社会学の作法・初級編【改訂版】
一 社会の研究とはどういうことか
社会学の特徴
まずこの章では、社会学を学ぶことが、なぜ自学自習な知的作業をともなうのかについて考えてみよう。ここをしっかり押さえておかないと、「結論だけわかればよい」とか「教科書は絶対だ」とか「処方箋だけを手っ取り早く教えてくれ」といった態度で社会学に臨むことになりがちである。こういう態度のどこが悪いんだと思うかもしれないが、じつはあまり社会学的とはいえないのだ。
そもそも社会学は社会現象を研究する経験的な理論科学である。すなわち社会学は第一に人びとの営みから構成される社会現象を研究対象とする科学であり(社会科学)、第二に理論形成を目的とする科学であり(理論科学)、第三に複数の人たちによって経験的に確認できるデータに基づいてその理論が形成され評価されるような科学である(経験科学)。社会科学であると同時に理論科学であり経験科学であろうとする社会学は、自然現象をあたかも書物のようにすでに定まったものと考えて済ます自然科学などとちがって、一種独特の特質を帯びる。それは、研究する側と研究される側とが基本的に同じだということに起因する。
現代の社会学者アンソニー・ギデンスは「『研究領域』に対して主体-客体の関係ではなく主体-主体の関係にある」ことが社会学の基本性格を規定していると述べている。▼1極端ないい方をすると、社会学の研究者が社会について語ることは自分自身を語ることになるのだ。これを「自己言及性」という。
▼1 アンソニー・ギデンス『社会理論の最前線』友枝敏雄・今田高俊・森重雄訳(ハーベスト社一九八九年)二一一ページ。
たとえば「日本人の宗教に対する態度は多神教的であり、しかも自分自身の宗教行動を宗教と見なさない傾向がある」といえば、語る人も語られた人も「自分はどうだろう」と意識せざるをえないし、「では、おまえはどうなんだ」という気持ちにもなる。「家族内の性別役割分担は、共働きが過半数をこえた現代にあってはもはや克服されるべき課題である」と男性社会学者がいえば、「じゃあ、お宅の今日の夕食はだれがつくるの?」と聞きたくなる。およそ自己言及性とはこのようなことであって、それは一種のパラドックス(逆説)を引き寄せるのである。
自己言及性
社会学の自己言及性についてもう少し細かく見ると、ほぼ四つの論点に分けることができる。 第一に、社会という研究対象は、そのなかで生きる人びとによってすでに解釈された世界であるということだ。▼2社会学は、人びとによってあらかじめ解釈された世界を事後的に解釈し直す営みである。ということは、社会学者が人びとに語る前に、人びとの頭のなかにはすでにそれなりの答が存在するということである。だから社会学的説明に対して「そんなこと、とっくに知ってるよ」と一般の人びとは思ってしまうか、あるいは社会学者が常識や俗説を否定する見解をいおうものなら、感情的な反発がさきに立ってしまうことがある。つまり、社会学的知識は、語る側にも聴く側にも、自分自身の知識の点検を──あるいは保守を──迫るのである。
▼2 同上書、二一一ページ。
第二に、研究対象である社会に、研究する人自身もふくまれているから、社会について公正に観察したり考えたりすることがとてもむずかしいということだ。ふつう人は自分の経験や立場から社会を見ることに慣れていて、なかなかその制約に気づかない。しかし、自分の立場・位置・キャリアなどによって社会はさまざまなヴァリエーションをもって立ち現われるはずである。たとえば医療という社会領域を医者の視点から見るのと患者の視点から見るのとでは大ちがいである。さらに病院理事会の視点からとなるとまた大きく異なる。ジャーナリズム活動にしてもメディア内部から見るのと受け手側から見るのとでは印象は大きく異なる。教育についても文部省・教育委員会・校長・教員・生徒・親・塾などの立場によってさまざまな姿を現わす。まして宗教現象となると、信じる人と信じない人とでまったく異なる認識が生じてしまう。このように社会という現象は、何にもまして公正に測定・観察・調査・思考することがむずかしいし、それを見る目そのものが問われやすい。だから社会学者がどんなに周到かつ慎重に調査した結果であっても、受け取る側は素朴なイデオロギー論によって感情的に解釈し直してしまうことがある。たとえば「評論家や学者はそういうけれども……」「現場にいないからいえるんだ」といったぐあいに。
