /></p><p>学生部による管理</p><p>登録は毎年更新制</p><p>学生生活課がノマドサークルに年間利用権を付与するものとする。</p><p>学生証をピッして入室できるようにする。機械式で、かまわない。登録学生だけ入れるようにする。登録学生数以上は入れないものとする。</p><p>荷物は毎日必ずコインロッカーにしまうことにする。コインロッカーの扉は透明にする。</p><p>テーブルはカンタンに移動できるようにする。</p><p><br /></p><p>場所取り防止策</p><p>大部屋方式なので、特定のサークルが決まった場所を占拠しないように、無断の全員ミーティングは禁止する。</p><p>ミーティングをするときは事前に登録してアドホックにテーブルを移動してスペースを形成する。そのときは入口で告知する。予定表があるとグー。</p><p><br /></p><p>ファンクラブスタイルによる資金調達支援</p><p>大学公認のクラウドファンディングによる資金獲得 https://readyfor.jp/college</p><p>クラウドファンディングを通じた一種のファンクラブの構築、卒業生との関係形成</p><p><br /></p><p>インテリジェントな発信支援</p><p>サークルの連絡サービスと公開手段を提供する。必要なのはブラウザだけ。デバイス依存ほぼなし。</p><p>自動動画作成システム https://richka.co/</p><p>パンフレット作成システム https://www.toppan.co.jp/solution/service/edinavi.html</p><p>発信型サークルの育成 ノマドサークル用ウェブサイト</p><p>モニターあるいはテレビでプレゼンできるデバイス、スマートフォンを使う。パソコンは置かない。HDMIケーブルはデフォルト。アンテナはつながない。</p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-51023665035916549802022-01-18T23:13:00.004+09:002022-01-18T23:13:38.760+09:00すべてクラウドによる授業の作品化(メゾメディア活用実践研究)<p> 本書は平成二八年度「特色ある教育研究」に採用されたプロジェクトのスタートアップ作品である。そこで、このプロジェクトについて述べておきたい。以下は申請書類から。</p><p>すべてクラウドによる授業の作品化(メゾメディア活用実践研究)</p><p>申請者 野村一夫(経済学部/教授)</p><p>実施学部・学科名 経済学部全学科</p><p>共同研究者 細井長(経済学部/教授)・宮下雄治(経済学部/准教授)・山本健太(経済学部/准教授)</p><p>事業の概要(計画期間全体)</p><p>○目的</p><p> 経済学部教育における「授業の作品化」。美大音大では自明のプログラムであるが経済学部教育ではほとんど意識されてこなかった。しかし学生にとって有意義な授業を考えたとき、知識のデザイン・体験の質・トレーニングの仕方・出会いの工夫に加えるべきプログラムではないか。第1に授業を「見える化」すること。第2に学生が学修成果を手触りのある作品として獲得すること。第3にその教育効果を測定することである。ここを「メゾメディア」の駆使によって抜本的に改善し、先進的な高等教育プラットフォームを構築する。メゾメディアとは配布配信先を限定したメディア技術のこと。印刷物・SNS・チラシ・ML・グループウェアなど。</p><p>○内容</p><p> 授業で生まれるコンテンツは完成品ではないので配布・配信の領域設定が決定的に重要である。かと言って参加者にしか共有しないのではオープンな実績(これが作品)にならない。授業参加者以外の人たちとも共有することがポイントである。他の同級生・教員・後輩・訪問企業などと適切に共有できるかが問題である。本研究では「メゾメディア」という新概念を高等教育に適用して「適切な範囲内での授業の作品化」を進める。さらに今回は「すべてクラウド」で作品を制作する。第1にクラウド編集システムを利用して新書形式でオンデマンド出版する。これが前例なしの技術的最先端。第2にその教育効果をアンケートによって測定する。第3に授業のドキュメントを制作して共有する。さらに教育現場における知的財産権問題の最適解を探る。</p><p>○計画</p><p> まず「授業の作品化」に参加する授業を確定する。現時点では「基礎演習A・B」「経営学特論(ビジネスデザイン)」「経営学特論(リーダーシップ)」「野村ゼミ」などが参加予定。合計9冊の新書を制作する。4月にメゾメディアのプラットフォームを構築し、クラウド出版システムの導入、学生による編集チーム・取材チーム・アンケートチームの編成を行う。先行チームから新書制作、ゼミ説明会に合わせてドキュメント制作、後期に後続チームの新書制作、期末にアンケートを行い教育効果を測定する。最後に報告書を新書としてオンデマンド出版して、学内外に日本初の高等教育プラットフォームのフラッグシップを掲げる。</p><p>〇期待される成果等</p><p>1 外部からはわかりにくい経済学部教育の具体的内容を可視化して共有できる。</p><p>2 学生個人のわかりやすい成果物として活用できる(企業との接触場面など)。</p><p>3 作品として残るので、将来の学生たちの具体的な(手触りのある)学修目標になる。</p><p>4 「基礎演習B」のプレゼン大会の内容など、アクティブ・ラーニングと融合させることで「教育のアクティブ化と作品化」をアピールできる。</p><p>5 「授業の作品化」が、いかなる教育効果を持つのかを検証して、全学に提案できる。</p><p>■教授会で配布した募集チラシ</p><p> 以下は教授会で配付したチラシの本文である。</p><p>特色ある教育研究「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」</p><p>参加チーム募集</p><p>目的 授業を見える化する。学修成果を手触りのある作品にする。</p><p>内容 クラウド編集システムを利用した新書制作。モノクロ写真可能。縦書き。</p><p>効果 学生に作品をもたせる。提出リポートの共有。後輩の目標になる。</p><p>研究課題</p><p> 教育内コンテンツの配布範囲をどのようにコントロールするか。教育効果の測定。</p><p>参加予定チーム(刊行予定順)</p><p> 野村ゼミ3(4月刊行)野村ゼミ2(6月刊行)ビジネスデザイン、リーダーシップ、情報メディア問題入門(8月刊行)野村担当クラス基礎演習(1月刊行)基礎演習Bのプレゼン大会の「クラス代表にプレゼン」の読み原稿、研究報告書(3月刊行)。</p><p>★募集内容</p><p> 演習系・フィールド系などの参加チームを募集します。</p><p> 担当教員の責任編集を条件とします。学生の原稿を編集して完全原稿にしてください。</p><p> 著者名は「授業名+参加学生」を基本とします。</p><p> 版下製作・オンデマンド印刷は野村がトッパンのシステムを利用して行います。</p><p> 校正は1回とします。基本的に内容修正はなしで。縦書きに伴う微調整のみ。</p><p> 冊数は50部前後。授業によって調整します。</p><p> ご希望の先生は野村[email protected]宛てに16日正午までにお知らせ下さい。担当教員・授業名・学生数・タイトル・全員か選抜か・想定部数・趣旨をざっとでけっこうです。1月に配布した野村編『女子経済学入門』を参照して下さい。</p><p>■基礎演習で制作した『女子経済学入門』</p><p> 私はここ十年ほど一年生の基礎演習も担当してきた。この授業が一番悩ましいのは、おそらくどの先生も同じだと思う。けれども私自身はかつて『社会学の作法・初級編』という本を一九九五年に出版していて、導入教育にはある程度の考えはもっていた。ただし、それをそのまま現在の国学院大学経済学部に当てはめるわけにはいかず、それなりの模索過程があった。学部教務委員会や自己点検・評価委員会で議論してきたこともあって、二〇一二年の学部共同研究として基礎演習のあり方の再検討をした。アクティブ・ラーニングをはじめとして協同研究やケース研究のやり方を勉強した、その成果が『ゼミ入門──大学生の知的生活第一歩』(文化書房博文社、二〇一四年)である。いろいろ彷徨していた私の結論は最後に原点に還ってしまい「本を読めるようにする」ということであった。そして書け。ここが分かれ目だと考えたのである。</p><p> 経済学部自体は基礎演習の全面的なアクティブ・ラーニング化に踏みきり、私も慣れないながらもプログラムに沿ってやっている。昨年度は、先行チームとは別に私なりの試みをして今年に備えた。詳しいことは『女子経済学入門』に書いた。ポイントは「体験」と「作品」。アクティブ・ラーニングの先行チームは、ものすごい馬力でスタイルを確立していった。ビジネス・コンテストは、シャイで内気であか抜けない本学経済学部学生のイメージを一新するかのようであった。これが必要だということは実証されたと感じた。要するに必要だったのは、授業の「体験」だったのだ。そこに異論はない。</p><p> しかし、それは形に残らない。学生自身が成長するので、それはいつかは形になるのであるが、そのつど形にしていけば、本人も友達も教員も後輩にも共有できるのではないか。そして、後輩たちにとって目に見える目標になる。それが「作品化」であって、それ自体は歴代の野村ゼミでやってきたことである。ゼミには選考があり、それなりの志向性をもった学生が覚悟して入ってくる。だから雑誌制作という難易度の高いことができる。そう考えていた。しかし私はそれを基礎演習にスピンオフできるのではないかと考えた。そして最後のレポートを本にすることをめざして、一年間トレーニングをしたのである。具体的なプロセスについては『女子経済学入門──ガーリーカルチャー研究リポート』(国学院大学経済学部野村研究室、二〇一六年)にメイキングとして書いておいたので、ここでは省略するが、結果としてなんとかできた。素材にした本はほとんど野村ゼミで読んできたものである。LINEのおかげで連絡がきわめてスムーズだったし、十二月中旬にトッパンのクラウド編集システムの開発に参加できたのもラッキーだった。おかげで大学の紀要どころか、一流出版社品質の新書本になった。本としての「品質」は、じつは「作品化」にとってかなり大事な要素なのである。</p><p>■学生が書くということ、あるいは巨人の肩の上に</p><p> 本プロジェクトの基本的な考え方のひとつは、学生の作品は必ずしも「創作物」でなくてもいいのではないか、「編集物」でいいのではないかということである。ただし条件がある。</p><p>(1)信頼できる情報源に到達しているか。</p><p>(2)それなりの分量の情報・知識を収集しているか。</p><p>(3)自分なりの基準をもってセレクトしているか。</p><p>(4)素材から的確な論点を引き出せているか。</p><p>(5)チームでの議論に耐えうるかを検証しているか。</p><p>(6)自分なりの工夫をして表現しているか。</p><p> 原稿としては、この六点を満たすのが理想である。企画編集執筆の各段階で何度も確認してきたことだが、本ができたのちに全ページを読んだ上でゼミとして振り返りができればいいと思う。</p><p>■天才でないのであれば</p><p> 経済学部の授業において「研究成果」は「編集物」でよいという論点について、背景となる考え方を補足しておこう。</p><p> 一般に人文社会系の勉強をまとめるさいには次の点が充足していなければならない。</p><p>(1)先行研究をフォローすること。</p><p>(2)オリジナルな論点があること。</p><p>(3)妥当な手続きを取っていること。</p><p>(4)形式的要件を満たすスタイルで表現されていること。</p><p> もし学生の作品が一般公開されるとなると、この四点を満たす必要がある。しかし、そうでない場合は(1)を満たすことが重要である。これを無視できるのは天才かカリスマだけであろう。(2)さえあれば、他の条件は支持者や追随者によって整備されるからである。こういう人は、それほど世の中にいるものではない。そう、学生にも教員にも。そもそも、天才にしてもカリスマにしても日本の大学制度にはなじまないであろう。</p><p> 経済やその隣接領域について、学生はほとんど白紙状態で大学に来る。高校の「政治経済」の教科書のうち経済を扱っているのは、わずか百ページである。しかも受験は経済の授業より早く来る。だから経済学部生であっても「政治経済」で受験した経験のあるものはごく少数である。</p><p> この領域は年ごとに大きく変化する。たとえば一年生の基礎演習Aでこの春に検索の実習として扱ったテーマは「パナマ文書」である。これは春までだれも知らなかった情報である。その背景には「タックスヘイブン」「オフショア経済」などがある。グローバル経済が直面する「闇の経済、裏の経済」について「パナマ文書」から系統的に説明できる人はまだまだ少ないはずだ。しかし、かれらが就職したとたんに、この種の問題は無関係ではなくなるのである。だからこそ、ニュースの背景にある事柄についての先行研究を読む必要があり、何を重点的にセレクトするかなど、それはそれで重労働なのである。学生は先行研究にキャッチアップできれば十分だと思う。</p><p>■原宿ナウマン象のように</p><p> 「ここにいた」ことを記録する。それをアナログで残す。残像を形にする。教育のプロセスにおいてなされるものごとはすべて未熟であるに決まっている。だから、足跡も痕跡も残さないようにする方が安全だという考えはまちがっている。生きて学んで感じたことをそのつど形にしていくことで、それは共有され、あとから来る人たちに踏み石として活用されれば、十分意味がある。自分たちの足跡も形になれば、それを読んで「ああ、こんな時期もあったね」と感じることで吹っ切って、自然に次のステップに進めるものである。国学院大学におけるそうした痕跡の集積が「国学院物語」という群像劇を形成していくことになるのではないか。本プロジェクトはその第一歩である。原宿ナウマン象の新しい第一歩である。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-16914366906492185602022-01-18T23:07:00.009+09:002022-01-18T23:07:42.509+09:00大学の総メディア化とは何か<p>大学の総メディア化とは何か──大学の情報メディアは5つに分けるべきだ</p><p>野村 一夫(研究代表者)</p><p><br /></p><h4 style="text-align: left;">大学の総メディア化</h4><p> 中間考察クロニクルに整理したように、本プロジェクトは1冊1冊作るたびに新しい挑戦をしてきた。まず縦書きにするというのが編集上とても難しい。苦労があったとしたら、ほとんどが縦書きにするための編集上のノウハウに関するものであった。横書きであれば、数日で版下はできあがることも検証した。トッパンエディナビは学生でも操作できることもわかった。それでずいぶん助かった。</p><p> ノムラゼミラジオ計画も技術的にはほとんど苦労しなかった。機材はiPhoneアプリ、公開はFacebookページで済んでしまったからである。問題はどのようなコンテンツに学生を巻き込んでいくか、それが学生にとってどのようなトレーニングになるかということである。</p><p> 授業を安全に見える化するメリットの基本は、縦横につながる学生と教員のあいだで作品を共有するということである。作品共有から大学の物語の苗床集団が縦横に育っていくということである。大学の物語を作るのは、他でもない学生たちであるから。</p><p> 本報告書の最後に確認したいことは、そのプラットフォームをどのように整備していくかという問題である。</p><p> これらを総括して「大学の総メディア化」と呼ぶことにする。総メディア化は、しばしば勘違いされているように大学が「発信者になる」ことではない。大学が「中継ぎに徹する」という意味である。大学が高等教育機関と定義される以上、発信者になるのは学生と教員である。ここには大きな発想の転換があるので注意されたい。これには研究と教育のあり方を問う根本的な問題が関連してくるが、本稿では最後にこの問題について基本的な考え方を書いておきたい。</p><p> 本プロジェクト自体は、高等教育における「教育のメディア」について実地に検証をおこなうものである。私個人として強い関心があるのは、まさに「教育のメディア」だけである。ところが、じっさいには「教育のメディア」は教室の整備をして終わりというものではない。総じて「大学の情報メディア」についての本研究プロジェクトの結論を提示しておきたい。</p><h4 style="text-align: left;">大学のメディアはどうなっているか</h4><p> 大学の情報メディアは、理念によって5つに分割すべきである。</p><p>(1)広報のメディア</p><p>(2)研究のメディア</p><p>(3)教育のメディア</p><p>(4)入試のメディア</p><p>(5)事務のメディア</p><p> これらを分離する理由を明確にしておこう。</p><p> 広報のメディアは、大学のプレゼンスを広く知ってもらうためのものである。しかし、日常的にはグッド・ニューズ・オンリー・システムになる。大学にとって都合の悪いことは出せない。この場合「大学にとって」ということが大きな論点になる。つまり、その場合の「大学」とは何を指しているのか。それが特定の部署の都合のいいように御旗として使用されることの多さに私自身は辟易している。たとえば「大学にとって不名誉」という判断は、そうかんたんになされるべきではない。たとえば学生の不祥事が「大学にとって不名誉」かどうかは、全学の学生部委員会の慎重な議論によって定義されるのである。ところが広報のメディアに関しては、広報課とその周辺で「バッド・ニュース」として先行して判断されてしまう。広報はそういう原理で動くものである。とくに古い広報はそうなのである。最近の広報は「バッド・ニュース」も伝える工夫をするようになっているが、ネットの対応のように、そう単純ではない。</p><p> 研究のメディアは、研究内容と成果物を広く公開するものである。理念的に言えば、リポジトリのようにオンラインで世界中からアクセス可能でなければならない。完全な公開性をめざすなら多言語対応である必要がある。Googleなどの翻訳サービスは約100カ国語に対応しているが、これを活用すれば、ほんとうの世界への発信になる。それによって外国の研究者との交流も始まる。日本語だけでは不十分である。せめて論文のスタイルを世界標準に揃えておくことが前提であろう。私が編集長をしている『國學院経済学』では『シカゴ・スタイル』に準拠するように変更したばかりである。スタイルが世界標準であれば、機械翻訳であっても、ある程度のことは伝わる。</p><p> 教育のメディアについては、これまで十分に議論されてきたとは思わない。教育学系のメディア実践の論文はたくさん生産されているが、高等教育レベルのものでヒントになるものはほとんどない。たいていそれは教室内でのコミュニケーションにとどまって、しかも、あとに何も残らない。</p><p>教育のメディアの特徴は「教育現場を安全に公開すること」と「学生の成果物を安全に公開すること」の2つである。なぜ公開が必要なのかというと、関係者における成果物の共有が必要だからである。たとえば学生が提出したレポートを読むのは担当教員だけである。学生の友だちが何を書いたかも共有されない。情報共有のスタイルとしては、教員を中心とする扇型になる。全体を掌握しているのは教員のみとなる。これだと学生間でレポートについて語り合うチャンスはほとんどない。だから口頭発表が必須である。しかし、次の年にはつながらないから、また1からやり直しになる。それでは授業としての成長がない。「これしとけば、いいんじゃね」みたいな先輩の言葉を鵜呑みにして縮小再生産になることが多い。これは良くない。年々、学生たちの成果物がレベルアップしていかないと高等教育とは言えない。先輩たちを乗り越えていく仕掛けが必要だ。そのために継承が必要なのである。</p><p> 入試のメディアは、厳格に運用されなければならない。入試情報とウェブ出願のメディアとして別個に運用されるべきである。センター試験が終了することが決まって、これからAO入試が多角的に分岐していく。そのさいに情報端末でデータベースを活用して小論文を書くといったものも出てくる。そのときに使うセキュアなシステムが必要である。つまり入試のメディアの仕事は「入試広報」だけでなくなるのである。すでにウェブ出願は当たり前のことになっている。次は入試そのものに使用できるメディアが必要になる。その準備はできているだろうか。</p><p> 事務のメディアは、基本的に厳格に管理されている。問題なのは、情報共有の仕方である。エクセルやワードで文書作成して、それをメールに添付して共有するというやり方は安全ではない。ファイルをアップロードしたりダウンロードしたりする方法はレガシーなものである。転送に転送をされた場合、ファイルの行方がわからなくなる。だれがそのファイルを共有しているのか、改訂したのか、最終ヴァージョンはどれなのか、といったことが誰にもわからない。これは情報のガバナンスができてないということである。職員のシステムは教員の心配することではないと考えられているが、じっさいには教員も膨大な事務作業をおこなっている。教務・入試・自己点検などはセキュアな情報システムが必要になるはずだが、基本的に使えるのは授業用のシステムだけである。</p><h4 style="text-align: left;">教育のメディアの要件</h4><p> 教育のメディアとして確保しなければならない要件は安全性である。</p><p> では、安全とは何か。メディアは何がいいのか。どのように運用するか。教員の資質をどのようにアップデートするか。中間考察クロニクルでそれぞれのオケージョンに即して書いておいたが、いくつかの論点を列挙しておきたい。</p><p>(1)印刷媒体は有効である。手触りのある本にすると、書類とともに破棄されることなく本棚に残る。授業の経験そのものに価値があるのと同時に、授業の作品化とくに印刷媒体にすることの価値は大きい。</p><p>(2)学生のコンテンツをむやみに公開することはリスキーである。学生は「学びのプロセスにある人」であるから、すでにあるコンテンツに学ぶのは当然のことである。それを授業においてレポートにして提出されたものには,公開にふさわしくないものがある。引用や出典が明確にさせれば解決するから、そう指導するにしても、個人情報を含めて全面公開というわけにはいかない。したがって、一般公開用のブログやサイトでは難しい。</p><p>(3)ソリューションとして本プロジェクトで実地検証したのが、クラウドによる編集システムとオンデマンド印刷の組み合わせであった。「トッパン・エディトリアルナビ」はクラウド上でページものを編集できる国内ではほとんど唯一のシステムである。縦書きとなると、ここの独擅場ではないかと思う。もともと出版社向けのクラウドサービスであったものの、電子書籍用に使用されることがほとんどで、私たちの『女子経済学入門』が最初の印刷本だったとのことである。現時点では判型が文庫と新書に限定されているのは、そういうものを大量に出す出版社を想定して作られているからである。これをオンデマンド印刷と組み合わせてみたのが本プロジェクトの創案である。</p><p>(4)予算の問題については、あれこれ工夫した。トッパンとしてはエディナビについて大学と契約するのは初めてで、最初は従来の出版社用の見積もりであった。しかし、大学はベストセラーを狙っているわけではないので、それだと割高になってしまう。全学的対応であれば、それでもかなり安く済むが、一研究プロジェクトとしては荷が重い。そこでページ単価で契約することを提案し、研究開発機構もトッパンも合意してもらえた。本プロジェクトは全部で十二万ページとして契約した。これだと予定通りに行かなくても、他の本の部数を増やして調整すればいい。授業はなまものなので、予定通りに行くとは限らないから。</p><p>(5)コンテンツの配付範囲をコントロールしながら関係者のあいだにコンテンツ共有する仕組みを本プロジェクトでは「メゾメディア」と名づけた。メゾメディアの有力候補がトッパン・エディナビによる編集とオンデマンド印刷の組み合わせであった。では、それだけでいいのか。ネットでメゾメディアはできないのか。と考えて、計画にはなかったネット活用を始めた。それがネットラジオである。これは「渋谷のラジオ」にゼミ生がレギュラー出演していて話を聴いて気づいた。ラジオだと顔が見えない。それだと身内以外にも公開できる。ファイルの流出を防げるサービスを探したところ、Facebookページが最適だと判断して「ノムラゼミラジオ計画」を作ってみた。学生とラジオトークも続けている。ゼミ論の予告などもしているし、学生に何かシリーズをやれと指示しているが、ゼミ論とメディア制作で手一杯のまま就職活動に突入したので休止している。これは継続する価値があると思う。Facebookページでは別に基礎演習Bのコンテンツも公開した。またラジオトークのようなレッスンもしてみた。それぞれ名刺をクラウドで作成して学生たちに配付した。</p><p>ノムラゼミラジオ計画 https://www.facebook.com/shibuyaeast/</p><p>国学院大学経済学部経営学科1年2組 http://econorium.tokyo</p><h4 style="text-align: left;">提案</h4><p> 以上の5つの情報メディアの管理権限は、それぞれのトップが持つべきである。トップが直接管理できないときは、トップ直属のオペレーターが指示通りにおこなえばよい。大学のメディアは5つの理念と活動によってそれぞれ独立かつ自律的に運用されるべきである。混在させたシステムは、邪悪になりがちである。なぜ邪悪になるかというと、情報システムとメディアの管理者が,ユーザーと内容に関するヘゲモニーを持つからである。管理者権限は、ふつう人が漠然と想像しているものよりも、はるかに強力である。それはほぼビッグブラザー並である。職位は高くなくても事実上の最高権力をこっそりと行使できる。しかし、それにもかかわらず5つのメディア領域の原理とルールはまるで異なるのである。教育のメディアを広報のメディアの原理で運用されたら、万事ことなかれになるにちがいない。何もできないように設定にするのが無難ということになる。それでは教育のメディアとして機能しない。</p><p> 現状の管理態勢から5メディア態勢に移行する最もかんたんな方法は「すべてクラウド」にすることである。クラウドでは、暗号化と2段階認証は必須であり、しかも活動のすべてが記録される。日常的な管理は劇的にかんたんになり、コンテンツに集中できるし、サポートする余裕ができる。システムのアップデートはクラウド側でおこなわれるので、こちらは必要ない。端末は高性能パソコンである必要はなく、数万円のハードディスクなしのパソコンで可能である。安いパソコンであれば、2年周期ぐらいでリプレイスでき、リスキーな古いパソコンとOSの排除がかんたんになる。クラウドはマルチプラットフォームだから、スマートフォンでも作業ができる。</p><p> 組織のガバナンスとしては、情報メディア担当理事を置くべきであろう。情報メディアの管理を課レベルに任せるべきではない。みずほ銀行の大規模なシステムトラブルでは、現場のことが上層部に伝わらず見切り発車をしてしまったことが構造的な要因であった。対策としてなされたのは情報システム担当取締役を設置することだった。たんに実務に長けた人ではなく、情報メディアに関する技術・法務・理論・政治に見識のある人とチームを組んで効果的に制御できる態勢を整えることが重要である。</p><h4 style="text-align: left;">最後に</h4><p>「すべてクラウド」でどこまでやれるかについてはここ3年間ずっとやってみた。学生はわりとスムーズに対応してくれる。設備も装備もそれほどいらない。本プロジェクトで得られた知見はまだまだあるが、熟すのに少し時間が必要である。しかるべきメディアで詳しく説明したいと思う。</p><p> 本プロジェクトの立ち上げにさいして共同研究者として名乗りを上げていただいた経済学部教務委員会の先生方と許諾をいただいた学部執行部および全学教務委員会に感謝したい。研究開発推進機構のみなさん、とりわけ相川さんには終始お世話になった。深く感謝したい。出版社向けに開発された革新的なクラウド技術を教育機関に提供してくださり、たえずサポートをしていただいた凸版印刷株式会社のスタッフのみなさんに深く感謝したい。そして、この過酷なプロジェクトに参加し、思い通りの成果物を提出してくれたゼミやクラスの学生たち全員に感謝したい。</p><p> 本研究は「平成二十八年度國學院大學特色ある教育研究」に採択されたものである。謹んで國學院大學に感謝したい。</p><p>二〇一七年四月六日 研究代表者 野村一夫(経済学部教授)</p><p>[email protected]</p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-22499846889921999562022-01-18T22:56:00.007+09:002022-01-18T22:56:38.474+09:00『社会学感覚』索引<p>■あ あいさつ 236 アイデア・プロセッサ 221 アイデンティティ 63,189-193,194,197,206,208-209,217-219,227,291,318,363,373,388,433 アイデンティティ・クライシス[アイデンティティの危機] 189-193,444 アイデンティティ論 178 アイドル現象 414 アウトサイダー 440 アウトサイダー主義 154 アウラ 405-406 アウラの喪失 406 青井和夫 142 青木保 53 赤池憲昭 391 アカ狩り[レッドパージ] 452 赤坂憲雄 45,376,454-455,470 秋元律郎 86,90 阿木幸男 471 アクチュアリティ 274 悪の劇化 444 悪魔界のうわさ 357 阿含教 393 浅井信雄 376 アサイラム 91 朝倉恵俊 93,100 浅野健一 283,288,296 朝日新聞 278-279,283,294,486,488,490 亜細亜製薬 486 味の素 300 芦部信喜 276 アジール 127,370 安積純子 318 あたかも□□であるかのように 201 新しい社会運動 333,457 新睦人 111-112,119,131,158,175,211,251,392-393 渥美和久 433 阿閉吉男 52,63,71,79-80,123,125,129,131,159,204,316,376-377,389,420 アドルノ 169,397 アナウンス効果 23-24 アニミズム 382 アノミー[無規制状態] 117,140,142 アノミー的自殺 117,140 アフタヌーン・ショー 280 天木志保美 34 天下り 322,496-497 天沢退二郎 179 天野祐吉 296 網野善彦 369 アメリカ病院協会 527 あやつり人形[マリオネット](劇) 166,196-197,202-203 鮎川潤 148 新井直之 175,274,279,285-287,292 荒川幾男 169 アリエス 348-349 有地享 17,361 有吉広介 257 アンダーソン 87,89-90,119 アンダードック効果 23 安藤英治 81,400 アンドレスキー 24 アンビヴァレンス[両義性] 154,213 アンプル入りかぜ薬によるショック死 490&nbsp;&nbsp;</p><p>■い 飯島伸子 392-393 イエスの方舟 396,454 「イエスの方舟」報道 375-376 家元制度 328 異化 49-50 医学[近代医学] 81-82,101-102,509-510 医学パラダイム 509-515,525-526 医学パラダイム外部の問題点 511 医学パラダイム内部の問題点 510 医学パラダイムの成果 509 異化効果 49 異化の原理 49 五十嵐二葉 283 生松敬三 389,399 異議申し立て運動 193 井口浩二 493 池上嘉彦 455 池田謙一 264,271 池宮英才 400 意見の風土 264 医師→医者 医師の専門家支配 526 石川晃弘 170,223 石川実 44 意識 10,21,106,232 意識の有無 20 石黒毅 47,91,217,239,318 意思決定システム 330 石崎晴己 64 石丸正 238 いじめ 454-456,468 医者[医師] 30,205,440,499,505,509 〈医者−患者〉関係のモデル 522-523 医者の役割 211 異常 135-136,141 異人→異邦人 イーストホープ 86 イスラム教 52,55,376-377,383 イスラム原理主義 391 磯村英一 87 イタイイタイ病 453 板倉宏 329 市川孝一 513 市野川容孝 145,396 一覧性 250 一神教 55,383 逸脱 44,141-142,329,440,444,493 逸脱行動 141,440 逸脱した病者役割行動 517 逸脱者 44,153,440,516 逸脱的役割 205,440,513 一般化された他者 207-208 一般社会学 108 一般理論 112 イデオロギー 33,81,142,343,351,362,419,424 伊藤るり 34 意図せざる結果 78-79 稲葉三千男 160,187,206,232,279,282 稲増龍夫 366,409,414 犬のケンカ 233 井上俊 175 井上順孝 392 井上博二 168,401 井の頭公園カップル破綻説 300 猪口邦子 463 異文化間コミュニケーション 45,239-240,243,525 異邦人[よそ者/異人] 44-46,205,453,470 異邦人の解釈学的効果 45 異邦人の眼で見る 44,49,232,240 今井賢一 333 〈いま、ここ〉の知識 275 今田高俊 34-35,64,111,334,457 今西錦司 10 今村仁司 15,169,223 意味 234 意味されるもの→シニフィエ 意味するもの→シニフィアン 意味喪失(問題) 80-81,142,319 意味づけのコード 362-363 意味の共有 236,241-243 意味の消費 356 意味の世界[意味世界] 65,76,78,86,501 意味連関 77 移民問題 86 イメージソング 413 居安正 16,44,129,136,200,322,376,420 イリイチ 450 医療 82,97,273,499,509,512,522,525-526,528,530-531 医療化 450 医療社会学 101-102,509,515 医療ジャーナリズム 508 医療責任の分散 524 医療の社会化 514 岩崎信彦 107 インサイダー主義 146,154 印象操作 217 インフォーマル・グループ 320,323,328,497 インフォームド・コンセント[知らされた上での同意] 527,530 インフルエンザ予防接種 491&nbsp;&nbsp;</p><p>■う ウー 517-518,520 ヴァーガス 238,240 ヴァルネラビリティ[攻撃誘発性/被撃性] 455 ヴァルネラビリティと有徴性 455 ウィーバー 228 ウィルス説→スモン感染説 ウィルソン 390 ウィンダール 262 上田昌文 492 上野千鶴子 174,343-344,349,363,371,446,535 ウェーバー[ヴェーバー] 11,51-53,62-63,65,69-75,80-83,106,121-126,135-136,142,159,168,174,234,316,318-319,384-385,387-390,398-401,415,420-422,429,432-433,462,469,535,539 ウェーバーの意味喪失問題 80 ウェーバーの合理化論 398 ウェーバーの支配社会学 420 ヴェブレン 30,361 ウェルズ 256 ウォークマン 412 ウォーターゲート事件 274,278 受け手[オーディエンス](の役割) 205,216,228,237-242,253,257,261,266,269,285,401,406,503-505 受け手の解釈作業[受け手の解釈実践] 269-270 受け手の解読コード 461 受け手の感情 281 受け手の選択的メカニズム&nbsp; 受け手の能動性 269 〈受け手の能動性〉対〈メディアの影響〉 269 受け手の反応 234,236,242,457,461 受け手批判 293 受け手の明識 292 潮木守一 33 内川芳美 175,276 内田隆三 174,432 ウッドコック 471 宇都宮輝夫 18,514 裏返してみる 43 浦野和彦 199 売上税 263 うわさ[流言] 297-310,437 うわさとの関わり方 308 うわさについての常識 306 うわさの合理性 309 うわさの法則 305 運動的関心 138-139,151&nbsp;&nbsp;</p><p>■え 映画 250 エイジズム[年齢差別/老人差別] 447 エスノグラフィー 88,92 エスノメソドロジー 34 エートス 16,71,96,104,108,138,157,503 江原由美子 34,270,345,434,441-442,444 海老原明夫 62 エポケー[判断停止] 218 エホバの証人輸血拒否事件 35,145 エモーショナリズム 281-282 エリクソン 192-193 エリート 44,68,190-191,329 エリートとしてのアイデンティティ 191 遠近法 399 演劇的個性 202 エンゲルス 57,105-106,184,426 えん罪事件 283,465 演奏会 403 演奏会のモラル 402 遠藤湘吉 106 エンマ 281&nbsp;&nbsp;</p><p>■お 老い 127,445-448,519-520,522 老いに対する六つの偏見 447 老いの意味 43,446 老いの積極的意味 447-448 オイルショック 391 オーウェル 80,94,425 大内力 106 大鐘武 63,168,401 大きな物語 357 大熊一夫 127,513 大島直政 377 大谷明宏 463 大月隆寛 298 大塚英志 174,306,356-357,362-363,371,373-374 大塚久雄 70-71,319,389,399 大友克洋 454 大野智也 522 大橋幸 342 大村英昭 44,119,158,378-379,382,390,393,444 大本教 392 岡崎次郎 184,419 岡澤憲一郎 71,168,401 岡田直之 27 岡堂哲雄 447 岡原正幸 318 岡部慶三 276 オカルト・ブーム 392 小川博司 410-415 沖縄返還交渉に関する外務省機密文書漏洩事件 276 荻野綱男 221 奥平康弘 276 奥出直人 221 小倉豊文 179 オグリキャップ人気 368 送り手(の役割) 205,228-230,239-240,253 〈送り手−受け手〉図式 251,253 送り手・受け手の共犯 368 〈送り手−受け手〉の役割 253-254 送り手と受け手の分離 276 送り手の意図 236,242,265,269,461 小此木啓吾 192 小此木真三郎 443 長木征二 414 お嬢様ブーム 368 尾高邦雄 171,325,327 尾高朝雄 490 落合恵美子 349-350 夫の役割 343 オーディエンス→受け手 オーディエンスとしての他者 504-505 「男らしさ女らしさ」の呪縛 48 大人としてのアイデンティティ 191 大人の社会化 208 尾中文哉 318 お涙頂戴 49,281 おニャン子クラブ 414 小野薬品 489 おはらい 379 小原敬士 361 オピニオン・リーダー 260 オペラ・ブーム 413 おやじギャルブーム 368 親−年長児モデル 523 親−幼児モデル 523 オリジナル楽器演奏ブーム 414 オリジナルとコピーの区別 408 折橋徹彦 206,215 オルポート 305,437 オルレアンのうわさ 92,301-304 音楽 397-415 音楽イベント 414 音楽化社会[音楽する社会] 410,412,415 音楽現象 401 音楽社会学 52,397,400 音楽の受け手 401,406 音楽の正しい聴き方 401-402 音楽の変容 406 音楽文化の担い手 403 音響物理学 400 恩恵による選びの教説 72 オンブズマン 500&nbsp;&nbsp;</p><p>■か 海外帰国子女[帰国子女] 39,456 外国人労働者 35,301,306,437 介護サービス 347 解釈作業→受け手の解釈作業 解釈作業の解釈図式 270 解釈システムとしての組織 334 解釈的過程[選択的解釈過程] 202,210 会社供養塔 379 会社人間 30,322,325 階層秩序化 430 外的拘束力 159 外敵による内集団の統合 132 概念 121 概念的に把握する 56 カウンター・カルチャー→対抗文化 カオス 388 加害者(の役割) 205,329,443,502,504 科学 149 科学ジャーナリズム 508 鏡としての他者 185 鏡に映った自我 183,185 核アレルギー 425 学園型(大学) 33 核家族 51,350 確認書和解 488,502 家具の音楽 406 加護野忠男 324 梶井正 486 柏岡富英 197 梶田孝道 29 鹿島敬 343-344,347 家事労働 343-344,350 ガース 67 カステル 107 家族 51,116,339-352 家族愛 51,349-350 家族機能 339-342 家族圏 351 家族成員相互の強い情緒的関係 349 家族における老人の介護担当者 346 家族の集団性の強化 350 家族の比較社会学/歴史社会学 348 家族の役割構造 342,345 家族病理 143 家族崩壊 350 家族役割 205 型 17 片親家族 43,143,351 語りのスタイル 304 価値合理的行為 123-124,389 価値自由 136 価値判断 142-143,146,273,307 勝田晴美 331 カッツ 257,260 葛藤構造 524-525 河童 304,453 勝又正直 400 桂敬一 280 家庭(の)責任 344-345 家庭内離婚 35 加藤俊彦 106 加藤秀俊 26,327 金井淑子 349 家内領域と公共領域の分離 349 金沢実 24,213,260 金子郁容 333 貨幣 54,57 鎌田彰仁 34,38,171,387 鎌田慧 94,503 神[カミ] 54,72-74,381-382,450 神隠し 453 仮面 195,209,218,227 仮面ライダースナック 356 通い婚 351 カラオケブーム 412 カリスマ 125-126,384-387,390,392,421 カリスマ的指導者 385,391 カリスマ的支配 125-126,385,421 カリスマの日常化 126,385,406 ガリレイ 49 カルチャー・ショック 45,46,59 カルヴァン 72 カルヴィニズム 72 カルガモの引越し(報道) 286 カルチュラル・スタディ派 107 ガルトゥング 466-467 加齢の神話(老人の) 447 川合隆男 86 川上澄江 287,295 河上倫逸 81,104,319,399,457 川名英之 485,487,489,492 川村暁雄 492 観客 49,166,205,216,285 環境制約型コミュニケーション 424-426 環境適応モデル(組織の) 335 環境認知 266 環境の監視 268 監禁刑 429-430 関係の第一次性 184 観察主体 21-22 患者(の役割) 203,205,487-488,501,505,522,525-531 患者自身の自己管理 512 患者の権利 526-530 患者の権利章典 527 患者の権利宣言 526 患者の権利に対するリスボン宣言 529 患者の〈声〉 525 患者の「最善の利益」 523,525 患者の自己決定権 