ジゴワットレポート

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感想『映画トロピカル~ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪!』 救いきれない「トロプリ概念キラー」との出逢い

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娘の成長と共に『アンパンマン』映画館デビューを果たしたのが、2019年7月のこと。そこから更に2年、この2021年に『プリキュア』映画館デビューを無事に完遂。鑑賞前夜から遠足以上の盛り上がりを見せた娘は、当日早朝、誰よりも早起きして着替えを済ませていた・・・。にも関わらず、映画館に向かう車中で見事な爆睡である。守りたい、この寝顔。

 

『アンパンマン』を2作品、そして『クレヨンしんちゃん』に続き、今回の『プリキュア』で娘を映画館に連れて行くのも4度目。映画館に通う趣味を持って久しいが、そんな見知った環境であっても、親子連れで出向くと様々な気付きを得られる。座高を上げるためのクッションの使用や、鑑賞マナーを呼びかける館内CMへの我が子の反応。トイレのためにあえて通路側を確保する家族もいれば、限界いっぱいの最前列に満面の笑みで座っている子もいる。物販コーナーでは(おそらく子供の目の高さに合わせて)プリキュアのグッズは最下段に置かれているし、スタッフの皆さんは娘相手にわざわざ腰を落として消毒と検温を促してくれる。コロナ禍も相まってか、「家族で映画館に行く」というナンデモナイ行為にやけに価値を感じてしまう。

 

そんなこんなで、封切り2日目に映画館に駆けつけた『映画トロピカル~ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪!』。公開ギリギリのタイミングで「入場者特典で(限定ハートクルリングに加えて)イヤリングも貰える!」と周知され、先着順とのことで少しドキドキしたものの、無事にそれらもセットでゲット。館内が明るい内に娘の指にリングをはめ、いざ開演である。

 

『映画トロピカル~ジュ! プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪! 』主題歌シングル (CD+DVD盤) (特典なし)

 

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今作は、『トロピカル~ジュ!プリキュア』初の単独映画に、2010年放送の『ハートキャッチプリキュア!』がゲストで参戦する形式。

 

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前回の記事の通り、私は娘きっかけでトロプリを観たのが事実上「人生初のプリキュア」にあたるので、ハトプリのことはさっぱり分からない始末。しかし、物心ついた頃から(これはプリキュアに限らず)「ゲスト出演する過去作キャラクターの登場作品は可能な限り予習しておきたい」という病を患っているため、急いでハトプリの勉強を開始。

 

さすがにTVシリーズ全話は追いつけなかったので(無念!)、メイン2人のコンビ結成から立ち上がりの本編5話までと、単独映画『映画 ハートキャッチプリキュア!花の都でファッションショー…ですか!?』を鑑賞。主要キャラクターのおよその役割と、作品のテーマについては、一通りさらえたかな・・・と。というか、シンプルにめちゃくちゃ面白くてびっくりです。その人気は伝え聞いていたが、なるほど頷ける。

 

 

予習の甲斐もあってか(あってか?)、『雪のプリンセスと奇跡の指輪!』、ハトプリのメンバーが面白いくらいに本筋に絡んでくる。ライダー・戦隊映画における春映画文脈のような「ぬるっとなんとなく出てくるレジェンド」の域には、全く留まらない。

 

むしろ今作、トロプリのメインテーマにいつもと全く違う方向からアプローチしている意欲作なのだが、その「トロプリらしさ」と「いつもと異なるアプローチ」の間に立って器用に緩衝材として機能していたのが、ハトプリの面々、果てはハトプリという作品が持つテーマ性であった。例によって他のプリキュア作品は分からないのだけど、割と理想的なレジェンド出演だったのではなかろうか。

 

以下、ネタバレ込みで本作の感想を記す。

 

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トロプリの概念として作品内で繰り返し語られるのは、極めて刹那的な「今やりたいことをやる」、である。これは作品テーマの擬人化ともいえる夏海まなつの座右の銘であり、敵ラスボスが「あとまわしも魔女」と設定されていることからも、その対立軸は明白だ。ヤラネーダは人々のやる気を奪い、「今やりたいことをやれない」ステータスに貶める。それを奪還し、市民に返還、果てにヤラネーダを撃破することで、「やりたいことがあるならやる!」という心情や信条を防衛する。人々のやる気を守り、結果的に行動を促すことが、彼女らの使命とも言えるだろう。

 

プリキュアをやるのも、部活を立ち上げるのも、何の代償も支払わずに人魚が足を獲得するのも、仲間に感化されて変わっていくのも、それは彼女たちが「そうしたい」と願ったから。トロプリは、常に「やりたいことをやる」を促し、変化を賛歌してきた。学校行事や部活といった一見すると「繰り返される日常」と言えるサイクルにこそ、「変化」が映える。もちろん、「変化」は怖い。勇気が要る。だからこそ、メイクでアゲて己を奮い立たせる。そういった、驚くほどパワーに満ちた前向きな姿勢を、日曜朝に継続して体現してきたのである。

