社会学の作法・初級編【改訂版】
無作法なあとがき
教員側の事情
本書の前身は、一九九二年春に上梓した『社会学感覚』のなかの読み書き入門についてのいくつかの「付論」である。これを「作法」というキーワードによって統一的に発展させて書き下ろしたものである。
ここまで読まれた方はおわかりのように、この本は「達人の秘伝公開」といった類いのものではない。たしかに、この種の本は碩学や大家(たいか)が書くものだ。その意味で、三〇代のわたしが「社会学の作法」を説くのはアカデミズムの慣行から見れば無作法なことにちがいない。しかし、わたしがあえてこのような無作法なまねをするには、それなりの切実な反省があるからである。それがどのようなものであるかについて、この場をかりて言及しておきたい。
わたしは本文においていくぶん高飛車なものいいをしてきたが、それはいくぶんかは演出的なものであって、じつのところさまざまな迷いのなかで、この本を書いてきた。その迷いとは、学生にさまざまな要求や期待を向けている教員側が、それをするに見合う対応をしてきただろうかという疑問である。たとえば私語は批判されるべき問題だが、静かに聴くに値しない講義がおこなわれていたら問題であろう。つまり、教員側にもさまざまな内部事情があって、初心者の方々もそのような現実につきあわされているのである。そうした教員サイドの問題にも言及しなければフェアとはいえないだろう。とにもかくにも社会学教育は教員と学生とがともにつくりあげるものなのだから。
大学教育の現代的使命
学者仲間ではよく知られたエピソードがある。ある名門大学の大学院生に対して教授が「○○について調べてきてくれ」と頼んだ。ところが当の大学院生は突っ立ったままである。教授が「どうしたの」ときくと、大学院生は半ば呆然とした表情で「どうすればいいのですか」と尋ねた……。「最近の学生はあたえられた知識はよく勉強するけれども、自分で何かを調べるといったことは、からっきしダメだね」というボヤキでこの話は終わる。
このエピソードはよくある大学生(大学院生)ダメ論のひとつのウ゛ァリエーションである。しかし、わたしはかねがね、このエピソードで反省しなければならないのは教授自身ではないかと思ってきた。
たしかに大学は自分で学ぶ場所である。教育の場であるとともに研究の場でもある大学において「学ぶ」とは、つまり自分自身で自発的に学ぶことである。しかし、現実に学生にそれができないのであれば、そのような自己教育的存在に高めるよう具体的に支援するのが大学のもうひとつの使命ではないか。高校までの教育において、当の大学を受験するためにこそ、そうした自己教育的存在になるための教育が事実上不可能になっている現実を知りながら、それを大学教育のなかで実現しようとしないのは、どう見ても無責任である。まして現代は、年配の教授たちが試行錯誤してきたような牧歌的な時代ではなく──たしかに戦争も飢餓もないけれども──あふれんばかりの情報がひしめきあっている時代である。試行錯誤の範囲ははるかに広く、そのリスクもコストもふくれあがっている。それゆえ、学生を自己教育的存在へと成熟させるための具体的な支援体制をつくることこそが、現代の大学の重要な教育的使命になっていると考えるべきなのだ。
社会学教育の危機?