526 患者不在の医療 510 患者への差別 487 患者役割からの逸脱 203 観照→理論的実践 感情中立性 153 感情的行為 124 感情同化の原理 49 感性エリート 363 感性的センセーショナリズム 282 感染症患者の役割 501 勧善懲悪思想 284 関東大震災時の朝鮮人虐殺 301,443 監督省庁と業界の癒着 322 冠コンサート 414 管理教育 454 管理社会論 152 〈管理〉対〈自律〉 318 官僚 30 官僚制→ビューロクラシー 官僚制的組織 399 官僚制的支配 317 官僚制の逆機能 141 管理抑制型コミュニケーション 426&nbsp;&nbsp;</p><p>■き 消えるヒッチハイカー 298 議会制度 399 機械モデル(組織の) 335 機械論的システム概念 規格化 430 危機 38-39 企業逸脱 329-330,493-495 企業逸脱の仮説 494 企業城下町 277,453 企業社会 435-436 企業神社[企業守護神] 379 企業戦略 494 企業組織 493-494,520,522 企業内における信教の自由 379 企業の社会的責任 277 企業の文化戦略としての音楽 414 企業犯罪 68,329 企業秘密 277 企業文化 328 菊田幸一 464 菊池章夫 256 菊池美代志 342 記号 165,236,359,363-366 記号消費 358,360,362 記号としての広告作品 366 記号としての商品 365 記号としてのモノ 362 記号の進化 236 記号論[記号学] 40,363-365,455 記号論とはなにか 363 記号を媒介にした相互作用 236 帰国子女→海外帰国子女 記者クラブ 287 技術者 30 技術的知識 27-32,539 稀少性 355 季節労働者 119 規則に支配された創造性 165 議題設定機能 263,266,286,538 期待の衝突 524 北原淳 351 喫煙問題 145 ギデンス 64,159 キツセ 148 機能 161,339 機能主義 158,163 機能障害 520-521 機能的に分化したシステム 113 木下是雄 220 キノホルム 329,488,492 キノホルム説→スモン=キノホルム説 キノホルム被害者の役割 502 気晴らし 268 規範科学 273 規範主義的な役割概念[規範的役割概念] 197 記譜法 400 君塚大学 20,34,44 木村敏 191 喜谷課長 497 逆機能 141-142 客我[me] 187-188,207,210 客我と主我の対話→主我と客我の対話のプロセス 客観的意味[現実的意味] 234 客観的結果 78,95 客観的現実としての社会 63,84 客観報道主義 250 キャレール 463 キャントリル 256 ギャンブル(のファッション化/の情報ゲーム化) 368 キャンペーン 265 キャンペーン効果 265-266 究極的意味 387 究極的意味の世界としての宗教 386 救済の対象 381 急性疾患 510,512-514 ギュルヴィッチ 99 教育・労働・性・マスコミの現場における構造的暴力 468 境界事例 191 狭義の社会 12-14,159 教師 30,205,212,440 強制 422 行政幹部 421 強制指導型コミュニケーション 424 行政秘密 277 強制力 55-56 教祖 375,381,386,396 競争 131 共通形式 129-133,279,419 共謀関係 322 強力効果説(マス・メディアの) 255-257,265 強力効果説の基本前提 257 強力効果説への回帰 261 巨大組織 332 虚脱と倦怠 119 共犯性[共謀性] 201 虚報 280-281,293 距離化 46-47 距離のとり方 237 規律 319,430,432-433 規律社会 431 ギロー 365 金城清子 347 近代 10,47,403 近代医学→医学 近代(自然)科学→自然科学 近代家族 51,349-351 「近代家族」の理念型 349 近代資本主義[近代の合理的・経営的資本主義] 51-52,70-74 近代社会 11,56,183,189,192,195,198,206,316,319,399,516 近代西欧音楽 400-402 近代的聴衆 402,404 近代日本の排除現象 452 近代(化)の産物 343,349,382 近代ロマンチックラブ・イデオロギー 349 緊張論 460 禁欲 72-74 禁欲的プロテスタンティズム 72-73,95-96,122 禁欲的プロテスタンティズムの倫理 122&nbsp;&nbsp;</p><p>■く クォリティ・オブ・ライフ→生の質 薬 505-508 薬の非合理的な使われ方 505 薬の本質 506 クチコミ 308 クチコミの反乱 297,302 口裂け女 300 クック 293-294 グッド・ニュース・オンリー・システム 288 グーテンベルク 249 苦難の神義論 389,451 熊谷苑子 24 熊沢誠 323 組合専従幹部 30 公文俊平 327-328 クラカウアー 15,169,256 クラシック(音楽) 402 クラシックブーム 413 暮しの手帖 289 倉田和四生 161 クラッパー 258,265 グランド・セオリー→誇大理論 クーリー 160,184-185,341 栗岡幹英 106,488,501,503,525 グリコ・森永事件[グリコ事件] 281,285 クリーシェ 40-41,43-44 栗原彬 27,173,193,223 栗原孝 219 栗原淑江 168,401 栗原裕 249 グリュネンタール社 485-486 グールド 408-409 グールドナー 27-28,111,539 クレイム申し立て活動 148 クレタ人のパラドックス 20 クレッシー 88 クロスビー 407 黒住教 392 黒田勇 262 黒田浩一郎 499 クロロキン(事件) 322,488-490,497,504,507 クロロキン網膜症 489,491,507 桑田禮彰 432 訓練された無能力 30&nbsp;&nbsp;</p><p>■け 経済的非協力 474,475 経済的ボイコット 474 警察 440,462-463 形式社会学 130,157,159,419 芸術社会学 397 芸術という概念 403 経済機能(家族の) 340-341 経済的世界におけるモノ 359 競馬 367 劇場型犯罪 285 劇場空間 370-372 劇場空間化 370-373 劇場としての社会 165 化粧 238 ケスラー 52,399-400 結婚式 35 欠損家族 143 ゲットー 88 欠乏と不満 118 血友病患者 436 ケネディ暗殺事件 262 ゲマインシャフト 341 ゲマインシャフトとしての家族 341-342 ゲーム遊び 207 けやきの郷事件 454 ケラー 521 ケルシー 485 ゲルハルト 197 嫌煙運動 145 研究対象の同一性 21 健康と病気[病気と健康] 126-128,514 言語 165,235,242,426 言語活動[ランガージュ] 84 原告の役割 502 言語コード 426 言語としての社会 165 顕在的社会問題 150 現象学的社会学 34,38-39,47,169 健常者(役割) 436,518,520 検証報道 288 現世内禁欲→世俗内禁欲 健全家族 143 現代家族における家族機能の縮小 340 現代型都市空間 372 現代社会学の研究領域 8 現代社会論 152 現代人のアイデンティティの中心をなしているもの 194 現代日本における老い 445 現代のうわさ 299 現代民話 298-299 限定効果説(マス・メディアの)257-258,263,265 限定効果モデル 258 原発 35 憲法 379,399 権力 275,432 権力作用[権力関係/力] 432-434,435,443,450,454,466 権力作用論 429,433 権力作用論の意義 432 権力者 419 権力なしの社会 419 権力の技法[権力形式] 433,441 権力の秘密 419 権力は身近な生活の場に宿っている 418,433 権力批判 282 権力論の課題 418 言論の自由 276&nbsp;&nbsp;</p><p>■こ 行為 62-63,95 合意 422-423,429 行為者 76,95,159,216 行為者の理解作用[行為者の理解性] 202 行為主体 64,330 行為と表現のディレンマ 216 行為の意味を理解する 37 行為の自由 218 行為の集積としての社会 60 行為の主観的意味と客観的結果 78 行為の諸類型→社会的行為の諸類型 行為の媒体 202 行為への実践的起動力 16,71 高護 414 コーエン 47 公害 31,453 公害企業 481 公害認定 149 公害被害者 453 交換 57 効果の概念 265 高感度人間 363 後期採用者 263 広義の社会 12-13,129,159 高校中退(者) 39,68 広告 366-369 広告音楽 413 広告コンセプト 366 広告の機能 366 広告万能論 368 公式的見解 146 厚生省 486-492,495-498,502,507 厚生省の問題 496 厚生省薬務局 496 厚生省薬務局製薬課 489,497 構造化論 64 構造生成性 111 構造的暴力 466-468,480-481 構造の二重性 64,271 行動のなかに潜在する宗教性 380 高度経済成長 343,453 高度情報社会 297 幸福 394-395 幸福の神義論 389 合法的支配 125,420 合法的な暴力 462 公民権運動 193,410,437 孝本貢 392 合理化 70,73,389-390,398-401,415,421 合理性 309-310 合理的法体系 399 高齢化 342,512,522 声の質 238 国鉄 330-332 国鉄組織内部の意思決定のメカニズム 331 個々人のかつてみない内面的孤独の感情 72 コーザー 169 誇示的消費 361 児島和人 253,262 個人環境に関する私的問題 103 個人と社会[社会と個人] 64,117,195 コスモス 388 個性化 188,210,361-362 個性的修正[個性的反応] 187 個性的理念型[歴史的理念型]121-123,125 個性認識 200 個性を演じる 373 誇大理論 112 国家 54,62-63,116,462 国家権力 418 国家神道 382 国家的暴力 461-462,465-466,480 国家によって独占された正当な物理的暴力 462,464 国家秘密 277 こっくりさん 392 ごっこ遊び 207 ゴッフマン 91,206,215-217,239,318,444-445,447,456 ゴーデット 257 コード 366-369,428 後藤和彦 249 後藤孝典 489-490,497 五島勉 392 後藤正治 458 孤独と反目 118 ことばの生理 284 子ども 51,356 子ども時代 348-349 子ども中心主義 349 子どもとしてのアイデンティティ 191 子どもの社会化 206,341-342,349 ゴードン 518 コノテーション[内示的意義/判示的意味] 365-367,372 個別化された幸福の神義論 394 個別化された不幸の神義論 395 誤報 280-281,293 こまぎれ医療 510-511 小松茂夫 471 コミュニケーション 160-161,181,226-242,307,362-363,442,461,525,531 コミュニケーション概念の形式的な定義 コミュニケーション現象 299,306 コミュニケーション・ツールとしての作文技術 220 コミュニケーションの意味 236,269 コミュニケーションの効率性 230 コミュニケーションの始発者 237,253 コミュニケーションの始発者としての受け手 237,269 コミュニケーションの始発点としての受容行動 269 コミュニケーションの条件 337 コミュニケーションの常識モデル[コミュニケーションについての一般的なイメージ] 229-231,236 コミュニケーションの常識モデルの問題点 229 コミュニケーションの数学的モデル 228 コミュニケーションの脱物象化 266 コミュニケーションの内容 248-249,253 コミュニケーションの二段階の流れ 260,262 コミュニケーションの二段階の流れ理論 262 コミュニケーションの微視的世界 86 コミュニケーションの本質についての中間考察 236 コミュニケーションの目的性 230-231 コミュニケーション・メディア→メディア コミュニケーション・モデル 228 コミュニケーション論 50 ゴーラー 18,514 コラルジル中毒 491 コリンズ 52,96,400 ゴルバチョフ 170 コンウェル 88 根源社 379 金光教 392 コンサート・ドロップアウト 408 コンストラクション 164 コンティンジェンシー理論 324,335 コント 134 今野敏彦 88 コーンハウザー 175&nbsp;&nbsp;</p><p>■さ 差異 441-444,450,454-456 差異化 361-362,373,430 差異化の(社会的)コード 366-368,371 災害報道 280 災害流言 309 西郷隆盛 300 最初に関係ありき 184 ザィデルフェルト 40-41,405 サイード 376 斉藤耕二 256 斉藤茂男 94 斉藤吉雄 137 柴門ふみ 35 サウンド志向 410-411 阪井敏郎 345 榊ひろと 414 坂田正顕 199 向坂逸郎 57 作田啓一 25-26 桜井厚 44,87,203 桜井哲夫 174-175,317 サザエさん 300 佐々木一義 198 佐々木交賢 108 笹田直人 15,169 サザーランド[サザランド] 88,493 サザンオールスターズ 411 サス 523 佐高信 94,379 作曲家 400 作曲家の偶像化 403 サティ 406 佐藤郁哉 66,88,92 佐藤健二 93,300 佐藤首相 425 佐藤毅 49-50,107,206,215 佐藤勉 110,113,196,515 佐藤信夫 364-365 佐藤友之 280 佐藤成文 376 佐藤良明 243 佐藤嘉一 241 真田孝昭 513 佐野勝隆 170 サービス残業 323 サブカルチャー 143,460-461 サブシステム 110 差別 441-442,444,449-450,487,504,514,518 差別の論理 441-442 サリドマイド事件 322,485,490,497,504 沢木耕太郎 94 澤地久枝 276 参加型音楽行動 412 産業社会論 152 サンクション 323 サンゴ落書き報道[サンゴ落書き事件] 278,280,294 サン-シモン 134 三世代家族 351 三ない運動 97 散漫な受け手 406 三味一体定式 57 残余科学 11-12 参与観察 89-91,137&nbsp;&nbsp;</p><p>■し 死 17-18,82,102,309,513 ジェイ 15,169 シェイクスピア 195 ジェイムズ 186 ジェスチャー→身ぶり シェフ 513 塩原勉 11,211,324,392-393 塩谷政憲 392 私化[私生活化] 391 自我 185-190,210,218,227,232,235 自我意識 227,235 自覚されない宗教性 377 自覚と現実行動の不一致 377 自我形成 195 シカゴ学派 86,90-92,137,141,146,157,160,186 シカゴ大学 86-87,158 自我の主体性 186 自我の創造性 187 自我の多面性 185 自我は関係である 181 自我は現象である 180 自我は複合体である 181 自我は矛盾である 182 自我は流動的である 180 自我論 178 軸の転回 79 死刑 462,464-465 死刑存置論 464 死刑廃止論 464 死刑の犯罪抑止力 464-465 重田晃一 106 重信幸彦 298 事件 278,302,500 自己確認 268 自己言及 19 自己言及のパラドックス 19 自己実現 209,218,227 自己成就的予言[予言の自己成就] 23-24,283,443-444,455 自己組織性 111,334-335 自己組織モデル(組織の) 335 自己定義 186,190,218,502,519 自己破壊的予言 23-24 自己反省 59,293-294 自己変革的な科学 14 自己本位的自殺 116 自己理解 28 自己類型化 115,198 自殺 16,116-117,135 自殺類型 116 事実行為性 202 事実婚 351 時事問題へのアプローチ 222 自粛(昭和天皇の病状悪化による) 454 システム 108-112,161-162 システム概念 109 システム合理性 310,531 システムによる生活世界の植民地化 148,161-162,319 システムの自律性 80 システムのハイアラーキー 110 システムの論理 319 システム論 108-113,161,163 私生活化→私化 施設 318 視線 237 視線の交差[アイ・コンタクト] 239 自然科学[近代科学/近代自然科学] 20-22,29,81,149,160,399,510-511 自然科学における自己言及の問題 21 自然現象 76 自然的世界におけるモノ 359 自然的態度 38 自然という書物 21 自然認識と社会認識 199 シタラム 45,239-240 七五三 382 視聴質 269 視聴者教育 292,295 視聴率 250,269 実験室としての都市 137,160 実証主義 157,159 実践的関心 135,139,151 実践的志向 135-136,138,151 疾病構造 512,515,522,526 実名報道主義 283 指定された本の探し方 246 史的唯物論→唯物史観 史的唯物論との対決 75 視点の闘争 144-145 指導−協力の関係 523 自動車学校型(大学) 33 シニフィアン[意味するもの] 165,364-366 シニフィエ[意味されるもの] 165,364-367,371 シーニュ 364 篠沢秀夫 40 死の社会学 18,514 死の社会性 17 篠田浩一郎 451 死のポルノグラフィー 514 支配 317-318,419-422,432 支配関係なしの社会 419 支配者 131 支配の一形式としてのビューロクラシー 317 支配の技法 430 支配の原型 421 支配の社会学[支配社会学] 124,432,479-480 支配の諸類型 124,126 支配の正当性(根拠)[正当的支配]124,420,427 支配は相互作用 419 自発的服従 317-319,419,422,428,432-433,480 私秘的生活者の役割 501 シブタニ 307 渋谷パルコ 371 自分とはなにか 179 資本主義 70-71,95 資本主義的企業 399 資本主義のエートス 71 資本主義の起源 52,96 資本主義の精神 71-76,96,122 島薗進 392 清水幾多郎 123,158 清水克雄 356 市民社会の解剖学 135 市民的抵抗 471 自民党 321 自明性 39,43,46,56-57,59,61,539 自明性を疑う→日常生活の自明性を疑う 自明な世界 38,47 霜野寿亮 86 社員研修 31 社会 10,63,83-85,100,158-166,173 社会医学 101,509-510,515 社会運動 139,148-149,153,193,333,386,436,457,479,481,500,503,538 社会科 8 社会化[社会になること](ジンメルの概念) 130-132,206,419 社会化 206,208,210,264,426 社会解体 141-143 社会外的側面 16 社会外的不可測性 200-201 社会概念 10,156,162 社会概念と社会学構想 156 社会科学 8,13,20,57,427 社会科学的ジャーナリズム 284 社会科学との関係 11 社会科学の研究対象 11 社会科学の実践的性格 24 社会科学の世話役としての社会学 103 社会化機能(家族の) 340-342 社会学 8,104-105,158-162 社会学化[諸科学の社会学化] 25,107,535 社会学感覚 18-19,25-26,36,48,94,534-535 社会学感覚なき社会学研究 18 社会学教育 18-19,24,533,538 社会学系の事典類222 社会学研究 18-19,538 社会学研究の実践的課題 152 社会学構想 156 社会学史の六つの段階 157 社会学者 24 社会学主義 107-108 社会学帝国主義 108 社会学的アンビヴァレンス 213,219 社会学的概念の役割 129,133 社会学的機能主義 157,161 社会学的時代診断 151-152 社会学的実践 16,18,25,128 社会学的シンクレティズム 540 社会学的想像力 103,503 社会学的知識 152 社会学的に羊の毛を刈る 517 社会学的認識における類型化[社会学的類型化/社会学における類型化] 115-117 社会学的発想 36 社会学的反省 58-59 社会学的ブリコラージュ 540 社会学的理念型→類型的理念型 社会学とジャーナリズム→ジャーナリズムと社会学 社会学のエートス[社会学的エートス] 18,91,146 社会学の研究対象[社会学の研究領域] 11,13-15 社会学の研究対象の最大公約数 12 社会学の研究対象の最小公倍数 12 社会学の構成問題 156 社会学のジャーナリズム化 538 社会学の専門科学性 11 社会学のトリック 20 社会学の役割 150 社会学のレーゾンデートル 538 社会学はなにを研究する科学か 10 社会学批判 13 社会化のエージェント 341,426 社会化の諸形式 130-131,419 社会関係についての類型化 198-199 社会形象 83,85 社会決定論 197 社会現象 76 社会現象における共通形式を抽出する 37 社会現象を総合的に認識する 37 社会構造 164 社会構造に関する公的問題 103 社会史 10-11 社会システム110-112,141,161 社会システムの学 112 社会システム論 110,131 社会システム論の根本的修正 110 社会集団の自己保存 132 社会主義社会の社会学 169 社会心理学 160,184 社会人という役割 501 社会性 16,506-507,526 社会制度 61-62 社会的意味(づけ) 356,359-360,363,365 社会的現実の構成 61 社会的行為 95,123 社会的行為の集積 159 社会的行為の諸類型 123,389 社会的事実 48,55,56,62-63,83,85,107,120,159 社会的弱者 435-436,446,456 社会的弱者とアイデンティティ 192 社会的制裁 283 社会的勢力からの自立 289 社会的世界と物理的世界のちがい→物理的世界と社会的世界のちがい 社会的反作用 141 社会的非協力 473 社会的不利 521 社会と個人→個人と社会 社会になること→社会化 社会認識にひそむトリック 20 社会の形式 159 社会の構成単位 62 社会のトリック 20 社会の内容 159 社会の反省的コミュニケーション 428 社会の反省性 128 社会のラングとパロール 83 社会は機械である 163 社会は記号である 165 社会は客観的な現実である 63 社会は劇場である 165-166 社会は言語である 84,165 社会は建築である 164 社会は交換である 164 社会はコミュニケーションである 164 社会は宗教現象である 387 社会は生物有機体である 163 社会は闘争である 164 社会は人間の産物である 63 社会病理 140-142,307 社会病理学 140 社会物理学 105 社会変動 143 社会本質論 156 社会問題 140,146,147,505 社会問題と価値判断 142 社会問題としての薬害 484 社会問題の主観的定義 148 社会問題の定義 144 社会問題の判定者 145 社会問題への理論的歴史的関心 135 社会問題論のキーコンセプト 140 社会薬学 484 社会有機体説 140 社会理論 104 社会を可能にする知識事実 200 社会をまるごと認識したい 104,108,134 ジャクソン 199 社交(界) 204,402-403 社交の衰退 350 社主制度 289 社内転職 290 ジャーナリスト 25,537 ジャーナリスト教育の問題 290 ジャーナリストの内部的自由 291-292 ジャーナリズム 25,29,90,134,149,153-154,243,250,272-294,309-310,428,486,503,508,538 ジャーナリズムが「正義の味方」にみえるとき 278 ジャーナリズム組織の経営の独立 289 ジャーナリズムと社会学 92-93 ジャーナリズムと社会学の中間領域 93 ジャーナリズムとはなにか 274 ジャーナリズムの社会学化 537 ジャーナリズムの宗教理解 375 ジャーナリズムの主体 274 ジャーナリズムの自律性 282 ジャーナリズムの理念 273,277,282,290-291 ジャーナリズムの理念復権のために必要なこと 289 ジャーナリズムは「正義の味方」か 278 ジャーナリズム論関係の雑誌 296 シャノン 228 シャープ 470-471 周囲の否定的な反応としてのスティグマ 446-447 宗教 16,310,370,373-374,375-396 宗教改革 72,76 宗教回帰現象 376,391,394 宗教感覚 378 宗教教育 72 宗教形態 381 宗教行為 124,389 宗教行動 378,383 宗教社会学 384,390 宗教心 376-377,384,390 宗教的活動(国の) 380 宗教的寛容性 383 宗教的構図(日常生活の) 39 宗教的世界像 389 宗教のオーディエンス 376 宗教の機能 387 宗教の原点としてのカリスマ 384 宗教の個人化 391 宗教の社会統合機能[秩序づけ機能] 387-388 宗教の社会変革機能 387 宗教は非合理か 388 宗教への視点 375 宗教への表面的無関心 380 集合的無責任 332,494,524 集合的無責任の生成 330 重層信仰 383 集中的聴取 402,404,406 集団 315,351 集団主義 327-328 集団本位的自殺 117 柔軟性欠如の神話(老人の) 448 十二平均律 400 十八世紀音楽の聴かれ方 402 週末結婚 351 収容所→アサイラム 修養団 379 重要な他者 207 主我 187-188,210 寿岳文章 236 主我と客我の対話のプロセス[客我と主我の対話/Iとmeの対話] 188,210 主観的意味 65-69,76-77,78,95-96,159,234 主観的現実としての社会 63 粛清 170,452 取材の自由 277 取材・報道される側の論理 282 呪術からの解放[脱呪術化] 390,399 呪術的カリスマ 393 主体性 210 主体相関的 28 シュッツ 38,44-45,115,169,198,200,203 受容過程論 253-254 シュラム 175,265 受療行動 525 シュルフター 517 準拠集団[リファレンス・グループ] 259-260,291,323-324 純正律 400-401 ショウ 88,92 上位と下位[上位−下位関係] 131,419 障害[障害類型/障害概念] 127-128,445,514-515,520-522 障害者 54,128,435-436,515,520,522 障害者雇用 435 障害者役割 518-520,522,526 障害の定義 520 使用価値 359-360,365 状況的役割 205 状況の定義(づけ) 68-69,86,217,308 消極的平和 467 常識的構成体[知識構成体/常識的な構成概念] 199-200 常識的知識[常識/通念] 38-39,41-44,48,51,75,115,128,148,227,255,307,342,388,418,422,450,459,466,517,519,539 常識のもつ権力性 148 常識を疑う 41-42 少女 373 少数民族 54 状態ではなくプロセスとしての社会問題 147 情緒安定機能(家族の) 340 消費 354-356,358-363,394-396 消費行動 97 消費行動の総合性 97 消費社会 277,354,361-364,366,371,394,406,410,412,506 消費社会における薬 505 消費社会における幸福と不幸 394 消費社会におけるモノ 359 消費社会の自我像 373 消費社会論 152,354,358,364 消費による幸福 395 消費は言語活動である 361 消費はもはや個人や集団の権威づけの機能だけではない 360 消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない 359 商品コンセプト 365 商品との対話 363 上部構造 164 情報 27-30,228,251,272 情報化社会論 152 情報公開 428,507-508 情報産業 292 情報操作 288,426 情報通信ネットワーク 251 情報としての知識 27-29 情報の移転 228,307 情報のキャッチボール 228-230,236 情報の果たす役割 276 情報非公開 426 情報量概念 228 情報理論 228 昭和天皇 454 初期社会学 157 職業としての社会学者 24 職業役割 205,211 職業労働 73 職場慣行 435 諸個人間の心的相互作用 83,85 叙事詩的演劇 49 女性解放運動→フェミニズム 女性問題 346 女性誘拐 302-304 書籍 249 所属集団 117,323-324 書評 244 処方箋的な知識 115-116 シラケ 409 知らされた上での同意→インフォームド・コンセント 自律性 111,282,499 知る権利 276-277,279,282,508,530 シルバーマン 485,505 城塚登 56,64 素人仲間での参照システム 525 人為的暴力 467 新幹線公害問題 330 信教の自由 379-380,384 シンクレティズム 383 人権の侵害 282,288 信仰 396 信仰による幸福[救い] 395-396 人事慣行[人事労務慣行] 290,325-326 人事考課 323,468 神社 382 人種的偏見 437 心象スケッチ 178 心情 71 心情のない享楽人→信念のない享楽人 新宗教 54,375,383,392-393,396 シーン消費 373 新人 44 新新宗教 35,392-396 人生劇場 196 新・性別役割分担 344 新・性別役割分担と女性の二重役割 344 身体技法 17 身体刑 429-430 身体障害者→障害者 身体接触 237 身体的特徴 238 診断(社会学的) 151-152 診断(医学的) 510 心的相互作用 83,129,159 進藤雄三 102,450,499,510 新都市社会学 107 侵入科学[侵略科学] 11-12,108 真如苑 393 信念 71 信念のない享楽人[心情のない享楽人] 82,319 真の自己 219 信の宗教 393 信憑性構造 39,43,391 新聞 249 新聞裁判 283 新聞利用教育 293 人民寺院 396 ジンメル 12-14,21,44-45,63,79-81,83-86,100,125,129-132,135-137,159,168-169,200-202,204,206,321,376,397,419-420,429,432,535,539 ジンメルの「上位−下位関係」論 419 心理学主義 62,77 神話 40,304,437,447 神話作用 40,43,59 神話もしくは物語の変奏 303&nbsp;&nbsp;</p><p>■す スィンゲドー 391 推定無罪 283 水流ジャーナリズム 283 菅谷裕子 298 菅原眞理子 344,351-352 スキゾ 409 杉之原寿一 341 杉原四郎 106 杉政孝 509 杉森創吉 67 杉山あかし 241 杉山恵美子 349 杉山光信 35,92,302,349 スキャンダリズム 281-282 スケープゴート(化/現象)[スケープゴーティング] 443,450-455,457 鈴木首相 425 鈴木広 104 スタイナー 15 スターリン 169-170,425,452,516 スターリン批判 170 スティグマ 444-449,456-457 スティグマとはなにか 444 ステップ・ファミリー 351 ステレオタイプ[ステロタイプ/紋切り型] 40-41,43-44,48,210,284,429,436,438-439,441-442,449,537,539 ストコフスキー 408 ストライキ 475 ズナニエツキ 86-87,92 砂原茂一 485,510-511,515,520,523-524 スピッカー 444,447 スペクター 148 すべてはすべてに関係している 108 スペンサー 105 角倉一朗 400 スミス 256 スモン患者の役割 501 スモン感染説[ウィルス(感染)説] 487-488,501-503 スモン=キノホルム説 488,490,502 スモン事件 322,329,487-488,503-504 スモン訴訟 488,492,498,504 スモン調査研究協議会 488 スモン被害者の役割変遷 500 スラッシャー 87 諏訪哲二 67,213&nbsp;&nbsp;</p><p>■せ 性 34 西欧音楽の合理化 399 西欧に特有の合理化 398-399 西欧文化中心主義 53 性格類型 205 生活慣習としての宗教 381-382 生活史法 92-93 生活者の視角 29 生活世界 85,161-162,270,319 生活保護 69 生起としての社会 83,85 世紀の転換期の社会学 107,157,159,168 世紀の転換期の社会学の受容の問題 168 政教一致 379 性行為 469 制裁→サンクション 政治宣伝→プロパガンダ 政治的非協力 476 政治犯罪 68 正常と異常 135-136 精神 235,237 精神障害者 512 成人−成人モデル 523-524,526 精神のない専門家 82,319 成人のパーソナリティの安定化 342 精神病[精神疾患] 69,189,433,513,517 成人病 512 政策科学 27 政策的関心 138-139,151 生態学 29 生態学系の社会概念 10 生長の家 392 性的機能(家族の) 339-340 制度 55,62 正当化機能 149 正当性 436,459,462,464,480-481,516 正当的支配 124 制度的教団宗教 393 制度的チャネル 307-309 聖なるもの[聖] 384,386-388 青年期 191-192,218 青年文化→若者文化 生の質[クォリティ・オブ・ライフ] 82,102 生物有機体システム 110 生物有機体論的システム概念 110 性別役割分担 39,342-343,347 製薬企業[製薬会社] 492-498,502,504,507 性役割 205,347,435 生理性(薬の) 506 世界劇場 196 世界宗教 52 世界宗教の経済倫理 51 世界像 75 関三雄 199 セグメンテーション 371 世間 173 世俗化 390-391 世俗化論 390 世俗外禁欲 77 世俗内禁欲[現世内禁欲] 73,77,96 積極的平和 467 説得的コミュニケーション 265 世良晃志郎 125,316,319,420 芹沢俊介 375 セリン 465 セルズニック 34 世論→よろん 前科者 43,205 一九七○年代音楽の転回 410 一九二○年代 404 一九八○年代日本の音楽状況 411 選挙 35 専業主婦 343 選挙予測 23 戦後の音楽状況 407 潜在的社会問題 150 センセーショナリズム 281-282 全制的施設 91,318 戦争 462-463 戦争機械 163 戦争・警察・死刑 462 戦争の欠如 467 全体社会 104 全体社会と社会理論 104 全体社会の総合的認識 105-107 全体的社会現象 99 全体的社会的事実 99 全体的認識への志向 104,134 全体的認識と実践的志向 134 選択されるライフスタイルとしての家族 351 選択的解釈過程 210 選択的受容 258-260 選択的接触 259 千田是也 50 戦闘的民主主義 152 線引き 449-450 専門家支配[専門職支配] 498-500,507,526 専門人 316 先有傾向 258,261,263 戦略論 463&nbsp;&nbsp;</p><p>■そ 創価学会 392-393 早期採用者 263 総合社会学 105,157-158,168 総合的認識 103-107 相互作用 100,129-130,199,201,236,308-309,419 相互作用の形式 130 相互作用の媒体(としての役割) 199,218 相互参加の関係 523 相互理解 241-243 総ジャーナリズム状況 263,285-287 創発性 187 双方向コミュニケーション 251 副田義也 446 疎外 142 俗 386 俗信 381 速報性 250 速報第一主義 280 俗流マルクス主義 106 組織 30,312-335,492-494,498 組織医療[チーム医療] 524 組織医療と葛藤構造 524 組織コミュニケーション 228,243 組織社会学 332 組織宗教 393 組織体犯罪 328-330 組織とはなにか 314 組織内の自己規制力 494 組織内の地位・職務 205 組織における役割行動 317 組織の物神化 330 組織犯罪 329 組織文化 327-328,330,436,517 組織への適応 314 組織労働 313 ソシュール 84 即興的につくられるニュース 307 園田恭一 509,512,523 薗田坦 125 薗田稔 40,388 薗田宗人 125 ソンタグ 436 忖度の論理 327 存立構造論 57 存立構造論という問い 56&nbsp;&nbsp;</p><p>■た 第一次社会化 208 第一次宗教ブーム 392-393 第一次集団 341-342 対位法 399 ダイオキシン 17 大学 33,399 〈大学=専門教育〉という図式 33 大学を構成する基本原理 33 大家族待望論 347 「第九」合唱ブーム 412 対抗文化[カウンター・カルチャー] 366 対抗文化の爆発 409 第三次宗教ブーム 375,392-394 大衆 257 大衆社会論 152 大衆操作 24 大正期宗教ブーム 392 対象と主体の一致 22 対内結合と対外閉鎖との同時性 132 対内道徳と対外道徳の二元論 469 ダイナブック 221,368 第二次逸脱 444 第二次社会化 208 第二次宗教ブーム 392-393 大日本製薬 485-486,497 体罰 144 代表 132 大量排除現象 451-452 高儀進 249 高木久雄 404 高杉晋吾 496,498 高橋名人 300 高野哲夫 484-485,487,489-491,504 高畠文夫 80 高原宏平 404 高柳先男 463 滝沢正樹 160,187,206,232 宅配制 250 ダグラス・グラマン疑惑 451 武市英雄 269 竹内郁郎 223,249,253,257,262,276 竹下首相 451 竹下俊郎 249,262 武田隆夫 106 武田薬品工業 489 竹村喜一郎 15,169 武豊ブーム 368 多元的役割演技者 206 他者[他人] 185-188,190,198-202,227 他者の鏡 185 他者の承認 190,218,502 他者の態度の組織化されたセット 187 他者の反応 235,458 他者の役割を取得する 206 他者理解 22,28 他者類型化 198,200 多重信仰[重層信仰] 383 立花隆 18,94,296,436,458 脱近代→ポストモダン 脱〈近代家族〉化 350 脱産業社会論 152 脱物象化 58-59,218,267 脱物象化の知的可能性 58 脱領域の知性 14-16,18,112,132-133 立岩真也 318 ターナー 209 田中角栄 287 田中吉六 56,64 田中金脈 94,287 田中滋 86,504 田中義久 67,223 田辺製薬 492 谷合規子 489-490 田原総一朗 94 ダブル・スタンダード 469-470 ダブル・バインド 243 田村淑 429 田村善蔵 488 ダーレンドルフ 196 ダンカン 197 弾丸理論 255,261 男性型企業文化 347 談合 322 単親家庭 351 単身赴任家族 351 単身赴任問題 35&nbsp;&nbsp;</p><p>■ち 治安維持法 43,452 地位 196,315-316 小さな神々 392-394 小さな社会 97 小さな物語 357 地位と役割の分化 315 地球家政学 21 筑紫哲也 295 知識 27,275,307,310,507-508,519 知識構成過程 310 知識の社会的配分 507 知識社会学 157,160 秩序としての社会 163 知的コミューン型(大学) 33 知的生産一般 222 知的亡命 46 知の合理化 388-389,393 チバガイギー社 492 チーム医療→組織医療 中央競馬会[JRA] 368 中央薬事審議会 498 中外製薬 497 中間的コミュニケーション 230-231,251-252 中範囲の理論 112,161 長距離結婚 351 調査報道 25,278,282,288,290 聴取スタイルの選択肢の拡大 412 町内会 35 チョムスキー 165 治療 510,513,518 沈黙 238 沈黙のらせん(理論) 263-264,286&nbsp;&nbsp;</p><p>■つ 追随者 260 追跡取材 288 ツィンゲルレ 168,401 通過儀礼 192,381 通念→常識的知識 憑きもの 453 辻勝次 317 対馬路人 392 津地鎮祭訴訟 379 辻村明 276 椿忠雄 488 妻の賃労働者化 344 妻の役割 343 鶴見俊輔 174&nbsp;&nbsp;</p><p>■て 抵抗 55,188,309,318-319,323,432-433,437,454,480,485,518 ディスコミュニケーション[ディスコミ] 240-243,289,338,442 ティップ・オフ 274 テイラー 47 ディンクス→DINKS デカルト 182 デカルト的な自我 183 出口勇蔵 136 テクノクラシー 30 テクノクラート 29-30 テクノロジー 407-408 鉄の檻 82 デノテーション[外示的意義/明示的意味] 365 テープ操作による音楽創造 408 テープ録音技術 408-409 手ぶり 237 デュルケム 11,15-17,48,55-56,61-63,107-108,116,118,135,140,147,159-160,169,174,384,386-387,459 デュルケム学派 108,168 デュルケムとウェーバー問題 61 テーラー・システム 317,319-320 寺谷弘壬 90 寺田篤弘 52,96,400 テレビ 250 電気録音技術 406 天職 71-73,82 天職観念 73,77 天職人 74 伝達 236 伝達過程論 253-254 転轍手 75-76,389 伝統家族 339-340 伝統主義 71 伝統的行為 124 伝統的支配 125,421 天皇報道 286 電報 252 天理教 392-393 電話 229,251&nbsp;&nbsp;</p><p>■と トイレット・ペーパー・パニック 300 動機 65-67,69 動機とはなにか 66 動機の理解 65 動機のリスト 67 東京医薬品工業協会 497 東京化現象 35 同型性 131,396 登校拒否 35 同時代の社会問題に関わる 37,138 同質化 430 同性愛差別 145 統制論 460 闘争 131 同調 141,209 同調競争 454 道徳的十字軍 153 党派学校型(大学) 33 