 

そんな彼女らが相対したのは、雪の王国・シャンティアのプリンセス、シャロン。ローラと同じ次世代の女王かと思いきや、その実態は壮絶であった。はるか太古の彗星衝突により王国はとっくに壊滅。シャロンは彗星のパワーで疑似的に生き永らえながら、幻の王国を再建していたのである。トロプリメンバーを始めとするゲストで誘致した面々を彗星パワーで隷属し、シャンティアの新たな国民に仕立てあげようとしていた。結果として、その野望はダブルプリキュアチームにより挫かれ、鎮魂の後にシャロンは消滅。言うまでもなく、シャンティアの再建は叶わぬ夢と終わるのである。

 

トロプリらしからぬ、非常にしっとりとしたお話。ローラを軸に歌と鎮魂のフォローは設けられているものの、本質的には「救えない」構造。本編がコメディ要素満載、溢れる元気なオーラで突っ走る物語なので、単独映画でもそういった「陽」の雰囲気を期待した人は少なくなかっただろう。お話の温度だけで捉えると、正直、これほどに「トロプリらしくない」物語もない。

 

しかし前述のように、アプローチの角度が真逆という話であり、本質的には間違いなく「今やりたいことをやる」、なのだ。つまり、「今やりたいことをやる」トロピカる部 VS 「今やりたいことが失われた」シャロン、という構造。父や母の背中を追い、笑顔溢れる国を治め、皆に慕われる女王となる。間違いなく、これがシャロンの「やりたいこと」であった。しかし、無残にも天災によって可能性を奪われた結果(人為的ではなくあくまで天災というのがまたむごい)、「やりたいこと」が絶対的に叶わなくなってしまった。

 

「あなたの今やりたいことは何!?」と、まなつは常に問いかけてきた。自分にも、仲間にも、そして躊躇いなく敵にもそう問いかけるのだろう。そこに、「やりたいことはある。が、もう絶対に叶わない」という存在をぶつける。雪の王国や彗星といったファンタジー要素で着飾ってはいるが、実態としては、「陸上選手を目指していたのに事故で両脚を失った」「何よりもバイオリンを奏でたいのに指が動かなくなった」といった、とても残酷なステータスである。仮にそのような人々に、夏海まなつが出会ったら。『トロピカル~ジュ!プリキュア』が出会ったら。「今やりたいことをやろう!」などと、圧倒的な「陽」の表情で接せるだろうか。

 

そういった意味で、シャロンは強烈な「反トロプリ概念」、あるいは「トロプリ概念キラー」と言えてしまうだろう。物語自体が最も大切にしてきた、そして訴え続けてきた、コアの部分。それが絶対的に通用しない存在。構造として、真っすぐに救うことは出来ない。肉体は勿論、王国再建という意味でも救済は叶わない。トロピカる道筋を完全に断たれた相手に、どのような答えを示すことができるのか。

 

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・・・といった作品テーマの構造に対し、本作は主にふたつの案内を用意し、シャロンを鎮魂というゴールに導いていく。

 

ひとつは、次期女王という同じ目標を持つローラの存在。彼女の背景をギミックに、シャロンの半生に誰よりも感情移入できる存在を設定する。ダメ押しで「仲間の攻撃からシャロンを庇って倒れる」という物理的なダメージまで用意することで、シャロンに対する「理解」と「同情」を積み重ねていく。彼女は既に死んでおり、王国再建も無理なのだから、後はどれだけその心にアプローチできるか、である。近い境遇にあるローラを実質的な主人公に据えることで、シャロンの精神性に手を差し伸べる。

 

そしてもうひとつ、ここでハトプリの面々が活躍する。映像(バトル)としての活躍もそうだが、何より作品の概念として、トロプリの面々に「魂の救済」という選択肢を与えるのである。「今やりたいことをやる」のがトロプリであれば、「枯れそうな心の花を救済する」のがハトプリ。トロプリとシャロンという、水と油のような正反対な概念のぶつかり合いに、緩衝材としてハトプリが機能する。つまり、トロプリ単体ならおそらく辿り着けない「相手の『今やれない』を認め諭す」「だからこそせめて魂は救う」という "譲歩" のスタイルを、見事に引き出しているのである。そう、本作は、世にも珍しい、「トロプリ概念の妥協案」に着地していくのだ。

 