社会学のケースはどうだろう。
第一に、いわゆる「教養の社会学」のあり方が問われなければならない。それはたしかに社会学へのファースト・ステップであり、基礎概念や社会学の巨匠たちの学説紹介が必要であることは自明のように見える。しかし、それは社会学専攻でない多くの受講生にとっては、社会学のファイナル・ステップでもある。つまり「教養の社会学」は受講者にとって社会学の「最後の授業」なのだ。「これで最後」だからこそ、生活の舞台に生じるさまざまな社会現象への感受性を高め、自分なりに調べ思考できる「反省のことば」を提供しておく必要がでてくる。それは学者の名前を暗記することよりもはるかに重要で社会学的な選択ではないだろうか。
第二に、社会学教育は影響をあたえているだろうか。社会学的知識が社会に十分還流しているといえるだろうか。たしかに近年この点は大幅に改善されたとは思う。たとえば、一般紙の社説や論説記事などであきらかに社会学の影響を受けたものが散見されるようになった。文化論や女性論や流行論などいくつかのテーマでは社会学的知識がさかんに援用・引用されるようになったこともたしかである。しかし、日々のニュースに対する分析──これはジャーナリズムの重要な社会的使命である──は、社会学という分析装置があたかも存在しないかのようにふるまっている。ジャーナリズムによって援用されたり引用されたりする知識は、心理学や経済学や人類学や政治学や自然科学の知識であって、それらの学者が「社会学風な」分析をしてみせることの何と多いことか。
べつにマス・メディアに登場することがよいことだと思っているわけではない。ジャーナリストのように言論で勝負している人びとにさえ影響をあたえていないことが悲しいのだ。それに加えて、社会人に対する教育機能としてマス・メディアは格段の重要性をもっており、一種の培養効果として、社会学的には承認できないような偏見やステレオタイプを人びとの知識に固定することがあり、その知識の循環を断ち切らなければ、人びとが自分たちの社会を誤認してしまう可能性が高くなるからである。
第三に、戦後最大の大学改革といわれる昨今のカリキュラム改革の流れのなかで、社会学が必ずしも正当なあつかいを受けていないのではないか。文部省の規制がゆるみ、カリキュラムに対する各大学の裁量度が高まったとたんに、「社会学」という名の授業がなくなるといった現象がある。もちろんこれは「○○学」といった専門の垣根を取り払う意図をもつにしても、大学関係者にとっての「社会学」のイメージが所詮そのようなものにとどまっているということであり、現在の社会学の現状をきちんと反映していないように感じる。社会学を学ぶひとりとして、この現状は悔しい。その責任の一端は従来的な社会学教育にあると考えるくらいでないと、この傾向はますます加速するのではないか。
こうした現状認識の下にさまざまな教育的努力をされている多数の社会学者がいるのは事実である。しかし、その多くは個人的努力に負うところが大きく、社会学全体として実を結ぶところまでいたっていない。
社会学教育は社会学そのものである
ともあれ社会学者は社会学教育に関する自己言及をしいられているのだ。社会学者自身のコミュニケーションのあり方に対する反省もふくめて、社会学教育というコミュニケーションについて根本的かつ組織的に──そして何よりも社会学的に──反省しなければならないのではないかと思う。
それに対するわたしなりの考え方は次のようなものである。「そもそも社会学教育は社会学研究の従属物ではない。社会学教育は社会学そのものである。それゆえ社会学教育は社会学的でなければならない」と。
従来、社会学の自己言及的性格は、社会学史のなかでは、科学的信頼性を困難にする要素として語られてきた。しかし、それは同時に、現代社会における社会学の存在意義でもある。この点については本書の第一章と第一〇章でかんたんに言及しておいたし、一九九四年初夏に上梓した『リフレクション──社会学的な感受性へ』において詳しく論じたのでくりかえさないが、たとえば、ブルデューの次の発言に代表できると思う。「いずれにせよ、『専門家の権力』や『専門的能力』の独占が社会学の領域以上に危険で、許しがたい領域は、おそらくない。いわんや社会学が専門家だけに任された専門的知識でなくてはならないとしたら、それは一時間の苦労にも値しないだろう。」▼1
▼1 ピエール・ブルデュー『社会学の社会学』田原音和監訳(藤原書店一九九一年)七ページ。
ギデンスやグールドナーなどの社会学論もこの線上に位置づけることが可能であると思うが、その通奏低音は、社会学的知識は反省的に社会に還流するということであり、それを有効に作動させることこそ社会学者の社会的使命だということである。つまり社会学的知識は一般の人びとに使われてこそ意味があるのであって、社会学に専門家支配はなじまない。そして、その有力な具体的現場が社会学教育なのである。社会学教育は社会学にとって本質的な作業である。研究に従属するものではないのだ。