党派形成[派閥形成] 131,321 動物園管理者のロマンティシズム 153 動物学 10 動物行動学 10 動物の社会 10 東邦亜鉛 503 時野谷浩 267 東横神社 379 徳岡秀雄 44 特殊社会学 100 独我論 183 読書行為 249 徳永恂 52,400 匿名報道主義 283 とげぬき地蔵 370 戸坂潤 274,538 都市化現象 303 都市空間 298-299,301,306,369-372 都市空間の記号性 369 都市空間の〈劇場空間〉化 370 都市空間の非合理的なありよう 298 都市社会学 160 都市社会におけるさまざまな意味世界 86 として 198-199 として規定→als規定 都市伝説 297-299,309 都市民俗学 357 土台(唯物史観の公式) 106-107,164 トップ・ダウン方式 327,330 土肥美夫 202 トマス 68,86-87,92 富永健一 11-12,103,211,324-325 富永茂樹 26 友枝敏雄 35,64 共働き 342-346,350 共働き家族 343-344 豊川信用金庫の取り付け騒ぎ 300 豊田勤治 489,497 豊田商事永野会長刺殺事件 285-286 ドライツェル 203 ドラえもん 300 ドラマトゥルギー 166 トランプ 120 鳥越皓之 17 トレンディ志向 366&nbsp;&nbsp;</p><p>■な 内藤莞爾 63,108,123,169,389,420 内部告発 274,323 「ナウ」志向 366 長岡克行 113,422 中河伸俊 148 中川米造 499,510 中嶋明勲 108 中島竜太郎 24,260 中曽根首相 263,347,425 長津美代子 345 中西茂行 52,96,400 中野収 160,174,175,187,206,232,282,300 中野卓 44,93,203 中野敏男 62 中野秀一郎 34,86,111-112,119,131,158,175,197 中野正大 44,86,119,158 中原喜一郎 463 中久郎 106,158 中牧弘允 379,382 中道實 86 仲村祥一 144,175 中村貞二 80,136 中村隆一 510,513,515,519 中山茂 510 那須壽 40,200,405 なぜ〈消費〉が社会学の問題なのか 354 ナタンソン&nbsp; 200 ナチズム[ナチス] 49,169,256,424-425,443,452,470 生瀬克己 521 波平恵美子 513-514 行方均 298 成田康昭 174,363 南京大虐殺 470 なんちゃっておじさん 300&nbsp;&nbsp;</p><p>■に 西尾祐吾 444-445 二次的構成体 200 仁科弥生 192 西原和久 200 西山茂 378-379,382,390,392-393 二重役割 344-345 二十世紀的思考 182,184 ニスベット 174 ニーチェ 80 日常化 250 日常生活 37-41,59 日常生活における類型化 114 日常生活の自明性 37-40,46,211,240 日常生活の自明性を疑う[自明性を疑う] 37,46,48,56-57,169-170,227 日常生活の宗教 57 日常性の崩壊 38 日常知→常識的知識 日常的意識 28 日常的思考→常識的知識 日常的認識と科学的認識 120 日常的ルシクラージュ 362-363 日航ジャンボ機墜落事故 281 日米構造協議 53 日本型「職」生活 343 日本型組織 328 日本語ロック 411 日本社会学会 9 日本人の宗教概念[宗教定義] 380,382 日本人は無宗教か 376 日本的経営 324-327 日本的経営の本質としての集団主義文化 326 日本的集団主義 326-327 日本的集団主義の特質 327 日本の宗教回帰現象 391 日本の障害者概念 522 日本平和学会 468 ニューカム 437 ニュー・シングル 351 入信動機 395 ニュース 307-308,310,373-374 ニュースの一形式としてのうわさ 307 ニュースの広がりのJ曲線 262 ニュースピーク 425 ニュース欲求 308 ニューミュージック 411 ニューヨークタイムズ 283,286 丹羽幸一 529 人間関係 268 人間が社会をつくる 61,85 人間生態学 160 人間相互の関係形式に関する科学(としての社会学) 129-130 人間的コミュニケーション 235 人間と役割の関係 219 人間は社会の産物である 63&nbsp;&nbsp;</p><p>■ぬ  島次郎 394-395 沼田健哉 379,392&nbsp;&nbsp;</p><p>■ね ネオ・マルクス主義 107 ネコバーガー 300 ねたきり 127 ねたきり老人の介護 346 ねつ造 280 ネットワーク組織 334 ネットワーク組織論 333 ネットワーク多様体 334 ネポティズム 321 年中行事 381 年齢役割 205&nbsp;&nbsp;</p><p>■の 脳死 17-18,458,513 能動−受動の関係 523 能力低下 519,521 ノエル−ノイマン 261,264 のどをつまらせたドーベルマン 298 ノーマライゼーション 69,127 野水瑞穂 409 野村昭 437 野村一夫 168,197,241,401,428 ノリ 411 ノンヴァーバル・コミュニケーション 237-240,242 ノンヴァーバル・コミュニケーションの文化的相対性 239&nbsp;&nbsp;</p><p>■は 配偶者特別控除 344 媒介的要因→コミュニケーションの媒介的要因 排除(現象) 430,449-456,470 排除による秩序形成[排除による統合] 449-450,457 媒体→メディア ハイフン社会学 100 俳優 202 培養分析 264,266 ハウザー 45 バーガー,B.34,38,171,387 バーガー,P.L.34,38-40,46-47,58-59,63,146,164,171,197,203,206,387-388 博多駅テレビフィルム提出命令事件 276 芳賀学 396 パーク 87,90,160 パサネラ 137 間宏 327 橋爪貞雄 342 橋爪大三郎 174 橋本正己509 橋渡し機能(社会学の) 103 長谷川公一 34,331 パーソナル・インフルエンス 260 パーソナル・インフルエンス論 257 パーソナル・コミュニケーション 230-231,252,262-263 パーソンズ 110,161,196,515-517 畠中宗一 331 八二年組 414 パック・ジャーナリズム 286 バックレー 111 発見的意義 121 バッハ 400,403,451 はっぴいえんど 411 発表ジャーナリズム 287-288,290 初詣 382 バードウィステル 239 パトグラフィ[病跡学] 180 パートタイム労働者 326 バトラー 447-448 バトル 413 話し方 237 話し手と聞き役の交代のタイミング 238 派閥 131,321 派閥形成→党派形成 ハバーマス[ハーバーマス] 81,104,148,161-162,219,241,289,319,337,399,457 濱口(浜口)恵俊 327-328 濱島朗 123,223 浜名優美 10 浜日出夫 115,203 場面情報 333 早川善次郎 175,300 林進 226,230,262,413,415 林達夫 236 パラダイム 167,510 パラダイム並立の歴史的事情(社会学における) 166 原谷達夫 437 原寿男 279,282-288,293 ハリネズミ 425 バルザック 25 バルト 40,364,370 『春と修羅』序詩に学ぶ 178 パロール 84 バン 120 反抗 409-410 反公害運動 410,503 反抗文化 410 犯罪 54,68,147,329-330 犯罪者[犯人] 43,205,283,285 犯罪的暴力 459-460,462,465-466,480 犯罪(の)抑止力 285,464-465 犯罪は社会の正常な現象である 136 犯罪報道 282-284 反作用 458,504,539 判事 30 反省規定 418 反省作用 237,241 反省的知識 28,30,289,539 反省的なメカニズム 235 反省能力 428 判断停止→エポケー 判定者としての科学者 504 バンドブーム 412 バンドワゴン効果 23 反文化相対主義 53 反ユダヤ主義 169,443&nbsp;&nbsp;</p><p>■ひ ピアノ 401,404,406,412 被害者(の役割) 205,502-504 被害者による主体的な社会運動 503 比較 430 比較社会学 11,50,54 比較社会学的構想力 52 皮下注射効果モデル 255 樋口恵子 346 樋口祐子 34,38,171,387 非言語的コミュニケーション→ノンヴァーバル・コミュニケーション 非行 54,67-68,88 非合理性 393,401 非合理的な心性 299 庇護されるべき子ども 51 非婚 351 非常時 39 非人格性 316 非親族の排除 350 非生産性の神話(老人の) 447 日高敏隆 10 ビーチボーイズ 408 ビックリマンチョコレート 356-357,362 非統制的参与観察 89 ビートたけし 282 一人二役問題 498 ビートルズ 408,410 人と人とのつながりの多層性 312 ひとのみち 392 ヒトラー 49,256,452 非日常性 250 非日常的資質[能力] 385-387,421 日野原重明 509 批判的読者・視聴者になるために 295 批判理論 157,160 批評 26 非暴力的介入 478 非暴力的行動 470 非暴力的行動の意義 470 非暴力的行動の技術 471,479 非暴力的抗議と説得 471 非暴力的社会運動 481 秘密 132 秘密結社 132 秘密のインフレ 277 非目的性 111 日雇い労働者 54 百科全書的社会学 105 桧山睦郎 412 ピュタゴラス・コンマの問題 400 ヒューマン・ストーリー主義 281 ヒューマン・ドキュメント 86 ピューリタニズム 72,96 ビューロクラシー[官僚制] 316-320,335,420 ビューロクラシーとはなにか 316 病院 17,91,97,99,101-102,130,191,313,318-319,430,495,512,516-517,528-529 病院の組織文化 517 病院のなかのコミュニケーション 99,230 病気[疾患] 101-102,126-128,440,445,504,513 病気と患者の分離 511 病気と健康→健康と病気 病気と障害の混同 514 病気のメタファー 425,436 病者役割[病人役割] 102,205,515-520,526 病者役割の二次的利得 517 表情 235-237,239,242-243 表明されない宗教心 377 病理→社会病理 平井俊彦 81,104,399 平澤正夫 485 平瀬課長 497 平田寛 236 平野竜一 493 廣井脩 300 広瀬道貞 279 廣松渉 184&nbsp;&nbsp;</p><p>■ふ ファシズム 157-158,167,424 ブーアスティン 175 不安と焦燥 118 夫婦別姓 351 フェミニズム[女性解放運動] 345,410 フェラロッティ 534 フォイエルバッハ 183-184 フォークロア 304 フォーマルな組織 320,323,328,497 フォロワー→追随者 深澤健次 203 普及過程研究 263 布教 382 福井和美 10 福井憲彦 432 副言語 238-239 複合影響説(マス・メディアの) 261-262,265 複合概念としての社会概念 162 副作用 489,491,506-507 福沢諭吉 173 福祉機能(家族の)[保健医療機能] 340-341,346 福島章 180 服従者 131 服従者の自発性と協力 420 服従者の服従意欲 420,422,480 複製技術 404,406 複製技術時代 404-406,408 複製技術時代の芸術作品 405 服装 55,238 福田敏彦 373 福地源一郎 173 不敬罪 452 フーコー 349,429-433 不幸 395 不幸のかたち 118 不幸の個別化 395 父子家庭 351 藤澤賢一郎 15,169,241 藤沢薬品 497 藤竹暁 300 藤田富雄 381 布施晶子 344-345,347 〈舞台=劇場空間〉としての都市空間の演出 370 不沈空母 425 フック 425 物質性(薬の) 506 物象化 58-59,63,82,84,142,197,218-219,267,318 物象化された意識 59 物象化的錯視 59,231 物象化の社会学 81 物理的世界と社会的世界のちがい 278,505 物理的暴力 470 不登校[不登校者] 39,68 ブートゥール 463 船津衛 187 船橋晴俊 330-332 ブーニン 413 ブハーリン 169-170 部品修理的医療 511 普遍宗教 380-382 フーブリヒト 81,104,399 部分社会 97,99 部分社会の総合性 99 部分の自律性 111 ブーメラン効果 259 フライデー 282 プライバシー 528,530 プライバシーと人権の侵害 282 ブラウン 267 ブラムラー 267 フランクフルト学派 160,169,397 フランクリン 71 フリードソン 499,524 フリーマン 509,517,523 古城利明 67 ブルデュー 64 古野清人 386 プルバーグ 59,63,197 ブルーム,D.H. 34 ブルーム,L. 34 ブルンヴァン 298 プレイ志向 412 プレストライアル 283 ブレヒト 49-50,398 ブレヒトの異化効果 49 フレームアップ 443 プロセスとしての社会 164 プロセスとしての社会生活 513-514 プロセスとしての社会問題 147 プロテスタンティズム 52,72,390 プロテスタント 72-73,77,116,433 プロパガンダ[政治宣伝] 256,265 フロム 169,175 「プロ倫」の教訓 95 プロレス論 40 文化 81 文化規範説 264,266 文学社会学 25-26 分科社会学 100,107 文化接触 59 文化相対主義 53-54 文化的逸脱論 460 文化の悲劇 79-81 文化批判の理論 160&nbsp;&nbsp;</p><p>■へ 平穏の神話(老人の) 448 平均律 400-401 ペイジ 409 ベイトソン 243 ベイルズ 342 平和学 466-467 平和研究 466-467 平和研究における平和概念 465 平和主義 471 ベッカー 90,153,440 別姓結婚 351 ベトナム戦争 17 ベトナム戦争反対運動 410 ベートーベン 403 ペニシリン・ショック 490 ペルソナ 195 ベレルソン 257 変改(効果) 258 偏見 128,436-438,441-442,447-449,504 弁証法 64 変体少女文字 222 ベンディックス 62 ベンヤミン 169,397,404-406&nbsp;&nbsp;</p><p>■ほ ホイジンガ 174 ボーイフレンドの死 298 防衛費GNP1%突破 263 傍観者(の役割) 205,216,504 宝月誠 44,86,88-89,119,158,329-330,458-461,484,488,493-496,501,503-504 法人 319,329 法侵犯 329 法則構造論 57 報道規制 287 報道におけるタブー 375 報道の自由 277 報道被害 293 暴力 422,428,458-481 暴力的悪としての権力 428 暴力とはなにか 458 暴力の欠如 467 暴力のコミュニケーション論的解読 461 暴力のサブカルチャー[暴力に好意的なサブカルチャー] 460-461 暴力のダブル・スタンダード 469-470 暴力の多面性 459 暴力の定義 458-459 補強(効果) 258,261 ホグベン 174,236 ボケの神話 448 保健医療機能(家族の)→福祉機能 保坂正康 82 母子家庭 351 星野克美 365-366,370 保守化傾向 392,426 補助的チャネル 307-308 ホスト−端末 251 ポストマン 305 ポストモダン[脱近代] 404 細川周平 406,409,412 細見英 106 細谷昴 107 堀田輝明 202 ボトム・アップ方式 327 ポトラッチ 361 ボードリヤール 358,361-362,364,368 ボードリヤールの消費社会論 358 ポーピッツ 199-200 ポピュラー音楽 407-408,411 ホボ 119-120 ホメイニ 391 ホームガード 120 ホームレス 89,119 ホメオスタシス 163 ホランダー 523 ポーランド農民 86 堀江邦夫 94 ホール 107 ホルクハイマー 169 ホロコースト 452 ホロビッツ 67,142 ホワイト 90 ホワイト・カラーの犯罪 493 本源的社会性の公準 15-16,18,185 本多勝一 94,295,375 本田靖春 306 本能 10 本間康平 67,142 翻訳語としての「社会」 173&nbsp;&nbsp;</p><p>■ま 毎日新聞 281,294 牧口一二 521 真木悠介 54,57-58 マクウェール 226,230,237,249,253,262,267,269 マクルーハン 249 マクレラン 106 負け犬の立場 153 まじめ 409 魔女狩り 451 マスオさん現象 351 マスコミ 252,272 マスコミ研究の諸分野 253 マスコミとジャーナリズム 272 マスコミ批判 281-282 マス・コミュニケーション 230-231,243,252,272-273,307-308 マス・コミュニケーションの中継機能 260 マス・コミュニケーションの特質 252 マス・コミュニケーションの媒介的要因[媒介的要因] 258,261 増田通二 371 まず排除ありき 456 マス・メディア 252,272,424,428,440 マス・メディアの影響 254-255,266,270 マス・メディアの影響は絶大か 254 マス・メディアの物神化→メディアの物神性 マス・メディアの〈利用と満足〉 267 町村敬志 87,160 松井秀親 136 松岡保 106 マッカーサー 301 マッカーシズム 452 松木修二郎 226,269 松坂慶子 300 松島浄 26 松田聖子・神田正輝結婚(報道) 286 松谷みよこ 299 松戸女性殺人事件 294 松村一人 184 松村健生 424 松本通晴 392-393 祭 370,381 マートン 24,112,150-152,161,213,256,260 まなざしの地獄 93 間庭充幸 304,453-454,459,470 真光系教団 393 継家族 351 マーラー・ブーム 413-414 マリアンネ夫人 123 マリオネット→あやつり人形 マリファナ・ユーザー 90 丸尾定 256 マルクス 56-58,64,105-107,134-135,142,160-161,164,167-169,183-184,418,426,539 マルクス主義 96,106-107,161,167,170 マルクス主義的権力観 428-429 マルクス初期草稿・中期草稿の発見 167 マルクーゼ 169 丸山ワクチン問題 498 マンガの性描写 144 慢性疾患 512-513,515,517,519-520,522-523,526 慢性疾患患者 54,518 萬成博 437 マンハイム 93,100,152,160,169&nbsp;&nbsp;</p><p>■み 見えない権力 430-431,454 見えない宗教 391 三上俊治 249,262 未完のプロジェクト 289 ミクロとマクロをつなぐこと 103 ミシュレ 451 水野課長 497 水野節夫 34,46,203,262 水野肇 513,530 水野博介 249 水巻中正 497 見せびらかしの消費→誇示的消費 みそぎ研修 379 見田宗介 25-26,93,117,119,178,182,223 ミッツマン 80-81 三菱稲荷 379 ミード 160,186-188,206-207,232-235,237,241,539 御堂岡潔 45,239 水俣病 453 南博 236 身上相談 117 箕面市忠魂碑訴訟 379 身ぶり 17,233,235-237 身ぶり会話 234 身ぶり会話としてのコミュニケーション 232 身ぶりの意味 234 宮内泰介 492 宮家準 381-382 宮沢賢治 178-182 宮島喬 15-16,48,62,159-160 宮地健次郎 452 宮智宗七 456 宮本孝二 20,34,44 宮本真左彦 485 ミューラー 423,425,427 「見られる権力」から「見る権力」へ 429 ミル 105 ミルズ 67,103-104,112,142,175 民主主義 274-275 民主主義的な権力形成のために必要なこと 427 民主主義と権力のはざまで 274 民主主義と社会学の選択的親和性 170-171 民主主義の前提条件 275 民主的計画 152 民俗宗教[民間信仰] 380-382&nbsp;&nbsp;</p><p>■む ムー 392 無縁 369 無規制状態→アノミー 無広告主義 289 無宗教 31,376-378,383-384 無徴(性) 455 六つの「老人の神話」 447 武藤一雄 125 無文字社会 40 村上直之 90,148,440 村上陽一郎 21,29 村山研一 34,46,203 室井尚 251&nbsp;&nbsp;</p><p>■め 明識 27-32,51,58,147,180,183,273,309,314,378,539 明識としての知識 28 明識の意義 29 明識の科学 59 明治神宮 382 名誉 132 メセナ 414 メディア[媒体/コミュニケーション・メディア] 248-252,338 メディア特性 249,251-252 メディアとはなにか 248 メディアの自己反省 293 メディアの物神性[マス・メディアの物神化] 267,271,297,301-302 メディアはメッセージ 249 メディアミックス 252,414 メリーゴーランドの騎手 215 メルローズ 492&nbsp;&nbsp;</p><p>■も 目的合理性 389 目的合理的行為 123-124 モザイク科学 11-12 モス 17,99,361 望月重信 26 モーツァルト 403 物語 304-305,373 物語型広告 374 物語消費 356-357,374 物語マーケティング 373 モノグラフ 88,92-93,119 モノにまつわる意味 362 模倣 132 モラトリアム 191-192 モラトリアム症候群 192 モラトリアムとしての青年期 191 モラール 321 モラン 10,92,302 森岡弘通 52,399 森川眞規雄 115,203 森重雄 64 森下伸也 20,34,44 森下恒雄 451 森潤 285 森俊太 148 森博 108 森好夫 24,161,260 森東吾 24,15 0,260,437 問診 525 問題家族 143 文部省教育 32&nbsp;&nbsp;</p><p>■や 薬害(問題/事件) 322,329,484-508 薬害告発者 502 薬害の認定 503 薬事行政(制度) 494-496,502 薬理作用 506 役割[社会的役割] 195,199-219,227,271,308,315-316,318,343-345,350,435,460,501-502,516-521,524 役割演技 195,197,202,372 役割概念 195-197 役割概念と役割理論 195 役割概念の定義 203 役割葛藤 212,219,344 役割葛藤と社会学的アンビヴァレンス 210 役割間葛藤 213 役割期待 196,200,210-213,218,519 役割拒否 216 役割距離 215-216,219 役割群 213 役割形成 209,214,218,504 役割形成としての役割取得 209 役割現象 198-203,210-219 役割現象の基本特性 199 役割現象の被媒介過程 197 役割現象論 197-198 役割構造 87 役割行動 317-318 役割取得 206,209-210 役割としての社会的弱者 435 役割内葛藤 213 役割能力 217,219 役割の学習 206,264 役割の修正 519 役割のずれ 214 役割の属性[□□らしさ] 205,207,209,318 役割の奴隷 202 役割の担い手 195 役割の媒体 202 役割のマリオネット 202-203,267 役割の免除 515,518 役割変遷 500-501 役割理論 195-197,515 役割類型 204 矢沢修一郎 111 矢沢澄子 111 安江孝司 34,38,171,387 安川一 34 靖国神社玉串料公金支出違憲訴訟 379-380 安田三郎 324 柳井道夫 256 柳田国男 299,304 柳田邦夫 94,294-295 柳父章 173 柳父圀近 62 山岸健 175 山口県自衛官合し訴訟 379 山口節郎 59,63,197,206,241 山口俊夫 17,361 山口昌男 373,375,452,455,536 山崎正和 363 山田昌弘 34 山田實 226,269 山田雄一 327 山中速人 226,269 山中正剛 226,262,269 山之内製薬 497 山根一眞 222 山本哲士 432 山本泰 93 やらせ 280 やらせリンチ事件 280&nbsp;&nbsp;</p><p>■ゆ 唯物史観[史的唯物論] 106-107,135 唯物史観の公式 106,164 有意性 203-204 有意性領域 203-204 有意味シンボル 235,237 有害 147 有害作用 506 有害図書 144 有閑階級 361 有給休暇の未消化 323 有声身ぶり 235,242 有徴(性) 455-456 歪められたコミュニケーション 423,427,429,442 歪められたコミュニケーションの三形態 423 湯沢雍彦 343,345-346 ユース・カルチャー→若者文化 ユダヤ人 44,88,168-169,302-304,452,470 ユダヤ人社会学者の追放・亡命 169 ユーミン 411&nbsp;&nbsp;</p><p>■よ 養護学校 69 幼女連続誘拐殺人事件 281,283 抑揚 237-238 予見するために見る 134 予言の自己成就→自己成就的予言 横浜浮浪者襲撃事件[横浜浮浪者殺人事件] 454,470 吉井篤子 413,415 好井裕明 160 吉崎道夫 400 吉田民人 35,145,325,396 吉富製薬 489 吉原和男 392 吉原直樹 107 吉見俊哉 372-373 嘉目克彦 82,517 四畳半フォーク 411 よそ者→異邦人 よそ者の解釈学的効果 45 よそよそしい組織という経験 312 予定説 72 米沢和彦 82,517 米林喜男 509,512,523 予防接種効果 263 読売新聞 281 読売新聞大阪社会部 94 世論形成 249,274,503 世論操作 287,423 世論調査 23-24 世論調査による選挙予測 23&nbsp;&nbsp;</p><p>■ら ライサ夫人 170 ライト 463 ライフスタイル 394,526 ライフスタイル意識 342 ライフスタイルとしての家族 350 ラザースフェルド 137,169,257,260 ラジオ 250-251,404,406-407 らしさ→役割の属性 ラスウェル 265 ラスウェル図式 265 ランガージュ 84 ラング 84-85&nbsp;&nbsp;</p><p>■り リー 485,505 理解 22,76 理解社会学 69,76-77,157,159 利害 75 リクルート事件 278,451 理想状態としてのコミュニケーション 240 リゾート法 263 リーダー 509 離脱の神話(老人の) 448 立正佼成会 392-393 リップマン 174,438-439,443 リテラシー 249-250 リード 94 理念 75-76,272-273 理念から現実へ(ジャーナリズムの) 279 理念型 121-128,200,421,516-517,524 理念という転轍手 76 理念と利害 75 理念によって構成される社会領域 273 リハビリテーション 514 リハビリテーション医学 515 リファレンス・グループ→準拠集団 流言→うわさ 流言の発生量 305 流動的推移の論理 125-126 両義性→アンビヴァレンス 〈利用と満足〉研究 267 理論的根拠としての正当性根拠のほりくずし 479 理論的実践 138 理論と実践 138 稟議制度 325,327 臨場性 250 臨床的関心 138-139,151,192&nbsp;&nbsp;</p><p>■る 類型化 114-121,198-199,203,267,441,443,471 類型化図式 115,119-120,198-204 類型化の役割 125,129 類型的理念型[社会学的理念型] 123,125 累積された事なかれ主義 332 ルカーチ 170 ルシクラージュ→日常的ルシクラージュ ルーズヴェルト 256 ルター 72 ルックマン 59,63,164,206,391 ルポルタージュ 90,92-93,94 ルーマン 113,241,422&nbsp;&nbsp;</p><p>■れ 霊−術系宗教 393 レイツ 137 霊能者 393 レイベリング 141-142,440-442,449,460-461 霊友会 392 レイン 189-190 レヴァイン 509 レーヴィト[レーヴィット] 198 歴史化 50-51,398,539 歴史社会学 10-11,50,390,401 歴史的理念型→個性的理念型 レコード 406 レジャーランド型(大学) 33 レッドパージ→アカ狩り レーニン 170 レポートの書き方 220 レポートの基本としての書評 244 恋愛結婚 349 連字符社会学 12,100-103 連字符社会学の構想と現状 100 連帯 369 レンツ(警告/報告) 485-486,497&nbsp;&nbsp;</p><p>■ろ 老人(の役割) 205 老人医療 127,515 老人性疾患 512-513,517,519,526 老人の介護 346 老人問題 346 労働組合 333,379,453,468 浪費 360 ロシア型マルクス主義 ロシア正教会 72 ロス疑惑(報道) 286 ロッキード事件 287 ロック 410-411 ロート 62 ロービア 452 ローマ・カトリック教会 72 ロマンティシズム 153,481 ローリングストーンズ 410 論文試験 336-338&nbsp;&nbsp;</p><p>■わ 和音和声法 399 ワーカホリック 322 若者文化[ユース・カルチャー/青年文化] 407-410 若者文化の変遷 409 脇圭平 159,316,462 ワシントン・ポスト 278,290,293-294,485 ワース 88 和声音楽 399-400 和田移植 458 わたくしといふ現象 179-180,218 「わたくし」とはなにか 180 〈私〉探しゲーム 363 「わたしはわたしだ」という思い 188 渡辺潤 249,251,412 渡部光 200 渡辺裕 401-402,406-407,409 渡辺雅子 392 渡辺守章 431 ワープロ/パソコンによる知的生産 221 われ思う、ゆえにわれあり 182-183 湾岸戦争 458 湾岸戦争報道 286&nbsp;&nbsp;</p><p>■A−Z als規定[として規定] 198 CI[コーポレイト・アイデンティティ] 328 CMソング 413 DINKS[ディンクス] 340,351 FDA 485,489 GHQ 388 GLA系教団 393 I→主我 Iとmeの対話→主我と客我の対話のプロセス me→客我 M字型就労 343 PL教団 392 society 173 WHO[世界保健機構] 520&nbsp;</p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-76229337675983380282022-01-17T18:10:00.002+09:002022-01-17T18:11:44.218+09:00『リフレクション』 あとがき<p>野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』<br />あとがき</p><p>社会学、わたしたちはなぜ学ぶのだろう。</p><p>社会学、わたしたちはなぜ教えるのだろう。</p><p>これが本書で追求したかった基本的な疑問である。何のために社会学を学ぶのか。これまで社会学内部においてこの疑問はしばしば素通りされてきたように思う。少なくとも初学者が納得するような十分な説明がなされることなく、この問いは野ざらしにされてきたのではなかろうか。わたしにはそれが不満でならなかった。ときおり耳にする社会学の不評は、おそらくここらあたりに起因するのではないかと思う。とりわけ大学の一般教育科目(「大綱化」以降は「総合科目」などと名称が変わることが多いようだが)としては、受講者側に単位取得以外の動機がなく、しかも教員側も「学ぶ意味」について積極的かつ明確に提示できないという状況がしばしば存在する。</p><p>わたし自身も悩んできた。しかし今では、本論でさまざまに論じてきたように、社会学を学ぶ意味は──そして社会学研究の意味も──「反省」にあると考えている。</p><p>「反省」ということば、すでに世間では「サルでもできる」として、ほとんど陳腐なことばになってしまっている。なるほど今日では何か薄っぺらな印象さえあるし、もともと堅物教師的な押しつけがましさをもっている。社会学においても、多くの優れた理論構築が存在するにもかかわらず、一般的には──つまりこの概念に特別の理論的意義を見いだしていない研究者にとっては──すでに「ネコも杓子も」という感のある概念である。多くの人びとが特定のことばに何かしらの期待をこめて多用してしまうとき、そのことばの陳腐化もまた早い。「反省」ということばもまたそのプロセスにある。そのため識者のなかには本書の論旨に対して一種のスノビズムを感じ取る方がいるかもしれない。</p><p>しかし、それでもわたしは、まだこのことばにこだわっている。</p><p>たしかに社会学は、社会的現実の内実を不透明にする権力作用に抵抗するという意味において「万年野党」であり、社会的現実を生産するさまざまな職業的理念から距離をとる点では「無責任な傍観者」であり、科学的知見によって社会的現実を技術的に操作しようとしない点で「後ろ向き」にさえ見える。それゆえ人びとは──一般の人も実務家も隣接分野の専門家も──社会学を「役に立たない」非処方箋的でペダンティックな学問と決めつけがちである。「もっと役に立つ知識を!」というわけだ。しかし「反省」は「役に立つ」という価値基準そのものを問うことである。「役に立たないものは意味がない」という考え方そのものの意味を問い直すことである。社会学が理念的な意味での「市民(ブルジョアではなくシティズン)の社会」にとって不可欠な認識装置であるといえるのは、まさにこのような「反省」の触媒となる経験科学だからである。</p><p>本書では、このような社会学の思想的意義について、あるいはさらに大それたいい方が許されるならば、社会学の理念についてあらためて考察してきた。これをきっかけに読者の方々に社会学的な感受性の芽を自覚していただき、みずから意識的に反省能力を高めていくことを媒介にして、結果的に社会が反省的に変わっていく──本書がめざしているのは、このプロセスである。これはわたしが身のほど知らずなくらい欲ばりなだけでなく、それ自体、リフレクションの効果なのである。そして社会学が総体としてめざしているのも、結局、この反省的なプロセスなのだと思う。</p><p>しばしば社会学者が口にする「社会学のおもしろさ」もここにある。「社会学のおもしろさ」とは、じつは自分を知る喜びのことなのだ。「自分」といっても肉体的に限定された「自分」ではなく、自分の家族や所属する集団・組織・地域そしてかかわりのある他者を「社会的身体」とする「自分」のことである。複雑化した現代社会において、このような「自分の世界」を知るのは容易ではないが、それだけにそれを知る充足も大きいはずである。社会学者とは、このような蜜の味を知った者のことである。この蜜の味は分かちあわなければならない。</p><p>というわけで、この本の主張は「反省しよう」ということにつきる。しかし、そのプロセスはとても複雑である。そこで本書を構成するにあたって心がけたことは、これまで社会学と縁のなかった一般読者の方々にも理解していただけるよう、なるべく構図を単純化して説明を構成することだった。とくに、キー・コンセプトである「リフレクション」概念を、用語法として許されるであろうと思われる限界まで意味内容を拡張し、すべての議論がそこに還ってゆくような構造原理として設定した。そのために、理論的にはかなり甘いものになってしまったことは認めざるをえないし、リフレクション概念の内容が必ずしも一義的でないことも承知している(「リフレクション」の多様な意味内容をそれぞれ別の諸概念に仕分けることは可能だが、かえって議論が繁雑になってしまう)。概念を拡張的にふくらませて最小公倍数(最大公約数でさえない!)をとるような仕方で収れんさせないかぎり、全体像を一冊の本のなかで描くことはもはや不可能である。リフレクション以外の概念についても、わたしは終始このような方法で概念を整理した。そして、これは社会学の概念を「感受概念」(ブルーマー)として生かしてゆきたいという立場のひとつの具体的表現でもあった。この試みが成功しているかどうかは、読者の方々の判断にゆだねたい。</p><p>これに関連して付け加えると、なるべく論争的な記述を回避し、あるいはまた、ことさらに「最新」を気取ることも意識的にしていない。なるべく特定の学派的文法で語らないように、なるべくオーソドックスであり穏健であろう、と心がけたつもりである(しかしこれが意外にむずかしい!)。したがって、理論の紹介という点では新しいことはない。むしろ復古的でさえあるかもしれない。人ごとのようにいわせていただけるなら、この本は十年前に書かれていてもおかしくない本である。</p><p>というわけで、この本は荒削りな(荒っぽい)本ではあるけれども、その分、読者にとって見通しのよい案内図になっていればいいなと願うばかりである。なお本書でふれた個々のテーマについてさらにくわしい研究状況に興味をお持ちの方は前著『社会学感覚』を参照していただければ幸いである。この本は研究入門的なブックガイドとして役立つはずである。</p><p>さて、文化書房博文社の天野義夫さんにお世話になるのは、これで三度目である。『社会学感覚』では、教科書としても使えるようにとの配慮から既存の研究の紹介を優先させたため、全体を統一するわたしなりの理論的観点が後景に退くことになっていただけに、今回のお話はたいへんありがたかった。ふたたびチャンスを与えて下さったことにあらためて感謝しつつ、この小著のなりゆきをお任せしたい。</p><p>一九九四年四月二〇日</p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-72740845572935003822022-01-17T18:07:00.004+09:002022-01-17T18:11:25.828+09:00『リフレクション』 注<p>野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』<br />注</p><p>凡例</p><p>▼文献の表示は次のようになっている。著者名・論文タイトル・所収著書タイトル・訳者名(出版社・発行年)ページ。著書の一部(章や節)を示すときは、著者名・著書タイトル・訳者名(出版社・発行年)項目名とした。</p><p>▼引用文の傍点や強調は技術的な理由から省略した。</p><p>▼外国人の場合、本文における名前の表記が、訳書における表記と異なる場合がある。</p><p>例 ハバーマス、ハーバーマス</p><p>▼「前掲書」「前掲訳書」という略記は、同一の章においてくりかえし表記するときにかぎって使用することにし、章が変わると正式に表記しなおすことにした。</p><p>▼原則として、原書もしくは初出論文の提示は控え、日本語で読める、なるべく新しい著書を提示した。これらの本は、日本在住の読者であれば、だれでも近隣の公立図書館で入手が可能なはずである(予約制度もしくはリクエスト制度を活用してほしい)。</p><p>▼検索しやすいよう、文庫・新書・双書は出版社名の代わりにシリーズ名で表記した。</p><p>引用文掲示</p><p>●1 ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(下)』丸山高司・丸山徳次・厚東洋輔・森田数実・馬場孚瑳江・脇圭平訳(未来社一九八七年)四〇〇ページ。</p><p>●2 ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー『心の習慣──アメリカ個人主義のゆくえ』島薗進・中村圭志訳(みすず書房一九九一年)三六四ページ。</p><p>●3 『戸坂潤全集』第四巻(勁草書房一九六七年)一五六ページ。</p><p>12-1: 序論</p><p>●1 消費社会における自我形成に関しては、山崎正和が『柔らかい個人主義の誕生──消費社会の美学』(中公文庫一九八七年)において、現代の購買行動が「商品との対話を通じた一種の自己探究の行動」であると指摘している。九七ページ。また最近では、上野千鶴子が『増補〈私〉探しゲーム──欲望私民社会論』(ちくま学芸文庫一九九二年)において、数ある商品の中からわたしたちが特定のモノを選択することは、表現すべき〈私〉を探すためであることを、さまざまな角度から分析している。一二三ページほか。</p><p>●2 ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳(紀伊國屋書店一九七九年)一〇一ページ。</p><p>●3 テクノクラートの定義については、梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)七八ページ。</p><p>●4 前掲書四─五ページ。</p><p>●5 前掲書六ページ。</p><p>●6 栗原彬「市民社会の廃墟から──『心の習慣』と政治改革」『世界』一九九三年一〇月号。</p><p>●7 前掲論文四八ページ。</p><p>●8 新堀通也『私語研究序説──現代教育への警鐘』(玉川大学出版部一九九二年)。</p><p>●9 鷲田小彌太『大学教授になる方法』(青弓社一九九一年)。鷲田小彌太『大学〈自由化〉の時代へ──高度教育社会の到来』(青弓社一九九三年)。桜井邦朋『大学教授──そのあまりに日本的な』(地人書館一九九一年)。桜井邦朋『続大学教授──日々是好日』(地人書館一九九二年)。</p><p>●10 新堀通也、前掲書三一─三二ページ。</p><p>●11 前掲書。</p><p>●12 小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』(中公文庫一九八一年)五二ページ。</p><p>●13 新堀通也、前掲書一二二─一二六ページ。</p><p>●14 税金対策としての法人税脱税の実態については、富岡幸雄「不公正税制」文芸春秋編『日本の論点』(文芸春秋一九九二年)。</p><p>●15 過労死弁護団全国連絡会議編『過労死!』(講談社文庫一九九二年)。</p><p>●16 大野智也『障害者は、いま』(岩波新書一九八八年)。小笠毅『就職を拒否される若者たち』(岩波ブックレット一九九二年)。</p><p>●17 宝月誠編『薬害の社会学――薬と人間のアイロニー』(世界思想社一九八六年)。</p><p>●18 たとえば宝月によると、大規模な薬害事件の生じたころの製薬企業は薬事行政や報道などの外部の環境を甘くみていたが、現在はむしろ過敏になっているという。しかもそれらを不当とみなす傾向が強いため、戦略的に対処することが多く、みずからをきびしく律する用意は乏しい。