こういった作劇としての手順を踏み、その果てに、トロプリの面々は「繰り返される日常」に戻っていく。雪の王国でも、グランオーシャンでもない、ショッピングモールの簡易ステージという「日常の象徴」のような舞台で、シャンティアの歌を披露する。シャロンの「今やりたいことがやれない」という結果を受け止めた彼女達は、そこに生きた精神性を汲み、歌い継がれる「歌」という手段で「日常」に永遠性を投げかけるのだ。「今やりたいことをやる」という極めて刹那的な概念が、相反する「永遠」を知る。それが、この映画の着地点だったのではないだろうか。

 

シャンティア~しあわせのくに~ エンディング主題歌Ver.(映画サイズ)

シャンティア~しあわせのくに~ エンディング主題歌Ver.(映画サイズ)

  • キュアサマー(CV:ファイルーズあい), キュアコーラル(CV:花守ゆみり), キュアパパイア(CV:石川由依) & キュアフラミンゴ(CV:瀬戸麻沙美)
  • アニメ
  • Â¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

そしてこれは同時に、本筋であるTVシリーズのクライマックスを示唆するものであると、どうしても考えがそこに及んでしまう。

 

映画にて、救いきれない「トロプリ概念キラー」が登場し、先輩プリキュアのテーマを輸入することでその課題と向き合ったのだから、やはりTVシリーズでは「自力で突破」が期待されるところである。つまり、「あとまわしの魔女!あなたの今やりたいことは何!?」、のパターンだ。

 

激闘の果てに、キュアサマーがそう啖呵を切る。あとまわしの魔女がトロプリの概念に感化され、「変化」し、新しい「日常」に踏み出す。良い意味での「陽」オーラでの妥協なし&ゴリ押しこそを、どうしても拝みたいと思ってしまうのだ。むしろこういった方向性は、作品テーマが顕在化しやすい単独劇場版でこそ展開されると思っていたのだが、そうならなかった以上、大本命のTVシリーズでやってくれるのかなぁ、と。(とはいえ仮にどんな展開になったとしもおそらく拍手しているだろう程に同作への信頼は既に強固な訳ですが)

 

話は戻って映画の話。前述のように、とても「トロプリらしくない」のに「間違いなくトロプリのテーマを扱っている」本作。その重要なポジションに立つローラとペアで活躍する、キュアサマーことまなつ。クライマックスでは、シャロンの慟哭を受け止めんとするローラの腕を無言で掴むという「最強彼氏ムーブ」が披露された訳だが、物語がこのふたりにフォーカスする前振りとして、しっかりハトプリの要素が下敷きにあるのが上手い。序盤、些細な喧嘩の後に、まなつに向かって「自分にはつぼみがいたから」と語ってみせるえりか。ふたりはプリキュア、ならぬペアの尊さをここで一度描写してからの、ローラにリップを塗るサマー、そして「最強彼氏ムーブ」。そつがない。

 

そもそも、劇中ではしっかりとは語られていないが、ハトプリの面々がどうしてシャンティアの戴冠式に招かれていたのか。序盤の招待状のシーンを参照すればその背景は明らかなのだが、だからこそ彼女達の精神性がトロプリを引き立てるという構造に無駄がない。重ね重ね、かなり理想的なレジェンド出演である。オタクは、「ただ出る」より「作品テーマや概念を引っ提げて演(で)る」に弱い。

 

他にも、変身バンクがフル尺でめちゃくちゃ長かったけどメンバー毎に恒例BGMがアレンジされていたのが聴き応えあったとか、あの聡明なキュアムーンライトをギャグの前振りに使ってしまうくるるんの圧倒的なマスコットパワーとか、ナチュラルにまなつを珍獣扱いするあすか先輩とか(「寒いって知ってるか?」!!!!)、限定スタイルにチェンジした際のパパイアのロングヘア―が眩しいとか、ちゃんとクライマックスの必殺技がハトプリのパワーを受けたフォルテッシモ女神だったりとか(正式名称が分からない)、ひとりで転がって雪玉化するまなつの安定の異常性とか、語りたいトピックが多い映画であった。

 

とはいえ、娘は「期待していたもの」とはやや違ったようで、終わったあとは少ししょんぼりとしていた。分かる分かるよ君の気持ち。もっとこう、笑顔で「楽しかったッ!!!」と言い放てるようなやつを、期待していたんだよね。でも、帰りの車の中で、早くも覚えたのか何度か『シャンティア〜しあわせのくに〜』のメロディを口ずさんでいたから、何か心に残るものがあったのなら、お父さんは嬉しいんだよ。

 

そういうお父さんはね、その曲の『エンディング主題歌Ver.』のラスサビ、水樹奈々さんによるハイクオリティ歌唱力の圧を帯びた「芽ェぶゥくゥゥーーー春ッ!!」からのファイルーズあいさんがまなつボイスで歌うあのすっとぼけたような「マナツノタイヨ~~っ!!!」の温度差がクセになってたまらんのだよ。

 

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