わたしの無作法は、このような反省にもとづいて「さしあたり今できること」としてわたしなりに選択した結果である。▼2「ないよりマシ」といったものではあるが、社会学を学び始めた人に少しでもお役に立てれば幸いである。
▼2 これには、もう少し個人的な文脈もからんでいる。わたしは前作の『リフレクション』を書きながら「これには実践論が必要だ」と感じていた。『リフレクション』が「社会学的な感受性へ」という副題をもつように多分に認識論的な作品であっただけに「実践編」はいわば車の両輪のようなものであった。わたしは『リフレクション』の執筆が煮つまるたびに「実践編」を書きため、前作の作業が終了した昨夏からそれらを編集的に再構成していった。こうしてできあがったのが本書である。
最後に
「社会学の作法」という、社会学者であればだれもが思いつくようなタイトルの本がじっさいには書かれないのは、それを書けば著者自身が「社会学の作法」にかなった知的活動をしているかどうかが問われかねないからだろう。ともすると不遜と受け取られかねないのだ。ここでも自己言及のパラドックスが生じているわけである。それに関して「ゴーマニズム」と居直れるような実績も才能も戦略も、わたしはもちあわせていない。「まことにいたりませんで」というほかない。「リッパなことをいってるけれども、大した仕事をしてないじゃないか」と批判する側にまわるほうが賢明というものである。情報公開とはヴァルネラブル(傷つきやすい状態)になることだと金子郁容が述べていたが、じっさいそういうことだろう。▼3社会学上級編めざして励みたいと思う。
▼3 金子郁容『ボランティア──もうひとつの情報社会』(岩波新書一九九二年)。
なお、わたし自身、さまざまな先生方や友人たちに影響を受けてきたので、無自覚なままの受け売りがあるかもしれない。最後に、そのもとになった方々にお礼を申し上げ、「堂々無断転載」の無作法に対するお詫びにかえたいと思う。そして、社会学教育の現場で生かしていくよう努力したいと思う。教育上受けた恩は次の世代への教育で返すのが教育の作法であろうから。
今回も文化書房博文社の天野義夫さんにお世話になった。厚くお礼を申し上げたい。
一九九四年一二月一五日
改訂版のあとがき
一九九五年春の本書初版刊行後に状況が激変したパソコンについての記述を今回全面的に改訂した。「六 パソコンの利用――現代人のメディア・リテラシーとして」がそれである。また「社会学の作法・中級編のために」も、読書案内を大幅に増補して個々の解説を加えることにした。これらにともなって巻末の事項索引もつくりなおした。なお、六〇ページ以下の「課題図書リスト」についても増補を考えたが、この種のものはきりがなく、より徹底したリストはインターネット上で公開しているので、詳しくは私のウェッブ「ソキウス」(Socius)を参照してほしい。
さて、本書が世にでてからの九〇年代後半は、めまぐるしいばかりの大学改革が進行中で、カリキュラムも大きく改編されつつある。従来型アカデミズムで毛嫌いされてきたハウツウ的な要素が積極的にカリキュラムに導入されているのが特徴である。日本の多くの大学がこれほど教育的配慮に満ちたプログラムを組んだのは前代未聞のことだろう。しかし九〇年代後半には学生像もまた大きく変化しており、そうしたプログラムが必ずしもうまくいっていないようにも見える。そこで痛感するのは、「なぜ学ぶのか」という動機が学生サイドにほとんど存在しないという厳然たる事実である。
そもそもマニュアルやハウツウというものは、明確な動機をもった人には貴重だけれども、動機のない人には退屈な蘊蓄話にすぎないもの。だから、教育的配慮から大学や教員が親切丁寧にマニュアルを提示しハウツウを伝授することで「知への招待」をしようとしても、聴かされる側はそういう話をそれほど求めてはいないのだ。巷間では「現代の若者はマニュアル世代だ」などという言説が流布しているが、それはもはや時代遅れ。マニュアル世代とはじつは中堅若手教員の世代のことであって、現代学生はむしろクチコミ世代なのである。ストリートで群れるにせよケータイやインターネットを使うにせよ、仲間内のクチコミ情報への依存度がかなり高くなっているように思う。ケータイやインターネットのようなパーソナルな新メディアの普及によって、かえって学生ネットワークのローカル化が進んでいるという印象だ。多くの「ふつうの学生」が、仲間内を流れる「その場しのぎ」のローカルな断片情報で動いている。少なくともその方が孤立というリスクを回避できるからだろう。こんな環境の中で、マニュアルを読んで正面から学問に取り組もうとするのは、かなりまっとうな学生であり、キャンパスでは完全に少数派になってしまっているように思う。
大学で学問するのが困難な時代。本気で学ぼうとする者には、「その場しのぎ」主義に傾斜する多数派に抵抗する勇気さえ必要になってきた。がんばってほしいと思う。本書が、そんな人たちのサポーターになれればいいのだけれど。
一九九八年一二月三〇日
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