一般に、企業が行政機関の監視や指導や審査能力、あるいは消費者や世論の反作用といった統制環境の能力を低く評価したり、不当とみなす度合が高いほど、企業逸脱に関与する可能性も高まるという。宝月誠編、前掲書一二二ページ。</p><p>●19 富家恵海子『院内感染』(河出書房新社一九九〇年)。富家恵海子『院内感染ふたたび』(河出書房新社一九九二年)。</p><p>●20 『院内感染ふたたび』七三ページ。</p><p>●21 保険薬の場合、それを使用することによって健康保険から病院に支払われる金額と、じっさいのその薬の実売価格とのあいだに差がある。後者の方が安いので、薬を使用することによって生じる薬価差益は、直接、病院の収入になる。当然、単価の高い薬ほど薬価差益が大きいので、病院は高い薬を大量に使うようになる。これが、患者サイドの薬願望と相乗することによって、いわゆる「薬漬け医療」が常態化してきたのである。</p><p>●22 『院内感染ふたたび』七三ページ。</p><p>●23 『院内感染』一二八ページ。</p><p>12-2: 第一章 反省的知識の系譜</p><p>●1 A・W・グールドナー『社会学の再生を求めて3』岡田直之ほか訳(新曜社一九七五年)第十三章「社会学者として生きること/自己反省の社会学をめざして」(栗原彬訳)。</p><p>●2 前掲訳書二一五ページ。ただし訳文を若干調整した。</p><p>●3 ユルゲン・ハーバーマス『イデオロギーとしての技術と科学』長谷川宏訳(紀伊国屋書店一九七〇年)。なお本書本文では「ハバーマス」と表記する。</p><p>●4 前掲訳書一六〇ページ。</p><p>●5 砂原茂一『医者と患者と病院と』(岩波新書一九八三年)五四ページ以下。</p><p>●6 前掲書七三ページ。</p><p>●7 山崎章郎『病院で死ぬということ』(主婦の友社一九九〇年)。</p><p>●8 佐伯啓思『隠された思考──市場経済のメタフィジックス』(ちくま学芸文庫一九九三年)。</p><p>●9 遊戯的知識については、佐伯啓思『産業社会とポスト・モダン』(筑摩書房一九八九年)第二章「遊戯的知識論──ポスト・モダン時代のソフィストたちへ」。</p><p>●10 『隠された思考』一六─二〇ページ。</p><p>●11 『隠された思考』二二─二三ページ。</p><p>●12 村上陽一郎「新たなる《自然》/新たなる《科学》」『エイティーズ[八〇年代全検証]――いま、何がおきているか』(河出書房新社一九九〇年)三一ページ。かれはこの論考で「地球家政学」(global house-keeping)構想を提出している。これは事実上自然科学の社会学化である。</p><p>●13 前掲論文三二ページ。</p><p>●14 高木仁三郎『巨大事故の時代』(弘文堂一九八九年)。科学者によるものではないが、巨大事故について同じような問題意識をもって集中的かつ反省的に調査したドキュメントとして次の二作を挙げておきたい。柳田邦男『死角──巨大事故の現場』(新潮文庫一九八五年)。吉岡忍『墜落の夏──日航123便事故全報告』(新潮文庫一九八九年)。</p><p>●15 これは社会学者チャールズ・ペロウの同名書から採られている。</p><p>●16 高木仁三郎、前掲書二〇八ページ。</p><p>●17 梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)一二ページ。</p><p>●18 代表的な理論家として今田高俊がいる。その理由については、今田高俊『モダンの脱構築──産業社会のゆくえ』(中公新書一九八七年)二〇七ページ。</p><p>●19 ただし他の訳語を用いている研究者の記述を利用するときは、当然そのままである。なお、リフレクション概念に対する本書のとりあつかいの方針については「あとがき」に述べておいた。</p><p>●20 ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店一九七三年)一四二─一四三ページ。このことは訳語解説でも指摘されている。前掲訳書xivページ。</p><p>●21 たとえば、エスノメソドロジーでは、reflexivityをかなり独特の用法で使っている。したがって、日本では「相互反映性」「文脈状況再帰性」「循環性」などと、相当熟慮された訳語が発案されている。</p><p>●22 「解釈的パラダイム」と呼ばれたり、「理念主義」と呼ばれることもある。富永健一『現代の社会科学者──現代社会科学における実証主義と理念主義』(講談社学術文庫一九九三年)。</p><p>●23 反省概念の哲学的経緯とその意義については、ユルゲン・ハーバーマス『認識と関心』奥山・八木橋・渡辺訳(未来社一九八一年)を参照されたい。</p><p>●24 ミード、前掲訳書。</p><p>●25 ただし、あくまでも、情報そのものが移動するのではないから、これはどのような場合にも近似的なものにすぎない。なお、ブルーマーは「身ぶり会話」の水準を「非シンボリック相互作用」(non-symbolic interaction)と呼び、ミードが「有意味シンボルの使用」と呼んだ反省的な水準を「シンボリック相互作用」(symbolic interaction)と呼ぶ。ハーバート・ブルーマー『シンボリック相互作用論──パースペクティヴと方法』後藤将之訳(勁草書房一九九一年)一〇ページ。</p><p>●26 たとえばミードは次のように述べている。「精神は、経験の社会的過程あるいは社会的文脈のなかで、身振り会話によるコミュニケーションをとおして生まれるのであり、コミュニケーションが精神をとおしていとなまれるのではない。」ミード、前掲訳書五六ページ。</p><p>●27 ブルーマー、前掲訳書一〇三ページ。</p><p>●28 ブルーマー、前掲訳書八一ページ。</p><p>●29 アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準──理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房一九八七年)二〇ページ。</p><p>●30 ギデンス、前掲訳書二〇ページ。</p><p>●31 ミード、前掲訳書三四〇ページ。</p><p>●32 前掲訳書三三九ページ。ただし一部修整した。</p><p>●33 ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(中)』藤沢賢一郎・岩倉正博・徳永恂・平野嘉彦・山口節郎訳(未来社一九八六年)二五三ページ。</p><p>●34 カール-オットー・アーペル『哲学の変換』磯江景孜ほか訳(二玄社一九八六年)。</p><p>●35 ハーバーマス、前掲訳書一八二ページ。ただし一部の用語法を修整した。</p><p>●36 阿閉吉男『ウェーバー社会学の視圏』(勁草書房一九七六年)。「地平」という訳語もあるが、わたしは「視圏」の方が的確だと考えている。なお、この概念は現象学的社会学の重要概念でもある。</p><p>12-3: 第二章 行為論の視圏──脱物象化と反省的行為</p><p>●1 マス・メディアは非常に高い割合で官公庁の見解をそのまま増幅して伝える。官公庁の見解は基本的に「テクノクラートの視角」からなされているから、それをうのみにすることはジャーナリズムの理念から見て問題がある。これを原寿雄は「発表ジャーナリズム」と呼ぶ。原寿雄『新聞記者の処世術』(晩聲社一九八七年)。</p><p>●2 E・ベック=ゲルンスハイム『出生率はなぜ下ったか──ドイツの場合』香川檀訳(勁草書房一九九二年)の訳者による「解説」。なおこの本の本文のドイツの分析は近未来の日本の少子化を考える上で参考になる。「板ばさみ」については、江原由美子『ラディカル・フェミニズム再興』(勁草書房一九九一年)「出生率低下と〈家族の幸福〉」。</p><p>●3 森岡清美・望月嵩『新しい家族社会学(三訂版)』(培風館一九九三年)一八六─一九六ページ。</p><p>●4 大野智也『障害者は、いま』(岩波新書一九八八年)一〇ページ以下。</p><p>●5 M・ナタンソン編『アルフレッド・シュッツ著作集第二巻社会的現実の問題[II]』渡部光・那須壽・西原和久訳(マルジュ社一九八五年)三四─三七ページ。</p><p>●6 ウォルター・リップマン『世論』掛川トミ子訳(岩波文庫一九八七年)。 A・C・ザィデルフェルト『クリーシェ――意味と機能の相剋』那須壽訳(筑摩書房一九八六年)。</p><p>●7 マルクス、エンゲルス編『資本論(一)』向坂逸郎訳(岩波文庫一九六九年)一二九ページ以下。</p><p>●8 マルクス、エンゲルス編『資本論(九)』向坂逸郎訳(岩波文庫一九七〇年)三二ページ。</p><p>●9 マックス・ウェーバー『宗教社会学』武藤一雄・薗田宗人・薗田坦訳(創文社一九七六年)。マックス・ウェーバー『支配の諸類型』世良晃志郎訳(創文社一九七〇年)。</p><p>●10 デュルケーム『社会分業論』田原音和訳(青木書店一九七一年)八二ページ。ただし命題風に訳し直した。</p><p>●11 カール・マルクス『資本論1』岡崎次郎訳(国民文庫一九七二年)一一一ページ。</p><p>●12 ロバート・K・マートン『社会理論と社会構造』森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎訳(みすず書房一九六一年)第十一章。本書ではごく初歩的な説明にとどめざるをえないが、社会現象の特質を理解するにはたいへん重要な現象である。くわしい議論としては、徳岡秀雄『社会病理の分析視角──ラベリング論・再考』(東京大学出版会一九八七年)。</p><p>●13 マートン、前掲訳書三八二ページ。</p><p>●14 前掲訳書三九〇ページ。ただし若干の用語を改めた。</p><p>●15 ランドル・コリンズ『脱常識の社会学──社会の読み方入門』井上俊・磯部卓三訳(岩波書店一九九二年)。</p><p>●16 ピーター・バーガー、スタンリー・プルバーグ「物象化と意識の社会学的批判」山口節郎訳、現象学研究会編集『現象学研究2』(せりか書房一九七四年)一一二─一一四ページ。</p><p>●17 ブレヒト「実験的演劇について」千田是也訳編『今日の世界は演劇によって再現できるか――ブレヒト演劇論集』(白水社一九六二年)一二三ページ。</p><p>●18 梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)第三章「『新しい社会問題』とテクノクラシー」とくに五九─六三ページ。この問題については、宇沢弘文『「豊かな社会」の貧しさ』(岩波書店一九八九年)「Ⅳ自動車は都市を破壊する」も参照。</p><p>●19 マックス・ウェーバー『社会学の基礎概念』阿閉吉男・内藤莞爾訳(恒星社厚生閣一九八七年)四〇ページ。なお、マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』海老原明夫・中野敏男訳(未来社一九九〇年)三八ページも参照。</p><p>●20 大鐘武訳編『ジンメル初期社会学論集』(恒星社厚生閣一九八六年)三〇ページ。</p><p>●21 P・L・バーガー、T・ルックマン『日常世界の構成──アイデンティティと社会の弁証法』山口節郎訳(新曜社一九七七年)一〇五ページ。</p><p>●22 アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準──理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房一九八七年)一四五ページ。</p><p>●23 A・ギデンス『社会理論の現代像』宮島喬ほか訳(みすず書房)一二〇ページ。</p><p>●24 ノーアム・チョムスキー『言語と精神(新装版)』川本茂雄訳(河出書房新社一九八〇年)一八二ページ。</p><p>●25 ウェーバー『社会学の基礎概念』前掲訳書三五ページ以下。</p><p>●26 マートン、前掲訳書五八─五九ページ。</p><p>●27 マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳(岩波文庫一九八九年)前掲訳書一三四ページ。</p><p>●28 ゲオルク・ジンメル「文化の概念と悲劇」『文化論』阿閉吉男編訳(文化書房博文社一九八七年)。</p><p>●29 今田高俊『自己組織性──社会理論の復活』(創文社一九八六年)。以下の説明はおもに二六四─二七七ページによる。</p><p>●30 前掲書二六四ページ。</p><p>●31 前掲書二六七ページ。</p><p>●32 今田は、これらの行為類型はあくまで分析的なもので、具体的な行為には多かれ少なかれこの三種の行為類型がふくまれていると考えている。要は、どれが前面にでてくるかである。前掲書二六五ページ。</p><p>●33 梶田孝道、前掲書六三─六七ページ。</p><p>●34 前掲書六三ページ。</p><p>12-4: 第三章 知識過程論の視圏──社会はいかにして可能か</p><p>●1 ジンメル『社会学──社会化の諸形式についての研究(上巻)』居安正訳(白水社一九九四年)三五〇ページ。</p><p>●2 前掲訳書三五二ページ。</p><p>●3 前掲訳書三五二ページ。</p><p>●4 P・L・バーガー、T・ルックマン『日常世界の構成――アイデンティティと社会の弁証法』山口節郎訳(新曜社一九七七年)二三─二四ページ。</p><p>●5 前掲訳書三九ページ。</p><p>●6 K・ライター『エスノメソドロジーとは何か』高山眞知子訳(新曜社一九八七年)三─一三ページ参照。また鳥越皓之編『環境問題の社会理論──生活環境主義の立場から』(御茶の水書房一九八九年)三一─三六ページ、八一─八二ページも参照。</p><p>●7 アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学の応用』中野卓監修・桜井厚訳(御茶の水書房一九八〇年)六─一〇ページ。あるいはA・ブロダーゼン編『アルフレッド・シュッツ著作集第3巻 社会理論の研究』渡部光・那須壽・西原和久訳(マルジュ社一九九一年)一三六─一三八ページ。</p><p>●8 ギデンスによる「共有知識」(mutual knowledge)の定義。アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準──理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房一九八七年)一五一─一五二ページ。</p><p>●9 前掲訳書一二六ページ。</p><p>●10 ジンメル『社会分化論 社会学』居安正訳(青木書店一九七〇年)二〇五─二二七ページ。あるいはジンメル『社会学(上巻)』(一九九四年)三七─五七ページ。ジンメルのこの小論は、社会学内部において必ずしも十分な評価をされてこなかったにもかかわらず、その執筆時期から見ても、その理論的な深みから見ても、あるいはその理論的な展開可能性から見ても、二十世紀の理論社会学共通の始発点となりうる重要な知見がふくまれている。ジンメル研究や役割理論の文脈では論じられることが多い論文で、たとえばハインリヒ・ポーピッツ「社会学理論の構成要素としての社会的役割の概念」J・A・ジャクソン編『役割・人間・社会』浦野和彦・坂田正顕・関三雄訳(梓出版社一九八五年)があるが、それ以外の文献を挙げると、システム論的問題関心に対してはルーマンが、現象学的社会学の問題関心に対してはオニールが、この小論を自説に位置づけている。ニクラス・ルーマン『社会システム理論の視座──その歴史的背景と現代的展開』佐藤勉訳(木鐸社一九八五年)。ジョン・オニール『言語・身体・社会──社会的世界の現象学とマルクス主義』須田朗・財津理・宮武昭訳(新曜社一九八四年)。</p><p>●11 ジンメル、前掲訳書(一九七〇年)二〇七ページ。あるいはジンメル、前掲訳書(一九九四年)三九ページ。</p><p>●12 前掲訳書(一九七〇年)二一一ページ。あるいはジンメル、前掲訳書(一九九三年)四三ページ。</p><p>●13 前者はゲルハルトの呼び方。後者はオニールの呼び方。</p><p>●14 ギデンス、前掲訳書一一〇─一一一ページ。</p><p>●15 前掲訳書二二一ページ。</p><p>●16 佐伯啓思『産業文明とポストモダン』(筑摩書房一九八九年)第三章「政策知識論──大衆社会における知識と政策」。佐伯啓思『「シミュレーション社会」の神話──意味喪失の時代を斬る』(日本経済新聞社一九八八年)第6章にも同様の説明がある。</p><p>●17 『産業文明とポストモダン』九四ページ。社会学的にいうと、これは正確には「予言の自己否定」であるが、循環構造そのものはほぼ同一である。</p><p>●18 前掲書九五ページ。</p><p>●19 前掲書九六ページ。佐伯はここで流行現象についても同じ循環構造を指摘している。「流行という流れの中に写し出された自己イメージが先行し、その集合が現実の世界を作り出してしまう。流行というスペクタクルに浮び上がったモノの記号的イメージが、現実のモノの世界を作り上げてしまう。いずれにせよ、『自己主題化』というメカニズムが現実(リアリティ)を産み出すわけである。」前掲書二〇五ページ。</p><p>●20 野村一夫「ジンメルと役割理論――受容史的接近」『社会学史研究』第九号(いなほ書房一九八七年)。なお「役割現象論」という用語はウータ・ゲルハルトにヒントをえた。Uta Gerhardt, Toward a Critical Analysis of Role, in: Social Problems 27(5), June 1980. Uta Gerhart, Georg Simmels Bedeutung fu`r die Geschichte des Rollenbegriffs in der Soziologie, in: Hannes Bo`hringer und Karlfried Gru`nder(Hg.), A`sthetik und Soziologie um die Jahrhundertwende: Georg Simmel, Frankfurt am Main, S.71-83.</p><p>●21 カール・レーヴィット『人間存在の倫理』佐々木一義訳(理想社一九六七年)。なお本書では「レーヴィト」と表記する。レーヴィトの「として規定」については、ふたりの日本人哲学者による理論展開が有名である。和辻哲郎『倫理学──人間の学としての倫理学の意義及び方法』岩波講座哲学[概説](岩波書店一九三一年)。『倫理学』上巻(岩波書店一九三七年・改版一九六七年)。廣松渉『世界の共同主観的存在構造』(講談社学術文庫一九九一年)。</p><p>●22 引用文はE・ゴッフマン『行為と演技──日常生活における自己呈示』石黒毅訳(誠信書房一九七四年)四ページによる。</p><p>●23 C.H.Cooley, Human Nature and the Social Order,1902, p.184.</p><p>●24 カール・マルクス『資本論1』岡崎次郎訳(国民文庫一九七二年)一一一ページ。</p><p>●25 鶴見俊輔『アメリカ哲学(上)』(講談社学術文庫一九七六年)一八ページ。</p><p>●26 ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店一九七三年)。なお本書が、リフレクションの訳語として「自省」というキレと鮮度のいいことばを採用しないで、「反省」といういささか凡庸で鮮度の悪いことばをあえて使うのも、「反射」「反照」のイメージを残したいからである。「自省」の「自」は「自己」の意味であり、システム論的主体概念が前提されていると考えられるが、わたしはそれよりも主体間に生じる緊張関係を暗示する「反」にひかれる。</p><p>●27 E・ゴッフマン『行為と演技──日常生活における自己呈示』石黒毅訳(誠信書房一九七四年)。</p><p>●28 ここで「既成の役割理論」と呼んだのは、人類学者ラルフ・リントンの「地位と役割」に準拠した役割理論のことである。代表者としてタルコット・パーソンズとラルフ・ダーレンドルフを挙げておこう。ただし両者はこれを超出する論点をふくんでおり、むしろここであげた三人の役割理論の通俗的受容をさすというべきだろう。</p><p>●29 ジンメル「俳優の哲学」『ジンメル著作集11断想』土肥美夫・堀田輝明訳(白水社一九七六年)二七三ページ。なおこの小論は未完の草稿である。</p><p>●30 E・ゴッフマン『出会い――相互行為の社会学』佐藤毅・折橋徹彦訳(誠信書房一九八五年)。</p><p>●31 前掲訳書一一五ページ。ただし若干修正した。</p><p>●32 前掲訳書一一六─一一七ページ。ただし若干の字句を改めた。</p><p>●33 ギデンス、前掲訳書二四ページ、四三ページなどによる。</p><p>●34 前掲訳書一四ページ。</p><p>●35 アンソニー・ギデンス『社会理論の最前線』友枝敏雄・今田高俊・森重雄訳(ハーベスト社一九八九年)五四ページ。</p><p>●36 前掲訳書二七六ページ。ただし訳書ではreflexively monitorが「自省的に評価する」となっている。また『社会学の新しい方法規準──理解社会学の共感的批判』の邦訳では「反照的モニター」と訳されている。本書では基本的に「反省」に訳語を統一しているので以下の訳文や説明についても「反省的評価」に統一した。</p><p>●37 前掲訳書二七七ページ。</p><p>●38 栗岡幹英「薬害被害者の意味世界の諸相」宝月誠編『薬害の社会学――薬と人間のアイロニー』(世界思想社一九八六年)。のちに栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社一九九三年)に「薬害被害者の意味世界」として転載。</p><p>●39 前掲論文の要約。</p><p>●40 ふつう「意識の変化」と呼ばれているのは、基本的には知識の変化と感情の変化であり、両者が不用意に混合されている。「意識の変化」だと、何か心の持ちようで何とでもなるかのような錯覚が与えられてしまう。</p><p>12-5: 第四章 権力作用論の視圏──反省を抑圧するコミュニケーション</p><p>●1 アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準──理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房一九八七年)一四五ページ。</p><p>●2 権力は「産出的」であるというフーコー、権力の「調達」「保障」の機能の重要性を喚起する藤田弘夫の議論を参照。ミシェル・フーコー『性の歴史I知への意志』渡辺守章訳(新潮社一九八六年)。藤田弘夫『都市の論理──権力はなぜ都市を必要とするか』(中公新書一九九三年)。もっとも洗練された社会学的権力論として、ニクラス・ルーマン『権力』長岡克行訳(勁草書房一九八六年)。ただし本書の議論はこれらの研究と必ずしも沿うものではない。</p><p>●3 ルーマン、前掲訳書「日本語版への序文」参照。</p><p>●4 すぐれたジャーナリストは大なり小なりこの「腹立たしい事実」に直面している。その一例として、鎌田慧『ドキュメント隠された公害──イタイイタイ病を追って』(ちくま文庫一九九一年)。</p><p>●5 梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)五〇─五五ページ。船橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・勝田晴美『新幹線公害――高速文明の社会問題』(有斐閣一九八五年)。舩橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・梶田孝道『高速文明の地域問題──東北新幹線の建設・紛争と社会的影響』(有斐閣一九八八年)。</p><p>●6 梶田孝道、前掲書viページ。</p><p>●7 船橋晴俊ほか『新幹線公害』七七ページ以下。</p><p>●8 前掲書八〇ページ以下。受益圏には圧力集団や利害団体や集約的代弁者としての公的機関(具体的にはテクノクラート)が存在するが、受苦圏には被害者運動組織以外に存在しないこともコミュニケーションを困難にする要素である。梶田孝道、前掲書一一ページ。</p><p>●9 近年のジェンダー論では一連の男性論が盛んになっており、男性の方が抑圧が深いという議論がなされている。これはこれで傾聴すべきものをもっているが、ここでは省略する。渡辺恒夫『脱男性の時代』(勁草書房一九八六年)。なお「男らしさのジレンマ」はコマロフスキーの著書名である。M・コマロフスキー『男らしさのジレンマ──性別役割の変化にとまどう大学生の悩み』池上千寿子・福井浅子訳(家政教育社一九八四年)。</p><p>●10 ここで「古い」と述べたのは「伝統的」という意味ではなく「一世代か二世代古い」という意味である。一般に性別役割分担は「伝統的」なことと考えられているが、じっさいに庶民レベルにおいてそれが自明化したのは高度経済成長期の一九六〇年代である。つまり、産業界の性別役割分業に対応して家族内の性別役割分担が確立したのである。上野千鶴子『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波書店一九九〇年)一九七ページほか。</p><p>●11 江原由美子『フェミニズムと権力作用』(勁草書房一九八八年)。</p><p>●12 栗原彬「市民社会の廃墟から──『心の習慣』と政治改革」『世界』一九九三年十月号五四─五五ページ。</p><p>●13 江原由美子『女性解放という思想』(勁草書房一九八五年)七八ページ。</p><p>●14 前掲書三二ページ。このあと、フェミニズムの場合それが家父長制であると指摘する。</p><p>●15 間庭充幸『日本的集団の社会学――包摂と排斥の構造』(河出書房新社一九九〇年)一三一ページ。</p><p>●16 熊沢誠『新編 民主主義は工場の門前で立ちすくむ』(現代教養文庫一九九三年)二三─二九ページ。熊沢誠『日本的経営の明暗』(筑摩書房一九八九年)も参照されたい。</p><p>●17 熊沢誠『新編 民主主義は工場の門前で立ちすくむ』五九─六〇ページ。</p><p>●18 前掲書。</p><p>●19 間庭充幸、前掲書五一ページ。</p><p>●20 「構造的暴力」概念については、ヨハン・ガルトゥング『構造的暴力と平和』高柳光男・塩屋保・酒井由美子訳(中央大学出版部一九九一年)。</p><p>●21 森田洋司「いじめの四層構造論」『現代のエスプリ』二二八号「いじめ・家庭と学校のはざまで」特集。</p><p>●22 森田洋司、前掲論文。</p><p>●23 森田洋司「いじめに四層構造」『朝日新聞』東京本社版一九九一年四月六日付夕刊4版。</p><p>●24 徳岡秀雄『社会病理への分析視角──ラベリング論・再考』(東京大学出版会一九八七年)一八二ページ。</p><p>●25 「正常」についての古典的議論としては、デュルケム『社会学的方法の規準』宮島喬訳(岩波文庫一九七八年)。</p><p>●26 ジンメル『社会分化論 社会学』居安正訳(青木書店一九七〇年)。ジンメル『社会学──社会化の諸形式についての研究(上)』居安正訳(白水社一九九四年)。マックス・ウェーバー『社会学の基礎概念』阿閉吉男・内藤莞爾訳(恒星社厚生閣一九八七年)。マックス・ウェーバー『支配の諸類型』世良晃志郎訳(創文社一九七〇年)。</p><p>●27 カール・マルクス『資本論1』岡崎次郎訳(国民文庫一九七二年)一一一ページ。</p><p>●28 ミシェル・フーコー『性の歴史I知への意志』渡辺守章訳(新潮社一九八六年)一二一-一二四ページ。たいへん乱暴ないい方をすれば、ここで問題とされている「権力作用」は、かつてウェーバーが「規律」(Disziplin)と呼び、「価値の内面化」を重視したパーソンズが「社会システム」(social system)と呼んだものである。ただ、ウェーバーの場合は「他人の抵抗を排してでも」という権力概念の定義の方がひとり歩きしてしまい、パーソンズはそれを社会のすべてと見なしてしまって批判を招いてしまった。フーコーはそれに当たるものをまったく別の知的領域で新たに「産出的な権力」として議論したのである。それ以降、現代社会学ではエスノメソドロジーが注目していたこともあって、現在このように「権力作用」として感受されるようになったのである。なお、フーコーの権力論の位置づけについてはさまざまな捉え方があり、異論も生じやすいと思われるが、この点については次のものを参照されたい。アクセル・ホネット『権力の批判──批判的社会理論の新たな地平』河上倫逸監訳(法政大学出版局一九九二年)第六章。</p><p>●29 アンソニー・ギデンス『社会理論の最前線』友枝敏雄・今田高俊・森重雄訳(ハーベスト社一九八九年)三三ページ。</p><p>●30 C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』鈴木広訳(紀伊国屋書店一九六五年)五五─五六ページ。</p><p>●31 栗原彬、前掲論文。</p><p>●32 デニス・マクウェール『コミュニケーションの社会学――その理論と今日的状況』山中正剛監訳、武市英雄・松木修二郎・山田實・山中速人訳(川島書店一九七九年)一五ページ以下。</p><p>●33 野村一夫「社会学的反省の理論としてのジャーナリズム論」『新聞学評論』第三六号(日本新聞学会一九八七年)。</p><p>●34 クラウス・ミューラー『政治と言語』辻村明・松村健生訳(東京創元社一九七八年)。</p><p>●35 前掲訳書三〇ページ。</p><p>●36 前掲訳書三〇ページ。</p><p>●37 前掲訳書六一ページ以下。</p><p>●38 前掲訳書三〇ページ。</p><p>●39 前掲訳書一一六ページ。</p><p>●40 グレン・フック『軍事化から非軍事化へ――平和研究の視座に立って』(御茶の水書房一九八六年)二一ページ。</p><p>●41 前掲書三三ページ。</p><p>●42 清水義範『国語入試問題必勝法』(講談社文庫一九九〇年)。これはパロディというより、かぎりなく実態に近い小説である。</p><p>●43 J・T・クラッパー『マス・コミュニケーションの効果』NHK放送学研究室訳(日本放送協会一九六六年)。</p><p>●44 日本でこの呼び方が流通したのはエリーザベト・ノエル-ノイマンの日本での講演論文「強力なマス・メディアという概念への回帰」の影響が大きい。E.Noelle-Neumann, Return to the Concept of Powerful Mass Media, Studies of Broadcasting 9, 1973.</p><p>●45 マクウェール『マス・コミュニケーションの理論』竹内郁郎・三上俊治・竹下俊郎・水野博介訳(新曜社一九八五年)。児島和人『マス・コミュニケーション受容理論の展開』(東京大学出版会一九九三年)。入門的なものとして田崎篤郎・児島和人編著『マス・コミュニケーション効果研究の展開』(北樹出版一九九二年)。</p><p>12-6: 第五章 コミュニケーション論の視圏──〈反省する社会〉の構造原理</p><p>●1 ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店一九七三年)三三九─三四〇ページ。ただし一部訳注を省略。</p><p>●2 前掲訳書三三九─三四〇ページ。</p><p>●3 前掲訳書二九七ページ。</p><p>●4 小谷敏「G・H・ミードとアメリカ社会──『等質性のユートピア』を超えて」片桐雅隆編『意味と日常世界──シンボリック・インタラクショニズムの社会学』(世界思想社一九八九年)。</p><p>●5 吉見俊哉・若林幹夫・水越伸『メディアとしての電話』(弘文堂一九九二年)。</p><p>●6 ミード、前掲訳書三三九ページ。</p><p>●7 小谷敏、前掲論文一四ページ。</p><p>●8 『長谷川如是閑選集』第四巻(栗田出版会一九七〇年)三九九ページ。</p><p>●9 A・W・グールドナー『社会学のために(上)』村井忠政訳(杉山書店一九八七年)。カール-オットー・アーペル『哲学の変換』磯江景孜ほか訳(二玄社一九八六年)。ハーバーマス「コミュニケーション能力の理論のための予備的考察」ユルゲン・ハーバーマス、ニクラス・ルーマン『ハーバーマス=ルーマン論争/批判理論と社会システム論』佐藤嘉一・山口節郎・藤沢賢一郎訳(木鐸社一九八四年)。ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(中)』藤沢賢一郎・岩倉正博・徳永恂・平野嘉彦・山口節郎訳(未来社一九八六年)。</p><p>●10 ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(中)』二二─二三ページ。</p><p>●11 ハバーマスはいたるところで「了解は目的因(テロス)として人間の言語に内在している」と述べている。前掲訳書二四ページ。</p><p>●12 ハーバーマス「予備的考察」一六八ページ。</p><p>●13 ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(中)』四七ページの「水を一杯もって来てくれないか」の例を参照してつくった。</p><p>●14 その悲劇的な一事例として、稲葉哲郎『裁判官の論理を問う──社会科学者の視点から』(朝日文庫一九九二年)。コミュニケーションとしての裁判過程については、なお述べたいことがあるが、ここでは紙幅の余裕がない。かわりにふたつの著作を紹介しておきたい。栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社一九九三年)。樫村志郎『「もめごと」の法社会学』(弘文堂一九八九年)。</p><p>●15 船橋晴俊「『公共性』と被害者救済との対立をどう解決するか」船橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・勝田晴美『新幹線公害――高速文明の社会問題』(有斐閣一九八五年)二三九─二四八ページ。</p><p>●16 花田達朗「空間概念としてのO`ffentlichkeit──ハーバーマスにおける公共圏とコミュニケーション的合理性」『ソシオロジカ』一五巻二号(一九九一年)。花田達朗「公的意味空間論ノート」『新聞学評論』四〇号(日本新聞学会一九九一年)。花田達朗「公共圏と市民社会の構図」岩波講座社会科学の方法第八巻『システムと生活世界』(岩波書店一九九三年)。</p><p>●17 ハーバーマス『公共性の構造転換』細谷貞雄訳(未来社一九七三年)。この訳書でいう「公共性」(O`ffentlichkeit)は基本的に「公共圏」のことである。したがって「公共性」を「公共圏」に置き換えて読むと論旨がすっきりするケースが多い。たとえば「われわれは私生活圏と公共性という区別を立てる」(前掲訳書五〇ページ)といった一節もこの置き換えなしには理解しにくい。この点に関しては、空間概念として解釈する花田達朗の前掲論文から大きな示唆をえた。なお、市民的公共圏をめぐるハバーマスの理論については、花田達朗の前掲諸論文ならびに斎藤純一「政治的公共性の再生をめぐって──アーレントとハーバーマス」藤原保信・三島憲一・木前利秋編著『ハーバーマスと現代』(新評論一九八七年)。横田栄一『市民的公共性の理念──カント―ファイヤーアーベント―アーペル―ハーバーマス』(青弓社一九八六年)。佐藤慶幸「対話的コミュニケーション行為と公共性──ハーバーマス理論を中心に」田野崎昭夫・広瀬英彦・林茂樹編『現代社会とコミュニケーションの理論』(勁草書房一九八八年)。この分野の古典として、ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳(中央公論社一九七三年)。</p><p>●18 ハーバーマス、前掲訳書五六─五七ページ。</p><p>●19 ハーバーマス、前掲訳書二三四ページ。</p><p>●20 L・コーザー『知識人と社会』高橋徹監訳(培風館一九七〇年)。</p><p>●21 前掲訳書二二ページ。</p><p>●22 ハーバーマス、前掲訳書一五ページ。ただし一部修整した。ここで「われわれの社会」といわれているのは「近代社会」のことである。市民的公共圏の理念は近代特有のものである。</p><p>●23 木前利秋「システムと生活世界──偶発性の社会学」岩波講座社会科学の方法第八巻『システムと生活世界』(岩波書店一九九三年)三〇ページ以下。</p><p>●24 ハーバーマス、前掲訳書一一六ページ。ただし「公共性」を「公共圏」に改めた。なお、この点をふくめて、最近ハバーマスが三十年前の自著を論じた小論がある。ユルゲン・ハーバーマス「公共性の構造転換1・2──一九九〇年新版への序文」山田正行訳『みすず』三六四・三六五号(みすず書房一九九一年)。</p><p>●25 コーザー、前掲訳書二六─二七ページ。</p><p>●26 C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』鈴木広訳(紀伊国屋書店一九六五年)二四八ページ。</p><p>●27 この点についてはジンメルの社交論が参照されるべきである。とくにG・ジンメル『社会学の根本問題──個人と社会』阿閉吉男訳(現代教養文庫一九六七年)八九─九四ページ。</p><p>●28 ハーバーマス『公共性』前掲訳書三三四─三三五ページ。</p><p>●29 ハーバーマス、前掲訳書三三四─三三五ページ。</p><p>●30 アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学の応用』中野卓監修・桜井厚訳(御茶の水書房一九八〇年)第三章「博識の市民──知識の社会的配分に関する小論」。A・ブロダーゼン(編)『アルフレッド・シュッツ著作集第3巻社会理論の研究』渡部光・那須壽・西原和久訳(マルジュ社一九九一年)「見識ある市民──知識の社会的配分に関する一試論」。</p><p>●31 前掲訳書(桜井訳)五〇ページ。</p><p>●32 前掲訳書五一ページ。</p><p>12-7: 第六章 高度反省社会への課題</p><p>●1 井上俊「日本文化の一〇〇年──『適応』『超越』『自省』のダイナミクス」『悪夢の選択──文明の社会学』(筑摩書房一九九二年)。</p><p>●2 前掲書九四─九五ページ。</p><p>●3 前掲書一〇四ページ。</p><p>●4 前掲書一一七ページ。</p><p>●5 八木敏行『情報公開──現状と課題』(有斐閣一九八六年)「序論 いまなぜ情報公開か」とくに三五─三七ページ。</p><p>●6 自由人権協会(編)『情報公開法をつくろう──アメリカ情報自由法に学ぶ』(花伝社一九九〇年)一二三─一六五ページ。</p><p>●7 近年、企業社会において問題になっている「ディスクロージャー」は証券取り引きのさいの開示のことであり、きわめて狭い概念であるので注意してほしい。なお、日本の実情については、朝日新聞情報公開取材班『日本での情報公開──開かれた政府を』(朝日新聞社一九八一年)。十年以上前の本だが、残念ながら今だに通用する記述が多い。</p><p>●8 石坂悦男・桂敬一・杉山光信(編)『メディアと情報化の現在』(日本評論社一九九三年)に収められた二本の論文を参照。塚本三夫「『高度情報社会』における情報操作の問題──マス・メディアの総合情報産業化は何をもたらすか」ならびに柳井道夫「情報化と世論──環境認知の視点から──情報の受け手が遭遇する情報環境の変化」。</p><p>●9 ただし、テレビ・ニュースの論調がこれらの動きを誘発させたわけではない。</p><p>●10 H・E・フリーマン、S・レヴァイン、L・G・リーダー編『医療社会学』日野原重明・橋本正己・杉政孝監訳(医歯薬出版一九七五年)二七五─二七七ページ。園田恭一・米林喜男編『保健医療の社会学――健康生活の社会的条件』(有斐閣選書一九八三年)一六五─一八二ページ。砂原茂一『医者と患者と病院と』(岩波新書一九八三年)四五─五〇ページ。</p><p>●11 エリオット・フリードソン『医療と専門家支配』進藤雄三・宝月誠訳(恒星社厚生閣一九九二年)第五章。</p><p>●12 以下の説明では次の文献を参照した。水野肇『インフォームド・コンセント──医療現場における説明と同意』(中公新書一九九〇年)。星野一正『医療の倫理』(岩波新書一九九一年)。ジョージ・J・アナス『患者の権利』上原鳴夫・赤津晴子訳(日本評論社一九九二年)。砂原茂一、前掲書。</p><p>●13 アナス、前掲訳書三五ページ。</p><p>●14 前掲訳書四一ページ。</p><p>●15 以上は原則論であって、末期ガンの告知などの複雑な問題が他方にある。しかしそれらを考える上でも原則の確認は不可欠である。またじっさいにインフォームド・コンセントが普及しているアメリカでは「ディフェンス医療」などの新しい問題も生じており、ことはそれほどかんたんではない。このあたりのくわしい議論については、水野肇、前掲書。</p><p>●16 アラン・トゥレーヌ『ポスト社会主義』平田清明・清水耕一訳(新泉社一九八二年)。</p><p>●17 以下の議論をするにあたって次の論考を参照した。山口節郎「労働社会の危機と新しい社会運動」『思想』一九八五年一一月号。梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)第6章「新しい社会運動──A・トゥレーヌの問題提示をうけて」。伊藤るり「〈新しい社会運動〉論の諸相と運動の現在」岩波講座社会科学の方法第八巻『システムと生活世界』(岩波書店一九九三年)。</p><p>●18 山口節郎、前掲論文二三ページ。</p><p>●19 ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(下)』丸山高司・丸山徳次・厚東洋輔・森田数実・馬場孚瑳江・脇圭平訳(未来社一九八七年)四一二ページ。</p><p>●20 この点については、金子郁容『ボランティア──もうひとつの情報社会』(岩波新書一九九二年)。この本の描く世界──「もうひとつの情報社会」──は本書の議論に具体的なイメージを与えてくれる。たとえば本書での「見識ある市民」と金子のいう「ボランティア」を比較してほしい。</p><p>●21 梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)第二章「受益圏・受苦圏と民主主義の問題──地域紛争としてみた国際空港問題」。</p><p>●22 前掲書五四ページ。</p><p>●23 前掲書五五ページ。</p><p>●24 鳥越皓之編『環境問題の社会理論──生活環境主義の立場から』(御茶の水書房一九八九年)五─七、一八─二〇、九六─九七ページ。なお、この本と一対をなす調査報告書として、鳥越皓之・嘉田由紀子編『水と人の環境史──琵琶湖報告書(増補版)』(御茶の水書房一九九一年)。</p><p>●25 鳥越皓之編『環境問題の社会理論』五七ページ。</p><p>●26 前掲書一六二ページ。</p><p>●27 原寿雄『新しいジャーナリストたちへ』(晩聲社一九九二年)一七九─一八〇ページ。</p><p>●28 欧米ではこれ以外に家族・友人・教会・地域コミュニティなどが有力なエージェントとして挙げられるが、現代日本の都市部住民の場合は学校とマス・メディアほど大きくないと推測される。地域紛争や市民運動の盛んな地域あるいは宗教教団や日々差別を受けている人びとについては、もちろんこのかぎりではない。政治的社会化の概念については、児島和人『マス・コミュニケーション受容理論の展開』(東京大学出版会一九九三年)二五─二七ページ。</p><p>●29 カレル・ヴァン・ウォルフレン『日本/権力構造の謎(下)』篠原勝訳(早川書房一九九〇年)一七一ページ。</p><p>●30 原寿雄『新聞記者の処世術』(晩聲社一九八七年)一五二ページ。</p><p>●31 ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(上)』河上倫逸・フーブリヒト・平井俊彦訳(未来社一九八五年)二五ページ。</p><p>●32 P・L・バーガー『社会学への招待(改訂新装版)』水野節夫・村山研一訳(思索社一九八九年)三七─三八ページ。ただし一部修整した。</p><p>●33 新井直之「視聴者と共生するテレビへ」津田正夫(編)『テレビジャーナリズムの現在──市民との共生は可能か』(現代書館一九九一年)二五〇ページ。