第三は、研究自体が、研究対象である社会そのものを変えてしまう可能性をもつということだ。これは社会学で「予言の自己成就」と呼ぶ現象のひとつの現われである。▼3「予言の自己成就」というのは、予言することによって予言された事態が現実のものになるという社会的メカニズムのことである。短いタイムスパンでいえば、たとえば「巷で今○○がウケてます」式のパブリシティがさかんにくりかえされることによって、○○がほんとうに流行するといったことだ。長いタイムスパンでいえば、たとえば「家族とはこういうものだ」という人びとの知識がそういう家族を現実に生みだし、そうでない家族を「ふつう」でないと決めつけてゆくことによって、そうでない家族は「ふつう」でなくなってしまう。あるいはまた、真夏のネクタイ・スーツ姿のように、まったく非合理的な慣習であっても、企業社会においてそれが常識になっているかぎり、クーラーは必需品になり、スーツ姿でないと寒くてやってられなくなる。このように、社会のなかで人びとの知識が現実となって循環する。社会学の研究もこうした循環のなかで作用することになる。
▼3 この概念はロバート・K・マートンに由来する。R・K・マートン『社会理論と社会構造』森東吾・金沢実・森好夫・中島竜太郎訳(みすず書房一九六一年)所収の論文「予言の自己成就」参照。もちろん「自己成就」の場合だけではなく「自己破壊」のケースもある。
第四に、人はだれもが実践的な社会理論家でありうるということだ。▼4もちろん〈職業としての社会学者〉は存在する。かれらは大学や研究所に勤務し、仕事として社会調査や理論研究そして社会学教育をおこなっている。当然かれらは専門家である。しかし、社会学者だけが社会学の主体(責任ある担い手)ではない。社会に生きる人は多かれ少なかれ自分の社会について考察し、人生の節目には自己反省を強いられる。それは一種の社会学的実践である。したがって、社会学者と人びととのあいだにちがいがあるとすれば、おそらく知識の質的な断絶ではなく、理論的な反省をする意欲の高さと頻度の多さの差であり、それを論争的検証の場へもちこむことであろう。その意味でいうと、社会学はもともと市民に開放された知識なのである。
▼4 ギデンス、前掲訳書、二七六ページ。
このような自己言及性は社会学の長所でもあり独自の困難でもあった。社会学史は、この長所を生かし困難を克服しようとする社会学者たちの思考の軌跡である。そのなかでさまざまな技法や理論や概念などが考案されてきた。たとえば厳密な数学的処理・膨大な資料の操作・精緻な概念定義・洗練された理論構成などによって、だれもが納得できるような知識を提示することが求められる。これらの手続きは一見すると学者たちの儀礼的行為に見えるかもしれないが、自己言及のパラドックスをなるべく小さくするために必要な特別の〈コミュニケーションのルール〉なのである。
反省のことば
社会学は「ことば」である。「ことば」以外に社会学はない。しかも、社会学のことばは「反省のことば」である。それは、わたしたちの生活や社会制度そしてわたしたち自身を、その〈内部から〉透視しようと試みる。〈内部から〉であるために、それは高度に知的な能力と感受性のたえざる洗練を要請するとともに、厳密に公正な相互検証を必要とする。この相互検証は統制されたコミュニケーションの過程でなければならない。そうでないと、たんなる主観的発言の連鎖反応になってしまうおそれがあるからだ。それでは自己言及のパラドックスがただちに悪循環に入ってしまうのだ。▼5それゆえ、社会学の作法、すなわち〈反省的コミュニケーションのルール〉を自分のものにすることが、社会学を学ぶさいの重要なポイントになるのである。社会学において「読み書き討論」が重視されるのは、これを実践的に獲得するためである。
