ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

味ぽんが許されない(かもしれない)世の中で

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インターネット小噺というか、あるじゃないですか、ポン酢の話。

 

「ポン酢を買ってきて」とパートナーにお願いしたら味ぽんを買って帰ってきた、みたいな。ミツカンの商品としてはポン酢と味ぽんがそれぞれあるのだけど、世間では味ぽんをポン酢と呼ぶケースが割と多いよね、という話。笑い話で終わればそれで良いのだけど、あくまで喩えとして、なんだかそれじゃ終わらない世の中になってきたなぁ...... と感じることが多い。「ポン酢と頼んだからポン酢に決まっている。ポン酢が『正解』。勝手に誤認して味ぽんを買ってきた方が悪い」みたいな。

 

アラサーを自称するのもおこがましい年齢になり、そろそろブログのプロフィールもアラフォーに差し替える必要が出てきた。公私ともに10年前には考えられなかった経験が襲いかかってきて、否が応でも成長を促される感覚がある。と、書けるだけまだ元気があるのだろうか。世の中というか、現実というか、そういうものを識れる機会はもれなく「成長」ということにしておきたい。嗚呼...... 数年前までの自分はなんて子供だったのだろう...... と、ふと赤面する日々がまだ続いている。

 

今の業界で働いてそれこそ10年ほど経つが、人並みには業界の知識や歴史が身につくものである。インターネットの有識者(笑)がもっともらしく指摘し批判するあれこれに関して、「業界の中の人」からすると、マァなんてテキトーなことを言っているのだろう・そんな次元は数年前に過ぎているのに・随分と偏った前提に基づいてるなァ、とこっちが恥ずかしくなるケースが増えてきた。すなわち、謎の万能感に満ち溢れて0時過ぎまで元気に酒を飲みながら四方八方に物申していた20代の私を過去に戻って半殺しにするべきだ。「知らない」って、すごく弱いし、脆いし、鋭利。

 

私の世代は、インターネットと共に成長してきたような感覚がある。小学生の頃はダイヤルアップ接続の音で育ち、大学生でiPhoneという黒船がやってきて、アラフォーの今となってはインターネットと生活がべったりくっついている。昔のインターネットは「行く」もので、そこに行けばリアルには無い情報やコミュニティが広がっていた。だから、自分の狭い見識からは得られない「真実」(のようなもの)が、テレビや新聞に忖度しないネットの海に眠っているような錯覚があった。しかし、いつの間にかインターネットは「在る」ものと化し、Google検索はいかがでしたかに汚染された。短く狭い情報を得るだけなら格段に便利になったが、長く広い情報は極端に得難くなった。そこに真実なんてものはほとんど無くて、匿名の鎧を着た人間同士の白兵戦を眺めるのが常である。

 

無駄にポエム臭い文体になってしまったが、つまるところ、いやに「正解」に辿りつきやすい世の中になりましたね、ということが言いたい。

 

この場合の「正解」は、「真実」を意味しない。あるいは「事実」も意味しない。誰かが誰かを陥れるために埋めた「正解」かもしれない。兎にも角にも、インターネットを開けばほんの数秒で「正解」を得られるようになったし、人間は誰もが大なり小なりその「正解」を「真実」や「事実」とイコールかのように認識しがちである。そして、ついその「正解」をもとに世の中や他人をジャッジしてしまう。これは「自分はそんな短絡的な人間とは違いますよ〜」みたいなことを言いたいのではなく、明らかに自身にもその傾向が感じられるからこそ、怖くて自制したくて敢えて言語化しているのだ。「短く狭い情報を得やすい」が、いつのまにか「思考が短く狭くなる」に転化していないだろうか。そりゃあ、ね。ポン酢と頼まれたらポン酢を買ってくるのが「正解」なんですよ。ググれば秒で分かるんだから。そして、その「正解」を選べなかった人を揶揄したくなる。「正解」はこんなにすぐ近くにあるのに、辿り着けなかったんですか、って。なんか、こういう構図の怖さがここ数年の自分にある。

 