</p><p>●34 『戸坂潤全集』第四巻(勁草書房一九六七年)一五六ページ。</p><p>●35 今田高俊『モダンの脱構築──産業社会のゆくえ』(中公新書一九八七年)二一一ページ。</p><p>●36 エドガール・モラン『出来事と危機の社会学』浜名優美・福井和美訳(法政大学出版局一九九〇年)二一三ページ。</p><p>●37 ブレヒト「実験的演劇について」千田是也訳編『今日の世界は演劇によって再現できるか――ブレヒト演劇論集』(白水社一九六二年)一二三ページ。</p><p>●38 ハーバート・ブルーマー『シンボリック相互作用論──パースペクティヴと方法』後藤将之訳(勁草書房一九九一年)一九一ページ。</p><p>●39 前掲訳書一九四ページ。</p><p>●40 W・リップマン『世論(上)』掛川トミ子訳(岩波文庫一九八七年)一一一ページ。</p><p>●41 A・W・グールドナー『社会学の再生を求めて3』岡田直之ほか訳(新曜社一九七五年)第十三章「社会学者として生きること/自己反省の社会学をめざして」(栗原彬訳)二一六ページ。</p><p>●42 グールドナー、前掲訳書二一六ページ。</p><p>●43 伊佐山芳朗『嫌煙権を考える』(岩波新書一九八三年)七四─七五ページほかを参照。</p><p>●44 前掲書六八ページ。</p><p>●45 モラン、前掲訳書二〇九ページ以下。</p><p>●46 前掲訳書三六六ページ。</p><p>●47 前掲訳書二一五ページ。</p><p>●48 佐藤郁哉『暴走族のエスノグラフィー──モードの叛乱と文化の呪縛』(新曜社一九八四年)。吉岡忍『墜落の夏──日航123便事故全記録』(新潮文庫一九八六年)。</p><p>●49 佐藤郁哉『フィールドワーク──書を持って街へ出よう』(新曜社一九九二年)。</p><p>●50 ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー『心の習慣──アメリカ個人主義のゆくえ』島薗進・中村圭志訳(みすず書房一九九一年)三五八ページ。</p><p>●51 前掲訳書三六二ページ。</p><p>●52 前掲訳書三六二ページ。</p><p>●53 前掲訳書三六四ページ。</p><p>●54 前掲訳書三五八ページ。</p><p>●55 C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』鈴木広訳(紀伊国屋書店一九六五年)二四六ページ。</p><p>●56 前掲訳書二三七ページ。</p><p>●57 ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(下)』四〇〇ページ。</p><p>●58 A・W・グールドナー『社会学のために(上)──現代社会学の再生と批判』村井忠政訳(杉山書店一九八七年)一四六ページ。</p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-83509045916831905472022-01-17T16:47:00.001+09:002022-01-17T16:47:08.470+09:00『リフレクション』第六章 高度反省社会への課題(1)コミュニケーションの透明性と対称性の獲得<p>野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第六章 高度反省社会への課題(1)コミュニケーションの透明性と対称性の獲得</p><p>一 コミュニケーションの透明性と対称性の獲得</p><p>11-1-1: 現代日本社会における自省</p><p>理想的コミュニケーション共同体である市民的公共圏の理念に、現代の日本社会はどこまで迫っているだろうか。あるいはその可能性はあるのだろうか。この章ではこの問題について具体的に考えてみたい。</p><p>さて、井上俊は近代の日本文化を総観的に分析した論文のなかで、文化の基本的機能として「適応」「超越」「自省」を挙げている。●1「適応」とは現実の利害関係に実用主義的にあわせていく働きであり、「超越」とは理想や理念を掲げてそれを追求する働きである。これらに対して「自省」は「みずからの妥当性や正当性を疑い、みずからそれについて検討する機能」「その文化がよしとする理想や価値をも疑い、相対化する力」のことである。●2かれはこの三つの機能的要因の拮抗として近代の日本文化を見ていくのであるが、戦後の場合「自省」がはっきり認められるのは一九七〇年前後の数年間だという。</p><p>たしかにこの時期は、六〇年代の高度経済成長の副産物として公害問題が次々に顕在化し、被害者救済運動が急速に盛り上がった時期であり、安保闘争、学園紛争、消費者運動など、既成の日本社会のあり方を問うさまざまな動きが格段に強くなった時期でもある。</p><p>しかし、その後の二〇年あまりの期間に文化の再編と安定化が進み、「適応」が強くなり、「超越」「自省」が衰弱・変質し、三者間のバランスが崩れてしまったと井上は診断する。つまり、戦後の啓蒙主義的理想主義がほとんど解体し、人びとが「きれいごと」と感じてしまうようになった。むしろ身近な利害関心に即したものごとが歓迎される状況が醸成されている。この価値意識をよくあらわしているのが「ノリ」ということばである。一般に近年の若い世代は「ノリ」にこだわり、「ノリが悪い」のを嫌う。井上は、このような「ノリの文化」について次のように述べる。「もともと、ノリとは、人が周囲の状況や他者としっくり適合し、したがって自意識や反省の作用から解放されて、のびのびと動ける状態をいう。その意味で、ノリの文化は、適応要因と結びついている一方で自省要因を排除する面をもっているともいえる。」●3もちろんこれはひとつの側面にすぎないが、さまざまな要因によって結果的に現状肯定的な傾向が強くなり、文化全体が「適応」に一元化してしまった。これが現代日本文化の状況だという。●4</p><p>井上の論文は一九八九年の時点で発表されたものだから、ここで「ノリの文化」といわれているのはほぼバブル時代の風潮をさしていると見られるわけで、ここ五年間の変容が語られていないのは当然である。リクルート事件からバブル崩壊・平成不況・リストラ・政権交代といたる近年の流れのなかで、日本文化の「自省」が一九八九年前後から顕在化しつつあるとわたしは考えている。</p><p>すでにわたしは序論で「臨界の兆候」として現代日本の「自省」の必要性を示唆しておいた。それらは「兆候」というよりもむしろ「危機」というべきだったかもしれない。ほんとうの危機とは当事者が危機と感じていないところにこそあるのだから。しかし、そこには部分的ながら自己批判や自己点検のすでにはじまった領域もあれば、たんなる萌芽にすぎない領域もある。社会には、もともと「自省」の傾向の強い社会領域もあれば、そうでない直進的発展の支配的な社会領域もあるだろうから、一刀両断の時代診断を下すわけにはいかない。この節では、それらのなかから、反省的コミュニケーションが焦点になって久しいいくつかの領域を検討して、今後の方向性を探っていくことにしよう。</p><p>11-1-2: ディスクロージャー</p><p>最初に検討したいのは「知る権利」の行使に関するさまざまな動向である。民主主義であるためには、政治的決定や経済的決定をするさいに、その影響を受ける者が有効な声をあげることができなければならない。その声をあげるには、まず何よりも「知る」ことが必要である。しかし、わたしたちが「見識ある市民」として必要な知識を手に入れようとしても、じっさいにはたいへんなコストがかかるだけでなく、まったく入手不可能なケースも多い。これを改善しなければ市民的公共圏どころではない。知識の社会的配分の偏在性を解消すること。そこで注目されるのが「ディスクロージャー」である。</p><p>「ディスクロージャー」(disclosure)は、これまで「情報公開」「情報開示」と訳されてきた。最近はたんに「開示」やこのようにカタカナ表記されることが増えてきているようだが、法律的な議論では「情報公開」「情報開示」が一般的に用いられている。ちなみにゴルバチョフが始めた「グラスノスチ」はこれを拡張したような政策だった。</p><p>ディスクロージャーがとくに問題になるのは、政治権力・行政権力・企業(経済権力)である。前二者の場合、国家と地方自治体とで事情は大きく異なる。地方自治体では一九八〇年代に急速に情報公開条例が施行されているのに対して、国の情報公開法は今だに実現していないからだ。企業の場合も相当遅れている。こちらには「企業秘密」という名分があるからだ。しかし、安全や環境など社会的責任のある分野については行政の監督下にあるわけだから、行政のディスクロージャーでかなりの部分が解明できるはずである。その意味でも、国家行政のディスクロージャーが決定的に重要である。</p><p>地方自治体から情報公開が制度化されたのには事情がある。八木敏行によると、情報公開運動が盛んになった背景には三つの動機があった。</p><p>第一に、一九六〇年代にあいついで生じた公害・環境破壊・都市問題・消費者問題などで日本各地に草の根的な市民運動・住民運動が権利救済を目的に起こり、それらが行政や企業に対して情報公開を求めるようになったこと。これが「第一の起爆剤」である。第二に、一九七二年の「外務省機密文書漏洩事件」によって「知る権利」がクローズアップされ、一九七六年のロッキード事件や一九七八年末のダグラス・グラマン事件など一連の航空機疑惑が政治や行政の密室性を問題化し、開かれた政府と情報公開が求められた。第三に、地方自治への参加の要請がある。一九七三年の石油ショック以後の経済成長優先主義への反発・脱物質主義・地方回帰・コミュニティ復権の流れのなかで「地方の時代」ブームが起こった。そこで地方の自治・参加・分権を志向する議論が活発になり、情報公開条例が次々に実現することになる。●5</p><p>このように情報公開制度はこれ自体すでに日本社会の「自省」の産物である。「見識ある市民」による運動によって主体的につくられたものだ。現在は地方自治体にとどまっているこのディスクロージャーの流れを国や企業におよぼすことが今後の課題であるが、またさらに医療現場や学校・大学など、公開性の原則をさまざまな分野に拡大適用していくことも忘れてはならない。</p><p>ところで「情報公開法」によって何がわかるのだろうか。たとえばアメリカの情報自由法(the Freedom of Information Act: FOIA)によって引きだされた開示事項の数々を分類した「フォーマー・シークレット」は以下の項目を立てている(なおカッコ内は補足説明ないし事例)。(1)消費財の安全(欠陥商品の発見)、(2)薬の安全性・政府の人間行動コントロール(食品医薬品局へ提出された製薬企業の新薬データによる危険性の発見と新薬の人体実験の公開)、(3)環境と原子力(放射性廃棄物や殺虫剤の処理状況)、(4)不正行為・浪費・政府の支出(納税者による監視)、(5)労働者と市民の権利(差別待遇の実態)、(6)ビジネス(食品薬品局などによる企業査察報告書を企業が開示請求し情報収集に利用)、(7)歴史(現代史的研究)、(8)外交と国防、(9)政治的活動への政府の介入(FBIやCIAによる諜報活動の実態)、(10)税(国税庁の活動を知る)。●6</p><p>このように行政の情報公開法(条例)によって相当の知識を社会的コミュニケーションに乗せることができるのである。八木のまとめによると、情報公開は権利救済・監視と批判・行政参加・情報利用の四つの機能を果たすという。だれもがこのようなチャンスをもっているとすれば、たとえば公害企業が企業秘密をたてに重要な情報を独占・隠蔽するといったことは無意味になる。そもそも企業が情報を独占・隠蔽するのは、被害者をふくむ当事者たち──かれらはすでに事実を少なくとも体験的に知っている──以外の第三者にそれが伝わって、企業の信頼やイメージが損なわれたり、経営に響くのを怖れるからである。それが行政サイドから流れるとすれば、独占・隠蔽の効果がないだけでなく、かえって企業イメージを損なうことになってしまう可能性さえ生まれる。</p><p>ここでひとつの理想を描くと、企業が内部情報を白書のように公開することによって社会的責任を果たし、消費者がそれを信頼性として高く評価することによって、結果的に企業のシェアを上げることになれば、日本の閉鎖的な企業文化も開放的なものに変わっていくだろう。消費者の成熟に対応して、広告戦略やイメージ戦略一辺倒の企業コミュニケーション政策を見直しする時期もそう遠くないかもしれない。けれどもしばらくは試行錯誤がつづきそうである。●7</p><p>11-1-3: マス・メディアの両義性</p><p>さて、とりあえず現時点で自発的なディスクロージャーがないとなれば、だれかが意識的に開示・公開する作業をしなければならない。ここで「知る権利の代行」が必要となる。それが厳密な意味でのジャーナリズムである。現在では、それはもっぱらマス・メディアの仕事になっているが、市民運動グループが代行することもふえている。しかし社会的に大きな影響をおよぼすとなれば、何らかの形でマス・メディアが関与しなければならない。</p><p>すでに述べたように、現代人のコミュニケーションは「メディアを媒介にした相互作用」になっているため、コミュニケーションが当事者たち(送り手であろうと受け手であろうと)の意図をこえてメディアの自律性によって左右される。つまりメディア自体のさまざまな事情によってコミュニケーションが大きく変容してしまうのである。とりわけマス・コミュニケーションは技術的な要素だけでなく、市場原理や経営方針といった経済的要素や、政府の許認可や行政指導などの政治的要素が濃厚にコミュニケーション内容を規定し、またそこで働く人たちの意識や知識のありようにも大きく左右される。</p><p>現在のマス・メディアの抱えるもっとも根本的な内部事情は「総合情報産業化」である。社会が複雑化してジャーナリズムの機能強化がますます必要になっているにもかかわらず、マス・メディアの総合情報産業化によって、ジャーナリズムは慢性的な危機状態が続いている。●8</p><p>「ジャーナリズム」と「総合情報産業」のどこがちがうかといえば、前者が権力をもつ側──政治権力であれ経済権力であれ専門家の権力であれ──に対するチェック機能を主軸とするのに対して、後者は「経済的価値を生む情報」を売るわけだから結果的に権力をもつ側によって発表された情報を市場に供給することになる。前者が権力作用に抵抗するコミュニケーションだとすると、後者は権力作用に内在するコミュニケーションであり、ディスコミュニケーションの再生産になりがちである。そしてマス・メディアにおける総合情報産業化の傾向とジャーナリズムの衰退は、「権力のことば」「消費のことば」の過剰な流通をもたらすことになる。</p><p>このような送り手の事情がある一方で、ジャーナリズムそのものに対する受け手側の不信も募っている。誤報・やらせ・センセーショナリズム・集中豪雨的取材・マンネリ・難解……。これらの不信は、ともすればPTA的な「俗悪」マスコミ批判・自民党関係者やタカ派文化人の「偏向報道」批判・「法律で取り締まれ」という「お上意識」の強い庶民による強権発動待望論などを誘発する。今日ジャーナリズム批判をすることのむずかしさはここにある。</p><p>しかし、一九八〇年代末あたりからテレビにおいてニュース戦争が過熱し、現在に至っている。これまでテレビ局において「ニュースは金食い虫だ」との声が常識だったのが、テレビ朝日の「ニュース・ステーション」の成功をきっかけに、ここにきて市場原理が働くようになったのである。なぜかというと、多くの受け手が支持するようになったからである。支持が多ければ視聴率も上がりスポンサーもつく。この受け手の支持こそ日本社会の「自省」のあらわれと見ることができる。その意味で、政界のドンの逮捕、建設業界の談合や政界工作の摘発、政権交代といった一連の転換劇はこのニュース戦争と一体のものである。●9</p><p>しかし一方でこれさえもテレビ朝日の椿報道局長の証人喚問に見られるように、政治権力による露骨な圧力が加えられる。送り手も受け手もマス・メディアの両義性(相反する特質を同時にもつこと)をしっかり認識することが必要だ。その上でリフレクションを活性化させるようなコミュニケーション制度の構築をめざすべきであろう。</p><p>11-1-4: 専門家支配とインフォームド・コンセント</p><p>「コミュニケーション」というとマス・メディアの話、「知る権利」というと法律の話、「民主主義」というと政治の話と決めつけないでほしい。これらが絡む現場はわたしたちの社会のじつにさまざまな領域に広がっている。その一例として医療現場を検証してみよう。</p><p>まず医療現場の人間関係を極度に単純化して、医者と患者の関係にしぼって考えたい。サスとホランダーの有名なモデル化によると、医者(あるいは治療者)と患者の関係には三つのタイプがありうる。まず第一に「能動−受動の関係」(activity-passivity)あるいは「親−幼児モデル」。これは重傷・大出血・昏睡などによって患者が自分で何もできない状態にあるとき、医者が患者の「最善の利益」を考えて処置するさいの関係である。第二に「指導−協力の関係」(guidance-cooperation)あるいは「親−年長児モデル」。患者が、何がおこっているかを自分でもよく知っており、医師の指示にしたがう能力も、ある程度の判断を下す能力ももっていて、病気をなおすために積極的に医者に協力できる段階の関係である。第三に「相互参加」(mutual participation)の関係あるいは「成人−成人モデル」。糖尿病や高血圧などの慢性疾患に妥当するタイプ。この場合、患者自身が治療プログラムを実行するわけで、医師は相談にのることによって患者の自助活動を支援するだけである。●10</p><p>第一と第二のタイプは程度の差こそあれ基本的にパターナリズムに基づいている。もともとパターナリズム(paternalism)とは、一家の主である父親(あるいはこれに類する成人男性)が責任をもって家族のめんどうを温情的にみることに由来するが、その分、父親は家族に対して絶対的権威をもって臨み、ひとりひとりの自由や意志を尊重しない。一種の押しつけ的干渉である。</p><p>第一と第二のタイプは医者がこうしたパターナリズムを患者に対しておこなうケースである。したがってそこに患者の自律──あるいは自主性といってもいい──は認められていない。患者は治療者のいうなりにしなければならない。なぜか。治療者は専門的な知識と技術をもっているからである。しかも、かれらは患者のために必ず最善をつくすということになっている。親が子どものために最善のことをしてくれるのと同じように。つまり、この前提には「専門家は自分たちにとってもっともよい対策を知っていて、かならずクライアントの利益のためにそれを代行してくれる」という常識的知識が存在する。患者の自発的服従の前提には、このような一種の「信頼」がある。ところが、その委任によって患者の自律性(自分のことを自分で決めること)は失われてしまいがちである。医者の裁量権の名の下に、患者の望まない治療が承諾なしにおこなわれたり、治療を受けている患者が自身の身体に生じている事態を知ることができないといったことが生じる。この傾向は日本の場合とくに顕著である。患者は何も主張せず、医者は患者に主張されるのを極端に嫌う。</p><p>このような状況を社会学では「専門家支配」(professional dominance)と名づけている。●11わたしたちの社会では特定の分野について専門的な知識と技術をもつ人びとが実質的なイニシアティブをもっている。それに対して、しろうとは口だしできないのがふつうである。それはある人びとの自律性のために他の人びとの自律性が犠牲になるという不均衡な状況の典型であり、それゆえ権力作用の有力事例となりえる。</p><p>これに対して近年「患者の権利」を求める運動が盛んになり、その有力な方法原理として「インフォームド・コンセント」が注目されている。●12「インフォームド・コンセント」(informed consent)は、以前は「説明と同意」と訳されたが、最近は「よく知らされた上での同意」と訳される。要するに、医者から治療に関する説明を受けた上で、患者がそれをよく理解し、そののちに同意するという手続きのことである。その基本原理は「リスクを伴ったり、別の方法があったり、または成功率が低いような治療や処置について患者に同意を求めるにあたっては、あらかじめ、しかるべき情報を提供しなければならない」というものである。●13この場合の「同意」は「判断能力のある人が、自発的に、情報と理解にもとづいて行なうものでなければならない。」●14つまり患者に完全な成人性が前提され、しかも「コミュニケーション合理的」な討議が十分になされていることを要請しているのである。</p><p>インフォームド・コンセントは「見識ある市民」「自省的市民」を医療現場に持ち込むことを意味する。知識に関して「医者は専門家・患者はしろうと」の図式をはみだして、患者が自律した事情通・ジャーナリスト的存在として行為すること、そして対等の医者─患者関係(成人─成人モデル)をつくりだすこと、診療室をコミュニケーション共同体にすること、病院を市民的公共圏にすること──それが「インフォームド・コンセント」が前提としている思想なのである。●15</p><p>序論において「臨界の兆候」として取り上げた院内感染の問題に立ち返ると、夫を亡くした妻が「自省的市民」として医療現場で常識とされている知識と行為を問い直すことによって、医療にリフレクションを吹き込むことになった。それは一見「反医療」に見えるけれども、じっさいにはむしろ医療に主体的に参加していこうとする自発的な意志のあらわれなのである。また、第三章で紹介したように、スモン事件の被害者が裁判闘争の目標に「薬害根絶」を掲げ、確認書和解という特異な結末を引きだしたのも、「見識ある市民」「自省的市民」としての行為といえるだろう。</p><p>結局、インフォームド・コンセントとは、劣位の立場に置かれている側に成人性を認めて、非対称的なコミュニケーションに対称性を取り戻す試みである。その意味では、わたしはインフォームド・コンセントを拡大解釈したい誘惑に駆られる。たとえば教育関係者。もちろん大学教員も例外ではない。医療と同じことが教育にもいえるのではないか。どちらも専門家支配の確立した世界だからである。とくに成人を対象とする大学教育においては、単位評価認定基準を公開することからすべては始まるのではないか。「単位評価は学問そのものにくらべれば二次的なもの」として軽視し、そればかりを気にする今どきの学生を嘆きながらも、じっさいには単位評価をブラックボックス化することで一種の権力源泉として効果的に利用している教員のあり方は、このさい問い直されてよいのではあるまいか。そして医療において患者の成熟(成人化)が重要なカギをにぎっているように、依存体質の強い学生の成熟も重要であろう。</p><p><br /></p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-73266929111654073912022-01-17T16:46:00.002+09:002022-01-17T16:46:25.848+09:00『リフレクション』第六章 高度反省社会への課題(3)社会学的な感受性<p>野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第六章 高度反省社会への課題(3)社会学的な感受性</p><p>11-3-1: 異世界としての日常生活へ</p><p>第二章から第六章までの各章でわたしたちは次のことを確認してきた。第二章では、わたしたち自身が社会形成の主体(担い手)であること。この単純な事実が、複雑に機能分化した現代社会では見えにくいこと。第三章では、自分たちが知識過程の主体であること。社会形成における知識の重要性を見てきた。第四章では、自分たちが権力作用の主体(共犯者)でもあること。ときには大量排除現象を引き起こす権力作用は、歪められたコミュニケーションによってわたしたちの知識が的確に現実を捉えていないことと一体のことである。第五章では、自分たちのコミュニケーションが理想を内蔵していること。近代人としてのわたしたちはそれをあまり意識せずに頼りにしていること。第六章では、自分たちが市民的公共圏の理念の主体でありうること。これらのことを確認してきた。わたしはその確認作業そのものもふくめた、このようなポリフォニック(多声的)で重層的なプロセスに対して「リフレクション」ということばを当てて語ってきた。社会学とは、現代社会の複雑性に潜むこのような事実を自分のこととして理解するリフレクションの実践なのである。</p><p>すでに述べたように、学校教育にせよマス・メディアにせよ、総じて日本社会は社会学を文化装置として十分に組み込んでいないので、本書で論じてきたことに違和感を感じる場合が多いかもしれない。逆に社会学的世界になじんでくると、今度は日常生活において体験するあれやこれやが不自然でぎこちない世界として見えてくるはずだ。危機・できごと・事故・極端な事例・病理的事例・とるにたらないこと、不測の事態・統計的に少数のものとして退けられていたもの・構造やシステムを混乱させるものが、きわめて重要な現象として感じられるようになる。●36こうして日常世界は異世界として再発見される。</p><p>このような感じ方の変化を劇作家ヘルベルト・ブレヒトは「異化」(Verfremdung)と呼んでいた。かれによると「異化」とは「まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすことである。」●37社会学的反省は多かれ少なかれ「異化」を伴うのである。</p><p>11-3-2: 社会学的な感受性とは何か</p><p>日常世界を反省的に異化する知的な力を「社会学的な感受性」と呼ぶことにしよう。わたしの前著のタイトルになっている「社会学感覚」はこの「社会学的な感受性」の短縮形である。「社会学的な感受性」とは、本書のこれまでの議論に即して定義すると「社会を反省的にする実践を誘発する高度なコミュニケーション能力」ということになる。</p><p>ここでまず注意していただきたいのは、「感受性」とか「感覚」ということばを使っているからといって、一九八〇年代日本の成熟消費社会において流行した「感性」なるものとはまったくベクトルが異なることである。当時の「感性」の使い方には、たぶんに反主知主義の傾向があった。それは「理屈抜きに感じる」ことであって、実質的には「消費のことば」へのエポケー(判断停止)的適応要求を意味していた。「社会学的な感受性」はこのような反主知主義に与するものではない。むしろ主知主義に属している。それは「反省のことば」によるコミュニケーションの能力に根拠をもつ明確に知性的な能力である。ただ「鋭敏に感じること」「いちはやく気づくこと」「センシティヴになること」という意味で「感受性」なのである。直感ではない。生活者としての直感ではもはや読み解けない社会的現実があまりに多くなっている。そうではなくて、透明な自己理解を可能にする社会学的知識に裏打ちされた「見識ある市民」「自省的市民」の感度が問われているのだ。</p><p>では何に対して感受するのか。権力作用に対して、自分の行為の帰結に対して、他者の言動に対して、そして、あるかもしれない別の可能性に対して……。つまり「社会学的な感受性」とは、自分を権力作用の媒体にしてしまうのでなく、不透明な自己理解を超越する反省的な能力であり、自らの行動を理性的に監視する能力であり、他者とのコミュニケーションに敏感に反応して能動的に合意をつくりだそうとする意思と能力であり、そしてシビアな歴史的現実的条件の認識から「別の可能性」を構想する想像力である。</p><p>「社会学的な感受性」「社会学感覚」に対して社会学はさまざまな貢献をすることができる。その第一の仕事は概念化することである。ことばを手がかりに、わたしたちは自分と社会的現実とのかかわりを感受できるのだから。ハーバート・ブルーマーのことばを借りれば、結局、社会学で使われている概念は「本質的にはものごとを感受するための道具」●38なのである。かれはこれを「定義的な概念」(definitive concept)に対して「感受概念」(sensitizing concept)と呼ぶ。感受概念は、概念の抽象的な枠組みのなかに実例を埋め込むのではなく、概念から出発して、実例の現実的な個別性に至るために使われる。●39つまり、具体的現実を感受するための概念なのである。</p><p>この考え方はウェーバーの理念型ともよく似ている。「発見的意義」を第一義としたウェーバーは具体的な歴史研究から理念型を構成し、理念型とのずれからさらに具体性へ迫っていく道をとった。その意味ではブルーマーの感受概念は古典的な考え方である。ウォルター・リップマンが簡潔に述べているように、結局、わたしたちは文化的に定義されたものしか見ないのだ。●40だからこの文化的定義を異化して「反省のことば」を感受概念として現実の具体に迫っていかなければならない。</p><p>社会学の目的は、感受概念を駆使して社会的現実を経験的に研究してえられた反省的知識──すなわち「反省のことば」──を積極的に公開することによって、人びとの社会学的感受性を高めることにある。社会学は、社会学的感受性をもつ「見識ある市民」の実践によって社会全体が高度に反省的に再編されることを支援する科学であり、まさにそのような人びとによって生みだされ、強化され、現に必要とされている科学なのである。</p><p>11-3-3: 敵対的情報の受容</p><p>「反省のことば」は無難なことばではない。それはむしろ自分を傷つけるかもしれない危険なことばでもある。グールドナーは次のように指摘する。「明識とは、悪いニュースに開かれていることであり、そのニュースを受容し用いることへの抵抗を克服しようとする人間の容量の大きさから生まれる。つまり明識は、枢要な点で、脅威にさらされてもなお自己を支配しようとする能力に必然的に結びついている。」●41</p><p>「社会学的な感受性」が意味するもうひとつの側面は、このような敵対的情報の受容能力を高めることにある。敵対的情報を受容し、それを利用する能力は、政治家の場合は「現実主義」といわれ、学者の場合は「客観性」といわれる。●42「見識ある市民」「自省的市民」の場合は「市民性」もしくは「成人性」というべきかもしれない。ひとつの具体的問題でこれを考えてみよう。</p><p>わたしはかねがねそう思ってきたが、社会正義を主張したり反権力を標榜したりする人びとにとってタバコはひとつの試金石である。たとえば反核平和運動・反原発運動・PKO反対運動・環境保護運動などは国家や大企業を批判する。そこでは批判する本人やその周辺の知人を問うことがない。相手はソト(外集団)の人たちである。しかも批判する人自身が問題にはならない。しかし、タバコはちがう。それらが問題化するとき、タバコをめぐって市井の人びとが二分されてしまい、討議の世界は居心地の悪い異世界になってしまう。同じことがフェミニズムや宗教のケースにもいえる。嫌煙権の必要を説けば発言者は「タバコ嫌いだからこういうのだ」と見られ、信教の自由を説けば特定教団の手先のようにいわれてしまう。フェミニズムを語る女性も同様である。素朴なイデオロギー論によって、ことばが構造的に歪められてしまう。それは発言が相手にとって敵対的情報であるからだ。敵対的であるために受け入れたくない。</p><p>伊佐山芳朗が指摘するように、いくらタバコがよくないと思っていてもかんたんにはやめられない。やめられないとなると、それに対する否定的な知識は自分のなかで矛盾してしまう。そこで敵対的情報を否定して心理的葛藤を減らすために、その知識そのものを経験的に打ち消そうとしたり(「ウチのオヤジはヘビースモーカーだけど長生きしたよ」「かえって頭のなかがスッキリする」といった発言)、あるいは「喫煙の自由」をもちだしたり、嫌煙権を主張する人の人格や性格を悪くいうことになる。●43あるいは「タバコより反核だよ」といった序列主義をもちだして自己正当化をはかるケースもあるという。●44</p><p>「……はこまる」ということばが同一共同体内では通用しても、外集団にはまったく異なる文脈と意味を付与されてしまう。話想宇宙の拡大は共同体の拡大とともにしばしば困難になってゆく。それがもっとも身近にあらわれるのが喫煙問題なのである。</p><p>近年の日本では、公共的空間における分煙化や禁煙化の流れが定着しつつある。これも社会運動によってつくりだされた社会の「自省」であるが、具体的には、敵対的情報を受容する「見識ある市民」の成熟があってはじめてできることだ。</p><p>11-3-4: 能動的な受け手として</p><p>わたしはこれまでの議論でわたしたちが「主体」であることを一貫して強調してきた。しかし、じっさいにわたしたちは多くの社会関係において受け手であることを強要されている。マス・メディアの受け手(視聴者・読者)、選挙活動の受け手(有権者)、医療の受け手(患者)、教育の受け手(学生)、商品の受け手(消費者)……。だからこそ「主体」であることをあえて強調しなければならなかったのだが、そうはいっても、わたしたちが明日から新聞記者になれるわけでなく、医者や教授になれるわけではない。そうではなくて、問題なのは、わたしたちがそのような受け手であるとき、わたしたちはその社会関係において送り手に対して無力な客体(対象)として自分を捉えがちである一方、その関係の外部に「主観としての自分」を孤立させていることなのだ。そんなとき、わたしたちは、主体として能動的に関与する自分を見失いがちである。</p><p>そこでわたしは「能動的な受け手」という概念をリフレクションの重要な要素として提起したい。</p><p>そもそも「能動的な受け手」(active audience)とはマス・コミュニケーション受容研究とくに「利用と満足研究」(uses and gratifications research)における基本前提となる概念である。ふつう「受け手」というと受動的な存在に決まっているではないかと思われるかもしれないが、マス・コミュニケーションの影響力を調査していくと、受け手はけっこうガンコでワガママなので、マス・メディアから送られてくるメッセージをそのまま受容しないで、自分勝手に、あるいは自分につごうのよいように解釈する。そもそも気に入らないメディアとは接触しない。受け手はマス・メディアをきわめて選択的に利用するのである。</p><p>マス・コミュニケーションにおける受け手は、このようにくわしく見ていくと、たんなる受動的な存在ではないのだが、まだその能動性は完全なものとはいえない。それはたんに先有傾向に支配された保守的な生活者にすぎない。つまり、そこには社会学的な感受性に裏打ちされた意思がない。それがあってポジティヴな意味で「能動的な受け手」なのである。</p><p>受け手であることを強いられるあらゆるコミュニケーションに対して「能動的な受け手」であること──これこそ現代における有効な抵抗であり、社会を改訂する日常的な実践になるのではないか。病院のなかで、大学や学校のなかで、選挙運動に対して、メディアに対して、あたかもジャーナリストのように、積極的に知識を集め、隠された秘密を引きだし、事情通になり、対話を積み重ね、優位に立つ送り手に対抗していく「能動的な受け手」に。</p><p>11-3-5: 現在形の社会学</p><p>社会学者もがんばって仕事をしなければならない。専門職としての仕事ももちろんたいせつで、その積み重ねの上でさまざまな重要な知見もまた発見されるのだが、それとともに「見識ある市民」「自省的市民」としての仕事もしなければならない。これは従来「知識人」の名の下に語られてきた仕事であるが、もはや「知識人」という特権階級を認めるわけにはいかない。そのなかでとくにわたしが重要と考える領域がふたつある。ひとつは「時代診断」、もうひとつは「公共哲学」である。前者は「いま」をあつかう点でジャーナリスティックであり、後者は専門家ではない人たちに語りかけるという点でジャーナリスティックである。したがって両者はともに「社会学のジャーナリズム化」と括るべき方向性といえよう。最後にこの点を強調して、リフレクションの錯綜した迷路をでることにしよう。</p><p>第一の「時代診断」についてはカール・マンハイムの「時代の診断学としての社会学」の構想が有名であるが、むしろわたしは「時代診断」を取り込んだエドガール・モランの「現在形の社会学」構想にひかれる。●45「現在形の社会学」は「できごと」をあつかう。「できごと」とは、社会のなかのまったく新しい現象のことである。わたしたちがふだん「ニュース」ということばで語っていることがらに見合う現象といってもよい。それはシステムを撹乱し、構造をゆるがし、不測の事態を招き、権力や人びとに脅威を与え、しばしば病理的である。それは「統計的な規則性のなかには含まれないあらゆる事柄」である。●46たとえば、うわさによって生じたパニックであったり、地域紛争や大学紛争であったり、暗殺事件であったり、事故や流行や風潮である。それらは社会に対する既存の見方や考え方を大きくゆさぶる。それらでは十分解読できないからである。したがって、このような「現在形の領域」を研究するには、独特のフィールドワークが要請される。モランは「研究者の個人的な感性を抑圧するのではなく、むしろその感性に頼る」ことを含めた最大限の観察をおこない、場合によっては状況に介入することさえするべきだという。●47</p><p>「現在形の領域」における社会学者の仕事は、その具体的作業においてはジャーナリストのおこなうルポルタージュとほとんど変わらない。ただ理論との通路が意識されているかどうかの差である。たとえば、社会学者の佐藤郁哉による『暴走族のエスノグラフィー』と、フリー・ルポライターの吉岡忍による『墜落の夏』を読みくらべてみても、たしかに想定された読者層のちがいによる文体のちがいや理論志向の有無はあるけれども、いずれも社会学的感受性を駆使して「できごと」の全体性と社会的意味を捉えようとする強い意志に貫かれている点で共通している。●48</p><p>現実との通路のない社会理論は無効である。社会学にはもっと生々しさが必要だ。蒸留されすぎているのではないか、哲学のように……と思うときがある。社会学はいま新しい資質を求めているといえるだろう。●49</p><p>11-3-6: 公共哲学としての社会科学</p><p>第二の方向性は「公共哲学」(public philosophy)として社会学を生かすことである。</p><p>ロバート・N・ベラーとその共同研究者たちは、アメリカ人の個人主義を丹念に調査した『心の習慣』の付論のなかで「公共哲学としての社会科学」について述べている。この印象深い一節において、かれらが必要だと主張する「公共哲学」は次のような性格をもつ。</p><p>第一に「同時に哲学的でも歴史的でも社会学的でもあるような創観的(synoptic)な見方」である。●50第二に、それは「社会自身の自己理解あるいは自己解釈の一形態」であり「社会に向けて鑑を掲げる」ことである。●51第三に、それは価値をあつかう。「こうした社会科学は、現在ばかりでなく過去もまた探ることによって、また『事実』と同じほどに『価値』にも目を向けることによって、定かには見えない連関を見出し、困難な問題を提示することができる。」●52第四に、それ自身が対話的なコミュニケーションの実践である。「公共哲学としての社会科学は、たんにその発見物が学者世界の外の集団や団体にも公共的に利用可能あるいは有用であるから『公共的』だというのではない。それが公衆を対話へと引き込むことを目指しているから『公共的』なのである。」●53</p><p>このような「公共哲学としての社会科学」に対して「狭く職業的な社会科学は、無能というよりも無関心であった」という。●54シュッツの用語でいえば「専門家」としてではなく「見識ある市民」として研究することに現代の社会科学者は関心をもってこなかったことを反省しているのである。</p><p>かれらが社会学者であるのはおそらく偶然ではない。社会学にはそうした水脈がたえず流れていたのだから。たとえば、一九五九年にC・ライト・ミルズは次のように述べていた。「個人的問題をたえず公共の問題に翻訳し、公共の問題をそれがさまざまの人びとにとっていかなる人間的意味をもつのか、という形に翻訳すること、それが社会科学者の──すべての教育者にとっても同じであるが──政治的任務である」と。●55ベラーたちと、社会学は「一種の公共的な知的装置」であるというミルズのこの考え方とは根は同じである。●56本書で頻繁に引用してきたミードやグールドナーやハバーマス──わたしはそれを「反省的知識の系譜」と呼んできた──もこの水脈に属している。</p><p>極度に専門分化した社会科学をそれはそれとして生かしながら総合し、トータルに社会のあり方を考察し、よく磨かれた鏡のように自分たちの社会を映しだし、人びとの反省能力を高め、人びとのあいだに合意形成の意思をもった対話を誘発する知識──公共哲学としての社会科学とはこのようなものであろう。個別領域ではなく全体社会を対象とする社会理論の意義もここにある。ハバーマスがいうように「社会理論が自らの固有の力でなし得ることは、凸レンズがもつ光線集束の力に似ている。社会科学がもはやいかなる思想を燃えたたせることもできないとしたら、その時こそ社会理論の時代は終りを告げることになるだろう。」●57</p><p>最後に、グールドナーの印象的な一節を引用して、このリフレクションの旅を終えたいと思う。この錯綜した旅にここまでつきあっていただいた読者にはかれの真意を理解していただけると思う。社会学が一種の公共哲学として思想的意義をもつ科学であるのは、おそらくこのような意味においてである。</p><p>「社会学の再生は、無論のことながら、社会の再建の一側面をなすものである。明らかなことは、われわれは社会に関する自分たちのきまりきった考え方を批判的に改めないかぎり、社会を再建することはできないということである。それと同時に私が言いたいのは、われわれが新しい社会を欲する理由のひとつは、その社会のなかでなら、人々は嘘や幻想や虚偽意識といったものなしによりよい生活を送ることができるかもしれないという点にあるのだ。われわれが欲している新しい社会とは、なによりもまず、人々がおのれ自身と自分たちの社会的世界とがいかなるものであるかを、よりよく理解し話すことができるような社会である。言いかえるなら、新しい社会の目標とするところは、ある程度までは、新しい社会学を産み出すことにあるのである。」●58</p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-88737086880106805162022-01-17T16:45:00.003+09:002022-01-17T16:45:51.797+09:00『リフレクション』第六章 高度反省社会への課題(2)リフレクションの実践<p>野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第六章 高度反省社会への課題(2)リフレクションの実践</p><h4 style="text-align: left;">新しい社会運動</h4><p>民主主義においては、そこでなされた決定に対してその影響を受ける者が有効な声をあげることができなければならない。しかし、権力作用によって、現実の社会的空間においてコミュニケーションは歪められてしまっている。このディスコミュニケーション状況の大海のなかに市民的公共圏を構築しなければならない。そう考える人たちがいて、そうせざるをえない状況に追い込まれた人たちがいて、排除された〈声〉を重点的に拾い上げ、有効に社会的コミュニケーションに組み込む実践によって、コミュニケーションに対称性をもたらし、積極的かつ能動的に社会の改訂に参加しようとする行為が存在する。それが「新しい社会運動」である。</p><p>「新しい社会運動」は一九六〇年代後半以降に先進諸国に出現したさまざまな社会運動に対してフランスの社会学者アラン・トゥレーヌが与えた総称である。●16差別撤廃運動・フェミニズム運動・環境保護運動・地域的課題についての住民運動・反核運動・消費者運動・患者運動・公害被害者救済運動・反原発運動・同性愛運動・平和運動・えん罪被害者救済運動・報道被害者救済運動・少数民族運動・地域分権運動・反精神医学運動・非学校的教育実践運動・コミューン運動・ゴルフ場開発阻止運動・嫌煙運動・有機農法運動・子どもの人権運動など、それはあらゆる問題圏におよんでいる。