▼5 たとえば「おまえはどうなんだ」「おまえは○○だからそういうんだ」の応酬で終わってしまう。
つまり、社会学を学ぶさい重要なのは、社会学の「反省のことば」をすでに自分のなかにあるさまざまな「ことば」とたえず突きあわせることなのである。子どもが大人のことばを自分のことばに試行錯誤的に組み込んでゆくプロセスと同じプロセスが必要となるわけである。だから講義を聴くだけでは不十分なのだ。何はともあれ使ってみなければ。▼6
▼6 発達心理学者の岡本夏木によると、子どもがことばを獲得してゆく過程は機械的なものではなく、子ども自身の能動的な活動によるところに特徴があるという。「子どもは周囲の人びとから無数に投げかけられることばのなかで育つ。しかし子どもが話すようになっていく過程は、オウムがことばをおぼえていくような過程とは異なる。外からの刺激としてのことばを、そのまま機械的に写しとっていくのでなく、自分の活動をとおし、選択的に自主的に使いはじめるのである。子どもの初期のことばは、形態はおとなのそれに類似したものを用いていても、その意味内容はきわめて個性的であり、文法規則なども自己流にルールを作り出し、みずから試作的にそれを適用していく場合もめずらしくはない。こうした自己活動をとおした取り入れ過程が基底にあるからこそ、子どもは、その後の生活にあって、『自分のことば』をさまざまなかたちで用いながら、自分の創造的なことばの世界をひらいていくことができるのである。」岡本夏木『子どもとことば』(岩波新書一九八二年)五-六ページ。同じことが社会学の「反省のことば」にもいえるのではないだろうか。なお、このあたりについては社会学ではミードの本が基本文献である。ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店一九七三年)。
以上のような理由から、社会学ではたえず「自分がそれについてどう考え、どう行動してきたか」が問われることになる。レポートでもゼミ報告でも論文試験でも。したがって、いわゆる「自分の意見」「個人的体験」は排除されないばかりか、しばしば尊重される。しかし、それをそっくり肯定するわけではない。むしろ否定的なニュアンスで評価することの方が多いはずである。要するに社会学は「反省的評価」(reflexive monitoring)を要求しているのである。▼7この点は自然科学や経済学などとの大きなちがいであり、また「模範的な」学校教育にありがちな「個性」重視ともちがう点である。すなわち、自分とのかかわりを重視する点で、社会学は、「客観性」を重んじて観察主体の問題を厳しく排除する自然科学や経済学などと根本的に作法が異なる。しかも「個性的」なものなら何でも肯定する「模範的な」学校教育の作法とも大きく異なる。社会学者が暗黙のうちに作法の原理としているのは「反省」なのである。これを踏み外すと、高い評価は受けられないはずである。
▼7 ギデンス、前掲訳書、二七六-二七七ページ。
だから評価も出席や温情でなくことばによってのみなされる。出席はことばではない。出席をとろうとしない社会学者が多いのはこのためである(出席をとる社会学者も諸般の事情で仕方なくとっているものだ)。ただ、社会学のことばと接するチャンスが多ければ多いほど、そしてそれを反省のことばとして主体的に捉え返していくほど、自由かつ明晰に社会学のことばをコントロールできるようになることが期待できるから、そうした場に自発的に「参加」することはたいせつである。たとえば、講義を聴く・テキストを読む・参考文献を読みまくる・レポートを書く・ゼミで討議する……。刺激が多ければおのずと反応も多くなる。受け売りから始まるにせよ、こうした参加経験の積み上げがあると、人に語りたくなるものだ。ニュースを見ていてブツブツいうもよし。家族にウンチクをたれるもよし。酒場で議論するのもよし。語る自分に影響を受け、語る自分にものたりなさを覚え、そこから次のステップが生まれる。
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