先の「業界の中の人」のくだりじゃないが、世の中そんなシンプルには出来ていないのだ。分かりやすいガンとか、排除されるボスみたいなのは、ほとんどいない。頭では昔から分かっていたけど、新社会人を経て中堅となり、今の会社で最終的に行けるゴールポストが見えてきたからこそ、なんだかそんなことを考える機会が多くなった。もしかしたらオタクに優しいギャルはいるかもしれないけど、日本の変な文化をぶった斬る外国人や世の中に物申すマックのJKはいないのだ。いたとしても、そんな意見は「業界の中の人」からすれば鼻で笑われるようなものがほとんどで、この世界はもっと複雑に出来ている。そんな当たり前のことを、頭より肌で痛感する場面に恵まれてきた。でも、相反するように「正解」は身近にある。すぐに「正解」を参照でき、それでお手軽にモノやヒトを断罪できる世の中で、世界の複雑さを実感していくのって、もしかしたらひどく難しいことなのかもしれない。

 

喩えば漫画アプリのコメント欄にも思うところがある。読切作品にありがちだが、「いじめられっ子が自分の居場所や生き方を見つける」という大筋において、「いじめっ子(加害者)が報いを受けずに終わるのが気に食わない」というコメントが支持を集めることが多い。倫理的に良くない言動を取ったキャラクターが、作中で仮に否定されていたとしても、相応の痛い目を見ないと気が済まないというコメントが投稿されたりする。そりゃあ、「正解」か「不正解」かの二択なら、彼らは「不正解」だったのだろう。その論拠となるものはインターネットから秒で拾えてしまうのだから、余計にそう思ってしまうのかもしれない。でも、なんだかそれで良いのだろうかと感じる自分がいる。こんなことを書くと、「お前は犯罪を肯定するのか」「罪はどう足掻いって罪でしかないのに」などと言われるのだろうか。なんか、そういうところである。

 

先日の兵庫県知事選の報道を見ていても、近いものを感じた。人は、自ら辿り着いた「正解」を無意識に崇め、その通りに行動すればどこか自分も「正解」のグループに入れるような、そんな動きをしてしまうのかもしれない。なぜなら、「正解」のグループに入っていないと叩かれるから。インターネットで、SNSで、叩かれるから。「不正解」を選んでしまうと責められるし、責める味を知っているからこそ、その反対の「正解」に属することで心理的に安全でいたい。そんな欲求が以前より飛び交ってはいないだろうか。

 

どうだろう。「正解」と「不正解」って、そんな簡単な二者択一なのか。この二者間には無限とも思えるグラデーションが広がっていて、その色合いの複雑さを識ることに価値があったりはしないだろうか。そしてそれはすっごく面倒臭くて、しんどくて、おそらく定年を迎えても死ぬ間際になってもどちらかは分からないけれど、それでも目の前のインターネットが秒で教えてくれる「正解」を選ぶよりは妥当なんじゃないかって、そんなイメージが頭の中を巡ったりする。自分が世の中のスピードについて行けてない、ということだろうか。老害の始まりだろうか。それでも、なんだかこういうことばかりを思考してしまう。

 

最近気をつけていることは、「全ての情報にほんのり間合いを取る」ということ。すっごく耳障りが良く腹落ちに向いた「正解」がそこら中にごろごろ転がっているので、ノータイムで飛びつくことがないよう、常にちょっとだけ俯瞰する感覚。全部を疑うでも信じるでもなく、小さな距離を取る。「正解か不正解か」の二択も大事だが、実のところそれ以上に「自分はどう思うか・思わないか」も大事だと痛感する。前者がすぐ判別できるからこそ、気を抜くと後者がそれに塗り潰されそうになる。

 

「正解」が近いとは、なんと恐ろしいことだろう。「正解」だらけに囲まれているのは、なんと奇妙なことだろう。スマホが秒で誰かを殴れる棍棒に変わる怖さ。その棍棒をつい握りたくなる衝動。ずーっと、ずーっと、戦わないといかんなぁ、って。

 

ポン酢が正しいか、味ぽんが正しいか、それは家庭によって違うのだろう。味ぽんのことを指していても、言った側も受けた側もポン酢で伝わるかもしれない。冷蔵庫にある味ぽんをいつもポン酢と呼んでいるかもしれない。もし不安なら質問すればいいし、問われたら快く応えればいい。コミュニティとか、コミュニケーションとか、そういったものを欠かさず積み上げていく。それを面倒臭がらずにやる。分かりやすい「正解」にノータイムで頼るのではなく、目の前の複雑さにめげずに取り組み続ける。仕事でも、家庭でも、そういうアラフォーでありたいなと、取りあえず書き残しておくことにする。

 

最後に。この書きかけの記事をフィニッシュできた「ブログクリーンアップ2024アドベントカレンダー」に感謝を。8日目の担当でした。

 

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