これらを一括して捉えることはほとんど不可能といってよいが、しかし、これらにはある程度の共通点があり、またそこにこそ時間的な新しさだけでなく構造的な新しさがある。では、その何が新しいのか。●17</p><p>それは第一に、ライフスタイルの自己決定権を要求することにある。かんたんにいえば「自分の生き方は自分で決める」という明確な態度がそこには存在する。社会運動はこのポジティヴな価値観の実践としておこなわれる。かつての労働運動を中心とする社会運動の眼目はもっぱら富の配分に関わるものだった。ところが「新しい社会運動」はむしろ生き方つまりライフスタイルを問うのである。たとえば、主題になっているのは、豊かな自然環境・生活スタイル・性的アイデンティティ・自己実現・参加・民主的権利・平和といった脱物質的な価値と要求である。産業社会すなわち国家と経済のシステムを貫く「物質的な貧困からの脱出」という価値に対して「エコロジカルな貧困と日常生活における意味と間主観性の貧困からの解放」がそこではめざされるのである。●18いわば「生活の質」に向けられている「新しい社会運動」のこのような特性について、ハバーマスは巧みに「制度化された富の分配をめぐる抗争」ではなく「生活形式の文法の問題」が焦点になっていると括っている。●19たとえばフェミニズム運動の場合は社会に遍在している男性中心の生活形式(ライフスタイル)を変えることに大きな目標がある。</p><p>第二に、性・人種・民族・世代・障害などの属性によって差別や格差が生じることへの異議申し立てと平等要求が中心になった運動が多いということ。つまり属性をめぐる闘争が重要な位置を占めている。その属性は、社会のなかで不当に否定的にあつかわれている属性であり、産業社会の中核的システム(国家・政党・大企業・労働組合)から排除された属性である。それゆえ属性的要因によって生活が左右されやすい人たちが担い手になっているし、既成の労働運動ではまったく話にならないのである。しばしばアイデンティティ追求の運動の色彩を帯びるこの種の社会運動は、結果的に、異議申し立て活動を正当化し、排除された〈声〉の復権をめざすコミュニケーションの実践になっている。それ自体が、理想的なコミュニケーション共同体を構築する有効な実践なのである。それは、社会全体の学習能力を高める機能を担い、社会のリフレクションの触媒の機能を果たす。</p><p>第三に、「新しい社会運動」はネットワーキングなどの運動形態をとることが多い。つまり、組織原理の優先した抑圧的な運動ではなく、自律的個人を優先する運動形態をとる。これは、参加者を数でしか捉えない結集中心の運動方式への反発も背景にあるが、重要なのはむしろ個人の自律性・自発性・能動性の尊重である。大文字の大義ではなく、個人の生活が主題であるから、当然といえば当然である。となると、運動の内部におけるコミュニケーションも、従来の運動組織に見られたトップダウン式の一方向的なものではすまなくなる。運動体内部自体がひとつの市民的公共圏であることを要請される。●20</p><p>このように「新しい社会運動」は、社会に自省をもたらすコミュニケーションの実践である。もちろんすべての運動を美化するつもりはないが、少なくとも以上のような潜在的な力をもっているのである。</p><h4 style="text-align: left;">「受苦忘却」型から「受苦覚醒」型へ</h4><p>個々の社会運動がテーマ化する社会問題は、その多くが高度に複雑化した巨大な事象である。それは事象の内部にいる者にとっても、外部にいる者にとっても、不透明な現実である。それは反省的なコミュニケーションを困難にする。この複雑化した社会問題をより反省的にする方向性はないものだろうか。</p><p>ここでも受苦圏と受益圏の対概念が有効である。梶田孝道によると、一九六〇年代の高度経済成長以後の現代日本における開発問題は「漸進的グロテスク化」したという。狭い国土のなかで、日増しに高まる電力需要・交通需要・石油需要・水需要・ゴミ処理需要に対処するために、スケール・メリットを追求しシステムを拡大する方向で開発事業がおこなわれたために、施設はますます巨大化し、施設の周辺住民にとってはグロテスクなものと化していった。大規模化した開発事業では受苦はごくかぎられた地域に集中し、受益は全国的規模に拡散する。●21</p><p>そして梶田は次のようにいう。「受益圏の拡大と受苦圏の局地化」という状況下では、受苦圏の人びとは放置され、開発主体であるテクノクラートはこの受苦を回収せず、受益圏の人びとの欲求の増大に追従し、受益圏の人びとは自分たちの欲求充足の行為の集積が受苦圏を発生させている事実を忘却し無感覚・無責任となる。紛争当事者として登場するのはテクノクラートだが、かれらが代弁している当の受益者が自分のことと気づかない。とりわけ大都市の新中間層居住地域はまさに「多種類の受益圏の集積したもの」「各受益の享受にともない受苦を外部へと放置してきた存在」なのである。●22それゆえ梶田はこのような状態を生みだす開発を「受苦忘却型」かつ「受苦放置型」と指摘する。受苦圏から空間的にも社会的にも遠く離れた受益圏の人びとにおける「欲求の無限増大」と「共通問題の共同処理への無関心」が、問題の解決をむずかしくしている最大の要因である。</p><p>それに対して小規模開発の場合は受益圏と受苦圏が重なる。その場合は地域住民に問題が十分自覚されやすくなる。当然、葛藤はあるが、それによって受苦の回避ないし補償の努力が払われやすくなる。梶田はこのような開発を「受苦覚醒型」かつ「受苦回収型」であるとする。そして「日常生活の知覚レヴェルにおいて『受苦忘却』的であるか『受苦覚醒』的であるかという点での相違が、問題解決のうえで大きな意味をもっている」と梶田は強調する。●23かれがここで語っているのはもっぱら開発問題についてだが、同じような構造が社会問題全般にも観察できると思う。</p><p>つまり人びとが「受苦覚醒」的なリフレクションをおこなうには一定の適正規模があるのではないか。すなわち、不可視性を高める巨大なシステムを「受苦忘却」型から「受苦覚醒」型へ転換するにはシステムの縮小が必要ではないかということである。おそらく地方分権化の議論はこの文脈に位置づけ可能である。「受苦覚醒」型になれば、おそらく地域紛争はふえるにちがいないけれども、「相互了解」つまり「合意」という理想へ向けた反省的コミュニケーションを活性化させやすくなることはまちがいない。</p><h4 style="text-align: left;">環境問題と生活環境主義</h4><p>近年急速に問題化し、常識的知識としても定着しつつあるものに環境問題がある。環境問題が問題化すること自体は、「見識ある市民」の成熟と、社会のリフレクションのひとつのあらわれにはちがいない。しかし、環境問題に対するスタンスのとり方にまったく問題がないかといえば、そうともいえない。その一例を見てみたい。</p><p>琵琶湖のフィールドワークに携わった鳥越皓之たちの研究グループは、環境の改変に対する態度をおおよそ三つに整理できるとしている。●24</p><p>第一に近代技術主義。たとえば、大雨が降ると増水して集落を水浸しにしてしまう川と湿地帯に対して、住民を洪水から守るために、川を直線化し、三面コンクリート張りにする、さらに車道を広げるために暗渠にするといった発想がそれである。この立場によると、たとえば水源地の水は「資源」と捉えられる。資源とは「利用・開発されるべき自然」のことに他ならない。●25</p><p>第二に自然環境主義。自然保護運動はこれに立つ。人の手が加わらない自然がもっとも望ましいとする立場である。先ほどの例の場合では、湿地帯のアシ群生を守り、川のコンクリート化による生態系の破壊を拒否することになる。</p><p>日本の場合、行政当局による巨大開発は近代技術主義に立つことが多い。また環境問題に関わる研究者やプロジェクト担当者も、そのほとんどが自然科学畑の人たちであるため、近代技術主義と自然環境主義がそれぞれ力をもち鋭く対立してきた。近代技術主義は「住民を守る」といいながら、開発によってその生活を破壊することがしばしば見られる。それに対して自然環境主義は今日のエコロジー・ブームのなかで多くの支持をえてきている。都市型マス・メディアもまた、自然へのノスタルジーから安直に自然環境主義に立つことが多い。この立場は一見「正義の味方」的なニュアンスでもって受け取られたり表明されたりするけれども、ともすれば「自然科学博物館構想」に陥りがちで、そこに居住する人びとの生活のことを無視してしまう傾向をもつ。たとえば琵琶湖の湖岸堤工事によってヨシ原がなくなるとき、地元住民に「琵琶湖の自然が破壊される」との危機感はなく、むしろ「今じゃだれも使い手がなく、ゴミばかりがひっかかっている。ヨシを守れというなら、言うもんがちゃんと手入れをしてくれ」●26と感じている。このように自然環境主義は生活現場から遠い地点にいるからこそ可能な論理でもある。</p><p>そこで鳥越は第三の立場として生活環境主義を提唱する。生活環境主義はその地域社会に生活する居住者の立場に立つ。生活の必要に応じて自然環境の「破壊」も認める。先ほどの川の例では、雨水の浸透や鮎の産卵場所の確保のために川底をそのままにして両岸だけをコンクリート化するという選択をすることになる。この立場は、あるときは自然を破壊し、あるときは大規模開発を拒否する点で、前二者に対して独自である。</p><p>鳥越たちによる生活環境主義の選択は、琵琶湖という具体的フィールドのなかで模索されたものであるだけに、他の二者の選択よりも相当現実的であり、それゆえ非常に複雑なプロセスへの関与を強いるものといえる。というのは、近代技術主義の発想だと、人間につごうの悪い自然は変えてしまえばいいということになるし、全体の利益のために必要な場合には、そこに住んでいる人間にも変わってもらう──生活様式を変えてもらうか、どこかに移転してもらう──という一貫した態度で済む。要はコストの問題である。一方、自然環境主義の場合は、そこで生活していないのだからもともと無責任なものである。それゆえ住民の生活上の不便さや災害による苦しみは二次的なものと決めつけることができる。「ありのままの自然」こそが第一に配慮しなければならないことだ、と。しかし、生活する人びととその人たちをつつみ込む社会的なプロセスを極端に単純化している点で、いずれも反省的とはいえないとわたしは思う。</p><p>いずれにせよ、わたしたちは環境問題を考えるとき、知らず知らずのうちに自然科学的発想に立ってしまっている。たしかにこのこと自体にはそれなりの有効性はある。近代技術主義ののいうように工学的技術を駆使して準備しておけば将来の大災害から人命を救うことができるし、自然環境主義のいうように人の手の加わらない自然の自己完結的な摂理に畏敬の念をもつこともできる。しかし、そのときわたしたちは具体的な社会生活の複雑性をすっかり忘れてしまっているのではないか。そこに生活している人びとと自分の生活とその他大勢の人びとの生活の連関性を。</p><p>生活環境主義から見えてくるのは、この複雑な社会的連関性である。古くからの住民の地域環境に関する知識、人びとの道徳、環境史、「言い分」をめぐるダイナミックな意思決定のプロセス、汚染のメタファー、語られることば、集団形成、突如始まる合意、そして住民の自己反省……。環境問題が「問題」であるのは、じつはこちらの方であり、それを無視してはリフレクションの実践たりえないのである。</p><h4 style="text-align: left;">政治的社会化と社会科学教育</h4><p>日本人の場合、市民的公共圏の話はほとんど異文化であるといっていいかもしれない。たとえばジャーナリズム論の原寿雄は、日本には「国家的公共性」しか存在しなかったとし「市民的公共性」への転換が必要だと述べている。●27なるほど日本人はあらゆる議論を「ホンネとタテマエ」図式に押し込めてしまう。「あるべき」論がからむと「そんなのタテマエにすぎない」でおしまいである。このような捉え方は、公共性が「お上」に代表されていた「国家的公共性」に長年慣らされてきたせいかもしれない。ごく大ざっぱにいうと、日本には市民的公共圏のような言論空間が存在しなかったのである。</p><p>市民的公共圏の活性化は、参加者のコミュニケーション能力に依存する。この能力は生涯を通しての社会化によってたえず更新されている必要がある。「いま、ここ」についての事実に習熟した「見識ある市民」「自律的市民」でありつづけることが不可欠である。その人たちのコミュニケーションの実践が市民的公共圏を活性化させ、「反省する社会」の重要な担い手となる。そしてそのコミュニケーションの実践のなかから次の世代の「見識ある市民」の社会化が可能になる。第一に個人としての「見識ある市民」「自律的市民」、第二に関係・行為としての「コミュニケーション」、第三に場としての「公共圏」「反省する社会」──この三者は相互依存の関係にあるわけである。したがって、制度の成熟も必要だが、主体の成熟も必要なのである。しかし、以上のような理由から、日本においてこのような社会化は必ずしも達成されていない。</p><p>このような社会化を既成の社会学用語で正確にあらわすと「政治的社会化」(political socialization)という。市民的公共圏と連動する政治的社会化を構想すると、重要な内容は社会科学とジャーナリズムであり、重要なエージェント(担い手)は学校とマス・メディアである。●28</p><p>小中高校教育における社会科学教育は、児童生徒の成人性をあらかじめ期待できないという限界があるにしても、たいへん貧弱である。教科書を見るかぎり、たとえば「公民」それ自体は社会科学入門というより法律制度と経済制度の学習にとどまり、ニュースの視聴にさえ役に立たない。「現代社会」も同様である。現場の教員の力量と努力に依存するところが非常に多いのが現状である。とくに社会学教育は非常に立ち遅れている。それはたとえば数学教育や文学教育などと比較してみるとき歴然としている。</p><p>さて、大学教育・専門学校教育になってはじめて本格的な社会科学が登場するわけであるが、社会科学の専攻学部でない場合は、事情はあまり変わらない。それは一般教育科目として、しばしば大教室でおこなわれ、しかも「初歩」だからということで基礎概念や学説史に終始しがちである。社会科学においては理論的討議が重要な意味をもつにもかかわらず、二百人以上の大教室では事実上不可能である。近年注目されている新聞利用教育(NIE)もレポート形式にするしかないだろう。この傾向は大学設置基準の「大綱化」の影響で、専門重視の方針と対をなしてますます強化されている。こうして、専門職やテクノクラートや企業管理職として社会の「システム」の担い手になるかれらが「見識ある市民」「自省的市民」として自己定立するイニシャル・ステップは往々にして失敗してしまうのである。</p><p>さらに成人教育を考えてみると、さらに希望をもてなくなるが、現代日本の場合はマス・メディアが事実上、成人の社会化機能を引き受けているといってよく、ジャーナリズムのなかに社会科学が導入されることが社会のリフレクションを高める上でたいへん重要である。これは第一にジャーナリスト教育(とくに中堅の再教育)に社会科学を取り入れること、第二に個々の問題に関して社会科学者の協力をえることである。</p><p>ところでカレル・ヴァン・ウォルフレンが『日本/権力構造の謎』の「儀礼とおどし」の章の「みんなと一緒の儀式」の項に──この位置づけが重要なのだが──次のような一節がある。「学者の間でさえ、慣習にしたがうことが真理の探究に徹するよりも重要とされる。そこで、自尊心の高い日本の学者は、最近の政治動向や時事問題を取り上げようとせず、ジャーナリストにまかせる。このような問題は雑談の領域に属するものと考えているようである。」●29ジャーナリストとの協力関係がマス・メディアを媒介とするコミュニケーションに反省性を高めるにもかかわらず、社会科学者にこうした傾向があったことは事実である。しかし、この傾向は世代交代とともに近年大きく変わりつつあることもたしかで、とくに若手の政治学者の活動が注目される。</p><p>ここでひとつの例を提出しておきたい。一九九三年に生じたテレビ朝日報道局長の証人喚問事件である。問題となった発言については、ジャーナリズムに携わっている者自身が自分たちの行為を反省的に捉え損なっていることを浮き彫りにしており、しかもその発言を問題化した産経新聞の伝え方にも問題がある。けれどもここで取り上げたいのはその後の議論である。国会やメディア上の議論において大前提とされていたのは「マス・メディアの影響力は絶大である」ということだった。「だから偏向報道は問題だ」ということになるし「だからジャーナリストは襟を正すべきだ」ということになる。しかし、すでに述べたように、メディアの影響力についてはさまざまな説があり、しかも単純ではない。名指しされた「ニュース・ステーション」にしても、力を入れていた「選挙に行こう」キャンペーンはむしろ史上最低の投票率という事実によって、むしろ無力さをこそさらしていたのではなかったか。また、一般企業とちがって放送局は個人やチームの自律性が格段に高いという独特の組織文化をもつことについて考察が薄いのも気にかかることである。つまり、報道局長の意図によって政権交代したかどうかは慎重な経験科学的分析にゆだねられるべきことで、科学的検証に耐えられないことを前提に議論するのはきわめて危険である。こういうときこそ「社会科学的ジャーナリズム」●30が必要なのである。</p><p>そもそも視聴者や読者は、ステレオタイプなコメントのくりかえしを望んでいるのではない。「ほんとうにそういえるのか」を知りたいのである。リフレクションの要求が潜在的に存在したはずだ。「潜在的」と書いたのは、この場合、アナウンス効果について科学的な研究が存在すること自体が一般に知られていないからである。多少の難解さをいとわず、ジャーナリズムはもっと社会科学を「引用」すべきではないかと思う。</p><p>さらにわたし自身は「ジャーナリズムの社会学化」「社会学的ジャーナリズム」を主張したい。けれども、ここはそれを主題に展開できる場所ではないので、一点だけ理由を指摘しておきたい。それは社会学だけが「総合的認識」をもともとめざした社会科学であるということだ。現状の社会学はフィールドによる専門分化が著しいが、それでも「総合的認識」を放棄したわけではない。たとえば社会科学や哲学・言語学に通暁したハバーマスは「社会学は社会科学的学問のなかでただ一つだけ、社会全体の問題に関係をもち続けてきた。社会学は、つねに社会の理論でもあるのだ」と述べている。●31現代社会に生じるできごとは、もはや単一の要因によって生じるのではない。非常に複合的な現象である。しかも全体社会の文脈を考慮しないかぎり、ひとつの現象や事件を分析できなくなっている。その意味で社会学の有効性はますます高くなっていると思う。</p><p>すでに述べたように、日本には、私人たちが集合し国家に対抗する市民的公共圏はほとんどなかったといってよい。たしかにそれは戦後少しずつ成長はしてきたが、日本社会の指導原理にはなっていない。したがって、これまで論じてきたような理念を内に秘めた社会学に接することは、多くの日本人にとっては一種の異文化体験であり、それはときには「地理的移動を伴わない『カルチャー・ショック』」を引き起こすこともありうる異文化間コミュニケーションである。●32しかし、それだけに社会学はこれからの日本社会に必要な〈リフレクションの実践〉なのである。</p><h4 style="text-align: left;">高度反省社会はいかにして可能か</h4><p>社会の反省性もしくは自省性を高めるには、これから何が必要だろうか。市民的公共圏と呼べるものを構築し定着させるにはどのような条件と努力が必要だろうか。この章ではこの問題について考えてきた。もちろん結論を下すには遠いまでも、これまでの議論から導かれるさしあたりの方向性をまとめておきたい。</p><p>まず第一に、知識の社会的配分の偏在性の解消。知識はそれが大きな影響力をもつほど独占されがちである。一般的に知識は政治権力や経済権力の方に偏って配分されている。具体的にはテクノクラートや専門家や利害関係者に偏っている。これを均等かつ公正に再配分するしくみが必要である。第二に、リフレクションを活性化させるようなコミュニケーション制度の構築。情報産業の巨大化が必ずしもコミュニケーションの反省作用を活性化することにならないことは、すでに「権力のことば」「消費のことば」として示唆しておいた。個人ひとりひとりが「見識ある市民」の資格においてリフレクションを発動できるようなコミュニケーション環境が必要である。第三に、異議申し立て活動の正当化。排除された〈声〉をとくに重点的に拾い上げ、有効に社会的コミュニケーションに組み込む実践が必要である。それによって、歪められたコミュニケーションに対称性を確保することができる。第四に、生涯を通しての社会科学教育の充実。市民的公共圏の活性化は、参加者の反省的なコミュニケーション能力に依存する。この能力は生涯を通しての社会化によってたえず更新されている必要がある。ここでもマス・メディアの役割は大きい。</p><p>さて、以上の四点をひとつの包括的概念に括ってみよう。わたしはそれを「ジャーナリズム化」もしくは「ジャーナリズムの拡張」と括りたいと思う。社会学に「ジャーナリズム」概念を持ち込むことのリスクは承知しているが、やはりこれは「ジャーナリズム」でなければならない。ふつう「ジャーナリズム」ということばはマス・メディアの報道活動の意味で使われるが、もともとは「あるべき」理念的な活動をさしている。「それがジャーナリズムといえるのか!」「そんなものジャーナリズムじゃない!」などというときの「ジャーナリズム」はそのような規範的理念である。では「どうあるべき」なのか。ジャーナリズム論の新井直之によると「ジャーナリズムとは、いま伝えなければならないことを、いま、伝え、いま言わなければならないことを、いま、言う行為、である。『伝える』とは、いわば報道の活動であり、『言う』とは、論評の活動である。それだけが、おそらくジャーナリズムのほとんど唯一の責務である。」●33ここで強調されているのは「いま」である。「あとでゆっくりと」ではない、「いま」である。ここにこそ「ジャーナリズム」でなければならない理由がある。</p><p>コミュニケーションは送り手だけの独占物ではないから、「言う」「伝える」に「知る」「聞く」「見る」「読む」「考える」をつけ加えよう。プロのジャーナリストたちも「言う」「伝える」の前にすさまじい勢いで「知る」「聞く」「見る」「読む」「考える」を実行しているわけだから、じっさいこれらは一体のものである。わたしたちはマス・メディアに対しては受け手ではあるが、その能動的な利用において潜在的にジャーナリスト的存在なのである。戸坂潤は戦前に「元来から云うと、一切の人間が、その人間的資格に於てジャーナリストでなくてはならぬ。人間が社会的動物だということは、この意味に於ては、人間がジャーナリスト的存在だということである。」●34と述べているが、その通りだと思う。</p><p>「見識ある市民」「自省的市民」がたえずジャーナリスト的存在であろうとして、それぞれの社会的位置に即したさまざまなコミュニケーションの実践──知る・聞く・見る・考える・言う・伝える──をしていくことによって、社会の「自省」が活発に作動する。そして「社会は諸個人の自省的行為を媒介としてみずからの構造を変えていくのである。」●35このようなプロセスを「高度反省社会」と呼ぶことは可能だろう。わたしたちにとって必要なのは、送り手中心の「高度情報社会」ではなく、市民の透明な自己理解を可能にする「高度反省社会」の方ではないだろうか。</p><p><br /></p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-60865191813609570582022-01-17T16:30:00.009+09:002022-01-17T16:30:59.665+09:00『リフレクション』第五章 コミュニケーション論の視圏(3)市民的公共圏の理念<p>野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第五章 コミュニケーション論の視圏──〈反省する社会〉の構造原理(3)市民的公共圏の理念</p><h4 style="text-align: left;">現代日本の公共性概念</h4><p>前節では第二水準に即してコミュニケーションの因数分解のような話をしてきたが、今度は第三水準に即してマクロな社会的場面へ開いて展望し直してみよう。第三水準における話想宇宙、あるいは理想的発話状態が期待されているマクロな社会的空間──それは「市民的公共圏」と呼ばれる。この節で検討するのはこれである。</p><p>しかしその前に、日本語の「公」ということばにふくまれているふたつの意味を区別しておかなければならない。たとえば「公職」「公立」「公共事業」「公費」の「公」は国や地方自治体などの統治機関をあらわしている。つまりそれは公権力のことである。したがって対立概念は「私」である。それに対して「公衆」「公民」「公開」「公表」「公会堂」「公益」の「公」は社会の人びとの集合をあらわしている。社会のメンバーの「だれもが」参加する・知ることができる・出入りできる・利益を受ける……といったことである。つまり「開かれた公的領域」をさしている。したがって対立概念となるのは「閉ざされた私的領域」であるが、同時に「公権力」とも対立するものなのである。</p><p>現代日本語として流通している「公共」ということばは、じつは以上のふたつの異質な意味を思慮なく混同させたまま使われている。「公共性」「公共の福祉」といわれるとき、これは同じ社会に暮らす「みんな」──「私」の集まり──に関係する事態であることを意味する。公権力はそれをいわば代行して進めているにすぎないわけだが、じっさいには、公権力が進めているから「公共的」であるかのように事態が進められていってしまう。ここでも一種の物象化的錯視が生じている。</p><p>もう少し具体的に説明しよう。船橋晴俊は、公共性概念が社会的合意を形成する共通基盤になっていないと指摘する。船橋によると、その大きな要因は、公共事業の規模の大幅な拡大によって受益圏と受苦圏が完全に分離してしまい、公共性の内容が変質してしまっていることによるという。つまり、図書館や公民館の建設のように小規模な公共事業の場合には、受苦が比較的軽く、その防止や補償がわりあいかんたんである。しかも、受益圏と受苦圏はほぼ重なっている。そのような状況において公共性はある程度の正当性をもつといえる。ところが、新幹線や空港のように大規模な公共事業は、受苦の質と量が深刻で、その防止と補償はきわめてむずかしい。しかも、受益圏と受苦圏はほぼ完全に分離しており、事業の担い手としての巨大組織──公権力かそれに類した法人──は受苦圏の人びとの意思を反映できない。このような状況において、公共性概念は「事業予定地でそれまで生活してきた人々に対して立ちのきと生活再編を要求する、うむを言わさぬ論拠として作用」するとともに、「加害者を免責し、被害救済を拒否し、受忍限度の引上げを正当化し、被害者を未解決状態に閉じこめる作用を果たし」しかも「住民運動にマイナスイメージを植えつけ」る装置として作用する。つまり現代日本の「公共性」概念は被害者救済を阻止する機能をもたされているのである。●15</p><p>このように「公共性」概念は今日の日本では「権力のことば」と化している。わたしがこれから「反省のことば」として説明したいのは規範的理念としての公共性であり、だからこれと差異化しなければ議論が混乱してしまう。そこで花田達朗の提案にしたがい、本書では「公共性」ということばをいったんペンディングしておき、かわりに「公共圏」を使うことにする。●16</p><h4 style="text-align: left;">市民的公共圏</h4><p>もともと「市民的公共圏」(die bu`rgerliche O`ffentlichkeit)という概念は、近代初期の西欧社会に成立した歴史的現象をさす歴史概念である。つまり「あるべきこと」ではなく「すでにあったこと」をさすことばである。ハバーマスによると、公共圏の考え方は古代ギリシャにあったものだが、それが初期資本主義による商品と情報の流通の発達のなかで、公権力に対抗するために、公衆として集合した民間人(市民)によって形成された社会的空間である。●17具体的には一七世紀後半から一八世紀にかけてサロン・コーヒーハウス・会食会などに集った市民たちの議論がそれである。そこには共通の基準があった。第一に「そもそも社会的地位を度外視するような社交様式」「対等性の作法」。第二に「それまで問題なく通用していた領域を問題化すること」。教会や国家による上からの解釈から自由に討論する。第三に「万人がその討論に参加しうること」つまり原理的な公開性。●18これらの基準に則って文芸・演劇・音楽作品が自由に批評され(文芸的公共圏)、その焦点はやがて政治的問題に移っていった(政治的公共圏)。新聞などのジャーナリズム活動はこの市民的公共圏から派生したものである。政治的公共圏はやがて国家機関として制度化される。公共圏が国家機関の手続き上の組織原理になったのである。しかし一九世紀になると、市民的公共圏が前提していた私的領域と公権力領域の分離の構図がくずれて、近代の基本原理だった市民的公共圏は操作的公共圏へ構造転換することになる。「批判的公開性は操作的公開性によって駆逐される。」●19今日わたしたちが経験するのは市民的公共圏の変質したものである。</p><p>市民的公共圏の原型は一八世紀イギリスのコーヒーハウスに求めることができる。ルイス・L・コーザーによると、一八世紀初頭のロンドンには約二千軒のコーヒーハウスがあり、そこではカウンターで一ペニー払えば、だれもが対等かつ自由に会話や討論に加わることができたという。●20あるときはだれかが読み上げるニュースを聞き、あるときは詩人や批評家の自作朗読を聞いたり、それに対するさまざまな批評を聞くことができた。そこでは身分や礼儀作法・道徳とは関係なく個人が評価された。「コーヒーハウスは身分差を解消した。しかもそれと同時に、新たな統合形態をつくり出した。すなわちコーヒーハウスは、共通の生活様式や共通の家系に基づく連帯を、共通の意見に基づく連帯におきかえる役割を果たしたのである。ところで、共通の意見が発達しうるためには、前もってつぎのような条件がなければならない。すなわち、第一には、人びとが相互に討論しあう機会をもつことである。つぎには、彼らが自分だけの思想という孤立状態から引きづり出されて、公けの世界に入りこむ必要がある。それというのも、公けの世界においてはじめて個々の意見は他者との討論によって磨かれ、吟味されるからである。コーヒーハウスは、無数の個々の意見からひとつの共通の意見を引き出して結晶化し、それにはっきりとした形を与え、安定したものとするのにあずかって力があった。つまり、新聞がまだ成し遂げていなかったことが、コーヒーハウスによって大規模に行なわれたのである。」ここで「公けの世界」と訳されているのが公共圏である。●21</p><p>市民的公共圏の概念は、このような歴史概念であると同時に、他方で、わたしたちの社会を構成する規範的原理でもある。それゆえハバーマスは次のようにいうのである。「今日われわれが『公共性』という名目でいかにも漠然と一括している複合体をそのさまざまな構造において歴史的に理解することができるならば、たんにその概念を社会学的に解明するにとどまらず、われわれ自身の社会をその中心的カテゴリーのひとつから体系的に把握することができると期待してよいであろう」と。●22コミュニケーション合理性は市民的公共圏をモデルにしている規範的理念であり、複雑化した現代社会において変質してしまってはいるが、わたしたちの社会の中心──それがもはや虚点であろうとも──に存在する組織原理なのだ。</p><p>もちろんコーヒーハウスのような一八世紀の市民的公共圏がそのまま理想というのではない。何よりそこでは女性が排除されていた。これは致命的な問題である。財産と教養がない者やよそものも事実上排除されている。●23しかし重要なことは、少なくとも万人の参加の「可能性」は保証されていたということだ。というのは「市民的公共圏は、一般公開の原則と生死をともにする。一定の集団をもともと排除した公共圏は、不完全な公共圏であるだけでなく、そもそも公共圏でないのである。」●24じっさいコーヒーハウスにしても一八世紀後半になると常連たちが非公開のクラブをつくるようになりしだいに閉鎖的になっていく。しかし、そのかわりにさまざまなジャーナリズムが公共圏を引き継ぐことになる。●25その意味では理念型的なモデルとして位置づけておくのが適当であろう。</p><p>この点についてはチャールズ・ライト・ミルズがおもしろいことをいっている。「われわれはあたかも完全に民主主義的な社会にいるかのごとくに行動し、そうすることによって、その『かのごとく』を転換しようとする。社会を一層民主主義的にしようとするであろう。」●26市民的公共圏とは〈演じられた社会〉である。あたかもそこに民主主義的なコミュニケーションの場があるかのように演じられるのだ。演じられることでそれは現実になり、現実として人びとの行為の条件の一部となる。知識過程論で確認したように、人びとの知識として共有されているフィクション──知識事実としての社会──なしに社会的現実は成立しないのだから。●27</p><h4 style="text-align: left;">担い手としてのコミュニケーション主体</h4><p>市民的公共圏の担い手としての人びと、つまりそこでコミュニケーションする人びと──わたしはそれを「コミュニケーション主体」と呼びたい──はいかなる存在だろうか。社会学の伝統的概念を呼び起こせば「公衆」がそれであろう。</p><p>ハバーマスが紹介しているミルズの『パワー・エリート』における「公衆」と「大衆」の区別を見てみよう。●28</p><p>ミルズは次のように述べているという。「『われわれの用法でいう公衆においては、第一に、多くの人々がさまざまな意見を受けとるだけでなく同時に表明し、第二に公衆のコミュニケーションは、そこで表明されるどの意見に対しても、直接に且つ有効に応答する機会があるように組織されており、第三に、このような討論によって形成された意見は、必要とあらば権威の支配的体系にさからってでも、効果的行動への出口を見つけることができ、そして第四に、権威的制度は公衆に浸透するものではなく、したがって公衆はその活動において多少とも自律的である』。これに反して、意見は『大衆』のコミュニケーション連関にとらわれているかぎり、それだけ公共性を減ずる。『大衆においては、意見を受けとる人々よりも意見を表明する人々の方が遥かに少数である。というのは、公衆の共同体は、マス・メディアから印象を受けとる個々人たちの抽象的集合になるからである。第二に、有力なコミュニケーションは、個々人がそれに直接に、あるいは効果的に応答するのが困難もしくは不可能であるように組織されている。第三に、意見の行動的実現は、このような行動の水路を組織し統制する権威によって統制されている。第四に、大衆は制度からの自律をそなえておらず、むしろ反対に、権威ある制度の代行者がこの大衆に浸透し、討論による意見形成において大衆がもつかも知れぬ自律を減少させる。』」●29「公衆」が「市民的公共圏」に対応するコミュニケーション主体だとすれば、「大衆」は「操作的公共圏」に対応するコミュニケーション主体である。</p><p>しかし、わたしはもう少しだけ詳しい人間類型を使う方がいいのではないかと思う。というのは、ミルズの二類型だと、「では、わたしたちは『公衆』と『大衆』のどっちなんだ?」という短絡的な議論になりがちだからだ。そこでわたしは、アルフレッド・シュッツが知識のあり方をめぐって構成した三つの理念型を利用して説明したいと思う。●30</p><p>その第一のものは「専門家」(expert)である。専門家のもつ知識は領域が限定されているが、そのかわり、その専門領域においては明晰で一貫している。かれらはその専門領域においてすでに自明と見なされている準拠枠を受け入れている。</p><p>第二の類型は「しろうと」(man on the street)である。「市井の人」「日常生活者」「一般大衆」「日常人」とも訳されるが、処方箋的な知識で満足する者という点で、わたしたちがふだん「しろうと」と呼んでいる者のことだ。ミルズのいう「大衆」にほぼ対応すると考えてよい。かれらの知識は基本的に実用本位のものであり、かなり広い範囲に渡ってはいるものの、首尾一貫していない。かれらは実用的目的以外のものごとに対しては感情的に対処し、一連の思い込みや明晰でない見解を構成し、自分の幸福の追求にさしさわりのないかぎり、素朴にそれらに頼っている。</p><p>第三に「見識ある市民」(well-informed citizen)。「自省的市民」「博識の市民」「分別のある市民」「有識市民」などとも訳される。「多くの知識(情報)をえることをめざしている市民」●31の省略形である。ミルズのいう「公衆」に対応すると見てかまわないだろう。「見識ある」(well-informed)とは「当人の手許の実用的目的に直接関係がなくても、少なくとも間接的な関心はあるとわかっている分野について、正当な根拠をもつ意見に到達すること」を意味する。●30だから上記の訳語はそれなりに適切なものだが、もっとそっけなく訳すと「事情通の市民」ということになる。それも特定の分野についての事情通ではなく、社会生活のあらゆる領域について事情通であろうとする人たちである。</p><p>現代人は、その職業生活や家業において「専門家」であるが、専門以外の領域に関しては「しろうと」である。しかし専門外のことに関してもときには「事情通」「見識ある市民」でもあるはずだ。シュッツのこの概念を借りれば、市民的公共圏の担い手は自己教育的な「見識ある市民」「自省的市民」ということになろう。つまり、わたしたち自身の「見識ある市民」の側面を自覚的に発動させることが市民的公共圏を現実のものにするのだ。</p><h4 style="text-align: left;">社会学の理念としての市民的公共圏</h4><p>社会におかれたありとあらゆる営みは必ず何らかのアプリオリな前提から出発しているという定理は社会学にも当てはまる。わたしは社会学の前提となるアプリオリとして市民的公共圏の理念があると考える。「社会学は近代社会の自己意識である」という古典的な命題もこの意味で再解釈──もしくは読み換え──できるのではないか。そして社会学が概して全体主義的な社会から排除されてきたのは、社会学がほとんど暗黙のうちに前提している市民的公共圏の理念の存在によるのではないか。この「社会学と民主主義の歴史的親和性」ともいうべき性格は二〇世紀の社会学の発展のなかでしだいに鮮明になってきたと思う。</p><p>わたしには不満でならないのだが、社会学史はとりもなおさず「迫害の歴史」であることを社会学者はもっと強調すべきであろう。そしてそれは一九世紀なかごろに活躍した「社会学」概念の創始者たちにだけいえることではなく、一九世紀から二〇世紀への「世紀の転換期」における社会学の理論上の創始者たちにもいっそういえることである。概念の創始者たちには「社会改良」「社会再組織」の理想と情熱が先行していた。それは国家という公権力の強制力に対して、私人たちの相互作用の集積である市民社会の潜勢力を解放したいとの動機に基づいていた。公権力への対抗という契機が社会学にはあった。理論上の創始者のひとりであるジンメルが「社会学を研究している」という理由によってベルリン大学教授になれなかったのも、かれがユダヤ人であったからばかりでなく「社会学」という概念がそのような志向を体現していたからである。公権力はそれを見逃さなかった。そしてそれは二〇世紀の中期を変貌させたファシズムと社会主義によってだれの目にもはっきり見える現象となって顕在化した。ファシズム期の社会学は事実上「国家学」に吸収され、マンハイムやフランクフルト学派のユダヤ系社会学者は大学を追われた。他方、社会主義圏では、のちに粛正されることになるブハーリンが社会学者だったことも災いして、社会学の研究はしばらく不可能な状態が続いた。社会学が解禁されたのはスターリン批判後の一九六〇年前後である。中国でも革命直後から一九七九年まで社会学は禁止されていた。戦時中の日本においても「国家学」が何よりも大事であって、公権力にとって「社会」──つまり市民社会──の研究は望ましくないと考えられた。国家が天皇を中心とする「聖なる世界」だったのに対して、市民社会は「俗なる世界」にすぎないとの序列主義もあった。</p><p>このように民主的でない社会において社会学は抑圧される一方、民主的な社会において社会学は急速に発展する。戦間期から第二次世界大戦後、社会学の中心がヨーロッパからアメリカへシフトするのは偶然ではない。さらに一九六〇年代後半の一連のカウンター・カルチャー運動が、エスタブリッシュ化しつつあった社会学に転回の転機をあたえた。公民権運動・フェミニズム運動・ベトナム戦争反対運動・学園紛争・若者文化・消費者運動・新左翼運動・ヒッピー文化・ロック……。これらの潮流は、それまで順調に発展してきたと信じられていたアメリカ社会のもうひとつの側面を照射するものだった。</p><p>このような転回はすぐに社会学理論そのものに反映した。反省社会学はその一例であるが、パーソンズの機能主義的社会学に対する新しいパラダイムとして、ゴッフマンのドラマトゥルギー、エスノメソドロジー、シンボリック相互作用論、批判理論、コンフリクト理論などがあいついで登場し、そのプロセスのなかでミードのコミュニケーション論やシュッツの現象学的社会学がリバイバルする。この転換は「意味学派」とか「解釈的パラダイム」の台頭などと呼ばれたが、総じてコミュニケーション論的転回と括るべきものだった。その意味において一九八一年の『コミュニケーション行為の理論』(邦訳名は『コミュニケイション的行為の理論』)に結晶するハバーマスのコミュニケーション論的転回はその象徴的できごとだったといえる。このコミュニケーション論的転回によって社会学の視界に今日はっきりと見えてきたのが市民的公共圏の理念なのである。</p><p>理念をあつかうのは「経験科学」としてふさわしくないという批判は、社会学の内部にも外部にもある。たしかに社会学はユートピアについて夢想する場所ではない。あくまで現実について語る場所である。しかし市民的公共圏の理念を再確認する背景には、理想や価値に対して、それを暗黙の前提として自明化しないとの態度が存在する。それらへの言及を回避することは、結果的にそれらを不問に付しブラックボックス化することになる。むしろそれらをあからさまな公開討議の場にさらすことこそ合理的な科学的態度ではないだろうか。しかもすでに述べてきたように、この理念は、あきらかにわたしたちの社会の基底にあって支えているものであり、また言語を用いる日常のコミュニケーションの実践の内部にすでに宿っているものなのである。</p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-54759725995600548752022-01-17T16:30:00.000+09:002022-01-17T16:30:04.949+09:00『リフレクション』第五章 コミュニケーション論の視圏(2)コミュニケーションの理想的局面<p>野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第五章 コミュニケーション論の視圏──〈反省する社会〉の構造原理(2)コミュニケーションの理想的局面</p><h4 style="text-align: left;">コミュニケーションの理想</h4><p>「もしもこのコミュニケーション・システムが理論的に完全にできていたら、人は、どんなふうに他人に影響を及ぼしても、それと同じ影響を自分自身に及ぼすにちがいない。どこでもそれが理解される論理的宇宙で到達される理想である。そこで話されたことの意味は、他のすべての人にとってと同様に、どの人にも同一である」とミードはコミュニケーションの理想について語っていた。●2これをコミュニケーションの三水準に即して説明するとさしあたり以下のような構図になる。</p><p>第一水準で確認したように、コミュニケーションとは原理上偶発的で参加者の意図を超えた客観的な過程である。それはあくまでスリリングな過程であって、共通の利害と共通のことばでもって理解しあうといった談合的なものではない。たとえば、たんなる話の導入の手続きのつもりで「昨日の夜、電話したけどいなかったね。どこいってたの?」といったことに対して、相手が「そんなことどうでもいいだろ!」と反応してしまったら、コミュニケーションは予想もしない方向に進んでいってしまう。つまり相手の反応しだいでコミュニケーションはどこへでもいってしまうのだ。</p><p>しかし、この偶発性に対して、人間は音声身ぶりすなわちことばを使うことによって、ある程度の反省的なコミュニケーションをおこなうことができる。つまり相手の反応を自分の行為の解釈──つまり「意味」──としてとりいれ、有意味シンボルという共通なものをつくりだすことができる。こうして子どもは「水がほしい」ということばを発すれば母親から「水をもってくる」という反応を引きだせることを学ぶ。</p><p>コミュニケーション・メディアの発達は、このような共通の反応をもつ有意味シンボルをより普遍的なものにする可能性がある。特定の地域でしか通用しなかったあることばが、地域を超え国家を超えて共通の反応を呼び起こす(つまり共通の意味をもつ)ことが、コミュニケーション・メディアによって可能になる。</p><p>ミードが「話想宇宙」(universe of discourse)──「討議の世界」と訳すこともできる──と呼ぶのは、さしあたりこのような構図を前提としている。ミードは「話想宇宙」を「同一の有意味シンボルにより、すべての個人が、相互に会話する能力にだけ基礎づけられた社会によって代表される論理学的社会」●3と定義する。まったく平等な資格をもった人びとによる会議のようなものと思えばよい。</p><p>しかしここまでだと、いわゆる「バラ色のユートピア」構想にとどまってしまう。じっさいコミュニケーション論におけるミードの先行者だったクーリーのコミュニケーション論の方はこの段階にとどまっていた。小谷敏によると、クーリーのコミュニケーション論は、基本的に人間は等質であるとの前提に立つ。だから交通手段やコミュニケーション・メディアの発達によって人間の相互理解がますます進むというわけだ。小谷敏はこのようなクーリーの考え方を「等質性のユートピア」と呼ぶ。●4</p><p>しかしそれはあくまでも可能性であって、じっさいには事態はそうかんたんではない。たとえば同じ日本語をしゃべることができたとしても、教師が生徒にいったことに対して、生徒は特定の具体的状況下において教師の意図とは無関係に反作用してしまうものだ。たとえば教師の「バカ!」ということばも、励ましの意味に受け取られることもあれば、親密さをあらわしたり、教師の傲慢さの表現と取られることもありうる。ことばによる理性的なコミュニケーションであっても、第一水準の偶発性からは逃れられない。まして現代人はメディアを使用する。「メディアはメッセージである」(マーシャル・マクルーハン)といわれるように、メディアそのものがひとつの身ぶりとしてコミュニケーションの内容を強く規定する。しかもメディアはそれ自体、自律的に作動する。たとえば電話を使えばそのコミュニケーションは遠く離れたふたりに可能になるが、同時にそれは一対一関係に限定され、音声のみをクローズアップすることになる。恋人たちであればいっしょにいるだけでことばは不要であるが、それでもかれらが電話でコミュニケーションするときには沈黙は回避されるはずである。また電話は匿名性をコミュニケーションに持ち込むので、いたずらやいやがらせのコミュニケーションを誘発するとともに、「いのちの電話」「電話相談」のようなコミュニケーションもしやすくなる。●5このように、第三水準では、第二水準において見られる当事者のリフレクションが作動しにくくなり、メディアそのものの自律的運動に影響されがちである。それゆえこの水準では、コミュニケーションの反省作用をどうすれば活性化できるかが改めて問題になってくるのである。</p><p>ミードが立っている基本認識を現代風に定式化すると以上のようになる。だから「話想宇宙」といっても、たんに、世界中の人が英語を勉強して対話するとか、方言をなくして全員が標準語で会話できるといった、何かしら共通の言語を共有することではないし、メディアによってそれがますます現実化すると決めつけることもできない。</p><p>むしろ、利害の折り合わない人びとにおいても、あるいはまた生活環境や文化のまったく異なる人びとにおいても、自分のことばが相手に同じ意味で受け取られるとともに、相手のことばを相手の意図に基づいて解釈し、個性的な反応を返していくこと──そしてその通りに相手が理解し相手なりの反応を返すこと──なのである。もちろんこれは「みんな仲良く」式の世界について語っているのではない。むしろ逆に、加害者と被害者、資産をもつ者ともたない者、男性と女性、管理職と労働者、差別する者とされる者、教える者と教えられる者、送り手と受け手、売る側と買う側、大人と子ども、専門家と素人、障害者と健常者、医者と患者……といった対立的な役割関係にある人びとが対立的なまま、とりあえず討議する場とことばとが保証されている理性的な相互学習過程を構想しているのである。そして日常的なさりげない対話のなかにもその理念は宿っているというのだ。</p><p>だからここでミードが総括的に述べている理想は、わたしたちが通常思いおこすような理想と少し趣がちがう。その理想を「民主主義」と呼ぶとすれば、ミードにとって民主主義とは、みんながみんな似ているような平準化された社会秩序ではなく、個性的な個人が自分の可能性を最大限発達させるとともに、自分が影響をおよぼしている他人の態度に参入できることである。●6それはたんなるバラ色の理想主義ではない。葛藤的な社会像を前提した上での理想である。それゆえ小谷は、クーリーの「等質性のユートピア」に対してミードの社会ヴィジョンを「理性的主体のユートピア」と性格づける。それは「文化規範を異にする者同士が、相互の異質性を前提としながら、話しあいと再調整をくり返すことによって日々更新されていく、そうした社会関係」をめざす。その担い手は科学者のように理性的な態度をとる人びとである。●7</p><p>顧みれば、いわゆる情報社会論の系譜では今なお「等質性のユートピア」のヴィジョンが主流である。情報量が多くなればなるほど、チャンネル数が増えれば増えるほど、メディア技術が高度化すればするほど、望ましい社会に近づくという素朴な工学的社会観が今だに広く流通している。この傾向は「ニュー・メディア」や「マルチ・メディア」の名の下にまだまだ生き残りそうである。一種の葛藤的社会像を前提した上で、だからこそ理想的な討論の場が必要であり、反省的コミュニケーションのシステムを追求すべきだと考えるミードのヴィジョンは、今日でもけっして古びていないのである。</p><p>「みんないっしょ」だから活発になる「仲良し」コミュニケーションではなく、利害がちがうからこそコミュニケーションがおこなわれるような社会、異質な文化をもつ他者であるがゆえに反省的なコミュニケーションが活性化するような社会、葛藤が深まれば深まるほどリフレクションが作動する社会、自分たちの行為が予想外の反応を呼び起こしたことを当事者自身が的確に認識できるような社会──おそらくこのプロセス自体が「反省する社会」なのである。</p><p>ところで、以上のような議論をしていると、「この話、何かに似てるなあ」とある種の既視感にとらわれるのではあるまいか。そう、これはジャーナリズムの話そのものである。ジャーナリズムといっても現実のあれやこれやの報道活動というよりも、社会現象もしくは社会原理としてのジャーナリズムである。ジャーナリズムを広い意味で論じることは近年でははやらないが、戦前のジャーナリズム論では珍しくなかった。戦前の日本の代表的な論客から例をとると長谷川如是閑がいる。</p><p>長谷川如是閑は「対立意識というのは、敵対的の対立ではなく、社会的協同生活のそれぞれの立場という意味で、国としても国民としても、その性能や性格にそれぞれ個性があり、その差別に立って全体としての協同生活が成り立っているのだが、その各々の立場の社会意識を、私は対立意識と言っているので、対立意識の表現が即ちジャーナリズムである」●8と述べ、社会意識に内在する差異性に注目する。ここでは、社会の成員のさまざまな差異性を社会的コミュニケーションへ意識的に反映させてゆく活動としてジャーナリズムが捉えられている。</p><h4 style="text-align: left;">理想的発話状況とコミュニケーション共同体</h4><p>ミードの「話想宇宙」概念の現代的対応物をみつけるとすれば、グールドナーの「合理的討議のための共同体」構想、アーペルの「理想的なコミュニケーション共同体のアプリオリ」、初期ハバーマスの「理想的発話状況」概念、後期ハバーマスの「コミュニケーション行為」論が代表的なものであろう。●9これらの諸概念の差異はけっして小さくはないけれども、大局を見失わないようにするため、ここでは一括して展望することにしたい。</p><p>かれらの主張──とりわけ理論的動機──におおむね共通する論点は次の三点に集約できる。</p><p>第一に、現実社会の権力作用を批判する批判理論(critical theory)の立場に立つこと。「ホロコースト」という想像を絶する大量排除現象へいたるユダヤ人迫害を身をもって体験したフランクフルト学派の問題意識がかれらに権力作用への徹底的な批判を要請しているように見えるし、社会主義側におけるスターリニズムや先進諸国における新左翼運動への失望などが始発点にあるようだ。概して現代社会学の場合、ファシズムとスターリニズムの投げかけた問題の影響は大きい。かれらには「なぜこうなってしまうのか」という切迫した問いかけが先行している。</p><p>それゆえ、権力作用がもたらす対立状態の固定化を排しその流動化をめざすというのがかれらの理論的課題となる。ジンメル流にいえば「文化の悲劇」がなぜ生じ、なぜ回避できないのか、そこから離脱する方法はないのか──これに答えるためには膨大な経験的研究とその総合が必要となる。なぜかというと、排除現象はもはや少数の独裁権力者の横暴や気紛れによって生じるのではなく、人びとの自発的な行為によって生じるからである。それこそファシズムの経験がはっきりと示していたことだった。その「自発的服従」はどのようにして供給されるのかをたどっていくと、現代のコミュニケーションのいびつなありようにたどり着く。現代社会におけるコミュニケーションに何か問題があるはずだというアプローチ、「歪められたコミュニケーション」への注目、これが第二点である。</p><p>では、批判の根拠となる地点はどこか。「歪められた」というからには、それは「歪められていないコミュニケーション」以外にない。「そんなものが存在するのか」という反論に応えて、かれらは詳細な言語理論の研究ののちに、夢想ではなく現実的な根拠としてそれが作用していることを論証する。それが「コミュニケーション共同体」であり「理想的発話状況」などと概念化されたものである。これらは必ずしもミードの「話想宇宙」概念に影響されたものでないにせよ、内容的にはその延長線上で理解することができる。これらはたしかに理念である。しかし、わたしたちはコミュニケーションをおこなうさい、確実にその理念をあてにしている。その見込みがなければ厳密な意味でのコミュニケーションをわたしたちは試みようとはしないだろう。たとえば、ガン患者が医師に真実を知らせてくれと要求するとき、若者が「別れましょ」という恋人を引き留めるとき、あるいは教授が大教室で私語する学生に学問を教えるとき──その理念は現実のなかにすでに内在しているといえる。これが第三点目である。</p><p>こうしてかれらは、現実とは別のところに理想を求める革命主義と袂を分かち、批判の根拠地点を現実のコミュニケーションそのもののなかに見いだすのである。身近な日常生活の実践に批判の根拠と理念の現実性が存在する。こうなると研究の営みは、観念の遊戯としての哲学でも倫理学でもない、経験科学としての社会学──それも脱領域的な社会学──を中心とした社会理論としかいいようのないものへとシフトしていく。</p><h4 style="text-align: left;">コミュニケーション合理性</h4><p>この系統の代表的理論家であるハバーマスに即してもう少し補足しておこう。かれは社会的行為を「戦略的行為」と「コミュニケーション行為」のふたつの類型に分ける。「戦略的行為」とは目的合理的に相手に影響をあたえる行為であり、「コミュニケーション行為」とは互いに了解しあう行為であるが、両者の区別は当事者が「成果志向的態度」(思い通りの結果をえようとする態度)をとるか「了解志向的態度」(合意に達しようとする態度)をとるかによって区別される。●10了解(「理解」とも訳される)とは、少なくともふたりの主体(人間)の間で一致が達成される過程であり、ある言語表現を同じに理解することである。このような「了解」は言語そのものに宿っている。●11わたしたちが経験的に知っているように、じっさいにはなかなかそうはいかないのであるが、しかしわたしたちが「了解」をめざしてコミュニケーションしようとするとき、そこには一種の強制のない理想的コミュニケーション共同体(ミードの「話想宇宙」)が想定されているのである。「われわれが発話行為(と通常の行為)を遂行するときには、あたかも理想的発話状況(あるいは純粋コミュニケーション行為のモデル)が単に虚構のものではなく現実的なものであるかのように反事実的に振る舞っている」●12コミュニケーションがおこなわれるあらゆる状況は、完全でしかも拘束のない合意を達成するという意図を暗黙のうちにあらわしている。反事実的な理想的発話状況がすべてのコミュニケーション行為において先取りされているのである。これがさきほどわたしが「コミュニケーションの第二水準」と呼んだ人間コミュニケーションのもつ超越的契機である。</p><p>では、「了解」が達成される場合には、どのような条件が必要だろうか。もちろんお互いに言語能力があることが大前提であるが、その上で三つの条件が満たされなければならないとハバーマスはいう。真理性・正当性・誠実性がそれである。この三つが満たされるとき、そのコミュニケーションは「合意」に達する。第一に真理性とは、客観的世界(物理的環境世界)に照らして発言が真理であるということ。第二に正当性とは、社会的世界(社会的規範)に照らして発言が正当であるということ。第三に誠実性とは、内的体験世界(内的感覚)に照らして発言が誠実になされているということである。</p><p>たとえば「ここでタバコを吸ってもいいですか」という発言があったとしよう。イエスにせよノーにせよ、わたしたちはこの発言(質問)そのものが妥当であるかどうかをまず吟味する。その上でイエスかノーか、自分なりの応答を返すことになる。したがって、この質問そのものに対して「いいえ」と答えるケースを想像してみると、三つの場合に整理できる。●13</p><p>(1)「いいえ、あなたが今もっているのは禁煙具です」──これは、客観的世界に照らして質問そのものが成り立たない状況であることを示している。形が似ていても禁煙具はタバコではない。</p><p>(2)「いいえ、君はまだ小学生だ」──これは、質問が前提している社会的規範(社会のルール)が承認されていないことを示している。つまり、小学生がタバコを吸うなんてとんでもないという規範に照らして発言の妥当性を否定している。あるいは「いいえ、わたしはかまいませんが、周りの皆さんにもきいてください」と答えれば、自分が「はい」と答えたとしても質問者がタバコを吸っていいことにならないことを示す。これも正当性が試されている。</p><p>(3)「いいえ、あなたはたんに形式的な手続きとしてきいているだけで、わたしがダメというはずがないと思っているんでしょう」──質問者がほんとうに許可をえようと質問したわけでないことを示す。質問者が心からそう思って質問しているかどうか、つまり発言が発言者の主観的世界(意識)と一致しているかどうかが試されている。</p><p>以上の吟味をわたしたちは瞬時におこない、妥当であると見なしたときにのみ、この問いかけを了解し受け入れ、それに対する自分の主張を相手に返すのである。</p><p>同じように「火事だ!」という発言について考えて見ると──</p><p>(1)「いいえ、これはたき火です」──言及されている事態の把握がまちがっていて真実でない。</p><p>(2)「いいえ、大声をださなくても、だれでも火事だとわかります」──わざわざいうまでもないことを言及している点で発言に正当性がない。</p><p>(3)「いいえ、また君はわたしたちをおどかそうとしているね」──発言者が心からそう思って叫んでいるわけでないから、この発言は誠実でない。</p><p>このようにコミュニケーションの文脈のなかで発言文(語られたことばの内容)が検討されて瞬時にわたしたちは判断を下す。妥当なものかどうかの判断はその人がそれまで生きてきた生活世界によって供給された知識に基づいておこなわれる。生活世界とは人びとが解釈に利用しうる知識在庫──「知のストック」「知識の貯蔵庫」とも訳される──のことである。このような三重のチェックにおいて妥当であると判断するとき、わたしたちは心から納得するのであり、その状態を「合意」というのである。およそコミュニケーション行為の合理性とは、このような三つの基準を満たすことであり、ハバーマスはこれを「コミュニケーション合理性」(kommunikative Rationalita`t)と名づけるのである。</p><p>このようなコミュニケーション合理性への期待は具体的にはどのような展開になるのだろうか。理論を理論としてではなく現実に即して考えるという本書の趣旨にそって、ここであえて現代日本社会におきかえて説明しなおしてみよう。</p><p>ハバーマスのいう「合理的」コミュニケーションがおこなわれるべき場所を考えてみよう。裁判・国会審議・学問的討議・教育・福祉・医療……。これらにはそれぞれ特定された理念が存在し、共通にコミュニケーション合理性への期待がある。しかし現状はどうだろうか。真理性・正当性・誠実性において妥当かどうかチェックされたコミュニケーションになっているだろうか。</p><p>裁判や国会審議における発話行為はしばしば戦略的なものと化している。●14教育の現場においても「ゆとり」の名の下に切り詰められた時間のなかで消化しきれないほどのカリキュラムが課せられているために、教える者も教えられる者も戦略的に対応せざるをえなくなっている。さすがに老人福祉の分野ではしばしば「説得より納得」ということをスタッフが心がけて、それなりのコミュニケーション合理性への志向が見られるけれども、そのスローガンの前提にあるのは、じっさいには所定の目的を達成するために何が何でも「説得」してしまいがちな現場の雰囲気である。医療現場ではコミュニケーション合理性が慎重に追求されるべきであるにもかかわらず、やはりここでもゆとりがないのが実情である。こうして見ると、これらに支配的なのは了解志向的な「コミュニケーション行為」ではなく成果志向的な「戦略的行為」である場合があまりに多い。</p><p>ここで、第三章で紹介したジンメルの「社会はいかにして可能か」のロジックを思いだしていただきたい。このロジックはあのときのものとほぼ相似形である。ハバーマスのいう理想的発話状況とは一種の理念型である。しかも、現実の行為者が実践的に使用している理念型である。コミュニケーションに参加している行為者はいつも──たいていは無意識のうちに──その理念型を参照しながら、それとの「ずれ」として現実のコミュニケーションを検証しているのだ。だから、たとえばわたしたちが病院において医者の機械的な応答に腹を立てるとき、わたしたちがそのコミュニケーションに見いだそうとして失敗した理想がコミュニケーション合理性なのだ。</p><p><br /></p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-8573647167290347142022-01-17T16:29:00.002+09:002022-01-17T16:29:11.820+09:00『リフレクション』第五章 コミュニケーション論の視圏(1)コミュニケーション論へ<p>野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第五章 コミュニケーション論の視圏──〈反省する社会〉の構造原理(1)コミュニケーション論へ</p><p>一 コミュニケーション論へ</p><h4 style="text-align: left;">脱物象化とコミュニケーション</h4><p>社会学的なリフレクションはたんに「意識を高める」といった啓蒙主義的レベルでは終わらない。そこまでなら「自分を知るための哲学」で十分であろう。しかし、わたしたちが生きている現代社会は、そのような主観的な覚醒によって調整できるような牧歌的な光景ではもはやなく、わたしたちの生のすべての局面を巻き込む複雑きわまりない活動の複合体である。わたしたちの意識も人格形成もさりげない挙動でさえもこの社会の権力作用の網の目にからみとられているわけで、ドライな認識をもつかぎり、素朴な「哲学的啓蒙」でことたれりとするわけにはいかない。リフレクションの実効性の観点から見れば、哲学の時代は終わり、すでに社会学の時代になっていると思う。ただし知識と社会的条件のあいだにはタイム・ラグがつきものだという例にもれず、哲学はなお多産なのに対して社会学はいまひとつ出遅れているとの感はいなめないが……。</p><p>さて、前章では、わたしたちの行為が生みだす権力作用の局面に着目して検証してきた。そして権力作用が社会のコミュニケーションのありようによって固定され自明視されていることを確認してきた。ディスコミュニケーションによって物象化的錯視が固定される。しかしリフレクションの理論系譜によれば、脱物象化の可能性もやはりコミュニケーションにある。コミュニケーションという概念は、もともと特定の理念をふくんでいて、脱物象化はこの理念──それはしばしば潜在化しているのであるが──を現実のコミュニケーション過程に顕在化させることによって可能になると考えるのだ。結局わたしたちはコミュニケーションに立ち返らざるをえない。とりわけコミュニケーションの潜在的な力に。</p><p>伝統的なマルクス主義に依拠する従来の社会理論によく見られた、抑圧された現実から一挙に解放されることをめざす疎外論や、フロイト主義を加味した「抑圧─解放図式」はもはや有効ではなくなっている。そうではなくて、わたしたちのコミュニケーションの風通しをよくすることによって、つまり社会におけるコミュニケーションの反省作用を活性化させることによって、たえず問題状況を陽の当たるところにおき、社会を改訂しつづけるためのメタ環境を整備しておくことの方が実効性は高いのではないか。その意味で総じて現代社会学はユートピア的革命路線に対して概して批判的である。しかし、かといって素朴で反主知主義的な現実肯定主義に与するものでもない。やはりそこには現実内在的であると同時に現実超越的な理念もしくは思想が存在する。その方向性を本書ではこれまで「脱物象化」という包括的概念によって示してきた。いうまでもなくこの概念はあまりに粗雑であり、より具体的な議論を必要とする。本章ではこの点に焦点をあわせて脱物象化の視界について説明していきたい。</p><h4 style="text-align: left;">コミュニケーション論的社会像</h4><p>コミュニケーションの理想的局面に理論的根拠をあたえたのはミードである。かれのコミュニケーション論は現在でも社会理論のひとつのゼロ地点である。ゼロ地点とは、すべてがそこから始まるということであるとともに、十分には洗練されていないけれども、いつでもそこへ戻って思考を再開すべき場所であることをさしている。さっそくミードの理想的社会像が集約的に表現されている部分をかれの有名な講義録『精神・自我・社会』から引いてみよう。</p><p>「人類社会の理想は、人びとをその相互関係において緊密に結びつけ、そうすることで、自分の特殊な機能を行使している人びとに自分が影響を及ぼしている人びとの態度を採用できるようにするコミュニケーションという必須のシステムを十分に発達させることである。コミュニケーションの発達は抽象観念の[交換という]問題にとどまらず、有意味シンボルを通してコミュニケートし、他人の態度の位置に自分の自我を置く過程でもある。他人に影響を及ぼす身振りがまったく同様に自分自身に影響を及ぼすという事実こそが、有意味シンボルの本質だったことを想起しよう。他人に与えた刺激が自分自身にも同一もしくは同様の反応をひきおこしたときにだけ、シンボルは有意味シンボルである。人間のコミュニケーションはこういう有意味シンボルをとおしておこる。だから、それを可能にする共同体をどう組織化するかが問題である。もしもこのコミュニケーション・システムが理論的に完全にできていたら、人は、どんなふうに他人に影響を及ぼしても、それと同じ影響を自分自身に及ぼすにちがいない。どこでもそれが理解される論理的宇宙で到達される理想である。そこで話されたことの意味は、他のすべての人にとってと同様に、どの人にも同一である。したがって話想宇宙が、コミュニケーションの形相上の理想である。」●1</p><p>ミードの議論はそれなりに明解なのだが、その即物的なまでにプラグマティックな発想──かれはそれを「社会的行動主義」(social behaviorism)と呼ぶ──がわたしたちの常識的思考になじまないため、理解するのにたいへん苦労する。このままでは多くの読者にとってここが〈つまずきの石〉になる怖れがありそうだ。そこで現代人のコミュニケーションに即して、ここで述べられているかれの考え方を徹底的にほぐして説明してみよう。これまでもそうだったが、ここでも「原典に忠実な解釈」からはいったん身を退いておきたい。</p><h4 style="text-align: left;">コミュニケーションの三水準</h4><p>わたしたちのコミュニケーションは質的に大きく異なる三つの水準として分析することができる。第一水準は「身ぶりに媒介された相互作用」第二水準は「記号に媒介された相互作用」第三水準は「メディアに媒介された相互作用」である。ちなみに「相互作用」(interaction)は「相互行為」とも訳される。本書では「相互作用」に訳語を統一してある。</p><p>コミュニケーションのもっとも原初的な水準をミードは「身ぶり会話」と呼ぶ。人間Aの身ぶりPに対して人間Bが身ぶりQの反応をしたとき、人間Aは身ぶりQに対して反応してRという身ぶりをする。これがコミュニケーションの最小単位である。つまりお互いの身ぶりに反応しあって身ぶりを交しあうことがコミュニケーションなのである。この場合、共通のことばも知能もいらない。だから動物たちにもコミュニケーションは生じているし、次のようなケースも考えられる。「外国人が向こうから近づいてくる。語学の苦手なわたしはそれを見て思わずうつむいてしまう。それを察知した外国人は、わたしに道を尋ねるのをあきらめる。」この場合、コミュニケーションは始まっていないように見えるかもしれないが、ミードのいう身ぶり会話の水準では、すでに終わっていることになる。「近づいてくる」という外国人の身ぶりに対して「わたし」が「うつむいてしまう」という身ぶりを反応としてしてしまったために、外国人は「道を尋ねるのをあきらめる」という反応をしたのだから。このようにコミュニケーションの第一水準においては、送り手の意図や思惑とは関係なくコミュニケーションは事実的行為の反作用(じっさいのふるまいに対して、じっさいのふるまいで応えること)として進行する。相手(わかりやすく「受け手」と呼んでもよい)がどう反応したかが、現実に生じたコミュニケーションの「意味」なのである。この場合の「意味」は観念でもなければことばでもない。相互作用に客観的に存在する相手の反応そのものである。</p><p>ところが人間の場合は他の動物とちがって特殊な身ぶりをすることができる。その身ぶりとは「音声身ぶり」すなわち話しことばの使用である。この音声身ぶりが他の身ぶりとちがうところは、自分の身ぶりが相手に引き起こす反応とほぼ同じ反応を自分のなかにも引き起こすことができることにある。なぜなら話しことばは相手にも届くが、同時に自分にも聞こえるからである。つまり自分がひとりの人間に話しているとき、それを聞いているのは目の前の相手だけでなく、相手と自分の「ふたり」なのである。この場合、自分の身ぶりによって生じた相手の反応の身ぶりをまるで自分の身ぶりの解釈であるかのように理解することが可能になる。たとえば「ダメ!」という音声身ぶりと、それが相手に引き起こす反応とがひと組の「記号と意味」として認識される。ミードはこれを「有意味シンボル」(significant symbol)と呼ぶのである。これがコミュニケーションの第二水準であり、人間的な反省的コミュニケーションの水準である。</p><p>しかし、現代人のコミュニケーションがこの水準にとどまらないのは実感として自明である。わたしたちはしばしば何らかのメディアを使ってコミュニケーションをおこなう。それは手紙かもしれないし電話かもしれない。ラジオやテレビであることもあるし、カラオケやギターであるかもしれない。とにかくいえることは、現代人のコミュニケーションは「メディアに媒介された相互作用」だということだ。これをコミュニケーションの第三水準に位置づけよう。</p><p>おおむね以上の三つの水準が重層的に積み上がることによって、わたしたち現代人のコミュニケーションは成立していると考えることができる。たとえば、恋人たちの深夜の長電話は、まず、電話というメディアを媒介したコミュニケーションである(第三水準)。つぎに、話しことばによって、相手にほぼ伝わるであろう意味を自分自身で確かめながら話しつづける、という点で第二水準のコミュニケーションである。しかし、最終的には、自分がしゃべったことばは、相手によって、その声の質や話し方・積極性や通話時間(時刻も)など、電話によって確認できるすべての身ぶりとともに照合されつつ解釈されてしまう身ぶりの一要素として、現実の相互作用過程に投げ出される刺激にすぎない。それは当人によってさえもコントロールできない本質的に偶発的な性質を帯びている(第一水準)。</p><p><br /></p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-87176476764117760002022-01-17T16:05:00.008+09:002022-01-17T16:07:08.553+09:00『リフレクション』第四章 権力作用論の視圏(3)ディスコミュニケーション<p>野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第四章 権力作用論の視圏──反省を抑圧するコミュニケーション</p><p>三 ディスコミュニケーション</p><h4 style="text-align: left;">自発的服従を供給するメカニズム</h4><p>自分がいま風上にいるのか風下にいるのかをふだんわたしたちは意識しない。意識するのはタバコの煙が自分の方へ流れてくるときであり、しかも、タバコを吸っている人ではなく、吸わない人がいち早く感知するものだ。それと同じように、上方排除であれ下方排除であれ、排除された側は敏感にならざるをえない問題状況に追い込まれる。おそらくこの地点は権力作用の全体的認識が可能な──あるいはそれを強要される──ほとんど唯一の場所である。それに対して権力作用の具体的担い手であるわたしたち自身は、自分たちの行為がいかなる意味をもち、いかなる結果を引き起こしているか、なかなか気づきにくい。あるいは「タバコの煙が風下にいる人に流れるのは、たまたま向きの変わった風のせいであり、その人が非喫煙者だったのはいかにも運が悪かった」と、自然現象に見立てた(つまり自分たちではコントロールできない)環境や時代のせいにしたり、むしろ自分の方が被害者であるように装ったりすることによって、自己正当化に陥りがちである。このように権力作用の認識においても両者は非対称的である。</p><p>では、なぜ気がつかないのか。あるいは何となく気がついていても、はっきりとそれを自覚するチャンスが少ないのはなぜか。</p><p>その要因としてさまざまな理由が考えられる。たとえば「時差」の問題である。わたしたちが自分の行為の意味を知るのはいつもすべてが終わってからだ。そもそも体験に対する意味づけは過去をふり返ることによってはじめて可能なのだから。「生きられつつある行為に意味はない。」●29すべては事後的評価である。したがって気がついたときにはもう遅いということがしばしば生じる。また、伝統的行為とか慣習的行為の場合は自明性におおわれているから反省的評価は発動されない。また「役割への没頭」もありうる。つまり、たとえば会社人間と呼ばれる人びとのように役割へのコミットメント(関与)が強く、あまりに深く役割に没入してしまうために、役割関係の外部に対して極端に視野が狭くなる場合である。また「急進的でもなければ反動的でもない。反応がない」現代人のアパシーも大きな理由である。●30あるいは、普遍的な集団力学として「内集団」に対しては配慮をするが「外集団」に対してはいっさい配慮しないという「ダブル・スタンダード」(double standard)も考えられる。外部の視点から隔離されているために内部の視点の魅力を距離化できない場合もある。自発性や異議申し立てを体制へ編入してしまう「コアプテーション」(coaptation)も重要である。栗原彬は、工場内における自主管理・QCといった小集団活動に見られるように、それなりの自発性が許容され、代補的アイデンティティの充足がおこなわれるために、人びとは自発的服従に充足してしまうと指摘する。●31サービス残業もこれにあたる。</p><p>以上のような要素の複合体を「反省抑圧の構造」と呼ぶことにしよう。すでに論じてきた物象化とは、とりもなおさず「反省抑圧の構造」である。問われなければならないことは、自発的服従そのものではなく──これ自体は社会の存立の基本的メカニズムである──自発的服従に対するわたしたちの非反省性なのである。自発的服従に対する当事者の反省的評価が活発であれば、少なくとも極端な排除現象や悲劇的事態はくりかえされずにすむはずである。つまり、行為者の反省的評価が何らかの形で抑えられているのだ。</p><p>そもそも反省的評価を可能にするのはコミュニケーションである。本来はリフレクションを可能にするはずのコミュニケーションが何らかの形で損なわれていると考えることができる。つまりわたしたちのコミュニケーションは、その完全な反省作用を発揮していないコミュニケーションなのである。わたしはこのようなコミュニケーションを「ディスコミュニケーション」(dyscommunication)と呼ぶべきであると考えている。ふつうこの概念は「自分の思っていることがそのまま相手に伝わらない」との意味で使われるが、その前提にはコミュニケーションを「情報移転」と捉えるシャノン-ウィーバー・モデル的なコミュニケーション観がある。送り手中心的なこの工学的モデルでは人間的で社会的なコミュニケーションを捉えることはできない。●32それに対してミード的なコミュニケーション観に立つと、むしろディスコミュニケーションとは非反省的もしくは反省抑圧的なコミュニケーションであり、権力作用の正当性を供給するプロセスである。●33したがって、権力作用の実態を検証してきたわたしたちの次の課題は、このディスコミュニケーションがいかなるプロセスであるかを鮮明にすることである。</p><h4 style="text-align: left;">歪められたコミュニケーション</h4><p>信頼できるディスコミュニケーションの理論はまだない。そこでここではクラウス・ミューラーの「歪められたコミュニケーション」(distorted communication)についての研究を参考にして議論を進めていきたい。●34</p><p>かれは「歪められたコミュニケーション」として三つのタイプを提示する。第一に、強制指導型コミュニケーション(directed communication)。これは「言語やコミュニケーションの内容を規定しようとする政府の政策から生まれてくる」コミュニケーションのことである。●35国語辞典まで改訂した、かつてのファシズムや社会主義の国家に見られた、露骨な政治的干渉による統制がこれにあたる。ジョージ・オーウェルのSF『一九八四年』に登場する有名な「ニュースピーク」はこれを皮肉ったものだ。</p><p>第二に、環境制約型コミュニケーション(arrested communication)。これは「個人や集団の政治的コミュニケーションに携わる能力が制約されている場合のコミュニケーション」である。●36言語は、自分たちがおかれている環境を解読する能力を規定する。したがって、言語能力が限定されたものであると──これを「限定コード」という──人びとは自分たちの環境を的確に認識し利害を表明できなくなり、結果的に現状維持的で保守的な権力支持層になりやすい。●37</p><p>第三に、管理抑制型コミュニケーション(constrained communication)。これは「自分たちの利益を優先させようとして、私的集団や政府機関が、公的コミュニケーションに手を加えたり、制限を加えたりすることができた場合のコミュニケーション」である。●38政府や企業がしばしばおこなう情報操作や情報非公開がこれにあたる。また、権力の正当性にかかわる重要な問題を表面にださないために、別の問題をキャンペーンするという方法も使われる。このような巧妙な操作によって人びとの知識が限定されると、日常生活とは関連がないと思われるような──じっさいには見えにくいだけでめぐりめぐって自分たちの生活に影響があるにもかかわらず──政府の行為に対して人びとは評価をためらい、 結果的に政治的コミュニケーションに参加することをやめてしまう。●39棄権はその典型例である。</p><p>ミューラーの三類型は本書序論で「権力のことば」「消費のことば」として問題化しておいたことにほぼ相当する。本書の始発点は「歪められたコミュニケーション」にわたしたちはおかれているということだったのである。</p><h4 style="text-align: left;">現代日本の言語状況</h4><p>日本の場合、ミューラーのいう「歪められたコミュニケーション」はどのように存在するのだろうか。もう少し具体的に踏み込んでおきたい。</p><p>PKO以前のものであるが、日本の軍事化についての外国人研究者による興味深い研究がある。平和研究(peace research)の研究者グレン・フックは、世論調査の分析を踏まえた上で次のような疑問を立てた。「日本国民の多くは、原理のレベルでは、今なお反軍事化を保持しているのに、なぜ具体的な政策にかんしては軍事化反対の態度を明確に示さないのであろうか。さらに、多くの人びとが反軍事化であるにもかかわらず、反軍事化の運動が現在の日本社会では活発にならないのは、なぜであろうか。」●40その要因のひとつとしてフックは、軍事化を容認させる言語の役割に注目する。</p><p>たとえば本来は「死亡保険」と呼ばれるべきものを「生命保険」と呼ぶように、あるいは「有害作用」を「副作用」と呼ぶように、「聞き手が不愉快なことや怖ろしい事実を正確に把握することを防ぐ」ためにしばしば「婉曲的表現」(euphemism)が使われる。●41「軍隊」を「自衛隊」と呼び、「戦車」を「特車」と呼び、「侵略」を「進出」と言い換えるのがそれである。また「隠喩」(metaphor)もしばしば政治的に用いられる。一九八一年に訪米中の鈴木首相が発言した「ハリネズミ」、一九八三年に中曽根首相が訪米中に使った「不沈空母」、これがかえって反発を招いたために代わって使われるようになった「保険料」(防衛費のこと)などが挙げられる。古くは「核アレルギー」という隠喩もある。これは朝日新聞が最初に使ったものだが、一九六七年から翌年にかけて盛んに議論され政治的に利用された。とくに当時の佐藤首相は「正しい理解を持つならば、いわゆる核アレルギーにはならない」として、いわば医者が患者を治療するイメージに議論を置き換えた。このメタファーを使用することによって、「異常」なのは核兵器の存在ではなく軍事化反対者の方であること──そしてかれらは「治療」されなければならない──が静かに自明化されるのである。一種の「逸脱の医療化」である。</p><p>これが「権力のことば」の実態である。わたしたちはそれを使用することによって、意識しないうちに特定された政治的土俵に立たされるのだ。</p><p>ところで、フックの指摘する事例で、「進出」などは強制指導型コミュニケーションであろうし、「保険料」などは管理抑制型コミュニケーションに相当するといえそうだが、「環境制約型コミュニケーション」はどうだろうか。この文脈で問題となるのは、社会化のエージェント(担い手)である家族や階層そして学校やマス・メディアである。これらが人びとの言語能力を限定するわけだが、これらのうち学校つまり教育とマス・メディアについて分け入って概観してみよう。</p><h4 style="text-align: left;">検定済みの知識</h4><p>ミューラーが「環境制約型コミュニケーション」として取り上げていた社会化の問題としてまず教育について指摘しておきたい。とりわけ初等中等教育の問題である。</p><p>日本の教育は「文部省教育」といわれてきた。教育のすべてが文部省によってコントロールされていると考えるのは実態とあわないが、歴史教科書検定の話などを思い浮かべると、相当な政治的配慮がなされてきたと考えてよい。社会学系でも、かつて「高校現代社会」の教科書検定において社会学者の執筆した水俣病の記述などが「問題」とされたことがある。</p><p>このような目立つ側面だけでなく、もっと基本的なところに目を向ければ、現実の教育において提供される知識の傾向に着目すべきだろう。その傾向を一括すれば、第一章で説明した「技術的知識」中心ということができる。それは「客観的」というわかりやすい性質をもっているために、受け入れられやすく、「偏向」と指弾されるリスクもなく、教師の質に左右されにくく、評価もしやすい。もちろん個々の教育現場において並々ならぬ努力がおこなわれているにしても、また、教育理念に「豊かな人間性形成」「自分で考える力をつける」といったことが挙げられているとしても、結果として教育現場を支配している知識はまぎれもなく検定済みの「技術的知識」なのである。</p><p>この傾向にさらに輪をかけているのが受験である。出題者側の事情として「公正」かつ「迅速処理採点」可能な問題でなければならない。だれもが正解可能で、だれもが採点可能な問題。それは検定済みの技術的知識である。受験生の生き方や思想を試すことは、よほどのコストを覚悟しなければならない。これに受験者側が過剰適応する。受験勉強とは、検定済みの知識だけを選択的に学ぶことである。受験に関係のない科目は「捨て科目」として早期のうちにいともかんたんに捨てられる。おそらく少数科目入試の傾向はこれを増幅するだろう。また、検定されていない生々しい同時代のできごとや自分を問うような問題は「試験にでない」として無視されてしまう。「自分の頭で考えてみよう」といったことがらも同様の帰結を踏む。この文脈では塾や予備校が、実態を知らない論者の批判対象になりがちだが、塾や予備校それ自体が問題というよりも、じっさいには受験生の救済制度となっている場合の方が多い。問題なのは受験という社会的文脈のなかで受験生がとらざるをえないこのような選択の方である。</p><p>たとえば、コミュニケーションのあり方を問い、その基本技術を磨く科目である「国語」においても、とうてい現代を生きる上で不可欠とは思えない古典の解釈が重要視されてきた。「現代文」(現代国語)でさえも、たとえば清水義範の短編小説「国語入試問題必勝法」が的確に描写しているように、職人的なまでに技巧的な技術的知識の問題に変換されてしまう。●42</p><p>こうした教育環境における「勉強」は、学ばれる知識が「自分を問う」ことがないだけに、「勉強」することによって、かえって自分の社会生活や生き方をブラックボックスにしてしまい、反省的回路を断ち切ることになりがちである。結果的にこのような教育環境は、政治的に漂白された知識だけが広く流通するのを助けている。しかしそれはじつに「政治的」なことなのだ。</p><p>検定済みの知識は反省の重圧から解放する。反省を突きつけない。しかし、考えてみれば、同時代の社会について考えたり判断したりするということは、「検定済み」でない領域でこそ必要な能力ではないだろうか。そもそも社会について考えるということは痛みをともなうことだ。死刑囚の人権について考えれば被害者の家族はおこる。公害企業について考えれば企業内の人びとやその家族が傷つく。しかし、だからといって、放置すれば被害者は傷つく。およそ社会的現実とはこのようなものであって、利害調整がうまくいくとはかぎらない。むしろ闘争的・対立的なもの。そこが自然現象や数学について考えるのとちがうところだ。したがって、たいせつなのは傍観者ではなく当事者として自分を社会に位置づける反省能力であるはずだが……。</p><h4 style="text-align: left;">マス・メディアの複合影響説</h4><p>初等中等教育を終えた成人に対する教育機能を果たしているのは、都市部においては事実上マス・メディアである。マス・メディアは、基礎的な教育課程を終えたわたしたちの知識のありように重要なかかわりをもつ。わたしたちはマス・メディアによって供給される知識をもとに態度を決めることが多い。たとえば商品を選ぶとき、たとえば会社を選ぶとき、政治家を選ぶとき……。だから「歪められたコミュニケーション」というとき、マス・コミュニケーションについてふれないわけにはいかない。</p><p>ところが、じっさいには、「マス・メディアの絶大な影響力──しかもしばしば操作的に歪められている」というテーゼは必ずしも自明ではない。</p><p>マス・コミュニケーション論では、一般の人が考えているような素朴な強力効果説は基本的に否定されている。たとえすべてのマス・メディアが「右向け、右」を連呼したとしても、受け手になにがしかの「右を向きたい」という気持ち(これを「先有傾向」という)がなければ受け手は右を向かない。したがって「マス・メディアの影響力は意外に小さく限定的である」という限定効果説が長らくマス・コミュニケーション論の主流だった。限定効果説は、それ以前の強力効果説が受け手の無批判性(要するに「愚かな大衆」のイメージ)を前提としていたことを否定し、受け手の能動性と自律性を再発見していたのだ。●43</p><p>ところが一九七〇年前後から変化が生じてきた。「やはり大きいぞ」というのである。これは一般に「新・強力効果説」といわれている。●44ただし限定効果説が否定されて元の強力効果説へ戻ったわけではなく、あくまでも限定効果説の受け手像の上に立って「それでも強力だ」というところにポイントがあることと、「強力」といっても必ずしもメディアの思惑通りに受け手が動かされるわけではないので、わたしは「複合影響説」と総称すべきだと考えている。当然そこには「頑固な受け手」をも屈してしまう複雑かつ巧妙な社会的トリックが存在する。</p><p>そのようなトリックとして考えられているのが「議題設定機能」「沈黙のらせん」「培養効果」である。●45</p><p>「議題設定機能」(agenda-setting function)とは、マス・メディアが「今なにが問題なのか」という争点=議題を設定することについては強力な影響力をもつということである。「どう考えるべきか」ではなくて「なにを考えるべきか」に関しては現在のマス・メディアは相当に強力であるというのだ。たとえばPKOについて各メディアがそれぞれの立場で報道し議論する。ある新聞はイエスと主張し、あるニュース番組はノーと主張する。「どう考えるべきか」はさまざまである。しかし、いずれにせよ「今はPKOについて考えるべきだ」という点では共通しているわけであり、結果的に受け手はその議論の土俵そのものを主体的な選択の余地なく受け入れてしまうというのだ。これを一般化すると、マス・メディアの強調の大小が人びとに問題の重要性を認知させるという強力な影響力があることになる。</p><p>「沈黙のらせん」(spiral of silence)もその過程はやや込み入っている。これは世論形成についての影響である。世論のもとになるのは個人の意見である。しかし、人びとは自分の意見をストレートに表現はしない。まず自分の意見が多数派か少数派かを確認するのである。自分の意見が少数派・劣勢意見であれば、孤立を避けるために意見表明は控えられ、逆に多数派・優勢意見であれば、積極的に表明される。では世論の場合、人びとは何を基準に多数派か少数派かを判断するのか。その基準となるのがマス・メディアなのである。さまざまなマス・メディアが特定の意見を多数派・優勢意見として提示することによって、反対意見は表明されにくくなり(沈黙)、そのため反対意見はますます少数派として認知されることになる。その結果、多数派はますます多数に、少数派はますます少数に見えるようになる。つまり世論の環境をマス・メディアがよってたかって固めてしまうのだ。そのため受け手の議論の範囲が事実上限定されてしまう。「天皇報道」や「湾岸戦争報道」のように「総ジャーナリズム状況」とか「パック・ジャーナリズム」といわれる集中豪雨的取材報道がなされるとき作用しているのがこの「沈黙のらせん」であり、そのとき「はだかの王様」を「はだかだ!」と名指すことが極度に困難な環境になってしまう。</p><p>これを時間軸に見たのが「培養効果」(cultivation effect)である。たとえば、どのテレビドラマでも登場する老人像が片寄っていることが多い。「がんこで融通の利かない老人」のイメージである。そのため長時間テレビドラマを視聴しつづけた受け手で、直接さまざまな老人と接するチャンスのない人は、このような老人像によって現実を捉える傾向が、テレビドラマをあまり見ない人にくらべて強くなるのである。このようにマス・メディアは長期的かつ累積的かつ非意図的に人びとに行動の基準や価値観を「培養」するのである。</p><p>受け手の自律的な反省的コミュニケーションが困難になっている。しかも、それは個々の送り手サイドも意図していない──つまり送り手さえもコントロールできない──形で生じているのだ。マス・コミュニケーションをもふくんだわたしたちのコミュニケーション総体のありようを見直すことが格別に必要なのはこのためである。</p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-79742287839353116182022-01-17T16:04:00.003+09:002022-01-17T16:06:20.829+09:00『リフレクション』第四章 権力作用論の視圏(1)権力作用の複雑性<p>野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第四章 権力作用論の視圏──反省を抑圧するコミュニケーション</p><p>一 権力作用の複雑性</p><h4 style="text-align: left;">反省抑圧への抵抗として社会学的反省</h4><p>社会学を学び始めた人が遅かれ早かれ直面する問題は「社会学は自分にとって敵か味方か、よくわからない」というものだ。というのは、社会学はしばしば自分たちのやっていることや知っていることの問題点を列挙して批判する。かと思うと、自分たちのことを微に入り細に入り非常によく理解してくれている記述に出会うことも多い。いずれにせよ自分たちに対して何かをいっているわけで「敵か味方か、いったいどっちなんだ」というわけである。</p><p>じっさい、人びとの知識に対して社会学は両義的(相反する意味を同時にもつこと)である。一方で、社会学は人びとの知識を最大限重視する。社会の人びとが共有している常識的知識に基づいて人びとが行為することによって具体的に社会的現実が構成されると考えるからだ。だから社会学者は、一般の人びとの知識にある「実践的な理論」の理解に努め、一般の人びとの先行的理解──つまり人びとが何を考えているか、何を前提しているか──を重視する。前章で論じた役割現象の研究はその典型例であるが、「人びとがそれをどう考えるか」が決定的に重要なのである。しかし他方で、人びとが頼りにしている知識の集積──そのなかには当然さまざまな専門的知識が含まれている──は、自明化され盲信されている場合が多く、冷静に距離をおいて観察し分析すればわかるように、しばしば物象化されている。また、ミクロな生活場面では有効であっても、マクロ場面になると、どうしても知識の拡張が必要になってくる。それゆえ、社会学は人びとの知識に対して批判的に介入しようとする。それは「人びとがそれをどう考えるか」が決定的に重要だと考えるゆえに介入するのである。この場合、常識的知識を異化する鏡の役割を社会学は引き受けることになる。</p><p>要するに、社会学と常識的知識とは相互学習する関係にあると考えておけばよい。常識的知識がじっさいに社会的現実を構成する重要な条件となる。だからこそ、社会学は常識的知識を研究し、その問題点を科学的に研究したのちに常識的知識に介入しようとする。人びとの知識に介入して人びとの反省能力を高めることによって、社会学的知識は循環して「知識事実としての社会」の構成要素となり、それによって、行為者の主体的選択の幅を広げ、自律性の領域を拡大しようとする。</p><p>では、なぜ常識的知識を異化する必要があるのか。人びとがもっている常識的知識にはそれなりの根拠と有効性があるのだから、何も外からかきまわすことはないのではないか。それは専門家としての社会学者たちの傲慢ではないのか。このような疑問に対して、わたしはこれまでそれを物象化という概括的な概念を用いて説明してきた。この物象化がほころびを見せるのは、非日常的な問題状況のときだけである。それを見るのはたまたま問題状況の内部にいる者だけだ。たとえばスモン患者のケースのように被害者の立場になってようやく全体が見えてくるのである。この章では、そのような物象化の帰結についてさらにつっこんで説明することで、以上のような疑問に答えたいと思う。</p><p>さて、ギデンスのことばを借りると「社会の生産ないし構成は、その成員による熟達した達成であるが、成員によって完全に意図されたり、あるいは完全に了解された状態のもとでおこなわれる達成ではない。」●1つまり、わたしたちは知識と能力をもった有能な主体として社会に参加し、おたがいに影響しあいながらも、自分の思いを込めて行為する(あるいは行為したのちにそれを意味づける)。その行為の流れや積み重ねの複合によって社会的現実がつくりだされる。しかし、その行為によって結果的につくりだされた社会的現実が、当事者たちの思惑通りになるとはかぎらないし、また当事者がその社会的事実を的確に理解しているともかぎらない。あるいはその社会的現実に事実上関与している当事者であるとさえ自覚していないことも大いにありうる。社会学ではこのような事態を「有意味行為の意図せざる結果」と呼ぶ。善良な人びとが善かれと思ってやっていることや、私生活を犠牲にしてまで全うしている職務によって、思いがけない悲劇が生じることがあるものだが、じつはこれが社会のノーマルなあり方なのである。</p><p>だから社会学にとっては、社会的世界のなかで生活している人びとがその社会的世界をどのように考えているかを明らかにするだけでなく、人びとのじっさいの行為がおよぼす予期せぬ影響や、行為者自身が意識していないような行為の決定条件を明らかにすることが重要な課題になる。それによって人びとが自分たちの行為の現実の意味を反省的に認識することを可能にするためである。</p><p>しかし、これはいうほどかんたんではない。なぜなら反省的認識を妨げる働きが社会の内部にあるからだ。おそらくこれが「社会学者あるいは社会的に醒めた者」(ゴッフマン)にとっての仮想敵である。社会に対する社会学的反省の思想的意義もここにある。マルクス主義やフロイト主義を連想させる「抑圧」ということばを安易に使うのは理論構成上のリスクを負うことになるが、かりにそれを使って表現すると、社会学的反省は反省抑圧への抵抗である。そしてその抑圧の力を「権力作用」というのである。</p><h4 style="text-align: left;">権力作用とは何か</h4><p>そもそも権力という概念は、国家権力とそれに類するものに適用されるのがふつうである。しかし、正統派の政治学やマルクス主義とちがい、現代社会学は権力を国家権力に限定しない。ゼロ-サム概念としての権力(一方に百パーセントの権力をもつ階級があり他方にまったく権力をもたない人びとがいるといった権力観)でもない。しかも、ミシェル・フーコーが斬新な権力論を展開して以降は、権力をネガティヴな現象と決めつけないで、むしろポジティヴな側面に着目する議論さえでてきている。●2</p><p>この章では、それらの議論のなかから、網の目のように広がった非対称的関係としての権力に着目して考察しようと思う。それは、従来的な権力概念や「狭い意味での権力概念」●3から区別するために「権力作用」と呼ばれている。</p><p>この概念を採用する根拠は、現代社会においてはもはや「権力の向こう側とこちら側」という見方が妥当性をもたなくなりつつあることにある。つまり、「向こう側」に権力を行使できる人びとがいて、権力を行使できない「こちら側」を一方的に苦しめる──こういった構図がもはや成り立たなくなっているのである。この従来的な見方は、切実な現実を批判的に取り上げアピールするにはつごうのよい便法ではあるが、複雑化した現代の権力状況を捉えるにはあまりに単純すぎる。</p><p>たとえばジャーナリストが庶民の立場から公害問題を告発する場合を考えてみよう。告発は結果的に庶民の利益になると想定される。自分たちは庶民の味方であると想定し、同時に庶民は告発の(いまだ啓蒙されざるゆえに)潜在的な味方であると想定される。しかし、その場合の「庶民」とは「権力をもたない一般大衆」という素朴な定義において捉えられているにすぎない。しかし「庶民」とひとつに括られた人びとに共通の利害が存在するといえるだろうか。むしろさまざまな利害に分裂しているのがふつうではないのか。たんに「権力をもつ者」の権力行使に対して受動的であるというだけで「ひとつの主体」とみることはできない。それは「権力側」とされた人びとにもいえることである。●4</p><p>「権力側」の人びとを断罪するという権力批判の伝統的流儀は、単純であるだけでなく、複雑な現実を単純化してすませてしまうことによって、すべての責任を「権力をもつ者」の側に転嫁してしまいがちである。たしかに運動の活力をそれは生むけれども、同時に自分たちの反省を断ち切ることにもなりがちである。その点で罪深いものであることも認識しなければならない。主観的意図において正しいけれど、客観的結果として自己欺瞞を導く可能性さえあることをあえて指摘しておきたい。</p><h4 style="text-align: left;">受益圏と受苦圏</h4><p>権力批判の硬直した伝統的流儀がなぜ現代社会において破綻しているかについて、もう少しきちんと説明しておこう。端的に一括すると、それは現代の権力作用の複雑性による。それをかいま見せてくれる研究として船橋晴俊・梶田孝道らの研究チームによる「受益圏と受苦圏」の議論がある。●5</p><p>受益圏と受苦圏の概念は社会問題を研究するさいの理論的枠組みとして考案されたものである。「受益圏」とは、問題とされる組織の活動による利益を何らかの形で享受する人びと(さらに組織や地域や階層や世代や人種)であり、「受苦圏」とは、その組織の活動によって平安な生活環境が保持できなくなる人びとなどをさす。たとえば、工場が有害な廃液を川へたれ流すことによって、まわりに住んでいる人が悪臭に悩まされたり、健康を損じたりした場合、工場をもつ企業とその関係者が「受益圏」であり、まわりに住んでいる人びとは「受苦圏」にあたる。この場合「圏」とは、境界線がはっきりしていることをしめすことばであって、地域に特定されるわけではない。もちろん地域だけでなく階層・年齢・人種・民族などの属性によって受益圏と受苦圏が分離することもある。可視性が乏しいということはあるかもしれないが、おそらく性についてもいえるだろう。</p><p>この対概念を使うメリットは、両者の重なりと分離をはっきり捉えられるところにある。たとえば、廃液を流す工場の周辺住民は基本的に「受苦圏」であるが、そのなかには工場で働く人もいるし、下請けの仕事をしている人びともいる。また、そこで働く人びとのための商品やサービスによって糧を得ている人びとも多いはずである。つまり、その人たちは「受苦圏」に属しているとともに「受益圏」にも入っているわけだ。この領域の人びとは一種のジレンマに陥ることになる。他方、工場内で働く人びとは、その労働によって利益をえている点で受益圏であるが、有害物質を貧弱な対策の下でとりあつかわされているケースも多く受苦圏になっていることがあるかもしれない。</p><p>受益圏と受苦圏の範囲の重なりと分離は現代社会の場合じつに多様になっている。これこそ現代の社会問題を認識する上での最大の困難なのである。</p><p>たとえば、自動車の排ガスや騒音の問題において受苦圏の幹線道路周辺住民と受益圏の自動車業界の労働者のあいだにある溝は深いが、階級対立ではないし、後者の加害者意識は薄い。まして道路に排ガスと騒音を直接だしている自動車のドライバーに加害者意識はないのがふつうである。●6また、国鉄時代に名古屋で問題になった新幹線公害問題では、利用者(乗客)・国鉄・建設業界・メインテネンス業界・旅行業界・停車駅周辺の商工業界などが受益圏にあたり、建設のさいの立ち退きによって生活基盤の立て直しを迫られた人びとや開業後に騒音・振動・電波障害などの公害を被った人びとが受苦圏にあたる。●7</p><p>近年の社会問題とくに一九六〇年代の高度経済成長期以降における大規模開発問題では「拡大化した受益圏」と「局地化した受苦圏」の対立が基本構図になっていて、その分、一方では受益圏にある人びとの加害当事者意識が薄く、他方で受苦圏の人びとは孤立無援の状態のなかで不利益を一方的に被ることになりがちである。たとえばゴミ処理場建設問題のように受益圏と受苦圏がほぼ重なっている場合(重なり型紛争)は、問題への関心が人びとに高まり、受益の無限拡大に歯止めがかかりやすく、ゴミ減量や清掃工場の無公害化など反省的な動きが活性化しやすい。ところが、受益圏と受苦圏が分離している場合(分離型紛争)には、受益圏が一方的に受益を享受し、局地化した受苦圏が一方的に社会的損失を受けつづけることになり、しかも両者のあいだのコミュニケーションも困難になってしまうために、問題の解決がたいへんむずかしくなる。そして現代社会において国家規模の非常に広域な事業が多くなると、受益圏が拡散してしまって、受益圏にいる人びとが自らを加害者側に位置づけられず、問題に対してもっぱら傍観者的態度をとることになってしまう。●8</p><p>社会問題の多くは「テクノクラート・対・住民運動」の対立構図として現象するので、一見「国家権力・対・一般大衆」のように見えるけれども、その内実はこのように複雑化しているのである。このような事態は、「権力側」とは自分たちのことかもしれないという重要な知見を示唆する。わたしたちはそれを見ようとしていないだけなのかもしれない、と。</p><h4 style="text-align: left;">相互共犯性</h4><p>受益圏と受苦圏の区別を性に関して見ることもできる。つまり男性が受益圏を占め、女性が受苦圏を占める場合だ。もちろん逆のケースもありうるが、切迫度から見ておそらく問題ではなかろう。ただし「男らしさのジレンマ」といった問題もあることはたしかで、現実の方が旧来のフェミニズムの問題圏を超出していることも認めなければならない。●9それゆえ近年はこの種の議論を「ジェンダー論」と呼んでいる。「ジェンダー」(gender)とは社会的な性のことだ。ここには、性という属性に関して社会的に生じる区別は、生物学的な性の問題ではなく、社会的に定義された性の問題であるという基本認識が込められている。</p><p>「男は仕事、女は家庭」といったステレオタイプな性別役割分担は、ひところにくらべるとずいぶん様変わりした。しかし、一九九二年から九四年にかけての女子学生の就職難や、いわゆる「寝たきり老人」の家族介護者の九割が女性であることなどに典型的にあらわれているように、日本社会は本音のところで今なお古い性別役割分担に依存している。●10他方、働く女性の多くは「男は仕事、女は家庭と仕事」という「新・性別役割分担」に追い込まれている。男性の単一役割に対して女性は二重の役割と責任を負わされてしまう。その現実が「性差別」(sexism)として異議申し立てがなされ、女性(解放)運動が活発になる。しかし、問題はそのあとである。</p><p>江原由美子によると、性差別の告発のあとにくるのは、たとえば「男と女は差異があるか?」といった問いである。この問いは一見客観的に見える。けれども、なぜかこの問いは男性ではなくもっぱら女性の側に向けて発せられ、女性側が答えることを強要されてしまう。しかも、これは女性にとって「ある」とも「ない」とも答えられない種類のものである。というのは、「ある」といえば「だから女性と男性は平等に処遇できない」といわれるし、「ない」といえば「では女性は何でも男性と同様にできるはずだ」と判断されてしまうからだ。ジレンマを現出させる問いなのである。そしてこの問いをめぐって女性運動も内部で論争が絶えない状況に陥ってしまう。●11</p><p>江原は、この問題のたて方自体が抑圧的で構造的に歪められていると考える。異議を申し立てる者が否応なしに立たされる社会の構造論理がこの問いに集約して現象しているのだ、と。</p><p>それは次のような形でもあらわれる。栗原彬によると、反原発運動・ゴルフ場建設反対運動・反農薬運動・食品添加物追放運動のような、生命の安全を求める運動のなかでしばしば反対理由として「奇形が生まれる」「障害が発生しやすい」ということが「産む性」の立場から主張されるという。この現状についてかれは「しかし、その運動に障害児が加わっていれば、あなたは本当は生まれないほうがよかった、生まれてきてはいけない存在だったのだ、と親や仲間の市民たちから告げられたに等しい。このとき、心やさしい市民が障害児にとっては自分を排除する権力者になる、と言える」と指摘する。●12</p><p>障害者運動のなかでもこの種のジレンマはある。江原由美子は「差異」と「差別」について論じた注目すべき論考のなかで「重い障害者」と「軽い障害者」の対立を取り上げている。「軽い『障害者』は往々にして、自己の『障害』がほとんど日常生活に支障をきたさないのに、様々な『偏見』によって『差別』されていることに怒りを感じざるをえない。それゆえ、『差異の存在』自体を否定する論理にむかいがちである。他方、重い『障害者』はまさにその論理の中に自己の存在の『否定』を見出してしまう。『差異がないのに差別されている』と怒ることは、では、『差異があれば差別されていいのか』という後者の側からの問いかけを必ず生む。それゆえしばしば、軽い『障害者』と重い『障害者』の間の対立は『健常者』と『障害者』との間の対立以上に深刻になる。[中略]被差別者の側に分断をもたらし、相互の理解を不可能にさせてしまうものこそ、『差別の論理』なのである。」●13</p><p>このように、理不尽な不利益を一方的に被っている人びとが、異議申し立てしたり痛みを訴えることによって、かえって不利な立場に追い込まれてしまったり、結果的に自らを社会の逸脱者(「大人げない」「ムキになってる」「ことば狩りだ」といった非難を受ける者・社会的協調性のない者)にしてしまったり、共闘すべき仲間をも傷つけてしまったり、その運動を分裂させられたりしてしまう。逆に、一九九三年に日本てんかん協会の抗議をきっかけに断筆宣言したSF作家筒井康隆の場合のように、異議申し立てされた側が反省ではなくしばしば被害者意識をもち反批判しやすいのもおそらく同じ問題圏である。</p><p>何か「見えない構造論理」が社会に内在しているのである。江原はこれを「作用した痕跡を消す権力。すなわち行為者の自発的な行為を巻き込む権力。それは社会構造自体にはらまれた権力であり、特定の個人の意図には還元できない権力作用」と呼んでいる。●14</p><p>結局、権力作用とは、一見等質に見える「わたしたち」を内と外に引き裂く力である。「わたしたち」を〈むこう〉と〈こちら〉へ線引きする匿名の力である。そしてそれは社会に秩序を生み、そのなかに生きる多くの人びとに秩序への自発的服従を供給する。</p><p>これに対して、おそらく「わたしたちは共犯者であるかもしれない」という自覚から出発するのが現代社会の場合もっとも展開力のある認識になるのではなかろうか。これを「相互共犯性の立場」と呼んでおきたい。これは悪意をもった共犯者という意味ではなく、知らず知らずのうちに権力作用の媒体に自分たちがなってしまっているということを自覚する立場である。</p><p>狭い意味での政治的権力・国家権力に注目しているだけでは差別の問題を反省的に正しく理解できない。そこで権力作用に注目する。現代社会学の立場はおよそこのようなものだ。では、なぜこういう事態になるのか、わたしたちはなぜ共犯者の立場におかれてしまうのか、なぜそれに気づかないのか、その力に抵抗するのは無理なのか。こういった疑問に答えることが次の課題になる。しかし、その前に権力作用の実態と帰結をもう少し検証してみなければならない。</p><p><br /></p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0tag:blogger.com,1999:blog-2345898887628836916.post-53770280467802917422022-01-17T16:01:00.003+09:002022-01-17T16:01:21.397+09:00『リフレクション』第四章 権力作用論の視圏(2)排除現象──匿名の力<p>野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第四章 権力作用論の視圏──反省を抑圧するコミュニケーション</p><p>二 排除現象──匿名の力</p><h4 style="text-align: left;">さまざまな排除現象</h4><p>権力作用があきらかにはっきりと目に見える形で暴力的な実体をあらわすのは排除現象すなわち「スケープゴーティング」(scapegoating)である。一六〇〇年前後の一世紀にピークを迎えた、中世末期のキリスト教世界における魔女狩りなどはその代表的な歴史的事例であるが、これを「啓蒙されざる愚かな人びとの所業」などとあなどることはできない。二〇世紀にもこれ以上の大量排除現象が何度も生じている。ナチズムによるユダヤ人の大量虐殺(「ホロコースト」)、スターリン時代のソビエト連邦における「トロツキスト」「修正主義者」の排除(「粛正」)、 戦前の日本では関東大震災のさいの朝鮮人虐殺や戦時中の「国賊」「非国民」の排除、第二次世界大戦後のアメリカにおけるマッカーシズムの「アカ狩り」(レッドパージ)、ポルポト政権下のカンボジアにおけるベトナム人や知識層の大量殺人……。</p><p>いずれも政治的権力闘争や戦争や災害の存在が直接間接の背景になっているとはいえ、これらは敵国人との戦闘によってひきおこされた悲劇でないことに留意しなければならない。すべて「内なる敵」「内なる他者」に向けられた現象である。つまり、少し前まで同じ生活圏で暮らしていた人びとに排除の矛先が向けられたのである。なぜか。同じ社会・同じ集団にいる人間であるからこそ、社会や集団の内部矛盾が「内なる敵」に投影でき、かれらを排除することによって社会や集団の「浄化」が効果的に可能になるからだ。</p><p>スケールはちがうが、この点では教室におけるいじめも同じ構造をもっている。いじめも「いけにえをつくり出すことで集団的にまとまり、その中で安心し、さらにいけにえにすべての欠陥を転嫁(投影)することで自らを浄化しようとする"儀式"」だからである。●15ここにもスケープゴーティングの構造が存在する。</p><p>企業社会も同様の構造をもっている。日本の場合、高度経済成長期に入るあたりからテーラー・システムあるいはインダストリアル・エンジニアリングが大企業に導入された。それによって労働の単純化と職場集団の崩壊が生じた。労働者のアトム化である。これに相即して能力主義的競争をそそる労務管理が徹底され、人事考課と査定の圧力もあって、日本の労働者は「自発的に」会社側の要請に同調するようになる。いわゆる会社人間である。このような会社人間への傾斜が職場の雰囲気を強く規定している場合は、結果的に、そう考えない人を異端として排除することになってしまう。●16</p><p>労働問題の専門家である熊沢誠は、企業のなかで問題となるケースとして次のリストを掲げている。●17</p><p>(1)いまの仕事の範囲や負担がふえること、新しい仕事を覚えることなどを嫌う</p><p>(2)果たすべきノルマが残っているのに「私生活大事」のため残業や休日出勤を拒む</p><p>(3)QC活動などの「改善」活動に熱心でない</p><p>(4)「個人的な理由」から配転、応援、赴任などの人事異動に応じない</p><p>(5)安全や働きぶりなどに関する職場の慣行に無条件には従わない</p><p>(6)職場のなかまとの仕事外のつきあいを大切にしない</p><p>(7)職場の慣行に従うよりは、憲法や労働法にもとづく市民・労働者の権利に固執する</p><p>(8)企業と協調関係にある労働組合の活動に批判的である</p><p>(9)会社の製品のもつ社会的意義に疑問をもつ。公害や欠陥商品など「企業悪」の内部告発を試みる……</p><p>これらが該当すると見なされた従業員は、さまざまな不利な待遇を受け、さらに「職場の同僚に迷惑をかけた」と見なされると差別待遇の対象となり、職場からの自発的退職を引きだそうと「職場八分」が展開される。こうなると、社内に助けを求めるのは完全に不可能になる。もちろん企業内組合も「八分」にする側である。●18仕事への無限定的なかかわりを要求され、しかもそれが「自発的な」ものでなければならない。日本の労働現場の多くが、これを規律化した社会的空間となってしまっている。</p><p>こうした背景にあるものを間庭充幸は「同調競争」と呼ぶ。「普通同調と競争が結びつくというときは、同調すべき目的(金銭、地位、あるいは天皇への忠誠、何でもよい)があって同調し、さらにその目的に早く近づくために競争する。それはまさに目的内容を介しての同調的競争、競争的同調である。しかしそれがある限界を超えると、かんじんな目的が脱落してしまい、同調という行為(多数者)自体への同調や競争が発生する。ある目的に向かっての同調や競争とは別に、皆がある目的に志向すること自体が価値を帯び、それへの同調と競争が新たに生まれる。」●19</p><p>権力作用は同調を呼び起こし集団の統合と秩序をもたらす。しかし「若干」の暴力的排除をともなうことによって。そして、その「若干」の視点から見てはじめて、権力作用が本質的に「構造的暴力」(structural violence)であることが認識できるのである。●20</p><h4 style="text-align: left;">いじめの四層構造</h4><p>まったく規模の異なるこれらの社会現象を「排除現象」としてその同型性にあえて注目することは、いささか奇異に思われるかもしれない。しかし、権力作用とはそれらを貫通する構造論理であり、「ホロコースト」や「粛正」は過去の遠い国のできごとではなく、わたしたちの身近な生活の場に宿っていることを強調しておきたい。ちなみに、一見異質なさまざまな現象に同型性を発見するというこの手法こそ、かつてジンメルが「形式社会学」と呼んだものであるとわたしは考えている。それはアカデミックな分類法ではなく、むしろかなり過激な知的戦略であると思う。</p><p>さて、そこで排除現象のしくみについて考えるために、排除の原型をしめす構造モデルとして学校内のいじめについて検証してみよう。</p><p>現代のいじめは、大人たちが子ども時代に経験し、また現在想像できるものとはかなり異なっていて、複雑な様相を呈している。いじめの実態調査をした森田洋司によると、いじめの場面において学級集団は「加害者」「被害者」「観衆」「傍観者」という四層構造をなすという。いうまでもなく「加害者」はいじめっ子であり、「被害者」はいじめられっ子である。「観衆」とはいじめをはやしたておもしろがって見ている子であり、「傍観者」とは見て見ぬふりをしている子である。いじめの過程で重要な役割を果たすのは、じつは「観衆」と「傍観者」の反作用(反応)である。かれらが否定的な反応を示せば「加害者」はクラスから浮き上がり結果的にいじめへの抑止力になるが、逆に「観衆」がおもしろがったり「傍観者」が黙認するといじめは助長される。ほかに「仲裁者」という役割も存在するが、いじめの場面では極端に減少し、クラスは「四層化」されている場合が多いという。●21</p><p>さらにかれらの行動の基盤になる価値意識を調査してみると、かなりはっきりした傾向が存在するという。まず、学級集団の中心的価値に対して肯定的か否定的か、教師や生徒間の影響力に対して自立的か服従的か、このふたつの座標軸をクロスさせてえられる四象限を考えてみる。ここに四つの役割を位置づけてみると、「被害者」はふたつの象限にわかれている。ひとつは、学級の中心的価値への志向が強く、しかも力に対して服従的な「集団的統制管理受容型」(弱い子)である。権威や集団統制に従順な態度をもつことがかれらの弱さになっている。もし拒否的な態度をもっていれば対抗することも可能なはずである。もうひとつの象限は、学級の中心的価値への志向がなく、しかも力に対して服従的な「集団価値からの疎外型」(はみだしっ子)である。「いじめっ子」グループとの関係を断ち切れず──したがって「加害者」になることもあるが──追いつめられていく子がこのタイプである。それに対して「加害者」と「観衆」は「被害者」の対極の同じひとつの象限に属している。学級の中心的価値への志向がなく、しかも力から自立的な「集団的統制管理否定型」(強い子)である。かれらは自己中心的な欲求の満足を志向する傾向が強い。残りの一象限に「傍観者」がいる。学級の中心的価値への志向があり、しかも力から自立的な「集団価値への没入型」(よい子)である。じつは「仲裁者」もこの象限にいるが、かれらはより積極的でたくましさをもっているが、これに対して「傍観者」の子どもたちは「学級活動へはコミットしながらも『加害者』の意識と親和性を示すことによって『加害者』『観衆』の行動の意識基盤を暗黙のうちに支持し、傍観者としての身の安全を確保している。」このグループの特徴は大学進学を希望する者が多く成績もよいことである。●22</p><p>森田らの調査によると、いじめの被害の大きさは「加害者」の数とは相関性がないという。いじめ被害の増大と相関するのはじつは「傍観者」の数である。「傍観者」が多くなるほど被害が多くなる。そして学年が上がるほど「傍観者」の数は多くなる。ここに現代型いじめの大きな特徴がある。●23</p><p>多くの排除現象の場合、わたしたちは「傍観者」であるか「観客」である。自分が直接の被害者にならないかぎり、けっして公共的問題に関与しようとせず、ひたすら私生活に引きこもる。現代の排除現象をしばしば悲劇的なものにしているのは、この傍観者的態度である。さきほど「相互共犯性」として述べたことは、たんに道義的に共犯だというのではなく、現実に排除現象の重要な要因になっているという厳密な意味で共犯なのである。そしてこれも「わたしたちが社会をつくる」ことのひとつの局面である。</p><h4 style="text-align: left;">逸脱の医療化</h4><p>排除現象は、事後的に見れば、あるいは外部から距離をとって見れば、それがいかに異常で感情的な悲劇であるかということがわかるけれども、内側からそれを的確に認識し、市民として冷静な判断を下すのは困難である場合が多い。すでに述べたように、排除されている側が異議申し立てしても、かえってそれを無効化する動きを活性化させるだけである。権力作用とはそのようなものなのである。</p><p>異議申し立てを無効化し、排除を正当化する論理として、現代社会において重要な機能を果たしているのが「逸脱の医療化」(medicalization of deviance)である。「逸脱」とは「ふつうでないこと」「異常なこと」である。犯罪・非行・狂気・性的倒錯・極端な性格・極度の貧困・かたくなな宗教的信念などをさす。といっても「もともとこれは逸脱、あれはふつう」と決めつけることはできない。そのときその場所その社会で人びとが「ふつうでない」と非難するふるまいが「逸脱」である。他方「医療化」とは、これらの逸脱が一種の「病気」であると見なし、社会が──具体的には医療専門職が──「治療」しなければならないと考える傾向をいう。医療の視点から見ると、治療対象の拡大を意味する。</p><p>人間の歴史において逸脱はさまざまな隠喩図式によって表象されてきた。徳岡秀雄によると、古代においては「体液もしくは聖霊にとり憑かれた」とされ、中世前期では「鬼神にとり憑かれた」とされ、中世後期は「悪魔のいけにえ」、ルネサンス期は「悪魔との提携」、後期ルネサンスでは「サタンの具現化」、ルネサンス以降は「神に呪われた」そして近代は「医療」のメタファーが使用され、烙印と監禁の処遇があたえられてきたという。●24</p><p>このように「医療化」は、今日の権力作用の重要な正当化装置になっている。とりわけ精神医学は現代社会の公認イデオロギー装置として機能しており、複雑であるがゆえに不可解な逸脱がすべて「精神の病」として解釈されて、排除する側の人びとを免責する。たしかに医療化は「病気だから本人の責任を免除する」という人道上の配慮や、犯罪者の刑罰を軽くする便法として展開してきたのも事実である。しかしその反面、本人の主体的判断や意思が無視され、相当の強制力が本人の生活と人格に作用する。しかもその強制力は「本人のために」働くのであって、周囲の人びとの善意や職業的倫理によって実行されるのである。</p><h4 style="text-align: left;">〈消費の論理〉と〈排除の論理〉</h4><p>最後にもうひとつ、排除現象の社会的促進要因を指摘しておきたい。</p><p>現代社会は消費社会とも呼ばれる。消費社会とは〈消費の論理〉が〈生産の論理〉を主導する社会のことである。ときに大衆消費社会とも呼ばれるように、企業よりも消費者である大衆が主役の社会である。それゆえ〈消費の論理〉は一見平等に見える。しかし、これは意外な感じがするかもしれないが、〈消費の論理〉にはその論理的帰結として〈排除の論理〉が裏面に存在する。</p><p>そもそも消費社会は「差異化の論理」によって動いている。生産者側では他のライバル商品とちがう要素が付加され、流通の過程でその差異が過剰に強調される。広告業界でいう「差別化」である。一方、消費者側でも商品の微妙な差異を読みとる能力と感性が尊重される。それがないと的確な消費ができないからである。的確な消費によって現代人は自分を微調整する。つまり商品をめぐってさまざまな立場の人びとが「差異化の論理」を機軸に動いているのである。差異化とは「とはちがう」ことを主張することだ。だから「あれはダサイ、こっちがオシャレ」といったぐあいに「何がちがうのか」「何とちがうのか」を設定せざるをえない。うつろいやすく説明しにくい微妙な差異を直観的に説明するには「ああいうのじゃなくて」と否定的に説明するしかない。つまり排除項の設定が不可欠なのである。こうして消費社会は排除の論理を内部に組み込む。</p><p>それは具体的には、センスのよしあしであったり、身体の美醜であったり、年齢の高低であったり、趣味の品格であったりするが、それらの差異によって、一方が他方を排除する関係が社会の隅々にまで重層的に設定される。このなかである属性だけがすべての差異化のコードにおいて排除されることはないにせよ、それでも「社会福祉対象者」や「ひとり暮らしの老人」や「知的障害者」のように、商品を売る側から見てマーケットの小さい属性は、肯定的な意味づけをされることが極端に少なくなってしまいがちである。そして売る側から見てマーケットの大きい属性──たとえば「若くて行動的でよく遊ぶ」学生・会社員・中間層の文化的価値ばかりが肯定的にあつかわれるなかで、それらは無言のうちに排除項化(かやの外)されてしまうのである。</p><h4 style="text-align: left;">自発的服従の視点</h4><p>権力作用とそれに付随する排除現象は、なぜわたしたちの社会に生じるのか。ここで「わたしたち人間のなかには本能として権力欲と加虐性があるからだ」といったたぐいの短絡的な心理学主義に陥ってしまうとリフレクションにはならない。それは「では、なぜ権力欲や加虐性が生まれるのか」に答えていないからだ。それはむしろ結果である。結果を原因と取りちがえてしまう物象化のワナがここにも待ち受けている。注意を払いながら進まなければならない。</p><p>排除は残念なことに社会の「正常な」現象である。とりたてて高度な理念による意識的な介入をしないかぎり必ず起こるという意味で「正常な」現象である。デュルケムの「犯罪は正常な社会現象である」というテーゼがかつて物議をかもしたように、このようないい方をするとたちどころに非難の声が上がりそうだが、現実を直視すればこういわざるをえない。しかし「正常」と認識することと、その事態の悲劇的な帰結を肯定することとはちがう。●25</p><p>「正常」と認識することの第一の理論的意義は、わたしたちが権力作用から解放されることはありえないというシリアスな認識をもつことにある。現実科学としての社会学は、抑圧から解放された世界があるというロマン主義的幻想とは無縁の地点から出発する。権力作用は──したがって排除現象は──社会の存立にとっても、わたしたちの生存にとっても、基本的には不可避である。第二の理論的意義は、不可避であるがゆえに自己点検を絶やさない姿勢で臨む必要があるということである。政権交代や革命で抜本的に解放されることなどありえないのだ。</p><p>さて、これまで検証してきたように、排除という構造的暴力を内部に宿す権力作用を生みだしているのはわたしたち自身である。この場合、わたしたちの行為は権力作用に対して「自発的服従」という性格を帯びる。「自発的服従」という古典的概念は、ゲオルク・ジンメルによって再発見され、マックス・ウェーバーによって定式化されたものだ。●26ここでは「この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、かれが王だから自分たちは臣下なのだとおもうのである」●27というマルクスのことばに立ち返ろう。このことばが示唆する論点は、王権は人びとに押し上げられて王権となるという逆説的なメカニズムである。宗教現象の始発点にある「カリスマ」も、一群の帰依する人びとによって担ぎ上げられて「カリスマ」になる。これらは「上方排除」である。それに対して本節でこれまで検証してきた暴力的な排除現象や差別は「下方排除」である。排除の方向が上か下かの差であって、メカニズムは基本的に同じである。</p><p>自発的服従という概念は上方排除についてはいえるが、下方排除についてはふさわしくないように見える。けれども、先述の教室のいじめや職場での差別待遇などの実態からもわかるように、教室の秩序や職場の秩序への自発的な同調がもっとも重要な要因になっており、この場合でも服従ということばは当てはまる。権力作用について考察するさいに重要なことは、「支配する」「統治する」という観点から見るのでなく、「自発的に服従する」観点から見ること、権力の送り手ではなく受け手(支え手)の視点から見ることが必要である。つまり、上からの「圧力」ではなく、自ら進んで禁止する、下からの「自主規制」として。</p><p>ミシェル・フーコーの「権力は遍在する」「権力は下からくる」「権力の司令塔を求めるのはやめよう」という有名だが一見奇妙な提言は、おそらくこのようなことを主張しているのだ。「資本の陰謀」といったように何か強力な統制機関が操作しているかのように見えるのも、ひとつの物象化的錯視である。フーコーが権力を「意図的であるが、非主体的」というのもこういうことであろうし、「抵抗や闘争も権力の内部要素」という考えもこの文脈で理解できる。●28</p><p>こうなると、権力作用を批判することは、もはや「権力者が悪い、悪いやつらをやっつけろ」式の勇ましいプロパガンダではなく、かえって自分たちの存在根拠を疑う反省的な作業になってくる。</p><p><br /></p><div class="blogger-post-footer">©︎Nomura Kazuo, Kokugakuin University.</div>野村一夫http://www.blogger.com/profile/02729679864590556425[email protected]0